スチールストーリージャパン日本スクラップ史

 

   
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1.鉄スクラップ通史

2.商社活動小史
はじめに
戦前

 ・明治前半は鉄商と外商の輸入鉄(洋鉄)
 ・明治後半から「指定商」制度
 ・米国鉄屑輸入と「六洋会」

戦後
 ・財閥系商社は徹底解体
 ・東南アジア輸入(AA屑)に活路
 ・財閥系商社復活と新興商社 
 ・鉄屑カルテルと商社活動
 ・米国屑と商社
 ・第一期、カルテルと外貨割当の壁
 ・第二期(61年〜67年)、輸入屑カルテル崩壊
 ・第三期(67年〜74年)、商社全盛

商社ビッグヤード構想(70年代)
 ・鉄くず自給時代に備えて
 ・日本カーべキュー
 ・葉金属工業ヤード
 ・丸紅スクラップセンター
 ・みやま製鋼原料
 ・関東製鉄(関東シュレッダー・高関)

商社、戦線縮小(80年代)
 ・石油危機の後遺症、商社の戦線縮小
 ・80年代後半・商社も分社化

専業者の復活と商社再統合(2000年代)
 ・専業問屋が新ステージへ
 ・商社、子会社を再統合

3.自動車部品・解体業小史
はじめに
自動車部品業の沿革
 ・輸入車の解体が始まり
 ・東京は竪川、関西は市岡
 ・行き詰るポンコツ屋・60年代が転機
ポンコツ屋とモギトリ屋は違う
 ・専門職としてのポンコツ屋
 ・マイカー時代の到来とモギトリ屋
 ・ネット利用の在庫共有、広域販売
 ・ポンコツ屋現代版(ネットグループ)

4.自動車(鉄)リサイクル小史
はじめに
処理の歴史
 ・自動車ガラとして
 ・プレス処理が登場
 ・シュレッダー処理
法制変化とダスト問題
 ・廃棄物定義と廃車
 ・シュレッダー機はダスト分別機
 ・豊島・シュレダーダスト不法投棄事件(91年)
 ・使用済み自動車リサイクル・イニシアティブ
 ・プレス引取りに処理料を請求(98年)
 ・キンキ・ショック(00年・第二の豊島事件)
 ・不法投棄車が急増(00年)
 ・廃車輸出、日韓で摩擦
自動車リサイクル法
 ・EU・自動車リサイクル指令
 ・自動車リサイクル法制定へ始動
 ・JRCM報告と「精緻な解体」
 ・自動車リサイクル法成立(02年)
 ・自動車リサイクル法の特徴

5.鉄スクラップ輸出小史
歴史的な背景
 ・関東月曜会が先鞭(88年)
 ・改正道交法も背景(95年)
 ・逆有償と販路陥没が船荷促進(97年)
 ・韓国も日本玉定期入札(04年)
 ・業者の経営・世界観は一変
 ・鉄付き非鉄スクラップ(「雑品」)輸出史

6.鉄スクラップ加工設備小史
はじめに
輸送手段
 ・貨車・河川流通
 ・木造機帆船
 ・トラック輸送
加工手段
 ・大正はタガネ、昭和初期にプレスも
 ・昭和初期・人工結束
 ・戦後・機械化以前
 ・設備近代化は税制の後押し
プレス機(圧縮・減容機)
 ・始まりは岡田菊治郎
 ・コ島式水圧プレス機
 ・メーカー検収
 ・戦後は日本特殊商工・杉山式
 ・油圧でも水圧でも
 ・60年前後に開発進む
 ・製鋼メーカーが設置
 ・廃車専用プレス機
シャーリング(切断機)
 ・まず製品加工機として登場
 ・東京記者座談会
 ・まず輸入ギロチン(64年)
 ・国産・大型シャーは68年以降
自動車処理機
 ・処理工程
 ・機械化以前
 ・廃車プレス
 ・米国バンドルドbQ(Aプレス)
 ・カーベキュー(マップス・プラント)
 ・プローラー・スクラップ
重機及びアタッチメント
 ・ヤード合理化の切り札
 ・廃車解体と重機(自動車解体機)
 ・簡易切断機(もうカッターなど)

 

社史作成

英文翻訳

鉄スクラップ総事典

鉄スクラップ史集成

2.商社活動小史

 

 ・はじめに 

  日本では流通商社は製品・原料の出入りの両面にわたって関与し、鉄屑の絶対量不足が続いた一時期、国内では大手・直納業者として、また輸入鉄屑の扱い窓口として鉄鋼会社や業者経営に深く係わり「商社支配」が問題となった(60年代後半)。高度経済成長に伴う需給環境や製鋼技術(LD転炉法)の革新から鉄屑輸入の減少は予想されるなか、商社は国内扱い拡大に挑戦(70年前後)し、相次ぐ原油危機や産業構造の変化に押されて、本体業務から切り離し(87年分社化)、鉄鋼会社の「選択と集中」の後を追った。

 

 ・戦前 

明治前半は鉄商と外商の輸入鉄(洋鉄)=鉄屑と近代商社の出合いは明治時代に遡る。
  還元剤にコークスを使う近代的な高炉(民営・釜石、田中製鉄所)の出銑が、たたら銑を上回ったのは1894年(明治27)で、日本の製鉄史上の江戸時代は、この年終わった。
  当時の鉄需要は生活用具である鍋・釜を別とすれば、住宅用や船の釘、農具の鋤・鍬等に限定された。文明開化の道具としての鋼材・鉄器はほとんどが輸入鉄(洋鉄)であった。明治20年(1887)の国産鉄生産は1.5万d、輸入鉄は6.5万dで鉄の8割強は洋鉄。国産鋼材は明治20年代でも千d台の域をでなかった(日本鉄鋼史・明治編)。
  明治初期は外国商館に拠点を構えた外国商人(外商)が活躍した時代でもあった。洋鉄を最初に扱ったのが森岡平右衛門で横浜の外国商館を相手に釘用地金の輸入を依頼(明治2年1月のメモ)し、和鉄と区別するために輸入品を「洋鉄」と呼んだ、とされる。 森岡家を通じて大阪や各地に販売され、横浜だけでなく神戸などの外国商館を通じて大阪商人も洋鉄取引に進出した。この結果、旧幕以来、独占的地位を誇っていた「大阪第一主義は破れ自由活発な取引の新世界が開けてきた」(日本鉄鋼業史)。

明治後半から「指定商」制度=官営(八幡)製鉄所は、明治末期から官需の余剰品を払い下げるとの形をとり、東京は三井物産を代表とする三井組、関西は大倉組(大倉商事、岩井、安宅、岸本、鈴木と東京の森岡)が独占したが、第一次世界大戦(14年)による鋼材需給のひっ迫から鋼材価格は急騰。不公平感が高まったため17年(大正6)これを解消し一般入札制度に改めた。大戦終了後、鋼材価格は大暴落、鉄鋼不況から苦境に直面した。「その最たる所は官営八幡製鉄所で、八幡は在庫の増大に苦しみ、販路打開のため新販売政策を打出した」(三菱商事社史176p)。新たに指定商制度を設け、民間向けは三井・三菱・岩井・鈴木(27年・昭和2年倒産後は安宅)・森岡・岸本の6社に限定した。「この結果、指定商という特別の地位が生まれ、かれらは製品販売の独占権を掌握」し「全国の鉄問屋は再編成され、指定商と問屋の二階層となり、問屋はいずれかの指定商の傘下に入り、系列に所属」した(日本鉄鋼業の発展。500p)。森岡・岸本2社が離脱したあとは上記4社が指定商として終戦まで民間向け鋼材を一手に扱った。

米国鉄屑輸入と「六洋会」=戦前の製鋼の特徴は一貫メーカーと住友、神戸など単独平炉メーカーと伸鉄が並存する二重構造だったこと、平炉メーカーが安価なインド銑や満州・朝鮮などの植民地銑に依存したこと、世界恐慌(1929年)以後、世界的な鉄屑需給の緩和と値下がりを背景に安価な輸入鉄屑、ことに大量の米国屑を利用したことだ。
  ただこの状況が戦時体制の強化から一変する。満州事変(31年)や準戦時体制が呼号された35年以降、輸入鉄屑は国策的戦略物資となった。37年6月、日鉄、神戸、鶴見、小倉、鋼管、川崎の鉄鋼6社で米国、カナダ等北米鉄屑「輸入鉄屑共同組合」を組織。これに呼応して三井、三菱、岩井、浅野、日商、長谷川の貿易6社が「六洋会」を結成。統一的買付けに当ったことから大手商社の本格的な鉄屑輸入活動が始まる。
  六洋会指導のため日鉄は社員を派遣しNYに事務所を開設(38年2月)。買付けはドル資金をにらみ合わせ商工省の許可を得て、輸入量を六洋会6社に割当て、六洋会各社は割当て数量に対し共同購買会メンバーと直接契約を締結。値段は予め米国FOB(最高値)を示し、 商社がCIF・日本値で契約する。38年から米国屑が杜絶する40年10月まで「購買会」が北米(米国、カナダ)から「大量輸入を敢行した」(日本鉄鋼原料史・下巻)。
  一方、 国内鉄屑は官営八幡の開業に合せ国内鉄商や新興の鉄屑業者などが扱った。

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 ・戦後 

・財閥系商社は徹底解体=戦後の47年7月5日、財閥解体等を目指したGHQ指令より、三菱商事、三井物産は即日会社解体を命じられた 。指令日以前の10年間に部長職以上の幹部であった者同士の新会社設立や旧社員100名以上での新会社設立の禁止、旧事務所や類似商号の使用を許さないなど「予想できなかったほど苛酷」だった。三菱商事では(商権継承会社・光和実業)全国163社、三井物産では約200を超える新会社に分散した。

東南アジア輸入(AA屑)に活路=戦後、GHQ指令で財閥は解体され、 三菱や三井など財閥系商社も解散を命じられ、貿易活動は休止状態に追い込まれた。輸出業務が再開されたのが48年。米国向けに特殊鋼屑7万d強を輸出したのが皮切りとされる。
  当時、米国屑は政府承認を必要とする外貨割当制(FA)の下にあり、商社は自由に動けなかった。ただ朝鮮戦争勃発後の需要復活から、外貨制約のない東南アジア(AA・自由承認制)屑の輸入や同方面の沈船、鉄屑輸入調査などを足場に徐々に動き出した。

・ 財閥系商社復活と新興商社=財閥系商号禁止の廃止(52年)から、住友商事が登場した。
▽住友商事(52年)=財閥解体が決定的となった45年11月商事会社の設立禁止(大正9年、鈴木総理事指示)の事業方針を転換し、商事活動拡大が必然となる将来に備え商事部門を新設(日本建設産業)。財閥の商号復活から52年6月、住友商事を名乗った。
▽三菱商事(54年7月)=新会社のうち、いち早く日鉄、鋼管から旧商事の後釜として指定されたのが「丸の内商事」。商権継承会社である光和実業は52年(昭和27)5月財閥商号禁止令の廃止により三菱商事に社名を変更。54年(昭和29)7月、不二商事、東京貿易、東西交易の実業3社と合同して新三菱商事を設立した。
▽三井物産(59年2月)=旧三井物産系の会社は「室町物産」や「第一物産」などに分かれ、順次合併した。59年(昭和34)2月、第一物産を中心に新三井物産が誕生した。
▽丸紅=戦後、過度経済力集中排除法から丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割。49年(昭和24)12月、旧丸紅商店、大同貿易、岸本商店の商権、資産、社員を母体として丸紅を設立。その後、鉄鋼では八幡・富士の指定問屋グループ「十日会」メンバーとして国内取引に強固な地盤を持っていた中堅商社の高島屋飯田と合併し丸紅飯田鰍設立(55年9月)。丸紅飯田は金属専門商社、東通と合併(66年6月)し同社の従業員、商権を引き継いだ。東通は18年(大正7)に浅野総一郎の「浅野物産」として設立され、第二次大戦前には日本の輸入原油の65%を扱った。戦後、分離独立して「朝日物産」を設立、両社は合併して「東京通商」(61年)、その後「東通」に社名変更した。
▽阪和興業=安宅産業名古屋金属課長だった北二郎等が46年(昭和21)に創業した。

鉄屑カルテルと商社活動=55年4月に発足した鉄屑カルテルは、半年後の55年10月非参加会社の買いと米国輸入屑相場の高騰から、自ら協定価格を放棄し空中分解した。カルテル再建に当りカルテルは国内の共同行為と同時に「輸入屑カルテル」の創設に動き、共同輸入を模索した。再建カルテルでは、数量確保を最優先するため、カルテルが米国シッパーと直接契約する。価格メリットは追求しないから商社は不要、として窓口から商社を排除した。商社はメーカーの指名の下、輸入代行手数料を受取るだけとなった。
  ▼五社会遂に破れたり=三菱商事・大倉徳治が鉄屑カルテル十年史に寄稿した談話によれば、商社はカルテルの大量輸入に備え、戦前の「六洋会」に倣って「五社会」(三井、三菱、木下、朝日、日商)を結成した。56年3月八幡製鉄など鉄鋼各社から五社会に米国屑輸入活動の許可が降り、第3回カルテルさなかの56年7月から8月にかけ3班に分けて鉄屑調査団を派遣。調査団は米国の現地買付けは可能で、かつ有利との結論を得た。ところが調査途中の8月、カルテルは米国派遣商社員を急遽呼び戻した。その帰国報告に対し稲山は 「鉄屑はミルにとっては米びつの米である。現在は数量の確保こそ先決問題であって、商社側は安く買うと言うが、使う側の自分たちとしては安いか高いかは問題ではない。現地買付け案は中止して貰いたい」と商社による現地買上げ構想を打ち切った(稲山・太平洋・鉄屑輸入ベルトコンベヤー方式)。「嗚呼、五社会遂に破れたり」である。

米国屑と商社=しかし61年2月、米国屑の輸入方式を巡って、価格メリットを活かすべしとの見解と、数量確保を最優先すべしとの見解が対立し、輸入カルテルは分裂した。
  以後、商社が米国屑の輸入業務に自由に参入できるようなったことが商社活動、鉄屑流通、 商社とメーカー、業者の関係を大きく変える決定的な転機となった。
  つまりカルテルが直接、米国屑を買付け、事後手続きを商社が代行するだけ(61年2月以前)なら「素人商社」や鉄屑に不慣れな糸ヘン商社でもできる。しかしカルテルが手を引き、商社がリスクを取って直接、米国屑を買付けるのであれば(61年2月以後)、商社本来の実力、経験が問われる。これが鉄屑業界と商社活動の関係に大きな変化をもたらした。 この変化は、便宜的に三期に分けて見ることができる。

第一期(戦後〜61年)、カルテルと外貨割当の壁=戦後の米国屑は60年4月までは外貨割当制(FA制)で管理され、商社は自由に扱えなかった。55年から発足した鉄屑カルテルは数量確保を優先して米国屑を直接買入れたから、商社独自の活動余地はなかった。ただ数量のまとまるカルテル代行に関与すれば、ノーリスクで仲介口銭が稼げた 。
  この輸入屑扱いに惹かれて関西五綿と称された伊藤忠、丸紅飯田、東洋綿花、日綿実業、兼松などが「糸から鉄」へなだれ込み(注)、総合商社化を目指して動き出した。
当時、国内屑への商社の関心は全般に薄く、三菱や三井のような古くからの総合商社や日商岩井、木下産商、入丸産業などの鉄鋼専門商社が国内窓口を持っていた程度だった。また新たに輸入屑扱いに参入した糸ヘン商社も、平電炉への「与信」問題や発生量の制約などから慣れない国内屑扱いには慎重だった。
  (注)「カルテル時代は外貨割当て、『需割』といってメーカーが握っていますので、 商社はただ枠をもらうことだけに奔走する時代でした」。ですから「商社はメーカーの買付け枠を貰う仕事のため銀座・新地が賑わっていたのです」。「商社の本領発揮は61年のカルテル分裂からです」(丸紅・大野重男氏談)。

第二期(61年〜67年)、輸入屑カルテル崩壊=世界的な需給緩和などから数量確保だけでなく価格にも配慮すべきではないかとの意見が対立し、カルテルは一元的直接買付を打ち切った(61年2月)。この輸入カルテルの崩壊を機に米国屑購入は全面的に商社扱いに移行した。分裂事件は共同で手当した鉄屑を同じコストで共同に分配するというカルテルの機能低下を招き、国内平電炉は輸入原料面で新たなコスト競争にさらされた。62年不況による平炉封印、金融引締め、信用不安が輸入玉を足場とした商社の国内進出を後押しした。これまで直納だった専業者の中から商社の懐に飛び込むケースが相次いだ。
  有力商社筋は60年代後半にかけ、専用の鉄屑大型運搬船を建造し、一挙に大型・高速化を実現させた。北米航路では従来リバティー船(戦時標準船)が9,000d足らずを45日以上もかけて運び、荷揚げに20日以上を費やしたが、大量2〜3万dを30日足らずで運び8日前後で荷揚げを行う大型船の登場は流通革命と商社間競争を加速させた。

第三期(67年〜74年)、商社全盛=65年前後、原理的には鉄屑装入を不要とするLD転炉の導入、国内電炉メーカーの新増設、経済成長に伴う鉄屑の発生・回収の増加などの鉄屑需給の変化から5年後の70年前後には輸入屑はゼロになるとの需給見通しが広がった。商社は「国内屑時代」の到来を前に、さらなるビジネス拡大に備えて国内電炉メーカーの囲込みや加工屑対策に本格的に乗出した。それと共に商社間の摩擦も強まった。さらにマイカー時代の到来と廃車処理プラントの導入・普及に商社が果たした役割は大きい。有力商社は競って国内鉄屑業者と提携し米国製の大型シュレッダー機を導入。商社系「ビッグヤード」開設が相次いだ(73年11月までに全国10工場が稼働)。

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 ・商社ビッグヤード構想 

・鉄くず自給時代に備えて=大手商社では(衰退する)輸入屑に替わる国内屑の「流通機構の核として」直営ヤード(商社ヤード、シュレッダープラント)を開設する動きが広がった。「商社の役割は、従来は資金の立替えという金融機能と需要家に対する与信負担だけだった」が国内鉄くず自給時代に備え「安定した国内拠点で利潤を上げる」(69年夏、商社座談会)との発言が相次いだ。その試みが以下のビッグヤードの建設である。

日本カーべキュー=手塚興産が開発した自動車焼却処理を目指して、兼松江商と手塚興産、ハイマン・マイケルの3社が66年共同出資で設立した。

葉金属工業ヤード=伊藤忠商事51%、扶桑金属30%、久保田鉄工29%の出資で千葉県船橋市の久保田鉄工船橋工場近くに68年10月開設した 。小島鉄工製 の700d圧ギロチン、タワークレーン他を備え総工費(地代別)約2.8億円。久保田鉄工向け7千dを含め月間1万dの加工・処理を目指した(日刊市况通信69年11月マンスリー)。   

丸紅スクラップセンター=川崎市内に68年建設。資金は丸紅飯田が持ち、日本特殊鋼に納入する鉄屑を加工処理する(大型ギロチンや新断プレス加工を主とする)。

みやま製鋼原料=東洋綿花が群馬県新田町の王子製鉄工場予定地内約5千坪に東綿70%、王子製鉄10%、自動車販売会社10%、鉄屑業者・片桐商店10%出資で創設。ハンマーミル社製シュレッダー(月間処理能力1万台)。所用資金四億円。プラントは70年4月から稼動した。(その後、東金属がみやま製鋼原料の経営を76年継承した)。

関東製鉄(関東シュレッダー・高関)=三菱商事が埼玉県川越に約2万uの用地を確保。69年9月三菱商事と高橋関太郎商店が着工。ハンマーミル社製シュレッダー(月間処理能力7〜8千台)。土地代を含め6億円。本体以外の付帯設備は「オール三菱の総力を集め」建設した。三菱商事と関東シュレッダー(注)の関係は「原則としてすべての利益損失を折半し三菱商事が最終責任をとる直営体制」とした。
  その狙い=1つは鉄鋼業界への寄与。2つめは自動車業界への寄与(廃車処理を通じ新車販売に貢献)、3三つめは社会公害の防止。ダスト処理対策=「ダスト処理は県内の建設業者を通じて砂利採取後の穴や低地の埋立て用に払い出している」、「自動車プレスの場合、平均20%に及ぶダスト込みの鉄屑をメーカーは購入するわけで、高い製鋼費をかけてノロを作り、ノロ処理コストをかけ二重、三重のロスが発生している。今後シュレッダー屑の利点は一層明らかにされるだろう」。今後の展開=「関東全域に20カ所以上の『衛星ヤード』を設置。それをフル活用する」(日刊市况通信70年5月マンスリー)。
  (注)高橋関太郎商店は三菱商事と協同出資で70年4月関東シュレッダーを開設し、商号を高関に変更。高関と関東シュレッダーは86年4月合併し、タカセキに改称。鈴徳が01年、旧タカセキ川越工場の事業を継承した。

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 ・商社、戦線縮小(80年代) 

石油危機の後遺症、商社の戦線縮小日本列島改造論(72年)は国土改造の不動産・土地ブームを呼び起こし、鉄鋼版・列島改造論(73年)は5年後の77年度粗鋼生産を1億5千万dと予測。鉄鋼、商社もその予測を前提に走った。しかし、ニクソン・ショック(71年)後に定着した円高、石油危機(73年)による「全治3年の重傷」が、壮大な夢を砕いた。平電炉は設備過剰に苦しみ、鉄鋼商社・安宅産業の経営危機(75年)が表面化した。粗鋼1億5千万d時代に備え、系列平電炉に「与信」枠を供与し、直営大型ヤードの開設を急いだ商社自身の信用力が問われ始めた(77年)。鉄屑カルテル19年間を通じて戦後後発の電炉各社との「特殊関係」を深めた商社も安宅解体以降、厖大な不良債権が表面化し商社本体の経営を揺るがしかねないとの危機感から関係清算に動いた(80年)。

80年代後半・商社も分社化=80年代の約10年間、電炉業界は過剰設備対策として製造設備の新・増設を禁じる「構造不況法」(「特定産業安定措置法(78〜83年)」、特定産業構造改善措置法(83〜88年)」の拘束の中にあった。構造不況法の禁制が終わる直前の87年前後、鉄スクラップ事業を本体業務から切離す動きがでてきた。
  87年4月丸紅は「丸紅テツゲン」を、三井物産は「三井物産金属原料」などの鉄スクラップ専業子会社を設立。本体商社は鉄スクラップビジネスから手を引いた。 

  さらに90年代以降の円高、バブル崩壊、製造業の「空洞化」は余剰人員・設備を抱えた鉄鋼や高コスト体質の総合商社の経営を直撃した。商社本体同士の再編、合併が進行するなか、商社の鉄スクラップ事業は全て子会社が担当することとなった(04年)。

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 ・専業者の復活と商社再統合(2000年代) 

専業問屋が新ステージへ=80年代以降、平電炉の不良債権に苦しんだ商社は、国内扱いを縮小した。その一方で専業問屋は地力を蓄えていった。その背景としては(商社金融に依存した電炉と違い)、@鉄屑業者は主要ヤードや資産のほとんどを(商社が国内に参入する以前に)自力で蓄積していた(銀行は当時、鉄屑業者は優良貸出先と見ていなかったから、業者は資金蓄積、含み資産確保に努めていた)。この結果、A鉄屑発生増加に対応して大型設備を擁する加工・処理業に(商社に過度に依存することなく)円滑に転換できた。Bそのため商社機能の低下から生じた空白域に迅速に進出ができたことがある。
  98年に表面化した電炉不況は、鉄スクラップの供給過剰と消費過小の両面から流通を圧迫した。日本からの鉄スクラップ輸出は01年を境に600万d台に定着した。この輸出には商社及び商社系子会社がほとんど係わっていない。大方が業者による共同輸出として運営され、商社は独自の存在感を失った。また92年リオ宣言を契機にリサイクル物は「地上の鉱山」との評価が定着。日本でも各種リサイクル法が制定され、その適正処理・加工設備、能力を持つ鉄スクラップ業者は、21世紀の戦略産業の一角を担うこととなった。

商社、子会社を再統合=90年以降、世界経済は西側主導で統一され、中国を中心とするBRICsなど新興市場国の台頭を招き入れた。商社本体は資源需給の変化を捉えて鉄鉱石、石炭などの海外投資に軸足を移し「隠れた資源メジャー」的な動きを強めた。
  92年リオ宣言を契機に鉄スクラップはローカルな電炉向け商材から国内調達が可能な 「地上の都市鉱山」で、CO2の排出抑制につながる「地球環境保護」(高炉、各種リサイクル法)の切り札商材として、また世界流通が可能な「グローバル商品」(輸出)との地位を高め商社も新たな商機開拓や組織再編に動き始めた。と同時に「世界で闘う」新日鉄住金 (12年10月)や電炉でもJFE条鋼(12年4月)合併に見られる鉄鋼業界の再編・統合に鉄スクラップ流通を担当する商社部門がどう動くかとの課題もでてきた。
  まず住金物産と日鉄商事が13年10月統合し、三菱商事系のメタルワンと三井物産系の三井物産スチールが14年統合に動き始めた。商社本体からの切り離し(87年〜04年)を経て、新日鉄住金誕生に対応する国内流通の新たな受皿作りに大きく舵を切った。

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3.自動車部品・解体業小史

 

 ・はじめに 

  自動車中古部品回収業者は、かつて「ポンコツ屋」と呼ばれた。「ぽんこつ」 の初出は、明治初めごろにさかのぼるが、近年はもっぱら「使いものにならなくなった自動車の解体。またはそれをする商売。転じて中古のこわれかかった自動車を指す。この語が自動車の廃品を指すようになったのは「阿川弘之の新聞小説によって一般にひろまったもので、ポンポンコツンコツンと叩く音からでた」(日本国語大辞典)とされる。

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 ・自動車部品業の沿革 

・輸入車の解体が始まり一般には自動車部品の回収は「国産の自動車が出現せず海外からの輸入車が幅をきかせていた大正時代後期から始められている」とされる。「東京自動車中古部品協同組合50年史」によれば日本の自動車解体・部品回収業発祥の地は佃大橋の京橋にあった業者が当時、極めて高価で、 部品の入手も困難だった輸入車を解体し中古部品の回収を手がけたのが始まりだとの古老の証言を紹介する。自動車解体業の歴史・立地は外川健一著「自動車とリサイクル・166p」(日刊自動車新聞)に詳しい。

東京は竪川、関西は市岡=日刊市况通信社64年1月「自動車スクラップ時代」によれば、 自動車解体で名高いのが、東京では竪川一帯(小説、「ぽんこつ」は60年前後の同地区風景を描写する)で100軒余り、関西では大阪市内の市岡や夕凪、杭全(くまた)などが多く、 合せると100軒位の業者がいる。これらの地区にはパーツ(部品)を求めて北海道や九州から修理屋がやってくるが、この数も64年当時には、3年前に比べグンと減った。
  ポンコツ業は自動車の出現とともに始まり、二代目の老舗も多く、小は従業員4〜5名、大は修理屋を兼ねて20〜30人を置いていた(東京)。「だがポンコツ屋はスクラップ屋ではない」。廃車を解体してパーツを抜き取り、選り分けて売っていく。だから車の年式から約3千種に及ぶ部品を記憶し需要の有無を見極める専門的な知識と解体技術を身に付けておかねばならない。最近(64年)自動車が増え廃車も急増しているからポンコツ屋は繁昌してもいい筈だが、実際は逆だ。戦前、外車の輸入が禁止された時や戦後の窮乏期は車の数も少なくパーツが不足した時代は、大いに繁昌し潤ったが、新車がドンドン作られ、パーツが出回るにつれ、ことにガソリンスタンドがパーツを備え付けるようになったことからは、ポンコツ屋は儲らない斜陽業種となった、と記している。

・行き詰るポンコツ屋・60年代が転機=パーツや中古車の利益率は60年ごろまでは70%やそれ以上だったが、61年以降50%、40%と急速に悪化。63年現在では20%や30%に満たず、その結果、従来あまり問題にされなかったスクラップ売上げがこれに取って替わった。 ポンコツ屋に見切りをつけて修理屋や他業種に転業する動きも広がっている。 が、一方で積極的にプレスやシャーリングを導入し鉄スクラップ業に進出する動きもある。 その彼等は「決してポンコツ屋の商売をやめたわけではない。ポンコツ屋であると同時に鉄スクラップ屋としての商売を始めたわけである」。まさにこの前後からポンコツ屋が鉄スクラップ商売にも軸足を移す現在の自動車部品・解体業の形が登場した。

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 ・ポンコツ屋とモギトリ屋は違う 

・専門職としてのポンコツ屋=ポンコツ屋は前記の通り「廃車を解体して予めパーツを抜き取り、選り分けて売る。車の年式から数千の部品を記憶し需要の有無を見極めておかねばならない」。これは自らパーツを選別、保管し販売する商売(いわば専門職)だが、これとは別に多種多様な廃車を露天に並べ、客が自由にパーツを抜き取り、そのパーツを売渡す(もぎ取り)商売もある(古い物を修理しながら使い続ける英国文化を伝える豪州では、年式制限が無いこともあって、いまも「もぎ取り」型がパーツ販売の主流である)。

マイカー時代の到来とモギトリ屋=モギトリとは専門的な知識がなくても(客が好みのパーツを選ぶ)、大量の車を並べてパーツ販売し、抜き取りの残骸を鉄スクラップとして処理し出荷する商売である。この商売はマイカー時代の到来による廃車の増加と、廃車の大量発生を前提とした。日本の自動車保有台数(3輪車以上)は敗戦の45年が14万2千台。 55年が90万台。 65年が698万台で自動車生産はこのころを境に急増する。
  高度経済成長(54年〜73年)と東京五輪(64年)を契機とする高速道路網の急激な発達は庶民レベルでもマイカーブームをもたらした。乗用車は12年前後が耐用年数とされ廃車されるから1970年前後から自動車解体業は各地で自然発生的な形で登場した。
  京都と大阪を結ぶ国道一号線沿いの京都府八幡市内に「もぎ取り」解体業者群が登場し始めたのもその頃である。幡地区の解体業者の増加は、自動車保有の高まりとほぼ足並みをそろえており、交通の要衝を押えた「地の利」とモータリゼーションの「天の時」から同地区の解体業者(もぎ取り業)は65年以降一気に増加した。

部品回収のパラドックス=マイカー時代以後に登場した地方解体業者もメタル回収だけでなく、部品回収を経営に柱に据えた。しかし最大の問題は、回収量の多い中古部品は(誰でも入手できるから)収益性が低く、付加価値の高い部品(回収量が少ない部品)は(販路が限定されるから)は手元に無いか、あっても何時売れるか分からない。数量を追えば収益はさほど期待できず、価格、在庫を追えば不良在庫のリスクが発生する。
  その根本的な原因は、地方・ローカル業者が置かれた販路の絶対的な狭さと資金力不足からくる在庫リスクにあった。廃車は確保できるが、部品販売に注力しても、来客が少なさ過ぎるし、販路が狭すぎる(地域制約)。それが地方部品販売の最大の泣き所だった。

ネット利用の在庫共有、広域販売=販路が狭ければ広域化すればいい。在庫リスクがあるなら、皆の在庫を共同利用すればいい。80年前後、その発想のもとIT技術の開発と解体・部品業者の協業化が大きく進んだ。狭い地域の制約を超えるため有志業者は仲間を求めて全国の同業者に参加を呼びかけた。「部品在庫の共有・共同・広域販売」を目指して、当初は電話回線(FAX)を利用し、さらにパソコンなどの普及から独自にソフトを開発し、これを足場に90年以降、インターネット販売に乗りだした。「地域制約」と「部品制約(発生量の多い部品は安い。発生量の少ない部品は在庫管理が難しい)」の壁を超えるビジネスに挑戦し、今や世界に中古部品を販売する最先端ビジネスを作り上げた(79年ビッグウェーブ、85年NGP、88年TCRグループ、89年システムオートパーツ)。

・ポンコツ屋現代版(ネットグループ)=現在のネット販売の主流は、売れ筋商品(パーツ)を業者が予め回収し「責任(保証)商品」としてユーザーに提供するビジネスモデルで動いている。いわば廃車処理の祖型であったパーツ販売(「ポンコツ屋」)を、最も洗練した事業形態(ネット販売)として広域化(ネット販売)し、部品点数の最大化を求めて協業化した。ポンコツ屋の祖型を、広域・ネット販売として、今に蘇らせたのだ。

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4.自動車(鉄)リサイクル小史

 

 ・はじめに 

  自動車解体スクラップは、マイカー時代の到来と共に市中老廃スクラップの中核となった。ただ高価格品である自動車は、中古部品として回収され(ぽんこつ、もぎとり)、その残骸がスクラップ・ダウンされるという工程をたどる。各種素材から形成される自動車は、非金属素材も多く、その適正処理が社会問題として残った。 

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 ・処理の歴史 

・自動車ガラとして=自動車解体は、歴史的には部品回収を目的に行われた(ぽんこつ屋)。部品をしゃぶりつくしたあとの残骸(自動車ガラ)が、鉄屑業者に渡された。戦前の鉄屑業者は勿論、戦後の一時期まで鉄屑業者の加工能力は非力だったから、自動車ガラはガス切りでサイズを調整した後、製鋼メーカーに納入した(小説・ぽんこつ)。

・プレス処理が登場=昭和30年代前半に登場した日本のプレス機は性能表示として「ドラム缶何本締め」をうたい文句とした。つまり、当時のプレス機は、大型ボックスが必要な自動車圧縮までは想定していなかったようだ。当初の自動車プレスは、鉄屑カルテルのもと、まず輸入材(バンドルドbQ)として平電炉メーカーに納入された。日本では、自動車ガラを焼く焼却法(カーベキュー)が先行(64年)し、その後のプレス機の大型化から国内でも鉄屑業者にプレス機が普及。自動車プレスが主力となった(注)。
  (注)「処理機械を作っていたのは(75年)当時、手塚やいすゞくらい。日本中の機械メーカーを回って鉄屑処理機械を作ってくれと頼んだが、全然受け付けて貰えなかった。それが業種指定され、耐用年数も短くなり加工処理業の看板を貰ったら、やっと機械メーカーも機械製作に乗り出してくれた。電炉メーカーもたくさんできて、それに対応する専業者も機械を導入するようになった(三井物産OB冨野金三郎氏)」。

ュレッダー処理=シュレッダー機で処理した廃車スクラップは「プローラー・スクラップ」との名称で、米国ヒューゴニューから初輸入された(63年4月)。

     

鉄鋼会社がシュレッダー(SHR)スクラップの購入に本腰を入れるのは、産構審が73年まとめた「1970年代の鉄鋼業」(「鉄くずの問題点と対策」)として廃車プレスの不純物混入を指摘する一方、「SHRくずの量的拡大の方途を講じることが重要」と強調したことに始まる。電炉会社の大方は76年(昭和51)ごろまでに、品質不良や公害対策を主な理由に廃車由来のプレス購入を中止。日本鉄源協会作成の「電炉メーカー品種別購入実績」分類も83年(昭和58)以降、SHRくず分類を追加した。ほぼこの前後、電炉会社の廃車購入は廃車プレスからSHRスクラップに入れ替わった(ただ電炉会社総てがプレス購入を中止したわけではない。共英製鋼・山口など数社がプレス操業を維持した)。 

     

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 ・法制変化とダスト問題 

廃棄物定義と廃車=70年10月に成立した廃棄物処理法は金属屑を産廃物とした。処理業者は都道府県知事の許可を必要とするが、14条但書きにより「もっぱら再生利用の目的となるものは、この限りではない」と適用を除外された(専ら物例外条項)。金属単体は「専ら物」としてもプラスチックなどと複合するとどうなるか。この疑問に答えるため、国は「廃棄物とは、占有者が自ら利用し又は他人に有償で売却することができないために不要になった物」との「廃棄物定義」を明らかにした。この反対解釈として他人に有償で売却できる廃車は廃棄物には該当しないとされた(有価な廃車は廃棄物ではない)。

シュレッダー機はダスト分別機=自動車を解体すれば、鉄以外の構成材料が残材(ダスト)として発生する。清純な鉄屑を取り出すシュレッダー機は、多量のダストを処理業者の足下に残し、適正処分を突きつけた。
  このため関東シュレッダー部会は82年11月手作業による廃車・年式別解体実験を実施 (51台平均ダスト28.5%)し、83年4月から廃車ダスト検収(分引き)をそれまでの10%から20%に改訂した。鉄リサイクル工業会シュレッダー委員会は83年5月、東京で第一回全国大会を開催。「検収基準」の作成と実施を決議した。
  このダスト引きは独禁法の価格カルテルに相当するとの訴えが公取に提起された。公取は訴えを却下したが84年5月、工業会に対し不純物適正検収基準の指導要点が@価格カルテルにつながらない、A団体(工業会)として決めてはならないと通知した。

豊島・シュレッダーダスト投棄事件(91年)=兵庫県警は豊島総合観光開発鰍90年11月廃棄物処理法違反で摘発した(豊島事件・91年7月有罪確定)。しかし一件落着とならなかった。同島にはASR(自動車シュレッダーダスト)を中心に50万dとも目される膨大な廃棄物が残り、その処理を巡って深刻な社会問題が発生した(注)。
国は94年9月、ASRの埋立てを95年4月から従来の「安定型」とは認めず厳格な「管理型」への移行を命じた(但し1年間の適用猶予を認め96年4月実施)。厚生省は94年10月「シュレッダーダスト事前選別ガイドライン検討会」を設置し、この検討結果を95年6月水道環境部産廃物対策室長名で通知。95年3月、国は「逆有償の廃車は廃棄物処理法の許可対象となる」(水道環境部長通知)と明示。廃車を処理法の適用除外とする 「専ら物」対象から追放した。
(注)日本自動車工業会、日本自動車販売協会連合会、全国軽自動車協会連合会及び日本自動車輸入組合は91年7月「路上放棄車処理協力会」を結成し「路上放棄車を市町村が処理するに際し当該車両のリサイクル料金に見合う額を寄附する」(産構審提出資料)制度を立ち上げた(自動車リサイクル法の施行伴い11年3月末、事業終了)。

使用済み自動車リサイクル・イニシアティブ(97年)=通産省は「使用済み自動車リサイクル・イニシアティブ」を策定し、「数値目標」を設定し体系化した(97年5月)。同イニシアティブは関係団体に対し数値目標達成のため「自主行動計画」の策定を要請した。また「使用済み自動車は産廃物に該当しない場合が多いが、その場合でも管理票 (マニフェスト) によって管理する」との方向を明示した。自動車各社が作成し、関係事業者に配布している「車の解体マニュアル」もこのイニシアティブによって、作成が指示されたものである。

プレス引取りに処理料を請求(98年)=H2炉前価格98年後半から02年の春までの3年半1万円を大きく割り込んだ。50年ぶりの安値である。その一方、 96年4月以降ASRは管理型処分場での処分が義務づけられ、少ない処分場に業者が殺到したこともあり従来5〜8千円だったASR処分費は1万5千〜2万円に急騰。このためシュレッダー業者は98年6月以降、廃車プレス引取りに「マイナス(逆有償)価格」を請求し始めた。

キンキ・ショック(00年・第二の豊島事件)=福井県の産廃処分業者(キンキ・センター)が県許可の13倍の110万立米の産廃物を受け入れていたとして00年9月、搬入停止を命じられた。持込み業者は県外22都府県151事業者に上り、シュレッダー業者の大方は行き場を失った。直ちに代替の処分場を確保しなければ操業停止を迫られる。シュレッダー業者が選択したのが、プレス価格の逆有償幅の引き上げと自動車プレスの輸出だった。

不法投棄車が急増(00年)=H2炉前価格が8千台に後退するなかキンキ・ショックが襲った。「値段は二の次」の処分場探しとなり、ダスト処分費は2万5千〜3万円に高騰した。シュレッダー業者がプレス業者に提示する「マイナス価格」も置場引取り1万円に拡大(関西)。マイナス相場が玉突き的に集荷・回収段階に拡大するなか、一般市民、ユーザーが廃車引取りの支払いを嫌って路上に放置する不法投棄車が全国で急増した。

・廃車輸出、日韓で摩擦=韓国向け自動車プレス輸出が各地湾岸に広がった(00年9月)。この前年の99年、韓国の東亜日報は日本からの韓国向け自動車プレス輸出は98年4月ごろから毎月1万d前後に増加していると報じ「日本の産廃物(廃車)大量搬入」(99年6月4日)との表題を掲げたが、日本の通産省は有価で輸出されているのであれば問題ない とした。当時、岸壁持込み(FAS)価格は5千円の逆有償だったが、輸出船の船倉(FOB)価格は有価だった。米国向けにも00年2月、廃車1万dが輸出された。

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 ・自動車リサイクル法 

EU・自動車リサイクル指令=欧州議会は00年9月、自動車リサイクル法を採択(ELVに関するEU指令)し、同10月発効。加盟国に18ヶ月以内(2002年4月まで)に同指令を国内法化することを義務付けた。指令の骨格は@最終所有者からの無償引取りの保証。A再資源化率の数値目標設定(ELVリサイクル実効率は06年1月から85%以上。 15年1月から95%以上を義務付ける)B有害物質の使用規制(原則として鉛、水銀、カドミウム、六価クロムの使用は禁止)。Cモニタリングシステムの整備(処理施設に係る所管官庁の許可ないし登録制度を導入。解体証明を登録抹消の条件とするシステムの導入を求める)の4点。日本の自動車リサイクル規制は、EU動向のあとを追った。通産省は自動車リサイクル・イニシアチブを97年、策定したが、骨子はEU指令と同じ)。

自動車リサイクル法制定へ始動=EUでは00年10月ELV指令が発効した。日本でも新法制定に向けて論議が高まった (注)。産構審は廃棄物・リサイクル部会に95年10月「廃自動車処理・再資源化小委員会」を設置し00年7月まで11回の会合を開いたが、 00年9月の第12回以降、名称を「自動車リサイクル小委員会」に改め、自動車リサイクル法制定を前提に実質審議を深め始めた。00年11月同法の実務的な受け皿・事業機関として 自工会など発起人となって「自動車リサイクル促進センター」を設立した。
(注)自動車リサイクル法施行の25年以上も前に、八幡自動車処理事業協同組合が「拡大生産者責任」を先取りする形で、国や自動車工業会(自工会)に働きかけ2億8千万円 (国・京都府・八幡市のほか「自工会及び自動車タイヤ協会も6千万円拠出」)の炉体費用を要するタイヤ焼却炉(運営・八幡市立環境保全センター)を建設(79年)した。

JRCM報告と「精緻な解体」=金属系材料研究開発センター(JRCM)は自動車リサイクル法施行を前に03年3月、04年3月自動車プレスと電炉操業の関係をまとめた。
  自動車プレス評価として基準となる一般スクラップに比べ歩留まり評価が落ちること、プレスを使用することで発生するコストアップ、阻害品であるCu(銅)の薄め材が必要になることから「Sa=S×f−(α+Sa")」なる計算式を組み立てた。以後、電炉等鉄鋼会社は「精緻な解体」を経た廃車プレスの引取条件、価格設定に、この計算式を援用した。
(Sa=プレス評価。S=プレスと同等品位のスクラップ評価。f=プレス鉄分。α=プレスを使用することで発生するコストアップ分。Sa"=プレスのCu補正)。

自動車リサイクル法成立(02年)=自動車リサイクル法は02年4月12日、国会に上程され7月5日原案通りに可決成立、同12日公布された。社会的には廃車リサイクルを加盟国に義務付けるEU指令(00年9月)と豊島事件が原動力となった。経済的には法制審議の直前(02年)、鉄スクラップ価格が世界的に大幅に値下がりし(この時期、原油を始め資源・エネルギー価格は歴史的な安値をつけた)、埋立処分地の確保難からASR処分費が高騰、処理費や処分費用をユーザーに請求せざるを得なくなった(逆有償)ことが大きい。
  経済原理と業者の自由処分に任せる従来の手法では、使用済み自動車の適正処理は支えきれなくなったとの認識が広がり、法制化を推し進めた。
  03年1月11日から目的、定義関係、指定法人の監督規定が施行。04年7月1日から解体・破砕業者の許可基準、料金基準等の関係業者規制が施行(許可申請は7月から)。引取・引渡、預託金等の義務、移動報告等が05年1月1日から完全施行された。

自動車リサイクル法の特徴=@法は自動車は「廃棄物」とみなした(法121条)。解体業者や破砕前処理業者(プレス業者)、破砕業者は法規制を必要とする「許可制」とした。Aリサイクルはフロン類、エアバッグ、ASRの3品目に限定。バッテリーやガラス、タイヤ類はカバーしない。B処理料金はユーザーが「前払い」で負担する。自動車メーカーには引取り、制度運営を含む再商品化責任(「拡大生産者責任」)を課した。ただし処理実務は(自動車メーカーの委託のもと)廃車解体業者が行う場合がほとんどだから、自動車メーカーの実質的な責任は受託業者が適正に処理しているかの管理・監督である。Cリサイクル工程を電子「管理票」で掌握し情報を一元管理する。支援組織として「自動車処理促進センター」や自動車再資源化協力機構(自再協)も設立した。Dリサイクル料金の利用は、シュレッダーで廃車処理する場合(28条)と、電炉等が大臣認定を受け廃車解体関係者と「コンソーシアム」を結成し廃車処理したプレス出荷)場合(31条)を想定した。
▼その影響=新法が使用済自動車を廃棄物とみなし、解体処理に法的な道筋(許可制)と経済的なメリット(28条、31条)を与えたことから自動車解体・部品回収の作業の近代化、 ビジネス化はこれを機に進んだ。シュレッダー業者が処理する場合(28条)、発生ASRは車を使用したユーザー負担(リサイクル料金・前払い)のもと、自動車メーカーの責任において処理される。シュレッダー業者はASR費用負担から解放された(磁選機、非鉄選別機から銅やアルミ、ステンレス、ミックス・メタル回収に注力できるようになった)。
  一般の自動車解体業者が解体しプレス品として出荷する場合(31条)、一定の条件(精緻な解体)でリサイクル料金を自動車解体業者に還付する仕組みも用意した(枠組みは電炉と解体業者に委ねるが、電炉側は銅分含有を0.3%以下にすることを求めている)。
▼新法に備え100工場超が登場=日刊市况通信社調べによれば、04年までの新規参入・新会社設立は全国22社。事業協同組合などの新組織が3。既存業者の新工場増設や新設備が50。05年調査では新規参入3社。既存業者の新設備が28。06年調査でも3工場・設備が加わった。04年以来、控えめに見て100工場・設備が投入された。

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5.鉄スクラップ輸出小史

 

 ・歴史的な背景 

  戦前、戦後の一時期、日本は鉄スクラップの恒常的な「絶対的欠乏」に苦しんだ。戦前の金属類回収令はその対策だったし、鉄屑カルテル(1955〜74年)は同時に米国鉄スクラップの「共同輸入」(輸入カルテル)を一方の柱に据えていた。カルテル終了後、行政・鉄鋼各社の最大の関心が「鉄屑備蓄機関」の設立にあったのは、 このためだ。しかし戦後の高度経済成長と鉄鋼蓄積の増加が国内鉄スクラップ供給増加をもたらした。局面が決定的に変わったのは、85年のプラザ合意による円高。「鉄屑不足」対策の象徴的な存在だった鉄屑備蓄協会は円高と国内供給増から解散・改組され、むしろ鉄屑の「余剰化」と値下がりが続くなか、「輸出」による販路多角化・拡大が求められた。

関東月曜会が先鞭(88年)=鉄屑余剰化に危機感を持った関東大手業者の任意団体(月曜会・83年設立)が海外に販路を求めて88年5月、韓国を視察。同年6,000d前後の共同輸出を行った。月曜会などを母体の一つに関東地区69社が関東鉄源協議会を設立(任意団体、90年3月)された。さらに96年4月からは共同出荷方式による輸出・入札を実施し、各地の業者もこの組織作りと手法を学ぶ形で共同輸出に乗出した。

改正道交法も背景(95年)=車種、違反内容によっては「1発免停」や違反車の運用停止、過積載を黙認したメーカー・発生工場などの第3者の責任(背後責任)も追及できるとする改正道交法が94年5月、施行された。この積載規制強化は広域・遠隔輸送量が多く、運賃割合が高い鉄鋼会社、業者に深刻な影響をもたらした。炉前価格は運賃込み(CFR)だから炉前価格の値下がりが進むにつれ、物流コスト負担が重くのしかかってきた。集・出荷エリアが関八州に及ぶ関東や長い海岸を持つ東海〜静岡の陸上物流はこれを境に大きく変わった。関東では湾岸船荷が定着し、東海地区でも海上出荷が加速し始めた。

逆有償と販路陥没が船荷促進(97年)=97年9月から始まった鉄スクラップの陥没は98年9月トーア・スチールの自主清算のショックで決定的となった。H2炉前価格は1万円を割り、6〜8千円台の低価格が02年2月まで丸3年以上も続いた。この間、業者は死中に活を求めて「逆有償」(採算性回復)と「輸出」(出荷陥没是正)に走った。
  逆有償3年目の01年、鉄スクラップ輸出は雪崩を打って全国の湾岸から急増した(西日本では舞鶴3月、富山4月、大阪5月、北九州、岡山6月)。輸出量は前年の290万dの2倍強の615万dに膨れあがった。この年を境に鉄スクラップ業者の「流通世界観」は一変した。鉄スクラップ輸出は01年 615万dを起点に02年以降は600万d台に定着し、国内に限定されていた流通・販路は東アジア圏に拡大した。国際需給は国内相場に直結し、その動向分析が国内業者にとっても必須作業となった。このため日本鉄リサイクル工業会は「国際ネットワーク委員会(中辻恒文委員長)」を立ち上げ(02年5月「準備」、03年6月本格運用)、中国、韓国、台湾など東アジア周辺各国業者との連携に動いた。

韓国も日本玉定期入札(04年)=04年以降、韓国電炉(INIスチール)が日本玉の定期入札を開始し(04年6月)、高炉のポスコも同時期、入札に乗り出してきた。さらに09年に入ると日本の大手商社や有力業者と納入枠設定を結ぶ動きがでてきた(現代製鉄は09年末頃)。新電炉を導入した東部製鉄も日本業者と長期MOUを検討と表明(09年11月)。韓国メーカーと日本業者で直接、国境を超えた物流が加速し始めた。

業者の経営・世界観は一変=日本の鉄スクラップ輸出は01年以降、一気に600万d台に急増した。背景には、業者の経営観、世界観が逆有償と販路陥没の3年間の試練を経て大きく変わったことがある。@鉄スクラップの約7割近く消費してきた電炉生産が公共事業抑制から98年を境に急落し(電炉生産シェアは97年度32.3%→12年度22.8%)、電炉・鉄スクラップ消費も97年度3,258万dから12年度2,559万dへ急減したこと(国内需要の後退)、Aその一方、WTO(世界貿易機関)に加盟(01年12月)し産業活動を高めた中国やIMF管理後、「選択と集中」策から立ち直った韓国が輸出の大口受け皿として動き始めたこと(中韓の需要拡大)、B相次ぐ電炉メーカー破綻とH2価の急落から、扱い業者が排出者に処理料金を請求する逆有償を経営の柱に据え始めたこと(経営体質の変革)、さらにC鉄スクラップ輸出が全国各地の湾岸・一般業者まで幅広く浸透し、輸出業務を「通常業務」の一環として受け入れ、習熟してきた(ビジネス構造の変化と国際化)こと、などがある(鉄スクラップ輸出通関:97年度221万dから12年度908万d)。

鉄付き非鉄スクラップ(「雑品」)=日本からの中国向け鉄スクラップ輸出が本格化したのは00年以降である。同年の鉄スクラップ輸出(通関)数量は122万dだが、中国輸入統計では64万d。04年の日本側輸出 通関)は279万dだが中国輸入(通関)は143万d。中国の輸入量は日本通関量に比べ00年は64万d、04年は136万dも少ない。
  中国向け銅スクラップ輸出(通関)で見ると日本からの中国向け銅スクラップ輸出(通関)は00年11万dだが中国輸入統計では64万d。04年が日本輸出33万dに対し中国輸入は160万d。鉄スクラップと対照的に銅スクラップ輸入では中国通関量が00年は53万d、04年は127万dも多い。日本で鉄スクラップとして通関されたモノが中国では銅スクラップとして通関された可能性が高い。これが「鉄付き非鉄スクラップ」(雑品)である。
  配電盤、モーターなど解体の手間とコストの嵩む廃製品が日本からは「鉄スクラップ」コードで輸出通関され、中国では銅スクラップとして荷揚げされた。その数量は04年は127〜136万d(通関)、日本の鉄スクラップ輸出(04年681万d)全体の20%前後、中国向け輸出(279万d)の40%超が鉄付き非鉄スクラップと推計される(06年1月17日、日刊市况通信社2面)。ピークとなった07年推計量は169万dで鉄スクラップ輸出(645万d)全体の26%、4分の1強を占めた(メタル元素・メーカー・リサイクル事典41p)。
  配電盤、モーターなど鉄製容器収用スクラップ類は、人件費の高い日本では解体コストが嵩むため処理困難物と目されていた。90年代後半からは人件費が安い中国向け輸出が増加。00年代後半から中国現地に合弁、もしくは直接処理工場を開設する動きが拡大した。 このなかで中国輸出入検験公司(CCIC)と日本海事検定協会(NKKK)は共同で「日中商品検査」(JCIC)を設立。96年中国国家質検総局(AQISQ)はこれを船積み事前検査機関として認可した(日本からの鉄、非鉄スクラップ等の「商品検査」)。これら廃商品の増加からAQISQは05年1月から日本など海外からの輸入企業を一定の条件に適合した許可企業だけに限定。この抑制効果もあり中国向け鉄付き非鉄スクラップの推定輸出量は08年127万d、09年29万d、10年36万dに後退した。

 

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6.鉄スクラップ加工設備小史

 

 ・はじめに 

  鉄スクラップ処理は人力による作業と機械処理に分けられる。明治から戦前までは、回収・扱い量も少なかったこともあり、大方の業者は専ら手作業。ごく一部の大手業者がプレスや切断機などを使用した。大型機械が一般に登場するのは高度経済成長で鉄スクラップの大量発生、高速処理が急がれるようになった70年代以降のことである。 

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 ・輸送手段 

・貨車・河川流通大正〜昭和初:「東京でも本所あたりではトラックの運送会社は一軒もない。必要な時は銀座あたりに電話した。日本鋼管は側線を利用した貨車と船便。トラックは普及していないので牛・馬車が中心。問屋は船で運ぶか地方は貨車で送ってきた。問屋は地方の駅の近く、東京では川沿いにありました」(伊久美甲子郎氏)。
「東京以外の地方は鉄鋼所がないため地方業者は周辺のモノを集め隅田川駅に輸送する、貨車に積みやすくするため、ブリキなどは「角造り」で1個30〜40sに締め、鉄屑やズクは「カマス」や俵に詰め、貨車一両を単位にして輸送してきた。船積みは人夫が天秤棒を肩に担いで運んだ。バラものは竹で編んだ『パイスケ』(かご)に入れ、重量物は『ハリモチ』といってタガをかけて棒を通し二人で担いで船に運んだ(三宅泰治氏)。
  戦後でも:「クレーンやリフマグはありませんから、荷役は麻袋を被ってプレス一個ずつ肩に載せて(船に)運ぶ、大変な重労働でした」(影島義忠・影島商店社長)。

木造機帆船=朝鮮動乱の時、月3,000dを八幡製鉄に送った。輸送は戦時中に作られた木造の機帆船で100dしか積めない。当時はクレーンも起重機もホークリフトもないから、 板を渡して担いで船に積み込む。風が吹いたり、天候が悪くなると名古屋から八幡まで1週間も10日もかかる。高炉には船で送ったが、陸送はほとんどが貨車で大同特殊鋼などは側線(引込み線)が入っていた(三井物産OB冨野金三郎氏)」

・トラック輸送=昭和28年か29年ごろ木炭車に鉄屑4dと運転手の他二人乗せて愛知製鋼・刈谷に走った。坂道になるとこの二人が降りて押すためだ。これがトラック輸送の始まりだ(三浦伊久多郎・紅久社長)。

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 ・加工手段 

・大正はタガネ、昭和初期にプレスも戦前は専業者でも切断設備などもっていない。ただ長過ぎる物はタガネを当て、ハンマーで打ち、折って短くした。
  「輸入の鉄屑プレスが動いたのは27年(昭和2)ごろ。東芝電機の前身である芝浦製作所鶴見工場が珪素鋼板くずを締めるために米国から輸入した。日本鋼管に入ってくる輸入屑のなかに自動車屑をプレスしたものがあり、またプレスは知っていましたが、実際に見てビックリしました。昭和4〜5年頃だったでしょうか(伊久美甲子郎氏)」。

昭和初期・人工結束=「スソ物の集荷に力を入れたのはコ島佐太郎さんで(昭和3年頃だと思いますが)スソ物処理の『人工結束』を考案した。長方形の型にブリキなどスソ物を入れ突き棒でブリキを突いて潰し結束するのです。この方法は都市・農村部を問わず全国津々浦々で行われましたし、戦後もある時期まで続きました。コ島さんは人工結束されたものを全国から集めていました(その後、コ島は昭和9年に「コ島式水圧プレス機」を開発。 自社用に使用)。これを釜石に送るのです(伊久美甲子郎氏)」。

戦後・機械化以前=「昭和20年代や30年代は大同特殊鋼や愛知製鋼は自社内に、ガス切断やプレスの処理工場を持っていた。業者は集めた鉄スクラップをそのままメーカーに持ち込めば良かった。だから業者は運送屋のようなものだった。業者が持っていたプレス機は水圧がほとんど。油圧は少なかった(三井物産OB冨野金三郎氏)」。

設備近代化は税制の後押し=きっかけは63年、それまで20年だった耐用年数がシャーリングは10年、プレス機は8年(64年から7年)に短縮された税制改正が大きい。ヤード設備・機械を作る全日本資源機械工業会もこの年結成された。65年11月、日本鉄屑加工処理工業協会が全国911社を束ねる機関として設立された。兄弟組織である日本鉄屑問屋協会は中小企業基本法にもとづく近代化助成法(近促法)適用を受けるべく「近代化促進委員会」(64年7月)を立ち上げた。これが大きく前進したのは通産省の働きかけを受け75年創設した日本鉄屑工業会(日本鉄屑加工処理工業協会も合流)以降である。工業会は卸売りから加工業種の変更や近促法の業種指定を活動方針に掲げ76年、77年に相次いで目標を達成し、これをバネに一気に機械化・ヤード近代化が飛躍的に進んだ。

                                                     

「処理機械を作っていたのは、(工業会設立)当時手塚やいすゞくらい。私も日本中の機械メーカーを回って鉄屑処理機械を作ってくれと頼んだが、全然受け付けて貰えなかった。それが業種指定され、耐用年数も短くなり、加工処理業の看板を貰ったら、やっと機械メーカーも機械の製作に乗り出してくれた。電炉メーカーもたくさんできて、それに対応する専業者も機械を導入するようになった(三井物産OB冨野金三郎氏)」。

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 ・プレス機(圧縮・減容機)

・始めは岡田菊治郎=原材料新聞社(現代人物論63年)はプレス機の開発は岡田菊治郎に始まるとする。当時棄てられていたスソ物の活用を思い立って「大正初年にプレス機を製造し、プレス品を八幡に船で送り業界の注目を集めた。時に30歳(明治14年生まれだから明治44年前後)。その頃の女房役椙山(すぎやま)貫二氏(日本特殊商工社長)は今も優秀なプレス機製造業を継承している」と紹介し「実業界初のプレス機考案の功により緑綬褒章受章 (53年)」したと功績を讃えている。

コ島式水圧プレス機=産業振興60年社史によれば、コ島は28年(昭和3)「鉄屑結束機」、34年「コ島式水圧プレス機」を考案し日鉄・釜石に搬送している。この水圧式プレス機は醤油の豆絞り機がヒントになった。戦後の50年に設置した1dプレス機はプレス品重量が500sの画期的なプレス機として評判になった (当時の在来プレス機の成品重量は70〜80s)とされる。53年尼崎製鋼から構内プレス設置の依頼が来た。

メーカー検収=51年(昭和26)八幡製鉄がCプレスやダライ粉プレス価格を打出し、川鉄、神鋼など大手他社も同調し新分野が生まれた(66年1月特集・日刊市况通信社22p)。

戦後は日本特殊商工・杉山式=「岡田が米国プレス機を3台輸入し、図面も取り寄せて製造権を譲り受けたのでしょう。日本での初のプレス機メーカーは日本特殊商工です。当時プレス機といえば杉山式だけでした」(尾関精孝氏)。「丸和商店は昭和21年末に川崎に出張所を開設し、本所亀沢町にあった日本特殊商工さん、つまり椙山さんのところに行った。これが戦後初のプレス機発注だと思います。このプレスは仕上がりが5〜60sだった筈です。「58年(昭和32)頃、杉山のプレスを入れました。その後、総和金属製の五月女式プレス機がでてきた。当時、機械と言えばプレスしかない」、「自動車メーカーにもプレスがないから新断はバラででる。電炉メーカーにしても小さな60〜80sのプレスでないと使えない。米国のバンドルドbQは平炉でしか使えない」(坂本護氏)。
  「五品さんは今のような機械屋さんではなかった。(杉山のあと)プレスを始め、途中でスクラップをやったことのある手塚興産が登場します」(尾関精孝氏氏)。

油圧でも水圧でも=「(当時のプレスは)油圧でも水圧でもいい。だから岡田さんは大きな水を蓄える圧力タンクがあってここから2基、3基あるプレスへパイプを引いて使っていた。効率は油の方がいいが、水だと洩れても汚れない。だから油でやったり水を使ったりの両刀でした。現在のような精巧な機械ではないからできた」(尾関精孝氏氏)。

60年前後に開発進む=日刊市况通信の機械メーカー記事や広告を見れば、手塚興産が「ドラム缶3本締め」のプレス機開発(60年4月)と表示し、水・油圧切替え可能としているから、この前後、油圧プレスが登場したことが分る。当時はプレス表示としてドラム缶1本締めとか、3本締めだとか、ドラム缶本数で言うのが一般的だった。手塚興産は、ダライ粉を高圧で圧縮・減容する「弾丸プレス機」も開発(61年1月)している。

製鋼メーカーが設置=60年10月手塚興産が八幡製鉄に全自動式500馬力2d締めプレス(東洋一)。61年8月1,200馬力3d締めプレス(世界最大)納入。川鉄、住金に各2d締めを納入(63年)。その後、電炉装入に梱包式プレスが使用された。手塚興産が65年開発し、日本鋼管も製造に乗出した電気炉専用・鉄スクラッププレス機である。自社プレスだから調合の自由度が高く大容量だから追加装入回数が削減できるメリットから67年8月現在、鉄鋼18社が最大45d型を含め23基を導入した(67年8月特集)。

廃車専用プレス機=四国の山下昇一氏ら有志が解体業者の立場から89年開発した地上設置式・専用プレス機(サイドプレス)。同機の開発・普及によって自動車解体業者の販路・価格交渉力は飛躍的に増強し90年代「サイドプレス」ショックとも称された。

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 ・シャーリング(切断機) 

まず製品加工機として登場=シャーリングは戦前、製品加工用(寸法切り)として登場した。戦後の60年代前後に鋳物・可鍛材料の加工用に転用され、普及した。しかし当時のシャーリングは大方が人力の装入を前提とし、かつ小型で、作業能率が極めて低かった。

東京記者座談会=「記者C:ここ5〜6年前はシャーリングの普及は物凄い勢いだった。ただシャーでは1日2〜3dしか切れない。プレスは人数にもよるが10数dは締められる。人件費も5〜6年前に比べ2〜3倍高くなったから最近プレスに重点が移った。
  記者D:従来スタイルのシャーが売れないのは能率に問題があるからだ。ただ大物の発生はどの地域でも増えている。その処理に見合った新しい形のシャーが求められる段階に入っている。しかし機械メーカーは業者の実情に合わせた機械の大幅な改良には手をかけなかった。これが今後の課題と思う」(日刊市况通信社・65年新春号)。

輸入ギロチン(64年)=日本でヤード業者が大型シャーを導入したのは64年10月、堺の山根商店が独・リンデマン製のシャー(350d圧・門型。これがギロチン名称の初出)を設置したのが最初である(65年6月・日刊市况通信社特集号に「ギロチン・シャーの威力」の紹介記事)。67年7月、東京の老舗・岡田商事もリンデマン製の同型シャーとプレスを設置、ヤード業者の大型化が東西で口火を切った。電炉では東芝製鋼が68年12月小島鉄工所(700d圧)製ギロチンを導入した(東芝は68年6月平炉製鋼から電炉製鋼に切替えた。嵩非常を高める必要やコストダウンが急がれた)。

・国産・大型シャーは68年以降=伊藤忠商事51%出資で千葉県船橋市の京葉金属工業ヤード(商社系ビッグヤード)が68年10月開設された。小島鉄工所製の700d圧ギロチンを設置。東芝製鋼が同じ小島鉄工所製700d圧ギロチンを同年12月導入。国産ギロチンは小島鉄工所がまず大手商社や鉄鋼メーカー向けに製作したと見られる。一般ヤード業者向けには大阪の平川商事に手塚興産が400d機を70年3月導入。次いで富士車輌(69年参入)が 71年早々に堺の中辻産業に350dシャーを納入。日本で門型シャーなどの大型化が進むのは71年以後、1,000d超の大型が登場するのは80年以降である。

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 ・自動車処理機 

・処理工程廃車スクラップ処理は手解体、圧縮(プレス)、焼却、切断(シャー)、破砕(シュレッダー)に分かれる。歴史的にも、上記の順に登場、普及した。

機械化以前=「ポンコツ屋の解体作業は、ビスをはずし、ドアを取りこわすのから始めるのが常道だ。次は危険のないようにガソリン・タンクをはずす。それからハンマーとタガネで、ぽん、こつん、ぽん、こつんの仕事が始まる。時には大きな玄翁(げんのう)も持ち出して車の上に仁王立ちになって、ボディをぶんなぐって叩きつぶすこともある。ハンマーとタガネで片づかない部分が出て来て、ようやく簡易機械化部隊が動員され、アセチレンと酸素の火を使う焼切りが始まる」。マイカー時代直前の東京・竪川の自動車部品回収業を描いた阿川弘之作「ぽんこつ」の一節。

廃車プレス=70年代までの日本のプレス機は自動車の丸ごと処理は想定していなかった (小型プレスが主流)。ただ鉄屑カルテルは米国から廃車プレス(バンドルドbQ)を輸入していた。「輸入バンドル物の品質不良は言語に絶する。鉄屑業界の『黄変米』で、かかる黄変米を輸入し国内プレスを買い止めて業界を苦境に陥れる輸入政策は改善されなければならない」(57年春、近藤正二・日本鉄屑連盟会長兼関西鉄屑懇話会長)。

米国バンドルドbQ(Aプレス)=「(米国の)自動車解体業者は廃車を買って、露天ヤードに置いておく。すると客がやって来て好きな部品を取り外し買っていく(モギ取り)、解体業者も自分でエンジンを外して解体し、残ったボディーなどをヤード業者に売る。ヤード業者は銅線など非鉄を取除き、または焼却炉で付着物を焼き去り、プレス機で締め上げる。これが「バンドルドbQ」としてカルテル当時の日本などに輸出された。

カーベキュー(マップス・プラント)=手塚興産が「高熱炉内で車体を回転させながら焼き一定の溶融温度管理の下、鉛、アルミ、銅、鉄を分離回収する」システムを開発(64年8月)し65年1月NHK・TVで放映された(66年12月発売)。手塚興産と星和産業が共同出資で「東邦カーベキュー」を設立し月間4〜5,000台の処理を計画したという報道もある(日経70年1月21日)」(自動車リサイクルの歴史研究序説・浅妻佑)。

プローラー・スクラップ=米国のプローラーなる人物がグロリア州で鉱石を破砕する機械(シュレッダー機)を廃自動車処理に転用したことから始まる。日本には60年3月、米国のヒューゴニュー社から同スクラップの輸入提案を鉄屑カルテルが受け、八幡など6社が購入63年4月、入着したのが最初である(鉄屑カルテル10年史82p)。従って、当初はプローラー・スクラップと呼ばれた。
▼シュレッダープラント:日本でも、70年春から夏にかけて関東、関西で商社と大手業者の提携による自動車用のシュレッダー工場が一斉に動き出し、70年代前半の一大ブームとなった。産構審が73年7月「70年代の鉄鋼業」を発表し「不純物が十分除去されない」自動車プレスの改善策として「シュレッダーくずの量的拡大」と低利資金融資、税制優遇などの助成措置を提言したことや電炉メーカーが下級プレスの追放に動いた(76年)ことが商社と提携した大手だけでなく一般業者もシュレッダー機を導入する引金となった。?
▼国産シュレッダー:国産シュレッダー第一号機は、川崎重工がヤマナカ・横浜工場に74年に納入した。その後、富士車輌や手塚興産などの開発が相次いだ。自動車暴発事故防止のため「プレ・シュレッダー」も開発された(81年・伸生)。

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 ・重機及びアタッチメント 

ヤード合理化の切り札=油圧式重機が作業の効率化、労働環境の改善に画期をもたらした。重機はアタッチメントの交換で各種作業をこなすから多様な開発を呼び込んだ。

廃車解体と重機(自動車解体機)=発端は79年、沖縄の拓南商事が広島の油谷重工(現コベルコ建機)に、南国の苛酷な自然環境に耐えられる作業機械の製作を依頼したことに始まる。重機と言えば土木・建設作業機専用と見られていたなかで、油圧と専用アタッチメントによる解体処理の機械化を実現させた。「自動車解体機」と命名された同機の登場から、 その後の自動車解体作業は一変した(81年科学技術庁長官賞受賞)。
豊富産業グループ(富山)を築いた高倉可明が、重機を使った各種の技術開発に傾注した(87年自動車解体プレス機、88年エンジン割機、89年移動式廃車処理機、93年タイヤホイール分離装置、97年コベルコ建機と共同で全油圧式マルチ解体機を開発)。
  コベルコ建機の存在も大きい。コベルコは神戸製鋼の統一商標で、1930年(昭和5)国産初の電気ショベルを中国の撫順炭鉱掘削用に開発。戦後の55年にはP&Hと技術提携しクレーンの大型化に取り組んだ。83年廃車解体機を開発した油谷重工を吸収し、建機専業分野を立ち上げ、97年高倉可明と共同で全油圧式マルチ解体機を開発した。

簡易切断機(もうカッターなど)=油圧重機はアタッチメントの交換で各種の作業をこなす。その特性を利用した簡易切断アタッチメントが96年10月発売された(ナベショー 「もうカッター」)。重機さえあれば、アタッチメントの装着だけで切断・加工が(軽資本でも)できる。この簡易切断機の普及はその後の流通・加工に大きな変化をもたらした。

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