スチールストーリージャパン英文翻訳

 

   
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はじめに
■日本渡来のいきさつ
 ・日韓併合(1910年)
 ・在日韓国朝鮮人渡来の歴史
 ・39年〜45年、強制連行
 ・戦後、 60万人が残留に至る経緯
 ・済州島事件、朝鮮戦争 
 ・北朝鮮、帰国事業


在日韓国朝鮮人の法的地位
 ・「第三国人」扱い
 ・外国人登録令、外国人登録法
 ・強制退去と大村収容所(50年)
 ・「永住権」問題
 ・40年後、最終結着


鉄スクラップ業との係わり
 ・就業実態―戦前は土建、鉱業が中心
 ・戦後は有職者の10人に1人が屑鉄商
 ・在日朝鮮人脅威論
 ・鉄屑カルテル−鉄屑連盟排除の狙い
 ・鉄屑カルテル十年史の集団意識
 ・金属営業条例制定(56〜58年)の背景
 ・「日本三文オペラ」とアパッチ族
 ・「夜を賭けて」
 ・「65万人・在日朝鮮人」(77年)の目線


在日コリアンと鉄スクラップビジネス 
 ・概説
 ・地価上昇が在日コリアンの「信用」を創造
 ・「鉄スクラップの特性」と在日コリアン
 ・製鋼技術と流通組織の歴史的変化
 ・くず鉄一代記
 ・日本鉄屑工業会と在日コリアン


日韓のパートナーとして

社史作成

英文翻訳

鉄スクラップ総事典

スクラップ史集成

スクラップ史集成

スクラップ史集成

― はじめに ―

 

始めに=鉄スクラップは生活周辺から発生する。その回収、集荷は法的許可・資格を必要とせず、また比較的軽資本で参入できるため戦後、日本に留まらざるを得なくなった韓国・朝鮮人にとっては格好の職種の一つとなった。本書はその在日韓国・朝鮮人(注)と鉄スクラップビジネスの歴史を明らかにする試みである。

 日本渡来のいきさつ 

・日韓併合(1910年)=まず、なぜ韓国・朝鮮人が日本に渡来し、なぜ現在も在日コリアンとして居住しているのか。在日コリアンの現在を知るためには、日韓に横たわる歴史を知らなければならない。
  日露戦争(1904年)の勝利を足場に日本は韓国に対し財政・外交権を掌握する協約(第一次04年8月、 第二次05年11月)を締結し、日本の韓国保護をロシアに認めさせた日露講和条約(05年9月)後は、韓国の直接支配のため統監府(12月)を開設した。翌10年(明治43)8月22日、日本は韓国併合に関する日韓条約を締結。韓国の国号を朝鮮に改め、韓国支配の絶対権限を統括する朝鮮総督府(注)を置いた。
 (注)朝鮮総督府=朝鮮支配のため軍事・行政の全権を包括的に掌握した。総督は陸海軍大将を充てた。治安維持のため一般警察ではなく軍直属の憲兵警察制度(1910年9月)で朝鮮国民を監視した。

・在日韓国朝鮮人渡来の歴史=在日韓国朝鮮人渡来の経緯は以下のように要約される。
▼第1期(1910〜20年) =韓国併合からまだ日が浅く、憲兵などを全面に立てた武断支配の反発などから19年3月1日から約半年、朝鮮全域で反植民地闘争(3・1運動)が勃発した。総督府は反植民地運動の日本持込みを警戒し、旅行証明書を義務づけるなど日本への渡航制限した(19年4月)ことから、この時期の渡航は少数にとどまる。
▼第2期(20〜30年)=日本では23年(大正12)関東大震災の混乱のなか日本人自警団による朝鮮人虐殺事件が発生するなど、日本人の在日朝鮮人への警戒感も時として暴発した。総督府は治安維持のため朝鮮人の日本渡航は引続き禁圧したが、内地資本にとって低賃金でかつ劣悪な労働環境でも自由に使える朝鮮人は貴重な労働力であった。このためブローカー等による就労勧誘と「密航」が相次ぎ、渡航制限も有名無実化した。「就職が確実と認められること、労働ブローカー以外の募集であること、旅費を除き60円以上の余裕があること」等を認可条件に渡航を再開した(28年)。在日朝鮮人の居住総数は、20年代前半の3万人強から30年には30万人(内務省警保安局調べ)に膨れ上がった。この頃、日本全国にいわゆる「朝鮮部落」が形成され始めたとされる。
▼第3期(31〜38年)=満州国建国(32年3月)に合せ、総督府は朝鮮域内での兵站産業化及び満州開拓のため朝鮮人労働力の活用に軸足を移した。日本渡航は抑制する方針としたが、実際はこの間も増加し続けた。
  内地軍需産業の拡張と膨大な人力を必要とする石炭、鉱山事業から、安価な労働者を求める圧力はさらに高まり、 34年に50万人だった在日朝鮮人の居住人口総数は4年後の38年には80万人を超えた。

・39年〜45年、強制連行=第4期(39〜45年)=日中戦争から戦時体制化から国家総動員法(38年4月公布)が制定され、総督府は朝鮮語の使用を禁じる教育令(同年3月)や朝鮮の姓を日本風に改める創氏改名(39年12月)、さらに志願兵(38年4月)や徴兵制度(42年5月)を実施。戦時体制に伴う後方生産活動の労働力確保のため朝鮮全土から徹底的な「労務供出」(強制連行)を押し進めた。日本では労働者の軍需工場への徴発を可能とする国民徴用令が39年施行されたが、同令の朝鮮への適用は避け、労働力の徴発は「募集」の形で段階的に始まった。
  @ 自由募集による朝鮮人労働者の動員(39年9月〜42年1月)。
  A 官斡旋・隊組織による募集動員(42年2月〜44年8月)。
  B 国民徴用令(44年8月〜敗戦)=斡旋では生ぬるいとして、一般徴用令を発動した。  
  39年から敗戦までの7年間に強制的に日本国内に連行され、就労させられた朝鮮人は、控えめに見て72万人、最大126万人を数え、敗戦当時の居住人口総数は236万人に達したとされる(注)。
(注)朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」によれば39年から45年までの動員計画数は106万人。連行数は72万人、78万人、94万人、126万人。敗戦時の在日朝鮮人の居住人口は210万人、236万人との両資料が存在する。

・戦後、 60万人が残留に至る経緯=戦後の45年8月から9月、朝鮮は北緯38度線を挟んで北はソ連、南は米軍(日本占領は連合国が行ったが、朝鮮は太平洋米国陸軍総司令部の単独占領)の軍政下に置かれ、米軍支配下の南朝鮮は48年8月、大韓民国(韓国)として、同年9月北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立。朝鮮は南北に分れた。45年9月から46年3月までの半年間で米軍支配下の韓国には94万人、50年までに104万人が帰国したが、ソ連支配下の北朝鮮には47年6月までわずか351人が帰ったに過ぎなかった。
  この引揚げも50年6月25日の朝鮮戦争の勃発と同時に中止され、GHQ (連合国最高司令官総司令部)覚書きによって日本政府による引揚げ業務は終わった。ただ独自に海峡を越えた者も少なくなく、韓国政府発表によれば、日本からの帰国者総数は日本側記録より多い141万4千人に達したとされ、また「非合法的な形で出国した数は81万人に達すると推定される」との資料もある。

・済州島事件、朝鮮戦争=外国人登録の公式記録によれば50年度の在日韓国朝鮮人は54.5万人、55年57.8万人。朝鮮南部で発生した済州島事件(48年4月3日から54年9月・注)や、その後の朝鮮戦争(50年6月25日勃発。51年7月休戦会談開始)の政治的争乱を逃れるため、一旦は帰国した日本に非合法に再入国した者もおり、実際の居住人数は公式数より多い(これが外国人登録証携行義務と強制送還に絡む)。
(注1)済州島4・3事件=米軍政下の48年5月に南朝鮮で北朝鮮抜きの単独選挙が予定された。これに反発した一部島民が4月3日、武装蜂起したことが発端となった。南北朝鮮政府の樹立(8、 9月)、済州島鎮定に反対した軍隊の反乱(10月)、戒厳令布告(11月) など政治・軍事の対立が深まるなかで、残存反乱者の鎮圧は南北朝鮮の代理戦争の様相を呈し、「敵性地域」とみなされた周辺住民の無差別虐殺が7年余り続いた。
 事件はその後、韓国では語ることも書くことも長くタブーとされたが、自国の歴史清算を進めた盧泰愚政権の誕生によって公然化され、犠牲者の名誉も回復された。殺害された島民の正確な数は未だに不明だが、「真相調査報告書(03年10月)」などによれば島民28万人のうち3万人近くが犠牲になったとされる。

・北朝鮮、帰国事業=北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰還は朝鮮戦争の勃発から一時中断したが、54年頃から日朝の赤十字会を通じて再開の可能性を探り始めた。ただ北朝鮮と韓国は(休戦中とはいえ)戦争状態にあり韓国政府は帰還事業に激しく反対したため、北朝鮮への無害・安全渡航保証を韓国から取り付ける必要があった。
  日朝赤十字の協定により北朝鮮の派遣船ではなく、 安全のためソ連船で帰還した。59年12月14日、新潟港からの第1船975人を皮切りに、 3年間の中断期(68〜70年)をはさんで84年までに9万3千人余りが帰国した。朝鮮戦争を戦った李承晩政権(在位48年8月〜60年5月米国亡命)下の韓国は、政権維持のため反政府勢力や民衆を徹底的に弾圧していた。その政治状況の中で行われた北朝鮮帰国者の98%は南朝鮮出身とされた。

 

 在日韓国朝鮮人の法的地位 

日本の韓国併合(1910年8月)に伴い日本国籍民とされた韓国人は、日本の敗戦と朝鮮の支配権喪失から戦後、現に日本国内に居住する間、どのような法的取扱いを受けるかが問題となった。

・「第三国人」扱い=GHQは45年11月1日、「日本占領及び管理のための連合国最高指令官に対する降伏後の初期の基本指令」に基づいて、「朝鮮人は軍事上の安全が許す限り解放国民として取り扱う。彼等は日本人という用語には含まれないが、彼等は日本国民であったのであり必要な場合は敵国人として取り扱うことが出来る」とした。
  「これは朝鮮人を解放国民として扱うことを明確にしたものであり、占領政策に障害をきたす問題が生じた場合には日本人と同じ扱いをするとのことである」(在日朝鮮人の人権と日本の法律)。ただ、この通達から台湾人、在日朝鮮人は解放国民でも日本人でもない「第三国人」だとの呼称が、当時の日本人の間で浮上した。

・外国人登録令(47年)、外国人登録法(52年)=日本政府は台湾人、朝鮮人など在日旧植民地人は、治安管理上外国人登録令(47年5月)では「当分の間、これを外国人とみなす」(令11条)とした。そのうえで「常に外国人登録証を携帯と呈示」(令10条、法13条)することを義務付け、不呈示は刑事罰(令12条、 法18条・注)の対象とした。
  この罰則規定等は日本独立後に改正された外国人登録法(52年4月)でさらに重罰化され、14歳以上の外国人の指紋押捺義務も追加された(法14条)。戦前の在日朝鮮人は協和会バッジの着用でその存在を監視された。
  外国人登録証はその戦後版である。
  (注)登録法18条は登録証を受領せず、携帯せず、又はその呈示を拒んだ場合や指紋押捺をせず、妨げた者は1年以下の懲役若しくは禁固とする。

・強制退去と大村収容所(50年)=政府は在日韓国朝鮮人の管理のため、出入国管理令に一般的な強制退去理由とは別に、外国人登録法違反(24条)を加え、同令で禁固以上の刑を受けた(ただし執行猶予の場合は除く)場合は強制退去とした。つまり一般的な退去事由に加え、在日韓国朝鮮人に対しては単なる外国人登録証の不携帯や指紋押捺拒否だけでも、 その違反者を強制送還できることとした。
  この強制退去のための留置施設として朝鮮戦争さ中の50年10月、長崎に大村収容所を開設(注)した。
  (注)大村収容所=正式には「法務省出入国管理局所轄大村入国者収容所」。刑事犯罪者を収容する刑務所とは異なるが、出入国管理法違反者を収容、監視する機能は刑務所と本質的には変わらない。済州島事件や朝鮮戦争などで非合法に再入国した者やその容疑をかけられた者も収監された。送還が目的だから国内釈放の期限の定めはなく、収容者から「刑期なき牢獄」と恐れられた。軍事独裁政権下にあった当時、日本での反政府活動者には本国送還後、死刑を含む重罰が待ち構えていた。非政治的な理由で送還される場合でも(長年の在日から韓国に生活の場を持たない者が多いから)、送還は異国への放逐と異ならなかった。

・「永住権」問題=日本は52年の講和条約で、朝鮮独立が承認され、在日朝鮮人は正式に外国人となり「日本国籍を離脱したものとする」との立場をとった。とはいえ現に日本に居住する在日朝鮮人の法的地位をどうするかが別の問題として残った。永住権問題である。外国人とは「日本国籍を有しない者」(出入国管理令2条) だが、戦前は日本人扱いした台湾人、朝鮮人などは戦後「当分の間、外国人とみなす」(登録令11条)とし、日本永住は基本的に認めない方針をとった。ただ講和条約の発効から52年、現に日本に在留している在日朝鮮人等には永住付与の特例を設けた。その特例は当人の「一代限り」で世代継承は認めなかったため、在日朝鮮人の在留(永住)資格は世代によって個別法、もしくは特例追加で対応せざるを得ず、複雑を極めた。

・40年後、最終結着=従来の法令は世代によって在留資格が異なり、東西冷戦の歴史的緊張関係を映して過度に取締に傾いていた。また日韓条約締(65年)結後25年を経過し、協定永住3世問題に結着をつける必要にも迫られた。
  このため日本政府は91年に行われた日韓外相会議を受け、協定3世を始め戦前から日本国民の一員として居住していた者の永住資格を一括して認める「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(入管特例法)」を制定し、その法的資格を最終的に確定した。
  戦前から居住する法律126号や協定永住者、特例永住者は勿論、「平和条約国籍離脱者の子孫で出生その他の事由により入管法に規定する上陸手続きを経ることなく」在留する者も、「法務大臣の許可を受けて」特別永住できる(4条)とした(これにより済州島事件などの「密入国者」も届出により特別永住許可が与えられることとなった)。
  これら特別永住者は外国人登録証に替わって「特別永住者登録証」の受領と呈示義務は負うが、「常時携行」義務及び罰則は免除(17条)され、指紋押捺も外国人登録法の改正により撤廃された(93年及び00年改正)。

 鉄スクラップ業との係わり 

  在日韓国・朝鮮人は、鉄スクラップビジネスとどのように係わり、どのように見られたのか。
  そこに見え隠れするのは植民地経営国の多くがそうであったように、宗主国民と植民地民の「支配と差別」の意識、旧植民地民の台頭を恐れる旧支配者心理の微妙な陰影である。

・就業実態―戦前は土建、鉱業が中心=戦前の在日朝鮮人の職業は、 専ら肉体・単純労働としての工業一般、 土建業がその大半を占めた。韓国併合から10年後の1920年当時の在日朝鮮人総数は4万1千人、有職者3万5千人(全体の86.4%)で、 非有職者(つまり家族)は少なく、ほとんどが非定着の単身労働者だったと見られる。
  仕事は手っ取り早く職に就ける工業一般と土建(つまり土方・人夫)や鉱業(炭鉱夫)など肉体労働3分野だけで全体の71・1%に達した。30年の在日総数は41万9千人、有職者26万人(全体の62.0%)。前記3分野で59.5%。農・商業、 運輸22.7%、 日雇い7.4%と多角化を見せた。
  これが大きく変わったのが戦時体制と実質的な強制徴用が始まった40年以降である。在日総数は10年間で3倍強の124万1千人に増え、有職者52万3千人(全体の42.1%)で非有職者(家族)が過半数を越え、在日朝鮮人の定住化傾向を示した。肉体労働3分野(66.5%)に集中したが、古物商3万8千人7.3%が職業分類4位に登場したから、在日朝鮮人の鉄スクラップ業への参入はこの前後から始まったと見られる。戦時中の内地の金属類回収は月間鉄屑扱い100d以上の「指定商」を中心だから、参入間もない在日朝鮮人は戦時回収の中核組織には入っていない。

・戦後は有職者の10人に1人が古物屑鉄商=法務省調査によれば59年の在日人口60万7千人。有職者が14万9千人(全体の24.5%)である。うち古物屑鉄商が1万3千人で有職者全体の9.0%。実感的には働いている在日韓国朝鮮人の10人に1人が古物屑鉄商と見られる。戦後の鉄屑価格は物価統制令(46年3月)で監視されたが、戦前・戦中のように切符がなければ一切販売できない(販売統制)という法的なシバリはなかった。
  また市中の至るところに戦災屑が放置され、鉄屑回収は誰にとっても手っ取り早い商売として解放されていた。
  強制徴用先の工場から放り出され、生き延びるための手段を求めていた在日韓国朝鮮人が、この簡便な商売に飛びついたのは当然の成り行きであったろう。
  64年の公式在日人口は57万9千人。有職者14万1千人(24.3%)、古物屑鉄商が約1万人弱で有職者全体の7.0%。69年(昭和44)が60万4千人。有職者15万人 (全体の24.9%)。古物屑鉄商が8千人弱で有職者全体の5.2%で古物屑鉄商は漸減傾向を示している。74年は63万9千人、有職者14万9千人(全体の23.2%)。うち古物屑鉄商は5.0%、約7千5百人に後退し、専門・技術性の高い技能・生産工23.5%、 貿易、その他販売15.7%、事務職14.0%、専門職・管理的職業6.5%など多方面での社会進出が見られる(この項「在日韓国朝鮮人」)。
  戦後からほぼ一世代(30年)、日韓条約による法的地位の確認(65年)から10年、この頃から在日韓国朝鮮人の職業選択は多様な広がりと社会的な上昇傾向を見せ始め、現在に至っている。

・在日朝鮮人脅威論=法務省の調査資料で明らかなように、リヤカー一つで商売できる鉄屑回収は在日韓国朝鮮人にとっては、制約と差別の多い日本でも極めて低資本で、確実に現金を握れ、継続できる数少ない職業の一つだった。 それが戦後まだ日が浅い50年代には在日韓国朝鮮人の10人に1人がその職に従事することとなり、日本の末端鉄屑流通を覆った。その光景は、鉄屑の絶対的な不足のなか戦後復興の柱としての鉄鋼生産(「鉄は国家」であった)と鉄屑カルテルの結成を急ぐ日本(政府)と鉄鋼会社にとって、ある種の「潜在的な脅威」を与えることとなった、と想像される。
  当時、各地で進められた地方自治体の金属条例の制定や鉄屑カルテル認可後(55年)に繰り広げられた日本鉄屑連盟の排除の動きは、そのような状況のなかで進んだ(直接に在日韓国朝鮮人に言及するものは少ない。ただ例外として鉄屑カルテル十年史、回顧談がある)。

・鉄屑カルテル−鉄屑連盟排除のカゲの狙い=日本鉄屑連盟はカルテル反対を最大目標に結成された鉄屑業者の全国組織である。その構成員は(1社当りの扱い数量は少ないものの参加数から言えば)末端・集荷業者が圧倒的に多い。それはとりもなおさず零細な在日韓国朝鮮人が鉄屑連盟内部に圧倒的に多いことを意味する。
  この「潜在的な脅威」にどう対処するか。
  (注)戦後の53年鉄鋼20社がカルテル申請を行なったことに反発して鉄スクラップ回収に係わる直納業者、中間業者、資源回収業者などが全国の各階層を網羅する団体として結成した。この反対運動もあり鉄鋼側は翌54年6月申請を取下げた。55年4月のカルテル認可は「鉄屑連盟の意見参酌」を価格決定の条件とした。認可後、鉄鋼会社は喉に刺さった小骨として同参酌条項の排除と鉄屑連盟の無力化に努めた。

・鉄屑カルテル十年史の集団意識=鉄屑需給委員会が67年、カルテル結成10年を記念して「十年史」をまとめた。
  そのなかに当時の在日韓国朝鮮人に対する危機感が率直に紹介されている。
  私(鉄鋼会社社長)「・・・時にM(原文は固有名詞、直納業者団体のトップ)さん、今度のカルテルについて業者側の意見はいかがですか?」。
  M 「あんた何をノンキそうにデンと机に座って・・、現在国内60万人の第三国人の大部分の者が大なり小なり屑鉄の集荷に頭を突っ込んで、今や専業化して来ている。その資金力にものを言わせて市中発生屑の大方を握られている時代ですョ。(略)。屑の市中相場を自由自在に作ったり動かしたり出来る者は実に最末端の第三国人であって、吾々専門業者でもなければ大手鉄鋼メーカーでもないんですョ。彼等は日本の屑鉄業者がなんぼ結束しようとメーカーが非常手段に出ようとそんな事へっちゃらや・・吾々業者に金のないことも手持屑のない事もヨク知ってるし、メーカーの在庫もよう調べてますワ。そこで大メーカーとして重要資源確保の意味で官民一体となって恒久的な抜本策を今直ちに樹て直さん事には永久に第三国人に牛耳られた挙句に、 思う存分甘い汁を吸われて吾々業者は実力の伴わない単なる仲買人に終わってメーカーはみすみす高い輸入屑を買て行かんと思いますが・・・」。
「M老の屑鉄対策についての熱弁は何時果てるとも知らず、私も少々辟易致しましたが、 元より私利私欲のない老の熱意の迸(ほとばし)りであるだけに、別段反駁もせず、それを事実として素直に受取れたのは一に老の淡々とした風格による」(十年史267p)。
  当時の鉄屑関係者、ことに日本人関係者が在日韓国朝鮮人にどのような種類の脅威を感じていたか、それが組織としてどのような行動を促したのかが、これによって推測できる。 
  Mの発言の根拠は不明である。しかしこの証言を「第三国人」ではなく「ユダヤ人」に置き換えれば、欧米の根拠なきユダヤ人脅威論に極めて似通ってくる。ただ、ここで筆者(冨高)がある種の違和感を禁じ得ないのは、なぜ、 このような発言が公正取引委員会の認可を受けた資料として採用されたのか、という疑問だ。丁寧に読み返せば、 寄稿者はMの発言を十年史刊行の機会を通じて後世に伝えたかったのだろうとの熱意が伝わってくる。
  問題は、恐らく当時としても不適切な表現を含む回顧内容の編集に、さほどの注意が払われていないことだ。十年史刊行に際し、編集委員も「別段反駁もせず、むしろそれを事実として素直に受取れた」可能性が高いと推測できることだ。とすれば、この寄稿文とその掲載は、当時の鉄鋼業界の「集団意識」 をごく自然に反映したもの、として読むべき歴史的な意味あいを示唆するだろう。
 
・金属営業条例制定(56〜58年)の背景=在日韓国朝鮮人の法的資格・管理は外国人登録令(47年5月)や出入国管理令(51年11月)で行ったが、さらにその生計を支える古物屑鉄商への事実上の監視制度が、神奈川県を皮切りに56年(昭和31)以降各地で次々と制定された金属営業条例(注)である。
  鉄屑カルテルが認可されたのが1年半前の55年4月。集荷業者→鉄鋼会社の流通関係の整備はこのカルテル認可で進んだが、その前段階の末端業者の法的な整理、監督は手付かずだった。金属営業条例は、朝鮮戦争による金属ブームから福岡県や広島県が制定(届出)したのが最初とされ、厳格な許可制は56年以降、28道府県に及んだ。
  金属くずの盗犯防止を立法目的とするが、隠れた狙いは鉄屑回収業者の大半を占めると見られた在日韓国朝鮮人を各自治体警察の監視下に置くことにあったことは、公然の秘密とされた(注)。
  つまり在日韓国朝鮮人を法の監視下に置くという隠れた狙いから、国会審議を必要とする「法律」によらず、個別自治体だけで可決される「条例」によった。このため自治体のなかには条例制定を拒否するところ(京都府)や業者の自主組織を結成し条例制定を阻止するところ(東京都)がでてきた。
  (注) 今一つの代表的な職業がパチンコ業。これは風俗営業法で規制されており、申請者が外国人の場合は外国人登録証の写しを添付しなければならない。

・「日本三文オペラ」とアパッチ族=神武景気 (54年12月〜57年6月)のなかで鉄屑をはじめ各種の金属屑は高騰し、盗難事件が多発、社会問題化した。そのため57年1月、前記の通り大阪でも「金属屑条例」を制定し防犯対策に乗り出していた。そのなかで在日韓国朝鮮人を中心とする一群が大阪陸軍砲兵工廠跡地に眠る厖大な鉄屑を求めて日夜出没した。新聞は神出鬼没な攻勢から「アパッチ族」と報道(58年6月)し、世間の耳目を集めた。
  終戦前日の8月14日午後、約150機のB29がアジア最大の大阪陸軍砲兵工廠を徹底的に爆撃し尽くした。戦後10数年経ったが、不発弾爆発の危険もあって大阪城外堀一帯には戦災屑が未処理のままに放置されていた。跡地に眠る15万dもの膨大な鉄屑とその(非合法) 回収戦に作家はテーマにとった。開高健はその処女作 「日本三文オペラ」(59年)で、50年代前半の在日韓国朝鮮人の鬱勃たるエネルギーを描き、梁石日は「夜を賭けて」(94年)で、 在日朝鮮韓国人の目線から、アパッチ事件 (第一部)の内側と収監先の大村収容所の実態(第二部)を克明に描いた。

・「夜を賭けて」=「大阪造兵敞跡の対岸の朝鮮人集落がいつ頃できたのか判然としない。B29の猛爆を受けて多くの死者を出し、焼け野原となった大阪造兵敞跡の周辺は薄気味悪く、日本人の寄りつかないこの場所に行くあてのない朝鮮人がバラック小屋を建てて住みつくようになったと思われる。要するに日本人が忌避して住まない場所に朝鮮人集落ができているのである」 。この作品が日本人作品と異なるのは、アパッチ族の顛末は、壮大な前奏曲に過ぎないということだ。作品の面目は、アパッチ族の後日談としての第二部、不法入国者の留置施設としての大村収容所の実態を収監者の目を通して描くことにあった。

・「65万人・在日朝鮮人」(77年)の目線=その20年後の77年、「65万人―在日朝鮮人」(宮田浩人編著)が発刊された。第1章「65万人」第2節「日本経済の底辺で」、「姿を消した三輪車部隊」の項で、在日韓国朝鮮人業者たちの姿を報告している。
  夫が運転手、妻が助手席に座る。工事現場を駈け回り、スクラップを現金で買い夕方、最寄りの問屋に積荷をおろす。1、2d積みの軽便な三輪トラックで走り回る彼等は、地元業者から「三輪車部隊」と呼ばれたという。愛知県では最盛期にはこうしたブローカーが約千人近くおり、うち7割ほどは在日朝鮮人が占めていた。三輪車部隊が登場する以前は、小さなリヤカーを引いて一般家庭から鉄、紙、布くずを回収して歩く「リヤカー部隊」が主力で、 かなりの部分が在日韓国朝鮮人だった、とまず在日韓国朝鮮人の回収実態を描く。
  その中での在日韓国朝鮮人からの取材として、大量に鉄屑がでる工場は「日本人業者に押えられる」し「同じ値段なら日本人に売ると(言われ)足下を見られる」。「朝鮮人にはメーカーの直納権が認められていない」から納入は日本人代行店の名義で行わざるを得ず、何段階にもわたる流れのなかで「日本人業者は労せずしてマージンにありつく」。さらに「商社が納入ルートを押え、代行店を系列化した。朝鮮人業者は商社と直接取引きするのはほとんどまれだ」との流通構造と系列化による在日韓国朝鮮人排除の流れを紹介する。
  こうして在日韓国朝鮮人は疲弊、傍流化しているようだと前段で切り取ったあと、では、その在日韓国朝鮮人を日本人はどう見ているのかと後段で分析する。在日韓国朝鮮人業者の愛知県の鉄屑扱いに占める割合は正確には分らない(同県人口に占める在日朝鮮人業者の割合は1%に満たない)が、問屋筋の一致した推測として、不況の最近でも30%、ある商社筋は「5割近い」と見ており、「かりに朝鮮人業者が足並みを揃えてストや売止めをしたら一部の電気炉は止まってしまうだろう」との商社筋の発言を伝えている。
  ▼編者注=「朝鮮人業者が足並みを揃えてストや売止めをしたら」とのコメントは、当時の商社筋の在日韓国朝鮮人業者の見方を端的に示している。日本人業者が足並みを揃えてストや売止めを行う可能性は考慮せず、一方だけの可能性を指摘するのは、公平ではない。

 在日コリアンと鉄スクラップビジネス 

・概説=その後の歴史的な事実が指し示すのは、日本の鉄屑流通を(日本人業者と並んで)全国規模で支えているのは、いまや二世から三世の世代に入った在日韓国・朝鮮人業者であるという現実である(在日韓国朝鮮人の呼称は近年、英語表記を映した「在日コリアン」へ、韓国朝鮮は「コリア」に変わった)。
  たしかに金属屑回収業の創めは、リヤカーひとつで出発した。しかしリヤカーひとつの軽資本で参入でき、あとは自分の才覚だけで取引を拡大できる闊達な自由がこの業には、ある。しかも現金決済でことは終わるから本質的に最も障壁の少ない業である(だから今日、在日コリアン企業家が多い業のひとつとなった(注)。
  (注)在日韓国人会社名鑑(97年度版)や日刊市况通信社調べによれば2013年現在、 関東を除く東北、中部、近畿、中四国、九州など各ブロックの上位には日本人と並んで在日コリアン、若しくはそれに起源を持つ会社がランクされ、指導的な役割を果たしている。

・地価上昇が在日コリアンの「信用」を創造=日本の鉄スクラップビジネスは70年代前後、それまでの肉体作業から機械・設備産業へ大きく転換した。天井走行クレーンと組み合わせた大型電気マグネットが荷捌きを行い、手切りシャー程度から始まった機械切断も今や1,000d圧以上の大型機が一般化し、使用済自動車等を細かく引きちぎるシュレッダー機も登場した。高速道路網の発達に合せて大型トラックやトレーラーでの大量出荷と大規模工場経営が広がった。この機械化の波にいち早く乗ったのが、鉄スクラップ業者として各地で一定の土地と資力を蓄えていた在日コリアンたちだった。
  戦後初期の在日コリアンは、重量の嵩む鉄スクラップの引取りに便利な都市周辺に「職住一体」に近い形で、回収作業場を構えた。経済成長期に入った都市の膨張と急速な土地再開発の波は、かつての周辺部を都心部に呑み込み、それなりの土地を持っていた在日コリアンに思わぬ資金(信用)と経営機会をもたらした。
  世は将に土地神話時代だった。つまり土地の転売や担保提供を通じて審査にうるさい銀行も工場・設備融資には応じる。その転売金や信用でヤード用地と機械を導入し、さらに次の土地(次の担保材料)を買う。ほとんど自力で信用を創造し、ヤード設備の大型化・機械化を実現したのだ。
  勿論、日本人業者もヤードの近代化には精力的に動いていたから、日本人業者と在日コリアンがほぼ同時期、同じような機械化・ヤード化に乗出すことになった。

・「鉄スクラップの特性」と在日コリアン=さらに鉄スクラップの持つ「商品特性」が、いわば根無し草同然だった在日コリアンたちのビジネス拡大に有利に働いた。
@ 鉄スクラップは「産業活動・消費」の「事後生成物」であり、高度に発展した産業・消費国家では、最もありふれた「都市鉱山」で、戦後の回収は自由に任されていた。
A 流通商習慣として現物・現金の即時決済が通常だから換金性は極めて高い。銀行信用も基本的には不要であり、リヤカー一つの軽資本からでも自由に参入できる。
B 基本的に「廃棄物」であるから、時計やTV商品などの「機能性商品」と違い、鉄分・重量評価で価格が決まる(「成分評価商品」)。価格決定が単純で、透明性が高いから、相場に素人であっても参入しやすい。
C 重量評価特性から販売のための外部営業は(たいていは)不要で、在庫・管理コストも極めて安価(錆びても、曲がっても、販売に問題はない)、かつ(量がまとまれば輸送車両がなくても)自社置場でも売れる。
D 数量・ボリュームが価格交渉力を左右する(「多ければ多いほど」プレミアム価格が上乗せできる)。「物のあるところに買い手が寄ってくる」特異な商品・ビジネスである。つまり、流通チャンネルが無くても、鉄スクラップのボリュームさえ確保できれば、そのボリュームの山が営業力を生む。大手商社も、その量に惹(ひ)かれて寄ってくる。それがさらに在日コリアンの存在感を高めるとの連鎖が大きく動き出した。

・製鋼技術と流通組織の歴史的変化=流通の集荷結節点であるヤード業者の段階で全面的な機械化が動き出した同じ70年代、流通の最終点である鉄鋼会社の製鋼法も大きく様変わりした。
  鉄スクラップを大量に必要とする平炉製鋼法(鉄屑製鋼法)替わって、鉄スクラップ装入が原理的にはゼロでも製鋼できる上吹き転炉製鋼が開発(57年、初稼働)され、 60年代を通じて普及(平炉会社だった川鉄、住金、神戸も高炉・転炉製鋼に進出)した。 鉄スクラップ消費の主力は大手高炉から各地の電炉会社に移り変わった。
  この時期、在日韓国朝鮮人が多数を占めると見られた鉄屑連盟を鉄屑カルテル対応組織から放逐することに力を尽くした高炉系の直納業者を中核とする業者団体は存在感を失っていた。転炉製鋼法を採用した高炉各社が鉄スクラップ市場から姿を消した後、電炉会社が鉄スクラップ市場に登場した。この電炉会社は戦前の特殊鋼の流れをくむものと戦後発の伸鉄業の流れをくむものに大別され、さらに鉄スクラップ業者を創業者とするところも少なくない。
  それら各地で新たな拠点を築いた電炉会社は、当然のことながら、地場の鉄スクラップ業者に材料供給を仰ぐ。そこにあるのは経済合理的な選択だけである。

・くず鉄一代記=山口県防府市の梁川鋼材の事実上の創業者である梁川福心(朝鮮名・姜福心)が1989年8月、亡き夫との一代記をおよそ二年の歳月をかけ、まとめた自家本である。
  本書は、在日コリアンの鉄スクラップ史としてだけでなく、日韓併合以来の朝鮮人の生活史、世界の一方を支える女性史としても普遍的な位置を占める内容を備える。全編を貫く端正な文章のもと、口述筆記の闊達さと加筆添削の周到さが軽快かつ的確な叙述に彩りを添える。それ以上に、日本統治下の朝鮮人がなぜ日本に渡来し、戦中・戦後をどのような境遇に生き抜き、在日韓国・朝鮮人として、今日の鉄スクラップ業をどう築き上げてきたのか。その失われかけた輪を、未来に残した希有な証言書である。
  姜福心は日本統治下の1924年、全羅南道珍島の小作農民の男5人、女7人の次女として生まれた。梁福周は1917年、同じ珍島の自作農家の次男として生まれた。珍島の貧しい若者から見れば、まだ見ぬ宗主国日本は黄金の国。福周18歳の35年、「青雲の志を抱いて」渡日。しかし彼を待っていたのは「バカヤロー」の罵声と沖仕や炭鉱堀など人のいやがる肉体労働、東京に出てもボロ買いなどしかありつけない現実だった。
  福心は16歳で、同郷の福周と結婚した。極貧のなか女には読み書きは不要との偏見に抗ってハングルを独学した福心は、日本につながる福周との結婚に日本行きを夢見た。
  39年2月、二人は山口県防府の浜子(はまこ)として3年間働くとの条件で「パスポート」を貰い、渡日した。入浜式の塩田の汐汲み、地均し、塩取り作業は地獄の重労働だった。準戦時下の日本では戦時兵役、徴用で単純重労働は人手不足。その穴埋めだった。が、二人して働いても月給は食うのがやっと。その中から故郷へ仕送りし、腹の空く重労働でヤミ米を買えばあとは一銭も残らない。売れそうな野草を摘み、浜辺で貝を掘って、売ったり食べたり、時には売れ残りのあぶら身を求めて肉屋の門前にたたずんで、飢えをしのいだ。福心の田植えの上手さが、既に戦時体制に入り、働き手を奪われた農家の評判となり、その手助けの米と日当が一家を救った。福心はこれを元手に朝鮮飴を作り、浜子契約が終わった夫・福周は43年、この資金を元手に飯場を作って、土木作業経営に乗り出した。
日本は戦争に負け、祖国は独立した。新国家建設のため人がいる。朝鮮人は皆帰れとの言葉が流れてきた。福周達も家財を整理し、預金をすべて下ろし、まず福周の両親達が家財共々日本を離れた。ただ福周夫婦は雑務のため残留したことが、運命を分けた。飯場経営で蓄えた旧円20万円を持って新円切換(46年2月16日発表、3月3日実施)のため東京に飛び出した福周は、騙されて全資産を失い音信不通。山口に残され、住む家も一銭の金もない福心は3人の子らとの心中を決意した。が、死ぬ気であれば何事にも耐えられるはずだ。開き直った福心はヤミ商売に乗り出し、再び朝鮮飴作りに励んだ。 
  50年5月4日、タイヤ空気の補給で見かけた荷台の大きな荷物が転機となった(福周は戻って来て、中古自転車の改造・販売業を始めていた)。荷物の中味は銅線で、一袋のもうけは3,000円という。福心の飴売りはせいぜい1日350円。夫の同意を取り付けた福心は翌日、市内のバタ屋を回って「よそよりも1貫目1円高く買う」と宣言し、「梁川商店」の看板を掲げた。朝鮮事変がその1月と20日後、勃発。鉄屑は未曾有の高騰を記録する。
  市中取引が軌道に乗ると共に、工場建屋解体の請負工事も始まり、これをきっかっけに鋼材販売分野にも進出した。また鉄屑扱い量の増加から、(出荷に便利な)駅近くの用地を購入。55年株式会社に改組した。が、在日の故の屈辱もあった。取引の過程で詐欺容疑がかかり福周は拘留された(しかし容疑は晴れ、釈放)。近所で盗難があれば、すぐ警察が飛んできた。とにかく怪しいやつは朝鮮人だ、との監視の目が注がれた。
  開業当初、金融機関は相手にしてくれず、近隣の資産家に融資を仰いだ。しかし駅近くの用地買収に当たり、土地を担保に融資を受けたの契機に銀行信用の重い扉をこじ開けた。
  パチンコ業は、駅近くの資材置場の転用としては最適、客さえ来れば日銭が入り手形の心配も無い。が、まず71年、繁華街となった駅近く用地を駐車場に転用し、鉄スクラップ工場は拡張し郊外に移転し、将来に備えた。72年の田中内閣の列島改造論による鋼材・鉄くず価格暴騰と73年のオイルショックによる暴落が、かねてパチンコ開業にかける福心の執念に火をつけた。危機打開は確実に日銭が稼げるパチンコしかない。
  一号店は80年開業し、車時代に対応した郊外型の2号店は82年竣工。アミューズメント時代に乗った。

・日本鉄屑工業会と在日コリアン=鉄スクラップの需給調整を目的とした鉄屑カルテルも歴史的な役割は終わったとして廃止された(74年9月)。鉄屑カルテル終了後、これに替わる新たな鉄スクラップ需給の調整・流通整理の一環として(通産省指導のもと)、鉄屑備蓄を担当する日本鉄屑備蓄協会、機械設備の融資等を担当する回収鉄源利用促進協会と並ぶ供給業者組織として、社団法人格を持つ日本鉄屑工業会が作られた(注)。
  在日コリアンにも新たな時代が始まった。ただ工業会創設に当って当時の在日コリアンが創設準備委員会等に名を列ねたのは関西や九州支部など一部に限られる。
  在日コリアンがビジネスの現場で存在感を示し出すのは、戦後生まれの第二世代が先代から自社経営権を譲り受け(世代交代)、世界のリサイクルが地球環境・資源問題を大きな枠組みとして捉え直した90年代以降(各種リサイクル法など新ビジネスの台頭)、ことに日韓鉄鋼業界が急速に接近した2000年以降である。
  (注)日本鉄屑問屋協会などを改組して75年7月発足した鉄スクラップ業者の全国組織。



 日韓のパートナーとして 

■ニュービジネスのパイオニアとして=90年代以降、世界的な環境問題と資源確保の高まりが追い風となった。日本はEUなどで関心が高まった家電リサイクルや自動車リサイクルにキャッチアップする形で、新規法制の制定に動いた。ただ老廃・発生品である家電や自動車などは、歴史的には鉄スクラップ流通の主流ではなかった。主流は工場発生や機械・建物解体などの重量スクラップだった。解体手間がかかり不純物が多い家電、自動車などは傍流だった。しかし環境問題と資源確保の高まりが、そのイメージを大きく変えた。
  きっかけは地球温暖化防止(92年リオ国際会議)や、限りある資源の有効活用として日本でも00年以降、各種循環ビジネス法が動き出したことだ。
  家電や自動車リサイクル法は、環境・経済の特別法(だから環境省と経産省の共管)として、製造会社に最終リサイクル責任(拡大生産者責任)を課した。しかし、大手家電や自動車メーカーにはリサイクルのノウハウ(技術)がない。そのため技術・経営提携の白羽の矢が、長年の間、実績と信頼を積んできた鉄スクラップ業者に立った。
  とは言え、家電や自動車リサイクルなどは、鉄スクラップ扱いの傍流と見られ、零細と軽んじられていた。その「すき間」に、機を見るに敏な日本人と各地の在日コリアンたちが果敢に挑戦した。新法は厳格なコンプライアンス(法令遵守)が求められた。その法制上の枠組みや大手メーカーと提携・交渉が、リサイクルビジネスに新たな画期をもたらした。単に鉄リサイクルだけではない、地域・行政・メーカーと一体となった新たな総合リサイクルビジネスが、在日コリアンたちを一つの軸に動き出した。
■海外貿易を切り開く=一方、日韓基本条約締結(65年)による借款、技術協力を足場に韓国では70年以降、製鉄事業を国策的に押し進めた。68年には国営企業として浦項製鉄(現POSCO)を設立し、73年7月、慶尚北道浦項での韓国初の高炉火入れを起点にして経済近代化を図った。13年現在、韓国は高炉2社(POSCO、現代)と電炉各社で粗鋼生産6,600万d、世界第6位の大国となった。その鉄スクラップの輸入量は年間900万d台(12年)。日本でも01年以降の鉄スクラップ輸出は600万d台に乗り、日韓双方は輸出入量の半分以上を相互に融通し合う最大のパートナーとなった。
  この日韓両国の鉄スクラップ需給の架橋の一つとなったのが彼等、在日コリアンである。

  その実績と成果として、いまや在日コリアン業者は日本の鉄スクラップ流通を各地で支え、日本発の海外貿易ビジネスの一角を切り開くに至った。