鉄鋼・鉄スクラップ業 主要人物事典

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  • 青柳 菊太郎(あおやぎ)-明治23年・横浜で開業・「青柳一族」の祖
    山梨県市川大門。慶応3年生まれ(昭和13年1月歿・72歳)
     東京の岡田菊治郎と共に当時「鉄屑界の両菊」と称せられた、横浜を代表する業者。その「青柳一族」の開祖(青柳孫一、青柳市三、青柳和平など)。
     明治23年22歳の時、実父が横浜で仕切問屋を経営していた関係で、横浜市住吉町3丁目で銅鉄商青柳商店を開業。大正6年東京本所緑町にシャーリング工場を買収。砂町に青柳鋼材興業を設立。横浜に業界団体「銅鉄交友会」を発起した。
    ▼業績=明治23年、銅鉄商青柳商店を開業後、中国から鉄屑を、香港から鍋屑等を輸入。また英国のクリープランド銑鉄、レッド・カー銑鉄を輸入。釜石の銑鉄も扱った。当時、異例の特別指名から御召艦「じうんけい」の払い下げを受けた。大戦直後は青島で軍命により戦艦「高千穂」(工事中に艦内の戦死者数十名を引き上げた)、郵船の「天洋丸」、英国の「ボ-ヤリング号」等37、8隻の船舶を解体。鉄屑業界の船舶解体業の始祖。「日本鋼管の設立間もない当時より岡田、鈴木徳五郎と共に鉄屑業務に多大な努力を重ねた」。「後進の育成にも意を注ぎ、膝下から著名業界人が排出した」(鉄屑界・第1巻7号)
    ▼青柳 孫市=山梨県出身。明治11年農業古谷作造の四男として生まれる(昭和18年5月没。66歳)。青年時代まで農を専業とした。横浜にでて青柳菊太郎商店に入店。明治35年青柳忠吉の二女と婿養子として結婚。大正2年養父忠吉の死去により家督相続。大正12年関東大震災を機会に銅鉄を専業とし、青柳孫一商店の基礎を作った。昭和初期、シャーリング・プレス機、自動車秤量機を横浜としては業界のトップを切って創設した(鉄屑界・第1巻7号)
    ▼青柳 市三=明治42年3月生。横浜出身。株式会社青柳孫市商店。昭和2年錦城商業学校卒。同年父の経営する青柳孫市商店入社。14年合名会社青柳孫市商店代表社員。18年6月関東金属回収取締役。25年株式会社青柳孫市商店設立(*2020年現在・存続会社はない)。▼昭和18年4月神奈川県金属回収課嘱託、神奈川県金属非常回収工作隊長。19年神奈川県金属決戦回収工作隊長心得(同上)。戦後の業者団体である関東鉄屑懇話会では役員公選(昭和28年10月)となった初代の副会長(徳島会長)。昭和28年12月創設の日本鉄屑連盟の初代副会長の一人である。

  • 浅野 総一郎(あさの そういちろう)-浅野財閥、鉄鋼でも活躍
    浅野財閥の創始者。鉄鋼関係では浅野製鉄所や小倉製鋼所に関与した。
    富山県氷見郡に1848年(嘉永元)に生まれた(1930年没)。1871年単身上京。薪炭・石炭商を経て渋沢栄一の知遇を得てセメント(浅野セメント)、海運(東洋汽船)、鉱山(磐城炭礦)や鉄鋼(浅野小倉)、商社(浅野物産)、電力(関東水力)などに進出し一代で財閥を築き上げた。
    日本鋼管を創設した白石元治郎は総一郎の娘婿。新日本製鉄初代会長の永野重雄は浅野物産入社後、渋沢栄一の息子・正雄の依頼を受け、倒産した富士製鋼の再建に係わった。
    ***
    ▼総一郎は娘婿である白石元治郎が日本鋼管の創業を提案(1911年、明治44)したとき「鉄鋼業の経営は難しい」と支援は拒否したが事業を始めたいとの固い決意を見て株式を引受け発起人に名を列ねた。第1次世界大戦中の1916年(大正5)、横浜の鶴見に造船所を開業(当初は横浜造船、後に浅野造船に改称)し、自社での船舶建造用の鋼材調達を目指して造船所隣地に17年9月、浅野合資会社製鉄所を設置した。必要鋼材を求めてワイヤーロープなどを製作する東京製綱が東京府南葛飾郡大島町に建設した大島製鋼を大川平三郎、大倉喜八郎らと連名で17年8月譲り受け(大川平三郎社長)、同じ東京製綱が設立した小倉製鋼所(16年・25平炉2基)や日本銑鉄(17年・20㌧炉)を18年7月、単独で譲り受け(譲渡価格1,285万円)浅野小倉製鋼所を作った。
    ▼18年11月大戦終了後の造船不況や鋼材価格の急落などから経営整理のため浅野製鉄所は造船所と合併し、休止。東京製綱への支払いは大戦終結後の鉄価暴落などの「事情変更」を理由として215万円で止まり、渋沢栄一の仲裁、再仲裁を経て34年7月に完済するまで実に16年に及んだ。「人これを呼んで『丹那トンネル』と言った」と東京製綱100年史は記している。
    鉄への思いは強く27年6月、浅野造船は鶴見工場に150㌧高炉(浅野銑)を建設し、同年10月には50㌧平炉の操業を開始、銑鋼一貫体制とした。1930年(昭和5)11月没。

  • 鮎川 義介(あゆかわ よしすけ 通称ぎすけ)-可鍛鋳鉄業から日産コンツェルンを興す
     渡米して鋳物技術を習得し、日産コンツェルンを一代で作り上げた。
    長州藩士の子として1880年に生まれた(1967年2月没)。
     母は長州5傑の一人井上馨の姪。東京帝大工科大学機械科を1903年卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で職工となり、日本の鋳物技術が世界に比べ遅れをとっていることに発憤して05年単身渡米。可鍛鋳鉄技術、普及の実情を習得して帰国した。
    ▼日本初の黒心可鍛鋳鉄製造=井上馨ら有力者の援助を得て10年(明治43)戸畑鋳物を設立、12年2月から日本初の黒心可鍛鋳鉄製菅継手の製造販売を開始した。1921年若松にあった帝国鋳物を買収し、23年大阪に木津川製作所を創設、25年(大正14)には安来製鋼所を合併し特殊鋼、鋳鋼分野に進出した(日立金属の源流)。
    ▼日産コンツェルン=久原鉱業の社長に就任(28年)。同社を日本産業と改称し、日産自動車や日立製作所、日産生命などを傘下に擁する日産コンツェルンを築いた。1967年死去。

  • 荒川 文男(あらかわ ふみお)-鹿児島で専用岸壁、総合リサイクル企業を作る(荒川)
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     鹿児島のメタル、故紙、ビン、廃棄物と多岐にわたる総合リサイクル業者である。
    ▼直話によれば=荒川文男は1922年(大正11)生まれ。44年立命館大学専門部卒。同年久保田鉄工所入社。同年12月兵役。兵役後復員し地元・鹿児島の金属回収会社に就職した。
     折からの朝鮮戦争(50年6月~53年7月)で会社は「濡れ手で粟」のボロ儲け。店は毎月300万円(当時)儲け、30人の従業員に100万円渡した残りで同店社長は料亭に通い詰めた。
     戦争が終結し、不景気になった後も社長の遊びは止むことがなかった。
     これを憂いた荒川は熟慮した後、退社し勤務店が扱っていない一升瓶、ビール瓶などの古ビン回収を始めた。54年(昭和29)市内鴨池で古ビン回収の(有)荒川商店を創業した。
     前勤務先が倒産した後、荒川は、義理は果たしたとして八幡製鉄に納入するなど鉄スクラップ経営に本格的に乗り出した。60年宇宿町に専用ヤードを開設。62年プレス機を導入。66年故紙用プレス導入、ビン倉庫建設。68年鉄スクラップから硝子瓶、故紙、非鉄回収を行う(株)荒川商店に改組。73年宇宿町南港に岸壁ヤード(83m、水深4.5m)を開設。77年に本社屋を建設した。
     転機となったのが、86年鹿児島金属加工処理協組の経営立て直しのため、乞われて同協組の理事長に就任したことだ。同協組にはシュレッダー機と専用岸壁がある。この隣地を買入れギロチンを導入し岸壁を延長すれば、画期的な海上玉処理センターが出現し、協組経営も確立するとのプランだ。88年協組・荒川が一体運用するギロチン、シュレッダー、5,000㌧級船舶が接岸可能な専用岸壁(120m)を持つ七ツ島事業所が動き出した。
    ▼ローカルだからフロンテア=ローカルだから「何でも屋」だし、ローカルだから最先端(フロンテア)企業になる。92年一般廃棄物収集運搬業、02年一般廃棄物中間処理業の許可を取得。03年1月産業廃棄物収集運搬業・中間処理業の許可を取得した。
     さらに家電リサイクル法や自動車リサイクル法、廃FRP船適正処理など各種リサイクルに対応して機敏に動いた。01年家電リサイクル法Aグループ指定。鹿児島市委託故紙リサイクル開始。FRP船 (ガラス繊維強化プラスチック)リサイクルがそれである。
     新ビン製造も=当初古びん回収からスタートしたが、その後、新ビン製造に乗りだし、現在では沖縄を含め九州一円へ出荷している。売り先は地元に多い焼酎メーカーや健康酢メーカーなど。古びんでは九州一円の回収業者とタイアップして焼酎メーカーなどに戻している。
     荒川文男は09年1月会長に、荒川直文専務(1955年生まれ)が社長に就任。
    2015年、社名を「株式会社荒川」に変更した。

  • 荒川 洋二(あらかわ ようじ)-地域に根付き「未来への共生を目指す(荒川産業)
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     ルーツは会津喜多方で蚕糸業と古着・古道具屋、いわば田舎の万(よろず)屋。現在は鉄スクラップを中心に多角経営を進め、各種の経営大賞を受賞する百二十年企業である。  荒川重四郎が1893年(明治26)開業した。「蚕糸業」「鉄屑原料部」荒川商店と染め抜いた法被写真も残っている。戦後の54年(昭和29年)、現在の荒川産業㈱に改組した。79年会津若松に進出した。昭和電工・喜多方に50人近い人員を派遣していたが、同社の合理化から派遣先を失い、その受け皿として「会津スクラップセンター」を作った。
    ▼荒川洋二とリサイクルミュージアム「くるりんこ」=荒川洋二は1948年(昭和24)生まれ、山形大学工学部を卒業後、東京で働いたが、郷里に帰り父の会社に入った。社長就任は83年。転機は8年越しに及んだ本社工場の移転計画の挫折にあった。近隣に適地を求めたがことごとく拒否された。移転ではなく現在地で地元から受け入れらる工場を作る。  だから新工場の3階に「小学4年以上に理解でき、主婦にバカにされない」リサイクルミュージアム「くるりんこ」を94年開設した。日本初の試みだった。これが19年9月累計入場者1万5千人を突破。ミュージアムは荒川産業と地域をつなぐ架け橋となった。
    ▼「アマルク」の分かりにくさ=96年開設した。「会津マテリアルリサイクル」の略だが、その分かりにくさが一般の興味を引く(社長)し、荒川産業の縛りを解く。「マテリアルだから鉄スクラップだけでなく二次資源を扱う拡がりが生まれる」(同)。
    ▼その成果=2002年度会津若松市経営品質賞奨励賞受賞。07年度会津若松市 経営品質大賞受賞。10年10月第9回会津若松市環境大賞 環境賞受賞。12年3月IT経営実践企業認定(経済産業省主催)。15年11月福島同友会・環境経営大賞・受賞。
    ▼荒川健吉(14年9月社長就任)=地元の資源を発見し、磨き上げて世の中へ送り出す「地域資源発掘業」と、地元の課題解決策を探し出し、地域に暮らすお客様に提供する「地域課題解決業」です。この2つの事業が私たち荒川産業グループのミッションです(㏋挨拶)。

  • 安東 国善、元吉(あんどう)-東北6県に拠点に事業を拡大する(青南商事)
    青森県弘前市 ホームページはこちら
     1955年(昭和30)青森県弘前市大町で安東商会を開業したのに始まる。
    ▼18年・ネット関連資料によれば=「自前の焼却炉を持つ鉄の総合リサイクル事業者で、東北6県に拠点を置き、広域のビジネスを展開している。鉄・非鉄金属のリサイクル、自動車リサイクル、サーマルリサイクル、容器包装プラスチックリサイクル、小型家電リサイクル、廃棄物最終リサイクルと幅が広い。グループ全体の従業員数は約600人で、売上高は215億円におよぶ。現在の経営者は3代目に当たるという。初代は青森にやってきたものの職がないので、リヤカーを引いて屑鉄を集めることからはじめた。その後、安東商会を設立、スクラップを事業化した。やがて青函トンネルの工事など高度経済成長期にともなって鉄需要が高まり、事業が劇的に拡大した。1972年に、株式会社青南商事を設立した」という。(「静脈産業」を支える在日韓国人の体系的調査をスタート
    ▼安東国善=シュレッダー、ギロチンなど大型処理プラントとASR処理・管理型処分場を一体とした東北屈指の青南商事の現在を作り上げたのは、72年に株式会社に改組し現社名の制定とともに社長に就任した安東国善(1945年生れ。10年3月会長)である。
    ▼同社㏋によれば=14年10月16日、韓国資源リサイクリング学会から安東国善に最高栄誉賞の柱岩賞が授与された。在日韓国人として1972年青南商事を設立し、40年以上にわたってリサイクル産業発展に寄与したこと、また韓国において外国人留学生奨学金を設立し、リサイクル分野の人材育成、韓国資源リサイクリング学会の運営並びに諸活動に多大な支援を行ったことが評価された。
    ▼安東元吉=96年早稲田大学政経卒。10年3月、社長に就任した。
    ***
    ▼事業展開(㏋)=72年(昭和47)、個人商店(安東商会)から株式会社青南商事に改組・改名。73年浪岡工場(青森)開設を皮切りに77年には県外の秋田に支店を、80年本社・工場を弘前市和徳に移転して地盤を固めた後、81年八戸、86年盛岡(岩手)、87年仙台(宮城)、96年郡山(福島)、04年矢巾(岩手)、05年酒田(山形)と東北6県に拠点を配置し各県内に工場網を広げた。注目すべきは、大型処理機であるシュレッダーとギロチンの重装備工場を各県支店に投入しASR(自動車シュレッダーダスト)や産廃物の溶融処理に注力。青森RER(18年青南RERに改称)、ガス化溶融発電施設等を建設。産業廃棄物管理型最終処分場の運営に乗りだし、いち早く環境ISOの認証を取得。リサイクル法施行に備えたことだ。
    ▼輸出体制=電炉企業が少ない東北の需給ギャップ打開のため1990年代から韓国や中国、東南アジア向け1隻3~6千㌧の単独輸出を開始し大型船での輸出時代に備えた。
    ▼編者注記=青森は都市鉱山である鉄スクラップの大量発生地ではない。しかし弘前ならば一定の鉄スクラップ回収と経営はできる。あとは工夫と才覚、目標である。海浜山村でも、一定割合で必ず廃車は出てくる。72年個人商店を株式会社に改組し、社名を青南商事に改め、自動車解体(シュレダープラント)を見据えた安東国善の業績は、目を見張るものがある。さらに企業目標をやがてやって来る世界ニーズ(環境保全リサイクル・持続可能な経済発展)を視野に企業規模を拡大、深化(総合リサイクル)させ、今日を作った。大きく望めば、大きく叶う。その実例である。

  • 飯島 吉蔵(いいじま)-鈴木徳五郎商店(鈴徳)出身の戦中の重鎮
    明治27年生。神奈川県出身。大正6年鈴木徳五郎商店入店(当時25歳)。昭和2年株式会社に改組し取締役に就任。戦中は金属回収団の設置にあたり隊長就任のため辞任(東京古鉄商業協同組合理事長。指定商東部協調会理事長。愛知県金属回収株式会社社長。神奈川県金属回収株式会社社長)。戦後23年飯島金属工業を創設。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 伊久美 甲子郎(いくみ こうしろう)-鈴木徳五郎商店出身、当時の証言を残した
    ▼鉄屑界・第2巻7号によれば=明治44年5月生まれ、静岡県藤枝出身。東京保善商業学校卒。大正15年鈴木徳五郎商店に入社(15歳)、昭和9年11月開業独立。26年株式会社に改組。
    ▼その回顧談=「昭和の初期では、国内の鉄屑は微々たるもので鉄自体が全くの貴重品でしたし、鉄屑も貴重品でした。ですから鉄屑だけの専業問屋は成り立ちませんので、大問屋は明治から大正を通じ鉄屑だけでなく荒材といわれる鋼材など色々なものを扱いながら成長し、鈴徳は昭和初期には鉄屑専業問屋となりました」。「昭和9年、私(伊久美)は弟と二人で、現在地で鉄屑専業者として独立しました。当時は金物屋とか古物商として非鉄や古物を扱う人はかなりいましたが、鉄屑専業はさほどいません。集荷した物を本所の問屋に持込むというのが普通でした。德島商店の分店が中仙道の荷を集めるために戸田橋の手前にあり、そこにプレス機がありました」。
     当時、日本鋼管の原料倉庫へ行くと入荷実績が書いてありました。直納は鈴徳、岡田商事で両社合わせ27年(昭和2)ごろは大体千トン前後。私が入社した当時の鈴徳の入荷は1日二~三千貫目、約10㌧でした。それでメシが食えたわけです」。
     日本鋼管への納入は側線を利用した貨車と船便。トラックが普及していないので牛・馬車が中心です。問屋は船で運ぶか、地方荷は貨車で送ったものです。地方の問屋は駅の近くに、東京では川沿いにありました。ですから東京では竪川沿いに軒を並べていました」。大手では戦前を通じて鈴徳商店、岡田商事、德島商店、西商事の四軒が一流問屋。次のランクとしては(堅川の)三の橋に井口さん、外山さん、四の橋に伊藤寅松さん、渡貫さん、五の橋に鈴佐さんがいました。そして月島に安藤商店、城北では三河島に鴻巣さん、日暮里に大場さん、幡ヶ谷に福西さん。京浜地区では古い店は布施商店、小林さん、高関さんなどがおられました」
    「昭和13年になると鉄くずが統制され、その後10年近く統制時代を迎えたのです。私は鉄くず業の暗黒時代だと思っています。問屋の社長は統制会社の役員になり(昭和18年)個々の問屋はなくなり、問屋業務は統制会社が行い、社長は月給とりになった。末端の集荷業者の商売はそのままできたのですが問屋業はなくなったのですから、問屋のプレスなども撤去して、鉄屑業の営業は空白となってしまったのです」(日刊市况通信。昭和50年8月特集)。
    ▼業界の語り部として=「岡田と鈴徳」(鉄屑ニュース69号)などの証言を残した。

  • 池谷 太郎(いけたに たろう)-独立系の雄、東京製鉄を育てる
     戦後、岡田菊治郎から継承した東京製鉄を、日本を代表する電炉メーカーの一つに育てた。
    1917年東京に生まれた(2006年3月没)。群れに投じない気骨の経営者として知られた。
    ▼池谷正一=曽祖父は浜松近郷の有力な鍛冶屋で弘化年代の初め、幕命で当時の新兵器大砲を極秘に鋳造した。婿に入った祖父は生来の好人物で、他人の保証をしたり口車に乗ったりして失敗。広大な土地、家屋を失った。その次男である父・正一が浜松から上京し、妹婿の弟にあたる岡田菊治郎の岡田商店に住み込み鉄スクラップ業で商才を伸ばし、大正元年に本所区柳島に池谷正一商店を開業した。「岡田さんに育てられただけに人の心をつかむ妙を得、商売の真髄を発揮した。健康さえ許せば岡田さんに劣らぬ成功をしたことも考えられる」(63年・現代人物論)。
    ▼池谷太郎=池谷太郎は1917年(大正6)8月、池谷正一の次男として生まれた(長男は夭折)。太郎は、柳島小学校、日大付属中学通学の傍ら数十人の店員に混じって荷を積み卸し、入札に出かけて大の男を相手に粘り抜いた。その逞しさを見た正一は中学卒業と同時に太郎に店を引き継がせ、市川に引っ込み、再び店には顔を出さなかったと伝えられる(63年・現代人物論)。
     池谷正一商店は業界の上位クラスで鉄スクラップ業に兼ねてパイプの切断加工を手がけるため39年(昭和14年)東亜鋼管工業を設立した。戦時体制が強化され輸入パイプが途絶し、企業整備令のもと日本鋼管が50%の出資をすることになるが、池谷は専務取締役工場長として実質的に会社の経営を続けた。戦後、工場は米軍に接収され、池谷は鉄スクラップ業に復帰した(28歳)。
     ***
     東京製鉄は戦後、戦時賠償の指定工場となったが、対日政策の変更から49年5月、指定は解除された。「東鉄の千住は、ピークは平炉3基ですが、この時は2基。ところが平炉は(賠償解除後)すぐには動かず、まず稼働したのが5㌧電炉。これを動かしているうちに、登場したのが岡田の縁者である若い池谷です。というのは岡田さんも年配になってきたほか、アカハタの本拠地みたいになった工場は労働争議ばかり、すっかり意欲を失った」。「(それで東亜鋼管工業のほかに)製鋼もやってみたいという池谷さんに白羽の矢が立った。千住工場はすべて岡田さんのものでしたが、分割して東鉄と岡田さんになりました」(日刊市况通信社45周年記念・96年10月8p・尾関精孝氏談)。
    ▼業界の異端児として=池谷は、会社経営でも独自の路線を貫いた。鉄屑で製鋼する平炉製鋼が全盛だった戦後、高炉を中心に平炉各社も「鉄屑価格の低位安定」を目指して鉄屑カルテル結成に動いた。平炉会社の東鉄も55年4月の第1回鉄屑カルテル認可18社の一員として共同行為に参加した。ただ当初のカルテルは非参加会社(アウトサイダー)との鉄屑買付競争に巻き込まれ、始動後半年で運用停止(10月)に追い込まれるなど多難を極めた。その打開策として56年9月、国(通産省)と大手高炉は第4回カルテルの認可に当たり、非参加会社をカルテル内に取り込み(3カルテル結成)、カルテル初期の障害を取り除いた。ただ鉄屑価格の安定と同様に「鉄鋼価格の安定」は、鉄鋼各社の共同行為を必要とする。そこで国と鉄鋼大手は、稲山試案を叩き台に鉄鋼販売を行政指導で行う事実上の「製品カルテル」を目指した(58年6月)。これが鉄鋼公開販売(公販)で、平炉18社を含む32社が結集した。また鉄鋼公販に合わせて鉄屑カルテル非参加会社も続々と結集し、全国5カルテル体制が確立した(58年8月、9月)。が、この時、東鉄は稲山が音頭をとった鉄鋼公開販売には加わらず、全国の平電炉が製品カルテルと一体をなすものとして鉄屑カルテルに雪崩をうって加盟するなか、逆に第1回以来の鉄屑カルテルから脱退した。58年9月のことである(その製品カルテルが公取の強い疑義を避けるため70年から運用を停止した。その年の3月、八幡と富士が合併して新日鉄が誕生し、東京製鉄は同年7月、鉄屑カルテルに復帰した)。
    ▼岡山に工場建設=60年、池谷は岡山県倉敷市に用地を取得し、平炉の新工場建設に動いた。拡大策がうまくいくのか。銀行筋は貸し付けリスクを恐れた。
     池谷太郎の妻の兄(義理の兄弟)である尾関精孝の証言によれば「川鉄・西山と日銀・一万田のペンペン草論争は有名ですが、同様の話が池谷の岡山工場開設でも銀行サイドでささやかれた」(日刊市况通信社・96年10月)。鉄鋼公販にも、鉄鋼連盟にも加わらない東鉄は業界の異端児だった。万が一のリスクに対して政府・鉄鋼業界の支援など期待できない。それが岡山に巨大工場を建設するという。銀行はペンペン草を恐れた。しかし「(岡山工場の)所要資金四十億円のうち三十億円を自己資金で建設、世間をアッといわせた」(63年、現代人物論)。
     以下は尾関精孝の証言である。「景気が悪かった時代に、池谷は岡山の土地を売ろうとした。ところが不況で誰も買ってくれない。商社に株を持ってもらった。これを大幅に増資しようとしたが、どこも断られた」「これも良かった。株主比率が変わらなかったから、自由自在に動ける余地が残った」「(池谷は)日本で最後まで平炉を使い続けた。平炉への固執は相当なもので米国輸入も(自動車をそのままプレスした)№2バンドル、国内でもプレスオンリーだった」「(平炉から電炉に転換するにしても)一挙に走らない。先ず土佐電・高知を買収(69年)し、ここで電炉を経験し、この感触を持って東鉄全体の電炉化を進めて行った」「また銑鉄の入手を特定のメーカーに依存しなかった。大手高炉に100%依存すれば、銑鉄供給を止められると操業は止まる。銑鉄による系列化を避け、ほとんど海外から輸入した」。
     池谷は62年10月100㌧平炉の操業を開始した。ただ前年から始まった第3次鉄鋼合理化(近代化)では転炉の建設が31基計画されたが、平炉建設はほぼ消えた。住金などの新参高炉(旧平炉)各社も一斉に平炉を廃却して転炉に切り替え、容量も2倍以上へと大型化した。そのなかの東鉄の平炉建設(60年7月)であり、操業開始だった。その後に平炉を新設したのは大谷、中山の2社に過ぎない。銀行が融資を躊躇するのも、もっともだったろう。
     池谷は平炉製鋼にこだわったが、それでも土佐電気製鋼・高知工場を買収(69年2月。75年高松工場も完全買収)し、北九州の大丸製鋼の全株を取得して(69年7月)、電炉製鋼技術を習得した。その子正成(75年社長就任)は77年12月、日本で最後まで残った平炉を廃却し、78年4月140㌧電炉2基で新体制に入った(日本での平炉操業終わりと新電炉時代)。

  • 池谷 正成(いけたに まさなり)-親子二代にわたる反骨の精神
    1945年8月、池谷太郎の長男として東京に生まれた。母は尾関精孝の妹である。
     68年慶応大学商学部卒業後、東京製鉄に入社、米ルリアブラザーズに出向。69年土佐電気製鋼所に入社(70年同社社長)。75年同社の合併に伴い東鉄社長に就任。池谷正成も父・太郞と同様に、鉄鋼販売商売をしばるカルテル的行動を嫌った。その独自路線が国策と真っ正面から激突した。
    ▼小棒組合のアウト規制と憲法論争=77年8月、国は構造不況のなか電炉救済対策として中小企業団体法(中団法)に基づく商工組合として「全国小形棒鋼工業組合(小棒組合)」を認可した。同法では、組合は一定の手続きを踏めば員外者(アウトサイダー)に対し組合への強制加入、事業活動規制、設備制限などの大臣命令が発動できる(アウト規制)。鉄屑カルテルは74年廃止されたが、アウトへの規制は、アウト対策に苦しんだ旧カルテルよりはるかに広範かつ強力である。アウト会社は東京製鉄、東洋製鋼、伊藤製鉄、三興製鋼、向山工場など12社。
     国は10月小棒組合申請の数量・価格、不況カルテルを認可した。東京製鉄などアウト各社は、組合によるアウト規制は憲法違反であると抗弁したが、一定の手続きを踏んだ国は、アウトメーカー各社にも生産割当を指示し、アウト12社に対する直接監視に乗り出した。
    ▼H形戦争=82年8月、東鉄は大型H形鋼分野への進出を発表した。84年4月の稼働を目標に九州工場にH形鋼ミルを建設するもので、完成すればH形鋼生産は新日鉄を抜いてトップになると予想された。同時期、東伸製鋼が日本鋼管からの委託圧延の形で増産を開始した。
     これを機にH形鋼のシェア争いが本格化し、「後仕切り」による販売・シェア争いのなかで82年10月からわずか3ヶ月の間に相場は七万三千円から五万五千円まで暴落。H形のドロ沼化は他の商品にも波及した。この結果、新日鉄をリーダーとする「高炉協調体制」は崩壊した。
     83年2月、採算割れに陥った高炉・電炉各社が「後仕切り」を廃したことから、第1次H形戦争は終わった。ただ同じ82年8月、新日鉄は74年の中止以来8年ぶりに、全国7製鉄所で市中鉄屑の購入再開を発表した。業界ではH形戦争の鉄屑版との見方が専らだった。
     東鉄・九州の大型H形鋼ミルが稼働した84年5月、第2次H形戦争が再び始まった。直後の6月、新日鉄は大分などで鉄屑増量買いを発表し、製品から原料全般に及ぶ全面抗争の様相を見せた。前回(82年9月~83年2月)の経験から長期化を懸念した流通業界から安値自粛ムードが生まれ、東鉄も9月積み販売価格の引上げと減産を発表。紛争は短期で決着した。
    ▼独立系電炉で世界第3位=世界的な鉄鋼集中が進み、日本でも12年以降、高炉会社は事実上新日鉄住金系とJFE系の2系統に絞られた。国内電炉が高炉系統傘下に組み込まれるなか、電炉としては日本最大、世界でも第3位に位置する東鉄は、高炉各社と距離を置き、独立経営に徹した。群れず雷同せずとの独自の経営方針のもと原料鉄スクラップ購入価格もHPで公開するから日本発の鉄鋼会社買付価格として、国内外の関係者が注目するところとなった。
    ▼社長職は次代に譲る=池谷商店を創業した池谷正一は、息子・太郞の商売人としての逞しさを見て、太郞が旧制中学を卒業すると同時に家業を継がせ、再び店に顔を出すことはなかった。
     東鉄を継いだ池谷太郞は75年、社員定年と同じ57歳で、30歳の正成に社長職を譲り、代表権のない会長に退いた(88年には70歳で相談役に就任。06年死去・享年88)。
     その父の後を承けた池谷正成も06年60歳で、岡山工場長・西本利一45歳に社長職を譲り、代表権のない相談役に退いた。西本は創業一族である池谷家以外の初の社長登用である。

  • 石井 正勇、浩道親子(いしい)-ポンコツ屋から日本最大級の専門企業へ(エコアール)
    栃木県足利市 ホームページはこちら
     阿川弘之の小説「ぽんこつ」に感動した父親(石井義幸)が息子に呼びかけた「ポンコツ屋でも始めたらどうか」との一言から石井正勇と同社の歴史が始まる。
    ▼石井 正勇=足利市で1964年(昭和39)石井自動車解体を開業(当時22歳)し、石井自動車解体(有)を66年設立。74年イシイカー工業(有)に社名を変更した。83年には創設して間もないビッグ・ウエーブグループに参加。全国ネットでの部品販売に乗り出した。
    ▼「イシイカー工業」から「エコアール」へ=89年全天候型ELV処理工場を開設。2003年自動車解体企業としては初となる環境ISOと品質ISOを同時取得。05年12月市の道路拡張工事に伴い工業団地内に移転。単一工場としては日本最大級(敷地総面積3万5千平米、工場建屋面積1万平米。3万点以上の収容可能な立体自動倉庫)の最新鋭工場を建設。これを機に06年5月社名を(株)エコアール(ECO―R)に改めた。また正勇が会長に、息子の浩道が社長に就任した。
    ▼石井浩道=1971年に生まれた。高校を卒業後、単身渡米。留学生活の傍ら当時日本の若者に人気だったビンテージジーンズなどの古着やハーレーダビッドソンを買い付け(日本に送り)学資の足しとした(ここで外国人との交渉のテクニックやバイヤー精神を培った)。93年帰国した。
     が、バブル破裂後の日本の廃車は「逆有償」の真っ只中。浩道は単身、アジア、オセアニア等に渡り、現地の銀行に飛び込んで地元有力中古業者をハンティングし、海外貿易の販路を開拓。世界50ヵ国以上と直接貿易への道を開いた(06年6月、日刊市况通信)。

  • 石川 豊吉(いしかわ とよきち)-鉄屑連盟会長、問屋協会設立の立役者(石川鋼業)
     大正9年に業界に入り腕一本で叩き上げた業界のキーマンのひとりである。
    明治34年1月生まれ(昭和57年2月没)。青森県出身。大正6年下関商業卒。大正9年貿易商・川原商店に入社(大阪市北区・金物部配属)。大正15年同社解散により退社。昭和2年本所区亀沢町および堅川二丁目で鉄商を開業。13年富士鋳造を創設、14年富士産業株式会社を創設。16年千住ラス製作所を創設(19年閉鎖)。19年石川商店を富士産業に吸収(鉄屑界・第2巻7号)。
     昭和28年の日本鉄屑連盟結成には関東鉄屑懇話会員として参加。30年4月カルテル認可後、鉄屑連盟の執行部は直納業者団体・巴会に乗っ取られた(5月)が、価格交渉の責任を取って巴会系が鉄屑連盟から集団脱退し、再び関東懇話会系が指導権を奪回したときの懇話系の筆頭副会長。
    ▼鉄くずカルテル十年史。石川豊吉「回顧」=昭和32年8月石川は鉄屑連盟会長として、直納団体・巴会、鉄鋼側の3者三つ巴の価格交渉にのぞんだ(*カルテル7月価格は2万7千円だったが、米国輸入屑の大量入着とメーカーの荷止めなどから市中実勢は2万3千円台まで落ちた)。
     メーカー側の主張は8月度2万円、巴会、八日会はこれに同調したが、私は鉄屑連盟会長として全国理事会の結論である2万3千円を主張したため、価格決定には至らず、向こう1週間の検討期間を置いた。その後、東京幹部は会合を重ね、検討したが2万円は余りに安すぎるとの意見が強く「私的には日本鋼管の問屋としてメーカーの意向を充分尊重する立場にあり公私の矛盾を苦慮しながら」2万3千円を掲げて1週間の会合に出席した。しかし、そこでも結論はでず「双方の平行線を打開するためカルテル局長と石川会長のトップ会談に一任しては如何との動議が出され、互いに譲り合って結局21,500円で折れ合った」。
    ▼日本鉄屑問屋協会では=石川は昭和33年8月、鉄屑連盟会長を降りた。鉄屑連盟に代わる独自の組織作りに動いた松島によると、この前後「関東において新たに石川豊吉氏提唱の『鉄屑問屋組合』の設立機運が生まれ、私の提唱する『鉄屑協会』と競合する情勢となった。石川氏と懇談したところ、石川氏の動きは鋼管安田部長の御意向もあることが明らかとなり、一致して全国直納問屋の新団体を設立する方針を定め」「名称も私の提唱した鉄屑協会、石川氏提唱の問屋組合の双方を勘案し問屋協会」と、33年11月設立された(鉄くずカルテル十年史。松島 政太郎「回顧」)。
    ▼日本鉄屑協議会では=日本鉄屑問屋協会に続いて昭和34年6月、同協会及びその所属団体(全国6区)の他、BCDEカルテルの対応団体ならびに中間業者団体を含めた「日本鉄屑協議会(松島政太郎会長)」が設立された。石川によれば関東のABD問協の首脳が相談を重ね、特にD問協会長の伊藤信司が音頭をとって中間業者団体の東京鉄屑商工業協同組合、神奈川県金属商工業協同組合及び末端業者団体の関東資源協同組合連合会など各団体に加入を呼掛け、関東ABD問協を含めて関東鉄源協議会を立ち上げた。Aカル問協会長の石川豊吉が同協議会長に就任。松島日本問協会長と相談し全国各問協及び中間、末端を含めた組織として結成した(前出・石川豊吉「回顧」)。
    ▼63年版・現代人物論によれば=「富士産業時代(社員約120名)、間口を広げ過ぎて行き詰まり、鋼管の援助で命拾いした。当時の電炉建設の夢が自己の能力を超えていたとハッキリと言ってのける」「問屋協会はカルテルに協力と会員の利益代弁を運営の趣旨とし、従来カルテルに協力してきたが、恥ずかしながら会員に利益代弁は不充分であったと率直に認め、今後は幹部に任ずる間はカルテルにも働きかけると意欲は強い」。
    ▼昭和53年春(1978)勲五等瑞宝章授与。▼昭和57年2月15日死去・従六位叙位

  • 伊藤 小太郎(いとうこたろ)-明治31年、独立し横浜で古鉄商を開業
     三重県出身(昭和17年11月没。66歳)。明治21年横浜市扇町の古鉄商三河屋商店の店員として住み込み、10年の年期を終了し明治31年横浜市扇町に古鉄商を開業。大正元年ごろから新鉄の取り扱いを開始。昭和5年ごろから貿易にも力を尽くした。(鉄屑界・第1巻7号)。

  • 伊藤 市平(いとういちへい)-戦中・戦後の鉄屑統制・回収に従事
     静岡県出身。明治33年生。明治45年青柳菊太郎商店に入店。大正14年26歳で横浜市西区扇田町に営業所を設け銅鉄商を開業。昭和18年企業整備により神奈川県金属回収統制会社神奈川県主事に就任。19年金属回収工作隊神奈川県副隊長。22年(物価統制令による)神奈川県鉄鋼価格査定委員。23年伊藤金属興業㈱設立。(鉄屑界・第1巻7号)。
     日本鉄屑連盟には関東鉄屑懇話会員として参加。昭和31年9月直納業者団体・巴会とは決定的に決別した新執行部(近藤正二会長)の副会長の一人(他に平石慶三、松本裕夫など)。
    「競馬にこったときは馬6頭と騎手4人を抱えるなど常人には真似のできないことをやってのけた」「戦前から業界のまとめ役としては無くてはならぬ存在で、特に戦後は県下金属原料商協組理事長、鉄屑連盟副会長を歴任した」(63年・現代人物論)

  • 伊藤 寅松(いとう とらまつ)-食い詰め者から身を興した男(伊藤一族の開祖)
     明治期の鉄くず商売開業の典型である。その粒粒辛苦の末に伊藤一族の姿があった。寅松の子が業界の大参謀となった伊藤信司であり、伊藤製鉄を作った伊藤三好である。 伊藤家の鉄屑商売は、食いつめた末、本所・深川に逃げ込んだ父・伊藤寅松に始まった。
    ***
    ▼猿江裏町に逃げ込む=寅松は千葉県香取郡に1877年(明治10)に生まれた(41年3月没)。若くして東京に上り日本橋で米相場を張り小金を蓄えたが1901年(明治43)の関東大水害が、米相場と寅松の運命を狂わせ、丸裸となった。寅松30歳、既に子供も二人いた。寅松は米相場から足を洗い、わずかな日銭を稼ぎでしのいだ。そんなある日、紙屑買いとなっていた同郷者から声がかかった。これなら、これ以上落ちることもない。寅松は日本橋から竪川沿いそばの深川区猿江裏町に移った。時に1913年(大正2)である。そこは鉄工場や鋳物工場と住民長屋が雑居する食い詰め者の吹き溜まりの町だった。目の前に竪川が流れ、大小の鉄屑業者が河岸に向かって軒を連ねる。寅松も、まずクズかごを背負って歩き、ついで大八車(木製の人力荷車)を手に入れて、くずを買い集め、紙くず、ぼろきれ、ビン、鉄くずと仕分けしては、近くの問屋に持ち込んだ。
    ▼赤貧洗うがごとく=寅松は目端が利いた。商いも屑屋から銅鉄回収を専門とするようになった。しかし親子が住む家や仕分け小屋の建設など、入るよりも出る金が多かった。猿江裏町に移ってからも子供は次々に生まれた。貧乏人の子沢山。その日の暮らしに追われる毎日が続いた。その子らは月謝免除、昼の弁当も無償の貧困家庭のための特殊学校に通った(伊藤信司、三好の項)。
     また猿江裏町は、本所・深川地区でも典型的な貧民街。東京市内でも最も地代が安いことでも知られた最貧民地の一つだった。貧乏人の流入者が多いから賃金は安くても、雇えば喜んで働く。その竪川筋には岡田菊治郎、鈴木徳五郎、德島佐太郎ら有数の鉄屑業者が出揃っていた。
    ▼関東大震災が転機=その本所・深川に23年(大正12)関東大震災が直撃した。木造住宅がほとんどだった本所・深川は勿論、鉄筋ビルが偉容を誇った川向こうの日本橋、浅草一面も壊滅した。崩れ落ちた瓦礫が道を塞ぎ、焼け残った鉄屑が散乱していた。
     竪川筋の業者は、一斉に鉄屑集荷に走った。寅松も、その端くれとして、勢いを得たコマとなって走り回った。寅松もリヤカーに、集め回った鉄屑を山のように積み上げ、大手問屋に運び込んだ。復興景気を見越した大手問屋も懸命だった。寅松の軒先にも大手問屋が(当時珍しかった)自動車で直接引取に来たほどだ。これが寅松の店と日々の暮らしを一変させた。寅松は震災わずか1年足らずで、焼け落ちた自宅と店を大きく建て替え、晴れて伊藤商店の看板を出した。
     「たとえ乞食になっても頭になることだ」との信念から「鶏口となるも牛後となる勿れ」との戒めを子に語ってやまなかった。だから鉄屑業に入っても相場師的商魂を発揮し、鉄屑の小買いから晴れて鉄屑仲買人として、工場や役所の入札などに参加できるようになった。
    丁稚・従業員を雇うようにもなった。ただ、時にこれが過信につながった。大正末・昭和初めの不況のさなか、鉄屑を直納していた製鋼所が破産し、大量の手形を抱いていた寅松の店も連鎖破産の危機に瀕した。番頭や大きくなっていて子供達は、黙ってはいなかった。が、寅松は「一生懸命働いて取り返せばいい、人を騙すより騙される方がましだ。倒された竹は起きるが、倒した雪は消えて跡形もない」と、さっぱりと言い切り、金策に走ったと言う。

  • 伊藤 信司(いとう のぶじ)*詳説-戦前、戦後の業界動向を決定づけた大参謀
     戦前最年少で東京区会、府会議員に当選し、翼賛選挙では非推薦で落選。戦前の日本鉄屑統制会社、戦後の日本鉄屑連盟、日本鉄屑協議会、日本鉄屑工業会など、その節目に立ち会い、政府、鉄鋼メーカー、業者に対し、常に大所高所から緻密な論理で局面打開を決定づけた鉄屑業界を代表する大参謀である。伊藤寅松は父。伊藤製鉄を創設した伊藤三好は実弟。
    ***
    ▼信司、その独立まで=東京日本橋に1911年(明治44)に生まれた(96年2月没。享年85)。
    父は伊藤寅松商店を創業した寅松。信司は次男。伊藤は「赤貧洗うがごとしの状況だったから、口減らしを兼ねて小学4年の時、身売り同然で奉公にだされ、小学6年からは本所の貧民児童の特殊学校である三笠小学校に、毎晩6時から9時までの夜学に通った」(1981年日刊市況夏季特集号)。夜間小学校卒業後、本所の金属玩具屋に奉公に出た(鉄屑業には将来性はない、というのが母親の見方だった)。店主から漢文や琵琶を学び5年間働いた。27年ごろになると震災復興景気で、貧乏だった父寅松の店も大きくなり、若い衆を入れて商売を広げるようになった。そこで金属玩具屋からヒマをもらって深川に帰った。31年徴兵で陸軍に行き、朝鮮の豆満国境警備兵となった。満州事変が勃発したが、伊藤は凍傷治療のため内地送還、32年現役免除で除隊した。
    ▼35年・愛国革新聯盟を結成=除隊した伊藤は、横浜鶴見区に寅松の看板を借りて店を出し、鉄屑商売の傍ら右翼団体を立ち上げ、政治活動に乗り出した。本籍地ではない横浜での政治活動は不利と見て35年、店を深川に移して伊藤信司商店を設立。昼は鉄屋をやり、夜は政治活動に精をだした。ただ右翼活動に関する記録は戦犯追及を恐れた伊藤が戦後処分したため存在しない。
     伊藤の行動が、憲兵極秘資料に登場するのは、35年(昭和10)以降で、美濃部達吉の天皇機関説に関し「機関説勦滅を奉じない政府は総辞職すべき」との弾劾文要約が初めである(憲兵司令部極秘資料・「思想彙報」)。また伊藤自身が記した経歴によれば35年革新新聞社創立社長とあるから、この前後から、政党活動を活発化させたと見られる。
     退役砲兵大佐橋本欣五郎が、国家革新を唱えて結成した「大日本青年党」(36年10月)の活動に関連して、愛国革新聯盟と伊藤信司の名前が登場する。橋本は2・26事件(36年)の事後関与者として粛正人事(8月)で退役。直後に新党を結成。これに呼応して伊藤らの既成右翼団体も動いた。憲兵資料によれば、「愛国革新聯盟、勤労日本党など12団体は同年(36年)10月15日、江東懇話会を結成。愛国革新聯盟会長の伊藤信司(江東懇話会副委員長)を正式党員として入党させた」とある。とすれば伊藤は、日本右翼史のなかでも数々のエピソードを残した大日本青年党の最初期の党員の一人である。右翼資料によれば日本青年党を中核に大同団結を期待した右翼団体も、日本青年党の厳選主義と内部抗争に失望した。一旦はその傘下に馳せ参じた伊藤らの愛国革新聯盟も翌年7月、新たに「日本革新党」を結成し、大日本青年党とは袂を分かった。
    ▼37年・深川区会議員、40年・東京府会議員=江東区選挙管理委員会資料によれば、37年(昭和12)26歳で深川区会議員に、40年(昭和15)30歳で東京府会議員に、いずれも史上最年少議員として当選した(府会議員の同期が、のちに大蔵大臣になった小笠原三九郎、浅沼稲次郎社会党委員長ら)。東京府会議員選挙は40年6月10日。伊藤は日本革新党員として当選したが、その日本革新党は内部対立と「新体制」運動に呼応して解散(7月1日)し、伊藤はよるべき政治的な足場を失った(右翼年表には「伊藤信司らが興亜倶楽部を結成」とあるが、以後の記載はない)。その後の伊藤の行動の記録は、憲兵や右翼資料に替わって、鉄屑業界資料に現れる。
    ▼38年・鉄屑統制会社と伊藤信司=鉄屑統制会社の設立は38年10月だが、鉄屑統制そのものは前年の37年7月、日中両軍の衝突を発火点とした。戦争と言えば鉄である。だから鉄屑の回収統制である。以下は伊藤の「業者が見た鉄屑の統制問題をいかに見るか」(39年、非売品)による。
    鉄屑統制会社設立の機運は、37年秋ごろから高まった。商工省の意向は、官治統制と自治統制の折衷として「集荷力のある18店をして民間会社の様なものを造らしめ、それに当局が発言権を持ち、依願任免式の人事で運用の官僚化」を狙って「秘密裏に事を運んだ」。月間1000㌧以上の少数の有力業者を中心に統制し、それ以下の業者を支配下に置く、というものだった。
     これに危機感をもった中堅業者である小林源次郎が、深川区会議員に当選(37年11月)したばかりの伊藤を訪ね、統制会社の設立反対を訴えた。この提唱者・発起人は小宮山常吉で、伊藤や小林らは、中小業者の権益を守るため38年春ごろ、東京市に働きかけ「東京鐵鋼原料商組合」を発足させた(村越和一組合長、伊藤副会長、小林源次郎幹事長)。 関西でも四八会などの業者組織が結成され、中部、九州でも「会社設立に一般業者も参加させしめるべし」とする反対運動が巻き起こった。この動きを見た商工省は、鉄屑業界が分かれるのはまずい、なんとか一本化しようとの方針に転じた。
     この方針転換から38年6月1日上野精養軒で、有力大手と中小業者による取りまとめに入った。これを踏まえ6月25日、鉄屑統制会社の発起人14名を選出し、中小業者も含む受け皿づくりを進め、大手(A)、中小(B)の両派同数からなる統制会社設立準備委員会を立ち上げた。
     Aグループ委員は、東京大手の岡田菊治郎、鈴木徳五郎、德島佐太郎や関西の阪口定吉など。Bグループ委員は、それなりの規模を持つ小宮山常吉、伊藤信司、村越和一、小林源次郎。遅れて共に慶応大学卒の学歴を持つ内田浅之助(東京)、岡憲市(大阪)などが加わった。準備委員会では価格統制だけとの線でまとまったが、商工省は価格だけでなく配給、指定商制度の制定を指示した。最大の問題は、指定商の認定ラインを何トンに置くか(大手中心か、中小を含むか)であった。
     月間1000㌧扱いが商工省原案であり、製鋼会社への納入は全量、統制会社と指定商を通さなければならない仕組みであった。結局、①月間100㌧を認定ラインとする、②扱い業者の取扱量を直納と間接売買の両量申告と、③統制会社の持株の基本を決め、原局もこれを認めた。
     指定商は、月間直納100㌧以上の実績(37年度)を持つ全国230余が認定された。
    ▼39年・指定商協調会・会長=国は日本鉄屑統制会社の設立と同時に39年、統制の支援組織として認定指定商による「指定商協調会」を、東日本、中部、関西、九州の4地区に作らせた。東日本指定商協調会長は当初、Bグループ委員だった村越が就任した。その直後、統制上のつまずきから村越は降り、若い伊藤にそのおハチが回ってきた。伊藤はこの時、29歳。右翼団体を足場に持つ区会議員、かつ事業規模は指定商に辛うじて届く程度の中堅業者に過ぎない。
     だから、当時、全国一の多額納税者としてその名が轟いていた岡田菊治郎商店に出向き、岡田に要請したが、金は出すから「君がやれ」とガンとして首を縦には振らない。そこで伊藤が39年、協調会の地区会長(その後、中部・関西・九州の四地区連合会長)に就任した。
     国は米国との開戦が迫る41年9月金属類回収令を制定し、さらに10月「月間1000㌧扱い」を基準に指定商の再編(企業整理)を命じた。この41年の1000㌧扱いを基準とする第二次指定では、鈴木徳五郎商店、西商事、小宮山商店など大手筋は鋼屑指定商として残ったが、全国の中堅業者のほとんどはふるい落とされた。単独では指定商に残れないと見た伊藤は、深川の中小業者たちと資本を束ねて統合会社「関東故鉄株式会社(伊藤信司社長)」を作り上げ、指定商に踏みとどまった。この関東故鉄は指定商だが、伊藤商店は指定商からはずれた。
    ▼42年・翼賛選挙で「非推薦」・落選=伊藤は、鉄屑統制のいきさつと統制価格問題を「業者としてこの職業にあること15年余(まえがき)」として「業者が見た 鉄屑の統制問題をいかに見るか」(39年5月、25ページ。非売品)を発刊し、その1年後の40年6月、「鉄屑統制の新段階に際し 蒐荷価格とは如何なるものか」を書き継いだ(33ページ。非売品)。伊藤は、現職東京府会議員の椅子を棄て、42年5月の衆議院選(翼賛選挙)に立候補した(32歳)。伊藤は、国策である鉄屑統制の運営には、現場を知る人間として異論を唱え続けたし、日本革新党解党後は確たる足場を持たない無名右翼だった。これもあってか翼賛会の「推薦」は得られずあえなく落選した。
    ▼43年・伊藤製鉄と伊藤信司=翼賛選挙で落選し、指定商制度の廃止を見た伊藤信司は43年、弟の三好が前年に立ち上げた伊藤製鉄(15㌧小型再生高炉)に入り、再生銑の売り込みに動いた。
     伊藤は、それまでのツテを頼って陸軍・航空本部に出向き、年産1万トンの工場があるが、採算がとれず火を止めるばかりだ、助けて戴きたいと申し入れた。よし面倒は見るということで、小型再生高炉は試験炉として44年国の許可を取得。同年3月、資本金百五十万円で(株)伊藤製鉄所として発足した。銑鉄は戦略物資だが「試験炉」銑は該当しないとの役所の見解から、自家用以外は鋳物工場に出荷した。同じ44年、航空機用軽合金溶解炉の製造を軍から依頼された。このため再生高炉工場(千五百坪)の向かいの土地三千坪を買収し、鋳物工場を建設した。
     45年4月、軍管理工場だった伊藤製鉄は福島県への疎開命令を受けた。本土決戦となっても辺境の東北は持ちこたえるだろうし、小型高炉なら木炭でもできる。木炭と鉄鉱石の取れる福島に炉を移設して、鉄を作ろうとの軍部の決定だ。その東北工場長として伊藤が当たった。軍命令で強制的に農民から土地を取り上げ、杭打ちなどの基礎工事を終えたのが8月。敗戦を聞いた。
    ▼戦後の伊藤―表舞台は避ける=46年春、東京に戻り、湯島の切り通しに店を構えた。戦後の鉄鋼会社はまずナベ、釜の生活必需品の生産から始めた。伊藤製鉄もその例にもれない。伊藤は伊藤製鉄が作ったこれらの生活雑貨品を売り出した。そこを再び小林源次郎が訪ねてきた。ちりぢりになった業者の結集を呼びかけようというのだ。伊藤は旧統制会社の岡憲市や小林らの組織(第一次鉄屑懇話会)ができるよう新聞広告づくりなどを手伝ったが、表面には現れていない。戦犯こそ問われなかったが、GHQから見れば、右翼の大日本青年党に入党した「好ましからざる人物」に違いないと思い込んだためだ(憲兵司令部がまとめた右翼名簿の中には伊藤の名はない。杞憂だった)。この前後、鉄屑商売が自由になった。伊藤は伊藤信司商店を立ち上げ、伊藤寅松商店と伊藤製鉄は弟の三好や兄たちが引き継いだ(47年)。兄弟でそれぞれ独自の道を進むことになる。
    ▼52年・鉄屑懇話会・副会長、公報委員長――機関誌「鉄屑界」を創刊=伊藤が再び登場するのは、日本が米国と講話条約を結び戦犯追及の恐れがなくなった52年からである。鉄屑懇話会(第二次)の発起人会が同年8月、開かれた。この時、実務全般を差配し、設立計画、規約作成委員16人の代表をつとめたのが伊藤だった。伊藤は、機関誌発行と広報委員会設置を提案し、副会長兼広報委員長兼任で編集長に就任した。月刊「鉄屑界」は、鉄屑懇話会機関誌として53年1月、編集発行兼印刷人伊藤信司(創刊号は非売品、2号以下は定価百円)として刊行された。創刊号の表紙帯は「本誌は鉄屑業者が結集して、鉄屑界が指向する諸問題に対決しつつ、その職域を通じ、よりよき奉仕活動をするために創刊され、業者自身の手によって発行される」と謳った。
    ▼53年・「鉄屑カルテル」の予兆を告げる=53年3月1日、富士製鉄が二万円だった鉄屑購入価格を一気に四千円引き下げ、全国20数社が直ちに追随した。鉄鋼会社の事実上の「共同行為」が始まった。危機感を持った鉄屑懇話会員は3月13日、東京の日比谷陶々亭で、緊急業者集会を開催した。「鉄屑界」(2・3月合併号)は「鉄屑共同購入問題」「独禁法改廃と懇話会」「独禁法改廃と鉄屑業者の立場」などの論陣を張り、地下カルテルの予感が走った3月13日の緊急業者総会では「鉄屑業者はかく主張する・・・全会員懇談大会記」(4月号)として全討論の概要と出席者一覧を掲載し全国に実情を呼びかけた。以後、同誌は鉄鋼会社の動向と全国の鉄屑業者の動きをモニターし定点観測する情報媒体として業界の耳目を引きつけることとなった。
    ▼鉄屑連盟カルテル対策委員長として=53年9月改正独禁法が施行され、鉄屑カルテルが合法化された。鉄鋼各社の早急な鉄屑カルテルの認可申請が予想された。鉄屑懇話会は臨時総会を開いて役員人事(公選)を刷新し「大会宣言」を採択して臨戦体制に入った(10月22日)。この時、「鉄屑価格対策委員会」を設置したが、委員長は直納業者団体の巴会・会長の松島政太郎。しかしこの人事では国策をバックとする鉄鋼業界とは闘えない。そこで鉄鋼のカルテル申請が切迫した12月5日、伊藤が広報委員長から価格対策委員長に代わった。
     この間、伊藤は広報委員長として、またカルテル対応の価格対策委員長として、鉄鋼連盟会長宛に会談を申し入れた。が、鉄鋼側からは応答はない。カルテル申請提出はすでに時間の問題だった。伊藤は12月5日、関東鉄屑懇話会、関西鉄屑懇話会、愛知県資源回収協組、同県製鉄原料協組の各長4人の連名のもと、緊急協議のため11日東京に招集するとの檄を、全国各組織に飛ばした。
     12月11日、東京京橋第一相互ビルに全国各地の業者・団体代表約70人が参集。伊藤・鉄屑価格対策委員長の指導のもと関東、関西の鉄屑懇話会を中核に、反カルテル全国組織「日本鉄屑連盟」を結成した。伊藤は鉄屑連盟の発足にともない(懇話会の価格対策委員長を兼ねて)、鉄屑連盟のカルテル対策委員長にも就任した。この伊藤の呼びかけに応じて、全国各地の鉄屑団体、資源関係組合などが続々と鉄屑連盟に馳せ参じてきた。この結果、鉄屑連盟に上は直納大手から中間問屋、下は一般回収・集荷業者に至る関連10万人が結集したとされ、「一大反対運動という思いもよらない社会運動(レジスタンス=抵抗運動)に発展することになった」(伊藤信司の回顧)。
    ▼54年1月・伊藤、鉄鋼側の「協議」に応じる=鉄鋼20社は53年12月11日、鉄屑カルテル結成を申請した。その直後から鉄屑連盟は「広範な層を背景とする組織の熾烈な反対運動」(カルテル10年史)を展開した。驚いた鉄鋼側は、カルテル幹事会社の富士製鉄が德島佐太郎鉄屑連盟会長ら主要業者を招いて鉄屑カルテルの説明を行い(12月27日)、年明け早々の1月7日には伊藤・カルテル対策委員長、渡邊・広報委員長を加えて追加説明会を開いた(第2回説明会)。その席上、鉄鋼側は「もし諸般の事情が許すならば、鉄屑需給協議会的なものを鉄鋼・業者双方からの選出者によって、運営することも決して反対ではない」との案を示した。鉄屑連盟はカルテル反対を決議していた。が、鉄鋼側が提示してきたのは「話し合い」だった。伊藤はカルテル対策委員長として、協議に応じた。54年1月13日以降、これをどう具体化するか、との話し合いを鉄鋼側と進めた。しかし1月25日、鉄鋼側は突如、公取に審査の保留(中断)を申し入れ、さらに翌2月9日には、再び公取を訪ねて、カルテル審査の続行(再開)を申請するなど無様な狼狽振りを露呈した。
    ▼大蔵大臣の添え書きを懐にーー鉄鋼・業者トップ六者会談=伊藤は、鉄屑連盟が、直納大手から零細集荷まで利害が相反する業者・関係者を掻き集めた、もろく崩れやすい、寄せ木細工である危うさを承知していた。内部反目、崩壊の危険があった。これをどう捌くか。ここで戦前、政治の世界に深く足を突っ込んできた伊藤信司の政治力が生きることになった。彼は戦前、最後の東京府会議員だったこともあり、政界には知人も多く、大蔵大臣(小笠原三九郎・前出)とは懇意だった。カルテルの審査続行が伝えられた2月、伊藤は「カルテル対策委員長の手前、通産大臣と会いたいのだが・・・」と小笠原に頼み込んだところ「バカを言うな。鉄屑カルテルは国策だ。それに反対する者に添え書きなど書けるか」と断られた。が、二晩粘ってやっと書いてもらった。
     これをすぐに通産大臣(愛知揆一)に持って行くのは芸がない。そこで日本鉄鋼連盟の岡村専務理事を訪れ「稲山さん達に逢わせないなら、通産大臣のところに行って、実情を話す」と申し込んだ。「待ってくれ、八幡と富士に相談してみる」。その結果2月15日、徳島佐太郎・鉄屑連盟会長、渡邊哲夫・広報委員長、伊藤・カルテル対策委員長の業者トップ3人と稲山嘉寛(八幡)、中島正保(富士)、鉄鋼連盟の岡村専務理事の鉄鋼トップ3人による会談(六者会談)が実現した。
    ▼「鉄屑需給研究会」(需研)を案出する=伊藤のトップ会談申し入れと六者会談の実現は、鉄鋼側の無定見なカルテル申請運営(審査継続)への抗議と鉄屑連盟内部でにわかに高まった鉄鋼側への不審打開の一策でもあった。伊藤を長とする鉄屑連盟カルテル対策委員会は、六者会談の経緯から「協議体」がカルテル問題のカギを握ると見た。構成員、運営方法、規約細目、その他の内容を検討し、原案を作成して、通産省、公取、鉄鋼連盟、八幡製鉄等を走り回り「協議会案」なるものを説明した。それがメーカー、鉄屑業者の両当事者だけでなく、発生者、官庁、学識経験者など広範な第三者の参加を組み込んだ「鉄屑需給研究会(需研)」案だった。
    ***
     鉄鋼・業者双方にとって鉄屑カルテル最大の課題は、妥当な価格決定をどう求めるか、だった。国内の鉄屑価格は国際比較から高すぎると見た鉄鋼側は「購入価格安定の最終目標はピッツバーグ渡し製鋼業者の1級鋼屑購入価格である」と申請(53年12月)に明記した。これは世界の鉄屑市場の中心地である米国相場を基準に、国内相場を制御することを意味する。これに対し鉄屑連盟は鉄鋼側の提案でもある「協議会」を「需研」に組み替え、第三者を加えた関係者が国内需給に即した価格を協議すべきと反論した。そのなかで3月26日「鉄屑需給研究会(需研)」が実現した。稲山は「ピッツバーグ(価格)を研究会(需研価格)に置き換えることはいいではないか」。「メーカーはできるだけ大量に買いたいし業者は多く売りたいのだから、研究会に置き換えることは別に問題はない」と業者提案に賛意を表明した。これが、ターニングポイントとなった。
    ▼大きすぎた伊藤信司の政治力=「需研」会合を経て、明日にでもカルテルの裁断が下るかと見えたが、鉄鋼側の資料提出は遅延し、認可裁断は4月、5月、6月と延引された。ただピッツバーグ価格を需研協議価格に置き換えるとのアイデアが業者間に浸透するにつれ、当初は「需研」をメーカー謀略に乗せられた妥協(野合)の産物と警戒していた地方、末端業者が変わった。むしろ「一方的な鉄屑価格決定に一定の歯止めが期待できる」と需研の早期開催を求める声が高まった(「鉄屑界」の投書)。攻守ところを替えた「需研」観を映して、逆に鉄鋼側が「需研」を警戒しはじめた。法的な疑義を唱え、需研での価格協議を公然と否定する発言(鉄連・専務理事)もでてきた。需研を提唱した伊藤は、鉄鋼は勿論、鉄鋼側に同調する直納業者筋からも忌避された。
     公取の審決延引と共にカルテルの認可は、需研の可否がすべてかのように迷走し「伊藤カルテル対策委員長の政治力がスクラップ業界にとって大き過ぎ」た(業界紙)と評されるまでになり、伊藤の孤立は深まった。そんななか鉄鋼20社は、カルテル申請を6月30日突如取下げた。
     申請後すでに半年。申請時一万七千円以上だった価格は当時一万円台に下落していた(54年不況)。カルテルを結成すればピッツバーグ価格を参考とするカルテル協定価格は、鉄屑下落を防止する鉄屑業者のための不況カルテルの性格を持つという皮肉な状況が生れたためだ。
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     カルテルが申請を取り下げたため、伊藤らカルテル対策委員会を継続する必要は無くなった。カルテル対策委は廃止され、伊藤は指揮台から降りた。鉄屑連盟は創設丸1年となる54年12月11日、総会を開いた。この時、伊藤は何の役職にも就いていない。全くの平理事に去った。
    ▼55年・カルテル申請 「鉄屑連盟の意見参酌」が条件=54年不況から鉄屑カルテルの申請を取り下げた(54年6月30日)鉄鋼各社は、55年に入って再び共同行為を模索し始めた。ただ前年の迷走を極めた「教訓」からか公取審査を必要とするカルテル申請を避け、鉄鋼各社が通産省指導の下に「自主協調」を進める「地下カルテル」に潜る策に転じた。しかも「地下カルテル」への動きを一般新聞や業界紙が報じる中で進めるなど公取と鉄屑業界へ挑発的な姿勢を公然と見せつけた(55年2月)。しかし鉄屑連盟も公取の動きも、1年前のそれと大きく違っていた。カルテルとの抗争を指導した伊藤信司は平理事に退き、連盟も伊藤に再び指導を要請することはなかった。
     また地下カルテルへの動きが日経新聞などで逐一報道され、経済界から鉄屑カルテル認可の要望が高まるなか、公取は55年3月3日「認可申請が行われるならば、当委員会も格別の配慮をもって処理する方針である」との委員長声明を公表し、通産省の「指導」に迎合した。
     公取が「格別の配慮」との言質を与えた以上、「地下カルテル」は得策ではない。鉄鋼は、通産省の行政指導下で公然と進めていた地下カルテル案をそのまま表に出し、公取に申請した。
     問題は、価格決定問題をどう対処するか、だった。鉄鋼側はカルテル申請に当って「日本鉄屑連盟の意見を参酌(さんしゃく)の上」価格を決定すると協定書に明示した。これは伊藤が提唱した「需研」価格決定方式である。利害が相反するメーカーと業者がカルテル結成で落としどころをさぐるには「需研」的協議しかない。それが「鉄屑連盟の意見参酌」条項となって結実した。
     鉄屑連盟は4月1日、業者大会を開きカルテル申請に合意すると共に、需研メンバーとして関東4人、北海道、中京、関西、九州及び資源からの計9人を選出した。
     関東の4人は懇話会の德島会長、成島副会長、松本業務委員長、平理事の伊藤信司。鉄屑カルテルが認可され「需研」がどのような形であれ、カルテル価格の決定に参与するのであれば、その運営を託するのは需研の産みの親である伊藤が適任と大方が見たからだろう。
    ▼カルテル発足直後に業者組織は分裂=公取は55年4月11日、鉄鋼18社に期間1年間の鉄屑カルテルを認可した。①カルテル(共同行為)の内容は、内外の鉄屑購入価格の「価格カルテル」。②国内協定価格は「日本鉄屑連盟の意見を参酌の上、その範囲内で各月決定する」。③購入数量や基礎となる鋼塊生産量は通産省の行政指導に委ね、メーカーの数量独裁感を薄めた。
     しかしこれは鉄鋼側にとっても、鉄屑業者側にとっても、妥協の産物。苦渋の選択だった。
    鉄屑カルテルは、鉄鋼側にとって「鉄屑価格の低位安定」を目的とする。認可のためとはいえ業者側の意見を参酌しては、その達成は難しい。意見参酌と鉄屑連盟の存在は喉に刺さった小骨だった。一方、カルテル反対を唯一の旗印に鉄屑連盟に参集した大方の業者にとっても、カルテル結成に反対するどころか、カルテルを容認しその対応団体となった。意見参酌を条件とするとはいえ、自分たちの勝利なのか、敗北なのか漠然とした違和感がオリのように残っただろう。
    ***
     鉄屑連盟は、皮肉な巡り合わせから、設立目的とは全く反対の立ち位置を指名された。しかし反カルテルの旗印を掲げた鉄屑連盟の幹部は勿論、傘下加盟団体にも、その用意が不足していた。
     それがカルテル運営の記念すべき第1回価格協議の場で、早くも露呈した。
     業界紙が伝えるところによれば4月21日、鉄鋼連盟で開かれた価格折衝委員会では、メーカー側は一万八千円への値下げを、業者は一万九千円を主張し、協議は膠着状態に陥った。この交渉の席で、德島会長はメーカー提案の一万八千円を、7月まで3ヶ月据え置きを条件に呑もうとのメモ紙を業者委員に回した。これを受けた松本委員が業務対策委で内定していた最低一万八千五百円に書き直し、德島に返したところ、德島がメモをそのまま八幡の購買部長に渡した。伊藤委員が一万九千円説を弁じている最中に係わらず、メモを一見した同部長はこれをメーカー各委員に回覧。「では昼食後、改めて」と全員が退室した。直後、德島は伊藤を先頭とする委員から「なぜ勝手に妥結案を出したのか」とつるし上げられ、釈明したが、大半は納得せず「今後の価格決定は德島に一任する」と、事実上の委員協議の放棄を宣言した。不信任と見た德島は会長辞任を表明した。 この德島の辞任が、その後に続く業者組織の分裂と混迷の発端となった。
     德島会長辞任(4月21日)に続いて、成島ら東京選出の鉄屑連盟役員も全員が辞職。連盟はカルテル発足後、10日たらずで主力団体である関東懇話会選出の全役員を失う事態に陥った。
    ▼引き金は德島と伊藤の確執=引金を引いたのは德島の軽率な行動とこれを責めた伊藤のカルテル観を巡る確執だ。德島は鉄屑団体を牽引する関東鉄屑懇話会、鉄屑連盟の創設会長であったが、同時に、日本最大の高炉(富士製鉄)の直納業者でもあった。カルテルの功罪には德島なりの考えがあったろう。だから「会議を開催する度に、会長たる私(德島)は、メーカーのカルテルはやむを得ない処置である、業者としても販売会社を作りカルテルと協調すべきである」との持論を展開(德島佐太郎の項、参照)していた。他方、若くして政治活動に没頭して党派を立て、戦中は中堅業者の代弁者として鉄屑国家統制の実際を見てきた伊藤は、鉄鋼各社が画策する鉄屑カルテルに、戦前のそれに似た警戒感を抱いていた(月刊「鉄屑界」はカルテル到来の危機を特集する)。
     その両者の違いは鉄鋼20社がカルテルを申請し、「反カルテル」を掲げた鉄屑連盟とカルテル対策委員会が結成され、伊藤が同対策委員長に就任した直後から始まった。業者の素早い対応に驚いた鉄鋼側は、德島の直納会社である富士製鉄が主催するかたちで年末の27日業者「説明会」を開いた。その第2回説明会を年明けの1月7日に開く。徳島は伊藤にその参加を求めた。伊藤は「カルテル対策委員長として無用の誤解を招く」と強く拒んだが、德島は伊藤や渡邊広報委員長を懸命に説得し参加させた。その席で鉄鋼側が提示したのが、鉄鋼・業者の「協議会」案であり、これに乗って伊藤が一ひねりを加えたの「需研」だった。
     業者がメーカーと対等な立場から、しかるべき価格協議を行う。鉄屑カルテルは、この協議機関を持つが故に正当化できる。そこに伊藤のカルテル対策委員長としての信念があったろう。
     ただ公取の審査延伸と「需研」の漂流から先行きが不透明になると共に、伊藤の政治力はスクラップ業界にとって大き過ぎたと酷評された。
     鉄鋼側の都合でカルテルは撤回された(6月末)が、その経過報告に立った伊藤は「三大底流が運動の支障となった」と内部問題を指摘した。業界紙は底流の一つを「連盟内部の保守派(德島ら)」と推測(54年9月)し、伊藤と德島の確執を伝えた。それかあらぬか鉄屑連盟結成1年後、德島会長の続投が決まった役員改選では役員、委員長名簿から伊藤信司の名は消えた(54年11月)。
     その伊藤が、カルテル認可と共に鉄屑連盟の平理事ながら需研委員に選出された(55年4月)。
    ***
     その記念すべき、また今後の協議スタイルのベースとなるべき、第1回協議の場で、発言中の委員(伊藤)に諮ることなく、とつぜん会長が独断で妥協案を呈示した。公的な場で、堂々と論議を尽くし、しかるべき価格を求める、との「需研」の理念を業者自らが否定する行為だった。
     かつての少壮政治活動家、伊藤には断じて許しがたい德島の振る舞いだった。伊藤は卓を叩いて論難した。德島は会長を辞任し、懇話会系の東京選出役員も全員退去した。鉄屑連盟はカルテル対応組織として動き出した途端、需研は勿論、鉄屑連盟の中軸部隊がいきなり蒸発してしまった。
     カルテル対応組織が内部から崩壊した。これをどう立て直すのか。伊藤に戦前から培ってきた政治的策謀が動いた。敢えて敵対的な巴会をもって「需研」と鉄屑連盟の欠損部を埋める。
    ***
     高炉系直納業者を中心とする巴会は、カルテル反対に結集した鉄屑連盟とは距離をとってきた。鉄屑連盟の中核(東京)役員の総退陣は、天が巴会に与えた好機だった。松島政太郞ら巴会幹部は会員に檄を飛ばし、鉄屑連盟への集団加入に動いた。「鉄屑連盟は鉄屑カルテル反対のための組織だった。しかしカルテルが発足した現在、それに即応した組織として強化せねばならない」。鉄屑連盟は今やカルテル公認の「意見参酌」団体である。そのため自分たち直納ディーラーがその内に入り、鉄屑連盟をカルテル協力組織に改変する必要がある、としたのだ。
    ***
    ▼冷静なマキャベリスト、伊藤の決断=松島ら直納業者を中軸とする巴会は、中小業者を主力とした徳島ら関東鉄屑懇話会とも、懇話会を創設母体とした鉄屑連盟とも一線を画していた。その巴会の鉄屑連盟への集団加入は連盟理事会で議論を呼んだ。乗っ取りがあからさまだったからだ。この時、理事会をリードし、巴会の集団加盟に道を開いたのが、伊藤だった。そればかりではない。
     鉄屑連盟・関東地区の欠員補充選挙では、伊藤は周囲が驚くばかりの巴会系への便宜を図り、多数派工作に奔走した。その結果、役員改選では巴会系の岡憲市、西博、渡邊哲夫らが正副会長と需研委員に就任(5月10日)。巴会系による連盟主導権奪取に伊藤は大きな役割を果たした。
     業界紙(日刊市况通信)は伊藤の突然の変身に驚き「政治や伊藤信司」と全ページ通しの解説記事(5月17日)を掲載し、さらに連載特集(5月19~23日)を組んだ。「いかに感情のもつれがあったとは言え、カルテル反対運動中に“獅子身中の虫”と痛罵した(巴会)一派と野合して、德島追い出しに狂奔したことは腑に落ちない。取引政治の臭気をにおわせる」と、巴会の乗っ取り工作とこれに荷担した伊藤の行動への不快感を露骨にあらわにした。
    ***
     しかし・・・と編者は思う。カルテルは、もはや社会的存在だった。その対応団体である鉄屑連盟も「需研」も社会的な責任と行動が求められる。その責務が期待された鉄屑懇話会の主要メンバーは総辞職し組織から去った。とはいえ鉄屑連盟と「需研」の存続は守らなければならない。
     では、どうすればいいのか。中間業者はいまだに微弱。地方業者でアナを埋めるには力も時間も足りない。この時、自前の組織を持ち、実力を備え、発言の場を求めていた団体は、直納業者集団しかなかった。その集団がたとえ主義主張が異なる“獅子身中の虫”であったとしても、それは仲間内の争いでしかない。守るべきは制度。業者が「メーカーと対等に話し合える場(需研)の確保」。避けるべきは自壊だった。それがいかに「腑に落ちない。取引政治の臭気をにおわせる」選択であったとしても、組織の欠損部の補填なしには「カルテル対応組織」も「需研」も維持できない。
     冷静なマキャベリストである伊藤はそう判断した、編者にはそのように見える。
    ▼カルテルと巴会、伊藤的交渉術の破綻=鉄鋼側との協調を重視する直納系業者団体である巴会系業者が、鉄屑連盟の正副会長や「需研」委員に名を連ねた(5月10日)ことから、カルテルの価格運営は円滑に進み、6月度、7月度、8月度と協定価格は順調に下がった。ただ内外相場が急伸し始めた9月価格の協議は難航した。業界紙によれば、ここでも伊藤信司が登場する。
     9月交渉を前に、鉄鋼側は交渉が決裂した場合、国内集荷が約2ヶ月間止まる事態を想定して、海外屑の緊急輸入を急ぐと共にカルテル解体の危機を防止するため、減産してでも各社の結束を強化する旨申し合わせていた。この準備を整えた鉄鋼側は、価格協議の冒頭「前月価格(一万六千五百円)を延長する」と一方的に宣言した。これは「意見参酌」条項の無視だとみた鉄屑連盟は、会長・副会長、各委員長級をメンバーとした「臨時対策委員会」を設置した。
     このとき、伊藤信司も急ぎ、臨時対策委員会に呼び戻された(8月31日)。
    ***
     鉄鋼側の一方的な据え置き決定に反発した大方の業者委員は、9月価格は相場実勢と同じ二万円に値上げすべきと主張した。が、伊藤はカルテル価格の6月以降の値下げは3回、計二千円だった。一挙に三千五百円の値上げを要求するのは「紳士道に反する」と主張。カルテル発足当初の一万八千五百円改定に誘導した。また臨時対策委員として小池カルテル局長らと交渉した伊藤は、カルテルが二千円値上げで折れるかわりに、業者は出荷運動を行うとの交換条件を提示した(9月19日、日刊市况通信)。鉄鋼側(カルテル業務委員会)は、集・出荷を約束する話し合いさえ付けば、一万八千五百円を呑んでもいいとの妥協案を提示し、価格交渉を一任された岡憲市ら正副会長は「出荷促進運動の条件付き」で妥結した。しかし全国合同役員会は、実勢価格(二万円)を下回る価格(一万八千五百円)では、参加会員に向け集荷督促の呼びかけはできないと拒否した。これは巴会系執行部への鉄屑連盟地方役員の不信任であり、同時に伊藤の政治的な折衝術に対する異議申立でもあった。巴会系の正副会長は、運営上の責めを理由に辞表を提出した(9月16日)。
     鉄屑連盟は再び役員改選を行い、今度は德島の会長復職を始め、懇話会幹部が主要役員に返り咲いた(10月11日)。カルテル局長と妥協案をまとめた伊藤は、役員は勿論、需研委員にも選ばれていない。6日後、関東及び関西巴会系の業者は、集団で連盟に脱会届を提出(10月17日)。業者組織は中間業者が多数を占める懇話会系鉄屑連盟と野に下った巴会系直納集団とに分裂した。
    ▼鉄鋼の「分断統治」と業界の仲介者、伊藤信司=これが鉄鋼側に、鉄屑連盟の意見参酌条項を無視する絶好の口実を与えることとなった。鉄鋼側は、鉄屑カルテル認可のため(不本意ながら)「日本鉄屑連盟の意見参酌」条項を呑まざるを得なかった。そのため認可直後から鉄屑連盟と意見参酌条項の骨抜き策を模索した。反カルテルの二枚看板だった德島と伊藤が反目し、德島は会長を辞任、関東選出役員も総辞職した。これに乗じて巴会など鉄鋼側に立つ直納業者が集団加入し、鉄屑連盟の指導権を奪い鉄鋼寄りに転じた。その甲斐あって、6月以降の協定価格は順調に下がった。
     しかし直納業者系役員と中間業者が多数を占める地方役員は水と油だった。このためわずか5ヶ月足らずで鉄屑連盟の会長職を投げ出し、直納系業者も連盟から集団脱退した(10月17日)。
     一方、鉄鋼側もカルテル初期の制度設計と体制作りが不充分だった。カルテル非参加会社(アウトサイダー)の高値買い横行や市中価格の高騰を制御できず10月7日、カルテル参加会社に11月末までの自由買付(高値買い)を黙認し、自ら運営業務を放棄(カルテル崩壊)した。
    ***
     国と鉄鋼は「カルテルの再建」を急いだ。その再建途上の11月22日、鉄鋼はカルテル12月価格を鉄屑連盟の意見を聴取することなく、独断で決めた。直納業者団体である巴会の集団脱退(10月17日)を材料に、鉄屑連盟は業界の総意を代表していない、との理屈立てであった。カルテル再建に当たって、鉄鋼側の「業者排除」と「価格独断」の思惑は明白となった。
     組織が二つに割れては、まともに鉄鋼側と戦うことはできない。懇話会系業者が指導権を取り戻した鉄屑連盟も、鉄屑連盟を飛び出した巴会も「分断統治」から蒙る自らの愚を痛感した。
     このため懇話会、巴会は、ただちに統一に向けて斡旋委員会を設置した(55年12月)。懇話会側から德島佐太郎、平石慶三、松本裕夫。巴会側から松島政太郎、岡憲市、西博の各3人。
     この両者の仲介役として、伊藤信司が再び登場する。
    年を越した56年1月、難航が予想された組織合同への基本線がともかくも固まった。
     「懇話会、巴会の双方から松島、岡の2氏を批判する声が高く、合同は不可能との危険をはらんでいた」が「仲介者の労によって、鉄屑連盟(屑連)を発展解消し、新連合体を結成することに双方は了解したので、合同に関する根本問題であった巴会の屑連復帰という不名誉が消滅して、形式的にせよ対等合同の名目が立った」(56年1月24日、日刊市况通信)。
     「仲介者の労によって」とは伊藤信司の働きを指す。「連盟を発展解消し新連合体を結成する」ことで「巴会の屑連復帰という不名誉が消滅し対等合同の名目」が立つ。烈しく対立する両陣営のなかで両者の顔を立てて落としどころを探る、伊藤的交渉術の面目躍如たるところだ。「しかし団体騒動はすべて解決すると見るのは甘い。屑連と巴会が合同しても鉄屑3業態(ディーラー、中間、建場)の意見集約に関する構想を後日の問題として残したことに懇話会の中核は真に諒としておらず、将来の悔いを残す恐れがうかがわれる。大同団結は遠いと嘆く向きが多い」(同)。
     死活の利害に係わる鉄屑3業態の根深い対立は、伊藤的交渉術の外にあった。
    ▼第4回カルテル・鉄屑連盟の意見参酌条項を削除=9月、第4回カルテル認可を巡って鉄鋼側と業者側の攻防は最終局面を迎えた。鉄鋼は、特殊鋼や関西電炉など主要なアウトサイダーをカルテル内部に取り込んで結束を固め(3本建てカルテル結成)、鉄屑の絶対的不足を解消するため、稲山らの主導のもと米国屑の一元買付・長期契約(輸入屑カルテル強化)に道筋をつけた。さらに「喉に刺さった小骨である「日本鉄屑連盟の意見参酌の上」の文言を(第4回カルテル申請に当たって鉄鋼側は公取の了解のもと削除し)「鉄屑業界の意見を聞き」決定するとの文言に書き改めた(9月12日)。これが巴会と鉄屑連盟内の中間業者との対立を再び呼び込んだ。もはや合同論議どころではない。申請明文からの日本鉄屑連盟の名称削除が、業者組織の分裂を決定的にした。
    ▼業者の大同団結は破綻=巴会など直納業者集団が、鉄屑連盟との再合同に動いたのは、鉄屑カルテルが「鉄屑連盟の意見を参酌の上」価格を決定するとカルテル申請書に明文で約束していたからだ。直納業者集団が、鉄屑カルテル運営で一定の指導力を確保するためには、鉄屑連盟は絶対的な金看板だったのだ。その金看板が56年9月認可予定の第4回カルテルで外される。
     カルテル価格が「鉄屑業界の意見を聞き」に改まるのであるならば、何も鉄屑連盟と合流する必要はない。直納団体が「鉄屑業界」代表としての存在感を示せば、カルテル対応の看板を掲げられる。巴会は連盟との合流回避に舵を切った(8月)。それが中間業者の危機感を煽り、鉄屑連盟を烈しく突き動かした。鉄屑連盟は9月13日、任期満了(德島会長は辞任を表明)による役員改選を行い、新会長に(中間業者の支持を背景に)関西鉄屑懇話会長の近藤正二を選出した。
     鉄屑連盟は創設の経緯から直納業者と中間業者の混成だった。しかし德島に替わって会長に就任したのは関西系中間業者。4人の副会長も皆、大阪と関東の中間業者たちだった。
     業者組織は、鉄鋼側に協調的な巴会系直納団体と、鉄鋼側との対決姿勢を強める鉄屑連盟との二つに分かれた。それぞれが独自の姿勢を貫くのであれば、仲介者・伊藤信治の出番はない。
    ▼58年6月・鉄鋼公開販売制=不況が深刻化した58年6月、通産省は鉄鋼大手の意見(稲山試案)を受け入れる形で、平炉18社など32社の鋼塊、厚板など主要鋼材を対象に、販売数量・価格の公開制度の運用に着手した。この違反は鉄屑カルテルと同様に監視委員会による監視・罰則を受ける。これは事実上の鉄鋼製品カルテル(共同行為)であり、この時から鋼材、鉄屑カルテルの両輪が動き出した。これが鉄屑カルテルの再編を呼び込んだ。事実上の鉄鋼カルテルを効果的に維持するには、原料である鉄屑との「完全カルテル」が必要になったからだ。この要請から(伊藤信司の弟である三好が経営する)関東の伊藤製鉄など平・電炉17社がDカルテルを、中京にある中部鋼鈑など電炉14社がEカルテルを結成し、公取は先のABC3カルテルと合わせ全国5カルテルを認可した(58年9月)。国内屑の約90%が、鉄屑カルテルの支配下に置かれた(十年史32p)。
    ▼直納系業者 鉄屑問屋協会を創設する=これが巴会や鉄屑連盟などの業者組織の再編に波及した。通産省は行政指導で鉄鋼価格を事実上統制する。その円滑な遂行のため鉄屑カルテルも再編する。また鉄屑カルテル対応の業者団体も鉄鋼メーカーの意向を汲む協調組織であることが望ましい。
    鉄鋼側は、鉄鋼公販の運用と共に業者組織の協調的再編に向けて動き出した。直納業者系巴会会長の松島政太郎によれば、そのいきさつは次のとおりである。 ***
     鉄鋼「公販」の開始は58年6月だが、実施を前に、メーカー側も全国統一の直納団体の設立を要望され、私(松島)も5地区の直納問屋団体に呼びかけ「鉄屑協会」の設立準備委員会を設けた。時を同じくして関東でも(直前まで鉄屑連盟の会長だった)石川豊吉氏提唱の「鉄屑問屋組合」の設立運動が生れ、私の「鉄屑協会」設立運動と競合する情勢となった。早速石川氏と協議した結果、石川氏の設立運動は日本鋼管の意向もある事が明らかとなり、八幡、富士、鋼管3部長の意見も求め、直納問屋の新団体を設立する方針を定めた。メーカー推薦の直納問屋を以て、地区別の問屋協会を設立し、本部たる日本鉄屑問屋協会を58年11月設立した(カルテル十年史・松島政太郎「鉄屑カルテル結成及び鉄屑問屋協会設立前後の経緯について」より)。鉄鋼公開販売制度が、鉄屑5カルテル体制を産み、鉄屑5カルテル体制が、これを円滑に動かす支援組織として「問屋協会」を作った。製品から鉄屑、業者組織に至る「完全カルテル」が姿を現した(58年11月)。
    ▼伊藤信司 日本鉄屑協議会を作る=公取は56年9月、鉄屑連盟の意見参酌条項の削除は認めたが、その代わりに新たな認可条件として「鉄屑業界の意見を聞」くことを求めた。カルテル5体制に対応した新全国団体はできた(58年11月・日本鉄屑問屋協会)が、実態は高炉、特殊鋼、各地区の電炉に対応する巴会を中核とした直納業者団体の地域拡大・連合版でしかなかった。中間系を含む一般業者組織はどこにも見当たらない。このままでは全国の「鉄屑業界を代表する」とは言えない。どうするか。ここで再び伊藤信司が登場する。中間業者を含む全国組織を作ればいいのだ。東日本問協の会長だった伊藤が音頭をとって、中間・資源業者団体に、新組織の結成と参加を呼びかけ、高炉・特殊鋼・関東問協を含めた関東鉄源協議会を立ち上げた。この協議会を足場に、問屋協会を主軸に中間、資源業者団体を含めた「日本鉄屑協議会」が59年6月発足した。
    ***
     伊藤の回顧によれば、伊藤はもともとカルテル反対の立場だったから、関東地区を束ねる東日本鉄屑問屋協会(Dカルテル問協)の結成に当たり「自分のようなカルテル反対の者に対応団体の会長はできない」と拒絶したが「1年だけでもいいから」と強引に押し切られた。また全国問協を創設した松島から「伊藤君、ぜひ日本鉄屑協議会を作ってくれ」とも頼まれた。
     伊藤は鉄屑連盟の理事でもあったから理事会に出席し「やるからには各カルテル対応の問協だけでなく、中間業者、資源業者を含めた全国組織を作りたい」と新組織への参加を訴えた。さらに東京鉄屑商工業協同組合や神奈川県金属商工業協同組合などの中間業者や関東資源協同組合連合会などの資源業者にも加入を呼びかけた。「問屋がいまごろ、オレたちに協力しろとは何事だ」との厳しい反発にあったが「時代の潮目は変わった。ぜひ加入してくれ」と頼み込んで回った。ただ、そのなかで鉄屑連盟は最後まで参加をガンとして拒否したから、伊藤らは鉄屑連盟抜きで、関東問協を含めた関東鉄源協議会を軸に全国組織作りを目指した(75年正月・日刊市况通信)。
    ▼外口銭――「取扱手数料」伊藤信司理論=カルテル協調組織として登場した日本鉄屑問屋協会(問協)は、鉄鋼側に直ちに「特段の配慮」を求めた。「外口銭」の採用である。カルテルは直ちに直納業者に千円の別口銭(外口銭)をつけたが、内部からの反対で、あっさりと廃止された。日本鉄屑協議会が59年6月創設され、全鉄屑業界代表との体裁を整えると同時に、再び外口銭制を申し入れた。カルテル協調の「成功報酬」を求めたのだ。異論噴出のなか結局、5カルテルは「日本鉄屑協議会並びに日本鉄屑問屋協会の努力、及び現状を勘案し各カルテルも原則論ないしは主義主張を離れて、政治的な見地から」一定の条件のもとに外口銭制(五百円)を認めることとした。
     カルテル十年史は「問協側は過当競争等で適正な利益をあげることが困難になり、また下部組織の突き上げもあって、日本鉄屑協議会の創設を契機に『経営の安定、納入数量の確保』等を理由に再度、強い申し入れがあった」と記した。ただ「外口銭」という、通常取引を超える金銭授受には、もっともらしい根拠がいる。それに理論的足場を与えたのが伊藤信司である。
     「カルテルは鉄屑の供給量が需要量に比べて少ないという前提で動いている。供給が少ないからメーカーはカルテルで価格協定を行う。供給が少ないから問屋は自由競争で口銭幅を削る。これでは問屋はやっていけない。『カルテル対応団体としてメーカーがこしらえた問屋協会である』こと、スクラップはカルテル価格では買えないということはメーカーにとって自己矛盾である。自己矛盾の解消として手数料制度の確立がある。半永久的にカルテルが存続するとすれば、問屋団体がやっていける制度的な見直しが必要になってくる。だからカルテル対応団体の口銭は当然、制度的・外口銭的なものでなければならない」(59年、日刊市况通信・夏季特集)。
     見事なばかりの論理構成である。さすがに伊藤である。
    *****
    ▼カルテル廃止が日本鉄屑工業会を生む=鉄屑カルテルは74年10月6日、公取から申請を却下され、55年4月以来19年6ヶ月で終わった。ただ廃止直前の鉄屑相場は、米国の鉄屑輸出規制や石油危機、列島改造論などからカルテル価格そっちのけの暴騰状態にあった(カルテル協定価格一万七千円。市中価格四万五千円)。通産省と鉄鋼はカルテル廃止に怯えた。そこで通産省と鉄鋼は公取の判断に抵触しない新たな鉄屑需給と価格の安定装置づくりを求めた(ポスト・カルテル)。それが社団法人の日本鉄屑備蓄協会、日本鉄屑工業会、回収鉄源利用促進協会の3団体を産んだ。日本鉄屑備蓄協会は、ポスト・カルテル対策の最大の眼目で、公取の疑義を招かないように需要家側(鉄鋼)と供給側(鉄屑・資源業者)が共同出資で鉄屑を備蓄、運用する仕組みとした。
     これを動かすには市中鉄源の安定的な供給がいる。こうして通産省指導の下に、鉄屑カルテル廃止と共に消えるはずだった鉄屑問屋協会と65年発足の日本鉄屑加工処理工業協会を2本の柱に、通産省認可の社団法人日本鉄屑工業会が発足した(75年7月)。また鉄源回収利用促進協会は、業者が長年願望していた設備費用の調達支援を行う組織として登場した。
    ▼伊藤、鉄屑工業会長に小澤肇を推す=では誰が、その創設会長に就くのか。鉄屑問屋協会、鉄屑加工処理工業協会の会長は、德島佐太郎(産業振興・会長)だったが、白羽の矢は同じ産業振興社長の小澤肇に立った。「伊藤さんが、德島さんではとても大将には戴けない。あの人が会長になったら滅茶苦茶になる」「德島さんのことを悪く言うわけではないですが、奇想天外な発言をする人でしたから」「成島さんと伊藤さんが、小澤さんのところに行って、直接会長就任を頼んだ。德島さんならまとまらないが、小澤さんならまとまるから、会長になってくれと」。工業会創立30周年記念座談会で、当時を知る関係者が語った、いきさつである(05年、日刊市况通信6月号)
    ***
     伊藤は、長年の政治や行政との折衝を通じ組織運営の大局を見ることができた。新しくできる鉄屑工業会は社団法人として官僚の監督下に置かれ、当面は役所との折衝に追われる。その任を誰に託せるのか。豪放磊落でその人ありと知られ、戦後の鉄屑業界の代表者であり続けた德島ではない。官僚的な対応をそつなくこなし、官と民を橋渡しできる人間でなければならない。とはいえ大看板の德島に替わるのであれば、業界が納得する人物でなければならない。だから小澤だった。
     戦前の高級経済官僚で、戦後は德島と共に日本最大の直納会社・産業振興を創業し、德島から社長職を譲り受けた小澤肇なら、德島の体面を保ちつつ、対外交渉力が従来以上に求められる新組織のスタートが切れる。伊藤らしい極めて高度な政治的な人選だった。
     こうして75年7月小澤肇会長、德島佐太郎名誉会長のもと日本鉄屑工業会が発足した。
    ▼伊藤、小棒組合にカルテルの臭いを嗅ぐ=73年10月に発生した第一次石油危機を発端に、電炉業界は75年以降深刻な構造不況に陥った。鉄鋼商社(安宅産業)も行き詰まり(75年12月)、電炉「構造不況」の記事が新聞紙上を賑わせた。国(通産省)は平電炉基本問題研究会を立ち上げ(76年9月)、同会は過剰設備対策として390万㌧の設備廃却(うち電炉設備330万㌧)と、過剰生産の防止として独禁法の適用除外法である中小企業団体法(中団法)に基づく組合設立案を打ち出した(77年2月)。ただ鉄屑工業会は平電炉基本問題研究会のメンバーには入っていない。
     伊藤は、鉄屑工業会の初代広報委員長に就任していた。伊藤が編集する「鉄屑ニュース」は、電炉の構造改善と不況脱出策を歓迎する一方、工業会が「研究会」のカヤの外だったこと、また商工組合の設立に対し「その影響が関連業者(鉄屑)を脅かす時は」対策が必要だと指摘した(8号)。
     果たして小棒組合は、翌78年5月突然、定款を変更し「鉄くずの共同購買及び共同保管」の文言を挿入した。この動きを見た伊藤はすぐさま論点を整理し、鉄屑ニュース巻頭(13号)で「カルテル再来」かとの論陣を張り、業界に迅速な対応を求めた。
     鉄屑工業会は小棒組合に事実上の撤回を求める覚書を交わすこと、その覚書を通産省に提出して小棒組合への指導を求めることを決議。その上で9月小棒組合(高島浩一理事長)と工業会(小澤肇会長)がトップ会談を行い、共同購買の不実施と条項削除、需給双方による「協議」の覚書を取り交わした(10月)。これが需給トップ定期会談の場となる「電炉鉄屑懇談会」の誕生につながった。これは24年前カルテル対策委員長・伊藤が、状況打開のため稲山・八幡に用いたトップ会談の再現(54年)である。伊藤はここでも需給双方の出会いと協議の産婆役を果たした。
    ***
    ▼天性の広報マンとして=伊藤は、戦前の鉄屑統制時代には「業者が見た鉄屑の統制問題をいかに見るか」、「蒐荷価格とは如何なるものか」を刊行するなど、業界や関係方面に積極的に働きかけた。彼は組織を作る度に、機関紙を発行、編集している。ただ戦前の資料の多くは戦災で焼滅し、また戦火を免れた出版本も戦犯追及(戦前の伊藤は右翼政党に所属していた)を恐れて焼却処分したから残っていないとされる。伊藤の面目を今に残すのが、戦後の月刊「鉄屑界」(創刊53年1月)である。この「鉄屑界」を一貫して主導したのが、伊藤だった。伊藤は、ある種の歴史観を持っていた。その表れが「業界建設の偉大な礎石・先賢父祖・物故者追悼編」(鉄屑界53年7月)の編集である。明治41年歿から現在(昭和27年歿)までの27名の業績を「その当時」「業績」「逸話」「人柄」などの項目をたて紹介した。伊藤は「鉄屑界」の創刊号(53年1月号)から54年7月号までの全冊(一部欠本がある)を国立国会図書館に寄贈し、その活動の記録を今に遺した。
     社団法人日本鉄屑工業会は75年発足した。初代広報委員長はまた伊藤信司がつとめ、機関紙「鉄屑ニュース」編集長として創刊号から85年の第56号まで10年間、健筆をふるった。広報と組織結成に最も馴染んだのは伊藤をおいて他にはない。彼は戦前から組織を作り運営してきた。その彼が最後に関与した鉄屑工業会は、彼にとってさほど悪くなかったようにも見える。
     81年、春の叙勲で勲五等瑞宝章を授与された。96年2月、伊藤信司死去。享年85。
    ▼編者の余談として=伊藤は独力で常に自らの道を切り開いてきた。危うい道を進むには周囲の情勢を、他者の横行の状況を、的確に見極める必要がある。彼はそうして若くして政治結社を立ち上げ、議員になり、鉄屑統制会社と一般業者のあいだに立った。対立する両者の言い分を聞き、着地点を探った。対立する二者の間に合意を探るから試みだから、出てくる答えは、白か黒かの一刀両断にはほど遠い。傍目には妥協とも、軟弱とも、政治的とも、受け止められる。
     時には、内部からの反発も招きかねない。鉄屑カルテルの対策責任者として伊藤が編み出した「鉄屑需給研究会(需研)」とは、そのような代物だった。伊藤はこの手法が、大方には誤解されやすいだろうと、承知していた。が「これしかない」とも確信していた。
     果たして「需研」は、反発と批判にさらされた。が、結局は、それが鉄屑カルテルを巡る両者の最後の落としどころとなった。以後、伊藤は大義と面目の全く違った二つが同時に一つの線につながっていると見て、対立する二者の中に立つ役回りに徹した。それが德島鉄屑連盟会長の辞任後、巴会を鉄屑連盟指導部に迎え入れる伊藤の「野合」であり、鉄屑懇話会と巴会の再統合への話し合いへの「仲介」であり、鉄屑協議会創設にあたっては鉄屑連盟に参加を呼びかけた背景にあった。
     伊藤は、目的達成のために多様な手段を用意できた。そのマキャベリスト的な行動は、一般には分かりにくかったようだ。その政治力は、やはり「スクラップ業界にとって大き過ぎた」かもしれない。業界の今に至る伊藤信司への理解の薄さは、そう理解できる。

  • 伊藤 三好(いとう みよし)*詳説-伊藤一族のひとり (伊藤製鉄)
     伊藤寅松に始まる伊藤一族のひとり。兄、信司は戦前・戦中・戦後の鉄スクラップ業界の大参謀(別掲)。三好は父の業を継ぎ、伊藤製鉄を作った。本項は「三好伝」(2005年)に基づく。
     伊藤寅松の三男として1913年(大正2)4月、深川区猿江裏町に生まれた(2003年1月没)。父、寅松は鉄屑商売に走り回っていた。三好が小学校に入学した前の年に第一次世界大戦が終結した。大戦中は鉄鋼、鋼材輸入が途絶したため、国内鉄鋼業が一気に勃興した。父、寅松の鉄屑商売もこの追い風を受けた筈だが、しかし家は貧しく、子沢山。どん底だったようだ。
     20年、兄・信司と同じ月謝免除の猿江小学校に入学した。昼の弁当も無償の貧困家庭のための特殊学校。ただ三好が入学する前に学校は丸焼けとなり、深川区営の普通小学校(東川小学校)に通うことになった。二部授業で午前中は本校生徒。午後からは三好たち東京市営の特殊学級が昼食をしてから始まった(みすぼらしい服装の猿江小の子供たちは「いそこう」と本校生徒に軽蔑されたという)。次兄の信司とは1年ほど一緒に通ったが、翌年信司は口減らしを兼ねて本所緑町のオモチャ工場に働きに出された。信司は午前中に仕事が終わると走って学校に着き、門前で待つ三好からカバンを受け取って、午後から始まる二部授業の教室に駆け込んだ。三好は兄を待つ間、兄の本を読んだ。授業が終わると兄は三好にカバンを渡し、再び工場へ走って帰って行ったという。
    ***
    23年9月1日、関東大震災に襲われた。寅松の家は全焼した。三好はこのとき小学5年。母(よね)の実家の埼玉県南埼玉郡小林村に震災疎開した。1年後、田舎から戻った。店は震災復興景気に乗り、わずか1年の間に、焼け落ちた自宅も店も大きく建て替わった。兄・信司のように、もう夜学校に行く必要もなくなっていた。満州事変(31年)、5・15事件(32年)と不況と政治動乱が続いたが、「鉄は国家」だったから、鉄屑商売は順調に拡大し、寅松も何人かの店員を置くようになった。この間、長兄の進一は、神奈川県鶴見で鉄屑業者として自立し、軍隊から帰ってきた次兄の信司は、31年に開設したばかりの横浜支店に入った(32年)。
    ***
    ■伊藤寅松商店=19歳のある日、東京電灯の鉄屑払い下げ手伝い話が、関係会社の社長を通じて、三好を名指しして舞い込んできた。当時東京電灯社長は大阪の阪急電鉄を育てた小林一三だった。
     これが飛躍につながった。小林から身代わりの相談も持ちかけられた。実は静岡県富士吉田で小林一三が経営する馬車鉄道会社が、赤字続きで近く廃業する。馬車鉄道と言っても地域の足だ。廃業には当然、地元の猛反発が予想される。ついては会社の経営権肩代わりとその対価として延長20マイル(約32㎞)のレール撤去の依頼だった。「株主総会では、黙って据わっているだけでいい」とのことだった。三好は資本金三十万円の会社の全株を一万円で引き受けた(35年)。
     地元は混乱したが、株主総会で廃業が決まり、三好は直ちに全レールを回収し東京に持ち帰った。重量負荷の少ない馬車鉄道のレールだったから傷みは少なく、電線会社が新品の半値で買い取ってくれた(36年)。撤去、保管費用など諸経費を差し引いても、十三万円もの莫大な利益が転がり込んできた。さてどうするか。有頂天になった三好の頭を店の番頭が冷ました。
     「こんな大金はアブク銭と同じだ。事業に手をだせば大怪我をする。将来のために土地を手に入れ、工場を作ることだ」。荒川放水路を越えた江戸川区東小松川の約千二百坪の用地を約十五万円で買収し、田んぼの一画を整地し、従業員30人の工場を設立した(37年12月)。
     鉄屑回収は深川の本店が行い、新設の小松川の工場(伊藤鐵工所)では伸鉄材、鋼管用に選別・処理した。また当時貴重だったシャーリング機を導入し、鋳物製作のためキューポラ炉も作った。本店は鉄屑統制会社の指定商となり、兄の信司が本店社長に就任したが、政治活動(40年東京府会議員に当選)と社長の二足のワラジは履きにくい。このため三好が本店社長を引き継いだ。
     伊藤商店は竪川沿いの四の橋近くに船荷場を確保していた。三好は、艀(はしけ)に鉄屑を満載して日本鋼管に通った。荷受け待ちをしながら、高々とそびえる高炉を眺めた。と、ある日、高炉技師長が通りかかった。三好は我を忘れて日頃温めていた小型溶鉱炉建設の夢を語りかけた。その甲斐あって42年、15㌧の小型再生高炉建設にこぎ着けた。 ***
    ■伊藤製鉄=戦中の44年3月、試験炉として小型再生高炉の許可を取得し(株)伊藤製鉄所を立ち上げた。同じ44年航空機用軽合金溶解炉の製造を軍から依頼され、再生高炉工場(千五百坪)の向かいの土地三千坪を買収し、鋳物工場を建設した。その一方、鉄屑統制会社指定商の伊藤寅松商店社長(40年)、関東故鉄社長(44年)として戦時鉄屑の回収に当たった。
     44年11月から45年5月まで続いた東京大空襲では、鉄屑の街、本所・深川を始め、都心一帯が焼夷弾(ナパーム)爆弾で火の海となって壊滅。死者は10万人を超えたとされる。
     ただ荒川放水路の東にあった伊藤製鉄は、都心爆撃の被害を免れ無傷で生き残った。工場は、終戦直後の9月1日から、細々ながら再生炉及びキューポラ操業を再開した。
     45年4月、伊藤製鉄は軍から福島県への疎開・移設命令を受けた。移設の任には兄・信司が当たった。信司が残務処理を終えた46年春、戻ってきた。統制は終わった。三好も信司も自分の道を歩むため47年、信司は伊藤信司商店を立ち上げ、三好は伊藤寅松商店を引き継いだ。
     以後、三好は伊藤寅松商店社長と伊藤製鉄社長を兼ねた。戦後のGHQの日本国内鉄屑調査(49年)では日本側の鉄屑調査員の一人に選ばれ、各地の工場、鉄屑置き場を見て回った。
     この調査を機に5㌧中古電炉を買い取り、製鋼事業に備えた。50年には10㌧電炉を増設、54年経営困難から立ち往生となっていた圧延設備を譲り受け、電炉・製鋼一貫工場を作った。
     63年にはJIS認定工場となり、高張力異形棒鋼「オニコン」の自社ブランドも開発した。
     地方進出にも乗り出した。第一歩が石巻工業団地での電炉工場建設だった(68年)。筑波への移転(76年)は、小松川や市川工場周辺の公害防止対策から踏み切ったものだが、移転・集約と画期的な工場建設が、電炉業界初となる優良工場通産大臣表彰(86年)につながった。
    ***
    ■業界活動(本項は鉄屑カルテル史、業界新聞記事による)
    三好も兄・信司と同様に、戦後の業界活動に積極的に立ち働いた。54年以降表面化した鉄屑カルテルへの動きは、高炉や平炉など大手鉄鋼会社を中核としたもので、ローカルな零細電炉会社だった伊藤製鉄の頭越しの論議だった。この時、三好は鉄屑業者・伊藤寅松商店社長として巴会に属し、鉄屑カルテル結成反対の先頭に立って反対演説を行った。鉄屑カルテルは55年4月、認可された。
     三好の伊藤製鉄がこの鉄屑カルテルに参加するのは、3年後の58年7月。事実上の鉄鋼製品カルテルである「鉄鋼公開販売制度」に合わせ、鉄屑5カルテルの一つとして東日本鉄屑需給委員会(Dカルテル)が結成された時だ。三好はDカルテル委員長に就任した。
    ***
     三好には一家言がある。それが問屋協会の運営に関して、ある事件を引き起こした。
    問協への資金援助問題がことの発端だった。鉄屑5カルテル体制と共に登場した日本問屋協会(問協)は、カルテル協調を目的に結成されたことから、通常口銭のほかに別途口銭(外口銭)や毎年のように「資金援助」を寄生的に求め、カルテルも「政治的に」これに応じ続けた。
     問協設立以来8年、カルテルの形骸化が見えだした66年3月、東日本(Dカルテル)問協が「資金援助」を要請してきた。これにDカルテル需給委員長(伊藤三好)が個人的な見解として「現行カルテルは事実上無きに等しいから問協はいらない。資金援助の要請は後日回答する」(日刊鉄屑市况・66年4月19日)と事実上の問協無用論を展開した。これに反発した東日本問屋協会が4月、総会を開いて運営業務の完全停止を決めた・・・との事件だ。
     三好は鉄屑カルテル終焉後、カルテル結成当時を、次のように回顧している。「メーカー間の競争は鉄屑カルテルの結成を促すことになり、この気運を察知した鉄屑業界は昭和28年日本鉄屑連盟を組織し、鉄屑カルテルはメーカーによる実質的な鉄屑市場の統制であり、鉄屑企業はメーカーの施策に左右され業者の弱体化を招き将来の存立に禍根を残すとの主旨のもと反対運動を起こすこととなった(事実、現今の鉄屑業界は業者が恐れていた通りの傾向を示し、この点メーカーにとって今後の鉄屑問題を考える上で充分留意する必要がある)(カッコは原文のまま)」「私も、先頭に立って反対のむしろ旗を振った」「深川の本所公会堂で開かれた業者大会には行きがかり上、カルテル反対の演説を一席行うことになる」(鉄くずカルテル10年史)。
    *この回顧のなかで三好はわざわざカッコ書きで「鉄屑業界は業者が恐れていた通りの傾向を示し」と注記している。つまり「鉄屑カルテルはメーカーによる実質的な鉄屑市場の統制であり、鉄屑企業はメーカーの施策に左右され業者の弱体化を招き将来の存立に禍根を残す」との恐れだ。そのかねてからの思いが「資金援助」を求める問協への拒絶となったとも解釈できる。

  • 稲福 誠(いなふく まこと)-産廃業から進出、沖縄出身の意気を示す(ナンセイ)
    東京都江戸川区 ホームページはこちら
     後発の異業種(産廃業)からの参入組で、わずか10数年で業界屈指の扱い業者に成長した。
    稲福健一(父)の3男1女の三男として生まれる。父は沖縄県今帰仁字今泊出身
    新聞(沖縄タイムス19年11月22日)報道によれば=「内装解体や産業廃棄物処理を手掛けるナンセイ」が火災で焼失した首里城再建のため那覇市に5千万円寄付した。「今帰仁村出身の稲福誠社長(54)をはじめ、全役員4人が県出身」。「同社は今年創業30周年。従業員約300人のうち90人近くが県出身」。「昨年度の売上高は247億円で全国各地に支社や工場(13工場)の拠点がある」
    ▼会社沿革(㏋)によれば=1989年(平成元)7月資本金300万円で東葛西に有限会社南西運輸(代表取締役稲福誠・産業廃棄物収集運搬業)として創業し、93年(平成5)4月産廃物収運業に加え内装工事解体業を手がけ、98年1月(有)ナンセイに社名を変更し、同年12月株式社名に改組した。2001年(平成13)一般建設業、04年(平成16)特定建設業の許可を取得。06年(平成18)5月産廃物処理施設設置許可、同年9月中間処分業の許可を取得した。そのうえで07年(平成19)2月古物商の許可を取得し、同年10月(鉄スクラップ)リサイクル業に進出。12年(平成24)8月江戸川区中葛西に本社ビルを建てた。
    ▼事業内容(㏋)=1.総合内装解体工事業・仮設養生。2.産業廃棄物収集運搬業。3.産業廃棄物処分業。4.金属くず商。5.前各号に附帯関連する一切の業務
    ▼組織・支店・工場(㏋)=管理本部15名。▼解体事業部107名・(支店)=仙台。千葉。名古屋。大阪。岡山。福岡。沖縄。▼産廃事業部97名・中間処理工場=千葉県香取郡東庄町。大阪市大正区南恩加島。積替保管場=埼玉県三郷。千葉県市川(田尻工場)。▼リサイクル事業部114名(工場)=千葉県市川市(厚木第一、厚木第三)。千葉市(誉田工場)。船橋市(ナンセイメタルベイ)。埼玉県三郷市(三郷工場)。神奈川県大和市(大和工場、大和第二)。横浜市(横浜泉第二)。相模原市(相模原)。藤沢市(藤沢)。川崎市(川崎第一ヤード、第二ヤード)。大阪市大正区(大阪鶴浜)。大阪南港J1ヤード。沖縄(与根)。
    ▼編者注記=創業は平成元年。沖縄県出身の稲福誠が20歳台前半の若さで産業廃棄物収集運搬業に乗り出し、5年後には内装工事解体業を手がけ、19年後に鉄スクラップリサイクル業に進出した。30年後には産廃事業部4工場、解体事業部7支店、リサイクル事業部は工場、岸壁ヤードを併せ全国10数拠点を展開し、従業員300人超を擁する急成長を遂げ、19年7月26日開業30周年記念パーティーを開催した。同社の特徴は、「24時間365日、年末年始無休」(一部例外)で買い取りを行っていること。「常時鉄・非鉄スクラップ2万㌧在庫」を維持していること、集荷エリアは全国に、販売は大型船で世界各国に、スクラップ買取量は、日本一を目指していることだろう。
     同社の強みは、一般には忌避され処理困難物と目される「商品」を相手とする産廃運搬業からスタートし、夜間・静穏処理が求められる内装解体業を経て、行政規制が厳しい中間物処理業などの許可を取得し、そのうえで「都市鉱山」、鉄スクラップ業に進出したことだ。
     すでに行政許可取得のノウハウも24時間営業の社内体制も整っている。あとは集荷拠点を作るだけ。さらに鉄スクラップの販売マーケットは海外に広がっていた。数量が集まれば(確保できれば)、確実に売れるのが鉄スクラップの商品特性である。産廃業と内装解体業とリサイクル業の機能的な「ハイブリッド企業」である同社の登場と驚異的な拡大は、歴史的な必然だった。同社は独立系ヤードとして扱い量、日本一を目指すという。その同社が日本鉄リサイクル工業会のアウトメンバーであるのも、工業会の現在の活動を考えるうえでも興味深い問題だろう。
     *稲福氏への聞き取りは個人情報の関係で辞退され、㏋掲載資料により本稿をまとめた。

  • 稲山 嘉寛(いなやま よしひろ)*詳説-ミスター・カルテル、新日鉄初代社長
     戦後日本の鉄鋼業の骨格を作り、共同行為志向の強さから「ミスター・カルテル」と呼ばれた。当時世界最大の新日鉄初代会長。稲山本人の筆になるとされる「私の履歴書」(日経新聞)や「私の鉄鋼昭和史」(東洋経済新報)には、稲山と鉄屑業界に関する記述は一切ない。
     したがって本項は、稲山ら高炉幹部らが鉄スクラップに関与した事項を中心に取り出した。
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     1903年(明治36)12月31日東京に生まれた。28年東大経済卒、商工所に入り、官営製鉄所に勤務。八幡現地で予算決算課と購買課員を務め、29年から東京出張所販売課に転じ、以来販売畑一本を歩んだ。稲山は戦時中、鉄鋼統制会役員(終戦直前は4人の理事の一人)として鉄鋼、鉄屑統制を統括した。70年新日鉄社長。73年会長。80~86年経団連会長。87年10月死去。
    ▼日本鉄屑連盟と稲山=日本の鉄鋼自主権は敗戦によって失われ、鉄鋼各社設備は戦時賠償の対象となり、国外に持ち去られる恐れすらあった。また戦後制定された独占禁止法により鉄鋼各社が鉄屑購入で共同行為を取ることを禁じていた。その制約が52年7月、日米講和条約(日本独立)で消えた、国と鉄鋼各社は、独占禁止法を改正して共同行為(カルテル)に法的な道を開いた(53年9月)。このとき鉄鋼各社の鉄屑買付の「共同行為」に深く係ったのが稲山だった。
     鉄鋼20社は53年12月カルテルを申請したが、これに立ちふさがったのが日本鉄屑連盟の反対運動と為替規制(外貨割当制)による鉄鋼各社の買い付け問題だった。報道記事によれば八幡・稲山常務、富士・中島取締役は、前日からの雪が消え残る54年1月25日、公取委に出向きカルテル審査保留を申し入れた(またその直後の2月9日、審査保留を撤回した)。
     この時、業者側を率いたのが、戦中の鉄屑統制の運営に係わった伊藤信司だった。戦前の東京府会議員だった伊藤は、時の大蔵大臣らを通して鉄鋼連盟を揺さぶり、稲山ら鉄鋼トップとの会談を強引に要求。稲山は鉄屑連盟幹部との会談に応じた(53年2月15日・稲山、伊藤らと6者会談)。
     その6者会談を踏まえて伊藤信司は、独自に鉄鋼、業者、第三者協議による鉄屑需給研究会(「需研」)案を創出。その正式な会談・協議の場を求め、稲山はこれを受け入れた。
    ▼鉄屑需給研究会(「需研」)と稲山:「需研」が53年3月26日、鉄鋼連盟第三会議室で鉄鋼、業者、政府関係者ら参加のもと開催された。論点はカルテル価格をどのように設定するか、にあった。
    ▼稲山(八幡)=この会合を公取はどう見ているのか。▼出雲井(官庁)=公取から認知して貰えればよい。▼伊藤=カルテル価格と需研価格が一致した場合、公取が変にみることは無いのか。▼岡村(鉄連専務)=であるから公取のお墨付きがいる。▼伊藤=鉄屑価格が甚だしく高低のあるとき、需研に頼るようになる故、何らかの形で(公取の)認知を受けなければならない。(申請書の)ピッツバーグ価格を需研価格に置き換えることはできないか。▼稲山=ピッツバーグ価格を需研価格に置き換えることはいいことではないか。メーカーはできるだけ大量に買いたいし、業者は1㌧でも多く売りたいのだから、別に問題はない(鉄屑界54年5月号・20p)。
     この稲山の発言がその後のカルテル協議の方向を決定した。即ち「需研」活用である。
     この間、鉄屑購入価格は暴落の一途にあったが、「需研」は、カルテル認可・成立前には具体的な動きはとれない(動けば独禁法違反)との苦境の中にあった。であればその代わりに「需研」とは別個に、との発案から6月4日、鉄鋼連盟第三会議室で、鉄屑連盟広報委員会主催で「鉄鋼・鉄屑両業界懇談会」を開催した。その場で鉄鋼出席各社を代表して発言したのも稲山だった。
    ▼「両業界懇談会」と稲山:▼稲山=「需研」は政府が認可すれば、活用することによって、うまくいくと思う。カルテルは鉄屑業者のためにもなることで、皆さんのためになるように申請した。▼業者(森田)=公取に対しては「需研」の存在を認め、それを織り込んで認可するよう期待している。▼稲山=政府はそれを心配している。メーカーとあなた方は一心同体だから「需研」はなくてもいい。「需研」の存在は当然であって、公取委に公に言わなくていい。法的に認められなくてもいい。我々は親子ではないか。▼業者(松本)=メーカーは鉄屑はカルテルで協定するが、製品は協定しないのか。▼稲山=鋼材カルテルは(不況カルテルは別として)できない。原価の問題は国内炭が高くて困る。鉄スクラップは安くてもいい。安くて困るのは発生者で、鉄屑業者は困らないでしょう。国内に鉄屑が少ないから発生者の限界点がある。カルテルの場合は、この点も解決できる。メーカーは金詰まりで、皆さんも売り急いだので値下がりした。この裏には暴騰がくる。であるから相互に相談できる仕組みは作って置く必要がある(鉄屑界・54年7月号・4~7p)。
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     6月30日、鉄鋼側が突然、カルテル申請を取り下げた。ただその前日の29日、稲山(八幡)、中島(富士)、岡村(鉄連)は既に基本調査は終了しているから再申請の場合は早急に認可してもらいたい、と公取に条件を付けた(鉄屑界・54年7月号・25p)。今後の「需研」に関して稲山・八幡常務が需研メンバーの一員として伊藤等に「業者側が存続の意思を持つなら鉄鋼メーカー各社に存続を働きかけたい」との意向を示し継続協議を求めた(7月6日、日刊市况通信記事)。
    ▼第2回「両業界懇談会」でも稲山:鉄鋼連盟・第三会議室で8月18日、八幡・稲山常務などメーカー6社と德島鉄屑懇話会長らとで会合を開いた(8月20日、通信)。
    ▼第2回「需研」でも稲山:54年11月5日、鉄鋼連盟・会議室で第2回「需研」が開かれた。メーカーは稲山(八幡)、中島(富士)ら高炉・平炉5社(11月9日、通信)。
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     これら報道記事から見えてくるのは、カルテルおよび業者交渉の難局にあたり、稲山が鉄鋼側の代表として、その場に直接臨んでいることだ。カルテル結成は稲山抜きにしては語れない。
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    ▼初代カルテル業務委員長として=そのカルテルが「日本鉄屑連盟の意見を参酌の上」価格を決定するとカルテル申請書に明示することを条件に鉄鋼と業者の妥協が図られ55年4月、認可された。
     需給(カルテル)委員長は、カルテル各社トップの中から永野富士製鉄社長。カルテルを運営する業務委員長は、各社常務クラスの中から稲山八幡常務が就任した。
     その第一回カルテルが鉄鋼側の内部と業者側の外部事情の双方からの圧力で崩壊した(55年10月7日)。カルテル各社は自由価格で買い付けに走った。通産省は間髪をいれず通産省は10月17日から鉄鋼7品目の輸出は不承認を発表した。これは「自らカルテルの機能を停止し自主統制力の弱さをさらけだした鉄鋼業界」に対する制裁であり、「その制限解除はカルテルを整備し、再建させることが事実上の条件である」(十年史20p)と鉄鋼各社は厳しく受け止めていた。
    ▼緊急対策委員会・委員長として=この立て直しに動いたのが稲山だ。カルテル鉄鋼18社社長は10月24日、鉄連会議室で再建を協議した結果、高炉7社と平炉3社常務クラスを中心に緊急対策委員会が結成された。その筆頭常務が稲山(八幡常務)、藤井(同)、山本(富士常務)、中島(同)、金子(鋼管常務)らだった。緊急対策委は11月11日会合を開き、①通産省の行政指導により生産調整を行う。②カルテル業務委員会(7社の購買部長級で結成)は原料部会に改めて、鉄屑購入限度と価格を決める。③違反行為に対する罰則などを検討する。再建カルテルの発足は56年1月をメドとする等であった。その最大の柱の一つが、米国輸入屑の共同行為(「米国屑購入カルテル」の結成)の認可、承認の取り付けだった。国内鉄屑需給を安定させるには、外部から鉄屑を注入し絶対不足を解消しなければならない。米国輸入屑の義務購入を骨子とする共同購入や買付け価格平均(プール)計算の実施を盛り込んだ協定書を作成した(米国輸入屑カルテルの創設)。
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    ▼ルリアブラザーズ契約と稲山=再建(第2回)カルテルは56年1月認可された。今回のカルテルの特徴は国内鉄屑の需給安定のため輸入屑引取りの共同行為(輸入屑カルテル)が認められたことだった。ただ当時、カルテルは惰弱だった。需給安定のためには輸入屑の注入がいる。
     そのタイミングでルリアブラザーズ社の幹部が米国屑の買付をルリア社に一括して委せれば確実に確保できるとして大量一括・長期契約方式の採用を稲山・八幡常務に申し入れた(56年7月)。
     稲山は7月26日、高炉3社購買部長会議でこれを提案すると共に、永野・富士社長、河田・鋼管社長にも説明、協力を求めた。当時、鉄鋼は日米政府間の外交交渉よって米国屑を確保しようとし、日本商社の現地買付を考えていた。このため関係者の大方は、ルリアの提案は日本商社の現地買付阻止が狙いであり、また輸入屑の大半をルリア1社だけに委せるのはあまりに危険だと警戒した。
     ただ絶対数量を確実に確保するのであれば(商社、スポットよりも)、一括・大量契約方式は捨てがたい。そこで需給委員会は7月31日、ルリアだけでなく他の有力シッパーも起用した複数契約が望ましいとした。この修正案を受け高炉3社購買部長は8月、まず稲山・八幡常務から提案のあったルリア社と年内33万5千㌧、ヒューゴ・ニュー社と9万5千㌧(計43万㌧)の契約を決めた(1958年「鉄屑年鑑」419~422p。十年史60p)。
    ▼五社会破れたり=三菱商事・大倉徳治が鉄屑カルテル十年史に寄稿した談話によれば、商社はカルテルの大量輸入に備え当時、戦前の「六洋会」に倣って「五社会」(三井、三菱、木下、朝日、日商)を結成していた。そこに56年3月、八幡製鉄など鉄鋼各社から五社会に米国屑輸入活動の許可が降り、同年7月から8月にかけ米国東海岸、湾岸(ガルフ)、西海岸の3班に分けて鉄屑調査団を派遣。調査団は米国の現地買付けは可能で、かつ有利であるとの結論を得た。
     ところがカルテルは調査途中の8月、米国派遣商社員を急遽呼び戻した。帰国報告に対し稲山は「鉄屑はミルにとっては米びつの米である。現在は数量の確保こそ先決問題であって、商社側は安く買うと言うが、使う側の自分たちとしては安いか高いかは問題ではない。現地買付け案は中止して貰いたい」と、商社による現地買上げ構想を打ち切った(十年史282~289p)。
    ▼戦後鉄鋼史によれば=鉄鋼連盟の公式記録は「鉄鋼業界は57年度は相当大幅な生産の伸びが想定され、大量の米国屑の確保が必要とされる状況にあった。従って米国の鉄屑輸出制限という緊急事態に備えて、鉄屑調査団を派遣したことは時宜を得たことではあったが、これらの調査を種々参照の上、米国側の刺激を極力避け、しかも量的確保を図るため新しい安定購入方法を行うべきであるとの結論」に達した(365p)と言う。何とも歯切れが悪いが、「米国の刺激を避け量的確保を図る」とは、時の相場で買うとの相場追随購入の婉曲的な表現である。
    ■稲山・太平洋ベルトコンベヤー方式=鉄屑カルテルの最大任務は、鉄屑価格の低位安定にあった。第1回の崩壊を教訓としたカルテルは第2回以降、国内需給の外堀として輸入屑の「安定確保」に全力を傾け一元窓口の「米国屑購入カルテル」を作り上げた(56年1月)。しかし米国鉄鋼スト後にも予想される米国内の鉄屑需給の逼迫にどう対処するか。価格ではない。数量確保をこそ最優先すべきとした。これが商社買付に代わる「カルテル一括・長期契約」方式を決断させた。カルテルは現地調査を打ち切り(8月)、米国シッパー6社と56年11月、年間205隻(約180万㌧)の長期契約を「米国政府の制限に抵触せざることを条件」に締結した(第4回カルテル)。商社を通さず、直接カルテルが米国シッパーと長期契約を締結し、米国屑をコンスタントにベルトコンベヤーに乗ったかのように流す、いわゆる稲山・ベルトコンベヤー方式が完成した。
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    ▼遣米鉄屑使節団と稲山(57年2月)=ただこのコンベヤーは「米国政府の制限に抵触せざることを条件」にしか動かない。その米国商務省が56年のスエズ動乱と全米鉄鋼スト終了後の57年2月1日、輸入制限を骨子とする報告書を議会に提出。米国政府は同月19日、日・英・欧州共同体に対する鉄屑輸出許可の停止を発表した。米国屑の輸出が止まれば、鉄屑カルテルは瓦解する。
     驚愕した日本政府と鉄鋼業界は、状況打開のため永野・富士製鉄社長、稲山・八幡製鉄常務ら鉄鋼業界トップと通産省重工業局次長を長とする「鉄屑使節団」を編成し、使節団10名が2月12日慌ただしく訪米した。この経緯は日本鉄鋼連盟の「戦後鉄鋼史」の216p以下に詳しい。
     これによれば日本は55年以降の急速な経済回復から鉄鋼生産も記録的に伸張し原料、ことに鉄屑不足が重要問題となった。国内市場の安定策としても輸入屑の確保は必須で56年4月以降、米国屑輸入が激増した。米国議会鉄屑報告書は、国内対策と合わせ年率5%の輸出の伸びが予想される日本、英国、欧州共同体と協議し、早急な輸出軽減措置が必要だと指摘していた。
     日本は輸入屑必要量308万㌧のうち米国屑248万㌧の確保が危ぶまれた。2月18日から4日間、商務省長官室で米国側16人、日本側11人で鳩首協議が行われた。結論としては、57年度の重量屑の輸出は日米政府間で一定量は認めるが、英国・欧州共同体との公平を期すため細部はさらに具体的に検討することになり、鉄屑使節団は3月上旬帰国した(216~217p)。
     米国は交渉途中の2月27日、重量屑以外の輸出停止を解除。3月25日、重量屑(厚さ3㎜以上)を含む鉄屑輸出の再開を発表し、大方の合意のメドはついた。57年6月、正式に147万ロング㌧の重量屑の対日輸出承認が与えられ輸入屑問題は決着した。
     対米交渉の決着に誰よりも安堵したのは稲山だったろうと想像される。が、これが暗転した。
    ▼鉄鋼不況の中で=長期契約約180万㌧が稲山らの対米交渉の結果、つつがなく入る。まさにそのタイミングで金融引締めによる鋼材下落(前年末、小棒7万8千円→同年央3万5千円)と先の鉄屑輸入引き取り問題が国内鋼材、鉄屑価格を封じこめた。通産省は58年1月から鉄屑カルテル参加メンバーに鋼塊の1割減産を指示。鋼塊生産限度量の指示は従来鉄屑消費節減に目的があったが「需給を調整するための生産制限に重点が移った」。「この鋼塊生産面からの指導は更に鋼材生産の規制に発展した」。値下がりの激しい小形棒鋼など5品種を対象に行政指導により品種別生産規制を進めることとし、58年3月6日省議で決定した(政策史第6巻460p以下)。
    ***
    ▼鉄鋼公開販売制度(鉄鋼公販)と稲山=「鉄鋼市況は57年から58年にかけ大きく下げ、深刻な不況に見舞われた。市況を安定させるために、各企業が話し合ってムダな競争をしないことが不可欠であると考えた。しかし独禁法に触れる恐れがあった。そこで私は横田正俊公取委員長をたずね、戦前の共販(共同販売組織)の実質的復活である「公販制度」の必要性を訴えた。
    「こういう方法をでもとらないと、景気もよくならない。このままみんな潰れたら、一体、日本はどうなるんですか」と、鉄鋼の置かれている苦しい現状を訴えたら、横田委員長はよく理解してくれ、オーケーを出してくれた」。「こうして58年6月通産省は『鉄鋼市況対策要綱』を策定して、ここに公開販売制度が発足した」(「私の鉄鋼昭和史」122p以下)。
    ▼通産省「政策史」、「稲山試案」によれば=58年度に入ると鉄鋼市況はさらに悪化。「鋼塊を主体とする生産調整から鋼材を中心とした生産調整」に移行した。しかし減産強化にも係わらず効果はさしてなかった。そこで通産省は減産効果をあげるには公式の勧告操短が必要との結論から5月16日公取の了解を取り付けた。ただ鉄鋼各社の足並みは揃わず、混乱が露呈。しかも減産中心の不況対策には業界内部から異論がでた。このため鉄鋼業界は6月6日厚板委員会と条鋼委員会を開き、市場対策や共同販売、監視体制の設置などを協議し、これを「稲山試案」としてまとめた。
     内容は①各社の販売内容を公開し「集団販売」を実施。②供給余剰分は買取機関を設けて買い取る。③この買取量を次期減産量のメドとする。④新安定価格帯を確立する、などであり6月13日通産省と鉄鋼7社の鉄鋼不況対策合同委員会に提案。通産省は6月20日「鉄鋼市況対策要綱」を策定し、同「要綱」に基づき鋼塊、鋼材など5品目を対象に各社販売数量、販売価格を公開する「公開販売制」を実施した(政策史第6巻462p以下)。
     実施組織として重工業局長を委員長とする市況対策委員会が設置された。構成メンバーは参加メーカー全員。下部機構として総合部会と品種別部会が設置された。また商社部会も置かれ指定販売業者約170社から選出された14社によって構成された。58年8月「監視委員会設置要綱」が策定され各メーカーの減産実施状況、問屋を含めた販売価格を監視する監視委員会が設置された。
     「公開販売制度は発足後半年あまりで不況対策としての目標を達成し」た(同467p)。
    ***
    ▼鉄屑・製品の完全カルテルと稲山=これは事実上の「鉄鋼製品カルテル」であり鉄屑カルテルとの両輪(完全カルテル)が動き出した。まさにその故に、このタイミングで鉄屑5カルテル体制(58年9月)が出来上がり鉄屑購入の90%支配が完成した。またその故に、カルテル対応の新たな鉄屑業者の全国組織(日本鉄屑問屋協会)が発足した(58年11月)。
     この「鉄鋼製品」と「鉄屑」の完全カルテルの生みの親、それが稲山そのひとだった。
    ▼限界がきた「公販」制、次の一手とは=58年以降は鉄鋼メーカーと協議の上「公開販売制度」を創出した。それが「不況公販」(57年7月)、「好況公販」(58年6月)、「安定公販」(59年5月)だった。ただ行政指導による鉄鋼価格の公開販売(公販)制度は、程度が過ぎた。
     その後は公正取引委員会から度重なる「疑問」を投げかけられ、67年度以降は年次報告にも明記されるようになった。なかでも69年度版報告では「当委員会は、鉄鋼公開販売制度は実施後すでに10年を経ており、その効果にも疑問があるので独占禁止政策の立場から根本的に再検討する必要があると考えている」(87p)と強い疑義を表明した。稲山らには次の一手が求められた。それが行政指導の「完全カルテル」を超える完璧な共同行為(企業合同)の追求だった。
    ▼70年3月・新日鉄と初代稲山社長=70年3月31日、八幡製鉄と富士製鉄が合併し新日本製鉄が誕生した。この合併は通産省と鉄鋼がほとんど二人三脚の形で追求してきた「鉄鋼の需給及び価格の安定」の究極の完成形にも見えることだ。戦後、通産省は独禁法を改正し共同行為(鉄屑カルテル)に道を開き、行政指導を駆使して「公販」を実現し、「鉄鋼の需給及び価格の安定」を実現した。その公販制度が公取の「疑問」で揺らぎ始めた。65年には「住金事件」もあった。もはや「行政指導」に頼ることはできない。残るは究極の共同行為、企業合併だった。新日鉄の登場は設備、価格競争に疲弊した業界の総意だったとも言える。だからこそ八幡・富士の大型合併論議のさなか、住金事件で永野、稲山らと激しく対立した住金・日向も、合同是認の意向を表明したのだろう。
     その新日本製鉄トップに旧富士の永野が会長として、旧八幡の稲山が社長として座った。
     これは15年前の初代カルテル委員長永野・富士社長、業務委員長稲山・八幡常務の再現であり、共同行為(カルテル)の究極の最終形態、そのものを象徴する人事ではあるだろう。
     稲山が「ミスター・カルテル」と称されるのは、故なしとはしない。

  • 井上 浅次(いのうえ あさじ)-日本から海外に・大和工業を作る
     井上浅次は、戦前は中山製鋼の技術者、寿重工業工場長として頭角を現わし、戦中に独立。戦後は大和(やまと)工業として電炉を導入。H形鋼へ進出した。
    ▼井上浅次=浅次は1908年(明治41)7月姫路の旧家に生まれた。姫路中学(姫路西高校)から数学が得意だったこともあり27年、金沢高等工業学校(金沢大学・工学部)・機械工学科に進んだ。卒業は30年(昭和5)。時代は「大学は出たけれど」の昭和不況のドン底。同期の36人のうち卒業の年に就職できたのは3人。しかも縁故関係者だけだった。浅次は新聞広告で見た大阪の町工場(共立電気製作所・1㌧電炉で鋳鋼品製作)で8ヶ月働いた後、薄板製造に乗出したばかりの中山製鋼所に31年3月入社した。当時の中山製鋼は2年前に導入した薄板ライン(29年)がようやく軌道に乗り、次は自前の製鋼建設という時期だった。
     工業高校・機械科出の技術者には打って付けの天地だった。入社3年は中型アングル工場に配属されたが、中山製鋼が平炉(33年)に続いて電炉(5㌧)で鋳鋼を製造する(36年)にあたって鋳鋼課長に抜擢された。中山悦治が知人から京都の鋳鋼会社(寿重工業・七条工場)の立て直しを依頼され、浅次に白羽が立った。
     37年工場長として赴任する浅次は、退路を断つべく中山を退社した。浅次の指導でボロ工場が優良工場に生まれ変わった。その浅次が43年晩春、統制令違反(接待費)容疑で120日間拘留された(不起訴)。浅次の役員就任を阻む寿重工業・社内の権力闘争に巻き込まれたもので、これを嫌った浅次は退社。独立を目指した。
    ▼大和工業=ホームページはこちら
     44年11月、兵庫県飾磨郡御国野村に川西航空機・協力工場として創業した。敗戦直後の混乱期、姫路の国鉄に農機具を納めた代金の代わりに浅次はレールを受取った。山陽電鉄に話したところ、それを分岐器の材料とするから、作ってくれと依頼されたのが鉄道用軌道に進出するきっかけとなった(47年軌道用品製作)。
     その後、旧制金沢工高の知人・友人のルートをたぐって、近鉄・阪神・阪急・京阪など関西私鉄各社に販路を拡大し、48年には国鉄の入札業者の一角に食い込み「ポイントの大和」と知られるに至った。
     飛躍のバネとなったのが50年の朝鮮戦争に際し連合国の現地調達機関GPAへのレール入札の成功だ。56年3㌧電炉、59年15㌧電炉を設置。60年には大型圧延を導入し、鉄道軌道(レール)付属品生産の一貫体制を構築した。61年本社を姫路市西呉服町に移転。同年12月、新設の網干工場に40㌧電炉を導入。73年50㌧電炉増設。76年5月から高炉製品と目されていたH形鋼の生産を開始した。
    81年(昭和56)12月、社長職のまま井上浅次没。享年73。
    ■井上浩行=1945年2月兵庫県生。67年東工大・工学部機械科卒、69年3月同大学院経営工学研究部卒、同年4月大和工業入社。78年代表取締役専務。81年、父・浅次の後を継いで社長に就任。米国、タイ、韓国など海外に拠点工場を開設した。
    ▼海外に進出=87年2月米国電炉メーカーのニューコア社と合弁でH形鋼生産のニューコア・ヤマトスチールを設立(20年現在・株式49%)。88年9月米国住商グループと合弁でアーカンソー・スチール・アソシエイツ(鉄道軌道用品製造)を設立(株式50%)。92年4月タイにサイアム・ヤマトスチールを設立(株式64.18%)。2002年韓国にヤマト・コリア・スチールを設立(05年ワイケー・スチールに改称。株式100%)。09年2月中東のバーレーンにスルブ(SULB)BSCを設立(株式49%)、11年6月にはサウジアラビアにサウジスルブを設立(株式49%)した。
    ▼国内体制=2002年2月、創業以来のコア・ビジネスである軌道用品部門を分社分割し、大和軌道製造を設立。03年10月大和工業・鉄鋼部門と重工部門を併せて分社化し、ヤマトスチールを設立(大和工業は持株会社として国内及び国外の大和グループの経営を統括)。
    参考:「大和工業30年史」1976年大和工業発行

  • 今井 敬(いまい たかし)-鉄屑・鉄鉱石一筋、新日鉄7代目社長
     富士製鉄・本社購買部原料課鉄屑係を振り出しに新日鉄社長。原料担当重役として(LD転炉の普及から買止めていた)鉄スクラップの購入再開に踏み切った。鉄スクラップとの係わりは深い。
    ▼1929年生まれ。52年東大法卒、同年4月富士製鉄入社。81年取締役。83年常務。93年社長。
    ▼原料担当常務として=日刊市况通信社の対談(83年8月)で以下のように語っている。
     ▼「この12~13年の間に、高炉は条鋼や線材は電炉に任せ、板関係は高炉とする分野調整が成り立った。しかし先行きは譲るわけにはいかない。コストでみると10年前の第2次石油危機前には熔銑コスト1万5千円程度、鉄屑1万8千円で熔銑が優位だったが、2つの石油危機を経過して熔銑コストは2倍以上になったが、鉄屑はせいぜい2万5千円程度で、鉄屑が優位だ。現在、転炉の鉄屑配合は7%程度、米国やECの平均22~23%に比べ低い。15%まで引上げるべきだ。熔銑は熱を持っているので転炉に鉄屑を使えば電炉に対抗できる。差が5千円以上なら鉄屑を重点的に使うべきで長期的な視野で、ある程度鉄屑を使っていく(注)」。
     93年新日鉄第7代社長(~98年)に就任した今井は持論だった鉄スクラップ購入体制を敷いた。93年社長、会長(98年~2003年)に就任した。
     *注=新日鉄は82年8月、74年以来8年ぶりに(光を除く)全国7所で鉄スクラップの購入再開に踏み切った。2010年以降の日本製鉄の配合率は15%超と推定される。

  • 今泉 嘉一郎(いまいずみ かいちろう)-官営製鉄所の栄職を捨て民間製鉄を創業
    日本鋼管の創設者。「日本の近代製鉄の父」とも称される。
    群馬県に1867年(慶応3)6月に生まれた(1941年6月没)。前橋中学に入学したが翌年、父の死から中学を中退し、上京。独逸協会学校などを経て84年大学予備門(後の一高)入学。89年帝国大学工科大学(現東大工学部)採鉱冶金学科入学(92年同科卒業)。農商務省出仕後の94年製鉄の学理及び実地習練のためドイツ・フライベルク鉱山大学に留学。欧州滞在中、官営製鉄所創設に要する調査を命じられ、帰国後、官営製鉄所の創業に従事。1901年(明治34)官営(八幡)製鉄所の開業に伴い、製鋼部長に就任した。
    ***
    ▼官営製鉄所は火入れしたが、技術的な未熟さから立ち上がりは極めて難航した。今泉は官営製鉄所の建設には青写真の段階から立ち会い、かつ海外で鉄鋼事業の実際を調査してきた。その製鉄所が連年の赤字に陥没した(黒字に転換するのは火入れから10年後である)。
     今泉は経営不振の原因は、官業の弊にあるとして「製鉄所処分案」を作成し、「民営論の急先鋒」(日本鉄鋼史・明治編)となった。当時、鋼管類はすべて輸入品であった。国産化に注目したのが大倉喜八郎で英国会社と共同で鋼管会社の設立を計画した(1908年)。
     原料である帯鉄は日本で調達する必要があるため、当時製鉄所鋼材部長兼工務部長だった今泉にその要請がいき、今泉は欧州出張に併せて鋼管事業を詳細に調査し大倉に報告した(09年)。
     英国との共同経営は中止となったが、大倉は今泉を招聘し自ら事業化を思い立ち、今泉も官を辞した(10年4月)。その後、大倉が鋼管事業計画を放棄したことから、友人の白石元治郎と日本鋼管株式会社を設立(12年)。以後は民間技術の育成、発展に尽力した(詳細は白石元治郎の項)。著作に『鉄屑集』などがある。1941年死去。引用参考:日本鋼管社史(30年史)

  • 井村 荒喜(いむら・こうき)-機械工具と電炉会社を富山に創る(不二越)
     富山は水力発電で電気産業が興った。井村は機械工具の国産自立を目指して不二越を起業した。
    1889年(明治22)長崎県島原市生まれた(1971年没)。長崎医学専門学校への入学を志して蘭医系統の私塾「行余学舎」で学ぶ。しかし生家の財政難から中退を余儀なくされ、長崎民友新聞で配達員や事務員として勤務。その後、台湾へ渡り台湾帝国製糖で南投鉄道敷設を担当。帰国後は福沢桃介の示唆、本多光太郎博士の指導をうけてハクソー(金切鋸刃)の材料研究と試作に着手。中越水電支配人を経て、1928年(昭和3)に富山市で不二越鋼材工業(のちの不二越)を創業した。
     1930年(昭和5)には「ハクソー連続焼入炉」を開発し国内初の量産化に成功。これによって不二越の経営基盤を築くと翌年からはドリル分野にも進出した。欧米の最新鋭設備を積極的に導入し、エンドミル、歯切工具、精密工具、ベアリングなどの国産化も推進。1936年(昭和11)までに約70品目もの新商品開発に取り組み、総合工具メーカーとしての地位を不動のものとした。
     また「従業員の生活の向上と幸福は、高賃金だけで解決されるものではない」として、戦前から社員宿舎などの福利厚生施設を整備したほか、自社運営による病院や工業高校も開設した。戦後は日本機械工業会副会長、富山テレビ社長なども務めた。1971年(昭和46)、81歳で死去した。
     (「社長のミカタ・賢者の言魂」より全文引用)
    ■同社沿革㏋によれば=1928年(昭和3)富山市に不二越鋼材工業を創立する。30年(昭和5年) ハクソー連続焼入炉を開発し量産に成功。ドリルへ進出(31年)。36年(昭和11年) 不二越研究所を別法人で設立、創業以来、17年間(28~45年)で70品目余にのぼる新商品を開発する。37年(昭和12年) ドイツへ技術者を派遣し、製鋼、ベアリング技術を習得。富山本社本館をつくる。従業員教育のため不二越工科学校開校(48年不二越工業高等学校に名称を変更)。38年(昭和13年) 東富山製鋼所操業開始 材料から製品までの一貫生産体制を確立。39年(昭和14年) ベアリングの生産を開始。工具・ベアリングの生産設備を自社製作し、工作機械部門を発足。40~45年事業拡大の一途、全国に工場18カ所、36,000人(うち富山工場20,000人)を擁す。40年事業所内診療所を開設、不二越病院とする(現・富山県立中央病院)。42年(昭和17)衆議院議員。
     戦後=45~46年作業工具、食品機械など民生品、自転車オート三輪車(那智号ブランド)、薄鋼板、焼玉エンジンなどを製造。58年 油圧機器分野に進出。63年社名を株式会社不二越に変更する。新幹線用のベアリングと材料を開発。64年市川忍社長(1964~71年)。経営再建へ資産を売却し、人員を整理(1965~66年)。工業炉分野へ進出。69年油圧式で産業用ロボット分野に進出。工作機、油圧事業部を発足。71年5月死去。

  • 巖本 博(いわもと ひろし)-西日本最大のヤード業者(巖本金属)
    京都市南区 ホームページはこちら
     西日本を代表する最大規模業者。京都本社を中心に10数拠点工場を持つ。
    ▼巖本光守=1926年12月生。57年巖本商店を創業し66年本社現在地を取得、プレス機を導入して本格的に営業を始め、積極・果敢なヤード経営に徹した。
    ▼拠点工場=70年巖本金属(株)を設立。72年本社大型ギロチンの導入を皮切りに、74年滋賀・栗東工場(同年ギロチン、82年シュレッダー、95年敷地・設備を移転)、84年滋賀・愛知川工場(85年ギロチン、91年シュレッダー)、87年滋賀・水口工場(ギロチン)、90年岐阜工場(ギロチン)、94年三重工場(ギロチン、04年敷地・設備を移転)、2000年京都・久御山工場(04年ギロチン)、02年福井工場(05年ギロチン)、10年滋賀・長浜工場、13年大阪工場を開設した。19年京都工場新社屋完成・移転。京都工場非鉄ヤード新設。
    ▼巖本博=1962年3月生。大学卒業後、巖本金属に入社。2001年社長に就任した。
    13年工場拡充、扱い品の多様化・多角化、コンプライアンスの要請や環境変化に対応するため博社長の統括組織として再編成した。
    ▼新戦略として=21世紀の日本では、右肩上がりの成長は望めない。新たな戦略が必要となる。国内では自社「総てのハード(設備・工場)とソフト(販売情報)を提供し、その活用、拡大」をベースとする同業他社とのネットワーク事業に乗り出した。
     同業他社に戦略的提携を呼びかけ、コンプライアンスに則った加工、運搬事業を目指す構想だ(BRUE PROJECT・ブループロジェクト)。さらに処分業の許可を持つ14年3月(株)黒田商会、エコニス(株)を買収。19年4月産業廃棄物処理事業として株式会社黒田商会からIKウェイスト株式会社に商号変更し、さらに広くアジアの貿易展開を目的に、海外貿易部門も立ち上げた(14年東京オフイス、16年名古屋オフイスを開設)。
    ▼事業構想=鉄スクラップ事業は都心部周辺に相応の用地を必要とする。同社はこの不動産知識を金属事業と並ぶ主要事業に育てた(不動産事業部)。
    京都は日本のハリウッドである。有能な若手に良質な映画製作の場を提供する。配給・製作事業に新たな商機を見出し、14年エンターティメント事業を立ち上げた。
    ▼IKエンタテイメント事業=「映画製作」を通じて「映画業界を牽引する監督・俳優・スタッフに活躍の場を広げること」。それによって「若手アーテスト育成」を図ること。ことに「これからの業界を担う若いアーテスト、映画監督を目指す学生へ作品制作を支援。また本社4階「IKアニバーサリーホール」を映画監督、劇団、ミュージシャンを志す学生に貸し出し、収益は国連WFP(国際連合世界食糧計画)協会に寄付している。その▼作品一覧。「パラサイト 半地下の家族」「ハナレイ・ベイ」、「焼肉ドラゴン」「幼な子われらに生まれ」「無曲 MUKOKU」「ミュージアム」など(同社㏋より)。

  • 内田 浅之助(うちだ あさのすけ)-鉄屑統制会社、関東推薦の常務(内田一族)
    ▼大衆人事録・昭和17年・東京版によれば=銅鉄商内田商店・内田幾助の4男。明治33年6月東京生まれ。大正13年慶応大学経済科卒業。欧米を視察。昭和13年10月東京銅鉄商事(指定商)を創設。日本鉄屑統制会社・常務。銅鉄商(多額納税者)・本所区会議長。
     伊藤信司によれば、昭和13年の日本鉄屑統制会社の設立にあたり、大手と中小の会社双方からの設立準備委員として慶応大学卒の学歴を持つ岡(大阪)と内田(東京)が加わった。「内田さんは当時の多額納税者、内田商店の一族、吾嬬製鋼の創立者清岡さんもここの番頭でした」(伊藤、岡の項参照)。統制会社設立後、岡も内田も常務に就任した(岡憲市の項参照)。

  • 大石 一彦(おおいし かずひこ)-NGPの創立者・ネット販売網を開発
     NGP日本自動車リサイクル事業協同組合の創立者。自動車中古部品業者の在庫共有のシステム化を図り販売網とシステム構築を指導、開発した先駆者の一人である。
     大石は親戚と共同で東邦物産を設立。1985年4月在庫共有化に賛同する九州3社で西日本グッドパーツグループを立ち上げた(86年参加19社)。87年全国200社の共同化を目指して本部を開設し、名称も日本グッドパーツグループ(NGP)に変更した。
     中古自動車部品販売の泣き所は地域販売に制約されることである。大分県別府市に拠点を構えリサイクルパーツ在庫の共有販売化を軸とする流通システム近代化を求めて仲間を募り、在庫共有、中古部品販売ソフトと流通ネットを築きあげた。大分という中央から遠い地域だからこそ、その制約を乗り越えるIT技術利用の発想が生れる。
     大石らは維持費のかかるオフコンではなく、将来普及が予想される小型パソコンでのソフト開発に着手し89年オンラインシステム(スーパーライン)を開発。91年5月から自動車中古部品の在庫管理・受発注システムを含むオンラインの営業活動に入った。
     92年2月創設以来7年間、陣頭で指揮し全国を走り回っていた大石に突然の不幸が襲った。
    その前後、体調不良を覚え検査入院したベッドの中での発症だった。懸命の救命措置で最悪の事態は回避されたが、この時から「彼の唇の力は奪われ、今日に至っている」。NGPは大石と家族のその後の生活保障を援助し続けると決議し、名誉顧問として遇している(18年2月「名誉顧問」メッセージも)。

  • 大島 高任(おおしま たかとう)-幕末、日本最初の洋式高炉を操業
     幕末、鉄鉱石を使って洋式(木炭)高炉を建設、出銑に成功したわが国鉄鋼業の先駆者である。
    南部藩盛岡に文政九年(1826)に生まれた(1901年没)。17歳の時、江戸にのぼって3年間蘭学を学び、21歳の時、藩命によって長崎に遊学し蘭書によって西洋の兵法、砲術、採鉱、精錬などを修めた。嘉永四年(51年)、惣左衛門と改名し藩の鉄砲方に任命され、藩士への砲術伝授に際し「大砲術」と称した。▼嘉永六年のペリー来航の翌年、水戸の徳川斉昭は大砲の鋳造(鋳鉄大銃製造所)を決意したが、藩内には一人の蘭学技術者もなく南部・島津・秋田の3藩に協力を求めた。
     大島はこれに参加し安政二年(55年)に水戸に2基の反射炉を築造、完成させた。安政四年(57年)銑鉄生産のため南部領大橋(釜石)で、岩鉄(鉄鉱石)を使い、木炭を炉頂から投入する日本最初の洋式高炉での製銑に成功した。幕末期、釜石には大島の直接・間接の指導から合計10基の洋式高炉が築造された。1869年(明治2)、名を高任に改めた。
    ▼明治以降の大島=70年高任は岩倉具視の一行に従って欧米視察に赴き、見聞をひろめ2年後に帰国。工部省は釜石に出向させた。74年、政府は釜石・大橋鉄山の官業化を決定し、その新製鉄所建設を巡って「お雇い外人」と高任の間で意見が対立。政府は高任を宮業化事業からはずし、秋田県の小坂鉱山への転属を命じた(「お雇い外人」は近代的大規模工場建設を提案し、高任は作業・立地条件と漸進的な工場建設を目指したが、政府はお雇い外人の意見を容れ、鉄道運輸、機械設備を総て英国から輸入し80年作業を開始したが失敗。83年官業を廃止した)。
     史書は「工部省の高級官僚に、真に日本の経済と技術の風土に立脚した思想の持ち主がおり、幕末以来の実践に富む高任の見識を採用しうる勇気があったならば、その後の日本の近代製鉄技術史は大きく書きかえられていたにちがいない」(江戸科学古典叢書7・解説)と記す。
     89年老齢を理由に職を辞し、翌年日本鉱業界の会長となり74歳で死去。
     ▼大島が火入れしたのは12月1日(戦後「鉄の記念日」とされた)だが、出銑日は12月10日。燃料は木炭を使い(洋式木炭高炉)、水車で送風した。

  • 大谷 米太郎(おおたに よねたろう)-相撲取りから戦前最大の平炉・大谷重工を創業
    大谷米太郎は一代で相撲取りから平電炉業最大の大谷重工業を作り上げ、戦後は星製薬の経営再建に尽力し、東京五輪前にはホテル・ニューオータニなどを建設した。14歳違いの弟竹次郎は兄の事業を助け、また自らも鉄鋼業界に貢献し、大谷記念美術館を残した。
    ▼大谷米太郎=1881年(明治14)、富山県の貧農に生まれた(1968年5月没)。幼少から力があったため田舎相撲で生計を支えた。24歳で父と死別。31歳上京し荷揚げ人夫を駆け出しに米屋、八百屋、風呂屋、酒屋などを渡り歩き、大相撲が米国興業を行うとの話を耳にした。商売するなら米国だ。そこで相撲取りになった。しこ名は鷲尾嶽。幕下筆頭で引退し、酒屋(1913年、鷲尾嶽商店)をはじめた。「損して得取れ」の商才から国技館は一手扱いとなり、支店も広げ酒の卸をするまでになった。これを元手に15年(大正4)深川で鋼材ロールの東京ロール製作所を設立した。
    ▼関東大震災(23年)後、復興需要で急成長した。34年株式会社に改組。軍の増産要請に応えて満州(鞍山)、華北に100万坪の工場を建設し本渓湖、牡丹江、新京にも工場を建設した。兵庫県尼崎の芋畑2万坪を買ってロール工場(大阪薄鉄板製造所)を立上げ、39年から東京の羽田工場の建設に着手。その間に大阪市西淀川区の外島の埋立地45万坪を入手。特殊鋼用の溶解炉建設を目指し「大谷製鉄」を設立し、40年東京ロール製作所と大谷製鋼所(旧大阪薄鉄板)を吸収合併し全国9位の資本規模(1億1,300万円)を持つ大谷重工業を設立。当時「鉄鋼王」と呼ばれた。
    ▼戦後は星製薬や昭和電極などを始め、経営不振に陥った会社を再建。相撲取り出身のなじみから蔵前国技館の建設に協力した。64年の東京五輪の宿泊施設としてホテルニューオータニを建設、ホテル時代の口火を切った。1968年大谷重工業は経営危機に陥った。系列会社の資金繰りの行き詰りが破綻の直接のきっかけだが、高炉へ脱皮した関西平炉3社と違い、平電炉トップとして新旧高炉との価格競争に巻き込まれたのが最大の要因だ。大谷重工業は稲山・八幡製鉄の経営支援を受け、米太郎は実権を失った(4月)。直後の5月19日、脳腫瘍のため死去。享年86。
     日経新聞64年3月の「私の履歴書」(掲載25回)で、その独自の人生哲学を語った。
    ▼大谷竹次郎=1895年(明治28)に生まれた。兄のロール製造会社に入社し、事業を助けた。戦後の1962年(昭和37)、竹次郎は世界最大の太物電極の開発と国産化に成功した。当時の日本鉄鋼業界にとってはノーベル賞級の価値があったとされる。兵庫県西宮市にあった自宅を、自分が集めた書画や美術品とともに西宮市に寄付した(現在の大谷記念美術館)。1963年、米太郎、竹次郎の兄弟二人は小矢部市の名誉市民に推薦され、全国でも例のない兄弟そろっての名誉市民が誕生した(この項、「伝えたいふるさとの100話」)。

  • 大辻 政一 政市、政三とも(おおつじ)-戦前・戦中の中京地区を代表する「指定商」
     戦前の日本鉄屑統制会社創設当時、名古屋地区からただ一人、監査役に選ばれた。鉄屑統制会社指定商。戦後も中京地区を代表する有力会社として種々の提言活動を行った。
    ▼大衆人事録・昭和17年・愛知版によれば=古鉄商・多額納税者。明治29年生。明治41年家業を継ぐ。太和屋。日本鉄屑統制会社・監査。
    ▼鉄屑界・第2巻7号によれば=明治29年生。愛知県出身。鉄屑界には大正4年入り、大正9年親から貰った2千円の資金と6円50銭の借家賃で独立開業。開業以来、今日(昭和29年)まで死線を超えること15回。鉄屑業以外の事業に進出したこと3度(浅野銑鉄=昭和6年から1年間。赤字3万円。駆虫薬=昭和24年から2年間。赤字2千万円。合成樹脂業=昭和26年から3年間。赤字4千万円)。現在は合成樹脂は娘に任し本来の鉄屑業に戻っている。▼役職=鉄屑連盟副会長。愛知県製鉄原料協同組合理事長。▼意見=「業界で特に遅れているのが輸送の機械化である。自動車積み降ろしの近代化を行わなければならない」(「肩書は大和屋金属 専務」とある)。
    ▼大和屋金属=昭和24大和屋金属㈱として法人に改組(榊原房尾社長)。現大和リッテク㈱。

  • 大貫 作次郎(おおぬき)-明治の中葉期で製鉄原料商の草分け的存在
     神奈川県中郡相川酒井村。明治8年5月生(明治41年6月歿・34歳)。
    明治35年3月八王子明神町で店舗開設、銅鉄製紙原料及び製鉄原料商を営んだ。「明治の中葉期で製鉄原料商の草分け的存在」。合名会社大貫商店の基礎を作った(長男栄吉が継ぐ)、次男・昇一、立川市柴崎町で大貫商事開業(八王子市会議員・鉄屑懇話会理事)。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 大原 聡英(おおはら)-「鉄付き非鉄スクラップ」輸出の草分け(大原商事)
     日本の廃モーターや鉄付き非鉄スクラップ(雑品)の草分けは誰か、との議論には定説がない。が関西では大原聡英が最初だろうと編者は考える。また「鉄付き非鉄スクラップ」と表記するのは「雑品」との表現は異物、不純物の混入を言葉として許容する、それでは商品がかわいそうだ、内容に即し言葉を選ぶべきだとの大原の申立てに従うからである。
     大原聡英は1962年大阪に生まれた。縁者が大阪市内でヤードを経営していたことから鉄スクラップに親しく育った。大学卒業後、高校教師を勤めていたが、折からの「円高不況」のなか子供の頃は宝の塊だった廃モーターが放置され(解体手間と時間がかかる)厄介物扱いにされていることに衝撃を受けた。日本で採算が合わないのなら、人件費の安い海外でやればいい。在日コリアン三世として将来を賭けるのなら今だ、と決意した。85年弟・正英と大原商店を創設し大阪市西淀川区に集荷ヤードを開設、廃モーター類を回収し韓国向け輸出を開始。86年尼崎港集荷ヤード開設。同時に配電盤など処理が困難な「鉄付き非鉄スクラップ」扱いに乗りだした。
     92年(有)大原商店を設立し中国向け輸出を開始。95年上海に事務所開設。98年大原商事(株)に改組。2000年大阪市・桜島埠頭ヤード開設。04年中国での現地処理を目指して中国浙江省寧波に100%出資の大原再生資源有限公司を開設し、同年韓国にも大原商事(株)を設立した。大原は昔馴染みの鉄スクラップヤード経営にも果敢に挑戦した(04年11月、日刊市况通信)。
    ***
     08年5月尼崎港につながる岸壁ヤードを開設。内航出荷に備え1,000㌧積みバージ船2隻と90㌧吊りクレーン作業船、プッシャーボートなど計5隻を購入して自社船出荷体制を作った。同時に尼崎港の中国向け廃モーター集荷ヤードを従来の2,600㎡から4,200㎡に拡張した。しかし同年9月のリーマンショックが、ヤード開業4ケ月余の大原商事に重くのしかかった。設備売却などで負債圧縮につとめたが効無く11年4月11日、法的整理を選択した。

  • 大原 健(おおはら たけし)-雑品→鉄屑→小型家電(基盤)にシフト(福源商事)
    大阪府岸和田市 ホームページはこちら
     2005年11月法人化した。雑品、電子基板、鉄・非鉄、プラスチック等の総合リサイクル企業。
    ▼関係者によれば=大原健は20年現在45歳。設立当初は岸和田市阿間ヶ滝が足場。その後、熊取工場や現岸和田本社に拠点を移し、2008年から貝塚港から雑品輸出を開始した。09年には香川県坂出港に進出。11年には大阪泉北港でも本格的に船積みした。さらに雑品規制の強化に伴い一般鉄屑扱いに力を入れた。12年岸和田本社に、13年坂出港に相次いでギロチンを設置した。
     岸和田本社では移動式破砕機を稼働させ、シュレッダー、非鉄、プラスチックの扱い量を増加させ、20年6月、奈良県五條市に電子基盤と小型家電を中心とした約1万坪の敷地にシュレッダープラントを設置。中間処理の取得を予定している。

  • 大山 芳三(おおやま)-豊の国の豊かな発想(大山商事)
    大分県大分市 ホームページはこちら
     創業は1940年(昭和15)・別府=別府駅裏で先代の大山晃成氏が大山商会を興したのに始まる。56年(昭和31)、別府上人ケ浜に新工場を建設、大山商事株式会社を設立した。
    ▼大山商事=大分の住吉公共埠頭近くに大型ギロチンとシュレッダープラントを保有し、自動車処理及び船積みなど有数の能力を持つ大分県を代表する実力業者。新社屋に校外学習用の「展望塔」を建て、県初の「企業格付け」を取得するなど業種や県境を超えた先進的な活動でも知られる。
    ▼69年以降、機械化進める=69年(昭和44)大型油圧プレス、74年(昭和49)500㌧ギロチン、81年(昭和56)1,000馬力シュレッダーを導入し、85年(昭和69)ギロチンを800㌧に更新した。
    ▼85年、大分・住吉埠頭に進出=きっかけは85年のプラザ合意(円高・ショック)で鉄スクラップは暴落し、輸出船積みが行われたことだ。その輸出窓口が大山商事。大型船が着く住吉埠頭近くの豊海に1万平米の新たな用地を確保して別府から進出した。
    ▼大山芳三=大分県信用保証協会の季刊誌(07年夏季号)が場内全体が360度見渡せる特殊ガラス製の「展望塔」と最大120人を収容できる「教室」紹介を特集した。ラジオ番組が放送し(8月29日)、TV(テレビ大分)が放映した(9月15日)。これは明確なビジョンなしにはできない。一つは「家業から企業へ」。二つは「経営マニュアル化」。さらに結果としての「地域貢献と従業員のプライドのため」である。(出所:日刊市况通信07年10月号)

  • 大山 梅雄(おおやま うめお)-東洋製鋼など17社を再建する再建王
     日出製鋼、ツガミなど経営不振10数社を再生させ再建の魔術師、再建王と呼ばれた。
     東京に1910年1月生まれた(90年5月没。享年80)。小学校を出て丁稚奉公をしながら大学(立正大学経済学部)を卒業。36年大山製作所を創設。東京無線電機常務、東光電機社長を経て56年、破産寸前の日出製鋼(60年東洋製鋼に改称)の経営を引受けて社長となり、同社を再建。その後、船堀製鋼、宮入バルブなどの経営を立て直し、会社再建に手腕を発揮した。75年作機械メーカーの津上の社長、84年池貝鉄工の社長に就任した(講談社、日本人名大辞典など)。
     ▼大山は株式支配権を持つ経営者として再建するとの方針のもと率先指揮でことに当った。電炉経営の危機(9月利川製鋼、会社更生法。12月倒産)が表面化した75年10月、東洋製鋼・大山は「メーカー在庫を鉄スクラップとして処分」する(損切り)構想を商社筋に持ちかけた。また電炉業界全体が中小企業団体法による商工組合の結成とこれによる不況カルテルに逃げ込んだ(77年8月)際には「不完全で抜け道の多いカルテル内部に留まるより、むしろ外部にいて我が身を律するほうがスッキリする」としてアウトサイダーに徹した(当時、東洋製鋼は銀行預金50億円、2割配当=77年8月19日金属特報)。
     ▼84年7月18日、NHKは「昭和31年に東洋製鋼を再建して以来、16社の赤字会社を建て直した大山梅雄氏(74)が6月、池貝鉄工の再建を請われ17社目の社長に就任した。ケチ精神をモットーに徹底した経費節減、黒字になるまでは無給・弁当持参で陣頭指揮をする大山氏を密着取材、西の坪内、東の大山と称される会社再建プロの経営哲学を追う」とのキャッチフレーズのもと「会社再建プロフェショナル―大山梅雄74歳」を放映した。
     大山の言動は西の坪内と並び称される「再建王」として注目され、講演会を始め各種の「大山語録」、経営危機管理のノウハウ本が刊行された(再建王・経営力の秘密―坪内寿夫・早川種三・大山梅雄の全ノウハウPHP研究所出版・岩堀安三著ほか多数)。▼梅雄の後を継いで東洋製鋼社長に就任した大山竜一は93年(平成5)中国に瀋陽東洋製鋼有限公司設立した。しかし、その後の鉄鋼不況から東洋製鋼は2000年4月、朝日工業へ営業譲渡し清算、市場から退場した。

  • 岡 憲市(おか けんいち)-戦前は鉄屑統制会社役員 戦後は鉄屑連盟第二代会長も
     戦前、戦中、戦後を通じて「鉄屑統制」関連組織の役職を歴任した。
    ▼鉄屑界・第1巻1号によれば=明治36年生。略歴・昭和4年慶應義塾大学卒業。(戦前)日本鉄屑統制㈱常務取締役。(戦中)金属回収統制㈱常務取締役。(戦後)金属興業㈱取締役社長。旧鉄屑懇話会会長。公職歴・(戦後)屑化物件審議会委員・・・との簡素な記載がある。
     ただ編者が探したところ岡憲市そのひとに関する記述は少ない。そこで断片をかき集めた。
    ▼岡は大阪出身(「木津川筋に金田さん、岡憲市さん、中東さんが並んでいた」矢追欣爾談話)。
    ▼鉄屑統制会社 設立準備委員、統制会社常務=以下は伊藤の「業者が見た鉄屑の統制問題をいかに見るか」(39年、非売品)による。鉄屑統制会社設立の機運は、1937年秋ごろから高まった。
     商工省の意向は、集荷力のある18店を中核に民間会社を造り、それ以下の業者を支配下に置く、というものだった。これに危機感をもった中堅業者が各地で業者組織を結成し、反対運動が巻き起こった。この動きを見た商工省は、一本化への方針に転じて大手(A)、中小(B)の両派同数からなる統制会社設立準備委員会を立ち上げた。Aグループ委員は、東京大手の岡田菊治郎、鈴木徳五郎、德島佐太郎や関西の阪口定吉など。Bグループ委員は、それなりの規模を持つ小宮山常吉、伊藤信司、村越和一、小林源次郎。遅れて共に慶応大学卒の学歴を持つ内田浅之助(東京)、岡憲市(大阪)が加わった。設立準備委員に加わった岡は、統制会社に入るには潔白でなければとの覚悟から鉄屑業を辞めて入社した、とされる(伊藤・75年8月、日刊市况通信)。
     この鉄屑統制会社は38年10月設立された。岡は統制会社の常務に、また鉄屑統制会社と故銅統制会社を統合した金属統制会社(4246年7月)でも常務を務めた(取締役は永野重雄他1人)。「岡君や内田さんはいずれも関西、関東の推薦で常務になったのです」(伊藤)。
    ▼鉄屑懇話会(第一次)会長=戦後は、金属興業(東京)を設立し、同時に戦後最初期の業者団体である鉄屑懇話会の会長を務めた。48年6月には、岡は鉄屑懇話会名で鉄屑公定価格の引上げ改定を陳情している。講和条約発効後の52年7月、同会は解散した。懇話会は「戦時中の金属回収会社の延長で会長は岡君ですが、官僚統制のニオイが強く不満が高まっていた」(伊藤)。
    ▼巴会では松島と並ぶ存在=しかし独立日本にふさわしい新組織は必要だとして、中堅業者らを中心に第二次懇話会が再結成された。岡は直納大手業者らが組織した「巴会」に所属し、いわば岡排除の組織である第二次懇話会とは常に一線を画した。その後、カルテル問題が起こった。
     第二次懇話会を中軸に「日本鉄屑連盟」が結成され、カルテルが認可され、その価格決定に当たって「鉄屑連盟の意見参酌」が明文化された。巴会の出番はないか、に見えたがカルテル発足直後の内紛から鉄屑連盟会長、東京選出役員全員が総辞職した(徳島佐太郎伊藤信司の項参照)。
    ▼鉄屑連盟、第二代会長=その鉄屑連盟執行部の穴を埋めるべく巴会メンバー会社は連盟に団体加盟し、執行部人事を押さえ、岡が第二代連盟会長に就任した(55年5月)。ただ鉄屑連盟の地方、下部組織は圧倒的に中間業者が多い。岡ら巴会執行部と地方・下部組織は水と油だった。3か月後の9月価格を巡る協議では難航。その責めをとって岡ら執行部は総辞職した(55年9月)。
     鉄屑連盟は再び懇話会や中間業者らが指揮権を回復した。岡は巴会執行役員として、これと激しくわたりあった。また鉄屑カルテル打開の一つとして鉄鋼側が鉄屑の「一手購入機関」の観測気球を上げるたびに、そのトップとして岡憲市の起用が取りざたされた。が、商売は大成しなかったようだ。「岡君は鉄屑連盟の会長になりましたが、統制当時の印象が強いために長続きしませんでした。岡君も内田さんも株屋になっています」(伊藤・75年8月、日刊市况通信)。

  • 岡田 菊治郎(おかだ きくじろう)*詳説-戦前長者番付第一位。東鉄の創設者
    岡田菊治郎は、明治、大正、昭和の三代にわたり独創的な商法で傑出した。昭和初期、誰も見向きもしなかった下級材処理のプレス機を開発し、欧州大戦終了後に老朽廃棄船から再生鉄材(伸鉄)を回収して製鋼会社を立ち上げ(大阪・臨港製鉄、東京・東京製鉄)、戦前の紳士録である財界人物録に、業界から唯一人、掲載された。準戦時体制が強まった39年、40年には個人多額納税者として連続トップとなり新聞各紙にその名が報じられ、話題となった。大正・昭和の前半にかけ、鉄屑業界は勿論のこと、一般家庭の主婦にまで広く知られた人物である。
     以下は岡田が「鉄屑界」で語った直話および刊行人物録に基づく。
    ▼明治42年本所元町で開業=1881年(明治14)岐阜県八百津に醸造元・岡田茂助の三男として生まれた(1978年没。享年97)。八百津高等小学校を卒業した1906年静岡市で銅鉄商を営んでいた実兄(茂三郎)方に身を寄せ、静岡中学に通いながら銅鉄商売を見習った後の09年(明治42)、両国橋近く(本所区元町)を選び兄から貰った金を元手に、開業した。明治末年の日本は、鉄といえば主に輸入鉄で、流通数量も少なかったし用途も鉄道、鉄橋、造船方面や軍需関連だけに限られていた。鉄は貴重品だったから、鉄屑の発生など、ほとんど無い。あるのは官公庁や大手工場などの鉄屑入札の特定ルートだけだった。だから岡田は、まず入札商売から始めた。
    ***
    ▼ドラム缶容器類を上海に輸出=各種の輸入ドラム缶類が入ってくるが、日本では再利用する会社はない。岡田は上海への転売を思い付いた。うまくいった。ただ途中で第一次大戦が始まり、商売は立ち消えとなったが、岡田に莫大な利益をもたらし鉄屑商売を支える大きな原資となった。
    ▼欧州大戦でも大儲け=岡田は上海貿易で儲けた資産と空き缶回収で築いた鉄屑回収ルートを持っていた。そこに第一次大戦が勃発した。この時「鋼管に納入し当時一万円の資本が1年半で五十万円ぐらい儲けた。それが(彼が経験した鉄屑商売のなかで)一番だった」。これが大戦後は一変した。「スクラップは暴落し、見向く者も買う者も誰もいない。輸入スクラップは倉庫の外まであふれ出し、雨ざらしになる始末だ。保管料がかかるので何とかしてくれと、輸入商社に泣きつかれ、タダより安い物はないと思って引き取った。これで儲けた」(鉄屑界・54年7月)
    ▼下級品プレス機を開発――官営八幡に売り込む=この前後、深川の枝川町に倉庫を買っていた。東京市は深川沖を埋め立てて造成地を開拓していた。ブリキ屑が混じって埋立作業に困るという。何とかならないか、との相談話が舞い込んできた。さてどうするか。プレスだ。が、日本には機械はない。自分で機械を作るしかない。銀行に相談したところ、費用は貸すからやれ、と背中を押してくれた。東京中の下級鉄屑を集めた。積もり積もって小1万㌧ほどにもなった。プレス品も、とにかくできた。これが全く売れない。釜石も、地元の日本鋼管も使ってくれない。鉄は国家だ。こうなれば官営・八幡しかない。そこで事情を話して政府から紹介状を貰い、八幡に持っていった。ところが、うまくいかない。「政府の紹介状を持って来ていることだし、捨てて帰るのも忍びない。タダでもよいから使ってくれ、工賃さえあれば儲からなくてもいい。しかし差し出がましいが、あんた方にも(下級鉄源の利用に関して)研究すべきものがある」と泣きついたのか、脅かしたのか分からないかたちで押し込んだ。上海の空き缶商売と同様に、プレス商売でも儲けた(岡田は業界初のプレス機の考案と本格営業の開拓から戦後の53年、緑綬褒章を受章した)。
    ▼昭和4年 著名財界人として=大正末年から昭和のはじめにかけて、岡田はすでに鉄屑業界だけでなく、財界人としても著名だった。29年(昭和4)発行の「財界人物選集」は、東京の財界人として岡田菊治郎を取り上げた。岡田菊治郎はこの「財界人物選集」(29年版)を皮切りに、戦前の「紳士録」に頻繁に登場する(39年版・財界人物選集・第5版、41年「日本人名選」など)。編者が調べた範囲では、昭和初めから戦後に至るまで、鉄屑業者、資源再生業者関連として、主要な紳士録、人物選などに掲載されたのは、岡田菊治郎ただ一人である(ただ42年の大衆人事録・東京篇など地方篇などには、岡田以外にも鈴木徳五郎や德島佐太郎、小宮山常吉などが掲載されている)。
    ▼船舶解徹・伸鉄に注目する=欧州大戦は未曾有の鉄鋼ブームを呼んだ。戦時急造船が世界中で大量に製造され、廃船・解体船として日本に殺到した。岡田が創始者となる臨港製鉄社史によれば、昭和初頭から伸鉄業は次第に台頭してきたが、規模は小さく、圧延も満足できるものではなかった。当時、大手製鉄会社は、伸鉄丸(鉄筋)などは採算に乗らないとして注目せず、需要家もまた輸入品に依存していた。安価で良質な鋼鈑を材料として圧延するなら、需要家も満足する筈だ。岡田は、老朽船舶の解体事業部に力を入れると共に、その解徹材の利用に走り出した。
     *「伸鉄業が発生したのは大正初期であり、大阪がその発祥地となっている。本邦最初の伸鉄業は大正3年大阪において平岡善市氏によって建設された城東区鴫野町の平岡伸鉄工場をもって鉄鋼業界にはじめてその特異な姿をあらわすに至った」(「大阪における鉄鋼業・綿織物工業の実態(35p)」大阪市立大学経済研究所。大阪市立図書館蔵書より)。 ▼大阪にも進出する=岡田は大正末年ごろ、大阪湾岸の大正区鶴町に、当時としては画期的な張り出しクレーンやプレス機を備えた荷受け場を開設した。戦前を回顧する関西地区業者の座談会記録によれば、支店長に妻方の尾関英之助を置いた。敷地は「1千坪あって、大阪で一番大きなヤードだった」、また1貫目いくらと書いた独自の相場表を葉書に刷り、得意先に毎月発送した。「ですから、当時荷物を集める時は岡田さんの相場を基準にして買ったわけです。岡田さんの買い値にイロをつけると先方も得心して出してくれましたね。そういう意味では確かに商売敵であっても岡田さんの相場が一つの目安になりました」(82年10月。日刊市况通信。業者座談会)。
    ***
    ▼大阪に臨港製鉄を、東京では東京製鉄を作る=岡田は、伸鉄業の将来に注目して製鋼会社の経営にも乗り出した。1933年(昭和8)1月、大阪の港区に建設途中の伸鉄工場を受け継いで小形棒鋼、小形平鋼の伸鉄会社(臨港製鉄)を立ち上げた。初代社長には義理の兄(小林米吉)を据え、監査役には岡田自身が就任(その後は、鶴町支店長の尾関英之助)。二代目社長には岡田菊治郎商店の解体船業務責任者(井草喜代太)が就任するなど、岡田一族の運営会社として、戦中・戦後の混乱期を乗り切った。同社は戦後、伸鉄業から電炉を導入(62年)し平鋼専門の電炉会社となった(臨港製鉄社史)。次いで34年11月、資本金百万円で東京の千住に平炉会社(東京製鐵)を設立、以後、平炉2基、電気炉1基体制で、中形及び小形圧延工場で各種特殊鋼の生産を行った。
    ▼鉄屑統制会社、筆頭取締役=37年7月盧溝橋での軍事衝突が、日中戦争の口火を切った。政府は、戦時体制に備えて同年10月、資源局を合併して企画院を設立した。準戦時体制に入った。鉄屑流通を国家管理の下に置く日本鉄屑統制株式会社(同年10月)も設立された。商工省が鉄屑統制としてまず考えたのが、岡田ら全国の有力業者18店を頂点に傘下業者を統率するピラミッド型統制だった。岡田は、設立委員として統制会社づくりに参画し、38年10月発足した日本鉄屑統制株式会社では筆頭取締役となり、岡田菊治郎商店として鉄屑統制会社の指定商に指定された(39年4月)。
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    ▼鉄屑王、全国一番の多額納税者=その統制が動き出した直後の39年7月20日の有力新聞各紙に、岡田菊治郎の名前が躍った。「長者番付異常あり、第一位は屑鉄屋さん」(7月20日・朝日新聞)。さらに「長者の横綱―岡田さんの成功秘訣」との談話が写真付きで紹介された。「苦労した夫人との間に二児あり、学習院と女子学習院に通学させている」と顔写真入りの紹介記事は家庭面まで及んだ。さらに翌40年7月にも「屑鉄王は百万円突破」との記事見出しが、顔写真と共に再び全国に伝播された。「昨年度(38年度)、貴族院多額納税者議員互選の際のトップ納税者、本所の屑鉄商岡田菊治郎氏の新税金は『百万長者』の形容も追いつかず、所得税、臨時利得税、営業税の3税を合わせて年額百一万六千百二十七円」と書き立てたのだ(7月17日・朝日新聞)。
    ▼戦時中は鉄屑業から去る=岡田は、戦中から戦後の49年までの約10年間、鉄屑業をやめている。
     なぜ廃業したかについては、国策による鉄屑統制を嫌ったとの説もあるし「税金がものすごく個人商店だったから、イヤになって大阪支店を閉鎖した」(96年10月、日刊市况通信。尾関精孝)との証言もあるが、この間の事情を岡田自身は、ほとんど発言していない。
     長老座談会で、統制をどう考えるかとの質問に対し「大いによくない。統制になるとエラい人ばかりが大勢で費用がかかって商売にならん。最後なんて針1本でも大事な時代と言うときに、積んであるところに行くと馬鹿馬鹿しいほどスクラップが堆積して腐って捨ててしまうような、非常に中途半端な配給統制だった」と吐き捨てるように語っている(鉄屑界・54年7月)。
    ▼戦後、「岡田商法」を再開=敗戦直後は、鉄屑商売の出番はほとんど無かった。しかし混乱期を脱した49年、岡田は戦前と同じ両国橋際で株式会社岡田商事として再発足し、独自の「岡田商法」を全開した。「氏の買付は一切現金取引、支払い迅速、連休なし、大晦日まで現金払いを続ける。他の問屋が休んでいれば中間以下の小さな業者は現金を換える場所がない。そのためにも年中店を開いている。従って、好不況にかかわらず、岡田の店にはコンスタントに入荷がありストックがある。全国のスクラップ業者がメーカーに買って貰うという低劣な意識で営業しているとき、氏はメーカーと対等のビジネスに徹している。事実、スクラップ相場の高騰で荷動きが停まり、困ったメーカーは岡田からまとまったスクラップを時価以上で買わされていることは少なくない」「吹けば飛ぶような5尺弱の小駆に、色黒く彫りの深い哲人の顔貌」だ(現代人物論・63年)。
    ▼「岡田商法」解説=岡田はメーカーの動きとは別に独自の値決め・買付けを行って、常に一定の在庫を確保している。これも業界が注目するところとなったようだ。「昔から倉庫に置いて(商売を)やる。ヒトからすると思惑に見えるが、昔からの習慣で、暴騰して千円儲けても、次ぎに千円下がって損をすれば同じこと。だから儲けた時もありがたく思わんし、損した時も苦にしない。そうしないと在庫は持てない」(鉄屑界・54年7月)。岡田は自分の判断で商売した。商売の何たるかを極め、他者におもねることなく、可能性に徹した。それが竪川のほとりで業をはじめたときから一筋に培ってきた商売哲学であった。
    ▼業界長老として=講和条約締結後の52年10月、関東鉄屑懇話会が発足したが、呼びかけ人となったのが岡田菊治郎、鈴木徳五郎、德島佐太郎の戦前からの老舗・大手問屋の3人。創設会長は德島佐太郎、副会長伊藤信司・平石慶三。岡田、鈴木、西清太郎らは長老格として顧問に就任。この鉄屑懇話会が戦後の鉄屑業者の団体活動をリードしていくことになる。
     岡田は、戦前の31年「公益のため私財を寄附し功績顕著なる者」として紺綬褒章を、41年には同飾版を授与された。戦後の53年には「業界初のプレス機の考案に対し」緑綬褒章を受章。さらに66年、勲六等瑞宝章を受章した。78年10月死去。享年97。法名鐵厳院殿菊翁治心大居士。
    ■出所・資料
    ▼昭和4年版・財界人物選集 銅鉄地金商=「帝都両国橋畔銅鉄地金その他の山を築き隅田の水に添ひて大倉庫数棟これに並び専用桟橋には船舶の出入り烈しくその盛観通行人の足を止ましむ。これ君が独力経営に係る岡田商店なり」、(略)「創業以来取扱来れるものは、銅鉄及び地金ハガネ工業薬品カーバイト酸類容器及びドラム缶鉱油樽などすこぶる多岐にわたり今や資産三百万円以上と称せられ年商内高五百万円を超え、従業員二百余名を算す。取引先は三井、三菱、古河、釜山鉱山、日本鋼管、東京鋼材、大日本人造肥料、横浜船渠、石川島造船、浦賀船渠、芝浦製作所、その他内地の著名な会社ほとんど全部を網羅し更に遠く海外各地に及ぶ」「夫人はま(尾関甚四郎妹)との間に一子(好昭)あり。本所区元町29」
    ▼昭和14年版・第五版財界人物選集 銅鉄及び工業薬品商 東京製鉄監査役=「つとに家業に従う。明治32年支那に遊び、日支貿易に関する研究を遂げ、34年帰朝。36年東京に支那貿易商を開き39年、現住所に店舗を設け銅鉄地金網問屋、工業薬品問屋、磁石印カーバイト問屋、酸類容器及びドラム缶鉱油樽問屋等を開始す。欧州大戦好況時には年商三千万円を算せり。運転資金五百万円。大阪に支店を置き、店員二百余名を使用せり。東京店舗=本所区東両国1-2。大阪=港区福町2-32。*財界人物選集に記載されている鉄スクラップ関係者は、岡田菊次郎只一人である。
    ▼昭和17年版・大衆人事録(東京) 多額納税者。日本鉄屑統制(株)取締 東京製鉄監査役 (綜)六四万七七六六円。明治41年現地創業。紺綬褒章を賜い昭和16年飾版を賜う。
    ▼鉄屑界(第一巻6月号)=岐阜県加茂郡八百津町、岡田茂助の三男として明治14年(1881年)に生まれた。八百津高等小学校を卒業後、明治39年から42年まで静岡市岡田茂三郎商店に勤務。明治42年上京。墨田区東両国1-2で創業。古鉄部、地金部、ハガネ部、鉄板部、薬品部、アルコール部、カーバイト部、容器部等を経営した。第一次世界大戦当時、内外の老朽船舶及び鉄骨建屋の解体作業を行い、鉄屑確保につとめた。▼昭和6年紺綬褒章を授与。昭和16年同・飾版を授与。▼関東大震災で焼失した薄板鉄板屑が放置されていることから、これを圧縮整型して製鋼会社に納入(圧縮機を設備したのは岡田商店が日本初)。

  • 荻野 一(おぎの はじめ)-山陽特殊製鋼を育て、粉飾事件から退陣
     1960年代の鉄鋼争乱の時代を象徴する山陽特殊鋼倒産・粉飾事件の当事者である。
     愛媛県出身。1898年に生まれた(1981年11月9日没。享年83)。24年関西大学専門部卒業。兵庫県警(特高)・警部を経て35年退官。44年富島組常務。戦後GHQの砲弾処理作業請負の収益金で48年山陽製鋼(現山陽特殊製鋼)を買収し社長に就任。高炉建設などを目指したが65年3月、会社更生法を申請し倒産。粉飾決算などが発覚し起訴された(講談社、日本人名辞典)。
    ▼鉄鋼戦国時代と65年山特倒産=65年前後は純酸素上吹き転炉法(LD転炉)の導入から有力平炉が新たに構内高炉を建設(59年神戸製鋼、60年大阪製鋼、61年住友金属)し、鉄鋼生産シェアを巡って新旧の高炉各社から中小の平電炉各社までが覇権を争うなど、日本の製鋼史上でも最も苛烈な戦国・動乱の時代だった。山陽特殊鋼の事実上の倒産(65年3月)に先だって、関東では日本特殊鋼が会社更生法を申請(64年12月)、関連会社は400社に及び連鎖倒産の危機が社会問題となった。さらに関西でも中堅電炉の田中電機製作所が65年1月、会社更生法の適用を申請、5月破産した。山特の倒産後の8月には鉄スクラップ業者兼商社の桑正が行き詰り、11月には高炉の生産調整、新旧高炉のシェア争いを背景とする住金事件が起こった。
    ▼山特事件とは=山特の倒産後、数期にわたる粉飾決算、会社からの不正な借入などが明らかになり、荻野は商法・証券取引法違反などの疑いで逮捕・起訴された。また管財人によって民事の損害賠償請求も出され「山陽特殊鋼事件」として世情を賑わせた。当時最大の企業倒産とされた山陽特殊鋼の破綻は、多くの関連企業や下請企業の連鎖倒産を引き起こし、その保護が政治問題となった。これを契機に会社更生法などが改正され、中小企業がもつ債権の早期弁済制度が設けられた(同法12条の2)。この事件はその後、山崎豊子の『華麗なる一族』のモデルなどとなった。
    山陽特殊製鋼は82年大証1部、85年東証1部に再上場された。

  • 小澤 肇(おざわ はじめ)-戦前は大蔵官僚、鉄屑工業会初代会長として17年
     戦前は大蔵、企画院官僚。戦後は産業振興社長、鉄屑工業会初代会長の要職を歴任した。
     長野県に1905年(明治38)に生まれた(96年5月没。享年91)。旧制松本高校、東大法学部に進み33年大蔵省に入省。主税局、満州国財政部事務官、同国税課長を経て36年企画院に入り、41年外務事務官を兼ね仏印の大使府に勤務。軍需省軍需官に転じ、物資動員計画の要職に就いた。
    ▼小澤と德島の出会い=「終戦で下野するが、軍需官時代に赤坂の德島宅に下宿していた縁から德島佐太郎が率いる日本鐵鑛冶金の専務に就任した。当時大蔵省の塩脳(塩・樟脳)部長だった永沼弘毅(後に公取委員長)、同課長の森永貞一郎(後に輸銀総裁)の後援を得て、復興金融公庫融資を受け北海道で電気製塩事業を創始。間もなく進駐軍の外塩依存の塩政策により中止のやむなきに至った」。「事業を中止したので復金への返済は困難となったが、製鉄設備の賠償指定解除に伴って製鉄業の復興に目をつけ、鉄屑業の再開を決意し、再度この事業に対する復金融資を申し込んだ。復金は製塩事業の融資があるので躊躇したが、工藤理事の骨折りを得て、二重融資が実現した」これが産業振興発展の原動力」となった、という。
     小澤は德島と共に産業振興株式会社を立ち上げ、専務取締役として会社実務を掌握した。
     62年と65年の鉄鋼大減産を乗り切り、70年には德島佐太郎の後を継いで産業振興の社長に就任した(産業振興の鉄屑業への復帰は、63年「現代人物論」の小澤肇の項に詳しい)。
    ▼鉄屑工業会長として創生期の17年を固める=75年に設立された社団法人日本鉄屑工業会では初代会長に推された。従来の業者団体(鉄屑問屋協会)は任意組合だが、鉄屑工業会は通産省認可の社団法人。いまや国策である鉄屑備蓄機関(日本鉄屑備蓄協会)の設立・運営の補助機関となった。その長には、従来に増して国及び鉄鋼各社との適切な応接能力が求められる。
     戦前・戦中の経済高級官僚として政・官・財界に知人を持ち、日本を代表する高炉(富士製鉄)の最大直納会社のトップ(産業振興社長)である小澤こそが、適任だと衆目が一致した。
     小澤は行政実務に精通した高級官僚らしく、鉄屑業界を行政施策の編み目に巧みに組み込んだ。まず鉄屑業を「卸売り」業から日本標準産業分類上の「製造業」へ押し上げる産業分類改訂に動き、行政管理庁から鉄屑業は「製造業」のうち「その他の鉄鋼業」、「鉄スクラップ加工処理業」との認定を受けた(76年5月15日官報)。業種指定を受けると減価償却方法が変わる。また税制(特別償却・固定資産税・電気税)でも動いた。77年にはシュレッダーの特別償却2年間延長や固定資産税減免措置の延長など、税制上の支援を獲得した。
     さらに業界近代化達成のため中小企業近代化促進法(近促法)に取り組み、同法の業種指定(77年5月)と近代化計画告示を受けた(80年7月12日官報)。工業会はこの告示を指針に「近代化」に突き進んだ。81年度は「設備近代化・取引関係の改善、競争の正常化、新技術の開発」を推進し、「合理的取引契約の慣行化、鉄くず規格、呼称の統一化」を図るとの方針を明らかにした。
     石油危機後、鉄鋼など重厚長大産業が軒並み不況の波に洗われた77年度には「中小企業救済特別融資制度」の適用で144件、約31億円。さらに円高対策では輸出化率の高い普電工が適用を受けたことから、その原料供給にあたる鉄くず業界も23億円。また「中小企業信用保険法」による不況業種債務保証40億円、近代化促進法による近代化設備資金38億円、以上を合計132億円に達した。「不況時にこれだけのカネが出るのは、やはり工業会のメリットだ」(小澤)。
     小澤は75年6月から93年6月まで、会長として同工業会創生期の17年間を運営した。工業会の今日に至る組織的な骨格は、小澤会長の巧みな行政手腕もあって、固まった。  ▼小澤は88年秋の叙勲で、長年の業界活動に対する貢献から勲四等・瑞宝章を授与された。
    ▼余談として=小澤肇は、その人脈を駆使して德島と共に産業振興を日本最大のディーラーに育て上げた。彼はまた戦前・戦中の物資動員の中枢である企画院、軍需官であり、物資動員計画の要職にあった。鉄は国家である。その窮乏のなんたるかを、身を以て体験した男でもあった。その彼が国内鉄源を供給する業界団体の最高責任者に任ぜられ、業界を牽引した。德島と小澤を戦後の50年間の長きにわたり、業界の指導部に得たことは業界にとって、希有な幸いであった。

  • 尾関 英之助(おぜき えいのすけ)-岡田菊次郎の義弟で岡田商店・大阪支店長
     戦前の岡田菊治郎および池谷太郎の縁者、戦後、尾関商店を開いた。
    ▼鉄屑界・第1巻7号によれば=明治30年生まれ。愛知県出身。大正5年名古屋商業学校卒業、同年岡田菊治郎商店に入社。昭和15年同店退社、東京製鉄入社。22年同社退社。23年4月、東京都中央区日本橋両国一番地で尾関商店を開業した。
     尾関は岡田菊治郎の妻の縁者として入店した。岡田は大正末年ごろから大阪湾岸の大正区鶴町に当時としては画期的な張り出しクレーンやプレス機を備えた荷受け場を開設していた。この支店長が尾関。また岡田は1933年(昭和8)大阪市港区に伸鉄会社を作った(臨港製鉄)。尾関は鶴町支店長兼臨港製鉄の監査に就任。その後の40年(昭和15)、尾関は岡田が大阪の臨港製鉄に続いて千住に作った平炉製鋼会社である東京製鉄に「入社」した。ただ多額納税者(39年、40年)としてその名がとどろいた岡田は戦中、鉄屑商売をやめた(再開するのは戦後の49年)。
     戦後、その岡田に先立って尾関が48年(昭和23)、尾関商店を開いた(53年12月没)。
    *英之助の長男が尾関精孝。長女がとし子。そのとし子は、岡田菊治郎から東京製鉄を引き継いだ池谷太郎の妻となった。太郎・とし子の子が池谷正成である。

  • 尾関 精孝(おぜき きよたか)-戦後の鉄屑連盟、鉄屑工業会創設・運営にかかわる
     東鉄の池谷太郎と義理の兄弟。日本工業会立ち上がり初期の運営・体制を作った。
     1922年(大正11生)。東京都出身。43年9月早稲田大学商科卒。同年9月東京製鉄入社。同年12月応召。46年3月復員。48年4月尾関英之助(父)、尾関商店創業により入社(本社・東京都中央区日本橋)。53年12月、尾関英之助死去により社長就任(鉄屑界・第2巻7号)。
    ▼鉄屑工業会・創設について=設立当時の我々と通産当局との考え方は大きなギャップがありました。通産省の考えている会費収入は、年間一億円なければだめだというものだったんですね。会員千名で会費一億ということに。 他の同様の団体は、会員のレベルが一定しているんですよ。
     ですから会費も均等にできる。当初会員となった千名というのは、全国の事業者の三分の一にも満たななかった。当時は、毎日鉄くずを扱っている業者だけでなく、入札だけやっているところも多かった。 そのため会員が千人集まるか、会費が一億円集まるか、に非常に苦労した思い出があります。会設立のとき、出資金を一〇〇万円くらい出した業者もいました。
     一方で一銭も出さないところもありました。 また高い会員に比べて低い会員では一〇分の一も出さないところもありました。それでも会員としては一会員です。 そういう問題があったものですから、財務委員会なんかも苦労したんですよね。
     (ただ)先輩方の折衝だとか商社が入ってくれるだとかで、ある程度、一億円のメドがたってきた。やっとスタートできたんですね。 最初は問屋クラスで均一会費でやろうと思ったんですが、 こういった経緯で始まったものですから、先輩方が非常に苦労したんですね。
     一番問題になったのが、 鉄屑業という業種がなかったことですね。 調べてみたら 「鉄屑屋だ」 と言っているところもあるし、「運送屋だ」と言っているところもいた。鉄屑業が公認されていないために、様々な言い方がありました。
     私は調査委員長だったから、全国色々なところに調査依頼を出すわけです。ところがその回答率が20%から30%くらい。自分のところのことをなかなか言いたがらない人が多いんですよ。
     それを説得するのが大変だったね(行政管理庁から76年5月15日官報で、鉄屑業は「製造業」のうち「その他の鉄鋼業」、「鉄スクラップ加工処理業」の認定を受けた)。
     (この)業種が決まる前に古物商の登録がありました。警察がやってきて古物台帳あるかと言う。そう言われたってそんなものはない。すると警察は「けしからん」という言い方をする。それが工業会が出来て警察から、古物台帳を見せろなんて言われることはなくなってきましたね。(日本鉄リサイクル工業会創立30周年記念・元首脳4氏座談会より)
    ▼尾関精一=72年北九州出張所開設。87年 清孝の会長就任に伴い尾関精一が社長に就任。90年九州工場を建設(1250馬力シュレッダー導入)、95年栃木県芳賀工業団地内に宇都宮工場建設。

か行

  • 夏 立明(か りつめい)―中華系業者としての存在感を示す(常沅産業グループ)
    埼玉県さいたま市 ホームページはこちら
     夏 立明氏の詳細は不明である。㏋掲載資料により本稿をまとめた。
    ▼夏 立明氏挨拶=2009年創業以来、常沅産業は一貫して金属スクラップ(鉄、非鉄金属及び貴金属の原料)の集荷・選別・加工・輸出をし、品質第一をモットーに内外のニーズに応え、安定した品質の金属原材料を提供し、直接に末端業者へ納入して参りました。私ども常沅産業のグループは関連グループ会社も含めて日本国内各地で協力会社も増やしてまいりました。日本国内中心の事業展開のみならず、海外(中国、アメリカや東南アジア等)への事業展開を急速に図っております。海外事業や新規事業にも果敢に挑戦して、資源循環型社会に貢献したいと考えております。
    ▼会社沿革(㏋)=08年6月グループ会社・友興金属を設立。09年3月常沅産業設立。10年12月グループ会社・代埼再生産業設立。11年1月常沅産業・川越ヤード、同年12月栃木ヤードを開設。14年グループ会社・方雄商事設立。▼本社・ヤード(㏋)=常沅産業株式会社・さいたま本社ヤード(=埼玉県さいたま市岩槻区)。さいたま金重ヤード(グループ会社・友興金属所在地・さいたま市岩槻区)。栃木ヤード(栃木県下都賀郡)。袖ヶ浦ヤード(千葉県袖ケ浦市)。市原千種ヤード(千葉県市原市・保税輸出専用ヤード)。千葉香取ヤード(千葉県香取郡)。▼グループ会社=方雄商事株式会社ヤード(秋田県能代市)。代埼再生産業株式会社・川越ヤード(埼玉県川越市)。
    ▼仕事内容(㏋)=1. 廃プラスティックの収集、輸出販売。2. 廃スクラップの輸出販売。3. 非鉄付スクラップの収集、輸出販売。4. 前各号に付帯し、または関係する事業 ▼編者注記=中華系業者である。「都市鉱山」である鉄スクラップに着目し、会社を興し、グループ会社と提携し、わずか10年足らずで、関東各地に集荷拠点を築き、輸出ビジネスを広げた。日本鉄リサイクル工業会のアウトメンバー。その意味でも隠れた実力企業である。

  • 影島 義忠(かげしま よしただ)-丸和商店川崎支店長から起業する(影島興産)
    横浜市神奈川区 ホームページはこちら 影島は戦後の鉄屑業を生き、鉄屑工業会の堅実な骨格を作り、その概観を自伝に残した。
    ▼自伝=影島 義忠は2002年「事業・時代・人との出会い-鉄リサイクル人生を語る」を出版(非売品)。戦争体験と共に、戦後の鉄くず業や丸和商店整理のいきさつ、カルテル終了後の日本鉄屑工業会と業の「近代化」への歩みを、その渦中にいた当事者として証言した。
    1997年春の叙勲で勲五等瑞宝章。2013(平成25)年1月26日死去した。
    ▼それによれば=株式会社丸和商店川崎出張所長(日本鋼管鉄屑納入指定商)であった影島義忠が、主家の没落後、川崎市東渡田に㈱影島商店を設立した(1958年)。沼津の老舗で明治以来の暖簾と日本鋼管直納の商権を持つ丸和商店の行き詰まりは、業界の謎の一つだが、影島はその破綻の現場にいた当事者として語った。また鉄くずカルテル終了前後、通産省はカルテル後継団体の設立に動き、日本鉄屑工業会はその中から誕生した。影島はその渦中の業界人として工業会創設の現場に立ち会い、その後の鉄屑工業会を実際に動かす中枢幹部として、業界の近代化を見守った。
     1925年(大正14)3月、静岡県富士市に生まれた。父は川島福太郎。母たき。男4人、女8人兄弟姉妹の3男。父44歳の子。41年(昭和16)静岡県立沼津商業学校を卒業し、三菱重工業横浜造船所に正社員として入社。44年(昭和19)現役兵として応召。中支に派遣され陸軍幹部候補生試験を受け、二等兵から上等兵へ昇進(主計候補生・甲幹)。46年4月復員した。
     その足で三菱重工業横浜造船所に行ったが、爆撃を受け、戦時賠償にとられるとのウワサで、サラリーマンに戻るのがイヤになった。さてどうするか。姉の嫁ぎ先の芹沢徳平(その次男が将棋の芹沢博文九段)に相談し、勧められたのが沼津の蛇松町にある丸和渡辺商店。当時は故紙、ボロのほか鉄スクラップも扱い(積み込み用の)側線のレールも入って手広く商売をやっている。
     当時丸和は日本鋼管の直納問屋として知られていた。その店に46年6月1日に入った。その丸和が47年5月川崎に出張所を作り、影島は21歳で取締役になった。年の離れた姉(菊枝)の婚家、影島家へ子供がいない。そこで48年養子入籍し、影島を名乗ることになった(23歳)。54年出張所長に就任。58年(昭和33)4月丸和商店整理のため退社。5月影島商店設立(33歳)。
    ▼丸和商店=1902年(明治35)渡邉治郎が沼津市吉田町に渡邉商店を開業。16年(大正5)代表者に渡邉好郎が就任。31年合資会社丸和商店を創設。47年4月日本鋼管の直納問屋。53年㈱丸和商店に改組。58年3月㈱丸和商店閉鎖。同年6月丸和鉄屑㈱創設。61年㈱丸和へ商号変更した。
     崩壊の原因は色々だが、最初の失敗は米国軍政下の小笠原諸島(日本返還は68年6月)残された大量の鉄スクラップ引き取り話に乗せられて当時の金で1千万円近く失ったこと、朝鮮戦争終結後の不況時にネジ加工商売にのめりこんで2億円以上の負債を抱えたことなどで、会社更生法の申請の意見もあったが好郎社長は「一生かかっても借金はかたづける」と受け入れなかったという。
    ▼影島商店=54年出張所々長に就任した直後から「丸和はダメになるかと予感した」。当時30歳だったが、会社がツブれるのはどういうことか、それを見極めるのも体験だと頑張りぬいた。重役の一員だが、渡邊一族ではない。取引先に迷惑のかからないように手配し、従業員の退職金も内規通り払い、土地に埋まっていたスクラップも掘り起こして換金し、帳面もきちんとし「後の丸和商事の渡辺哲夫氏(丸和商店東京出張所長)に帳簿を引継いでもらい」会社をやめ、独立した。
    ***
    ▼鉄屑工業会幹部=鉄屑カルテルの後継団体の一つとして日本鉄屑工業会が75年7月設立された。影島は近代化調査委員会副委員長として創設に参加。77年近代化委員長に就任し、鉄屑加工処理業の近代化促進法の業種指定を受け、業界の「近代化計画」策定の中心的役割を担った。
    ▼影島興産=84年11月横浜市神奈川区に新ヤード建設。長男一吉。日本鋼管を退社して影島商店に入社。取締役。その体制充実から85年4月、影島商店の社名を影島興産に変更した。
    92年1月水際線35mを利用して、荷役桟橋(530m2)を建設。93年加工設備増強に注力する。
    ▼影島 一吉(鉄リサイクル工業会第五代会長)=影島義忠の長男として生まれる。75年(昭和50)早稲田大学政経学部卒業、日本鋼管へ入社。84年(昭和59)日本鋼管を退社して影島商店に入社。取締役。96年(平成8)取締役社長に就任。2012年(平成24)(社)日本鉄リサイクル工業会第5代会長に就任。16年(平成28)任期満了退任。

  • 金城 正信(かねしろ まさのぶ)-卒論が「鉄リサイクル・21世紀の展望」(金城産業) 愛媛県松山市 ホームページはこちら
     伊予・松山を拠点とする業者である。大学の卒業論文が「鉄リサイクル・21世紀の展望」である。祖父の代からの家業である鉄スクラップと海外輸出の可能性を論じた。
    ▼環境マイスターとして=金城正信は1966年(昭和41)に生まれた。25歳で松山の日本青年会議所(JC)に参加し、97年循環型社会システム推進委員会・委員として国連大学(東京・青山)などで 「ゼロ・エミッション」概念の立ち上がりを目撃すると同時に、ドイツ会議にも同行。行政と企業、住民参加の形を学んだ。2004年社長に就任。松山青年会議所の「省資源まち作り推進委員会」委員長を務め、01年愛媛県「環境マイスター」(ドイツ語で「巨匠・師匠」)に指名された。
    ▼金城産業=祖父・金城正明が1927年(昭和2)松山市で古鉄、古紙などの資源回収業を創業、父・忠孝が75年(昭和50)、製鋼原料扱いは「金城産業」、製紙原料扱いは「金城商店(現カネシロ)」に分けた。市内北吉田の現本社工場に鉄スクラップ加工処理設備を導入したのを基盤とする。業態の変化は正信が実務を担当し始めた90年以降から始まった。
    ▼県内8拠点=96年開設の南吉田工場にギロチンを導入し南北両工場のギロチン稼働体制を作った。環境ISO14001の認証は00年5月、四国ではトップを切って取得し、02年には県が創設した「資源循環優良モデル認定」では鉄スクラップ業者として初の認定を受けた。また02年南吉田工場にギロチンに加えシュレッダープラント一式を導入して「マルチリサイクルセンター」を、自動車リサイクル法に備えて同年「愛媛オートリサイクル」を、03年「西予リサイクルセンター」を、04年ギロチン、シュレッダーを備える船積み・臨海工場の「松山港リサイクルセンター」を、11年には今治市に「蔦本オートリサイクルセンター」を開設し、県内6拠点とし、さらに14年松山空港近くに敷地面積1万㎡の「エコセンター」を、本社横に「サブヤード」を整備して8拠点に拡大した。
    ▼「ECO Re Tec」=エコロジー・リサイクル・テクノロジーの造語。11年に商標登録済だ。
    ▼トータル・リサイクル企業=金属リサイクルを柱に、一廃および産廃、特管物収集・運搬、自動車(31条認定)、OA機器、家電(Aグループ指定引取場所)、蛍光管、廃乾電池、木くず、FRP船(指定引取場所)、13年4月施行の小型家電リサイクル法では認定業者の認定を受けた。

  • 岸本 吉右衛門(きしもと きちえもん)-大坂の鉄商、官営製鉄所に鉄屑を納入する
    幕末・明治の大坂の老舗鉄商・岸本商店の当主。日本の鉄商の原型のひとつである。
     インド銑の輸入の草分けで明治末頃、大阪で高炉建設に乗出し(これが日本鋼管創設につながった)、官営(八幡)製鉄所向けの鉄屑納入を最初に手がけた。
    ▼日本鉄鋼史・明治編によれば=1858年(安政五)に生まれた。岸本商店の娘婿となり95年(明治28)4代目吉右衛門を継いだ(旧姓田村正一郎)。インド銑輸入は彼の功績と史書は記す。岸本商店は旧幕時代からの鉄商(1831年・天保二年創業)。維新後は洋鉄取引に着手し、大阪では山本東助商店(東京の森岡から洋鉄を引取った)と並ぶ開拓者とされる。
     1984~85年(明治17、18)頃に英国レッドカー銑の輸入に先鞭をつけ、親交のあった白石、今泉の紹介で印度ベンガル銑の直接輸入を開始してインド銑供給の途を開いた。さらに明治18年印度銑鋼会社が設立されると、これに投資しバーン銑の輸入も引き受けた。渋沢など財界有力者の後援を得て1912年(明治45)設立された日本鋼管の当初構想では自社銑供給のため高炉建設を目指し、この高炉建設構想に係わったのが「銑鉄商売には長年の経験」がある岸本だった。継目無鋼管の製造を目指した大倉喜八郎や官営製鉄所を辞めた今泉、岸本らが中心となって大阪製鉄所計画を練り上げた。ただこの高炉建設構想は白石による良質なインド銑が安価で多量に供給されるメドがついたため中止された(安価なインド銑供給を前提に創設されたのが日本鋼管)。
    ▼岸本製鉄所=岸本は大阪製鉄所の構想は断念したが、1911年(明治44)尼崎にわが国第2番目の製釘工場(岸本製釘所・現アマテイ)を建設した。16年に25㌧平炉3基による線材圧延を開始(岸本製鉄所)、19年住友が同所を買収した(住友伸銅所尼崎)。岸本は24年死去したが、岸本商店は41年9月伊藤忠商事及び丸紅商店と合併して三興株式会社を設立。戦後の49年過度経済力集中排除法により伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割された(アマテイHP)。
     また岸本商店は「八幡製鉄所へ製鋼原料屑鉄の納入をやり始めた」(日本鉄鋼史・明治編602p)最初の鉄商と伝えられる。*岸本 金三郎の項 参照

  • 岸本 金三郎(きしもと きんさぶろう)-大阪の老舗鉄商 「岸本」の一族
     昭和13年、大阪を代表する鉄屑業者として日本鉄屑統制(株)取締役に就任。指定商。
    ▼大銑産業沿革によれば=1831年(天保2)泉屋武兵衛が打刃物商・岸本商店を創業したのに始まる。金三郎は幕末・明治の大坂の老舗鉄商・岸本商店の当主、岸本吉右衛門(岸本吉右衛門の項参照)の次男として明治24年生まれた(明治20年生まれの長男が吉右衛門を襲名)。昭和10年岸本商店とその子会社泉吉商店の事業の一部を引き継ぎ「大阪銑鉄商会」を設立。昭和14年、金三郎社長(14年3月~19年11月)に就任。昭和16年岸本商店、伊藤忠商事、丸紅商店の3社が合併、三興(株)を設立。大阪銑鉄商会は三興の傘下に。昭和18年、社名を「大銑産業株式会社」に改めた。昭和19年三興(株)、呉羽紡績(株)、大同貿易(株)の3社が合併、大建産業(株)を設立。大建産業の傘下に。昭和20年終戦により、大建産業(株)は解体し、それぞれの旧商号に復す。

  • 北 二郎と北一族(きた)-戦後後発の鉄鋼・独立系商社を作る(阪和興業) 大阪市中央区 ホームページはこちら
     阪和興業は鉄鋼を主力とする戦後後発の独立系商社、北一族の経営に始まる。
    ▼北 二郎=1912年、父は弥作。男7人兄弟の次男として生まれる。大阪府出身。長男は弥十郎、3男良作(名出家に養子に入り、名出良作)、7男茂(阪和興業の二代目社長)。北弥作は教育に熱心だったようだ。長男弥十郎は「始終郷党に止まって、常にうむことなく、村のため、市のために肝胆をくだき、箕面市実現のためにその生涯をささげ尽くした」(「北弥十郎氏追悼録」箕面市師友会1960年刊行)と追悼され、二郎は1934年和歌山高商を、3男良作は36年名古屋高工を、末弟の茂は45年東京農業教育専門学校をそれぞれ卒業している。
     北二郎は和歌山高商を卒業した34年大阪税関に任官。37年安宅産業に入社し、サイゴン支店長代理、46年5月復員。名古屋支店金属課長に配属された。取引先の社長から大阪での独立自営を勧められ安宅産業を辞めて、北兄弟3人で46年 (昭和21) 12月大阪市東区瓦町に鋼材会社「阪和商会」を起こし、47年4月「阪和興業」に社名を改めた。
     57年、創設10周年記念として(財)阪和育英会を設立した。99年没(享年86)。
    ▼名出 良作=北家の3男。36年3月名古屋高工機械科卒業。4月海軍航空技術廠入廠。43年同廠第一兼第三工場長。45年敗戦により退役。47年4月阪和興業専務取締役に就任。86年没(享年71)。
    ▼北 茂=北家の末弟。45年9月東京農業教育専門学校を卒業。46年12月会社設立発起人。52年東京支店長。57年取締役。83年二代社長に就任。94年1月引責辞任。2011年9月没(享年85)
    *報道によれば=「北茂が阪和興業の創業社長北二郎の後を受けて社長に就任するのは「財テク」がはやり言葉になっていた83年(昭和58)のことだ。阪和興業は新興鉄鋼商社として勢いを増していたが、北茂の社長就任によって財テクの運用益が加わり、資産は急速に肥大化していく」。
    「高度成長期には鉄鋼相場で稼ぎ、今、財テクで凄腕を発揮する。まるで打出の小槌をふるうように、わずか5年で自己資本を6倍に増やし、財務内容で総合商社と競う。『相場の神様』の異名をとるが、徹底したリアリストだ。様々のしがらみに支配される日本的な市場の『仕組み』を見抜いている」(日経ビジネス昭和63年3月28日号)。
    *社史=「当社の財テクは、結果としては特定金銭信託・ファンドトラストなど証券運用整理損など多大な損失を当社にもたらした。財テクの失敗は当社が創業以来築いてきた資産と信用を大きく毀損し、一時的期間ではあれ、当社の社会的使命を誤った方向に導いたことは、阪和興業の歴史にとって大きな反省点となった」(阪和興業六十年史)。(財テク時代の光と影 北茂氏:市場経済研究所代表 鍋島高明から引用)
    ▼北 修爾=1942年、5人兄弟の長男として生まれる。父は北二郎。62年東京大学経済学部入学。66年卒業後、通産省に入省。経済企画庁審議官としてキャリアを積んでいた93年、「当時の上司を通じて阪和興業へ入社の打診が来る。北は驚く。当時、阪和興業は本業の鉄鋼事業よりむしろ財テク企業として知られていた。ピーク時は7000億近い資金を運用し、大手商社をも上回る収益を出していた。だが、バブル崩壊で経営内容は一気に悪化。多額の損失を出し倒産説が出るほどまでになっていた。この危機に再建で手を貸してほしいと言うのだ。役人として人生を送るつもりでいた北だが取締役として阪和興業に移った。その翌年(94年)、阪和興業は1200億円の特別損失を計上。これは当時の上場企業では過去最大級の額。さらに前社長は引責辞任。状況は急展開して行く。そして、この未曾有の危機に、会社に移ってわずか半年の北が急遽社長に任命される。青天の霹靂だった。最初、「素人社長に立て直しは無理」、「阪和はつぶれる」と数々の中傷も浴びた。だが、北はそれに耐え、会社を立て直す事だけに専念した」(直撃 トップの決断 BSテレ東京 06年3月19日から引用)。
     *91年、経済企画庁長官官房審議官。93年、阪和興業立て直しのため退官し、阪和興業常務。94年同社長。2011年、同会長。17年4月に代表取締役から外れる。
    ▼㏋社史によれば=1946年12月、「モノさえ引き出せば、商売・経営は成り立つ」との確信を持っていた北二郎は次弟名出良作、末弟北茂とともに「阪和商会」を設立した。翌年の1947年には、本格的な流通企業・商社経営を目指し「阪和興業株式会社」に改組。社長に就任した北二郎を含む、社員8名による船出となった。阪和興業の歴史はここから始まる。1970年には、東京証券取引所第二部に上場、翌年の1971年には、遂に東京・大阪証券取引所第一部への上場を果たした。社会的信用力、財務力が高まり取引品目の多様化と同時に海外拠点を次々に開設。世界に伸びる阪和興業の道筋を拓いた。まさに順風満帆な阪和興業であったが、かつてない試練が、この先に待ち受けていた。1980年代後半、世界同時株高を背景に多くの企業が新株発行を伴う資金の調達に走ったバブル経済。当社も約4,000億円を株式から調達し、株式運用などで本業を上回る利益を上げ、財テク企業の代表として世間の注目を集めた。しかし突き進むように膨張したバブル経済は長くは続かなかった。さらに1993年には、追い打ちをかけるように、当社の財テクを批判する報道がなされた。これにより経営不安の噂が広がり、営業活動にも甚大な影響をおよぼしたのだ。1994年、北修爾が社長に就任。「阪和興業は財テク依存から本業重視の経営に戻し、新生阪和興業の新たなスタートを切る」と宣言した。本業重視の経営に徹する。それは新社長の不退転の決意を社内外に広く示したものであり、全社員の気持ちを代弁するものだった。2011年、17年間にわたり北修爾が社長を務めてきたが、経営のバトンは古川弘成に引き継がれた。
    ▼鉄スクラップ業との関連では=47年4月阪和興業として登記。鉄鋼業取引に参入した。48年(昭和23)、時の関西伸鉄、臨港製鉄の推薦を受けて近畿伸鉄組合の指定問屋。営林局向けの軽軌条取引を契機に49年、日本砂鉄、大同製鋼、国光製鎖鋼業(国光製鋼)の指定問屋。東京でも50年頃から日の出製鋼(東洋特殊鋼)、石原製鋼、東京伸鉄、青柳鋼材から直接仕入れを開始し鋼材問屋の地位を固めた。阪和の特徴は戦後後発の伸鉄や単圧・平電炉メーカー、さらに沈船解体の松庫などとの取引を通じ、丸鋼や形鋼、船の解体、伸鉄材の供給に強かったことだ。
     *輸入解体船8年間で22隻18万グロス㌧=阪和興業は臨港製鉄と共同で55年8月、米国から貨客船バラノフ号 (4,999総㌧)を戦後初めて輸入解体した。
     その後58年6月から臨港製鉄と提携して、主に大阪の桜島埠頭などの倉本組を中心に63年11月までに8年間で合計17隻約15万G/㌧を解体・回収した。59~60年には東京支店扱いで1度に5隻3・4万G/㌧の解体を行った。うち名古屋に回航した船は名古屋港始まって以来の大型解体船(6,700総㌧)としてマスコミを賑わしたが、直後の伊勢湾台風では当直員を乗せたまま旧名古屋国際空港浅瀬に漂流した (同社20年社史)。

  • 清岡 栄之助(きよおか えいのすけ)-吾嬬製鋼、土佐電気製鋼を創設する
     吾嬬製鋼所を創設し、郷里の高知に土佐電気製鋼を作った戦前の鉄鋼業人。
    1881(明治14)10月高知県安芸郡野田に生れた(1938年没)。土佐郷士で一族のなかには幕末動乱に国事に奔走し明治になって子爵に列したものもいる。栄之助の生れた清岡家は当時落魄し、19歳のとき兄を頼って上京。本所吉田町の非鉄金属商・内田幾助商店の店員となった。
     新規扱いの鉄鋼部門を任された栄之助は三菱商事との取引を開拓し、日露戦争で莫大な利益を上げた。その後、番頭、娘婿として同店を仕切った。1914年(大正3)内田商店が銑鉄を納入していた向島の久野(ひさの)鉄工所が行き詰ったため、同鉄工所を買収し隅田川精鉄所として栄之助が経営した。当初は再生銑を製造したが、18年には鋳物製造、20年には鋳鉄管生産に乗出し、大阪の久保田、栗本に続く第3位のシェアを占めた。工場は関東大震災(23年)の被災を免れたが、不良品の続出と労働争議などから27年2月、久保田に売却。失意の栄之助は同年7月、欧州、米国に約8ヶ月遊び、新たな意欲とともに帰国した。
    ▼吾嬬精鋼所=栄之助は向島吾嬬町に土地を購入し、「吾嬬精鋼所」と敢えて町名を名乗り、製銑・製鋼・圧延の建設を始めた。銑鉄→製鋼(転炉)→電炉と3段の精錬を目指し、八幡から転炉の専門家を技師長に招いて28年3月、鉄鋼業回帰のスタートを切った。29年5月再生銑用30㌧小型溶鉱炉で銑鉄を製造し、11月2㌧電炉を、翌30年1月2.5㌧転炉を導入。4月圧延工場を作り、小形棒鋼の生産を開始した。同年11月25㌧1号平炉が完成したため転炉・電炉を休止し、溶鉱炉→平炉→圧延の一貫生産を整え線材生産に乗出した。栄之助は33年8月創設総会を開いて、株式会社吾嬬製鋼所を設立し、35年には40㌧平炉を持つ関東製鋼を買収。銑鉄や鉄屑が安価かつ容易に入手できるようになったことから小型溶鉱炉の操業を中止(35年11月)した。
    ▼土佐電気製鋼=栄之助は郷里、土佐から徒手空拳で出てきた明治の男である。内田商店、隅田川精鉄所から吾嬬製鋼所へ発展しても常に陣頭に立ち、50銭銀貨を懐に成績の良い者にはその場で報奨として与えた。土佐出身の東京市学務課員の寄附要請に「甲種工業学校を江東地区に建設する」ことを条件に応え、市立向島工業高校が創設された。還暦を迎えようとしていた栄之助は有意に役立てたいと100万円を用意していた。うち50万円は東京市に寄附。残り50万円を郷土開発のためにと活用したのが土佐電気製鋼の建設(37年7月)である。同社の資本金50万円の出資比率は土佐セメント、高知県、吾嬬製鋼が各3分の1。ただ吾嬬製鋼は配当金をすべて県立工業試験所の建設に寄附した。38年6月14日死去。享年59。(「吾嬬製鋼所 40年の歩み」より)

  • 草野 惣市、秦太郎、泰道(くさの)-鋳物専業商社を三代で築く(草野産業) 東京都中央区 ホームページはこちら
     鋳物原料商社の草野産業は2014年、「和―草野100年歩み」をまとめた。
    ▼草野惣市(初代)=1883年(明治16)、福岡県直方(のうがた)に生まれた。出生後まもなく母の急死から縁続きの鍛冶屋の里子に出され、教育の機会を失った。惣市は、読み書きはできなかったが、抜群の記憶力と誠実な仕事ぶりを身につけた。生母の実家に代々紺屋を業とする資産家、大地主の草野家の縁者がいた。惣市は、見込まれて草野家当主の長女の婿養子となり、精米業の経営を任された。時に1914年4月13日(30歳、妻ミツ18歳)。この日を実質的な創業と定めた。
    ▼開業=折から第一次世界大戦が始まり、金偏ブームが世を覆った。惣市は鍛冶業の経験から材料である古金の選別眼があった。精米業の傍ら屑鉄も手がけた。1918年の「米騒動」を機に精米業を廃し、鉄屑・故銑扱い専門の「草野宗一商店」を興した(同年9月)。惣市は目に一丁字もない。だから代金受け取り書類の代筆を発行者に頼み押印した。これが納入会社の信頼を勝ち取った。戦後の日本を席巻したのはインド銑であった。惣市は、躊躇することなくインド銑扱いに賭けた。
    ▼銑鉄扱い問屋として=第一次大戦後、英領インドから安くて上質な銑鉄が大量に流れ込んだ(1929年国内流通の57%)。これに対抗して国内銑鉄会社、販売店はシンジケート(組合)を結成。組合は惣市に組合銑扱いを「威圧的な勧告」で臨んだ。惣市はむしろ「組合は品質、価格共インド銑並に改善すべきだ」と反論した。その組合を強化した「銑鉄共同販売会社」(32年)が設立され、「各地の問屋は組合決定を丸呑み」した。統制は「日満鉄鋼販売会社」(38年)に引き継がれ、日米開戦の41年末には「鉄鋼原料統制会」、さらに鉄鋼統制会へと強化された。銑鉄配給は全国21店の問屋を北海道、関東、東海、関西、北陸、西部の6地区の配給会社に集約され、6社の銑鉄配給株式会社による統制が45年4月始まった(39年、草野宗一商店を「(株)草野商店」に改組し、44年「草野産業(株)」に改め、中原商店と合作し西部銑鉄配給会社を設立)。4ヶ月後、敗戦を迎えた。
    ▼秦太郎(二代)=1915年に生まれた。門司商業学校卒業後。入社。4年後、役員急死から経理の責任を任された。戦後の1950年、日本製鉄は八幡と富士に分離した。日鉄の銑鉄問屋だった草野は両社の指定を受けた。当時「富士の釜石銑、室蘭銑の評価が圧倒的に高く、八幡銑は品質が劣り」評価は芳しくなかった。が、副社長の秦太郎は「八幡専従」を主張。惣市も熟慮の末、秦太郎の意見を採用した。62年、病気の惣市(73年2月死去。享年90)に代わり社長に就任した。
    ▼八幡と富士の合併と鋳物銑=高炉各社の過当競争回避の解決法として旧日鉄系の八幡と富士が合併趣意書を公取に提出した。公取が最も問題としたのが両社シェア56%の鋳物銑だった。鋳物業者は「使い慣れ」した銑鉄を優先するから「仮に他社が参入しても」その圧倒的な優位さは変わらないとの論法だった。結局、鋳物生産設備(八幡・東田6号高炉)と販売ルートを丸ごと神戸製鋼に譲り渡すことで公取合意を取り付けた。その渦中で八幡と共に次の戦略を見据えたのが秦太郎だった。秦太郎(2008年3月死去。享年93。俳号「告天子」で句作した)は鋳物銑専門問屋として公取に出廷し「要は好き嫌いだ。好みのビールがないからといって、飲まずに去る客はいない」と論述した。草野産業は新日鉄の直属会社に起用され、同時に神戸製鋼の直属鋳物商社となった。
    ▼泰道(三代)=1947年門司に生まれた戦後世代。1969年3月慶応大学商学部卒業。ただちに草野産業に入社。75年2月から76年12月まで米国に留学。77年取締役、85年38歳で社長に就任した。当時の鋳物会社は800社。草野の取引先は約400社。顧客全社の定期訪問を実行した。創業100年に当たり、三代にわたる歴史を「草野100年の歩み」としてまとめ後世に遺した。

  • 国松 喜惣治(くにまつ)-明治28年入店 沈没船、橋梁取り壊し入札に手腕
    千葉県上垣生郡長南宿。明治13年1月生(昭和9年3月歿・55歳)
     明治28年、東京浅草猿若町篠田金藏商店に勤め、銅鉄業に入る。明治36年独立。神田東松下町に古銅鉄業を開業。大正6年本所区竪川に国松喜惣治本店を移し官庁払下に専心。
    ▼業績=製鉄部を江東橋1丁目、製紙部を寺島6丁目に置く。宮内省を始め諸官庁の払い下げ指定商となり、青島、朝鮮、樺太までの銅鉄の払い下げに参加した。特に沈没船、橋梁取り壊し入札に手腕。江東区古銅鉄商組合員としても活躍した。同社出身の業者も多い(鉄屑界・第1巻7号)

  • 久保田 権四郎(くぼた ごんしろう)-明治33年 鋳鉄管を自力で開発する(クボタ)
     日本の水道管の歴史はクボタの歴史といわれるほどの会社を創った。
    広島県大浜村の桶(おけ)作り職人、大出岩太郎の三男として1870年(明治3)に生まれた(1959年没。享年90)。家は極貧に近かった。1885年、14歳の権四郎は単身上阪。「黒尾鋳造」という看貫(はかり)鋳物屋の丁稚奉公(呼び名は「松」)から、鍛冶屋としての第一歩を踏み出した。
    ▼3年の年期奉公が明けた頃、父が死に「母を安心させる」ため独立を決意。「風呂屋へも床屋へも行かず命がけで貯めた」独立資金の100円を元手に「大出鋳物」を開業。1890年2月、間借り長屋の一隅(南区御蔵跡町。当時の呼び名は「堀留」)からの出発だった。
    ▼久保田燐寸機械製造所=マッチ(燐寸)が初めて日本人の手で製造されたのが1875年(明治8)で、軸木機械を製造する工場は、当時は久保田燐寸機械製造所だけだったから、大繁盛していた。問題は跡継ぎがいないことで、久保田夫婦の熱意にほだされた権四郎は、燐寸機械の家業を継がないことを条件に養子縁組を結び97年6月、久保田姓を名乗ることになった。
    ▼伝染病予防のため=幕末から明治20年代にかけ赤痢・コレラなどの伝染病が流行し、水道の整備が急がれた。1893年(明治26)1月、水道菅敷設のため財閥系の資本を集めて日本鋳鉄合資会社が設立され、東京市と納入契約を結び、同年10月67本を製造したが検査合格はわずかに1本。設立後1年で破産状態に陥った。このなか、大阪で権四郎は錆びない鋳鉄管作りに挑戦した。
    従来手法(「合せ型横込み法」)で試みたが失敗。多くの同業会社が撤退していくなか、7年の歳月をかけて1900年(明治33)画期的な「丸吹竪込法」を発明し、水道鉄管の大量生産事業に成功。鋳鉄管の久保田の地位を不動のものにした(参考:「久保田鉄工八十年の歩み」)

  • 栗本 勇之助(くりもと ゆうのすけ)-弁護士から実業界に乗り出す(栗本鉄工)
     和歌山で紀州藩鷹匠の子として1875年(明治8)に生まれた(1948年没)。俳号木々庵。
    92年京都高等中学(後の三高)の大学予科編入試験に合格。一高に転校し、東大国文科に入学後、英法科に転籍。98年同科卒業。司法官試補で官界に入った(「帝国商法釈義」を東京博文館から出版。再版)が、程なく官を辞して西区南堀江で弁護士を開業した(大阪商業銀行、法律顧問)。
    ▼栗本鉄工=久保田の鋳鉄管製造に刺激されて久保田に銑鉄を売っていた老舗の銑鉄問屋(紀野吉商店)が1906年紀野吉鋳作所を新設し、鉄管製造に乗出した。その支配人に勇之助が選ばれ、経営を一任された。その2年半後の09年(明治42)、三代目紀野吉三郎は事業を整理、顧問弁護士で鉄管工場の支配人でもあった栗本勇之助が工場を譲受け、合資会社紀野吉鉄工所を創設した。これが事実上の栗本鐵工所の創業となった(14年合資会社栗本鐵工所に改称)。
    ▼木々庵=三高時代。同宿に後年俳句界で名を上げる高浜虚子や河東碧梧桐らがいた。勇之介も彼らと一緒に俳句同好会(無声会)を作った。「木人(ボクジン)句集」:栗本勇之介小伝(53年)。

  • 黒川 豊作(くろかわ とよさく)明治末年、大阪砲兵工廠勤務 鉄屑業に賭ける
     大阪砲兵工廠勤務を経て明治42年(1909)、独立創業した、大阪の地生え業者である。
    ▼昭和17年版人名録によれば=黒川豊作:勲八等。古鉄商。東成区猪飼野東1の2。電天王寺4870。本府(大阪府)五郎兵衛長男。明治16年(1883)12月1日福井県に生る。大阪砲兵工廠勤務を経て明治42年(1909)現地に独立創業。日露戦役に従軍」
     黒川家の伝承によれば、家は代々近郷の庄屋だが、豊作の代になって業を興した。豊作は軍機秘匿から身元、行動調べが厳格な大阪砲兵工廠に勤務した。社史によれば創業は明治41年。関西平炉3社が創業して10年足らずの明治40年代初期に25~26歳の若さで「古鉄商」を開業した。
    ▼鉄屑統制会社 指定商=豊作は、1927年(昭和2)黒川商店の看板を掲げ、鉄屑統制が始まった戦前の39年(昭和14)、月間扱い量100㌧以上を認定基準とする日本鉄屑統制会社では、株式会社黒川商店として鋼屑指定商に指定されている(大阪・堺市内、78社指定。官報記載)。個人名義で商売することが珍しくなかったこの時代、個人商店ではなく税法上有利な「株式会社黒川商店」としたのは、豊作の財務や経営感覚の鋭さを物語るだろう。黒川忠良 黒川友二の項参照。

  • 黒川 忠良(くろかわ ただよし)-戦時賠償未決着のなか、住金の直納権をとる
     戦中・戦後の大阪の鉄屑商売を仕切り 扶和金属興業を興した。黒川豊作の長男として1910年(明治43)大阪に生まれた(80年没)。その後継者が扶和メタルの黒川友二である。
    ▼戦前・指定商、回収統制会社の幹部=「人事録」によれば忠良は天王寺商業を卒業し、妹も高女(高等女学校)を出た。時期は不明だが忠良は二度従軍している。店(黒川商店)は鉄屑統制会指定商。ただ43年(昭和18)の改正金属類回収令から個人の鉄屑商売は禁止、指定商制度も廃止された。この時、旧指定商などの多くが鉄屑統制会社を再編した「金属回収統制会社」の幹部となり、忠良も部長職に登用された。黒川商店の営業は消えたが、忠良は大阪府全域の金属回収の責任者の一人として、鉄屑流通の実際を見守り続けることになった。
    ▼戦後、住金の直納業者として=いずれ占領政策は終わり民間鉄鋼会社の時代に戻り、個人商売も復活する。とはいえ商売は一人ではできない(忠良は、丁稚は使ったが使われたことがない)。46年3月、忠良は部下だった矢追欣爾氏(大阪故鉄創業者)を誘って統制会社を辞職し、二人で鉄くず商売をはじめた。高炉や平炉を持つ鉄鋼会社は戦争協力会社として戦時賠償の恐れがあった。が、忠良は、ためらうことなく住金に日参して、商権を手に入れた(46年6月、住金・直納)。これを足場に、住金からの膨大な払い下げや同社発生の兵器解体屑を一手に仕切った。
    ▼50年 扶和金属興業を設立=矢追氏との共同事業だったが、単独名義人だった忠良に、膨大な税金が課された。そこで48年(昭和23)10月、黒川商店と矢追商店にそれぞれ分離し、独立した。矢追氏との共同事業解消のあと、忠良は戦友ら3人で「内外交易」を立ち上げている。3人はそれまでの関係から忠良は住金へ、藤本金属を作った藤本氏は八幡へ、内外金属として事業を引き継ぐ市口氏は富士(広畑)へ納めた。3社がそれぞれの分野で成長し相互に連携する狙いだったという。
     50年(昭和25)日本製鉄が八幡と富士に分割(4月)され、関西平炉3社が自前の銑鉄確保に身構え、朝鮮戦争の勃発(6月末)から、市中鉄屑価格は一気に暴発し、鉄屑価格統制は、あって無きがごとしの状態となった。鉄屑「統制」の戦後が終わろうとしていた。この動きのなか忠良は12月、黒川商店を改め、鳥越実、芳樹ら親族・友人らと扶和金属興業を創設した(当時、住金は社名を扶桑金属工業としていた。「扶桑」に「和」するとの社名である)。
    ▼61年 スラグ部門も開設 直納窓口も拡大=住金の直納(46年)に続いて、平炉や電炉会社の台頭を追って大阪製鉄(55年)、臨港製鉄(62年)、関西製鋼(63年)、中山鋼業、淀川製鋼(65年)の直納権を押さえた。住金が和歌山に構内高炉を建設(61年)したことから、社内に高炉鉱滓・スラグ部門を開設(61年10月)、和歌山地区にも進出した。さらに小型高炉を持つ中山製鋼所の直納(67年)となり、高炉スラグ部門を「扶和産業」として独立させた(68年10月)。

  • 黒川 友二(くろかわ ゆうじ)*詳説-関東、米国に進出した戦略的企業人(扶和メタル) 大阪市中央区 ホームページはこちら
     黒川友二は、黒川商店、扶和金属興業、扶和メタルを作った黒川一族の直系。国内外に集出荷拠点を築き、日本発のシッパー。家業から企業を目指して社長職を社員採用の勝山に渡した。
     住友金属工業の直納店(扶和金属興業)を設立した黒川忠良の次男として1940年に生まれた。80年、代表取締役専務として会社運営に携わり、コンピュータ制御の近代工場(東大阪支店)を作り、バブル崩壊後の90年代には関東に進出し、関西向けの船荷(西送り)を開始し、東京湾岸に拠点工場を開設(95年市川支店)。社名を扶和メタルに改称(03年)し、米国NYに扶和メタルUSAを設立(07年)。社員を海外に派遣して貿易実務を習得。北関東支店(11年)、埼玉支店(12年)、西東京支店(19年)や関東、関西の湾岸・埠頭に船積みヤードを次々と開設した。
     その情報発信力の高さから、日本発の商社・シッパーとして、世界に知られた。また異色企業人を紹介する「賢者の選択」にテレビで放映された。
    ▼68年業界紙 経営者座談会(当時28歳)=63年(昭和38)早稲田大学政経学部を卒業。大学院では商学研究科に進んだ。当時、早稲田には真空管式電子計算機があった。この電子計算機がビジネスの形を変える。その確信が黒川の将来を決めた。入社2年後の68年8月、黒川は業界紙座談会に経営者の一人として参加した。当時、鉄屑業は3K業種の最たるものだった。トップ見出しは「人手不足、鉄くずの泣きどころ」である。商材(鉄屑)に問題があるわけではない。商社もラーメンを扱っている。新人社員が逃げ出し、従業員たちの意欲が盛り上がらないのは、職場は3Kだし、世間からは二流、三流会社と見られていたためだ。ならば3K対策をしっかり行い、世間から一流と見られるようになればいい。それは自助努力の経営問題だ、そう確信したと語っている。
    ▼80年東大阪工場=70年代後半は都市再開発と公害規制の強化から製造工場の都心離脱、郊外移転が進んだ。であれば荷受け・加工ヤードも郊外、郡部に出なければならない。黒川は東大阪市加納工業団地内に「コンピュータ制御」の最新鋭工場を建設した。事務所に3台のモニターテレビを設置して、全作業工程を一元管理すると共に、コンピュータによる伝票、入出金明細、入出荷・在庫管理。現金自動支払機など画期的なシステムを導入した。さらにお客様の待機スペースは備品から調度まで高級ホテルのラウンジ並みにしつらえ、三階には従業員用の娯楽室、更衣室、食堂、風呂を作った。業の近代化は、お客様へのサービス、社員の労働環境、福利厚生の改善が必要だとの信念を、見える形に作り上げたのだ。
    ▼代表取締役専務=80年6月、父・忠良の病状悪化に伴う後継体制作りから、長男益亘は扶和産業の社長兼扶和金属興業の社長に、次男の友二が代表権を持つ扶和金属興業専務に就任した。
    ▼81年 扶和産業・鹿島営業所労働争議と黒川=81年4月、扶和産業・鹿島に突然、アカ旗がひるがえった。黒川は急ぎ大阪から鹿島に駆けつけた。できることは直ちに着手した。世間並みの給料見直しは保証する。しかし法外な給与引き上げは、採算、経営を度外視したもので、絶対に応じるわけにはいかない。それでは会社が潰れる。だから無理だ。この言葉にオルグ達がキバをむいた。中からカギを掛け、事務所を封鎖し、黒川は誰とも分からない巧みな膝蹴りに「ボコボコ」にされた。黒川は、労使が激しくせめぎ合う現場に投げ込まれ、そのドロドロしたやりとりをかいくぐってきた。後年、黒川は「地獄を見た」だから「もう怖い物はない」とも言った。
    ▼82年 貿易部新設=83年2月、香港から初輸入。またシンガポールに乗りだしたのは、大手商社の貿易部隊よりも早い。84年から現地業者を利用して日本製の中古加工処理機を売りさばいた。
    ***
    ■運命の分岐点 85年8月12日・日本航空123便=この日こそが、黒川(当時45歳)の人生の分岐点だった。午後5時過ぎ、羽田空港の一画で黒川は電話対応に追われた。空港の公衆電話に釘付けだ。搭乗時間が迫ってきた。急げば間に合う。ただ黒川は、30分後の全日空にも予約を入れていた。それで帰ろう。黒川は搭乗を見送った。この羽田発大阪伊丹行きの日本航空123便が離陸後、後部隔壁の破損喪失から操縦不能に陥り、群馬県山中の御巣鷹山に墜落した。乗客乗員524名のうち520名が死亡。単独機の死亡事故としては世界最多の惨事となった。価格交渉は、結局は不調に終わったが、その不調に終わった交渉時間が黒川の命を救い、黒川の行動の幅を広げた。
    ▼業界活動――関西鉄源協議会代表幹事として=ヤード経営に問題が山積みとなった90年。黒川は「関東鉄源協議会」の先行例にならって90年4月「関西ヤードディーラー協議会」(91年関西鉄源協議会に改称、07年関西鉄源連合会も併設)を設立。創設代表幹事として、混入ダストの定率引き、週休2日制の定着、プレス、ギロチンのコスト計算など経営課題の改善に取り組んだ。
     どうしたら良いのか。一緒に考えよう。ただ競争でガチガチの親父連中ではダメだ。
     だから「親父」は呼ばず、若い二代目たちを集めた。その改善の方向を決めるには販売数量、在庫数量、売上利益など基礎データが必要になる。今までは「企業秘密」だった。しかし全体として生き残るには、しっかりとしたデータを材料に判断する必要がある。今までの秘密主義とは、まったくの真逆。黒川は、率先して自社データの公開に踏み切り、メンバーたちの協力を求めた。
     奇跡が起こった。大阪の商売人たちが、自分たちの手の内をさらけだし、月次報告に結集したのだ。黒川は、この基礎データと相互信頼の結束を足場に、発生工場に向け「逆有償」のパンフレットを配布(91年)し、「過積載」対策として積載アンケートを行い(93~94年)、週休2日の実現やコスト試算などの方策を打ち出した。ただひとつ問題が残った。長年の思い込みや身にしみこんだ意識だ。そこで黒川は、協議会の会合の場を一流ホテルに設定した。最初でこそ作業着のまま会合に直行してきた会員も、二回目、三回目となれば、ネクタイ姿で現れるようになった。
     身なりが整い、会合を重ね、問題点を洗い出していくに伴い仲間意識も芽生え、相互の信頼も高まった。そのなかスクラップ需給が悪化した96年、共同輸出の定期入札に踏み切り、その後は協議会主導による輸出が定着した。
    ***
    ▼オピニオンリーダーとして――「10年先を見つめる そのために今」=2000年(平成12)6月から、業界紙に「10年先を見つめる」とのタイトルで提言活動を開始した。異彩を放ったのが、当時関西で検出が相次いだ放射能汚染スクラップ(00年4月~6月)とその対策への提言だった(00年7月)。黒川は「放射能汚染スクラップ対策――善意の第三者に責任を問うのか」と問題を提起し「補足提言」を行った。黒川は放射能汚染スクラップを、それと知らず引き取る(善意の)業者の立場から「我々は放射能汚染スクラップの所有者なのか」と問い、「放射能物質に当事者能力を持つ者はいない」と主張し、資金力や社会的立場の弱い扱い業者に、放射能汚染スクラップ処理費用一切を押しつけるのではなく「国民の生命・身体の安全を守るのは国家の責任」だとの論点から、国に適切な制度的救済と対応を求めた。
     また鉄スクラップの国際化と輸出拡大の趨勢を指摘したのも黒川だった。国内需要の後退から、海外に販路を求める輸出が増加し始めた01年7月「鉄スクラップ輸出『爆発』を考える」との標題のもと輸出の必然性を分析し、「鉄スクラップの世界的高騰の背景を考える」(04年10月)、「資源産品の一斉急伸を考える」(06年10月)など詳細な資料とデータに基づいてその背景に言及した。その参考として、輸出とその受け皿である中国(03年2月)、トルコ(03年9月)、ロシア(05年10月)、ベトナム(07年7月)、インド(17年10月)などの現状、データを紹介した。
     同時に「情報」(取得と分析)の重要さを指摘した。それが「情報音痴は将来を損なう」(04年10月)、「情報把握への努力と共有のために」(05年2月)などだった。 ▼扶和メタルUSA設立とその顛末=07年8月、黒川はNYに扶和メタルUSAを設立した。社長には、住友商事からヒューゴ・ニューの鉄スクラップ担当・副社長に転じて20年間在職し99年に退社した増井重紀氏を起用した(黒川会長。スタッフは扶和社員及び現地採用社員)し、コンテナでの鉄スクラップ輸出ビジネスに乗り出した。同時に、社員海外研修を制度化した。半年~3年間の予定で仕込むもので田畑、竹村、宮川。短期研修として上西、桐野や女性社員らも送りこんだ。
     これが全米各地に「コンテナ革命」を引き起こした。独創的なヒラメキだが、やろうと思えば、誰にでも、今日からでもできる。数百ものコンテナ出荷会社が国中に乱立する異様な光景が出現した。残るのはすさまじい安値競争、仕入れ合戦だった。結果はやればやるだけの大赤字だ。
     扶和メタルUSAの経営は失敗に終わったが、ただ黒川の「10年先を見る」目には狂いはなかった。東西冷戦の終結(実際は一時停戦)とIT技術の発展から経済は「グローバル」化し、人口爆発による消費増大と環境意識の高まりは「都市鉱山」である鉄スクラップを「資源」と「環境」の両面から、世界商品に押し上げる。その内外にわたるビジネス変化を生き抜くには、自前のスタッフによる自分の商売。それが「国際商品」であれば、貿易。その「人材養成」、その「投資」だ。
    ▼事務所は「一流ホテル」並を目指す=大阪本社、東京支店を始め各支店・営業所の内装・調度品は、一流ホテルのラウンジ並みにしつらえた。と同時に社員の休憩室、談話室も、高級感あふれる作りとした。お客様をおもてなしするのは、昔の商家の軒の塩盛りと同じ。塩が牛を止め、お客が店に入る。そのお客様の心を和めるのは、社員、現場スタッフの働き。そのお客様と社員の心と身体を休めるのが休憩室。それに心を配るのが経営者の責任だからだ。
    ▼企業提携 FKSでアライアンス(戦略的提携)を結ぶ=黒川は15年6月、関西の高炉納入企業である共栄(JFE系)、シマブンコーポレーション(神戸製鋼系)と自社(新日鉄住金系)の3社(FKS)の業務提携を主導した。3社(14年)の鉄スクラップ扱い量は年間約400万㌧、保有拠点は全国37カ所(船積港22)。互いの「足らずを補う」共助を目指す、と発表した。
    ***
    ▼鳥取県『使用済物品放置条例』に関するコメント(16年2月・日刊市况通信社)=鉄リサイクル工業会・中四国支部から、コメントを求められた黒川は16年2月、業界紙に「鳥取県『使用済物品放置条例』に関するコメント」を発表した。
     その結句に「父祖の教えによれば、どんなに馴染みの常連客であっても、『自分の客』などと思い上がるな。お客様が店を選ぶのだ。店が客を選ぶのではない。ライバルに負けるのは、自分の工夫・やり方がお客様の意に沿わないからだと思い知れ。商売の負けは、商売の場でないと取り返せない。その覚悟で商売に励め、と教えられた」とのコメントを寄せ、明確に反対意見を記した。
    ▼16年(平成28) 10月 勝山を第4代社長に指名=16年10月、黒川は代表権を持たない会長に退き、86年入社の勝山正明を第4代社長とした。身内は一切、役員にはくわえていない。
     黒川は代表取締役社長を退くに当たって、保有全株を会社運営を託する従業員持ち株会社に格安で譲渡した。ただ経営は起伏を伴う、そこで株主総会の決議事項に拒否権を発動できる黄金株(拒否権付き種類株)一株だけ保有し、後進の運営を見守ることとした。
     引き継ぎに当たって、黒川は役員をすべて一新し、次期社長体制を整えた。その黒川が勝山に申し送ったのは、兼ねての持論、社是である「10年先を見据えること」「つねに職場をきれいにしておくこと」「社員を大切にすること」の三点だけだった。

  • 黒田 俊(くろだ)-鉄屑界」初期の寄稿家・論客のひとり
     明治43年3月生まれ、茨城県龍ケ崎町出身。昭和15年黒田組を結成し、金属類特別回収業務に従事。22年鋼管原料納入業者として指定を受け、同年9月黒田組を解散。黒田興業株式会社を創設。鉄屑懇話会広報委員。(鉄屑界・第1巻1号)。▼「鉄屑界」初期の寄稿家・論客のひとり。「業界唯一の一ツ橋卒業生である」(鉄屑界・第2巻6号)。
    ▼昭和58年秋(1982)勲五等双光旭日章授与。

  • 桑原 雅隆(くわばら)-「鉄スクラップの王者」 山特行き詰まりで連鎖倒産(桑正)
     桑原雅隆が作り戦後の一時期、鉄屑専業商社として覇を唱えたのが桑正(くわまさ)だった。
    ▼63年版現代人物論によれば=広島出身。1897年(明治30)生れ。30年(大正5)広島工業学校を卒業し、大学入学用に親から与えられた資金を元手に三菱造船の鋼材関係の仕事を始めた(第一次大戦当時で鉄成金ブーム)。ところが世界大戦の終結(32年11月)後の不景気から、取引先に倒産が続出。辛酸をなめたが、35年(昭和10)神戸に合名会社桑原商店を設立。製鋼原料の貿易と国内販売を開始した。39年(昭和14)12月桑正株式会社に改組した。
     40年(昭和15)4月桑原商店で日本鉄屑統制会社・指定商(官報)。
    ▼元社員芦田氏(直話)によれば=桑正の本社は大阪の立売堀にあった。自社ビルで1階が営業関係、2階が総務・会計関係、3階が社員寮。扱い品目は国内外の製鋼原料、貿易、国内販売。鋼材、フェロアロイ(合金鉄)など。神戸事務所は貿易を行い、東京支店などは営業のアンテナ。境川には鋼材・製鋼原料倉庫を構えた。社員は総勢100人超。戦後15年。高炉と平炉各社による「鉄屑カルテル」が動き出して5年。戦前から高炉筋とのつきあいがあった三井や三菱は別格として大方の商社はまだ国内分野には出ていなかった。鉄スクラップ専門商社といえば当時、まず桑正だった。
     桑正は神戸に拠点を置いた戦前の桑原商店時代からの取引もあり、住友金属工業(大阪、小倉)や日新製鋼(59年、日亜製鋼と日本鉄板が合併)を筆頭に阪神間の大谷重工、大谷製鋼、大和製鋼、田中電機製作所など関西や西日本に強かった。芦田が入社した60年ころには、阪神間だけでなく名古屋は勿論、東京にも支店を構えるなど平電炉と名のつくメーカーの多くに食い込んでいた。
     「65年不況」から山陽特殊製鋼が会社更生法を申請(3月)し、桑正も8月倒産した。
     桑正・姫路営業マンとして現場にいた芦田にその間の事情を聞いた。
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     話は1年以上も前の64年東京オリンピック反動不況にさかのぼる。
     オリンピック開催を名目にした国を挙げての一大インフラ整備(62年首都高道一部開通、63年黒四ダム完成、64年名神高速道全通、新幹線開通)は64年前半に終わり、鉄鋼需要は急減した。一方、65年度を目途とする鉄鋼第三次合理化計画から鉄鋼設備は急増。64年後半には鉄鋼需給バランスは全面崩壊した。大手高炉の建設ラッシュ、シェア拡大に圧迫された全国の弱小平電炉メーカーは軒並み赤字を計上し、信用不安が一気に渦巻いた。
     64年11月、関東で日本特殊鋼が会社更生法を申請して事実上倒産。65年1月阪神間の田中電機製作所が行き詰まった。山特の会社更生法申請は3月。桑正は8月倒産した。  新聞やマスコミは山特の連鎖倒産と報じたが、芦田に言わせれば、山特倒産は直接の原因ではない。桑正のメインは住金や日新。山特は単なるつきあい程度だった。山特の負債額は戦後最大の500億円だが、桑正の引っかかりは1億6千万円にすぎなかった。
     「山特との取引額が大きかったのは本社が窓口のフェロアロイ。姫路の鉄スクラップ購入はたいしたことがなかったから、会社更生法申請は(芦田には)寝耳に水だった」  桑正は8月倒産したが、戦後3番目の負債額160億円超のほとんどは、平電炉各社の焦げ付きだ。桑正は先に言った通り、製鋼原料専業商社として、全国の大方の平電炉メーカーに鉄スクラップを納入していた。関東であれ、中部であれ、また地元の大阪、姫路であれ、信用不安や行き詰まりの平電炉メーカーがでると、その納入・関連会社として桑正の名が出た。
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     全国各地の平電炉の不良債権が桑正に積み重なり、それらの貸し倒れがボデーブローとなって桑正を叩いた。「鉄屑扱いでは全国一」の強みが、全国の大方のメーカーが信用不安に直面した平電炉不況では、最大の弱みとなった。ただ専業・桑正の終焉は、「商社の時代」の到来のなか、ほとんど予告された退場でもあった。当時、出遅れていた糸偏商社も、ようやく国内鉄スクラップ扱いに進出し、大手商社を中心とした新たな流通が再整備されようとしていた。専業問屋・ディーラーの排除である。その最大の専業(商社)が桑正だった。
    これに五輪反動の平電炉の大不況が加わった。まさにそのタイミングで、鉄鋼分野に進出していた日綿実業が、桑正に合併の提案を持ちかけてきた(64年)。合併とはいえ、企業規模から言えば吸収合併に近い。経営陣は合併推進派(鉄スクラップ担当の奥長常務ら)、独自路線派(桑原雅隆社長ら)に分かれた。このままでは会社はジリ貧になるばかりだ。それは分かっていた。しかしオーナー会社だから、トップの桑原雅隆社長の考えを覆すことは難しい。最後のとどめの一発が、山特の会社更生法申請だったようだ。業界紙(日刊鉄屑市況)は「かつて鉄スクラップの王者を誇った桑正は創業以来45年の幕を閉じることになった」とその終わりを悼んだ。

  • 小泉 一義(こいずみ)-大正12年・合名会社小泉商店を創設
    山梨県出身。父の上京から東京育ち。(昭和18年7月歿・61歳)
     父は夏は氷屋を、冬は餅屋を営み、かたはら荷車を引いては鉄屑の回収に励んだ。その間、一義は子供時代から壮年時代と常に父をたすけ、努力の末、神田和泉町に用地を買い取り鉄屑置場を確保し、釜石鉱山等と取引を開始した。大正6年・万世橋際に軌条部(乙黒商店)を、大正7年・日暮里駅近くに小型ロール工場を、大正9年・大森鈴ケ森に千代田鋳鋼を新設。大正12年・合名会社小泉商店を創設した(鉄屑界・第1巻7号)。

  • 小玉 健人(こだま けんと)-高炉・直納系業者、九州の雄(小玉商店) 北九州市若松区:ホームページはこちら
     小玉商店。鉄の町若松に1918年(大正7)の創業以来、鉄鋼業の歴史を歩んだ老舗である。
    ▼言い伝えによれば=官営・八幡製鉄が火入れしたのが1901年(明治34)。石炭、鉄鉱石の積出し港を持つ若松に1918年(大正7)小玉健人(けんと)が現在地で船具商を開業した。その店先である日、行きずりの男性が急病に倒れた。店の者が介抱し、ことなき得たが、その礼にと、その男性は鉄スクラップ商売のツテを授けてくれた。それがこの業に入る始まりとなった。
    ▼戦前は鉄屑指定商=日米開戦を前に日本は鉄屑統制会社を設立(1038年)し、全国の有力業者を鉄屑回収の「指定商」に選抜した。同社は若松管内唯一の指定商として回収に奔走した。
    ▼戦後は八幡「八栄会」の一員=戦後、日本は鉄の復興から始めた。八幡製鉄に協力して国内市中鉄源回収に立ち上がったのが九州・中国地区有力八業者で結成した「八栄会」。八幡製鉄の直納業者として小玉商店は重厚な存在感を示した。
    ▼1990年、本社新工場新設=高炉各社の製鋼法は60年代後半から鉄スクラップを多用する平炉製鋼から原理的にはゼロでもいい転炉製鋼に切り替わり、鉄スクラップは電炉が主役の時代になった。
    ▼ヤード運営に乗り出す=小玉商店は本社工場を全面改装し最新鋭の1000㌧ギロチンと天井走行クレーン2基を持つ鉄骨建屋を建設。ヤード運営に乗り出した(90年)。ヤード運営に乗出すことは、従来の仲間である集荷・加工業者と直接、競争関係に立つことを意味するだけに容易に決断のできない長年の課題だった。しかし時代は鉄スクラップ処理の高速化、機械化、現代化を要求していた。売りつなぐだけの「伝票」ではなく、自ら集荷・処理・加工し在庫能力を確保しなければ明日はない。その切羽詰まった決断が当時専務だった和弘氏を突き動かした。
    ▼小玉和弘社長=以来20数年。小玉商店は固定処理機であるギロチン3基、移動処理機である大型油圧重機。陸海にわたる機動・出荷力も合わせ持つ総合リサイクル業者の地位を不動のものにした。本社工場(5万㎡)、洞海湾を臨む安瀬・海岸ヤード、響ヤードなど岸壁ヤードや平成20年に分社化した大分メタルズを含む5ヤード(18万㎡)で鉄スクラップなどをコンスタントに扱う

  • 後藤 浩久(ごとう)-阿波・徳島の百年企業として(後藤商店) 徳島県徳島市 ホームページはこちら
     創業は1907年(明治40)3月、初代・元繁が国府町和田で開業。古金属・古紙等を扱い、富田浜から大阪に向け船積みをした。また染料となるヌルデの木こぶである五倍子(ふし)や里芋の茎であるズキ販売も手がけた。2007年「後藤商店の100年」との記念誌を発刊した。
    ▼1958年、3ヤード体制で住金に出荷する=船積みの増加に対応して58年(昭和33)、富田浜に営業所・ヤードを開設。さらに62年(昭和37)、紀伊水道を臨む昭和町にも拠点を構え、3ヤード集・出荷体制を確立した。そのほとんど全量を住友金属工業・指定直納店として同社に出荷した。
    ▼車軸製造も手がける=62年、昭和ヤード内に県鉄鋼協同組合と合同で「住友金属指定徳島車軸協同作業所」を開設した(同所が鉄鋼団地に移転するまで5年間稼働)。
    ▼63年、自社岸壁から船積=昭和町ヤードに桟橋を設置し、自社岸壁からの船積みを開始した。新町川に面した50mの自社岸壁(プラットホームは50m×15m)。自社の荷捌き機で船積みできる。
    ▼70年、昭和町に集約=和田ヤードや市街化した富田浜を閉鎖。岸壁を持つ昭和ヤードに集約した。81年500㌧圧切断機を導入、92年800㌧圧機に更新した。
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    ▼後藤 浩久=後藤浩久社長は学習院大学を卒業後、東京製鉄に入社。本社・営業(鉄筋)で12年のキャリア中、呼び戻されて家業を継承した。時はトーアスチール任意清算(1998年9月)、電炉メーカー炉前価格1万円割れ、「逆有償」の真只中だった。
    ▼東鉄の鉄筋部隊に12年=東京製鉄とは「ほかの企業が20人も30人も使ってやっていることを10人でやる」会社らしい。徳島新聞に12年間611編のコラム(「視点」)を書いた後藤修三・鳴門教育大学名誉教授が「息子は企業戦士」との標題で就職直後の東鉄訪問の印象を述べたものだ。
    ▼03年、社長に就任=中国を始めとする鉄鋼・鉄スクラップ需給環境の好転を背景に工場近代化に着手した。切断機、車軸工場を解体・撤去して正面入口から岸壁設備奥までを見通せるレイアウトを基本に破砕機、新切断機、プレス工場3棟、事務所を新設して面目を一新。06年には環境ISO14001の認証を取得。従来の産廃物収集運搬に加え、中間処理業の許可も取得した。
    ▼持続可能な経営を=04年から3カ年をかけて旧工場を解体してレイアウトを全面変更。21世紀を目指す新事務所、新工場を建設した。東鉄譲りの合理性経営を柱に「重心を深く落として」、機械化と行政・環境資格(自動車リサイクル法、産廃許可、ISO認証取得)を両輪に急成長より、むしろ「持続可能な経営を目指す」(浩久社長)。

  • 古波津 清昇(こはつ せいしょう)*詳説 一島の独立・自営を支えた(拓南製鉄)
     沖縄の鉄鋼業及び鉄スクラップの歴史は、戦後沖縄の鉄スクラップ業の開拓者であり、沖縄唯一の製鋼会社の創業者である古波津清昇の「沖縄産業史」、「沖縄の製造業振興五十年」や「拓伸会五十年史」に詳しい。本項はこれらの著作から引用・編集し、古波津の人となりを追った。
     沖縄県東風平町字世名城に1923年(大正12)に生まれた(2017年3月没)。
     
    ■沖縄・鉄スクラップ史を兼ねて
    ▼戦争鉄スクラップは米軍の戦利品=古波津その人を語る前に、まず沖縄と沖縄県民が置かれた状況を知らなければならない。沖縄には明治の半ばまで日常生活としての鉄鋼製品を知らず、鉄屑そのものが無かった。その住民が一転して山野海浜を埋め尽くす膨大な鉄スクラップと向かい合うことになる。それが慶良間諸島の上陸(45年3月23日)から始まり沖縄全島と周辺海域で90日間以上にわたって吹き荒れた凄まじい砲爆撃(「鉄の暴風」)の後、廃墟と化した市街地だけでなく、山谷海浜に残された戦争スクラップだった。日米両軍が遺棄、廃棄した艦船、戦車、砲火器に加え米軍が日本軍から没収した兵器・弾薬や艦船、戦車、車両のうち擱坐、沈没等により沖縄及び周辺海域に残留した鉄屑(非鉄を含む)総量は約300万㌧と推計された。この兵器・鉄屑すべては国際慣例により米国の国有財産となった。武装解除した日本軍の武器・砲弾の一部は米軍によって無害化処理のため洋上投棄された(45年9月)。このほか米軍が持ち込み沖縄各地に集積した戦闘用車両や各種鉄器なども、「いつの間にか部品が消え」ほとんどが鉄屑と化したとされる。
    米軍司令部が鉄くず処理に直接動いたのは49年以降で、戦争鉄屑財産処理事務所を設置して、国際入札を行い、米EJグリフィス社と日本の新生産業(本社・東京。後出)が落札した。
    ▼53年8月 鉄屑輸出権を回復=戦前からの民間所有の鉄屑は、証明書を添付すれば自由に輸出することはできた。しかし軍払出しや戦争屑は勿論、海底屑などに関しては、米軍と契約した商社以外は所有も取り扱いも許されなかった。このため琉球政府は鉄屑収集・輸出権を移管するよう米民政府に強く求めた。その結果、53年7月鉄屑輸出処分権を琉球政府に委譲するとの内示を受けた。
    琉球政府は直ちに屑鉄審議会(会長・行政主席)を設置し、沖縄の鉄屑・輸出業者資格を「資本金70万B円(約5800㌦)以上の法人で、琉球政府の認可が必要」との屑鉄処理規定を定めた。8月4日付けで米民政府から正式に譲渡決定がきた。「地上スクラップはすべての琉球住民が集荷並びに輸出できる。輸出は民政府発行の許可証を必要とする。ただし海上スクラップ・非鉄金属・沖縄以外の諸島に所在する軍スクラップ・軍施設から発生するスクラップ・新生産業の現に収集しているスクラップは集荷することはできない」(沖縄産業史498p)。 琉球政府は、鉄屑を輸移出する場合に政府納入金の名目で輸出船積み・鉄屑1㌧につき1000B円を納入させ、これを米軍からの補助金減額の補完にあてた。 *占領直後の46年3月から58年11月までの公式通貨。50年4月から日本円3円=1B円。
    1㌦=120B円。58年9月から本土復帰の72年までは米ドルが使われた。
    屑鉄処理規定は、政府所有の陸上鉄屑の収集・輸出ができるのは琉球人または全額琉球資本法人で、政府が指定し企業免許を受けたものに限る(免許制)。輸出は指定業者に限り、政府に規定の代金を納入し、その後に輸出許可証が発行される仕組み(納入金制)とする、とした。指定業者は53年当初は70社を数えたが、実際に営業活動したのは20社ほどであった。
    ***
    ▼古波津清昇=古波津清昇は、沖縄県東風平町字世名城に1923年(大正12)に生まれた。父は満期除隊後、33歳の最年少で村会議員に当選し、4期16年勤めた。母の実家は沖縄の尚敬王代の侍医を出した家柄だった。誕生後一歳でポリオ(小児マヒ)に罹り、左足が不自由になった。小学校卒業後、嘉手納農林学校を目指したが、軍事教練に耐えられない生徒は不合格になると門前払いされ、中学受験を目指したが、上級学校に進んだ親類は皆早死にした、だからダメだと反対された。
    しかし学校に行きたい。親に内緒で恩師に相談し、前年開校したばかりの県立八重山農学校の願書を貰い、恩師が父親を説得する後押しもあって38年入学した。学校を卒業した40年「大豆種まき機」を開発。実用新案登録のため東京に行き、地元紙(海南時報)に快挙を讃えられた。
    ▼18歳で県農会技手=41年には18歳の若さで県農会技手に採用され、食料増産に向けた講習会や技術指導を行った。しかし戦局が極まった44年10月の那覇空襲以来、農業指導どころではなくなった。米軍が45年3月、慶良間島列島に上陸した。古波津は父を北部に避難させるため世名城に戻り、敵が目前に迫った5月、父と一緒に八重瀬岳の自然洞窟に逃げ込んだ。蓄えていた芋以外の食糧は腐った。牛島中将の自決は知っていたが、外では米軍と日本兵の戦闘は続いていた。米兵が食い残した携行食糧夜間に拾い集め、命をつないだ。食糧物色に出たある夜、闇の向こうから耳慣れた方言が聞こえてきた。それが45年12月25日深夜のことだった。
    ▼農事試験場・電気科長=46年1月、東風平村出身者は前川区に仮移住することになり、22歳の古波津が副区長に指名され4月からは区長として、住民6千人の食糧配給から娯楽に至る一切の面倒を見ることになった。村民を郷里に送り届けた同年9月、任務を終えた古波津は屋宜原に引っ越した。その直後の12月、戦前の上司から誘いを受け、農事試験場に電気科長として復帰。ひめゆり学徒の生き残りだった屋宜圭子と結婚した。古波津は、しかしこの農事試験場を1年で辞めた。
    食うや食わずの島民がほとんどだった時代に、自分たちだけが「ぬくぬくとした生活を続けることは申し訳ない」「食糧不足を解消することこそが生き残った者の責務」だと考えた。農会技手のキャリアを強みに、父と弟の三人で、東風平村にまだ一軒もなかった精米所建設に乗り出した。
    ▼那覇農産加工場を経営=世間は甘くない。この精米事業は失敗し、家族全員が古波津の元を去り、妻も実家に引き取られた。自身もマラリヤに罹り死の衝動にも駆られた。追い詰められた古波津は、今度は米軍政府から島民に配給されるトウモロコシの製粉機の開発に取り組み、那覇市神里原の知人の軒先を借り、機械を設置した。再出発の日、妻も実家を抜け出し、駆けつけてくれた。
    那覇での事業は好調で1年後には資金の余裕もできた。神里原から平和通りに移り、精米、製粉だけでなく農事試験場から休止中の冷凍機を借りて改造し、アイスケーキも製造した。さらに那覇市農業会から新天地市場の土地250坪を買い受けた。機械を据え付けてテント張りの工場とし、トタン屋根6坪の住宅を建てた。同地に移転した翌年の52年、琉球復興金融基金の融資を受けて工場を木造45坪の工場に改築し、「那覇農産加工場」の看板を掲げた。そこで精米、製粉を始め豆腐、アイスクリーム、製麺、漬物などあらゆる食品加工の製造を手がけた。
    ▼拓南商事(鉄屑会社)=東京に本社を置く新生産業が、米軍との長期契約で鉄屑輸出を手がけていた。その屋宜社長は妻の遠縁に当たった。また屋宜社長を中心に琉球肥料会社と肥料原料を供給する子会社の設立が併せて計画され古波津にも参加の要請がきた。古波津はこれに応じた。しかし調査の結果、肥料原料は採算が合わないとして計画は頓挫。屋宜社長から改めて戦時鉄屑を扱う会社の設立を勧められた。そこで51年、新生商事(親泊元信社長、屋宜宣輝専務)を設立し、常務に就任した。この新生商事は、那覇港の鉄くず船積みの下請けを皮切りに、恩納村、本部町、伊江村で船積みを行った。独占に近かったこともあり、1年半で資本金に数倍する利益を上げた。
    53年、米軍の支配下にあった鉄屑輸出処分権が琉球政府に委譲される見通しがついた。同年、親泊、屋宜、古波津の3人は、那覇市壺川に500坪の土地を借りて合資会社拓南商事を設立した。拓南商事は同年8月、鉄屑取扱業認可第1号として免許を受け鉄屑取扱に本格的に乗り出した。
    ▼4千㌧の国際入札と鉄屑売り込み=琉球政府が鉄屑集荷・回収権を回復した53年、島内の免許20数社は、琉球政府の免許行政に対応する業者組織として「鉄屑協会(会長宮城薫)」を設立した。
    島内業者は「鉄屑協会」を結成するとともに、島内の生和産業、丸宮商会、拓南商事の3社共同で53年10月、沖縄の業者として初の大口(4千㌧)国際入札に参加、トン当り35㌦で落札した。4千㌧の保証金2万8千㌦は入札3社が拠出し、残金11万2千㌦は銀行借入で決済した。現物は生和産業が扱うことし、2千㌧は本土の岩井産業に出荷、残り2千㌧は状況を見て出荷するとした。ところがこの頃から鉄鋼市況は後退(朝鮮特需は51~52年がピーク)し、54年3月には重量鉄屑の選別輸出はほとんど止まってしまった。3社ヤードには売れ残りの鉄屑が山と積み上がった。
    *このため54年6月、鉄屑協会関係者や琉球政府経済局長は鉄屑売込みに大挙上京し、日本政府の仲介で八幡製鉄と交渉したが、不調に終わった。相場商品は怖い。この島民業者共同入札の思惑はずれは、生和産業の行き詰まりや拓南商事を破産寸前に追い込んだ。
    事態打開のため拓南商事は53年12月合資会社を株式会社に改組し、54年6月、古波津が社長に就任した。屋宜は非鉄金属や政府認可の砲弾解体を扱う旭商事に、親泊は裁縫加工の沖縄衣料産業に、転じた。4千㌧の国際入札はこれらの犠牲の上に完了し「この実績が認められ米軍も県内業者を信頼するようになり、その後はほとんど県内業者が落札し取り扱うようになった」。「地元業者が国際入札に参加した意義は大きく、その後の沖縄経済に大きく寄与した」(沖縄産業史)。
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    ▼54年 鉄くずプレス機導入と経営危機=沖縄の鉄くず処理の機械導入は、拓南商事が最初だ。話は54年6月、琉球政府経済局長や鉄屑業者たちが大挙上京した当時に遡る。上京した古波津・拓南商事社長は八幡製鉄との交渉の傍ら、内地の鉄屑関連企業を視察し、処理機械の実際を見て回った。古波津は食品加工時代には製粉機を設計・開発し、機械特性には熟知していた。また鉄屑商売は仕入れ・処理コストと共に、輸送コストで決まる。沖縄から本土への販路打開には鉄屑を減容加工し、輸送経費を圧縮する必要がある。だから迷わずにプレス機(水圧式4200㌦)を東京で買い付けた。これが沖縄の鉄屑加工を切り開いた。
     しかし沖縄で古波津の帰りを待っていたのは、会社の非常事態だった。他社から借り入れた共同入札保証金の焦げ付き、沈船買付の前渡し金の不良債権化、それにスクラップ在庫の山だ。資金調達は行詰まり、裁判所から「差押処分」令状まで届いた。累積赤字は資本金6千㌦の3倍にも膨らんだ。そのなか社長に就任していた古波津は、まず安慶名、嘉手納、松山ヤードを閉鎖。計量器を旭町から壺川に移し、借入金の返済は債権者に協力を求め、運転資金は不動産など個人財産を処分して調達し、保証金の焦げ付きは弁護士に取り立てを依頼した。
    万策を尽くして事業再開の目途が付いたのが、半年後の54年11月ごろだった。
    ▼55年 鉄スクラップは沖縄の最大商品=日本本土の景気は54年11月を底(54年不況)に、55年から57年にかけては未曾有の好景気(神武景気)に沸いた。沖縄でも55年から56年にかけて米軍基地を中心とする建設ラッシュが加わった。空前の鉄くずブームが到来した。従来40㌦の鉄屑が70㌦の高値を呼び、米軍の捨て場から掘り返した下級鉄屑までが、拾い集めれば飛ぶように売れた。海底に放置されていた沈船や鉄屑、日本軍の武装解除などで洋上から投棄された危険な砲弾までが、鉄屑として回収されるようになった。当時、沖縄でプレス機を保有していたのは拓南商事以外に1社あったが小型で、プレス材のほとんどは拓南商事が一手に引き受けた。事実上の独占と鉄屑の入荷集中から、プレス材などの入荷は工場の(人的)処理能力を超えた。その対策として起重機やチョッピングカー、置き場整理用のシャーリングを導入した。
    *神武景気さ中の55年以降の3年間、鉄など金属スクラップ輸出収入は沖縄経済を全面的に支えた。55年の金属屑輸出は総輸出額の約40%、最盛期の56年は約56%、57年も約40%を記録。沖縄特産の砂糖輸出を上回る最大の輸出商品に躍り上がった(沖縄年鑑59年版)。
    ▼56年9月 拓鐵興琉を社是に=生活レベルで戦後、いち早く立ち上がったのが町の鍛冶屋だった。製鋼工場の登場は一歩遅れて、琉球政府の鉄屑自主権の回復(53年)と共に始まる。琉球各地の海底の沈船や大型鉄板など戦時廃材を再利用した伸鉄会社だ。これは琉球製鋼が那覇市安謝で53年、大阪から中古の5連並列式圧延機を購入し、操業を開始したのが最初とされる。
    台風の通路で常に被害が予想される沖縄にありながら、戦後の島民は米軍支給のテントや木造の戦後復興住宅で雨露をしのぐばかりだった。鉄筋コンクリート造りの恒久住宅が何より必要だった。沖縄には建造原料(鉄屑)があり、膨大な需要がある。ないのは鋼材だった。ならば作ればいい。
    古波津は56年6月、那覇市壺川に伸鉄製造の拓南伸鉄(株)を設立し、9月から操業を開始した。同時に「拓鐵興琉」(鉄鋼業を開拓して琉球復興を図る)との社是を掲げた。
    ▼拓南神鉄あらため拓南製鉄=56年当時、伸鉄材は月間500㌧程度発生していた。うち100㌧くらいが陸上物件で、残りは海底の沈船からだった。それら海底沈船の引揚げが一巡した後、伸鉄材の発生はしだいに先細りとなってきた。長尺・肉厚の戦時鉄屑を取り尽くしてしまえば、沖縄では伸鉄は作れない。沖縄の自前の復興のために必要なのは、日常的に発生・回収されるごく普通の鉄屑から製鋼できる電炉設備だ。伸鉄材が枯渇するなか古波津は電炉建設に狙いを定めた。
    *伸鉄業の草分けである琉球製鋼は59年に操業を停止。その後、安謝製鋼に改組したが60年には再び工場を閉鎖した。同年6月古波津の拓南製鉄(59年1月、拓南伸鉄から改組)が安謝製鋼の全設備を買収した。あとは自前の製鋼所を作るだけだ。琉球政府は第二次産業振興支援の「重要産業育成法」を制定した(59年8月)。砂糖、パインなど7品目を指定したが鉄鋼業は入っていない。沖縄で製鉄(製鋼)所が造れるはずがないというのが、一般的な感覚だったのだ。
    ▼61年9月、沖縄初の電炉が稼動=沖縄で鉄を自作するには、一般鉄屑を熔解する電炉操業しか道はなかった。そこで古波津は60年3月「琉球における製鋼業の考察」を発表し、電炉建設計画を立案。配電に当たっては(配電会社を通してではなく)、電力公社からの直接、かつ卸料金での供給を申請した。しかし琉球政府は、直接買電は電気事業法に反するとして申請を却下した。
    そこで古波津は米国民政府のオグレスビー経済局次長らと相談し、キャラウェイ高等弁務官に直訴した。これが功を奏し、操業1ヶ月前に「1千Kw以上の産業用電力は電力公社から直接供給することができる」との布令が出され、要望は許可された」(拓伸会五十年史)。
    琉球政府は、さきの「重要産業育成法」では鉄鋼業を除外したが、しかし社会資本の遅れが顕著な沖縄では、台風の暴風に耐えられる民間住宅の鉄筋作りへの建替えは急務だった。また古波津の電炉導入は、沖縄支配を兼ねる米軍にとっても、島内インフラ整備と治安・住民対策として願っても無い提案だったろう。古波津は農事試験場の電気科長時代に電気特性を学んでいた。この経験が「電力公社から直接電力供給を受ける折衝や受電計画などに大いに生かすことができた」。
    ***
    61年9月27日、米国民政府、琉球政府、那覇市長、琉球銀行総裁など政府高官、知名士、取引先、建設関係ら500余人が列席し、見守るなかで5㌧電炉がごう音を立てて熔解を始めた。本土の洋式炉に遅れること100年。トランス容量3000KVA。受電電圧1万3800V。発電能力の制約から容量も5㌧炉に規制され、「電力不足という理由で、晩7時から10時までの3時間は電力公社からピークカットされるため、調子が出てくる頃には休止するという、熱効率の悪い操業を余儀なくされた」、沖縄初の量産式電気炉の登場だった。
    ▼拓南製鉄と共栄製鋼=63年東京五輪の開催を1年後に控えて本土は大型予算の執行、民間投資の集中などから鉄鋼業界は急速に立ち直った。また63年3月25mmの輸入鉄筋に20%の物品税が課せられ、条件付きながら保護貿易体制が動き出したことが、島内に設備投資と競争を呼び込んだ。
    その63年6月、島内の鉄屑業者と鉄筋輸入業者が共栄伸鉄(株)を設立。さらに同社は68年浦添市小湾に8㌧電炉を導入し、沖縄で二番目の電炉会社(共栄製鋼に改称)として製鋼・圧延の一貫工場を立ち上げた。拓南製鉄も67年までに製鋼・圧延能力を拡充させていたから、沖縄の狭い市場で激しい競争を展開した。しかし共倒れは避けなければならない。そこで69年5月、両社は出資・販売シェア折半との条件で沖縄鉄筋販売(株)を設立した。社長に元琉球銀行総裁を迎え、双方から社員を出向させ、鉄筋販売価格の正常化に道筋をつけた。
    本土復帰の2年前の70年10月、鉄筋輸入業者などの働きかけもあり、20%の鉄筋・輸入物品税が撤廃された。沖縄の鉄鋼業は本土からの輸入鋼材と裸で対応することになった。
    ▼72年沖縄、本土復帰=72年5月、沖縄は本土に復帰し、法的な米軍支配は終わった。日本政府は72年12月、10年間の時限措置として「沖縄振興開発計画」を策定し、73年5月若草国体、75年沖縄海洋博など各種イベントや公共事業を開催。沖縄は空前の大型景気に活気づいた。これに先だって70年1月、拓南製鉄は5㌧炉を大型の20㌧炉に更新し、圧延設備も強化して月間5千㌧体制に引き上げた。共栄製鋼も本土復帰2年後の74年、25㌧炉に更新し最新鋭の連鋳設備を導入した。この結果、沖縄の製鋼2社の生産能力は合計、月間1万㌧を超えるまでに強化された。しかしオイルショック(73年10月)と世界同時不況(74~75年)、沖縄海洋博(75年7月から半年開催)関連工事の終了などによる反動不況から、75年以降県内鉄鋼需要は激減。共栄製鋼は、新設備導入などから多額の借入金を抱え経営難に陥り、75年12月末、工場閉鎖に追い込まれた。
    ▼77年拓南製鉄、共栄製鉄を引き受ける=拓南製鉄は、大口債権者である沖縄銀行から共栄製鋼の買収依頼を受け、40回以上の話し合いの結果77年3月、共栄製鋼の借入金を含めた設備、権利一切を承継した。「資本金1億円足らずの会社が、その数倍の赤字を抱え、さらに30億円の借金を肩代わりし、その施設改良のためさらに数十億円の借金を重ねなければならない、私にとっても会社にとっても、まさに命運を賭けた決断だった」とのちに古波津は述懐している。
    一方、拓南製鉄の那覇市壺川工場は、市街地化と共に煤煙や騒音などが深刻な社会問題を引き起こしていた。工場閉鎖を訴える住民運動もあり、また当時の公害防止技術では充分な対策効果は期待できず、早急な移転を迫られていた。共栄製鋼の買収はそのなかで敢行された。78年2月、浦添市小湾の共栄製鋼の設備を改造して、那覇市壺川から旧共栄・浦添工場に拓南製鉄は移転した。従業員数は壺川と同じ二百人だったが、鋼塊、鉄筋ともに4倍となり生産性は格段に向上した。
    ***
    ▼拓南製鉄・中城港湾工業団地に新工場=復帰前までの沖縄には、近代的な臨海工業団地がなかった。太平洋を臨む沖縄南部の中城湾岸中央部に大型港湾設備を建設し、沖縄振興開発の目玉とする本格的の工業団地が87年完工した。大型船が自由に出入りできる大型臨海工業団地だ。
    ▼拓南商事・拓南製鉄と古波津=拓南製鉄は、沖縄で唯一無二の製鋼企業となった。では、何がそれを可能にさせたのか。同社の社史は「昔のフルガニヤー(古がね屋)のイメージから脱皮し、近代装置産業として変貌を遂げた。拓南商事から安定的な良質の原料が供給されたからこそ、拓南製鉄が鉄鋼不況を乗り切ることができた」(拓伸会五十年史)と率直に記載する。
    沖縄の鉄屑業と鉄鋼業の歴史は古波津と拓南商事と共にあった。沖縄初の大型プレス機の導入は古波津に始まり、拓南商事から拓南製鉄が育ち、沖縄を代表する企業が生まれた。
    その拓南商事は75年4月、西原町小那覇に約1万平米の用地を購入して社屋、ギロチン、定置式ローダーその他付帯設備に事務所、新工場を建設。82年8月には、沖縄初となる大型シュレッダー機を導入して、沖縄の資源リサイクルの沃野を広げた。
     戦後の沖縄は鉄道網を持たず、本土に先駆けて自動車文明の洗礼を受けた。また海岸線が長く塩害に日常的にさらされることから、自動車の耐用年数は6年前後と本土に比べ著しく短い。使用済み自動車の一大発生地で、自動車解体業の先進地域でもあった。それもあって自動車解体機の歴史的な第一号機は、ここ沖縄の地で誕生した。沖縄は日本の雛形である。日本のマイカーに先だって沖縄では廃車増加に伴ってシュレッダー導入や前処理の必要が浮上したことが解体機の開発のきっかけとなった。81年10月、同機の開発に取組んだ拓南商事の宮城真治氏は科学技術庁長官賞を受賞した。古波津は拓南製鉄と拓南商事を一体として運用した。それが沖縄最大の鉄スクラップ会社・拓南商事を育ちあげ、沖縄で唯一無二の拓南製鉄を作った。
    ▼沖縄有数の経済人・「語り部」として=古波津は、若くして沖縄の農業吏員として島民行政に係わり、戦後は島の自立復興に投じて、鉄スクラップ回収・処理の拓南商事を創設し、鉄鋼・鋼材生産、販売などを擁する沖縄を代表する企業、団体グループ拓伸会9社(拓南本社、拓南製鉄、拓南商事、拓南産業、拓南製作所、拓南鋼材、拓伸商事、薩南物産、拓鉄事業協同組合)を育てあげた。その業績から沖縄県工業連合会・会長に推され、第七代会長として83年から3期6年を務め、同会の社団法人化や県産品奨励運動の推進など沖縄の製造業の振興をリードした。92年に創設した「古波津製造業育成基金」から毎年ものづくりの担い手への助成を実施するなど、人材育成にも力を入れた。 主な著書として「沖縄産業史―自立経済の道を求めて」(83年)、「起業の心得帖―チャンスを生かせ」(90年)、「沖縄の製造業―振興五十年」(05年)、などがあり、沖縄経済の語り部としても著名であった。17年3月14日、老衰のため死去した。享年94。
    拓南製鉄 / 拓南商事
    ▼余談として=「鉄の暴風」と呼ばれる沖縄地上戦に日米両軍が投入した鉄量は300万㌧に達したとされる。沖縄の戦後再建は膨大な鉄屑処理と輸出・換金作業から始まった。これに沖縄県民はどう立ち向かったのか。そのすべてを古波津は社史にまとめ、地元新聞のインタビューに応えて語り、新聞社は詳細な列伝として後世に遺した。遺すべきもの、決して忘れてはならないものがある。それを確かな形として後世に伝える。そのひたむきな情念が古波津にはあった。

  • 小林 源次郎(こばやし げんじろう)-通称「こばげん」、戦前~戦後の業界活動家
     戦前の鉄屑統制会社設立に係わり、指定商協調会長となったキーマンの一人である。
    ▼鉄屑界・第1巻8号(自己申告)によれば=明治29年生。新潟県出身。昭和8年鉄屑商を開業。13年「東京古鉄株式会社」(?)社長に就任。15年5月鉄屑統制会社・指定商協調会長に就任(18年7月辞任)。20年3月同社解散・小林商店に継業。22年3月鉄屑懇話会(第一次)創立本部常任理事。同年7月小林金属産業株式会社に改組。24年12月鉄屑懇話会関東支部長。25年3月副会長(26年8月辞任)。28年6月小林源(こばげん)産業株式会社に改称した。
    ▼伊藤信司によれば=鉄屑統制会社の設立は昭和13年だが、統制会社設立の機運は前年秋ごろからにわかに高まった。商工省の意向は、岡田や鈴木、西、德島など月間1000㌧以上の有力クラスを中心としそれ以下の業者は配下につくとの噂だった。これに危機感をもった小林は、深川区会議員だった伊藤を訪ね、設立反対を訴えた。これに賛同した伊藤らは13年春ごろ、中小業者の権益を守るため、京浜地区を中心とする「東京鐵鋼原料商組合」を発足させた(村越和一組合長、伊藤副会長、小林源次郎幹事長)。この動きを見た商工省は、中小業者も含む受け皿作りに転じ大手(A)、中小(B)の両派同数からなる統制会社設立準備委員会を立ち上げた。このBグループ委員は、それなりの規模を持つ小宮山常吉、伊藤信司、村越和一、小林源次郎。慶応大学卒の学歴を持つ内田浅之助(東京)、岡憲市(大阪)などが加わった(75年8月、日刊市况通信)。
    ▼鉄屑統制指定商・協調会長=鉄屑統制会社は昭和13年設立され、14年4月小林は「トクボー商会・小林源次郎」として指定商となった。また15年5月鉄屑統制会社・指定商協調会長に就任した(初代会長は伊藤信司)。国は米国との開戦が迫る16年9月金属類回収令を制定し、10月「月間1000㌧扱い」を基準に指定商の再編(企業整理)を命じた。
     この時、単独では指定商に残れないと見た伊藤や小林は、中小業者たちと資本を束ねて統合会社「**故鉄株式会社」を作った。それが伊藤らの「関東故鉄株式会社」であり、小林の「東京故鉄株式会社」(城南地区・指定商6社が合同し創設)だった。
    ▼戦後・鉄屑懇話会(第一次)、巴会=小林は湯島の切り通しに店を構えていた伊藤を訪ね、戦災でちりぢりになった業者結集の呼びかけを求めた。このとき伊藤は旧統制会社の岡憲市や小林らの組織(第一次鉄屑懇話会)ができるよう新聞広告づくりなどを手伝ったが、表面には現れていない(伊藤談)。昭和22年3月鉄屑懇話会(第一次・岡憲市会長)創立本部常任理事。24年12月鉄屑懇話会関東支部長。25年3月副会長(26年8月辞任)。ただ、それもあってか第二次鉄屑懇話会とは距離を置き、その後は直納大手の巴会メンバーとして活躍した。

  • 小宮山 常吉(こみやま つねきち)-戦前は鉄屑指定商、戦後は参議院議員に
    小宮山は、戦前は指定商として官報にも記載されたが、戦後の資料は鉄屑業界にはないが、国会議員経歴要覧には出てくる。またその一族の戦後登場する舞台は銀行史であり、週刊誌だった。
    ▼昭和17年版「大衆人事録」によれば=小宮山 常吉:銅鉄並びに鉱山業。小宮山商店(株)社長。東洋特殊製鋼(株)取締役。京橋区木挽町。▼閲歴=山梨県栄兵衛長男。明治15年10月生まれ。つとに甲府市河内屋古着店に勤務。明治35年上京。家具販売業経営。大正5年現業を創む。
    ▼家庭=長男英蔵(大元)。正則英語学校卒。小宮山商店常務。次男治二(大8)。四男重四郎(昭2)。五男勇(昭5)。ほかに女子四名。(14版東京篇。帝国秘密探偵社)
    ▼歴代国会議員経歴要覧によれば=小宮山常吉:1882年10月生まれ1974年4月歿(享年91)。山梨県。第1回参議院選挙当選。参議院議員。47年5月3日~53年5月2日。緑風会所属。
    ▼伊藤信司によれば=鉄屑統制会社の設立の機運は37年(昭和12)秋ごろから高まった。商工省の意向は、月間1000㌧以上の有力クラスの数社を中心に組織するとの噂だった。これに危機感をもった小林源次郎ら中堅業者がこの前後、深川区会議員になりたての伊藤を訪ね、統制会社の設立反対を訴えた。「この提唱者、発起人は、現在の平和相互銀行を創設した小宮山常吉さん(故人)なんです」(日刊市况通信75年8月号。「商権喪失の鉄屑統制時代」伊藤談)。
     伊藤らの強硬な反対運動を受けた商工省は、分裂を避けるため大手(Aグループ)、中小(Bグループ)同数による統制会社設立準備委員会を立ち上げた。このBグループ委員に小宮山、伊藤らが加わり、38年設立の日本鉄屑統制会社では、小宮山は取締役として名を連ねた。
     また41年10月商工省告示による(月間扱い1000㌧以上扱い)回収機関(指定商)として、東京では(株)鈴木徳五郎商店などと並んで(株)小宮山商店の記載がある。
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     鉄屑業を営んでいた小宮山常吉は、鉄屑統制の噂が立つや、すぐさま同じ中堅業者だった小林源次郎らと語らって伊藤信司の門を叩いた。また気運に乗じて鉄屑統制会社の取締役に就いた。さらに41年の指定商の再編では1000㌧以上の扱い業者として単独で指定されている。とすればこの間に中堅規模の業者から大手の一角に食い込む成長を遂げたと考えられる。
     同時期、伊藤信司や小林源次郎らが企業合同(関東故鉄など)の形でしか指定商に残れなかったことから見ると小宮山常吉の政治的な感覚や商才は彼らより遙かに優れていたようだ。

  • 小宮山 英蔵(こみやま えいぞう)*詳説-鉄屑業から戦後、平和相互銀行を作った異端児
     鉄屑業から金融業に進出した小宮山英蔵は、庶民金融の「無尽」会社、相互銀行(平和相互銀行)を創設し、親族の政治的存在をもバックに野心的な事業を展開した、いわば伝説の政商である。彼の死後、それまでの不正経理が暴露され、会社支配権を巡り一族と経営陣が訴訟合戦を展開し、東京地検特捜部が内偵を進めるなか86年10月、住友銀行に吸収合併された。
    戦前の42年(昭和17)「人事録」に小宮山常吉の長男英蔵として登場する。
    ▼小宮山 常吉(42年版「大衆人事録」・14版東京篇。帝国秘密探偵社)=銅鉄並びに鉱山業。小宮山商店(株)社長。▼閲歴=山梨県栄兵衛長男。明治15年10月生。つとに甲府市河内屋古着店に勤務。明治35年上京。家具販売業経営。大正5年現業を創む。
    ▼家庭=長男英蔵(大元)。正則英語学校卒。小宮山商店常務。次男治二(大8)。四男重四郎(昭2)。五男勇(昭5)。
    ▼小宮山 英蔵(42年版「大衆人事録」・14版東京篇。帝国秘密探偵社)=大阪小宮山商店(株)代表。深川区東陽町。常吉長男。大正元年(1912年)9月25日生。
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    ついで戦後の人物事典は、英蔵を以下のように紹介する。
    ▼小宮山 英蔵(1990年版 朝日人物事典・朝日新聞社編)=1912~79年。郵政相を務めた小宮山重四郎の兄。87年(昭62)に住友銀行に合併された平和相互銀行の創業者である小宮山は、怪物的な経営者であり、葬儀には岸信介、福田赳夫、田中角栄、中曽根康弘といった総理クラスの政治家をはじめ政財界の要人約5000人が出席した。政治家とのつながりを武器に小宮山は平和相互を大きくした政商の系譜の人間である。小学校をでると東京市の給仕をしながら夜学に通い、日大工業学校を卒業し屑鉄業を始めた。49年日本協同証券を設立したが、相互銀行法が制定されることを知って、頼母子講を近代化した平和貯蓄殖産無尽をつくり、51年これを平和相互銀行と改称した。相互銀行法施行規則には営業時間は「午前9時~午後3時」と規定されているが、時間延長を禁止する条項はないことに着目し「平日は夜7時まで、土曜日は午後3時まで」の営業をした。
    ▼小宮山 英蔵(2004年版 20世紀日本人物事典・日外アソシエーツ)=小卒後、東京市役所第一助役給仕となり、夜は日大夜間部に通う。昭和3年クズ鉄屋小宮山を開業、全国に支店を持つまでになる。戦後、GHQ嘱託の肩書を得、日本清掃作業組合を設立。各地の軍需工場を壊して、スクラップ鉄を回収し、巨万の富を得る。24年関東殖産株式会社設立、のち頼母子講を近代化した形の「平和財畜殖産無尽」を作り、相互銀行法が制定・施行された26年平和相互銀行と改称。営業時間は夜7時までにするなど異色のアイデアで成長し、太平洋クラブをはじめ子会社を次々に設立して「小宮山コンツェルン」を築き上げた。
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     編者は戦前42年版の人事録と戦後の小宮山英蔵を紹介する人物事典の内容が違いすぎることに違和感を持った。英蔵の業績がどこかに書いていないかと関係資料を捜索したが、見つからない。そこで前出の人物事典を編纂した日外アソシエーツにその出典を尋ねた(17年9月)。
     メール回答はすぐきた。「小宮山英蔵」の記述について(9月15日にいただいたお問い合わせ)。「スクラップ鉄回収の記述の典拠資料を確認しました。雑誌『文藝春秋』1986年9月号掲載の「特捜検事・伊坂重昭の転落」です。小宮山英蔵について書かれた部分のコピー(PDF)を添付します。197~8ページにスクラップ鉄回収を行ったことが、書かれています」とあった。
    ▼大下英治の記事(以下要約)=「小宮山英蔵は大正元年9月、深川に生まれた。本所菊川小学校を卒業後、家が貧しいので東京市役所第一助役給仕となり、夜は日大夜間部に通った。
     小宮山は客が来る度に呼ばれてはお茶を汲んでは持っていった。そこで知事と業者が話しているのを耳に挟み、『いかに権力を動かして金を儲けるか』を痛感したという。大震災が起こった。丸の内の市役所から日大付属夜間部のある両国までの焼け野原を通う道に鍋釜や鉄板などが落ちている。深川の鉄屑屋に売りに行ったところ金になった。  小宮山は昭和3年、卒業するやクズ鉄屋に転身した。木挽町に小宮山商店の看板を掲げ、甲州からでてきていた父・常吉と屑鉄を買いに回った。国内は勿論、台湾や朝鮮に支店を持った。
     昭和16年太平洋戦争が勃発した。戦争は負ける、と見て取った小宮山はスクラップ鉄を大量に買い蓄え、有り金をはたいて貴金属を買いまくった。英文タイプライターにも眼をつけ、東京中のタイプライターを買い漁った。敗戦を迎えるや、計算どおりタイプライター、貴金属を進駐軍に売りつけ、信じられないほど儲かった。さらに小宮山は、かつて日本軍に雇われていた二世を10人ばかり雇い、GHQの交渉掛かりとしたことでGHQ嘱託の肩書を得、日本清掃作業組合を設立。各地の旧軍需工場を壊して、しこたま儲けた」(以上、引用終わり)
    ***
     隅田区史によれば、菊川小学校は伊藤信司兄弟が通った学校と同じく「授業料は徴収しないばかりか事情によっては学用品を支給する」貧民児童のための市直営の特殊学校である。彼もまた貧困のなかから立ち上がった。日大付属夜間部卒の真否は分からないが、42年人事録では正則英語学校卒とある。戦後の英文タイプライター販売はその流れからなら理解はできる。
     大震災で鉄屑業に目覚め、甲州から出てきた父と一緒に買い集めたとの話は承服できない。42年版の人事録や伊藤の談話がある。彼が生まれ育った本所・深川は鉄屑業者の町である。いまさら鉄クズ商売に気づくことではない。彼は30歳の若さでひとかどの男として、戦前の人事録に掲載された。その事実と戦後の圧倒的な発想と行動の素早さには、感嘆するしかない。
     同書は「(小宮山は)自分の金で仕事をするのは馬鹿らしい。他人の金を動かして儲けようと考え、昭和24年関東殖産株式会社を設立した」とその後の彼の行動を記述する。住友銀行百年史は「平和相互銀行の発展は英蔵の個性と政治力によるところが大きかった。79年6月の英蔵の急死は同行の経営に大きな影響を与えた。英蔵の手がけた仕事に数々の破綻がでてくると同時に、小宮山家と銀行経営陣との間に亀裂が生じ、小宮山家の内紛がそれに拍車をかけた」(553p)という。
     これが政財界・元特捜検事らが絡んだ不正経理の「平和相互銀行事件」、不正融資の「金屏風事件」として喧伝され、同行は86年10月、住友銀行に吸収合併され消滅した。
    ▼戦後の小宮山一族の消息=戦前の鉄屑統制関係の資料に登場する小宮山常吉の消息が、戦後、ぷっつりと途切れているのに、あるとき不審を覚えたが、戦後の第1回参議院選挙で山梨から立候補し、当選していたとは、知らなかった。また小宮山英蔵が常吉の長男だったことも驚きだった。
     小宮山一族の戦後を知る業界関係者は、見事に沈黙を守った。そこで編者は小宮山関係を調べた。その関心は、小宮山英蔵とは如何なる人物かではなく、なぜ彼が、戦後のごく早い時期に多額の資金を要するはずの金融業に転出できたのか、だった。
     業界にはほとんど資料らしきものがない。参考になったのは大下英治氏の「小宮山は、かつて日本軍に雇われていた二世を10人ばかり雇い、GHQの交渉掛かりとしたことでGHQ嘱託の肩書を得、日本清掃作業組合を設立。各地の旧軍需工場を壊して、しこたま儲けた」との記事だった。
     日本の再軍備を警戒したGHQは、設備・機械の完全屑化を関係方面に命じた。それが国有建造物や機械類の解体・清掃だった。戦後鉄鋼史は「建造物、機械類の清掃」として総発生量見込量95万㌧。51年末までの処分量65万㌧と表示する(330p、表1)。ただ同時に「終戦直後の保管、整理の作業が混乱したこと」「関係機関が鉄鋼製品ないしは半製品として処分したものが、実際は鉄屑として使用されたものが相当あったことなどから、戦争屑の実際発生量についての正確な資料はない」(329p)という。「正確な資料がない」というのであれば、屑とするより(カネになる)製品のまま持ち出したほうが多いと考えるのが世の常識だろう。当時を知る関係者は「私らが解体したなかにも潰すのがもったいないような立派な機械がたくさんあって、イキに使えるなと思いましたけれど、それはできないということでした。なかにはうまくイキにもって帰って、儲けた人もいるようです」(88年3月。日刊市况通信。座談会)との、その間の業者の行動を推測させる証言もある。小宮山が、どのような「清掃活動」を行ったのかは分からない。大下氏の前出記事によれば「各地の旧軍需工場を壊して、しこたま儲けた」とある。それに注目すれば充分である。
    ***
    ▼住友銀行百年史によれば=小見山は「昭和24年開店休業状態にあった東北林業株式会社を日本殖産株式会社に改組、殖産業に転じて金融業をはじめた。日本殖産は日掛けをある一定期間続けると満期までの金額の融資をうけることができる仕組み(無尽)で資金をあつめていた。25年4月平和貯蓄殖産無尽株式会社に改称し」「26年(1951年)に相互銀行法が施行されると同年10月、株式会社平和相互銀行に改称し11月から営業を開始した」とある。
     鉄屑の物価統制が全面解除されるのは52年2月末。統制解除を待って鉄屑関係の業界紙が登場し、業界活動の内部に立ち入るのは、同年3月以降であり(日刊鉄屑市况など)、小見山を知る伊藤信司が、編集長として鉄屑機関誌(鉄屑界)を創刊したのは53年1月である。常吉は現役の参議院議員であり、英蔵はすでに金融界の人であった。だからであろうか。鉄屑関係者、機関誌が小宮山一族の来歴、行動に触れることは、当時も、以後も一切、ない。
    ▼余談として=編者は小宮山英蔵に関して、ほとんど知見がない。そこでさしあたり紳士録や文献にあたった。その際の疑問が、なぜ英蔵は「頼母子講を近代化した形の平和財畜殖産無尽」を作ったのか、であった。東京百年史第5巻は、苦悩する下層社会との章で、「細民生活と無尽・頼母子講」を立て、「無尽や頼母子講が、世界的な不況のなかで、東京下町社会に強い根を張っていた」という。英蔵は東京でも最も生活困窮者が多いとされた本所、深川に育ち、学費免除で無料の昼食も支給される特殊学校(菊川小学校)に通っていた。とすれば、無尽・頼母子講は、彼にとって最もみなれた金融機関だった。それが彼の元風景だったのだろう。
     才覚に長けた英蔵が「現物」を扱う鉄屑業から庶民同士の「信用」を扱う無尽(頼母子講)に目を向けたのは自然だったろうし、延長として相互銀行を設立するのはさらに当然だったろう。工夫と才覚で町の「小さな信用」(預金受入れ)は確保できた。しかし鉄屑業から身を興した彼には、一般企業や大資本からの「大きな信用」(借入申込み)がなかった。
     「信用(世間的な金銭信頼・認知)」それ自体の裏付けが稀薄だった。では、いかがすべきか。信用の創出だ。信用が世間・国家を背景とするならば、その世間・国家へ働きかければいい。彼は政治の脇道を走った。それが彼の事業を大きく膨らませ、彼の死と共に破綻した。

  • 近藤 典彦(こんどう てるひこ)-世界にアライアンスを広げる(会宝産業)
    石川県金沢市 ホームページはこちら
     海の向こうは日本車の輸出実績に比例する膨大な中古部品需要が待っている。そのニーズを掴めばいい。それが近藤を日本屈指の自動車中古部品の輸出企業家に育てた。
     近藤は味噌・麹商の長男として育ったが奔放に走り、父の勘気に触れ石川県から東京江戸川区に身を落ち着けた。同地は自動車中古部品・解体業が全盛を極めていた。3年間部品・解体業に打ち込んだ。勘気が解け家に帰ったが、一度は外に出た身。家業は番頭に譲って自営の道を選んだ。それが1969年22歳の春。(有)近藤自動車商会の始まりだった。転機は85年のプラザ合意による円高と86年の鉄スクラップ暴落だった。国内では需要地に遠い石川県では逃げようがない。しかし目の前には世界に広がる海がある。輸出中古部品は国内に比べ割安だが、数量がまとまれば経営安定に不可欠な「生産計画」が成り立つ。単価は問題ではない。近藤は迷わず輸出に特化した。92年業容の拡大から株式会社に改組、社名も「会宝産業」に改めた(03年1月、日刊市况通信)。
    ▼RUMアライアンス=近藤は輸出業務の一元管理を目指して廃車査定・見積から車輌仕入、部品生産、部品在庫、部品販売までの業務プロセスを国内アライアンス企業と共有する「KRAシステム」を開発。競争から協調を旗印にしたNPO法人を立ち上げた。

さ行

  • 崔 泰宇(さい)-千葉県金属回収事業協同組合理事長
    1910年生。朝鮮出身。昭和7年東京都深川で鉄屑業を開業。東京戦災のため一時閉業(昭和18~23年)。23年5月千葉市本町で「共和商事」を開業。懇話会員。千葉県金属回収事業協同組合理事長。在日本朝鮮人商工連合会理事。
    ▼意見=朝鮮人を利潤の対象とせず、生産の友であることを認識させたい(鉄屑界・第2巻7号)。

  • 斉 浩(さい)-雑品業を起点に国内外に進出する(錦麒(きんき)産業)
    大阪府泉大津市 ホームページはこちら
    関西では錦麒産業、九州では柴田産業、四国では愛媛の高知金属を運営する華人業者。中国瀋陽市出身の20年3月現在39歳の斉浩である。
    ▼報道によれば=2004年から北九州で雑品スクラップを扱いはじめた。05年錦麒産業(株)設立。また中国の雑品規制の強化に対応するため18年(小型家電認定業者で大牟田エコリサイクルセンター内最大の)柴田産業にM&Aを行い社長に就任し、雑品ビジネスから鉄リサイクル(錦麒産業・福)と家電等総合リサイクル(柴田産業)にウイングを広げた。国内拠点は九州、大阪、四国(愛媛の高知金属)。米国では50年の歴史を持つMetechRecycling社の株主になっており、この米国拠点に社員研修行っている。現在は長崎五島にも産廃処理のキンキ環境をもち、国内11か所、米国にも関係会社を5か所もっている。柴田産業で処理したものはほぼ国内向け。基板、銅ナゲットは国内の非鉄金属製錬所および伸銅メーカーに。アルミも国内アルミ合金メーカーなどに販売。錦麒産業ではマレーシアやフィリピン向けも行っている。大阪では月に25,000トンの鉄を扱っているという。「錦麒グループ全体では200人ほどの従業員がおり、家族がいるので会社を成長させることが経営者の責任。だから変化が早い世のなかでも生き残り続ける企業体にしていかなければならない」という。
    ■錦麒産業株式会社(鉄リサイクル工業会・非会員)
    社長 斉 浩。開設 2005年(平成17年)9月1日
    大阪和泉営業所=大阪府和泉市大野町1016番  ギロチン・800トン(三浦機工)
    泉大津営業所・大都ヤード=大阪府泉大津市小津島2番 1000トン(モリタ環境テック)
    ■柴田産業の歴史=1954年(昭和29)に久留米市にて柴田商店として創業。鉄、非鉄金属のリサイクル業を行い、2000年以降は基板スクラップ(E-SCRAP)を手掛けた。04年(平成16)、福岡県大牟田市エコタウンにて大牟田エコリサイクルセンターの操業が開始。13年小型家電の再資源化認定事業者となり、14年には福岡県知事よりグリーンアジア国際戦略総合特区の「指定法人」の指定を受ける。この間、大型シュレッダー(スーパーシュレッダー)を導入し、黒モーター処理など業容を拡大(処理能力は1500t/日)。18年(平成30)7月に錦麒産業の斉 浩氏が代表取締役に就任して現在に至る。参考資料はこちら

  • 斎藤 喜一(さいとう)-自動車エンジン解体に一貫処理システムを導入(斎藤エンジン)
    本社 千葉県八千代市
    自動車エンジン解体を手バラシから機械破砕、キルン式熔解までの一貫処理システムを独自に作り上げた。日本を代表する自動車アルミ溶解メーカーの一つを育てた。
    1956年(昭和31)東京江戸川で斎藤喜一が自動車解体及び再生加工販売業として創業した。69年(株)斎藤エンジン解体センターを設立した。当時、製鋼メーカーは製鋼原料として米国などから自動車エンジンを輸入していた。斎藤は製鋼原料に適さないミッション部分を引取り丁寧に解体し、アルミや真鍮を回収。解体工場を作り社員寮も整備した。
    最大の転機となったのが、72年の千葉移転の決断だった。手狭になったこともあるが、周辺の宅地化から従来のような作業が困難になったことが最大の要因だった。
    72年7月(株)斎藤エンジンに改組。8月千葉市工業センター共同組合に加入して千葉工場、営業所を開設。将来を期して大規模なエンジン一貫システム解体工場を作り上げた。さらに84年八千代市に大規模工場を建設し、独自の解体システム(斎藤式)を持つアルミインゴット製造専用工場とした。(翌年八千代に営業所を移転し千葉工場を閉鎖)。
    以後、アルミ製造の革新的な近代化を積極的に押し進めた。87年回転式アルミ溶解炉新設、88年エンジンブレイカー(破砕機)新設、敷地増設。92年ロータリーキルン式連続アルミ溶解炉新設。96年アルミ洗浄乾燥設備新設。
    04年喜一は代表取締役会長に、斎藤明が代表取締役社長に就任する後継体制を決めた。

  • 酒井 清行(さかい)-日本ELVリサイクル機構代表理事(京葉自動車工業)
    千葉県四街道市 ホームページはこちら
     酒井清行は自動車リサイクルの法制化に当たり、日本ELV(使用済み自動車)リサイクル推進協議会、日本ELVリサイクル機構の代表理事として奔走。改正審議の全国行脚のなか病に倒れた。
     千葉県に1950年(昭和25)1月生まれた。高校時代、父と共に京葉自動車工業(株)の前身である京葉解体を興す。68年京葉解体に入社。72年北海道自動車短期大学自動車工業科卒業。80年、先代の死去に伴い代表に就任。82年京葉自動車工業を設立。93年業界団体TCR(Total Car Recycle)の会長。94年JAPRA(日本自動車リサイクル部品販売団体協議会)理事に就任した。
     使用済自動車処理に係わる法制論議は、産構審が自動車リサイクル小委員会を立ち上げた2000年9月以降、本格化する。酒井は95年首都圏廃車流通協議会会長、2000年自動車解体業者団体・組織を束ねる全国組織である日本ELVリサイクル推進協議会会長に就任し、業界を代表して01年中央環境審議会専門委員として法制審議に参加。自動車リサイクル法の完全施行(05年1月)とともに日本ELVリサイクル推進協議会とJAPRAは、全国11ブロック64地域、12部品関連団体を傘下におさめる日本ELVリサイクル機構を設立。酒井は代表理事に就任した。その代表理事として、中央環境審議会専門委員として施行後5年の自動車リサイクル法の見直しに向かって、全国行脚を重ねていたさなか死去した。2010年1月没。享年60。
    ▼編者注=自動車リサイクル法制定に向けての論議は自動車メーカー、整備業界、中古部品・解体業界など利害は複雑多岐にわたる。日本ELVリサイクル推進協議会は、北は北海道、南は沖縄までの全国各地の団体・組合の連合である。酒井は、法制審議の経過報告、中央への意見集約を求め、10年間東奔し西走した。酒井は常に温厚柔和で、笑みを絶やさなかった。彼の人柄が、法制審議の最も困難な時期を乗り切り、業界をまとめた。

  • 阪口 定吉(さかぐち さだきち)-大阪でその息のかからぬものはいないとまで言われた大御所
     日本鉄屑統制株式会社の副社長。大阪の筆頭大手問屋、阪口定吉商店の当主である。
    ▼阪口興産沿革によれば=明治12年初代阪口定吉が鉄問屋、阪口定吉商店を興したことに始まる。明治39年元ロシア戦艦「オーストリア号」を解体、以後船舶解体事業を経営。大正6年シャーリングマシンを導入し加工業務を開始。大正8年株式会社阪口定吉商店に改組。昭和19年関西製鉄を買収。臨港製鉄を協力会社として一貫圧延体制を整備。阪口金属工業(現新関西製鉄)を設立。阪口興産に社名を変更する。
    ▼昭和17年版人名録によれば=阪口定吉。阪口定吉商店、三和洋行各社長。日本鉄屑統制副社長。三和商事、三和航空工業各取締役。鉄商。多額納税者。▼大阪府先代定吉長男。明治26年生。先名定次郎を改め襲名す(指定商)(人名録・大阪版)。
    ▼昭和初期の大阪(日刊市况通信社82年10月。矢追欣爾氏の回顧談)によれば=戦前までは鉄屑の出荷は専ら舟が使われ、便利な川筋に店を構えた。「境川運河には坂口久雄さんに坂口久二郎さん、坂口定吉さんと坂口ご三家が運河に沿って並び(略)」
    ▼松岡朗・回顧によれば=昭和4年、輸入屑の売り先に選んだのが大阪境川にあった大狭商店であった。店主は、当時大阪でその息のかからぬものはいないとまで言われた古鉄業界の大御所阪口商店の出身で古鉄事情、特に上物、解体船材、伸鉄材等には精通され(略)」
    ▼阪口ご三家=*阪口久次郎・明治10年生。30年鉄材商創業。長男久雄。5男鉄男。
    *阪口久雄・明治35年生。大正15年関西商業卒。昭和5年現業(鉄商)を営む(指定商)。
    *阪口鉄男・明治43年生。文化学院卒。鉄商(指定商)(昭和17年版人名録・大阪版)。

  • 桜井 日出男(さくらい)-サイドプレスを起点にシュレッダー工場を建設する(サクライ)
    兵庫県尼崎市 ホームページはこちら
     桜井はほとんど徒手空拳から日本有数の廃車解体、部品扱い兼鉄スクラップ企業を作った。
    桜井は81年、家業である桜井商会(旧称)に入社。86年社長に就任した(当時24歳)。
     当時の設備はフォークリフトと小型トラックだけ。夫婦二人の廃車引き取り・解体作業だった。転機となったのが92年。解体業者向けに特化した地上設置式・廃車プレス機(サイドプレス)の設置だ。このプレス機の導入が、扱い量の増加を支え、資本蓄積の原動力となった。次の転機が阪神大震災(95年)と工業地へ本社を移転(99年)だった。息のつまるような近隣からのクレームを抜け出し、「国道43号線・交差点直ぐ入る」の適地を確保したことだ。
     扱い量、従業員も増加。全国部品共有・販売組織であるNGPに加盟(00年)し、全自動管理の部品倉庫(07年)を建設。同時に廃車のトータル処理を目指してタイヤ切断機(05年)、ナゲット機やギロチン機(10年)を相次ぎ導入。ワンストップ処理と作業効率の高度化を図った。
     その結果、社長就任当時、月間処理台数200台から、20年現在では月間3千台後半。国内外に部品販売網を持つに至った。さらに廃車から出る鉄・非鉄スクラップ扱いの飛躍的な工場を目指して20年4月、敷地面積約2500坪の大阪支店を開設。シュレッダープラント(本体750馬力、プレシュレッダー300馬力)を導入し、大阪市の中間処理(破砕業)の許可をした。
    桜井は家業である桜井商会を企業である㈱サクライに仕上げ、若い日の夢を実現した(日刊市况通信。20年6月マンスリーに掲載記事)。

  • 佐野 富和(さの とみかず)-家業から企業へ、鉄スクラップ業では初の上場(エンビプロHD)
    静岡県富士宮市 ホームページはこちら
     2013年9月東証・第二部に「金属スクラップ業及び廃棄物の資源リサイクル事業」を営む㈱エンビプロ・ホールデングスが、鉄スクラップ業界初の上場を果した。
    ▼直話によれば=1952年3月静岡に生まれた。同級生から「ボッコ(廃品回収)屋の富和」と呼ばれ、劣等感のかたまりで家業がいやだった。中学3年の時、生徒会長に選ばれた。それを知った父親は号泣し感謝の言葉を重ねた。その時、父親の喜びを喜びとし家業を継ぐ決意を固めたと言う。明治大学で少林寺拳法をやり4年にはキャプテンになった。3年の後半から少林寺拳法会長でもあった大臣書生として住み込んだ。卒業後、家業(佐野マルカ)を継いだが、さらに3年半、通産大臣秘書を務めた。秘書として様々の分野の人間と出会った経験が、経営人として生き抜く上での糧となった。85年(昭和60)9月父親が亡くなった。85年9月といえばプラザ合意による「円高ショック」の月。逆風のなかでの事業継承だった。「1日1日、1回1回が初商い」を肝に銘じた。しかし日々の努力と同時に、全く新たな発想の転換が必要だった(08年10月、日刊市况通信)。
    ▼リサイクル事業=1950年初代・佐野勝喜が静岡県富士宮市で「佐野マルカ商店」を創業したことに始まる。89年富士宮市の工業団地に本社、工場を移転。92年貿易事業部を新設し、シュレッダー機を設置。98年5月自動車リサイクル事業部開設。同年12月カーリサイクル業界初の環境ISOを取得。2000年家電リサイクル法施行を睨んで富士通ゼネラルと富士エコサイクルを設立(01年4月富士エコサイクル・家電リサイクル工場を建設・Bグループ)。01年7月プラスチックリサイクル事業部を設立。8月RPF(固形燃料)製造プラントを導入。02年OA機器・遊技機手解体事業を開始。03年12月中古自動車オークション大手のUSS社と合弁で自動車解体の(株)「アビヅ」を設立。自動車・家電・OA機器・プラスチック・基盤回収に取組んだ。
    ▼持株会社・エンビプロHD=07年7月社名を佐野マルカからエコネコル(経済とエコロジー=環境を組み合わせた造語)に改称。10年7月エコネコルを中核にエンビプロ・ホールディングスを設立。3WM(06年中古車・中古部品輸出事業部を分社化)、クロダリサイクル(08年6月北海道業者を買収)、オイコス(09年浜松市に設立)、しんえこ(11年4月長野県業者設備を買収)と富士エコサイクル、アビヅの持分適用会社2社でグループを結成した。さらにエコネコルの海外貿易事業の強化のため、同部門を外部に切り離した「NEWSCON」を20年4月設立した。
    ▼株式上場と戦略的提携=家業から企業を目指す。その構想のもとエンビプロHDが「金属スクラップ業及び廃棄物の資源リサイクル事業」者として13年9月東証・第二部に初の上場を果たし、18年6月18日から東証第二部から第一部に移った。さらに14年12月スズトクHDと包括業務提携契約を締結した。15年3月イボキン、やまたけ、中特HD、マテック、青南商事が加わり、17年5月グループ「RUN」(Recyeclers Union of Niponの頭文字)として名乗りを上げた。
    ▼企業理念=創業者(佐野勝喜)の口ぐせは「わりゃ近欲かくな」だった。目先の欲に駆られて仕事を小さくするなとの戒めである。仕事は同時に人間を作る。小さくまとまった人間になるな、との戒めでもあったろう。企業は人である。佐野富和は毎年、全社員に大判手帳サイズの「経営計画書」(社外秘)を手渡し企業理念、経営計画、事業構想、基本姿勢や社内規定一覧、職務決裁権限表など明示し社員教育の徹底を図っている。

  • 島 一(しま はじめ)-福島から「ゆめ工場」を開く (シマ商会) 
    福島県南相馬市 ホームページはこちら
     大きな夢を見た男だった。その夢が地域に根付いた工場を作った。
    ▼有志9人で「自動車解体部品同友会」を設立=75年「南相馬で夫婦二人で始めたチリ紙交換が全ても始まりだった」(島一樹談)。社員2名とシマ商会を設立。自動車解体・部品販売に乗りだした。ただ一社単独では保有部品も販売先も限られる。79年6月自動車解体業の有志9人で「自動車解体部品同友会」を設立した。
    ▼株式会社シマ商会=80年5月個人商店を株式会社シマ商会に改組。86年(株)ビッグウェーブの取締役に就任。94年中古車販売の全国組織TAX(タックス)に加盟。03年10月品質保証のISO9001を、04年11月環境保障のISO14001の認証を取得し、車両買取の「SHIMA」ブランドを立ち上げ、07年4月自動車リサイクル工場、「ゆめ工場」竣工。工場敷地面積33453㎡の3棟連携式。第1棟=エアバッグや中古部品回収。第2棟=ガソリン・廃液回収。第3棟=プレス、シュレッダー、非鉄選別プラントによるメタルリサイクル拠点を作った。
    ▼島 一と部品販売協業団体・概説(ポンコツ屋商売の現代版)=マイカー時代以後、自動車は公共交通機関の少ない農山村・地方都市に普及し、自動車解体・部品回収・販売会社が(周辺市民から一定割合で廃車・回収が見込めるため)、全国各地で誕生した。しかし問題は、地方では中古部品の販路が狭く、また付加価値の高い中古部品を抜き取っても来客が少なさ過ぎることが最大の泣き所だった。これが80年前後、解体・部品業者の協業化から大きく変った。狭い地域の制約を超えるため、「地域制約」と「部品制約(発生量の多い部品は安い。発生量の少ない部品は高いが在庫管理が難しい)」の壁を超えるビジネスに挑戦したのだ。当初は電話回線(FAX)を利用して「部品在庫の共有化・共同販売化」を図った。その先鞭をつけたのが、島らが結成した自動車解体部品同友会だった。同会は、80年ユーズドオートパーツグループ「ホンコン」に名称を改め、85年参画事業者の部品在庫を共有する「ビッグネッツ」システムを構築し、これを足場とする運営会社「ビッグウェーブ」を設立した。島らは廃車処理の祖型であったパーツ販売(「ポンコツ屋」)を、最も現代的に洗練した事業形態(在庫共有管理)として広域化(ネット販売)し、部品点数の最大化を求めて協業化し、「(ネット)注文納入」の祖型を今に蘇らせたのだ。
    ▼震災と原発事故と島一樹=長岡市に避難している福島県南相馬市の自動車リサイクル会社役員らが、避難所に仮本社を作り、会社立て直しに奔走している。名付けて「新潟元気事務所」。被災地での需要増加を見越して、月内に宮城県名取市に建設機材の販売所を開設予定。津波を受けた自動車解体工場も再開に向かっている。
    ▼同社従業員と家族は、大震災から3日目、山形県天童市に移動した。福島県内に残る社員とその家族約200人を、旅館や山形市内の避難所に集めた。副社長の島一樹さん(35)は「社員は絶対に解雇しない」と決め3月28日、仮本社を作った。親戚が経営する小売業「マツバヤ」とともに、紙に「新潟元気事務所」と手書きし看板代わりに壁に張った。
    ▼相馬市の港に保管していた輸出用建設機材は全滅。風評被害で、海外から厳しい視線を向けられる。震災から1か月。南相馬市原町区沿岸の工場は、積み上げていた車が防潮堤の役割をして、ほとんど被害が無く、操業再開にメドがついた。
    ▼島さんは「被災企業だからといってライバル企業は手加減してくれない。社員に希望を持たせるためにも攻めの姿勢を見せたい」と話す。「1000年に1度と言われる今回の震災だが、この先1万年に1度の災害が来ても決して屈しない。屈しない」。自分自身にそう言い聞かせている(11年4月24日 読売新聞。タイトルは「震災負けぬ」避難の車リサイクル会社、長岡に仮本社)。
    ▼島一樹=14年1月代表取締役に島一は取締役会長に就任した。

  • 島田 文六(しまだ ぶんろく)-「島田のブンブン」と「失権」(シマブンコーポレーション)
    神戸市灘区 ホームページはこちら
    明治以来の神戸製鋼所の直納店で、島田五三郎、島田文六は世間に広く知られた。
    ▼自著「失権」によれば=初代当主は三重県伊勢の廻船問屋の三男で、江戸時代に岩屋脇浜に移り住んだ明治の「網元」。1909年(明治42)10月、神戸製鋼が脇浜を埋め立て、新工場を作るにあたって三代目島田文三郎が、海上権を無償で譲渡し、神鋼が脇浜工場での作業請負や製鋼原料の納入権を申し入れたことが島田商店(1933年合名会社)の始まりとされる。
     島田文六は四代目島田文一郎の長男として1932年(昭和7)生まれた。その父・島田文一郎が45年(昭和20)8月、43歳の若さで病没した(文六、当時13歳)。
     では店はどうするか。48年(昭和23)親族会議の結果、本家の家作を売って新会社(島文工業)を作る、その新会社に島田商店の商権を売却して島田商店は解散する、新会社の社長は「文六が継げるようになるまで」五三郎(叔父)が、務めると決まった。
    ▼社史によれば=創業の地の敏馬(みぬめ)脇浜では、当時ボート競技が盛んに行われており、島田文一郎(初代)は官立神戸高等商業学校(現神戸大学)などの艇庫の管理を行っていたことが神戸製鋼所との縁となった。島田文一郎が神戸製鋼所に出入りするようになり、払い下げ品の売買を開始。その後、島田商店と称した。1914年(大正3)に第一次世界大戦が勃発。この時、島田商店は西日本各地より鉄屑を集荷し、神戸製鋼所への納入を行った。33年(昭和8)島田文一郎(2代目)が個人商店であった島田商店を合名会社島文商店に改組。戦時中は配給販売制度(38年)や指定商制度(42年)により自由に鉄屑を扱うことができなくなり、請負作業に注力することとなる。終戦前年の44年(昭和19年)4月に、島文工業合名会社への社名を変更した。49年(昭和24)8月9日に、島田五三郎が島文工業株式会社を設立した。設立当時の従業員は職員8名・工員79名だった。参考資料はこちら
     *島文工業は島田文一郎筋の出資によって設立された。ただ出資株(名義株)を五三郎に渡したことが、その後の「名義株」を巡る訴訟・紛争を引き起こした(「失権」)。
     *島田五三郎=2012年9月15日死去(98歳)。元神戸市議会議長。
    ▼島田のブンブン=田口洋作詩 山田一平作曲 中村美津子歌(93年NHK紅白歌合戦)
    夜のとばりが パラりと降りりゃ 祭りごころが騒ぎだす/今日は祇園か 先斗町/三味に、太鼓に 鳴り物ばやし/ぬる燗ふくんで ひと節ハァ/誰が呼んだか 島田のブンブン 今夜もちょいとご機嫌さん/誰が名付けた 島田のブンブン ずいぶん いい気分(以下略)
    *文六が92年資金提供して制作し、93年中村美津子のカバーで大ヒットした(「失権」)。
    ▼経歴=55年(昭和30)大学を卒業し、島文工業に(将来の社長として)入社。ます電炉向け鉄スクラップ販売を担当した。が、島文のメインは神戸製鋼である。その神戸製鋼は次期社長のイスを巡る権力闘争が渦巻いていた。闘争には表に出せない金がいる。裏勘定(B勘)だ。その役回りに局外者で、協力会社の島田に白羽の矢が立った。文六はその「密命」と「夜の(社長)秘書課長」の役割を50年間にわたり忠実に果たした。夜の花街のごうせいな宴席こそが文六の働きの場だった。その見事なまでの遊びが歌(島田のブンブン)となって、世間にもてはやされた。
    ▼「失権」=島田は65年から約44年間、社長となって君臨したがリーマンショック後の09年4月、海外巨額投資損失事件で解任。同時に経営幹部らに名義株の返還を否認され、オーナー権も喪失した。時代が「汚れ役」を切り捨てたのだ。「失権」は、17年12月幻冬舎から出版された。63年(昭和38)に密命を受け、09年4月にいたるまでの経緯、内幕を、実名を挙げ暴露したものだ。
    ▼09年4月社長解任後、訴訟も=名義株の返還を否認された文六は、木谷謙介現社長らを相手取って神戸地裁に株主権確認請求訴訟を提訴した。その直後、シマブンから未払金の清算を訴えられ、新聞に大きく報じられた(神戸新聞:2010/11/02)。そのうち一つは、仏料理店などを経営する子会社が1年2カ月分の飲食代約4284万円を求めた訴訟。「1本約36万円のワインなど8本(計約111万円)を購入。今年1月には約40万円のおせち料理を注文していた」などと報じたから、あの島田のブンブンが、との風評が取りざたされた。文六は「密命」がらみの「営業行為だった」と反論したが、「結局、名義株を取り戻す裁判は取り下げ、(飲み食いなどの)未払金はシマブンの株を差し出して清算することで和解した」(「失権」)という。2018年11月30日死去。享年85。

  • 清水 五一郎(しみず ごいちろう)-鋼材商から電炉一貫製鋼所を作る(清水鋼鐵)
     昭和10年代に鋼材商として起業し、戦後は鉄スクラップ業も兼ねて鍛造工場を経営。その間、「鉄友会」幹部として鉄鋼団地の建設などに注力して「浦安鐵鋼団地」を完成させた。また北海道苫小牧に電炉会社(清水製鋼)設立した。その行跡は、鉄スクラップ加工、製鋼、鋼材販売の全分野にわたった。著書に『凡夫生涯鐵一筋』がある。本項は同書からの引用に基づく。
    ■清水五一郎=1911年(明治44)7月、7人姉妹弟の五番目の長男として生まれたことに由来する。父熊次郎、母サヲ。小学時代のアダナは「ゴイチ爺さん」。家は京都府伏見のうどん屋。24年(大正13)3月、尋常高等小学校を卒業した後、東京本所で古レールや鉄屑を扱う「鉄商 浜本省七鉄店」の住み込み店員。37年(昭和12)12月主家廃業につき、後輩2人を引き連れ、本所亀沢に鋼材商清水商店を独立開業。38年10月、妻の父と共同で江戸川区船堀に鍛造の「船堀鍛工所」を設立(戦中は軍需工場指定)。空襲で亀沢の店は全焼したが、鍛工所は無傷で残った。これが戦後再興の足場となった。45年10月、軍需時代の顔なじみの東京都経済局から戦災者向け更生トタンの生産依頼を受け、1年限りの約束で有志らと「東京更生トタン工業所」を設立した。
     鋼管や吾妻製鋼、東都製鋼などの鉄屑の中から焼けトタンや古トタンを買い、鍛工所に運び、整形し直しコールタールを塗って再生した。この利益を元手に47年日本橋に鋼材商の株式会社「清水商店」を再興。49年墨田区亀沢に清水商店を移転、手慣れた太丸(棒鋼)扱いを再開した。同年鋼材需要の拡大を見越して江戸川区逆井(現平井)に製鋼材料(スクラップ)加工工場を建設。53年江戸川区東船堀にあった休止工場を買収。56年3月その地に「清水鍛造」を設立(三菱製鋼・長崎製鋼所の1,000㌧水圧プレス移設)。清水商店で鋼材・スクラップ加工をする一方、鍛造所内で59年伸鉄(9㎜)生産を開始、67年13㎜生産に拡大した。
    ***
    ▼清水鋼鐵=67年(昭和42)、製鋼一貫工場の建設を目指して北海道苫小牧臨海工業地に3万坪の用地を確保。68年7月、浦安鐵鋼団地の土地引き渡しを受けた。12月業様の拡大に合わせ、清水商店から社名を清水鋼鐵㈱に改称。69年本社社屋および浦安鐵鋼倉庫竣工。82年8月宇都宮清原工業団地内に宇都宮製作所を新設(10月清水鋼鐵東京工場閉鎖)した。
    ▼清水製鋼(70年~83年)=70年6月北海道苫小牧市に、ビレット製造の清水製鋼(清水鋼鐵70%、富士製鉄系の富士工業30%=圧延)を設立。83年10月清水製鋼と清水鋼鐵と合併し清水鋼鐵苫小牧製鋼所とする。84年富士工業の圧延撤退を受け、苫小牧製鋼所に圧延ラインを追加。小形棒鋼の製鋼・圧延一貫工場を建設した。
    ***
    ▼業界活動=本所は鉄の町である。1920年(大正9)「江東銅鉄商組合」ができたが、戦中は休止した。戦後49年鉄鋼業者だけで「本所鉄交会」(山口惣吉会長)が結成され、清水も参加。53年から副会長に就任した。55年共に副会長を務めていた山口喜久治氏と相談して京橋鉄友会、神田鉄栄会の同業者に呼びかけ「東京都鉄鋼取引改善委員会」を結成。その後に参加した7団体とともに「東京都鉄鋼取引改善連合会」(61年東京鉄鋼販売連合会(東鉄連))に発展し、清水は専務理事(企画委員長)に就任した。当時、重量物で振動・騒音がつきものの鉄鋼販売業は、都内での立地制約に苦しんだ。東鉄連は「鉄鋼団地」の建設と適地の物色に動いた。清水が目を付けたのが埋立計画進行中の浦安だった。62年11月候補地を浦安一本に絞り、実質的なリーダーとして千葉県庁、浦安町役場など400回以上にわたる関係機関への交渉を重ね払い下げに成功した。
     土地代金の前納が条件だ。そこで清水は鉄鋼販売業者二百社をまとめて「東鉄連浦安鐵鋼団地協同組合」を結成(西山伝平理事長)、ここでも専務理事に就任。68年7月浦安鐵鋼団地の引き渡しを受け、総面積33万坪、企業数219社、従業員総数5,000名、世界最大の浦安鐵鋼団地を完成させた。清水はその企画と行動力から「ブルドーザー」の異名を貰った(この時、浦安の埋立地を買ったのがオリエンタルランド。ディズニーランドを作った)。
     67年「本所鉄交会」会長に就任。72年東鉄連浦安団地協同組合(87年浦安鐵鋼団地協同組合に改称)理事長に就任(退任92年)。76年東京鉄鋼販売業連合会および全国鉄鋼販売業連合会の会長に就任(80年退任)。同年東京商工会議所議員(88年退任)を歴任。94年浦安鐵鋼団地協同組合最高顧問に就任。80年藍綬褒章受章。85年勲四等瑞宝章受章。2001年8月死去。享年90。
    ▼エピソード1=戦前の浜本鉄店勤務時代、鉄屋仲間のグループ仲間と「穂高山岳会」を作り近隣の山を登山した。だ、だれも穂高に登ったことがない。32年(昭和7)7月穂高に単独登山。霧に体力を奪われ熱発。動けないままに二泊三日の予定が音信不通7日にもなった。
    ▼エピソード2=63年本所鉄交会で区会議員を擁立し、当選させた。が、選挙は素人である。清水は選挙違反容疑者として留置場に29日間拘置され、二年越しの裁判の結果、懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。その判決の日、国税局の査察が入った。会社の金と個人の金の区分が不明確だったことを突かれたものだ(修正申告で国税違反とならなかった)。
    ▼エピソード3=「68年7月、予定通り(第一期)20万坪が県から組合に引き渡された。その翌年、団地内に福利厚生施設として野球場が完成したが、球場は清水球場と命名され、そに一角に私の顕彰碑まで建てて戴いた。思ってもみないことであった」(自伝)
    ■鉄スクラップ業として=戦後の49年7月、墨田区亀沢に清水商店を移転、江戸川区逆井(現平井)にスクラップ加工工場を建設。54年米国の廃戦艦「オレゴン」、スペイン船「ケケラング」解体受注。82年浦安鐵鋼第二団地に浦安工場スクラップ処理ヤード建設。83年浦安工場に1,000㌧ギロチン導入する。
    ■清水範子=1947年1月東京都江戸川区に五一郎のひとり娘として生まれる。69年成蹊大学政経学部卒業。73年清水鋼鐵入社。同年10月清水鋼鐵、清水製鋼取締役。89年清水鋼鐵社長。2007年代表取締役会長に就任。14年2月死去。享年67。
    ▼業界活動=2001年本所鉄交会会長(03年相談役)、08年日本商工倶楽部評議員。10年北海道倶楽部理事。同年浦安鐵鋼団地協同組合理事長に就任。
    *参考資料=同社㏋。著書『凡夫生涯鐵一筋』。本所鉄交会百年史。

  • 下原 重仲(しもはら しげなか)-鉄山必要記事(鉄山秘書)を著す
     江戸時代中期の「たたら」製鉄の実際を後世のために書き遺した。「たたら経営者」。
    下原重仲、通称吉兵衛 (1738~1821年)。伯耆の国日野郡出身で三代に渡って鉄師として鉄山を経営し、「江戸時代における製鉄業(鉄山経営)並びに技術に関する一切の記録を集成した、わが国採鉱冶金史上の最も優れた古典の一つ」を書き上げた。一般に本書は「鉄山秘書」と呼ばれたが、下原は周到な用意と調査を踏まえ、現在及び後世への申し送りを込めて「必要記事」と名付けた。
     下原の執筆は極めて客観的であり、科学的に冷静である。彼がこの書を著すに至った理由として、必要なことは書き留めておかなければならないという「技術保存」と後賢の判断材料に資する「技術の発展」を願ったためだろうと史家は見ている。本書の完成は天明四年(1784)春。完成と同時に大坂の鉄商、中川氏によって「鉄山秘書」と名付けられた。
    ▼鉄山必要記事=第一巻は、製鉄の守護神とされる金屋子神の祭文、砂鉄精錬法(たたら吹き)に関する諸伝承、原料論・立地論、選鉱(とくに鉄穴・かんな流し)論、第二巻は製鉄の職人・労働者たちの唱える歌(たたら歌)、第三巻は鉄山の経営・計画論、第四巻は「たたら場」の建設と鑪(たたら)の操業法、第五巻は「ふいご」論、第六巻は鉄山経営上の諸規則(従業員心得)、第七巻は鍛冶(鉄の精錬・加工)の実際、第八巻は購買・販売・経理などの実務を叙述した。
     網羅的な内容から江戸期の鉄山・製鋼技術論に関する研究者の多くは、同書を必須文献とした。「たたらは水湿を嫌い(略)土地一段小高き所に打立へし。(燃料の)炭木は少々遠くても、粉てつ(鉄)近きを本とし、これ秘事なり」などと記した(引用は日本庶民生活資料集成第十巻)。

  • 庄子 専助(しようじ せんすけ)-仙台の地付きの百年企業
     仙台市生れ(昭和15年8月没。49歳)。仙台商業学校を大正2年卒業。以来先代の営業に専念し、昭和13年4月宮城県廃品問屋組合結成と共に理事長に推挙された(鉄屑界・第1巻7号)。
    ▼社史㏋によれば=明治31年(1898年)初代庄子専助が仙台市長町北町で廃品回収業を開始。昭和5年二代庄子専助が事業継承。昭和22年㈱庄子専助商店に改組。昭和41年三代庄子喜一郎が社長に就任。平成20年庄子専一が社長に就任。平成30年佐藤哲生が役社長に就任。

  • 白石 元治郎(しらいし もとじろう)-民間資本を結集し、日本鋼管を創設
     浅野総一郎の娘婿となり、日本鋼管を今泉嘉一郎らと創業した鉄鋼人。
    幕末、榊原藩の下層武士(前山)の次男として1867年(慶応3年)に生まれた(1945年12月没)。1882年伯父(白石)の養子となった。実父、養父とも事業に失敗し学費にも欠いたが、高橋是清らの支援を受けて92年東京帝大法科大学英法科を卒業。渋沢栄一らを通して浅野商店初の学卒社員として入社。95年浅野の次女と結婚した。
    ▼浅野総一郎は東洋汽船を設立。白石はその支配人、1903年以降は常勤の取締役になった。航路開発のため世界を奔走していた白石は、たまたまインド銑鉄に出合い、(注)帝大時代の旧友で官営(八幡)製鉄所の技官だった今泉嘉一郎にインド銑の販売を持ちかけた。当時、今泉は継目無鋼管生産の有望性に注目していた。白石の経営と今泉の技術、浅野や渋沢ら財界人の出資を得て1912年(明治45)6月、日本初の輸送用鋼管の専門会社として日本鋼管が設立された。
    ▼白石は浅野や渋沢に鉄鋼会社の創業を働きかけたが、官営製鉄所でさえ赤字をだしている状況から浅野らは難色を示した。白石は、東洋汽船時代の知己友人に頼み、浅野・渋沢ら財界人47人を発起人に出資を求めたが、目標資金に足らないため、借金して創業にこぎつけた、とされる。
     鋼管製造事業に最初に着眼したのは大倉喜八郎で、今泉嘉一郎と協力して作業を進めていた(そのため今泉は官営八幡を辞めた)が途中で大倉が計画を放棄したことから、白石・今泉ラインでの鋼管工場建設計画が動き出した。
    ***
    ▼日本鋼管は1914年(大正3)1月に操業を開始した。ただ技術は未熟で輸入品に対抗できる代物ではなかった。が、同年7月欧州で大戦が勃発、日本鋼管初期の立ち上がりを助けた。戦後の反動不況のなか欧米の輸入鋼材のダンピング的安値に叩かれ製銑・製鋼会社は危機的状況に陥った。鉄鋼救済策も兼ねて政府は懸案であった製鉄合同の実現をめざした。33年3月には日鉄法が可決され、官営(八幡)製鉄所と民間鉄鋼会社の大合同が呼びかけられた。しかし白石は参加を拒否。白石は独自に銑鋼一貫生産体制を確立することを目論んだ。
    ▼33年(昭和8)高炉建設申請を政府に提出した。日鉄中心主義を掲げた政府は認可を1年以上にわたって保留したが、結局34年10月認可。36年6月銑鋼一貫生産体制を確立した。
    白石はまた、今泉の提言を受入れ、原理的に鉄屑装入を不要とするトーマス転炉の導入に踏み切った。トーマス転炉操業は燐分を多く含んだ鉱石を必要とするが、日本で使う鉱石には燐分は少ない。今泉は高炉に燐鉱石を挿入する「日本式トーマス製鋼法」を案出し、38年6月転炉製鋼を開始した。日本鋼管はこの転炉操業の経験をベースに、戦後日本の鉄鋼業の近代化を画するLD転炉の導入にも先鞭をつけることになる。白石は42年6月、浅野総一郎の息子の良三に社長を譲り、会長に就任。戦後の45年12月24日死去。享年79。
     *(注)日本の鉄鋼生産は大正後半から昭和初めにかけインド銑の大量使用を特徴とするが、インド銑と日本を結びつけたのが白石。東洋汽船の用務をおびて白石がインドに行ったところ(1911年)、インドの製鉄会社のマネージャーと同船し、彼から「日本で使えないか」と見本(ベンガル銑)を渡されたのが発端。八幡製鉄所を辞めたばかりの今泉を大倉組大阪支店に訪ね見せたところ、良い品物で値段も安いと言う。その今泉の紹介で大阪の岸本吉右衛門にインド銑の話が行き、岸本商店の手で輸入することになった、という。引用参考:日本鋼管社史(30年史)

  • 杉村 英馬(すぎむら)-日本海側に貿易拠点を拓く(双葉貿易) 
    新潟県三条市 ホームページはこちら
    東京から新潟に拠点を移し、貿易事業に本格的に乗り出した。
    以下は同社㏋掲載資料による。(鉄リサイクル工業会・非会員)
    ▼鉄スクラップ事業=1974年10月設立・本社は東京都品川区八潮。2000年5月本社を三条市に移転。6月新潟西港リンコー埠頭でスクラップ船積み開始。
     01年11月富山県高岡市伏木港でスクラップ船積みを開始(09年3月閉鎖)。
     03年4月北海道苫小牧港でスクラップ船積みを開始(13年12月閉鎖)。04年12月中国向け廃金属輸出ライセンス承認。05年7月ISO14001を本社・新潟西港ヤード認証取得。12月韓国向け廃バッテリー輸出に関し経産省の承認を受ける。
     07年4月新潟直江津港で船積みを開始。12月苫小牧港内に廃バッテリー集荷ヤード開設。08年4月神戸で輸入スクラップ集荷ヤード開設(12月神戸ヤード閉鎖)。
     09年8月東京お台場港でスクラップ船積みを開始(15年1月閉鎖)。
     10年1月神奈川県川崎港で船積み開始。10月中国向け廃プラ・スラグ・古紙ライセンス。11年3月ISO9001:2008(品質マネージメント)認証取得。
     12年6月大阪府泉北港でスクラップの集荷・船積みを開始。
     14年8月秋田、八戸サテライトヤードでスクラップの集荷・船積みを開始。
     15年4月大阪南港でスクラップの集荷・船積みを開始する。
    ▼太陽光発電事業=14年4月三陽パワー㈱第一発電所売電開始(15年3月グランデソーレー夏目、グランデソーレー牛久売電開始。16年2月牛久低圧1区画売電開始。5月グランデソーレー東松山売電開始。6月グランデソーレー滑川売電開始。10月牛久低圧2区画売電開始。17年10月グランデソーレー島田売電開始。)。「六ヶ所の合計年間予想発電量は約500万kwhで年間CO2削減量は約1,800トン」。
    ▼ヒューマンハピネス事業=15年8月㈱双葉リアルエステート設立。17年2月㈱アプロ設立。18年3月GLAMFOX 化粧品 リリース。5月リッチ・プレミアムシリーズ リリース。19年3月新之助マスク リリース。
    ▼編者注記=1974年 10月東京都品川区八潮の設立で2000年5月本社を新潟・三条市に移転。同年6月以降、新潟西港、高岡市伏木港と船積みを開始。04年には中国向け廃金属輸出ライセンス承認。船積み空白地を見据えた上での戦略的な展開である。その後は、神戸、東京お台場港に足場を求めて利あらずと見て撤退。しかし12年大阪府泉北港、14年秋田、八戸サテライトヤード、15年大阪南港と適地を物色して進出した。その経営の多角化も目を見張るものがある。

  • 杉山 修、博康(すぎやま)-北海道を拠点に新しい形を切り開いた(マテック)
    北海道帯広市 ホームページはこちら
     北海道を拠点にリサイクル業の新しい形を切り開いた。近年、環境企業にふさわしい社名に改称し、環境ISO取得が相次いだが、それを最初に実行したのがマテックだった。
    ▼戦前=1935年(昭和10)樺太で杉山与八商店として個人営業を開始。敗戦後、樺太から引上げ50年帯広で杉山与八商店として営業。60年(有)杉山金属商事(帯広本店)を設立した。
    ▼杉山 修=同社の飛躍は杉山修の社長就任(60年)を起点とする。65年株式会社杉山商店に改組。66年帯広工業団地に進出。83年釧路(出張所→94年支店)、86年砂川支店、89年千歳支店、91年札幌支店、92年社名をマテックに改称。93年旭川(営業所)、95年石狩支店、98年芽室に管理型最終処分場開設(13年廃止)。99年代表取締役会長に就任した。
    ▼杉山 博康=99年(平成11)、代表取締役社長に就任した。01年。マテックプラザ。02年石狩ELV解体工場、東埠頭事業所。03年芽室に安定型最終処分場。04年石狩にASR資源化工場。05年石狩にタイヤ資源化工場。06年苫小牧支店。07年室蘭事業所。08年石狩にRPF工場とOA機器解体工場。09年釧路・西港工場。12年じゅんかんコンビニ24 1号店(札幌市太平)。13年発寒支店開設。17年石狩にスーパーシュレッダー設置。
    ▼CI活動に先鞭=92年企業イメージを明確に発信するため社名を(株)マテック=MATEC(「MATERIAL(資源)+CREATION(創造)」)に改称し、企業活動の方向を「資源の創造と開発」に取組むと宣言した。その具体的な行動として98年石狩支店に鉄スクラップ業界としては初となる環境ISOを取得。同年芽室に管理型処分場(03年には安定型処分場も)を開設。各種のリサイクル法制に備え石狩を拠点に、02年使用済自動車の処理(ELV)工場を建設(その後の10年までで5工場)、04年帯広自動車販売店協会ELV処理の(株)エルバ北海道開設、05年タイヤ資源化工場、08年RPF(固形燃料)工場、OA機器解体工場を開設。20年現在、帯広本店を司令塔に7支店、マテックプラザのほかに5工場、港湾施設を擁する総合リサイクル企業の陣容を整えた。
    ▼輸出、港湾ヤード体制=電炉企業が少ない北海道の鉄スクラップ需要を埋めるため05年以降、1万㌧級バルク船での単独輸出を開始した(万㌧級単独輸出は同社が初めて)。
     *石狩湾新港、金属スクラップ専用埠頭建設(19/9/13・産業新聞)=国交省北海道開発局小樽開発建設部は、小樽市と石狩市にまたがる石狩湾新港東地区で、マイナス12m岸壁の新設を計画。既存の岸壁沖側に、延長240m、ふ頭用地として12・3ヘクタールの規模を整備。金属スクラップなどの船積みやストックヤードとして活用する。載貨重量トン数3万トン級のディープ・シー・カーゴに対応した公共岸壁としては、国内初となる。
     *マテック、石狩新港東地区に2000馬力のシュレッダー工場を建設(19/9/13・産業新聞)=マテックは、来年11月の完成を目指して石狩新港東地区に道内最大規模2000馬力のシュレッダーを擁する新工場を建設する。敷地面積は3.2万㎡。20年11月の完成予定。

  • 椙山 貫二(すぎやま かんじ)-日本での初のプレス機製造メーカー(日本特殊商工)
    プレス機を、機械メーカーとして独立して製造したのは椙山が最初とされる。
    ▼「鉄屑界」によれば=明治27年生れ。岐阜県出身。明治42年岡田菊治郎商店に勤務。昭和14年独立して椙山商店を開き故銅鉄、機械類の販売を始め15年椙山機械製作所と改称。同年日本特殊機械製作所に社名改め油圧プレスの専門制作にあたる。19年株式会社に改組し社長に就任。23年日本特殊商工株式会社に改称した(第1巻8号) ▼プレスと岡田菊治郎=プレス機の開発は岡田菊治郎に始まるとする。当時棄てられていたスソ物の活用を思い立って「大正初年にプレス機を製造し、プレス品を八幡に船で送り業界の注目を集めた。その頃の女房役椙山(すぎやま) 貫二氏(現日本特殊商工社長)は今も優秀なプレス機製造業を継承している」(原材料新聞社・現代人物論63年)。
    ▼戦後は日本特殊商工・杉山式=「岡田がアメリカからプレス機を3台輸入し、その後、図面も取り寄せて製造権を譲り受けたのでしょう。日本での初のプレス機製造メーカーは日本特殊商工です。当時プレス機といえば杉山式だけでした」、「丸和商店は昭和21年末に川崎に出張所を開設し、本所亀沢町にあった日本特殊商工、椙山さんのところに行った。これが戦後初のプレス機発注だと思います。プレス仕上がりが5~60㎏だった筈です(尾関精孝。日刊市况通信社06年10月特集)。

  • 鈴木 徳五郎(すずき とくごろう)*詳説-鈴木一族の祖。建場業から鉄屑業へ
    戦前を代表する関東地区・鉄スクラップ業の先駆者の一人。昭和初期には既に岡田菊治郎と並ぶ大手の一角を占め、戦中は関東金属回収会社の社長を務め、門下から多数の鉄屑業者を輩出した。
     愛知県渥美郡に1879年(明治12)鈴木熊太郎の次男として生まれた(1972年没。享年93)。
    ▼開業まで=母親を早く失い小学校を出るとすぐに静岡県藤枝町で古物雑貨を営む叔父の小川覚平商店に引き取られ「少年時代、刻苦勉励、幾多の辛酸をなめて」(緑綬褒章・経歴紹介)屑物一般を修業した。1904年(明治37)上京し、浅草松葉町で屑物商として独立した。
     浅草松葉町は建場業の町であった。ここで5年間店を構えたが、警視庁の建場業移住命令に従って1909年(明治42)郡部の日暮里(北豊島郡日暮里町元金杉)に移転した。さらに欧州戦争中の18年(大正7)12月、竪川沿いの本所緑町1丁目に移転して銅鉄業に乗り換えた。「もうその時は鉄くずが中心の商いになっていまして、日本鋼管より大量の鉄くずの注文がありました」(日刊市况通信社、昭和50年8月特集.鈴徳・三宅泰治氏回顧談)。
     *三宅泰治=明治35年生。静岡県出身。大正5年15歳で鈴木徳五郎商店に入店。昭和18年関東金属回収に入社。同21年金属興業へ出向。25年鈴徳に戻り、定年退職まで務めた。
    ***
    ▼建場業とは何か(東資協二十年史によれば)=東京都資源回収事業協同組合資料によれば、建場とは「公式には屑物買入所であり、業者仲間の呼び名は立場(たてば)であった」。建場業は、個人営業の「バタ仕切り」と専業大手の「町仕切り」とを問わず、古紙や古繊維など生活排出物の回収がもっぱらで店や事業所は繁華街周辺を拠点とする。だから建場の本場は浅草、山谷だった。
     ただ産業の発展と近代都市化の波が、建場業者らを浅草から郊外へ追い出した。警視庁がスラム街と衛生対策として1907年6月30日を期限として、下谷浅草方面の屑物業者に郡部の日暮里、千住元宿、同牛田方面への移住を命じた。「建場業者をも含めた屑物業者は石をもて追われる如く、市外への大移動を開始した」(東資協二十年史15P)。  ただし3年間の猶予期間を与えた。鈴木徳五郎は浅草から09年、日暮里へ移動しているが、期限ぎわになって警視庁命令に従ったものと見られる。
    ▼1918年(大正7)、竪川緑町に移転=鈴木徳五郎は、若くして古物雑貨業に馴染み、働き盛りの25歳で、本場浅草に乗り込んで建場・屑物業を始めた。当時、建場内部では、零細な「バタ仕切り」と大手の「町仕切り」とに業態が分かれ、鈴木などの大規模業者も登場した。首都・東京では近代工場の建造が続出し、生活廃材も工場廃品もその中味を大きく変えていた。紙屑、故紙などではない大量の鉄屑がでるのだ。鈴木は、建場を経営しながら鉄屑扱いを始めた。
    ▼第一次世界大戦と鈴木=欧州戦争(第一次世界大戦)勃発後の16年当時、鈴木徳五郎商店は、専業者である岡田菊治郎と並ぶ鉄屑の集荷力を備えていたらしい。
     建場業でも鉄屑は扱える。しかし鉄屑業に本格的に乗り出すのであれば、内陸の日暮里は不向きだ。そこで大戦中の18年12月、竪川沿いの本所緑町1丁目に店を構え、日暮里から引き連れてきた買い子、店員たちと一緒に建場業から銅鉄業に転換した。「日本鋼管からは大量の注文がありました。主人(鈴木徳五郎)を始め、従業員総出で東北六県から両毛線各地(栃木、群馬、茨城)さらに長野、新潟、東海道地方などに出張し、鉄屑集めに走り回りました」(三宅泰治談)。
    ▼大戦終結後は不渡り手形処理に追われる=徳五郎は、戦後の「大正の大恐慌」で、戦中の儲けをほとんど丸ごと吐き出すことになる。「大島製鋼などは、戦争が終わるというので買わない。ところが富士製鋼は、社長や専務が軍人で、戦争はまだ片づかないという。専門家がそう言うし、だから確かだと信じていましたね」「銀行が手形を持って来い、持って来いというので、手形を貰ったら、現金を貰ったような気でいました。それが大戦終結後、突然の倒産で不渡りです。その後は、銀行へ手形落としの月賦返済に追い使われる始末です」(鉄屑界・54年7月)。儲けた筈の金は消え、莫大な借金が残った。鈴木は大戦終結から、大不況という相場下落に加え、不渡り手形の後処理という、日々の商売の儲けを差し出す返済に追い込まれた。
    ▼昭和大恐慌のなかで=震災(23年)後の鉄鋼需要は、束の間のものでしかなかった。「特需」を見込んだ鋼材輸入の急増と対抗策としての国内鉄鋼会社の安売り合戦が、鋼材市況を極度に圧迫し、震災の翌年以降、鉄鋼倒産が相次いだ(昭和不況)。三宅氏によれば、「大正末期から昭和の初期は不況一色に塗りつぶされてしまった。うちの店でも不況対策上、鉄屑だけでは食えないので、鋼材、トタン板だけでなく、フェロマンガン、シリコンなどの合金鉄を扱い、九州では鉄鉱石の露天掘りをやって日本鋼管に送ったこともありました。どん底だった昭和6年(31年)には、鉄屑商いは全くふっ飛んでしまった。業者はこれをキリ抜けるため、色々な商売をやったようです」。
    ***
    ▼鉄屑統制のなか関東金属回収会社の社長=日本鉄屑統制株式会社では、鈴木徳五郎商店は指定商。また鈴木徳五郎は監査役として参画した。この統制会社は41年9月、金属類回収令の制定と共に法令に基づく回収機関として改組され、43年(昭和18)の改正金属類回収令から、「金属回収会社」の名をぶら下げた関東金属回収会社など全国18会社へ再配置され、指定商は完全に姿を消した。この時、鈴木は全国18回収会社筆頭の関東金属回収会社の社長に就任し、傘下の回収工作隊を指揮して「国内における金属回収量の3分の1を引き受けた」(緑綬褒章・経歴紹介)。
     *「昭和18年には企業整備で個人の営業ができなくなり『金属回収統制会社』が設立され、鉄くず、非鉄扱いは全部この会社に入る。この社長が鈴木徳五郎氏です」(三宅泰治談)
    ▼戦後の鈴木徳五郎=鈴木は戦後、直ちに自社の鉄屑経営に立ち戻った。「各地の沈歿艦船の引き揚げや旧軍事施設の撤去・解体など」(緑綬褒章・経歴紹介)に従事し、その健在ぶりを示した。
     戦後の47年に結成された関東鉄屑懇話会では理事。52年の第二次鉄屑懇話会設立に当たっては、岡田菊治郎や德島佐太郎と並んで、業界再結集の呼びかけ人となった。また長年の業界活動から53年5月、鈴木は岡田菊治郎と同時に緑綬褒章を受章した。1972年4月死去。享年93
    ▼鈴木徳五郎 その人となり=以下は日本鉄屑工業会機関誌(鉄屑ニュース第69号・1987年)に鈴徳出身の伊久美甲子郎が寄稿した「岡田と鈴徳」の要点を摘記したものである。
     「鈴木徳五郎、岡田菊治郎両氏が去って既に十余年が過ぎた。しかし、鉄屑の歴史を考えるとき、その名は消えないと思う」「両氏は共通する点が多かった。先ず生年だが、鈴木氏が明治12年、岡田氏が13年で半年しか違わない。両氏とも色々な商売を手がけたが、主力は鉄屑で生涯を終えた。スケールの大きい商売ができた人だった」「鈴木氏は愛知県、岡田氏は岐阜県の産だが、鈴木氏は静岡県藤枝市の叔父さんの所で12歳から20歳まで、この道の修業を積んでおり、岡田氏は静岡市に若い時を過ごしており、ワンクッションをおいて東京へ出てきた点も似通っていた」。「戦前には德島佐太郎、西清太郎(西製鋼を興した西博の父)を加えて、四氏が東京の一次問屋だ。德島、西の両氏はとも北陸の出で、(4人の)いずれも箱根の山を越えてきた人々である」。
     「戦後、鉄屑の重要性が認められ、我が国で初めて国家表彰の緑綬褒章を受けた。甲乙つけ難かったのであろう。両氏が一度に受けた」「岡田と鈴徳の共通点は多かったが、その性格と商売の手口は対照的な違いを見せていた。これは店の位置にもよるが、岡田さんは下町の玄関口とも言うべき両国橋際の好位置にあったこともあって、店を中心とした商売をしたと見てよかった。鈴徳は店での商売は勿論したが、外の商売を得意とする人であった。足まめな人で、この人くらい鉄屑集めに全国を歩いた人は無 い。大正時代の第一次大戦のころが最も得意な時代だったと思われる」
     「この人(徳五郎)の中折れ帽をアミダにかぶり、足早に歩く姿が目に浮かぶ。敬服することをシャッポぬいだといったものだ。このころの岡田さん、清岡さん(吾嬬製鋼創業者)、大谷さん(大谷重工創業者)らは、いずれも鈴徳の活躍ぶりにシャッポを脱いだといわれる」
    ■出所・資料
    ▼鉄屑界(第一巻6月号)=愛知県渥美郡田原町大字加治、鈴木熊太郞の次男として明治12年(1879年)に生まれた。明治25年から37年まで静岡県志太郡藤枝町小川覚平商店に奉公。屑物一般を修業。明治37年(1904年)上京。浅草松葉町で屑物業を開業。明治42年(1909年)郡部の日暮里に移転。それまでは建場を構えていたが、製鋼原料の重要性に着眼し、大正7年本所区緑町1丁目に移転、鉄屑業に切替えプレス、シャーリング、台秤を整備し、鉄屑加工業の先駆者となった。昭和10年、資本金50万円の株式会社に改組。▼閲歴=明治42年8月~大正7年5月 東京屑物商組合、組合長。昭和7年5月~12年4月 江東銅鉄商組合理事。昭和17年4月~20年8月 関東金属回収株式会社常任監査役。昭和21年4月~27年5月 鉄屑懇話会理事。

  • 鈴木 孝雄(すずき たかお)*詳説-経団連に入り、リバーHDを作る(リバーHD)
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     鈴木孝雄は徳五郎の直系の孫。鈴徳・四代目社長。関東の有力業者を束ねる月曜会、鉄源協議会長から鉄リサイクル工業会第三代会長として96年から5期10年にわたって業界活動を牽引し、2010年には鉄屑業界や資源回収業界としては初めて経団連に招き入れられた。経営難に陥った同業企業の受け皿として、ごく自然体で日本最大の総合リサイクル企業(リバーHD)を作り上げた。
    ▼鈴木一族の直系=鈴木孝雄は埼玉県浦和で鈴木徳五郎の長男・栄次郎の4人兄弟の次男として41年に生まれた。徳五郎は93歳と長命だったが、長男の栄次郎は58年、48歳の若さで亡くなった。上智大学外国語・ロシア学科を卒業した63年、地図を頼りに会社に行った。実は孝雄は、その時まで会社がどこにあるのか、どんな仕事をしているのかさえ知らなかった。
    ▼月曜会、関東鉄源協組・会長(83年以降)=鉄屑関連の業界紙に鈴木孝雄の名前が登場するのは、40歳台に乗った83年(83年5月、日刊市况通信。「活発な都城東の青年部活動-鈴木部長に聞く」)からである。ヤード業者を中核に結成された日本鉄屑加工処理工業協会と鉄屑カルテル対応団体だった鉄屑問屋協会を二本の柱に75年、通産省指導の下に社団法人日本鉄屑工業会が作られた。
     その工業会発足後、関東の城南地区でいち早く若手グループを組織した青年部が作られた。これを見た城東支部幹部が有力業者の「二世」たちに働きかけ、城東青年部会が81年9月立ち上がった(会員42名)。その部長に抜擢されたのが鈴徳常務の鈴木孝雄だった。83年8月、鈴木ら有志は関東に2つ以上のヤードを持つ業者を中心にエリアを超えた団体結成を呼びかけ「月曜会」を結成した。構成メンバーは鈴徳、中田屋、高関3社とヤマナカ、東金属、黒田興業、やまたけ商店、塩貝鉄工、岩本興産。当初会長を塩貝博(塩貝鉄鋼社長)がつとめたが、84年1月から鈴木が引継いだ。まず手がけたのがコスト計算だった。「業界の経営近代化を進め、過当競争の是正とコスト意識の確立を目指す」との方針のもと84年1月23日、記者会見を開き会員10社提出資料に基づく「加工処理コスト」を開示した(日刊市况通信84年1月26日)。
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     88年8月、月曜会の活動が再び脚光を浴びた。業者自らが鉄屑輸出へ踏み切ったのだ。プラザ合意(85年9月)による「円高」ショックから、需給安定の安全装置と目された鉄屑備蓄協会の機能は停止し(86年10月)、「鉄屑の絶対的余剰化」が喧伝され、輸出論議が俄然沸騰した。鈴木ら月曜界メンバーは、生残りをかけ韓国や台湾に直ちに飛んだ。88年6~7月、韓国に向け6~7000㌧の初の共同輸出を行った(鉄屑ニュース73号)。
     90年3月、鈴木は月曜会を中軸に、湘南、京浜、京葉、埼京の各ブロックと連結して、関東鉄源協議会を結成した。月曜会に続き関東鉄源協議会でも鈴木が会長をつとめた。労働条件の改善(月1回土曜を休日)に向け、給与アンケートを実施し、シュレッダー、ギロチン、プレス機の損益調査、「適正利益モデル計算例」を発表するなど実績を重ねた。協議会員全体の横連携の高まりを背景に96年4月、「共同輸出の入札」の採用と定期輸出(月1回)に先鞭をつけた。
     これがその後、各地のヤード業者が挑戦する共同輸出の先行モデルとなった。
    ▼鉄リサイクル工業会近代化委員長(86年~94年)=鈴木の工業会活動は、関東鉄源協議会長の実績が買われた工業会近代化委員長から始まった(86~94年)。鉄屑工業会は75年の創設に当たり、①「鉄スクラップ卸売り業」とは別に工業統計に「鉄スクラップ加工処理業」を新設する、②中小企業近代化促進法(近促法)の業種指定を受ける、③税負担の軽減化を求めるなどを3本柱に、行政折衝に乗り出し、小澤会長のもと77年までに、ほぼ当初の目標を達成した。ただ85年9月のプラザ合意後の円高が、経済環境を一変させた。急激な円高は「重厚長大」産業の衰退を予感させた。その筆頭が鉄鋼産業。関連業である鉄屑業は、この変化にどう対応すべきかを迫られた。
     この時、設立当初の目的をほぼ達成した工業会は、次に進むべき新たな目標、針路を模索した。文字通り業界の近代化の青写真づくりを、実戦豊かな鈴木孝雄新委員長に託した。
     さてどう動くか。何が問題で、どうすべきか、それにはまず論点を正確につかむことだ。
     鈴木は論点を、①需給体制の変化と今後の見通し、②経営上の問題、③工業会の問題(今後の課題)、④業界の社会的地位とイメージ向上の4項目に整理し、88年10~11月にかけて高橋征、渡辺淳など中堅メンバーが、全国7支部、延べ150人と「長期ビジョン懇談会」を開いて意見を聞き集め、ビジョンを広報した(鉄屑ニュース第76号、第79号)。
     「経営上の問題」は懸案となっていた①過当競争の排除、②業界のレベルアップによる雇用(人手不足)対策、③ダスト対策などを論じて、90年度以降の業界活動の指針とした。これを踏まえて鈴木ら近代化委員は、92年7~10月にかけて全国7支部、合計10カ所、延べ300人と「工業会活性化会議」を開いて意見を交換して、組織内部の問題点を絞り出し、中長期事業計画骨子として、①支部活動の活性化(若手の起用)、②財政基盤の確立(会費の見直し)、③広報活動の強化(情報伝達のスピード化)、④事務局の充実・強化(人員増強・事務環境の改善)を四本柱とする「工業会活性化指針」を打ちだした(鉄屑ニュース94号)。
    ▼工業会・第三代会長として(96年~06年)=鈴木は94年、近代化委員長から関東支部長(94~96年)に転じ、さらに96年、坂本護会長の後を継いで第三代工業会長に就任した。
    では、鈴木はどのような心構えで会長職に臨んだのか。
     以下は鈴木の回顧談話からの要点・摘記である(12年3月「巻頭インタビュー」。日刊市况通信)。
     まずは組織の合理化、運営の効率化。理事数の見直しから手をつけました。当時理事数は60数名。内部理事は6名に減らし、外部理事の6名と合せ12名体制に改めました。60名の会議は時に、散漫に流れますが、12名の会議では極めて活性化しました。工業会の会長は同時に、回収鉄源利用促進協会の会長を兼ねるのですが、回収鉄源の会長に就任した後の99年、解散を決議しました。
     この会は設備投資を支援する債務保証機関ですが、業界の体質が改善したこの10年、まともな借入申請はない。バブル崩壊後、設備過剰が表面化している時代に、設備増強の支援機関は不要だと考えました。また財政状況の悪化から経費も見直しました。鉄屑備蓄協会の後進である当時4人いた鉄源協会の事務局員を2人削減し、同時に事務局長(経産省OB)の年俸もカットしました。
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    ▼「環境に貢献する工業会」を提唱する=鉄スクラップ業は3K(きつい・きたない・くらい)と忌避された時期がありました。また新3K(過積載・過当競争・環境汚染)ともされました(94年)。私は会長就任に当たり「環境に貢献する工業会」を「新々3K」、21世紀の環境配慮型社会に貢献する企業集団としての自覚を持とうと挨拶しました。
     環境省所管の廃棄物処理法一本槍だったのが、経産省所管のリサイクル法(「再生資源利用促進法」91年施行)も登場し、我われ工業会も名称を日本鉄リサイクル工業会と改めました(91年6月)。地球温暖化防止と持続可能な経済体制の構築が叫ばれる(92年リオ会議)なか、日本でも資源リサイクルは21世紀の戦略産業と位置付けられ、家電や自動車などのリサイクル法審議も始まろうとしていました。社会が、我われの力量を求めるかのように大きく変化している。
     「中央と地方だけでなく、会員相互の情報格差を埋めなければなりませんし、社会に対しても我われの存在、機能、貢献をアピールしなければなりません。プロジェクトを立ち上げ96年、インターネットにHPを開設し、会員とメールの交換ができる体制としました」(同)。
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    ▼陥没相場と「逆有償」のなか リサイクル業の枠組みを作る=鈴木が工業会長に就任した96年は、鉄スクラップにとって転換の年だった。関東鉄源協議会は、共同輸出を定時入札制に改め(96年4月)、その廃棄が社会問題(91年豊島事件)となっていた自動車シュレッダー・ダスト(ASR)が、安定型から管理型廃棄に変更され(4月)、新日鉄・釜石の高炉撤去が始まり(7月)、中国の粗鋼生産が1億㌧に達し、日本を抜いた。97年にはアジア通貨危機、国内では金融・ゼネコン危機が発生し(失われた10年)、98年鉄スクラップ相場は過去50年来の歴史的な安値に陥没し、ヤード業者の経営は軒並み採算割れまでに悪化した。
     96年以降、リサイクル諸法が制定、施行されるなかで鉄スクラップをはじめとする再生資源は「地上の都市鉱山」だ、との社会認識が広がった(92年には国連リオ・サミットが開かれ「地球温暖化防止条約」などが締結され、「リサイクル」は環境保全と共に経済活動のキーワードとなった)。
    工業会は下級スクラップ引取に処理料を請求する「逆有償」お願いの文書を作成(98年4月)し、発生工場向けに「金属リサイクル伝票」の発行に踏み切った(99年12月)。
     鈴木は家電や自動車など各種リサイクル法の制定に当たり、産業構造審議会の場を通して家電や自動車会社などが、廃家電品や自動車シュレッダー・ダストなどの再処理に関し、鉄スクラップ業者をリサイクル実務の受託企業として起用する枠組みを作った。また鉄スクラップ業は「地球環境保護の戦略業種」との認識を行政・市民に深く植え込んだ。
     これらの道筋をつけ工業会の次期後継者として、国際感覚と実務能力に卓越した大阪の中辻恒文を第四代会長に推して06年、5期10年にわたる任を終えたとして会長職を辞した。
    ▼事業家、鈴木孝雄として(06年~)=業界の草分けの一人である鈴木徳五郎に始まる株式会社鈴徳(72年鈴木徳五郎商店から改称)は、しかし企業規模としては、他に突出しているわけではなかった。ただ戦前は関東の二大業者の一方を占め、戦中の金属統制時代には関東金属回収会社の長をつとめ、戦後は鉄屑業者集結の要となった関東鉄屑懇話会、日本鉄屑工業会の副会長(成島英美)、第三代会長(鈴木孝雄)を輩出し、業界に範を示し続けた。その鈴徳を見る世間の評価と法令遵守の要請が、関東の一業者に過ぎなかった同社に転機をもたらした。
     バブル崩壊後の90年代後半、積極的な拡大・多角化路線に走っていた商社やヤード業者が、需給変化と信用収縮のなか拠点・設備の見直しに動いた。その受け皿となったのが鈴徳だった。
     三菱商事から01年3月、旧タカセキ藤沢(買収)、川越、千葉工場(85%鈴徳)を継承し、03年12月には中田屋からの申し入れを受け、中田屋及び関連会社の株式を買収、傘下に収めた。
     タカセキは、戦前の35年鈴木徳五郎商店から高橋関太郎商店として独立し、戦後の70年には三菱商事と提携してシュレッダー工場を建設した先進業者。中田屋も戦前からの老舗で、家電リサイクル法の施行にあたり家電メーカーと提携した総合リサイクル業者。またタカセキ、中田屋のトップとは月曜会以前からの盟友だ。鈴徳の伝統と鈴木への信頼が企業継承の背後にあった。
     この結果、タカセキや中田屋及び関連会社を引き継いだ鈴徳の扱い品目は、金属系有価物、廃家電、廃自動車、廃自販機、故紙、廃プラスチック、産業廃棄物まで多様化した。
    ▼スズトクホールデングス(HD)と経団連=廃棄物処理法は従業員の不法と共に法人の不法も処罰するから、場合によっては商権喪失のリスクが生じる。そのリスク管理を徹底するため07年7月、鈴木はスズトクホールデングス(HD)を設立した。HD制を採用したのは、産廃法適用による許可取消のリスクを回避するためだ。こうしてグループ全体で全国8社26拠点を擁する日本最大の総合リサイクル企業が登場した。日本の企業意識も92年のリオ・サミット以来、従来の生産・製造一本槍から、生産品の回収や社会環境との調和を視野にいれた「静脈産業」の育成へと翼を広げつつあった。リサイクル諸法の制定は、その法制上の地ならしだった。次は企業の番だ。  経団連(日本経済団体連合会)は10年7月、鈴徳を正規加盟会社として迎え入れ、鈴木に環境安全委員会の席を用意した。鉄スクラップ企業としては勿論、初のケースだ。  鈴木は動脈産業と静脈産業の垣根を越える新時代の幕を、経団連という大舞台で開けた。
    ▼21世紀を生き抜く企業戦略=スズトクHDを足場に以後、鈴木は精力的に企業経営に乗り出した。まず鉄スクラップから家電リサイクルを手がけるエンビプロHDと14年12月に包括的業務提携を締結。15年6月までに包括的業務提携をイボキン、やまたけ、マテック、青南商事の同業者及び産廃業者の中特HDを含めた7社間に拡大した。さらに17年5月、提携7社のグループ名をROSEと命名すると共に、7社のうち営業エリアが近い4社(スズトク、マテック、やまたけ、青南商事)で共同出資会社(株)アール・ユー・エヌ(RUN)を設立した。
     また産業廃棄物処理の大手である大栄環境HDと15年12月、資本金1億円・各50%出資でメジャーヴィーナス・ジャパン(MVJ)を設立。18年1月には専用工場、東京エコファクトリーを建設した。鉄屑・非鉄だけでなく建設廃棄物、アスベストなど製品廃棄物や蛍光灯などをワンストップで処理。提携グループで連携し、適正処理する体制を構築した。
     官民ファンドである産業革新機構(INCJ)が17年10月、スズトクHDに32億2千万円を出資し、取締役2人と監査役1人を派遣した。鈴木はこの出資引き受けに合わせ、17年11月付で社名をスズトクHDから、さらに大きな器を目指してリバーHDに変更した。
     「私は欧州、米国の静脈メジャーと遜色のない日本版静脈メジャーを作り上げるという目標を7年前に定めた。最終的には経営トップの覚悟の問題と考えており、われわれの能力を発揮すれば実現は可能と思っている」(17年7月28日・産業新聞)。

た行

  • 高石 義雄(たかいし よしお)-大阪に9番目の高炉を作る(大阪製鋼)
    戦前大阪で大阪製鋼(平炉)を創設し、戦後の60年国内9番目の高炉会社、大阪製鋼を作った。
    1896年(明治29)2月、大阪市西淀川区西島の篤農家の長男として生まれた。篠山鳳鳴中学を卒業後、親戚の機械商楠木商店に入った。その得意先に伸鉄屋があった。
    鉄成金が輩出していた時代である。父から2万円の出資を受け1921年(大正10)3月、自宅裏に高石圧延工場を設立した。当初の製品はものにならなかったが、圧延機械と四つに取組み事業を軌道に乗せ、28年合資会社に組織変更し、37年平炉4基を備える「大阪製鋼」を設立。38年12月淀川製鋼を吸収、翌年尼崎工場を買収し、41年には石原兄弟製作所を合併して資本金1,000万円を超える大会社とした。しかし45年6月1日の空襲で大阪工場はわずかの平炉を残して壊滅。88軒あった社宅も灰燼に帰した。46年8月、西島と尼崎工場を再開したが、直後に戦時賠償工場に指定された。
    ▼トランジスター高炉=この逆境にもめげず47年8月、尼崎工場に国産初の連続式条鋼圧延機を開発・導入(この功により大河内記念技術賞を受賞)。60年4月、西島工場に第一高炉(326㎥)を新設(当時、トランジスター高炉の愛称でよばれた)。9番目の一貫メーカーとした。
    「現代人物論」(63年原材料新聞社)を参考にした。
    大阪製鋼は77年6月、大谷米太郎が作った大谷重工業と合併し合同製鉄として再発足した。
    現在(20年8月)のところ、大阪製鋼社史も合同製鉄社史もネット検索の限りでは見つからない。

  • 高倉 可明(たかくら よしあき)-「現金商売の強み」を活かし、マルチ解体機も開発者(豊富産業)
    富山県滑川市 ホームページはこちら
     北陸を代表する豊富産業グループを一代で築いた。高倉は自動車のアルミ、銅などの非鉄、鉄スクラップなどの効率回収に注力し「マルチ(多機能)解体機」を開発。同時に自動車を中心とする総合リサイクルセンター(1986年車輌総合センター)を建設し、日本オートリサイクル、三豊工業、日本総合リサイクルを軸とする豊富グループを結成した。
    ▼直話によれば(編者取材)=1934年(昭和9)富山市に生まれた。53年県立富山工業高校・土木科を卒業し関西電力に入社。発電所建設工事の事故多発を心配した家人の求めから退社。54年富山市役所に入り、復興土木課に配属。橋梁建設などを手がけた。63年家業(衣料品小売り)継承のため辞職し、衣料品卸売業に進出した。しかしここで不渡り手形を掴まされ苦境に陥った。
     ある日、未払い金の取り立てに行ったところ「仕事に行ったら、すぐに現金が用意できる」との返事に興味を持った。その債務者が携わっていたのが廃品回収だった。鉄スクラップなどを集めて問屋に運んでいく。その場で直ちに現金に替わった。高倉はこれこそ自分が求めていた仕事だと直感した。借金100万円を棒引きにする代わりに3年間ノウハウを教えて欲しいと頼んだが、棒引きとはいえそんな暇はないと断られた。1日5千円の日当を払うとの条件で教えを乞い、68年富山市金代を拠点に鉄スクラップ業に参入した。
    ▼企業人として=70年豊富産業(株)を設立。79年自動車エンジンを利用したアルミ熔解・再生を開始。82年古タイヤと自動車廃油を燃料とする業界初のアルミ溶解炉を開発。83年松任工場開設。86年上市町の誘致事業として「車輌総合センター」を建設。89年同センターに大型ギロチン、大型シュレッダー機を導入。91年アルミ熔解の「資源リサイクルセンター」を建設(エンジン再溶解でのアルミ合金生産は日本一)した。業容の多様化に対応するため、事業部門の分離、独立も進めた。2002年使用済自動車処理の日本オートリサイクルを、05年建物・構造物、木材リサイクルを手がける三豊工業を、09年鉄道車輌など解体を目指す日本総合リサイクルを設立した。
    ▼発明家として=87年自動車解体プレス機、88年エンジン割機、89年移動式廃車処理機を開発し、93年のタイヤホイール分離装置は94年第25回高木発明賞を受賞。97年コベルコ建機と共同で全油圧式マルチ解体機を開発。各種発明から09年日刊工業新聞・優秀創業者賞、11年中部地方発明表彰・富山県発明協会会長賞を受賞。自動車解体業界の機械化に大きな足跡を残した。

  • 高島 浩一(たかしま こういち)-「全国ミニミル構想」、さらに海外に拠点を展開する
     戦後後発の伸鉄、電炉メーカーとして世界展開(国内ミニミル構想、海外進出)を目指し、構造不況対策として鉄筋小棒を「海外無償援助」物資とする奇手を実現した業界人である。
     大阪市に1922年生れた(2003年3月没)。旧制市岡中学、大阪高等工業学校金属学科(現大阪府立大学工学部)卒業後、陸軍予備士官学校に入り、見習少尉として内地で終戦を迎えた。
    ▼高島秀次=高島家は瀬戸内海の家島に千年近く続く旧家。秀次は次男だったが長男が夭折したため38代目の当主を継いだ。家の再興を期し、東京・大井で鉄鋼製品の工場を経営していたが、関東大震災で一切を失い、大阪に戻った。その後は機帆船に乗って南方貿易や、中国の広東、香港でも暮らし、鉱山経営も手掛けた。「鉄づくり」では38年実弟の庄三郎と共に「共栄伸鉄所」を買収し、さらに翌年11月「共英鍛工所」も立ち上げた(同所は海軍の指定工場となった)。
     秀次は戦後の47年、「共英鍛工所」の地に共栄製鉄(伸鉄業)設立した。松浦巌商店との合弁で大阪製鋼の高島義雄社長の一部資本も加えた。松浦巌商店から営業担当の専務を招き、24歳の長男・浩一が生産担当常務につき12月1日に操業を開始した。が、操業翌年には戦後インフレと操業未熟から工場清算に追い込まれた。秀次は私財を投入して松浦巌商店の株式を引き取り、48年8月共栄製鉄から共英製鋼へ改めた。さらに53年2月隣地を買収して敷地を拡大。既存工場を解体して新工場を建設した。その新工場の操業直前の6月、秀次は心臓発作で倒れた(59歳)。
    ▼高島浩一=父の急逝(53年)に伴い30歳で社長。父の死去後、高島は永野・富士社長宅を訪れ、永野、田坂輝敬(新日鉄3代目社長)らの知遇を得た。受電量が500kw超は専用電線がいる。この工事費を抑えるため56年、工場敷地を金網を仕切って「共英伸鉄」の別会社を作った。「目指せ目標日本一」の標語を掲げたのが58年。創刊直後の社内報「みつるぎ」3月後の巻頭である。
    ▼渡欧青年会議所(JC)視察団長=高島は日本生産性本部「渡欧青年会議所(JC)視察団」長として塩川正十郎(小泉政権下で財務大臣)らを引率し60年、2ヶ月にわたり欧州各国を視察した。
     62年電炉(大阪西淀川区佃工場15㌧炉)を導入し電炉業に進出した。小さな電炉も各種の革新的な技術を集結すれば高炉に拮抗して生き残れる、地域で発生する鉄スクラップを使い、地域に製品を供給する(「地方ミニミル」)との構想のもと、66年枚方工場、67年熊本共英工業、山口共英工業、73年NYにオーバン・スチールを設立(日本鉄鋼業初の海外進出)した。
    ▼全国小形棒鋼工業組合理事長としてAA向け無償援助=しかし、オイルショックと主力商社の安宅産業の解体が逆風となった。76年熊本共英、山口共英の経営権を手放した。  産構審は平電炉不況対策として77年、390万㌧の過剰設備の廃却処理と中小企業団体法(中団法)に基づく商工組合の設立を答申した。中団法の組合(全国小形棒鋼工業組合)は特例として不況カルテルができ、組合員以外にも大臣命令により、組合への強制加入、事業活動規制、設備制限ができる(アウト規制)。高島はこの工業組合作りに奔走し、同年7月理事長に就任した(この動きに強硬に反発したのが東京製鉄である)。さらに高島はJC以来の盟友である塩川正十郎副官房長官らに働きかけ、小棒組合の小棒をアジア・アフリカ(AA)向け無償援助物資(78年から12年間、総計45万2千㌧)に道を開き、輸出拡大と国内小棒の需給調整を果たした。
    ▼その晩年=99年4月中山鋼業が事実上破綻した。高島は7月管財人となり合同製鉄と共に中山鋼業に同等出資を行い再建の道を開いた。その道筋を見届けて入院。00年3月23日死去。
    ▼在大阪ポーランド名誉総領事=高島は学術でも内外に貢献した。国内では日本霊長類学会、日本ナイル・エチオピア学会に基金を提供。国外では91年にハーバード大学日本学科、カリフォルニア大学に日本語講座や92年ワルシャワ大学日本学科存続のための基金(「高島記念基金」)を寄贈した。96年からは在大阪ポーランド名誉総領事。死去後の04年10月、ワルシャワ大学図書館2階にポーランドで初の本格的茶室として高島浩一記念茶室 「懐庵」 が開設された。
    参考:「鉄一筋に生きて 高島浩一追想録」(共英製鋼 2002年)。
       未来への挑戦―共英製鋼70年の軌跡(共英製鋼 2018年)

  • 高橋 克実(たかはし かつみ)-大義名分を社員と共有する企業人(イボキン)
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     変化・変革は生きるに値する何事かを求める人間によってもたらされ外界の接触によって爆発的に進む。異業種から転入した高橋克美は業界に化(バケ)学的変化を持ち込んだ。
    ▼パチンコ業、経営者として=高橋克実は1969年5月に生まれた。大学を卒業後、鉄鋼商社(津田鋼材)に勤めたが、入社3年目の阪神大震災の年に退社。ビルの解体職人を経て、パチンコ業を経営する妻の実家に乞われ、役員として業に踏み込んだ。買収した店を任されたが、暴力団や不良客がたむろする札付きだった。おまけに従業員も、仕事や店へのプライドがなかった。暴力団の幹部と口論となった時のことだ。彼も博徒稼業なら、世間がパチンコ屋もバクチ商売の一つと見ているなら、彼らと自分は一体どこが違うのか。何のための仕事なのか。高橋は悩んだ。片っ端から本を読み込んだ。そんななか、稲盛和夫の「経営十二ヶ条」に出会い、第一条の「事業の目的。公明正大で大義名分を立てる」に強い感銘を受けた。パチンコ業は「人々の射幸心(賭博心)を法に則り健全に満たすことによって、非合法賭博に走るのを防ぎ、地域の環境浄化と青少年の健全化に貢献する」ものだ。そう業の大義を定めた。以来、暴力団の排除に邁進した。勿論、脅迫や暴行にさらされ、脅しは一人暮らしの母にも及んだ。しかし屈することなく徹した。同時に社員教育も進めた。プライド向上を図り、接客マニュアルを作った。札付きの不良店が、優良店に生まれ変わった。
    ▼父の鉄スクラップ業に戻る=両親は高橋が中学三年のとき離婚。以来音信は断った。ある日、父に再会した。高橋も経営の一端を味わった。同じ経営者として父を見直すところがあった。その父から「帰ってこないか」と呼びかけられた。会社は戦前、韓国から渡日した祖父(高橋仙吉)が戦後の49年、兵庫県西播磨で製鋼原料商・高橋商店を開業したことに始まる。その子、高橋勇史(1941年生まれ)が73年、揖保川工場を建設。80年揖保川金属に改称(84年株式会社に改組)。90年産業廃棄物の収運許可、92年産廃物の中間処理、94年同最終処分の許可を取得していた。
     98年5月入社した。社会に貢献している仕事にもかかわらず、勤め先が恥ずかしいと身内に言われた社員の嘆きを聞かされた。だが彼らは懸命に頑張っていた。頭が下がった。その社員のために誇れる会社を目指した。その年、トーアスチールの任意清算(9月)から鉄スクラップを始め、日本経済は底抜け状態となり、業界もパニック状態となった。しかし社会的認知が低いパチンコ業を経営した克美から見れば、新たに入った金属スクラップ業は、社会経済の根幹につながるビジネス。その豊かな可能性に心躍った。ただ当時のイボキン(03年揖保川金属から改称)には、その優位さを活かす準備が無かった。たしかに金属スクラップ(有価)と産業廃棄物(廃棄・処分)の二本の柱はあったが、柱をつなぐ梁が無かった。柱を繋ぎ一体とし、「ワンストップ」ビジネスとする。また金属も資源も陸送費用が発生するから、この陸送費用の最小限化、効率化を図る。
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    ▼稲盛の「盛和塾」に入塾=問題は、社員意識を如何に高めるかだ。まず外圧(99年環境ISO14001を取得)を利用し、経営方針、社訓を定め、社内講習や勉強会・安全大会を開催した。我々は「資源の少ない日本でリサイクルという重要で高度な技術を駆使する産業」マンだと語りかけた。それこそが資源リサイクル「業の大義」だと信じたからだ。
     その信念を導いた稲盛の「盛和塾」に入塾した。直後に参加した全国大会に身体が熱く震えた。「景気に左右される会社から目標を設定し、達成する企業へと脱皮しよう」と決意した。「有言実行」だ。目標数字を掲げ社員に「コミット(誓約)」した。さらに05年からは稲盛提唱の「アメーバー(小集団)経営」を導入し、社内リーダーの指導力に委ねた。稲盛は「人は思ったとおりの人生になる」という。企業もまた同様だろうだからだ。その思いと実践を高橋(当時38歳)は07年の盛和塾第15回全国大会の「経営体験発表」(07年9月18日)でぶちまけ、優秀賞を受賞した。
     以上の記述は「盛和塾」2007年(平成19)11月号・経営体験発表より要約・引用した。
    ▼日本を代表する総合リサイクル企業を目指して=07年10月社長に就任。金属リサイクル(鉄鋼、鋳物材料、非鉄・レアメタル原料)や環境リサイクル事業(木材、廃プラ、FRP廃船、OA機器、小型家電、最終処分)を軸足に解体事業(建物、機械設備、プラント設備*注)、ELV事業(自動車解体)、エコ事業(太陽光発電システム)、運輸事業などを繋ぎ、その相乗効果のもと国内で可能な資源廃棄物の回収に挑戦する。廃棄物は日本が誇る「都市鉱山」、「鉱山開発こそが資源と地球環境を守る業の大義」だからだ。たしかに人(企業)は望んだ通りとなるようだ。
    ▼戦略的提携と株式上場=高橋は15年3月、日本最大の総合リサイクル会社である東京のスズトクHDと包括業務提携契約を締結した。さらにスズトクHDを中軸にエンビプロHD、やまたけ、中特HD、マテック、青南商事を加えた7社で17年5月、全国縦断的なリサイクル企業グループ「RUN」(Recyeclers Union of Niponの頭文字)メンバーとして名乗りを上げた。
     さらに家業から企業を目指して18年8月2日、ジャスダックへ新規上場を果たした。
    20年9月までに福島県内に福島支店を開設するとの構想を発表した(20年8月)。

  • 高橋 敏(たかはし さとし)-北海道からNGP、SPNを育てる(高橋商会)
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     自動車中古部品の泣き所は地域的な制約が高いということであった。
     そのハンディーを打破する広域取引を目指し、NGP、SPNを率いて、大きく育て上げた。
     1947年北海道生まれ。青年時代、海底炭田にもぐり坑道開削ではもっとも苛酷とされる先山(さきやま)を10年間つとめた。粘り強さと勘の鋭さはいわば死と隣り合せにすごした時代の賜物だ。その炭鉱が時代の波に流された82年、夫人と二人で自動車中古部品「もぎとり」を始めた。しかし北端の釧路では自動車中古部品の販路は余りに狭すぎる。88年、全国展開を目指して間もないNGPに加盟し、販路を全国に求めると共に同組織部長として体制強化に邁進した。
     99年にはNGP第3代会長に就任し、高橋の統率の下、NGPは日本を代表する自動車中古部品販売のネット組織に成長した。高橋はNGPの長として自動車リサイクル法対応の体制作り、環境ISOの認証取得を会員に呼びかけると共に、実物モデルの自社工場を99年12月立ち上げた。
     さらに2000年3月、NGPと大東京火災海上保険(現あいおい損害保険)は日本初の「中古部品使用保険」を開発し業界に画期をもたらした。
     その高橋は03年2月、任期途中で会長職を辞し、NGPから脱会。幹部15社も行動を共にし、SPN(スーパーライン・パートナーズ・ネットワーク)を立ち上げた。
     SPNによれば「スーパーラインシステムの運用に関し意見が分れ、多数の会社がシステムを所有するBBFとの契約関係を破棄したことから、システム創設に係わったメンバーを中心にNGPを脱会し、新たにSPNと(株)SPNを創設しスーパーラインシステムの使用と創設理念を継承した」。
     高橋は使用済み自動車適正処理の推進を目指すNPO法人JARA(全日本自動車リサイクル事業連合)を有志数人で立ち上げ、16年4月には、土門五郎の後をついで㈱JARA(旧SPNと旧エコラインが14年4月合併して誕生)の第二代会長に就任した。

  • 高橋 関太郎(たかはし せきたろう)-戦後「鉄屑信用組合」設立に奔走する
     1903年(明治36)生まれ。愛知県出身(1988年1月没)
    ▼「鉄屑界」によれば=1919年(大正8)鈴木徳五郎商店に入社。35年(昭和10)高橋関太郎商店創設。38年指定商。42年「東京古鉄株式会社」(城南地区指定商6社が合同し創設)に合体。売買禁止のため鉄屑統制会社工作隊に参加。47年株式会社として再発足。48年東洋金属工業㈱創設。52年鉄屑懇話会・金融対策委員長。プレス委員。日本中小企業団体連理事。東京金属商業協組理事長。意見「中小企業者の金融対策として協同組合または別個企業体を作り、資金、集荷納入の一体化を図り商工中金、その他の金融機関を通じ金融の円滑化を図る」(53年第1巻7号)。
    ▼高橋関太郎と鉄屑信用組合=鉄鋼自主権が回復した1952年(昭和27)、業者は新体制に即した団体として関東鉄屑懇話を創設(52年10月)。金融、プレス、広報の3委員会を作った。高橋関太郎は金融委員長に就任し「鉄くず業者の手によって『他の金融機関に依拠せざる、自力自存の金融機関』を自ら設立する」(機関紙・鉄屑界53年第1巻8号)との方針を掲げた(注1)。その創設の1年後、全役員の改選が行われ、高橋は懇話会副会長兼金融委員長に就任。「懇話会の外郭団体たる『鉄屑信用組合』の設立が理事会の正式承認を得ていよいよ設立準備に託手する」(第1巻12号)ところまでこぎつけた(注2)。ただ、時はまさにカルテル反対闘争(53~55年)の真っ只中。鉄屑懇話は勿論、業界全体の関心は鉄鋼各社と業者団体の力比べにあった。この結果「惜しむらくは他にも原因はあったが、カルテル抗争で『鉄屑信用組合』は高橋委員長の奔走もむなしく流産した」(伊藤信司・鉄屑Nニュース。No18号)。「かえすがえすも痛恨事」(同)となった
    *注1=51年6月「相互銀行法」公布。従来の「無尽会社」は相互銀行へ衣替えした。
    *注2=鉄屑信用組合(仮称)設立計画。出資総額3千万円。出資1口5千円。出資口数6千口。「信用組合は懇話会の別動隊として独自の立場で運営される」(鉄屑Nニュース。No18号)
    ▼高橋関太郎と「鉄屑界」=創刊号(1953年1月)金融対策委発足に際して(31p)。2・3月合併号・金融対策に関する諸問題(6p)。会員大会特集号・組合金融の秘訣(8p)。第5号・鉄のカーテンを開け(15p)。第8号・巻頭言(業界金融危機と懇話会の進路。2p)。第12号・鉄屑信用組合の設立に協力を(金融委員長高橋関太郎3p)。54年第1号・所感(連盟副会長・懇話会金融委員長、高橋関太郎2p)
    ▼相互銀行法と高橋関太郎=業者金融に乗りだそうとしたのは高橋関太郎だけではない。戦前・戦中に小宮山商店を開業していた小宮山英蔵は、戦後、1949年(昭和24)関東殖産株式会社設立、「平和財畜殖産無尽」を作り、相互銀行法が制定・施行された51年(昭和26)平和相互銀行と改称。金融界に乗りだし、戦後の金融界の異端児と目された(小宮山英蔵の項、参照)。
     1959年(昭和34)紺綬褒章。1979年(昭和54)春 勲五等瑞宝章授与。

  • 高橋 征(たかはし すすむ)-預言者故郷に入れられず、先行者の悲哀
     戦前からの高橋関太郎商店を継ぎ、1969年自動車時代を見据えて三菱商事と共同で米国製の大型シュレッダーを導入。また業界の近代化向け各種の提言(鉄屑ニュース等)を行った。
    ▼高橋 関太郎と㈱高関=1935年高橋関太郎(別項参照)が創業。47年㈱高橋関太郎に改組。70年関東シュレッダー㈱を三菱商事と共同出資で開設。社名を㈱高関とする。
    ▼関東シュレッダーと高関=三菱商事が埼玉県川越に約2万㎡の用地を確保。69年9月同社と高橋関太郎商店が地鎮祭を行い着工。ハンマーミル社製シュレッダー(月間処理能力7~8千台)。投下資本は土地代を含め6億円。本体以外の付帯設備は「オール三菱の総力を集め」(サブ見出し)建設した。三菱商事と関東シュレッダーの関係は「原則としてすべての利益損失を折半し、三菱商事が最終責任をとる直営体制」とした。*その狙い=3点ある。 一つは鉄鋼業界への寄与。 二つめは自動車業界への寄与 (廃車処理を通じ新車販売に貢献)、三つめは社会公害の防止(大商社らしい宣言だ)。*ダスト処理対策=「ダスト処理は県内の建設業者を通じて砂利採取後の穴や低地の埋立て用に払い出している」、「自動車屑をプレスした場合、 平均20%に及ぶダスト込みの鉄屑をメーカーは購入しているわけで、 高い製鋼費をかけてノロを作り、ノロ処理のため人手とコストをかけ二重、 三重のロスが発生している。シュレッダー屑の利点は一層明らかにされるだろう」*今後の展開=「関東全域に20カ所以上のいわゆる 『衛星ヤード』 を設置。 それをフル活用する独自のルートを確立している」「ここを『鉄屑加工処理総合センター』とする目標を掲げている」(小庭・三菱商事製鉄原料部次長、日刊市况通信70年5月マンスリー)。
    ▼関東シュレッダー・その証言(鍵谷順三氏・関東シュレッダー取締役兼三菱商事製鉄原料部関東シュレッダー副長)=「シュレッダーは操業して以来2年半。企業としての採算、成績を追求されると誠につらい。まさに苦難の歴史と言っていい」。その原因。①米国と違い、プレス品を駆逐できず安価なAプレスと競合したこと。②道路網が未発達で集荷エリアが限定され、集荷コストが予想外にかかったこと。③大型車が多い米国とちがい、軽量の車が多い日本では同じ処理能力でも米国の3分の1の処理しかできない。採算性が上がらなかった(73年1月、日刊市況特集号35p)。
    ▼関東シュレッダー・その後=86年(昭和61)高関と関東シュレッダーは合併し、社名を㈱タカセキとする。98年10月タカセキ・市原2000馬力シュレッダー操業停止。2001年1月鈴徳グループに参加、鈴徳と三菱商事の合弁会社「メタルリサイクル」として営業開始。07年7月スズトクホールディングスの設立に伴い、同年9月スズトクホールディングスの子会社となる(17年10月スズトクホールディングスが、「リバーホールディングス」㈱に社名変更)。
    ***
    ▼業界の理論的指導者として=89年工業会技術開発委員長(団体活動の意識改革・工業会鉄屑ニュース80号)。92年近代化委員(「工業会活性化会議」報告書・94号)。93年運営委員長(創ろう明日のための『工業会』・98号)。94年企画運営委員長(米国における鉄スクラップ業の実態調査の報告から我われが学び得ることは・101号)。98年環境対策委員長(123号)。
    ▼その提言(95年・106号。見出し)=「リサイクル業における『環境保全の管理責任体制』」。「法規制の遵守はリサイクル業の命運を決める」「無秩序(アウトロー)の業界に繁栄はない」。
     *意識改革→コスト見直し(巻頭記事。競争と対立の違い・107号・要約)=リサイクル業が今、事業採算を割り込む過当競争の裏には、落伍者の到来を期待していると耳にするが、残念ながら残存者といえども、メリット享受は新規参入者が入手することになる。即ち、環境ビジネスの新規参入者たちは、成熟産業やグローバルリサイクル事業者たち、社会的信頼度の高い産業群だからだ。
    大きな地殻変化が起こっているにも拘らず、旧態依然とした自己中心的行動に走っていては時代遅れの業界として取り残されると危惧し「標準コスト」を作成した。これをたたき台にして業界の起死回生策を図る方策に活用されることを期待する(タカセキ・高橋征)。
     *「家業」経営から「企業」経営への確立へ(96年。110号・要約)=時代が求める循環型経済は、単なる資源リサイクルではなく、廃棄物の抑制、資源の有効利用を目指し、環境規制遵守を含めた事業運営、事業内容の改善が求められている。企業規模がすでに「家業」模を超え「企業」規模にありながら、同族形態で経営されていることから、収益・採算性が低くても何ら経営責任を問われない。これは日本が諸外国から異質、閉鎖社会と見られた現象と極めて酷似している。是正は急を要する。さもなければ、業界は大きな基盤を消失することを覚悟しなければならない。
     *「忍び寄る異業種参入の足音」(高橋征シュレッダー委員長。96年。112号。見出し)=「法律の『抜け穴』探しは大局を見失う」。「社会的信用の欠落は『落とし穴』にはまる」。「鉄リサイクル業界は自ら『墓穴』を掘っている」。
    ▼新聞報道によれば:三菱商事と鈴徳、タカセキの事業を継承(2001年1月15日・産業新聞)=三菱商事と鈴徳は12日、経営難に陥ったタカセキ(高橋征社長)の事業を継承し、新たな事業展開を図ると発表した。タカセキの川越支店とELV(廃車リサイクル)事業部の資産・営業権は、今年3月1日をメドに三菱商事と鈴徳の共同出資による合弁会社「メタルリサイクル」が譲り受ける。タカセキの藤沢支店は同日付で鈴徳が営業権付きで譲り受けて、藤沢営業所とし、既存の川崎支店と併せて京浜地区での集荷・供給網の充実を狙う。タカセキは鉄スクラップ事業から撤退し、不動産管理会社となる。メタルリサイクルは資本金9000万円(三菱商事70%、鈴徳30%)で99年11月に設立。現状はペーパーカンパニーだが、2月上旬に産業廃棄物処理や中間処理などの許認可を取得して、3月1日から事業を開始する。従業員は約60人をタカセキから引き継ぐ。
    ▼JARA(特定非営利活動法人 全日本自動車リサイクル事業連合)2012年11月=「鉄リサイクル工業の歴史から自動車リサイクル事業の将来を展望」(高橋征JARA顧問として特別研修会)
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    ▼編者注=高橋は、時代を先取りした。日本初のシュレッダーを日本のトップ商社と共に導入。その大型インフラ稼働を可能にする米国と日本のギャップ、さらに日本的現実(鉄鋼および業者間の過当競争とダスト問題、違法行為の多発)に、率先して直面。その打開のためリーダーの一人として来るべきリサイクル時代に即した業界の体質改善、行動変容を訴えた。彼の見識、提言はすべて将来を見据えて的確だった。しかし、世界的な資源安と淘汰の渦中で自らのビジネス地盤を失った。彼の預言を踏み台に、インフラ稼働の環境整備が進み、時代が新規参入者を招き入れた。

  • 田代 源七(たしろ)-明治後期、東京山の手で開業、田代商店
    東京都出身(大正10年6月歿・76歳)
     慶応3年父・田代甚右衛門の事業を継承し、明治19年営業所を本郷区金助町から同区田町に移す(明治43年、達六を養子に迎え、大正5年事業を達六に譲り、補佐役に回る)。
     「明治45年までは東京都内のいわゆる山の手一帯において業者としては、田代商店が唯一であった」。「第一次大戦に際会し福島及び新潟県下の製鉄会社にダライ粉の納入を一手に引き受け、先駆して製鉄原料材の回収事業を本格的に開始した」(田代商店)。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 田所 源七(たどころ げんしち)-戦前の大阪の雄、戦後はステンレスへ進出
    大正から戦前の大阪を代表する鉄屑商。戦後はステンレス・スクラップに進出した。
     1884年(明治17)に生まれた。翁79歳の回顧談によれば、以下の通りである。
    明治40年代の24歳のとき、肥料代として千円稼ぐのが目的で徳島から大阪に来た。金はできたが、たまたま妻の帰郷の留守に、知合いに頼まれて鉄屋の手伝いに行ったのが鉄商売に入るきっかけとなった。大正の大戦とドイツ降伏の鉄価暴落は「うまく売り逃げた」。また昭和初年の恐慌では、有名な鈴木商店の倒産(1927年4月)に際し、その在庫処分を頼まれて大きな力を蓄えた。
     その頃は、専ら鋳物銑扱いだったが、これは相場の変動が激しい。そこで製鋼用スクラップに進んだ。明治末年ごろに平炉操業を開始した川鉄も、当時はまだヨチヨチ歩きの幼年期。戦後の1950年、川鉄の社長になった西山弥太郎も当時はナッパ服姿で働いていた。「川鉄にはスクラップを毎月千㌧ほど馬力と艀(はしけ)で運んだ。1929年(昭和4)、その川鉄も大恐慌に見舞われた。当時は3ヶ月手形。川鉄整理の噂が広がり、他の直納2社は納入を停止したが、田所だけは納入を続けた。ところが金が回らなくなったので代金を薄板の現物で貰い受け、中山製鋼にトタン材料として売って凌いだ」。川鉄のほか住友、大鉄、神鋼、大同の民間製鋼、砲兵工廠などにも納入した。住友の月間消費量は600㌧。半分が田所。残りを2社が納めていた。田所は普通の鉄屑業者とは異なり一般の寄せ屋回収屑は扱わず、数量のまとまる造船屑、解体船屑、輸入屑だけを扱った。
     輸入屑は三菱商事(神戸)扱いで、インド屑は品質が悪かったが、米国屑は伸鉄材を「生き」で転売した。戦争を前に、鉄スクラップ商売も統制会社に吸収され、田所も指定商として戦時鉄屑回収に従事した。当時はすべてが人の手で行われたから従業員も多かった。「夕方には何十台の自転車が店の前に並び、(私をはじめ)みんな同じものを食べるのですが、なにしろ多人数なので米びつにレールをつけておりました。思い出しても壮観です」(62年5月、日刊市况創刊十周年記念・「先人の足跡を探る―開拓者田所源七の六十年史」より引用・要約)。
    ▼会社沿革によれば=1911年(大正元)田所源七の個人商店として創業。川鉄、住金、神鋼、三菱商事の指定商として米国及び東南アジア、インドから古鋼材の輸入並びに国内販売を行うと共に三菱商事の代行店として南満州鉄道に出入りした。32年(株)田所源七商店を設立。38年日本鉄屑統制の発足に伴い同社取締役に就任。この前後、大阪合同シャーリングの重役や伸銅工場、浪速伸鉄所 (大正区恩加島)を建設した(その後、工場設備は台北に移設)。同年、関連企業の田所洋行を開設し長男・真喜雄が社長として田所錬銅敞を建設、電気銅及び電話線、伸銅品を生産。44年漢口で製鉄事業の生産命令を受け岩井産業と計画準備中に敗戦。関連企業を東洋金属(39年設立)に併合した。46年呉営業所を開設。47年住金・桜島の圧延機及び抽伸機を譲り受け、事業を開始したがジェーン台風から生産を中止。戦後の50年(昭和25)主要扱い商品にステンレスを採用し、ステンレス原料扱いのトップ業者の地位を固めた。59年(昭和34)源七は社長を引退した。

  • 田中 長兵衛(たなか ちょうべえ)-民営釜石を創業し、初のコークス高炉操業
     「明治政府が外国技術を導入し数百万円の巨額を投じて7~8年の歳月を費やしてもなお成功をみなかった」(釜石製鉄所七十年史)事業に親子で挑み、近代高炉・コークス製鉄事業を興した。
    ▼初代田中長兵衛=天保年間に遠州に生まれ、若くして江戸に出て鉄・銅物問屋鉄屋喜兵衛の店に働き、安政の頃独立して「鉄屋」の屋号で金物商を開き、薩摩藩島津家の御用商人となった。幕末・維新のなかで初代は時の政府高官の知遇を得て「官省御用達」商人となり、主に陸海軍への食糧供給と鉄材調達にあたった。苗字許可により田中姓を名乗った。
    ▼二代田中長兵衛=1858年(安政五)、初代の長男安太郎(1901年、初代の死により襲名)として生まれた。釜石鉱山官業廃止(83年)に当り、同地を視察し欧州から帰国した海軍技術技官等について欧州の製鉄技術を学び、父を説いて釜石復興を画策した。1884年官営釜石の物件払下げを受け、政府から工場用地千坪余を借用し木炭及び鉄鉱石を払い受け、洋風高炉、日本式高炉各1基の建設に着手し85年(明治18)から操業を開始した。
     しかし失敗の連続だった。ある夜、高炉操業主任の高橋亦助の夢枕に老人が現れ、これまで不良として放棄していた鉱石を手にとった。これを神助と喜んで操業したところ遂に成功した。実に操業49回目の快挙だった、とされる。この成功から87年(明治20)、初代長兵衛は官業時代の用地、建物及び機械残存設備一切の払下げを受け同年7月、釜石鉱山田中製鉄所を設立。安太郎は東京を田中本店として釜石製品の販売に乗出した。
    ***
    ▼94年(明治27年)官行時代の英国型高炉25㌧炉を改修(30㌧)し、北海道夕張炭を使って日本初のコークス製鉄工業化の道を開いた。田中製鉄所の銑鉄生産は前年(93年)の8千㌧から94年には1万3千㌧にハネ上がり全国生産2万㌧の65%を占めた。▼釜石鉱山田中製鉄所は87年の創業以来、幾度かの浮沈を経て日清・日露の戦役や官営八幡の高炉操業(1901年)に当って同所の依頼を受け熟練労働者を派遣するなど、民間企業の代表的存在として重きをなした。
    ▼1914年に勃発した第一次世界大戦の鉄鋼需要の急増から同所も経営危機を脱して未曾有の活況を呈した。このため16年(大正5)、八幡(160㌧高炉)に次ぐ当時最大の第8号高炉(120㌧)建設に着工(火入れ17年1月)し17年4月、株式会社(田中長兵衛社長)に改組し、田中鉱山(株)を設立した。▼しかし大戦終了(18年11月)による鉄価の大暴落、軍隊・警官が出動するまでの深刻な労働争議(19年)、関東大震災(23年)などによる資金難から24年(大正13)3月6日、経営を三井家に譲り渡した。その悲運のなかで二代長兵衛は同月9日、67歳の生涯を閉じた(以上の内容は釜石製鉄所七十年史を参考にした)

  • 田部 三郎(たなべ さぶろう)-新日鉄副社長・鉄鋼原料論などを著す
     富士製鉄出身の新日鉄・副社長。鉄鋼原料、鉄屑に関する著作でも知られる。
    1927年11月東京に生まれた。39年東京大学経済学部卒業。同年4月三井信託銀行入社。同年5月海軍短期現役主計科士官(主計中尉、41年主計大尉)として任官、兵役終了後43年8月日本製鉄入社。日本製鉄解体後(50年)富士製鉄に属し本社営業部原料課長、購買部鉄鉱石課長を経て63年原料部長に就任。富士と八幡の合併に伴い70年新日鉄常務取締役、73年専務取締役、77年副社長に就任。79年常任顧問、87年に退任した。
    ▼53年10月には富士製鉄課長として鉄屑カルテルの認可申請に動き、認可後は同社原料担当幹部としてカルテル運営に深く係わった。カルテル終了後は、ポスト・カルテル対策として設立されたスクラップ・リザーブ・センター(SRC)社長に就任した。
    ▼鉄鋼関連を著作=この間、「鉄鋼原料論」(63年、ダイヤモンド社)、「鉄鋼原料論Ⅱ」(69年、ダイヤモンド社)、「日本鉄鋼原料史」(83年、産業新聞社)など鉄鉱石から原料炭、鉄スクラップの実務、歴史紹介に及ぶ著作を重ねた。

  • 多屋 貞男(たや さだお)-シュレッダー機導入と稼働環境整備の草分け(伸生スクラップ)
    大阪府堺市 ホームページはこちら
    日本のシュレッダープラントの歴史は1970年3月15日、午後11時52分にはじまる。当日は大阪万博開幕日。所は南河内郡美原町菅生の木材団地内の一角。日産自動車・国際部を辞し自動車破砕業の未来を信じて起業した多屋貞男の工場ラインが稼働したのだ。
     多屋貞男は1935年(昭和10)生まれた(2009年11月没。享年75)。父はタツタ電線の創始者。大阪の高津高校から一橋大学に進み58年卒業。スイス留学を経て日産自動車に入社。世界の自動車普及と廃車処理にビジネスチャンスを見た。64年職を辞し自動車解体業に乗り込んだ。同年8月東大阪市若江東町に自動車処理を行う(株)伸生スクラップを設立。住友商事と提携して米国アイダル社製のシュレッダー機を導入。70年3月15日初稼働した。
    ▼シュレッダー普及に格闘する=タッチの差で同年4月、関東でも2プラントが一斉に動き出した。
    シュレッダー機登場以前の自動車処理は、部品回収→エンジンや重量・足回りの除去→上部構造・ガラを圧縮・プレス加工(Aプレス、米国№2バンドル)→電炉投入が主流だった。ただプレスは中味が見えないから異物混入は避けがたい(Aプレス不純物問題)。電炉メーカーは歩留まり低下や操業ロスを嫌い、値下げや購入中止が相次いだ。自動車プレス敬遠に処理業界は危機感を強めた。この窮地を救うのがシュレッダー機のはずだった。
     しかしプレス不純物問題を今度はシュレッダー設置業者が(電炉メーカーに替わって)抱えることになった。自動車は構造的にも(構成部品の3割は非金属)、実際としても(後付部品・持込み雑具)、非金属・混入物の複合体としてやってくる。この廃車引取り段階のダスト対策をどう進めるか(これがダスト引き問題)が一つ。今一つはダストが炉内で熔ける電炉では起こりえなかった、シュレッダー設置業者独自の残置ダストの処理問題だ。「クリーンなスクラップを生む」シュレッダー機とは、見方を変えれば高度な「ダスト発生機」に他ならなかった。
     自動車をクリーンに処理すればするほど、設置業者の庭先には膨大な残置ダストが日々積み上がる。その厖大な自動車ダストの処理コストとリスクを、シュレッダー設置業者が機械を導入した、ただそれだけの理由でひとり背負うことになった。同業者の中からはダスト処理を直接・間接の要因に、経営の行き詰まり・社会問題(豊島事件)・法令違反(産廃法違反)などを引き起こす者も相次いだ。90年代後半の世界的な資源不況による鉄スクラップの暴落や国内では環境意識の高まりのなかダスト処分場の閉鎖、処分費用の高騰がさらに追い打ちをかけた。
     シュレッダー設置業者は、プレス業者から廃車を買取るどころか、逆に処理費用を請求する(逆有償)事態に迫られ、従来の自動車処理システムは破綻した(だから路上放棄車が急増した)。この放棄自動車対策として国は自動車リサイクル法の制定に動いた。
     法制化の最大の目玉となったのが自動車シュレッダーダスト(ASR)問題。ASR処理をシュレッダー設置業者責任から自動車製造会社の拡大生産者責任とする新たな枠組み作りだった。この一連のASR対策に多屋は30年の全心血を注いだ。
    ▼辛惨・辛苦、倒産の瀬戸際から=多屋は資産家の父には頼らず、事業を裸一貫から始めた。しかし「ポンコツ」「モギトリ」など部品商売や家内事業的な形態に馴染んだ先発業者がゴマンといるなか、超大型の輸入プラントによる機械処理を引っ提げて新規事業に乗出すのは、当事者にとっても周辺関係業者にとっても、池の中で鯨を飼うような芸当だったろう。多屋は「辛惨・辛苦、倒産の瀬戸際に立たされ」、「明日の支払いも滞り、邸宅も売り払い、工場のバラック2階」に引っ越す苦境にさらされた(増井重紀・「鉄屑ロマン」)。それでも明日を信じた。
     その発言と活動の足場となったのが、75年に発足した日本鉄リサイクル工業会・シュレッダー委員会だ。多屋は初代委員長として精力的にその打開に取組み、持ち前の弁論・論理で業界世論の喚起に奔走した。 多屋は欧米の先進例を求めて世界を駆け巡った。
     「彼ほど世界の鉄屑業界に友人、知己を持っている人はいない。世界の鉄屑業界で彼が一番の国際人。少なくとも『シュレッダー』の知識と友人、知己の数に関しては、彼の右に出る者はいない」し「彼ほど世界のシュレッダー工場を見て回った者はいない」。彼は「スイスに留学し独語、英語はお手のもの、仏語もこなした。唯一できない語学は東京弁でどこに行っても河内弁丸出し」。「海外出張は風呂敷ひとつ。これ一つで30日旅行」(同)した世界の有名人だった。

  • 土橋 長兵衛(つちはし ちょうべえ)-日本の電炉製鋼の草分け
     高炉・コークス製鋼の生みの親である田中長兵衛と並んで二人長兵衛と称される。
    ▼1867年(明治元年)長野県上諏訪の酒屋「万年屋」に生れた(1939年没)。8歳で本家土橋家「亀屋」の養子となったが、養家が貧窮のため小学校を出ただけであった。89年から金物商「亀長(かめちょう)」の経営の傍ら、独学で英語を習得し洋書により独学で冶金学を勉強し、同1904~05年頃鋳物工場を設け、07年松本市に亀長電気工場を建設し、09年(明治42)電気炉製鋼を開始した。「まず炉体を作り乾燥後原料を入れて電極の処へ移動し」操業を行う。炉体と電極が別の場所にある「極めて特徴のあるエール式電気炉」(日本鉄鋼技術史)であった。
    ▼エール式電気炉(1900年)、ジロー式電気炉(06年)が発明されてから3年たらず。炉の設計、操業詳細が日本に伝わっていたとは思われない中での実用化であった。 土橋は11年長野県東筑摩郡島内村に土橋電気製鋼所を設立。高付加価値品である高速度鋼・特殊鋼・銑合金・銅合金を作り、高速度鋼はもっぱら陸・海軍工廠へ納めた。第一次大戦中はフェロアロイから鋼の一貫生産を行った(参考:「幕末明治製鉄史」大橋周治著)。

  • 手塚 国利(てづか くにとし)-鉄スクラップ処理機を開発、鉄鋼業にも進出
     日本の鉄スクラップ処理機械製作やゴミ処理プラントの開発、鉄鋼会社を経営する波乱の人生を送った。手塚興産の創設者。プレス機のテスト中に右腕を失ったがボール紙を丸めた義手に「独腕龍・手塚国利」とサインしたエピソードの持ち主でもある。
    ▼63年版「人物論」によれば=1910年(明治43)山梨県に生まれた。32年(昭和7)墨田区にプレス工場を開設。42年(昭和17)帝都工業技術学校を創設。54年手塚高圧プレス製作所、58年手塚興産を設立。59年戦時賠償の現物として送ったプレス機が縁で手塚は国賓待遇でフィリピンに招かれ、当時の岸首相の親書を携えフィリピン大統領の歓待を受けた。「戦後当時の岸首相に唯一の起業家として随行渡米。フィリピンに飛んでガルシャ大統領と単独会見して渋滞している日比の貿易促進に一役買う」「国士的な気概による」。「亀戸、葛西、砂町、北海道の各工場、技術者40名を擁し、自ら飛行機で東奔西走する」「超人に近い」男である。
    ▼「敗軍の将、兵を語る」によれば=1922年(大正11)小学校を中退。郷里でオモチャ屋に奉公し次々とアイデア商品を作り出した。主人は大事にしてくれたが先輩、同輩のそねみから2年後東京に出て木炭の行商を始めた。寒い冬、職人が冷たい手で炭団(たどん)を作っている姿を見て機械作業の「棒炭」を作った。これが本格的な発明業のきっかけとなった。
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    ▼各種の鉄スクラップ処理機を開発=鉄スクラップ用に開発したのが、ダライ粉を高圧で圧縮減容する「弾丸プレス機」。従来プレス機では継続的なプレスができなかったが、新製品は数珠つなぎにプレスできる」(日刊市况通信社。60年1月特集号)。同年10月「東洋一」の2㌧締めプレス機を八幡製鉄に納入。61年「世界最大」の3㌧締めプレスを開発しドイツのリンデマンに競り勝って八幡製鉄、川崎製鉄、住友金属に相次ぎ納入し「世界一のスクラッププレス」を誇った(63年・日刊市况通信社正月号42p)。自動車処理の「カーベキュプラント」や電炉装入用の「電炉梱包プレス」、「多段式ギロチンシャー」を開発した(当時既に門型切断シャーを「ギロチン」と呼んでいたが、手塚はこれを商品名に組み込んだ)。さらに膨大な開発費用を投じて超高圧で都市ゴミを圧縮しコンクリートやアスファルトで固める「ゴミ処理プラント」の圧縮・梱包処理技術で世界特許を取得した(70年第1号機受注)。このゴミ処理プラントが厚生省の補助事業、起債対象となった71年以降は地方自治体を中心に急速に普及した(75年度3月期は営業利益11.5億円)。
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    ▼電炉も経営=67年に日本鋳鋼を吸収合併して新日本鋳鋼(手塚興産)を設立。10㌧電炉を持つ鉄鋼製造のメーカー入りを果たした。しかし76年度にはいると地方財政の悪化から受注が途絶え、経営危機が表面化。76年10月手塚興産は会社更生法の適用を申請し倒産した。
     日本経済新聞社78年発行の「敗軍の将、兵を語る」は、倒産後の手塚の動静を伝えている(発明家社長の栄光と挫折)。手塚興産は76年の会社更生法を申請後、その技術力が買われて、鉄スクラップ処理機械製造に特化したが、02年4月末「約2年分の受注」を抱えたまま再び行き詰まった(同年7月森田ポンプサービスセンターが同商権を継承した)。

  • 寺村 公博(てらむら きみひろ)-「古がねや久べえさん」を継ぐ老舗(株式会社古勝)
    和歌山県有田郡 ホームページはこちら
    和歌山県有田郡湯浅町の株式会社古勝は、享保十四年(1729)、古金屋久兵衛が現本社地で古銅鉄・古道具の商いを始め、明治4年(1872)古金屋勝蔵が屋号の「古勝」 を名乗った二百年企業である。
    江戸・明治期の資料を収蔵していた同社の屋敷・倉庫、作業場は戦中の1943年の火災から全て失われた。今に残るのは「古かねや」の名を刻んだ菩提寺の墓石だけだ(当主談)という(鉄スクラップ全史とビジネス40p)。
    ▼代表者(寺村公博社長)メッセージ=私たち株式会社古勝は資源のリサイクル・廃棄物の収集運搬・中間処理を生業とし、地域の一員としてこの課題に取り組んでいます。 廃棄物処理や古物を扱ってきた経験を活かし、廃棄物処理のプロフェッショナルとして、リサイクルを第一に考える企業としての会社作りに精進して参ります。信頼頂ける「まっとうな商売」、周辺環境の美化、社会貢献活動等、お取引先の皆様 及び地域の皆様に愛される会社作りを進めて参ります(同社㏋)。

  • 鶇巣 重春(とうのす)―「鉄屑界」初期の寄稿家・論客のひとり
    東京都出身。大正6年2月生まれ、昭和9年鉄くず業見習いのため名古屋大和屋金属に入社。13年帰京後、家業に従事。昭和16年企業整備により東京金属回収団および関東金属株式会社を経て金属回収統制会社に就業。22年金丸産業専務に就任。(鉄屑界・第1巻7号)。▼「鉄屑界」初期の寄稿家・論客のひとり。

  • 德島 佐太郎(とくしま さたろう)*詳説-戦前、戦後の業界トップ、破格の活動家として
     戦前・戦中・戦後を通じて鉄スクラップ業界を代表する実力、リーダー業者。戦前は「人工結束」などの簡易プレスの開発と釜石送りで知られた。戦後は鉄屑懇話会、日本鉄屑連盟の初代会長。さらにカルテル認可後の鉄屑問屋協会、鉄屑協議会でも実力会長として業界を代表した。
     德島佐太郎は、実は二人いる。
    ▼初代德島佐太郎=初代は福井県坂井郡鶉村の人で、料理旅館「德島亭」を営む德島家の長男として1874年(明治7)に生まれた(1954年7月没。享年80)。数え年37歳の1911年(明治44)、弟に家督を譲って上京し、竪川沿いの本所区徳右衛門町で銅鉄業を開業した。
     佐太郎がなぜ故郷も家督も捨てて上京し、銅鉄業をどのようにはじめたのか、その詳細は不明だが、当時の本所・竪川はそのような者の拠り所だった。14年に勃発した第一次世界大戦が、本所・竪川周辺に群れとなって集まった銅鉄業者に空前の金ヘンブームをもたらした。佐太郎も時流に乗って懸命に銅鉄(当時は鉄屑との使用例はない)商売を広げたと思われる。社史によれば、大正の末ごろ、知人と合名会社を興している。
     京浜電車でたまたま乗り合わせた男との世間話がきっかけだった。男は知合いが釜石で鉄を溶かしていると言い、佐太郎は自分はその材料を集めていると言った。なら一緒に商売をやろう。男の名は「三友(みとも)、佐太郎は德島」。そこで二人で「三徳合名会社」を作った。
     31年頃、三友が亡くなったことから合名会社を解消し、佐太郎は合資会社德島佐太郎商店を設立した。こうして德島佐太郎商店と現在に続く釜石製鉄所との取引が始まった。
     これに先だって佐太郎は26年、弟佐吉の次男偉次郎を養子に迎え、後継者に据えた。偉次郎はその後の36年、二代目佐太郎を襲名して家督を相続。初代佐太郎は佐平に改名した。
    ▼二代目佐太郎=二代目佐太郎となる偉次郎は、1906年(明治39)福井県坂井郡鶉村に生まれた(1986年8月没。享年80)。23年東京の中央商業学校を卒業。26年佐太郎の養子となり家業を継承し軍隊から帰ってきた28年スソ物屑を圧縮する簡易な「鉄屑結束機=人工結束法」を開発。さらに34年、醤油の豆絞り機をヒントに「徳島式水圧プレス機」を考案した。
     このプレス機が、使い物にならないとして廃棄されていた亜鉛鉄板や旋盤屑に使用の道を開いた(この頃、岡田菊治郎もプレス機を開発している)。
    ▼プレス機を開発、商売の主軸に=「当時、ブリキ屑、自転車屑は製鋼原料とはならなかった。(関東の)日本鋼管はプレス屑を使っていなかったから、鋼管の問屋からプレスした屑を引き取り、ダライ粉や鋼屑と交換した。また34年の函館大火の後、鉄屑業者にプレス機10台を貸し付けて焼け跡の鉄屑を集め、輪西製鉄所に納入した(産業振興60年史。社員談)」。
     鉄屑の納入先は主に東北の釜石製鉄所である。二代佐太郎は、関東各地で集めたプレス屑を一手に日鉄・釜石に送り込んだ。竪川筋の徳右衛門町本店で33年頃。モッコでの荷捌きが普通だった当時、電動ホイストクレーンと台貫、鉄屑結束機を導入。またこの頃、源森橋に分店を開いた。34年には深川区高橋に、35年は深川区古石場、さらに大阪市西区、名古屋、塩釜に分店を開設。それぞれにプレス機を設置した。この営業拡大の実績を踏まえ36年、偉次郎は二代目佐太郎を襲名し(31歳)37年には株式会社德島商店(本社・深川区高橋)に改組し、社長に就任した。
    ▼内外に営業活動を求める=德島は、国内扱いだけで無く、上海事変(32年)に伴って発生した鉄屑を日本に持ち込むことを考えた。德島商店創設の翌年(38年)1月上海に赴き、現地法人「德島組」を設立。クリーク(運河)に面した上海揚柳浦に鉄屑処理加工場を建設し、日本国内に送った。
     この時、德島が主力とする民営釜石は鉄鋼合同から日本製鉄に生まれ変わっていた(34年)。その日本製鉄・八幡製鉄に向け上海から2万トンを供給したとの記録がある。
    ▼関東・四大業者の一角として=戦前、德島商店はすでに東京の四大業者の一角を占めていた。日中戦争(37年7月)後、準戦時体制が高まるなか、国は鉄屑統制会社の設立を急いだ。この時、德島も大手業者の一人として岡田菊治郎や鈴木徳五郎と並んで統制会社設立準備委員会に加わり、鉄屑統制株式会社の発足(38年10月)にあたっては取締役に名を連ね、指定商に指定された。
     ただ德島は、統制下の国内鉄屑商売にはさほど乗り気ではなかったようだ。統制会社発足直後の指定商(39年4月)には指定されたが、41年10月の再指定では、その名が見えない。
     同じ関東有力のうち、鈴木徳五郎は41年に指定商に再指定され、43年には関東金属回収会社の社長に就任したが、鉄屑業の旗頭だった岡田菊治郎は統制を嫌って、店を閉めた。德島は岡田ほどではないが、鉄屑商いは統制の及ばない上海だけに留め、国内では別方面に手を伸ばした。42年日本鐵興㈱に社名を変更し、43年1月精密機械部品及び鉱業用機械工具の製作事業に取り組んでいる。また43年には北海道で花岡鉱山を開発し、鉄鉱石を日鉄・輪西に納入している。その関係もあって44年6月には資本金三百万円で日本鐵鑛冶金㈱に社名変更した。44年11月には海軍監督工場の指定を受け、航空機部品等の兵器部品の製作を行うなど、鉄屑業の枠を飛び出した。
     機械製作工場は東京大空襲で焼失し、北海道の鉱山事業も戦後の鉄鋼事情から閉鎖した。
    ***
    ▼47年、社名を産業振興に変更=德島は、元軍需省の高級官僚だった小澤の働きもあって、大蔵省から補助金と日本興業銀行の融資(復金資金)を受け46年11月、年産3600㌧の北海道最大の電気製塩工場の建造に着手。47年2月稼働を開始した。「製塩事業を行うにあたり、大蔵省及び日本興業銀行から新会社設立の要望」を受け48年5月、社名を「日本鐵鑛冶金」から戦後の国策にふさわしい「産業振興」に改めた。社長は德島佐太郎、専務は小澤肇(元軍需省軍需官)、常務には前鉄鋼統制会北海道支部長、監査には日本石炭商組合連合会副会長らを配する重厚な布陣だった。ただ稼働1年後、GHQ(連合国軍総司令部)が、食料緊急増産のため電力供給を硫安・肥料製造に転換したため電気製塩は休止、輸入塩の増加から採算も悪化したため51年6月、製造を停止した。
    ▼48年 鉄屑業に復帰する 最大・最強の直納業者=日本占領直後のGHQは、全設備撤去に等しい懲罰的賠償を鉄鋼に求めた。徳島が鉄鋼に将来はない、と見たのはこのためだが、しかし東西冷戦の激化から占領政策が「転換」された。48年5月、戦時賠償も解除に向け動き始めた。国は鉄鋼増産計画をたて、鉄屑集荷が再び課題となった。このとき日鉄とつながりの深かった徳島とその会社(産業振興)が商工省および日本製鉄から鉄屑集荷を要請された。
     德島は、鉄屑業に復帰することとした。まず日鉄・釜石への駐在員常駐からはじめた。
     ただこの要請に応えるには、戦前から各地に散在する德島商店の設備の復旧や全面更新が急務となった。それには必要な資金が足りない。そこで製塩事業に続いて、再び日本興業銀行や復興金融金庫に資金融資を依頼し、交渉の末、なんとか復金資金を得て、鉄屑ヤードの近代化・再整備に着手した。48年から53年までに、北海道、釜石、小名浜、東京(大富工場)、横浜、名古屋、大阪、広畑、八幡、大牟田など、日本製鉄向けの鉄屑出荷をカバーする全国ヤード網を建設した。
     大方のヤードは天井クレーンや鉄屑プレス機、シャーリング、自動車台貫や積込用自動車桟橋まで備えた。機能、能力の面でも当時の鉄屑業界では例をみない最新のものばかりだった。
     50年3月、日鉄は八幡と富士に分離した。納入業者も八幡と富士のいずれかを選ぶこととなり、産業振興は歴史的な経緯から富士製鉄を選び、53年八幡、大牟田ヤードを閉鎖した。
     艦船の解体や沈船の引き上げ作業にも乗り出した。49年飯野サルベージと提携して戦艦「伊勢」や「日向」を解体して富士製鉄に納入。51年奄美大島では、捕鯨母船「極洋丸」など51年から62年までの間に900万総㌧超の船舶31隻、16万㌧強を解体した。
    ▼業界団体の顔として・関東鉄屑懇話会創設会長(52年10月)=戦後の鉄屑業者は新たな組織結成に動いた。東京では、岡憲市など戦中の統制会社幹部らが中心となって鉄屑懇話会を結成(47年6月)したが、講和条約発効後の52年7月、役割は終わったとして解散した。しかし独立日本にふさわしい新組織は必要だとして再結成発起人に名を連ねたのが、岡田菊治郎、鈴木徳五郎、德島佐太郎らであり、設立起草委員長となったのが伊藤信司だった。第二次鉄屑懇話会は52年10月発足した。創設会長は德島佐太郎(当時47歳)、副会長が伊藤信司(当時42歳)。以後、この二人が、戦後の鉄屑業界を牽引していくことになる。德島は戦中の鉄屑統制に一歩距離を置いたとはいえ、戦後では高炉(富士製鉄)直納業者の最大手。一方の伊藤は中堅鉄屑業者として鉄屑統制手法に独自の論陣を張った戦前・戦中の少壮政治家。二人は重なるところと、全く異質なところがあった。
     日本占領の終わりを告げる講和条約発効(52年)と共に、国(通産省)と鉄鋼会社は国家再建を旗印に、鉄屑購入の「共同行為」に動き出した。この鉄鋼業界の活動を追うように、鉄屑懇話会が結成され、伊藤信司編集長のもと機関誌(鉄屑界)を創刊(53年1月)した。
     德島はその創刊号巻頭言で、「スクラップについては、互いに無謀な買漁り競争をして価格を吊り上げることが、自分で自分の首を絞める愚策であることを悟り、ようやく大同団結の下地ができ、共同購買方式の検討が真剣に行われているようであるが、我国鉄鋼業界のためには誠によろこばしい」とほとんど手放しで容認した。
    ***
     53年3月1日、(德島が直納する)富士製鉄は当時二万円だった購入価格を一挙四千円値下げし、20数社が追随した。この鉄鋼各社の一斉値下げ(「共同行為」)に危機感を強めた懇話会を中心とする鉄屑業者は、急ぎ集会を開いた(3・13緊急業者集会)。議場は独禁法改正の審議の中、改正法を待たずに値下げ(の共同行為)を実施するのは違法ではないか、との指摘から始まった。
     德島は、鉄鋼側の事情を窺い知る者として、鉄鋼側は「原料高の製品安」是正のために、一万五千円をめどに値下げを申し合わせた。法的な問題はともかく、採算が引き合わないから下げる、そう動いたのだろうと説明。鉄鋼会社が目指すという「共同購入会社」へと質疑が集中した。
     説明に立った德島は、共同購入会社案では「直納業者はよいけれど、代納業者や集荷業者にとっては由々しき問題である(との指摘をうけた)。私も同感で対応策としてメーカーが共同購入会社を作る前に、業者自身が(共同)販売会社を創るのが望ましい」との対案を示した。
     ただ德島提案に対しては「共同購入に対し共同販売を採っていくことは、結局メーカーにとってかえって良い材料を与えることになりはせぬか」と疑問視する参加者の発言もあり、德島の共同販売案は集会の結論となることはなかった(鉄屑界、53年4月号)。
    ▼鉄屑懇話会・公選会長として(53年10月)=「会議を開催する度に会長たる私(德島)は、メーカーのカルテル行為はやむを得ざる処置である、業者としては販売会社を作りカルテルと協調すべきである。これが当時の私の意見であった」(鉄屑カルテル十年史・回顧)。
     その德島が公選制となった53年10月懇話会長に選出された。ただカルテル問題が先鋭化し、地方・末端業者の危機感が高まるなか、懇話会の役員人事も刷新され、対決色を全面に出した「大会宣言」がうち出された。「鉄屑業者の利害を明確に反映し、その総意を真に代弁する」(大会宣言)とは德島的協調路線の事実上の否定である。この時からカルテル対策の指導権は、広報委員長兼「鉄屑界」編集長の伊藤信司の手に移った。
    ***
     鉄鋼20社は果たして53年12月、鉄屑カルテルの申請に向け動き出した。この時、伊藤は懇話会の広報委員長からカルテル対応の価格委員長に転じ、さらに指揮権を鮮明にした(伊藤信司の項参照)。伊藤は、檄を八方に飛ばして12月11日「全国鉄屑業代表者大会」を開催し、反カルテルの旗の下「日本鉄屑連盟」を立ち上げた。会長は德島佐太郎(関東懇話会)、副会長は全国主要地域(関東、中部、関西)の業者団体の長で固めた。鉄屑連盟は、ただちにカルテル反対を決議し「カルテル対策委員会」の設置とその委員長に伊藤信司をあてた。
    ▼日本鉄屑連盟会長として(53年12月)=德島は富士製鉄に鉄屑を直納する日本最大の実力業者だった。そのこともあってかカルテル申請後の鉄鋼側の説明会が富士製鉄で行われた(54年1月7日)。席上、鉄鋼側は需給双方が話し合う「鉄屑需給協議会」なるものを提案してきた。鉄屑連盟が採択した活動方針は「カルテル反対か、業界が了承しうる適正価格の維持か」だった。「鉄屑需給協議会」の設置はそのどちらでもない。両業界の妥協点を探る第三の選択だった。鉄屑連盟の内外からは烈しい批判が渦巻いたが、大局に立てばこの案に乗るしかないと、德島と伊藤らは決断した。協議会案を参考に伊藤らは、メーカーと業者だけでなく第三者(官庁・学者・発生業者)を加えた「需給研究会(需研)」を作り、そこで適正な価格を協議するとの折衷案を創出した。
    ***
     鉄鋼側は53年12月に鉄屑カルテルを申請したが、鉄屑連盟の反対運動や鉄鋼内部の足並みの乱れから申請保留(54年1月25日)、その撤回(2月9日)と混迷を続けた。「需研」構想はそのなかで伊藤提案として登場し、稲山の容認を得た。乱れるかに見えた業者側の足並みは「需研」活用の推進論に一転した。その動きを見た鉄鋼側が今度は「需研」容認に慎重となった。サボタージュだ。資料提出を遅らせ、公取の承認はズルズルと4月、5月にずれ込んだ。
     この間、鉄鋼及び業者の論議は「需研」に集中し、「伊藤の政治力があまりに強すぎた」との批判が漏れ出した。そんななか6月30日、鉄鋼側は突如、カルテル申請を取り下げた。
    ▼德島と伊藤の確執=鉄鋼側のカルテル「取り下げ」が、德島と伊藤の立場の違いを鮮明に浮かび上がらせた。鉄屑連盟は創設丸1年となる54年12月11日総会を開き、役員を改選(公選及び会長推薦)した。この時、德島が会長として固めた体制は、副会長・大辻(名古屋)、近藤(関西)、平石(関東)、成島(同)。広報委員長・森田喜之助、業務委員長・松本祐夫(会長指名)。伊藤は平理事に下がった。この理事就任も会長推薦ではなく東京ブロックからの公選だった。
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     鉄屑カルテルの申請を取下げた鉄鋼側は、55年に入って再び共同行為を模索し始めた。公取も55年3月3日「認可申請が行われるならば、当委員会も格別の配慮をもって処理する」との委員長声明を公表したことから3月30日、鉄鋼はカルテルを公取に申請した。鉄鋼側はカルテル申請に当って「日本鉄屑連盟の意見を参酌(さんしゃく)の上」価格を決定すると協定書に明示した。これは伊藤が提唱した「需研」と価格決定方式そのものだった。鉄屑連盟は4月1日、業者大会を開きカルテル申請に合意すると共に需研メンバーの再選考を行った。関東選出の需研委員4人は懇話会の德島会長、成島副会長、松本業務委員長、平理事の伊藤信司。伊藤が再登板したのだ。
    ▼徳島、連盟会長を引責辞任(55年4月)=德島と伊藤の対立が、鉄屑カルテル第1回価格(需研)協議の場であからさまになった。第1回価格折衝委員会は、鉄鋼、業者双方が膠着状態に陥った。この交渉中の席で、德島会長はメーカー提案の一万八千円を、7月まで3ヶ月据え置きを条件に呑もうとのメモ紙を業者委員に回した。これを受けた松本委員が業務対策委で内定していた最低一万八千五百円に書き直し、德島に返したところ、德島がメモをそのまま八幡の購買部長に渡した。メモを一見した同部長はメーカー委員に回覧。伊藤委員が一万九千円説を弁じている最中に係わらず「では昼食後、改めて」と全員退室した。直後、德島は伊藤を先頭とする(地方)委員などから「なぜ勝手な妥結案を出したのか」とつるし上げられ、釈明したが大半は納得せず「今後の価格決定は德島に一任する」と、事実上の委員協議の放棄を宣言したため、德島は会長辞任を表明した。
     この德島の辞任が、その後に続く業者組織の分裂と混迷のすべての発端となった。
     德島の辞任に続いて成島、平石両副会長も同調したことから、鉄屑連盟関東地区は4月25日、鋼材クラブで緊急理事会を開き、関東地区選出役員の総辞職を決議。鉄屑連盟の中軸、幹部役員全員がカルテル始動と同時にいきなり、その持ち場から消える異常事態が発生した。
     一方、高炉系直納業者を中心とする巴会は、中間系業者が多数を占める鉄屑連盟とは一線を画していたが、德島の辞任に続く関東選出役員の総辞職に乗じて鉄屑連盟に集団加盟した。5月10日行われた鉄屑連盟・関東の代議員総会では、岡憲市や渡邊哲夫などの巴会員を送り込み、岡は鉄屑連盟の会長に推された。副会長3人のうち2人が巴会所属、懇話会は平石慶三だけで連盟指導権は完全に直納業者側に移った。巴会の鉄屑連盟への集団加盟や役員選出に力を尽くしたのが、巴会を「獅子身中の虫」と見ていた伊藤だった(詳細は伊藤信司の項を参照)。
    ▼徳島、連盟会長を再任(55年10月~56年9月)=この時、鉄鋼側も業者側も、カルテル発足直後の準備不足のなか、揃って奔放な市況変化に翻弄されていた。鉄鋼側は、アウトサイダー会社の高買い横行と輸入屑の値上がりから制御不能に陥りカルテル協定価格を放棄して、自由買付に踏み切りカルテルは崩壊した(10月7日)。一方業者側でも、一旦権力を奪取した巴会系鉄屑連盟正副会長が9月価格協議の責めを負って辞任を表明した(9月16日)。
     鉄屑連盟は改めて役員と需研委員の改選を行い(10月11日)、懇話会長の德島を再選出した。德島は4月の辞任後、半年足らずで連盟会長に復帰した。德島と反目し巴会の指導権奪取に奔走した伊藤は、役員どころか需研委員にも選ばれていない。この役員人事を見た巴会系業者は、鉄屑連盟から集団脱退した(10月17日)。
     鉄鋼側は、この直納系業者の集団脱退を鉄屑連盟の分裂と見て、鉄屑連盟に諮ることなく単独で12月カルテル価格を決定した(11月末)。業者団体が分裂すれば鉄鋼側に乗じられるだけだ。分裂は業界全体の不利となる。巴会も鉄屑連盟も再合同に動いた(55年12月)。
    ***
     德島は中間系業者が多数を占める鉄屑連盟会長として、鉄鋼側の「分断統治」を避けるため関東巴会や関西八日会など直納系団体と合同に向け、協議を重ねた(55年12月~56年9月)。ただ德島は富士製鉄最大の直納業者でもあった。これが直納業者団体と鉄屑連盟の合同協議にあたって、鉄屑連盟内部の大勢を占める中間業者たちの德島への疑念を招くことになった。
     国と鉄鋼は56年9月、新カルテル体制を公取に申請した。鉄鋼は、特殊鋼や関西電炉などのアウトサイダーをカルテル内部に取り込み(3本建てカルテル結成)、外貨割当制を利用して米国屑の一元買付・長期契約(輸入屑カルテル強化)に道筋をつけた。さらに公取の了解のもと、「日本鉄屑連盟と意見参酌」の文言を削除し「鉄屑業界の意見を聞き」決定するとの文言に書き改めた。鉄屑連盟がカルテル申請の明文から消えるのであれば、直納業者団体の巴会が、中間業者が多数を占める鉄屑連盟と合流する理由も消える。大合同案は流れ、鉄屑連盟の指導部は中間業者集団に替わり、予め辞意を表明していた德島は鉄屑連盟の会長の座から降りた(56年9月)。
    ▼東京金属防犯連合会・会長(57年)=戦前・戦中まで鉄屑業を規制していた古物営業法は、戦後の49年5月に大改正され、鉄屑など金属類は「廃品であって古物ではない」として取締り対象からはずれた。鉄屑商売は、誰でも許可なく自由にできる商売となった。朝鮮戦争さ中の50年12月から金属屑の盗犯防止を名目に佐世保市や山口県や福岡県など一部自治体が、古物営業法に準拠した金属屑業条例を制定した。条例制定の動きは52年、一旦終わったかに見えたが、鉄屑カルテルが認可され、初期の混乱にもまれた56年10月以降、今度は全国規模に広がり首都・東京でも条例制定が検討された。ただこの時、東京の金属屑回収と治安維持を担当する警視庁は、資源回収・3団体(鉄・非鉄・資源)に条例制定を見送る代わりに自主組合の結成を呼びかけた。警視庁の要請に応えて「東京金属防犯連合会」が設立され、会長には德島佐太郎・鉄屑懇話会長が就任した。
     創設総会は57年6月、神田如水会館で国家公安委員長国務大臣大久保留次郎以下多数が臨席し、盛大に挙行された(金防連50年史及び日本鉄スクラップ業者現代史)。
    ▼日本鉄屑問屋協会 日本鉄屑協議会では(58年)=鉄屑カルテル体制を整えた通産省及び鉄鋼業界は、その後、鉄鋼製品の不況が深まるなか鉄鋼価格の安定を求めて、行政指導として事実上の共同行為である「鉄鋼公開販売(公販)」制度を作り上げた(58年6月)。鉄鋼製品の「共同行為」である鉄鋼製品カルテルを円滑に回すには、原料供給サイド(鉄屑カルテル)の体制も整えなければならない。こうして鉄屑カルテルの新体制(58年8月、全国5カルテルに)が動き始めた。ただ鉄屑カルテルを円滑に回すにはカルテル対応の業者組織もそれ相応に作り換える必要がある。
     この要請に応えたのが全国に散在する直納業者たちであり、主導的な役割を果たしたのが、鉄屑連盟に対抗した巴会の松島政太郞や直前まで鉄屑連盟会長だった石川豊吉だった。松島や石川は、八幡、富士、鋼管など大手高炉3部長と協議を重ね新団体(「日本鉄屑問屋協会」)の設立方針を固めた。この時、德島は「日本鉄屑問屋協会」設立世話人として選ばれた有力業者10人中の一人として、自身の直納である富士製鉄、また集荷エリアである東北・北海道地区を担当した。
    ***
    ▼日本鉄屑連盟とは決別(59年)=富士製鉄の直納業者である德島には、鉄鋼産業が担う国家的使命と鉄屑カルテル存続の経済的な背景、日本鉄屑連盟の立ち位置が、ハッキリと見えていたのだろう。そのこともあってか、德島は56年9月鉄屑連盟会長のイスから降りた。また事実上の鉄鋼製品カルテル(58年6月・不況公販)が動きだし、鉄屑5カルテル体制が固まり、鉄屑問屋協会が発足すると共に、創設会長の松島政太郎(八幡・直納)と並んで副会長に就任した(58年11月)。
     この前後、関東鉄屑懇話会長を兼ねた德島は、活動実体を失った鉄屑連盟の解体を求めている。提案は否決され、德島は関東鉄屑懇話会と共に鉄屑連盟から脱退した(59年8月)。
    ▼問屋協会創設総会エピソード=63年(昭和38)出版の「現代人物論」によれば、徳島は「剣道6段、体重24貫の怪物じみた巨漢が、羽織に袴を着け、太い黒玉の数珠を胸に掛け、桜のステッキを突きながらのっしのっしと富士製鉄を訪問したところ、德島のことをよく知らない若い新任の課長が、スクラップ屋とは恐ろしい人種だと震え上がったという」また「放胆は氏の持ち前で、鉄屑カルテルの協力機関として問屋協会が創設された祝賀の席で稲山、永野氏を始めメーカーの面々を前に『メーカーの御用団体だから協力できない・・・』と祝辞ならぬ不満をぶちまけ、会長の松島政太郞氏をびっくり仰天させた」と伝えられる。元日本鉄屑連盟会長らしい一面である。
    ▼日本鉄屑加工処理工業協会長として(65年)=高度成長から大量生産、大量廃棄の波は鉄屑にも広がった。大量廃棄は処理工程の機械化を呼び込んだ。処理機械を導入し、それなりの実力をつけてきた新旧混成の全国911社が65年11月、新たなヤード業者集団として「日本鉄屑加工処理工業協会」を設立した。戦前からのプレス機開発者であり、問協会長でもある德島が、ここでも会長に推された。前年来、問協は中小企業基本法にもとづく近代化助成法適用を受けるべく近代化促進委員会(64年7月)を立ち上げ、業種指定に努めてきた。鉄屑業の近代化・機械化は税制改正(プレス等耐用年数)とさらに業者団体の組織化をバネに以後、飛躍的に発展することとなる。
    ▼問屋協会、協議会長として(66年)=カルテル地区委員会は66年9月の第12回カルテルから、従来のカルテル5地区の内部事項だけでなく他地区の「共同行為の実施機関(地区委員会=カルテル)」と横断的に協議できることになった。德島は同年11月、協議会、問協会長名で地区連絡委への参加を求める要望書を提出した。そのなかで「鉄屑直納業者の実態は苛烈な買付納入競争に終始する(略)現状にあり、鉄屑カルテルの運営、問屋協会の存続に対し批判的な声も次々と叫ばれる事態となっております」と問屋協会が置かれた苦境を率直に説明すると共に、打開策として「地区連絡委員会、今後の運営に関し地区問屋協会代表も積極的に参加し、充分意見を申述べ双方がそれぞれの立場を尊重し、共存共栄の精神に則り鉄屑の安定対策」に協力したい、と地区連絡委への業者の直接参加を強く求めた。鉄屑カルテル登場以前の草創期、鉄鋼側の一方的な価格決定の対抗策として業者が対等な価格交渉の場を求めた「鉄屑需給研究会(需研)」の再生版である。
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    ▼日本鉄屑工業会の創設にあたって(75年)=德島は常に業界を代表した。関東鉄屑懇話会創設会長(52年10月)、日本鉄屑連盟初代会長(53年12月)と戦後の業界を牽引し、問協を創設して鉄鋼側との協調路線を敷いた松島政太郞会長(69年死去)の後を継いで鉄屑問屋協会長(64年6月)、鉄屑協議会会長(65年7月)をつとめ、ほぼカルテル全期間を通じて鉄鋼側と渡り合った。
     公取は74年10月9日、鉄屑カルテルの認可申請を却下し鉄屑カルテルは19年6ヶ月で終わった。この時、通産省は「ポスト・カルテル」対策として75年6月、鉄屑備蓄機関(社団法人日本鉄屑備蓄協会)を立ち上げた。これを動かすには市中鉄源の安定的な供給がいる。こうして通産省指導の下に鉄屑カルテル廃止と共に消えるはずだった鉄屑問屋協会と日本鉄屑加工処理工業協会を2本の柱に、通産省認可の社団法人日本鉄屑工業会が発足する運びとなった。
     では誰が、創設会長に就くのか。鉄屑問屋協会、鉄屑加工処理工業協会の会長は、いずれも德島(産業振興・会長)だったが、白羽の矢は同じ産業振興社長(70年就任)の小澤に立った。
     「伊藤さんが、德島さんではとても大将には戴けない。あの人が会長になったら滅茶苦茶になる」「德島さんのことを悪く言うわけではないですが、奇想天外な発言をする人でしたから」「そこで成島さんと伊藤さんが、小澤さんのところに行って、直接会長就任を頼んだ。德島さんならまとまらないが、小澤さんならまとまるから、会長になってくれと」。これは工業会創立30周年記念座談会で、関係者が語った、いきさつである(05年、日刊市况通信6月号)
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     德島と伊藤には確執と呼ぶべきものがあった。しかし工業会創設会長の人選に当たって、伊藤が見せたのは、長年の政治や行政折衝を通じて組織運営の大局を見ることができた、彼ならではの的確な人事整理だった。新しくできる組織は社団法人として官僚監督下に置かれ、役所との折衝に追われる。その場で求められるのは。場の空気と状況を的確に判断し、行動できる交渉術である。とすれば、德島ではない。今、必要な人間は、官僚的な対応がそつなくこなせる行政経験者でなければならない。伊藤は高度に政治的に判断し、かつ客観的な人選したと見ることができる。
    ▼德島 その人となり=德島は86年8月22日、満80歳で心不全のため死去した。その訃報を伝える鉄屑ニュース(64号。德島・工業会名誉会長死去)に伊藤信司は、以下の追悼文(要約)を寄せた。「想い出せば德島氏との出合いは50年前に遡る。戦時体制初期の統制会社設立の頃であった。氏の逞しい容姿を見たことに始まる。全く豪傑肌のものにこだわらない言行に魅入られた」
     「統制会社設立には、氏は望まれて取締役として陣容に加わったが、むしろ立場が許せば、野人として統制会社批判の道を歩みたかったことと私は推察する。戦後、全国各地に鉄屑懇話会が作られて昭和27年(52年)関東を中心にして(德島氏が)東日本地区の会長になられた。この時代に鉄屑カルテルがおぼろげながら台頭するのであるが、世はまさに高度成長への前触れであった」「日本鉄屑連盟が、こうした環境の中に全国の業者が打って一丸としてカルテル反対運動に立ち上がった。世の批判はどうあろうとも、当時の産業振興株式会社の代表者としてよくカルテル反対に立ち上がった。一代の硬骨漢、德島氏の面目躍如たるものがある。朝野の人々の大宴席で、氏が『俺は全国10万の鉄屑業者の代弁者だ』と堂々とブチまくったことは、今でも脳裏から去らない。これが氏の真の姿だと思えるのである」「まさに『鉄くず業界乱世の英雄』というも過言ではない」「その後の鉄屑団体は、興亡常なく、それなりの使命を持って移り変わったが、必ず会長として君臨した。昭和50年日本鉄屑工業会の創設準備委員長であったが、創設後は名誉会長として、小澤会長に会長職を譲られるまでまったく大変なことでした。ご苦労様と申し上げたい。合掌」
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     伊藤と德島は、生まれも德島が5年早いだけで、さほど違わない。伊藤と德島の間には、重なるものと異なるものあった。それが二人を結びつけ、時に確執を生んだ。しかし業界は、業界を代表する看板と知謀を必要とした。それを二人は知っていたし、その任を果たした。
     伊藤の追悼文はその思いを包むことなく率直に語った。德島も、またもって瞑すべしとしたろう。
     ▼德島佐太郎の死を受けて05年8月の閣議で、正六位・勲五等双光旭日章を追贈した。
    ▼編者感想=関東鉄屑懇話会、日本鉄屑連盟、日本鉄屑問屋協会、日本鉄屑工業会・・・。その時々の鉄屑業者を統合する組織・団体の創設と運営に、常に指導者として德島佐太郎や小澤肇が係わってきた。なぜなのだろうか。以下は筆者の余談である。德島は「鉄屑結束機」や「徳島式水圧プレス機」(34年)を考案し、釜石との取引を広げた。それが德島商店を関東有数の業者に押し立て、鉄屑統制会社の発足に当たって德島を設立準備委員、統制会社の取締役とした。
     ただ彼は戦時中の統制時代、精密機械部品などの製造に転じ、戦後の一時期は製塩事業に乗り出している。なにも鉄屑一筋の男ではない。別の世界も見た男だ。ここで編者が注目するのが、佐太郎の最大の鉄屑取引先は、終始一貫して釜石が主力だったことだ。釜石の前身は民営三井。その民営釜石が合併して日本製鉄・釜石(33年)となり、戦後分離して富士製鉄となった。
     同じ日鉄でも官営八幡とは肌合いがまったく違う。それが官営八幡育ちの稲山(ミスターカルテル)と、民間平炉・富士製鋼を更正させた永野(親分)の違いとなり、巴会を創設した松島と鉄屑懇話会に拠った德島の違いとも、重なった。德島にとって高炉直納業者であることは、反カルテル運動の障害とはならなかった。いや、鉄屑業界の大事を託され、業界の信頼に応えることは、男の矜持を守ることでもあったろう。德島は、伊藤が言うように一代の硬骨漢であった。
    とすれば、やはり野に置け・・・。伊藤はそう判断したのだろう。

  • 土門 五郎(どもん ごろう)-ELV処理で業者の全国組織化に尽くす(大晃商事)
    本社:秋田県潟上市 ホームページはこちら
     日本有数の自動車解体業者であり、鉄リサイクル工業会員も兼ねた。
     1945年山形県遊佐町出身(2017年9月没。享年73)。63年三光オート(東京入社)、68年日産プリンス秋田入社。1972年先代の豊作氏が起した家業を継ぎ、75年(有)土門商店を設立した。
    ▼天王工場開設=81年、工場を開設した(1300坪)。アルミ溶解も手掛けた。その取引先から鉄・非鉄の悲観的な将来予想を聞いた。それが自動車中古部品進出の転機を作った。
    ▼流通・協業化を求めて=中古部品を1社単独で回収・販売しても多様なニーズには応えられない。業として成り立つには業者間の相互融通しかない。その模索のなかで89年、システムオートパーツグループを立ち上げ、94年にはNGPグループに加盟、SPN代表として活動した。
    ▼大晃商事=03年、雄物川近く、県南の刈和野に自動車リサイクル法を先取りする最新鋭の自動車解体・部品取り工場(「アース・クリーン刈和野」・4500坪)を建設し、さらに07年9月、県央の八郎潟の南、潟上の昭和工業団地内に本社及び解体・2万点収納の部品、ストックヤードを開設した名実ともに東北を代表する企業である。
    ▼(株)SPN会長=中古自動車部品のアフターマーケットはインターネットとIT技術を駆使したソフト開発、在庫共有、共同販売の時代に入った。そのトップランナーの一つが(株)SPN。土門は08年4月から(株)SPNの会長、併せてスーパーライン東北社長を兼ねた。
    ▼大震災の後処理を指揮=厖大な被災車が発生した大震災では、日本ELVリサイクル機構・宮城県被災車輌処理対策本部長として東日本大震災直後の現場に入り、行政と現場を整理し円滑な回収に向け陣頭指揮した(11年11月特集・土門五郎処理対策本部長に聞く現地支援の実態」)。
    ▼BESTリサイクラーズ・アライアンス=(株)SPNは、(株)ビッグウェーブ、(株)エコラインと05年8月以来、戦略的提携を進めてきたが12年3グループ統一の「BESTリサイクラーズ・アライアンス」を立上げた。14年㈱JARA会長。16年3月名誉会長に就任した。

  • 外山 末次郎(とやま)-明治40年・堅川筋で開業(堅川筋での初見業者)
     愛知県幡豆郡一色村(昭和2年6月歿・60歳)。
    明治元年生。長兄常助の家業(紺屋)を手伝い、長じて渡米を目指して上京。舎弟浅岡八松を深川区木場町に訪ね、相談の結果、銅鉄業を開業。本所緑町に居住。時に明治40年。後、店舗・倉庫を竪川河岸に作った。(鉄屑界・第1巻7号)

な行

  • 長岡 銀三(ながおか)-栃木国民新聞社を経て銅鉄商を営業。非指定商側の論客
    栃木県宇都宮市南新町。(昭和25年6月歿・55歳)。栃木県宇都宮高小(漢文二年)卒。栃木国民新聞社を経て、東京時事新報の閉鎖まで勤務。昭和15年銅鉄商を営業。昭和17年、金属回収支部長。▼逸話=戦時中、鉄屑統制会社に指定商制度が生まれた頃、非指定商との対立に際し、長岡は非指定商側の論客。本所公会堂に一千余の業者を集めた(鉄屑界・第1巻7号)。

  • 中島 賢一、彰良(なかじま)-5代・百年超の企業「天覧」環境企業を作る(リーテム)
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    茨城県水戸に起源を持つ百年企業。97年中島商店から「Resources(様々な供給源)・technology(技術)&management(経営)」の頭文字をとるReITem(リーテム)に社名を改めた。また東京スーパーエコタウンに東京工場を建設し、天皇行幸の栄に浴した。
    ▼中島 新次郎(初代)=1909年創業(明治42)~38年(退任)。茨城県常陸太田市天下野の出身。09年中島商店を興し、「時代の流れとともに金属を扱う仕事に移行」した。「貴族院議員にも推挙されたが辞退し、50代の若さで亡く」なった。
    ▼中島 新次郎(二代目)=38年就任(昭和13)~71年(退任)。初代の長男で二代目を襲名した。「当時、茨城県内の所得番付で5本の指に入って」いた。52年(昭和27)東京支店を神田末広町に開設(現在の本社)」した。茨城県資源回収事業協同組合を創設。66年(昭和41)第一回全国中小企業団体総連合表彰大会で「名誉副総裁賞」を受賞した。その後、「数か所あった工場を統合し70年(昭和45)約1万坪の水戸工場(中島商店・スクラップセンター)を建設」した。
    ▼中島 峻(三代目)=71年就任(昭和46)~90年(退任)。大学卒業後、入社。峻は水戸工場が完成しても、車の処理は控えた。「自動車のリサイクルは自社で処理しきれないゴミがでてしまう」。その考えから「非鉄金属の抽出を中心に処理」を行った(編者注記参照)。ただ「フランス光の芸術会の会長」をつとめるなど「仕事より勉強が好きな学者タイプで90年引退した」。
    ▼中島 賢一(四代目)=90年(平成2)~07年(退任)。97年(平成9)、社名を「株式会社リーテム」に変更した。「リソース・テクノロジー&マネージメント」の頭文字をとった。05年(平成17)大田区城南島(東京スーパーエコタウン)に東京工場を建設し、大型シュレッダーを導入。10年(平成22)東京都から技術振興功労賞を受賞した。賢一は大学を卒業。入社する傍ら早稲田や慶応の大学講師や経産省の産構審委員も長年担い家電リサイクル法、パソコンリサイクル法、小型家電リサイクル法の作成にもかかわった。次第に「公的な仕事が忙しくなり、ビジネスに時間を割くことができない」として07年辞任した。
    ▼中島 彰良(五代目)=07年(平成19)。5人の男兄弟の3男。大学を卒業後、「仕事の関係で世界中を回り、米国、欧州が多く、イタリアのミラノに1年半住み、数年かけて立ち上げたホテルを完成させ、日本に戻って兄弟(次兄は同社専務、4男は日本のイタリア料理の草分けシェフ。5男は水戸で漢方薬局経営)と社業を行った」。長兄のあとの後継社長を選ぶ際、兄弟の話し合いで、国際感覚、仕組み作りなどの観点から彰良が5代目に選抜された。その就任後の07年7月、東京工場に天皇陛下が行幸した。その前の98年(平成10)「広域リサイクルマネージメントサービス(J・RIC)を組織化。この発展形式として中国・天津で環境マネージメントが行われ、評価を受けた。 *以上はすべて「百年企業のれん三代記・神田学会第42回(五代目中島 彰良)」の引用による。
    ****
    ▼編者注記=93年のシュレッダー導入が転機となった。裁断破砕機であるシュレッダー機はある意味ダスト発生機である。このダスト(非選別未回収資源)をどう再資源化するか。その挑戦が同年、当時処理困難とされた基盤を含む廃OA機器などを処理してもダストが発生しない高性能特殊破砕機システムを作った。98年、全国のリサイクル業者などと広域リサイクルネットワーク「J・RIC」を立ち上げた。01年環境ISOの認証取得とともに環境報告書の発行を開始(06年CSR報告書に移行)。これらの総合評価から02年東京都の資源リサイクル「東京スーパーエコタウン事業」に選定され、05年東京工場を竣工させた(同工場はシカゴ・アセナエム博物館の「国際建築物賞」を受賞した)。08年には天皇陛下が東京工場を行幸、10年にも鳩山首相が視察。リサイクル企業・工場の最先端モデル工場としての存在感を示した。08年北京市に早稲田環境研究所と利早(北京)環境科技諮詢有限公司を設立。10年江蘇省太倉市にリーテム中国工場を竣工。11年米国にRe-Tem Global Eco Management Inc.を設立した。百年の暖簾が豊かな発想を持つ経営者を育てた。

  • 長田 己之吉(ながた)-明治38年・墨田区菊川町2丁目で古物商を開業
    山梨県出身。(昭和9年7月歿・55歳)
    明治38年、山梨県から上京。墨田区菊川町2丁目で古物商を開業。大正2年、銅鉄商長田商店を創業。長男・治男が長田金属興業を継承。▼逸話=困窮者への思いやりが篤かった。あるときは自家の衣類を質屋に持ち込み現金を作って、他人の難儀を救い、町内の祭礼を前に祭り半纏のない子にそれらを買い与えた(鉄屑界・第1巻7号)。

  • 中田 彪(なかだ あきら)-家電リサイクルネットを作り、産廃法違反で挫折(中田屋)
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     歴史は勝者のものだから統合された会社関係者である中田彪および大竹武司ら中田屋関係者に関するまとまった資料は少ない。そこで断片を集め整理したのが以下である。
    ▼主な関連記事(日刊市况通信)=62年新春「ヤード巡り・プレス生産向上――中田屋」。
    ▼74年5月 中田屋商店5営業所体制へ。▼85年夏季「鉄屑業界初の中国視察」大竹武司(中田屋社長)関東支部長に聞く。
    ▼92年夏季「収益構造の改善を」中田彪(中田屋社長)関東支部長に聞く。
    ▼2001年10月 家電リサイクルー中田屋と関連会社の取り組み。
    ▼日刊市况通信版・リサイクル要覧(98年2月版)によれば 
    ▼富士工場=開設1951年1月(最初期)。▼戸田工場=開設59年5月。▼船越工場=開設66年11月。▼加須工場=開設69年7月。
    ▼千葉工場=開設73年。▼相模原工場=開設76年12月。▼伊勢崎工場=開設81年4月。▼袖ケ浦シッピングヤード=開設88年8月。
    ▼富士非鉄工場=開設88年10月。▼那須中田屋=開設89年10月。▼資源リサイクルセンター=開設91年11月。▼富士ナゲット工場=開設96年7月。
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    エヌ・シー・エス=83年設立(コンピュータおよびソフト関連)。▼トニーメタル=設立85年(非鉄スクラップの加工および販売)。*サニーメタル=設立86年(大阪)。*フェニックスメタル=設立87年(千葉県市原)。*日ロ合弁企業ボストークメタル=設立90年
    *仙台フェニックスメタル=設立90年。*日ロ合弁企業ミールメタル=設立91年。
    *エコートランスポート=設立95年(01年マニフェスト違反・後出参照)。*日独合弁企業 日本レートマン・リサイクリング=設立96年。*日本環境鉄道輸送
    中田屋沿革(2020年同社㏋)
    1951年 1月東京都荒川区に製鋼原料、製紙原料の販売を目的として設立。
    1974年 7月千代田区内神田に本社事務所移転
    1980年 5月中田屋株式会社に商号変更
    1983年 4月コンピュータ子会社エヌ・シー・エス株式会社を設立
    1986年 7月サニーメタル株式会社を住友商事、栄興業と設立
    1987年 12月フェニックスメタル㈱を昭和電工、サニーメタル、トニーメタルと設立
    1989年 10月那須中田屋株式会社を設立(2003年5月NNY株式会社に変更)
    1995年 4月運送部門を別会社化(平成14年2月より社名をイツモ株式会社に変更)。
    9月本社を東京都千代田区神田錦町3-18-3(錦三ビル)へ移転
    1997年 5月全国規模廃棄物処理システムのマリソルネットワークを発足(20社)
    1998年 12月千葉工場でOA機器解体事業を開始
    2000年 4月豊田通商のグリーンメタルズInc.(米国ケンタッキー州)設立に資本参加。 12月ISO14001認証取得(本社及び千葉工場ほか)
    2001年 4月家電リサイクル法スタート。家電リサイクル受託業務を開始
    2002年 12月ISO14001認証をグループ全事業所で取得
    2003年 8月マニフェスト管理システム導入
    12月 株式会社鈴徳グループに参加
    2007年 11月グループの持株会社、スズトクホールディングス株式会社の設立に伴い、当社はスズトクホールディングス株式会社の100%子会社となる
    ▼家電リサイクル法を前に=家電リサイクル法(01年4月施行)によるリサイクル家電メーカーは、既存の処理業者ネットワークを利用するグループ(A)と大手物流業者と提携し,新たにネットワークを構築するグループ(B)に分かれた。松下電器産業などAグループは、「具体的には鉄スクラップ事業者の中田屋㈱を中心に構築された全国的な産業廃棄物処理業者の団体であるマリソルネットワークを中心に指定引取場所及び第2次物流の事業を展開しようとした。
    マリソルネットワークとは,1997年12月に中田屋を中心に日本各地の代表的な鉄スクラップ加工処理業者であり廃棄物処理業者の団体として設立されたものである。マリソルネットワークを構築した結果として,中田屋は『大手メーカーは全国の工場の廃棄物などのリサイクル方法を相談できる専門家を求めている。ネットワーク化により拠点がない北海道や九州などでも相談相手に適当な業者を紹介できるようになった。すぐに受注案件ができなくても,メーカーとの情報交換が密になり,ニーズをつかめるようになった』(中田屋・中田彪社長)と評価している。1999年時点で中田屋グループを含む19企業が参加し,産業廃棄物処理業において北海道から沖縄までを,111ヵ所の収集運搬拠点と25ヵ所の処分場をカバーした。現在では会員企業は ㈱鈴木商会・東北東京鉄鋼㈱・㈱シントー・㈱安藤仁七商店・㈱庄子専助商店・宮城第一メタ ル㈱・㈱釜屋・㈱豊和商事・那須中田屋㈱・中田屋㈱・フェニックスメタル㈱・豊田メタル㈱・ ハリタ金属㈱・花村産業㈱・林金属工業㈱・サニーメタル㈱・平林金属㈱・九州メタル産業㈱・熊本新明産業㈱・太信鉄源㈱・㈱荒川商店・拓南商事㈱の21企業 ,収集運搬拠点125ヵ所,処分場 27ヵ所に拡大している」。
    *出所:オイコノミカ 第40巻第1号・家電リサイクルシステムの初年度の実態解明―2グループ形成とその構造比較(羽田裕)・2003年pp.73-95。
    ▼中田屋(中田彪社長)が業務停止命令を受けた=「昨年末、廃棄物業界を揺るがせた事件である2001年11月21日~12月4日まで14日間の業務停止を命じた東京都環境局によれば、「中田屋が、収集運搬業者のエコートランスポート(山本公弘社長)と、虚偽の記載をした産業廃棄物管理票(マニフェスト)を共謀して作成、使用した」としている。マニフェストとは、産廃の不法投棄を防止する管理票であり、故意に事実と異なる書類をつくったと指摘している。中田屋とは、都内で数少ない中間処理許可をもつ中間処理業者である。中田屋の金子哲也取締役は「ノーコメント」としている。別の関係者は「公害対策で規制が厳しく、一方で処理量が増え続け、リサイクル目標が年々高まるなか、中間処理業者だけを責められない。都内の中間処理は、どのみち中田屋など数社しかないのだからね」と、肩をすくめる。廃棄物の資格をもつ廃棄物処理業者の多くは収集運搬のみで、中間処理の許可や工場設備(大型機械などのプラント)はもっていない。都内では中田屋のほかに、有明興業など、ごく少数の事業者しか中間処理許可と設備をもっていないのが現状である」
     *出所=PCリサイクル>11.中間処理の課題2002/01/21 16:18
    ▼鈴徳の傘下に入る=「関東地区の大手鉄スクラップ業者、鈴徳(鈴木孝雄社長)は、中田屋(中田光一社長)の株式の過半数を取得し、グループ化した。会社形態はそのままだが、実質的な経営統合となる。年内に中田屋の経営態勢を一新、同社の代表取締役会長に鈴徳の鈴木孝雄社長が兼務で就任し、社長に中田屋の大須賀正会長兼CEO、副社長に縄田幸治・鈴徳船橋営業所長が就く。中田光一社長は執行役員となる。グループ年間売上高330億円規模、業界トップクラスの鉄スクラップ業者となる。鈴徳では、両社の合併は考えていないという。両社およびグループ会社をあわせた全国20拠点の事業所は、当面、現行のままとし、統廃合はしない。経営理念を共有し、スケールメリットをいかしながら従来通りの営業活動を進める」(2003年12月8日・産業新聞)。

  • 永田 紘文(ながた ひろふみ)-電炉溶融の「メスキュードシステム」を開発する
     共英製鋼は1988年(昭和63)、電炉溶融を利用する「医療系・廃棄物・安全・管理・処理」(メスキュード、英文頭文字MESSCUD)システムを開発した。このビジネス化を仕切ったのが生え抜き社員として、その後副社長に就任した永田紘文である。
    1947年(昭和22)熊本県菊池市に生れた。熊本大学工学部金属工学科を69年3月卒業。共英製鋼に入社。73年山口事業所建設を担当。同所製鋼課長、製造部長、事業所長を歴任した。
    ▼MESSCUDその発端=87年1月、神戸でエイズ患者第1号が出た。エイズは注射針等の使い回しなどから感染する。医療器具の完全無害化回収・処理が社会問題として浮上した。エイズはアフリカ起源とされる。アフリカに近いスペインはエイズ感染が高かった。製鋼技術者として同地に技術指導に派遣されていた永田は現地でその怖さを目のあたりにしていた。電炉は1500度以上の高熱で鉄を溶かす。注射針を回収し炉内に投入すれば完全に無害化できる。電炉業のテリトリーだ。
    これが使える。だが、ことは簡単ではない。高熱溶融物は水に触れると爆発する(水蒸気爆発)。塩素成分が混じれば腐食が進む。当初はまるでトラブルの連続だった。 88年9月、医療用廃棄物処理専門(メスキュード)事業部を立ち上げた。91年には廃棄物処理法の改正により感染性医療廃棄物は特別管理廃棄物に指定され、電炉での「溶融」処理(92年7月・厚告194)が採用された。医療関係だけでなく機密部材の溶融処理にも事業は拡大した。
    ▼溶融処理ビジネス、その背景=永田はなぜメスキュードシステムに取り組んだのか。それは山口事業所の歴史と立地にかかわる。共英・山口は72年、安宅産業の資本参加を受けスタートした。
    しかし安宅危機(77年、伊藤忠に吸収合併)以後、同所の経営権は二転三転した。84年共英製鋼グループに返咲いたが、山口が抱えていたハンディーが消えたわけではなかった。北九州経済圏内とはいえ鉄スクラップ発生地には遠く(半分以上が割高な海上・遠方玉)、主力製品である鉄筋需要は少な過ぎた(経営不安の要因)。原因は、はっきりしていた。であれば収益源を鉄筋に特化せずと電炉を活用したビジネスの多角化を目指せばいい。時代の追い風もあった。企業に事業系廃棄物の適正処理を要請する「循環型経済」の浸透や法遵守を要求する「コンプライアンス」、「企業の社会的責任」(CSR)意識の高まりだ。「環境ビジネスを手がけて分かったことは企業ブランドの重さ。取引先がまず口を開くのは値段ではない。『機密保持は絶対か』ということ。その信頼にどう応えるのか。信頼が収益に結びつく。その徹底が企業風土になった」(永田)。
    参考:日刊市况通信04年4月特集「共英製鋼・山口、トップインタビュー永田氏」

  • 中辻 恒文(なかつじ つねふみ)-工業会第4代会長、業界に国際感覚を持込む(中辻産業)
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     鉄リサイクル工業会長は東京在住業者が専らだったが、中辻は関西出身で冷間鍛造事業も経営する兼業企業者。国際ネットワーク委員長を経て2006年第4代会長に就任した。
     1953年大阪府堺市に生まれた。71年関西学院大学・法学部入学。英語研究部に所属し74年日米学生会議(外務省後援)に参加。約1ヶ月半にわたりミネソタ大やハーバード大などで学生討論を行った(当時のハンフリー副大統領やライシャワー氏も特別参加)。75年卒業後、大学の先輩と共同出資で貿易商社を神戸に創設。77年中辻産業に入社。同年第23回全国実業団英語弁論大会で優勝。85年中辻産業・社長に就任。その前年(84年)、大阪青年会議所(大阪JC、会員1,200人)に入会。委員長、常任理事を経て卒会年(40歳)には専務理事に就任(理事長はサントリー・鳥井信吾氏)し、40余の委員会の大所帯での財務、予算、人事全てを決済した。
    ▼冷間鋳造事業も=中辻産業は1917年(大正6)創業。祖父・中辻菊松が堺市北向陽町で中古機械及び製鋼原料問屋中辻菊松商店を開業。52年父・中辻実が中辻産業(株)に改組し製鋼原料の売買と自転車部品製造を開始し原料ヤードと製造工場経営の原型を作った。原料分野では71年泉北郡・忠岡工場建設(金属原料部)。2000年には大型コンピュータ、ATMなどのOA機器リサイクル及び非鉄リサイクルも開始した。62年には熱間から冷間鍛造へ転換。79年泉北高砂工場建設。冷間鍛造の一貫ラインを整備。自転車から自動車用重要保安部品へ展開し、88年機械加工部門を新設した。
    ▼鉄リサイクル工業会・第4代会長=00年から2期4年間、父・実も理事長を務めた大阪金属リサイクル工業協組(74年設立)の理事長。02年から工業会国際ネットワーク委員会の創設に係わり、03年初代委員長に就任。04年工業会・副会長。06年工業会・第4代会長に就任した。
    ▼国際交流=中辻は02年以降、国際ネットワーク委員長として韓国、中国、台湾などの主要機関を訪問し、05年工業会第17回大阪大会に中国中鋼集団公司副総裁を招き基調講演、質疑応答の場を設けた。09年には世界70ヵ国が参加する国際的リサイクル団体であるBIR(国際リサイクル機構)に加入。同年の北海道大会に中国・廃鋼鉄応用協会、韓国・鉄鋼協会代表を招いて東アジアリサイクル会議を開催した。10年の横浜大会には上記2ヵ国に加え台湾、欧州BIR、米国ISRI代表を招待し国際鉄リサイクル・フォーラムを開催。11年3月の東日本大震災後、放射能汚染が問題となったが、中辻は国際ネットワークを通じて日本の対応状況を報告。風評被害の未然防止に努めるとともに放射能汚染対策の必要と世界的な連帯を求めた。

  • 永野 重雄(ながの しげお)*詳説-富士製鉄の社長、新日鉄初代会長として
     政財界で活躍した永野6兄弟の一人。稲山と共に八幡・富士の旧日鉄2社の合併を進めた。70年新日鉄の初代会長。1900年(明治33)島根県に生まれた(1984年没)。  以下は「私の履歴書」(69年1月掲載)の引用である。
     父は大学南校(東大の前身)で法律を学び判事となり、後に広島で弁護士を開業。重雄が小学6年の時、病没した。10人兄弟の次男だった重雄は長兄、護の献身的な保護のもと旧制六高から東大法科に進み、24年浅野総一郎の浅野物産に入社した。第一次世界大戦中の1917年に設立された富士製鋼が戦争終結と共に倒産した。この会社に原料を供給していたのが兄・護の友人だった渋沢正雄(渋沢栄一の三男)で、損害を受けた正雄は姻戚関係にあった総一郎に頼んで富士製鋼の再建に取りかかり、同時に兄の護を通じて知っていた重雄に白羽の矢が立った。
    ▼富士製鋼の支配人として=永野は浅野物産を25年退社し、蛙の跳びはねる倒産、ボロ会社・富士製鋼に支配人として入り直した。15㌧平炉4基で月に5千㌧ほどのインゴットを生産し、丸棒や平鋼などを作る。大阪に銑鉄を扱う「岸本」という商事会社があった。そこから原料の鉄を買うのだが、(相手はベテランだ)「二十そこそこの若造がまともに商売しても勝てるはずもない」。そこで(相手を信じ)値段を空欄にして(仕入れ)契約書を出したこともある。誠意は通じた。
     苦しかったのは昭和六年(1931)の暮。ついに夜逃げした。東京の安宿を転々とし、箱根から熱海の宿にも泊まった。けれども逃げきれるものではない。帰ってみると当時安田系の東京電力から送電停止の知らせが舞い込んだ。そうなれば操業停止だ。永野は安田銀行江戸橋支店に乗り込んだ。「料金未払いで送電停止はけしからんとは言わない。けれどうちの連中が安田善次郎さんやお宅の幹部に迷惑がかかってはすまないと思うので、事前に注意するように言いに来た」と凄んだ。送電停止とならなかった。銀行に借金を返し担保を抜くのには、このあと2年余の歳月を要した。
     永野は「支配人兼係長兼用務員となって飛び回」った。その姿を従業員たちは見ていた。「川崎は日本で一番労働争議が多かった。が、この会社だけは一度もストに入ったことがない」。
    ▼昭和大不況、鉄鋼救済と日本製鉄誕生へ=NY株式市場暴落に端を発した世界恐慌(29年)のなか、国は31年(昭和6)1月から国力不相応な円高(金解禁)に踏み切り、戦前の主力産業である絹や綿を始め輸出関連業種に壊滅的な大打撃を与えた(昭和・デフレ恐慌)。
     この「金解禁後の不況は(富士製鋼は勿論) 大阪製鉄、 日本鋼管、 小倉浅野製鋼、 川崎造船所など一、 二流会社まで、 原資や整理をしなければならないほど深刻であった」。そのため国は、民間製鉄業救済のための製鉄大合同に動き(30年答申)、官営製鉄所と民間製鉄所合同の「日本製鉄」が34年1月誕生した。当初案は八幡製鉄と民間製鉄・製鋼11社 (輪西製鉄・釜石鉱山・浅野造船所製鉄部・日本鋼管・富士製鋼・大阪製鉄・浅野小倉製鋼所・東洋製鉄・九州製鋼・東海鋼業・三菱製鉄) を打って一丸とするものであったが、 日本鋼管と浅野系2社は合同反対に回り、結局、 官営八幡と民間銑鉄・鉄鋼の1所5社参加による半官半民 (82・2%政府出資) の特殊会社 「日本製鉄」 として34年1月、 発足した。
    ***
    ▼日鉄に転籍、鉄鋼原料統制会社、社長=34年、富士の日本製鉄合併に伴い日鉄富士製鋼所所長、35年10月八幡の成品課長に転勤。37年5月日鉄本社に移り、購買部第一課長、40年購買部長と一貫して原料買付部門に携わった。その1年後、平生日鉄社長の鉄鋼統制会会長に就任に随行し、その理事となるため日鉄を退社(党籍離脱)。42年7月、日本鉄屑統制会社と日本故銅統制会社を解散して創設された金属回収統制株式会社に鉄鋼側の取締役として入った。44年輸入屑を扱う鉄鋼原料統制会社社長。戦局が急を告げる中、永野は45年7月統制会社北海道支部長に任じられ、妻子を連れて北海道に渡り、その地で終戦を迎えた。
     永野は北海道に永住して農業をしようと思った。20万円を投じ札幌郊外に水田2カ所とでん粉工場、自家用の塩工場を買い取った。が、日鉄の渡辺社長が強く日鉄復帰を迫るので、せっかく買った土地を処分し46年1月、日鉄に復帰した。肩書は営業部長(その営業部次長が稲山)。同年5月営業担当常務に昇格。戦後の47年片山内閣の経済安定本部第一副長官を1年間勤めた。
    ▼日鉄解体、富士製鉄社長=GHQ(連合国軍最高指令官総司令部)は財閥解体、過度経済力の排除の一つとして、日本製鉄を八幡と北日本(室蘭、釜石、富士)に分割し、当時、最大・最新鋭の製鉄所だった広畑は賠償が解除された場合、北日本への譲渡は許すが、八幡への譲渡は許さないとの解体を通達した(48年12月)。その広畑を巡って、政府内では①外貨獲得のため外資に売却、②満州から引上げてきた旧昭和製鋼の技術陣が経営、③関西平炉3社経営の3案が取り沙汰された。
     北日本の社長に内定していた永野は、広畑抜きでは新会社は経営できないと「腹を切る」覚悟で広畑の帰属を粘り抜いた。当初、新社名は北日本が予定されたが関西の広畑にあるのに北日本ではおかしいとのクレームもあり、また永野のルーツである富士製鋼にちなんで富士製鉄に改まった。
     50年4月、富士製鉄発足とともに社長に就任した。49歳。八幡製鉄の初代社長は三鬼隆。
    「B29は製鉄工場を特に攻撃したことはなかった」(米戦略爆撃調査報告)「戦争による(鉄鋼業の)物的な直接被害が比較的少なかった」(戦後鉄鋼史)が、その唯一の例外が釜石だった。「世界の戦史のなかでも軍艦がとまったまま主砲を撃った事実は初めて」で、米艦隊は二度にわたって釜石沖にとまって艦砲射撃し、工場は壊滅状態となった。その釜石の再建から永野の富士製鉄の社業は始まった(以上。「私の履歴書」の引用は終わり)。
    ***
    ▼鉄屑カルテル初代委員長=鉄屑買付の共同行為である「鉄屑カルテル」の結成に戦後鉄鋼各社は結束した。その最初のゴングを鳴らしたのが富士製鉄の53年3月1日の鉄屑購入価格一挙4千円値下げだった。八幡、鋼管の大手高炉を始め平炉各社も追随。関東懇話会は3月11日緊急業者集会を開いて事実上の裏カルテルに身構えた。ただ業者代表の徳島佐太郎(懇話会長)は富士製鉄の直納問屋だったから、永野は直接・間接に徳島ルートから業者動向を聴取していた可能性は高い(業者との交渉は各社の常務クラスが対応した。この時全面に出たのが稲山・八幡常務だった)。
     鉄屑カルテル(需給委員会)は55年4月認可された。永野は初代需給委員長(初代業務委員長は稲山)。そのカルテルが鉄鋼側、業者側の双方の事情から崩壊し(55年10月7日)、カルテル各社は自由価格で買い付けに走った。カルテル鉄鋼18社社長は10月24日、鉄連会議室で再建を協議した結果、高炉7社と平炉3社常務クラスを中心に緊急対策委員会が結成された。
    ▼55年10月危機では=11日決まった再建案は、カルテル業務委員会(7社の購買部長級で結成)は原料部会に改めて、鉄屑購入限度と価格を決める。具体的には原料部会が(鉄屑カルテルから一歩進んだ)「鉄屑共同購入」を作成する、とした。マスコミもこの「鉄屑共同購入」に焦点をあてた。11月12日付け日経新聞は「解説」で「一番問題が多いのは共同購入で、①一手買取、一手販売機関を設けてくず鉄の取引を完全に統制しようとする案と、②購入限度量をこえたものについてだけ調整機関が扱う案、③現行のカルテル事務局を活用して現金の収支だけ事務局に委託する3案がある」「一手機関の案は某有力会社」から出されており、これが通れば生産協定の必要もなくなるので、動向が注目されている」と報じた。この動きを追った業界紙によれば「鉄鋼18社社長会の席上、永野委員長がカルテル崩壊を挽回するためには、法的に許されるなら一手購入を図るのも一つの方法だとの私見を披露した」(日刊市況、10月31日記事)。
     カルテル業務委員会(稲山委員長)は11月8日、一手買取案については「アウトサイダーを含めた完全共同購入は運営、配分面で到底不可能。仮にカルテル18社で一手購入した場合、現物は全体の5割位がアウトサイダーに向け出荷もしくは積み上げられ、カルテル側の需給計画は成り立たない」「同案は検討する余地がない」として「投げ捨て」られた(日刊市況、11月15日記事)。
    ▼56年5月危機では=カルテル初期の混乱の第二波が56年5月襲ってきた。緊急業務委員会(稲山委員長)を5月10日開き①カルテル崩壊の危機が伝えられるが、各社の協調を強め存続を図る。②10万㌧の鉄屑緊急輸入の実施と第2四半期生産計画の1割減少、アウトサイダーに高買い自粛を要請。③輸入屑の現地買付を早急に進める、などカルテル強化策を確認した(5月11日、日経新聞)。さらにカルテルはアウトサイダーの高値買いに対抗するため、5月17日から協定価格を一挙に六千円引き上げ二万八千円とした。この一挙六千円上げが、鉄鋼業界内外に波紋を広げた。
     日経新聞は囲み記事(業界レーダー)で特殊鋼の反発やカルテル解散論の噴出を伝え、永野・富士製鉄社長の声として「二万八千円という高値はカルテルが機能を停止したと同じ。鋼材市況や輸入屑が高い現在、国内屑だけ低い価格に押さえようとするのは世の指弾を受ける」と報じた(6月12日)。永野は、価格一本やりの方策に限界を見ていたのだろう。
    ***
    ▼遣米鉄屑使節団と永野(57年2月)=カルテルを止めることなく動かすには外部からの鉄屑補給(米国くずの輸入)がいる。そのための制度作りに汗を流したのが稲山だったが、永野はカルテルの長として対米交渉にも臨んだ。米国政府は57年2月19日、日・英・欧州共同体に対する鉄屑輸出許可の停止を発表した。米国屑の輸出が止まれば、鉄屑カルテルは瓦解する。
     驚愕した日本政府と鉄鋼業界は、状況打開のため永野・富士製鉄社長、稲山・八幡製鉄常務ら鉄鋼業界トップと通産省重工業局次長を長とする「鉄屑使節団」を編成し、使節団10名が2月12日慌ただしく訪米した。この経緯は日本鉄鋼連盟の「戦後鉄鋼史」の216p以下に詳しい。
    ▼住金事件と日鉄合同=「事件」は1965年度第3四半期(10―12月)の粗鋼減産に住金が通産省指示に異を唱えたことを発端とする。粗鋼減産は第2四半期から始まっていた。自主減産だったこともあり住金も同調したが、 第3四半期は通産指導に強化され、輸出と国内を合わせた総ワク規制となった。輸出比率が高い住金には死活の利害に係わる。住金は通産省指示拒否、自主生産の開始を決定した。これに対し通産は住金の粗鋼用原料炭輸入割当を削減。官民あげての問題となった。
    「私の鉄鋼昭和史―稲山嘉寛著」によれば:「実はこれには高炉の建設とシェア争いがからんでいた」。「このとき富士の田阪くんが永野氏の使いとして『永野がカンカンに怒って住金を鉄鋼連盟から除名しろといってる』旨を伝えるために来た。『住金を除名すると言ったら、向うは喜んで除名されてしまう。そんなことで解決できる問題じゃあない』と返事して同調しなかった。永野発言は彼の本心というより彼一流の演技で一応はそういう風に怒ってみせて向うが引っ込めばそれでよしという考えであったと思う。のち八幡、富士合併の時、日向氏が合併に賛成された。公取委としては公聴会を開いて、できれば『合併反対』に回ってもらおうとの魂胆だったが、それが賛成論をぶったのだから、あてがはずれたも同然で、公聴会での日向発言は強い味方になった」。
     「私は住金の立場、主張は当然だと思った。自分の会社を大きくしようとするのは経営者の責任である」。一方、政府は国家的な立場から対応するのも理解できる。「問題は通産省が悪平等論に立っていたことだ」。こうした行政のやり方に文句を言ったが勝てない。
     それに勝つためには「合併によって大きな会社にして、悪平等や不平等に起因する悪い競争を排除することだ。新日鉄誕生の伏線はこのときにすでに芽生えていた」。「住金事件当時、設備調整に関して、いろいろな構想があった。永野氏がぶち上げた東西合同製鉄論もその一つである。私はもともと合併には賛成だったし、そのころ永野氏と極秘に『八幡、富士で一緒になろう。高炉が大型化している今日、みんなで設備競争をしていたら共倒れになる』と話し合ったことがある」。
    ▼新日鉄、初代会長=この「住金事件」を転機に、シェア争いの最終的解決手段として稲山嘉寛・八幡製鉄4代目社長と共に「東西鉄鋼2社への大合同構想」をぶち上げた(66年)。八幡・富士の旧日鉄系2社の合併に動き(68年)、70年新日鉄の初代会長に就任した。1984年5月死去。

  • 中村 才八(なかむら)-横浜に艦船古物商組合もあった
    横浜出身。明治17年生まれる。明治42年横浜市中区蓬莱町で銅鉄並びに船具商を開業。昭和7年艀(はしけ)発着の便利な中区長者町に移転。昭和14年有志と横浜鉄屑株式会社を設立。22年㈱中村商店を設立。艦船古物商組合長。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 中山 悦治(なかやま えつじ)-八幡の人夫組から高炉業に進出(中山製鋼所)
     明治・大正の八幡で人夫組を経営し亜鉛鍍金製造から鉄鋼業に入り高炉を立ち上げた。人心掌握と商売の機微に精通した男だった。以下は「中山悦治翁傳」を参考にした。  1883年(明治16)7月福岡県京都郡に生まれた(1951年12月没)。中山家は代々庄屋をつとめる旧家。悦治は中津中学に入学したが3年次の6月、父・半蔵の破産から中退。家事に従事したが飽きたらず家出。1903年12月小倉聯隊に入隊(翌年、日露開戦)し上等兵として出兵。07年、同町糸飛で採炭事業(斤先掘り)に乗出したが失敗。無一文で単身、久留米に出て小電気行商に従事した。一方次弟・登は八幡製鉄所で亜鉛鍍金の記録工をしていた。
    ▼悦治、八幡で飯場経営=仕事をするなら鉄の町、八幡だ。亀井組飯場に職を求めた。09年人夫組が共同で人夫供給合資会社を作った。悦治は外勤書記に就き、人夫管理に習熟すると共に(労働)下宿屋を経営(最盛時には120人近くが下宿)し資金を蓄えた。
     当時(大正初期)、大阪の侠客の女婿(酒井栄造)が福岡にいた。悦治が300円の供託金を製鉄所に出して酒井組を結成。支配人として宰領した。その前後、三弟の重隆は欧州開戦による好況から200円の資金で製鋲工場を立上げ、古トタンを買入れてバケツを作った。19年重隆は亜鉛鍍金工場を興し尼崎に分工場の計画を立て、土地も確保した。福岡で人夫組をしていた悦治と酒井はそれぞれ1万円を出資して、重隆から尼崎工場を譲り受け、鉄板亜鉛鍍金業に鞍替えした。
    ▼尼崎で中山悦治商店を立ち上げる=大戦景気が、終戦(18年11月)で不況の嵐に一変した。
     共同経営の酒井も見限って手を引いた。逆境に強いのが悦治。輸入鉄板(青板の半値)の赤錆びを落して鍍金し、直接地方に販売するなどの工夫で危機を乗り切った。転機となったのが関東大震災(23年)。復興資材のトタン板は飛ぶように売れた。直販システムをとった悦治は莫大な利益を上げ、同年12月(株)中山悦治商店を立ち上げた。
    ▼大阪の船町に工場建設=翌1924年丸釘製造、25年亜鉛鉄板の海外輸出を開始。29年大阪の船町に亜鉛鍍金の薄板工場を自己資本で建設。作業事故の検証中、右手の中指以下3本を失った。製鋼業に乗出したのは33年4月。40㌧平炉を皮切りに37年5月まで平炉5基、電炉1基を導入。
    ▼関西初の高炉を建設=39年7月、関西初の高炉(430㌧)を建設。「一面識もない商人の訪問に低頭して挨拶する」一方、工場巡察中、問題があれば「ステッキで地面を激しく叩きながら物凄い剣幕で叱咤する」。「雷オヤジ」で通った。悦治は「家長室」の札の架かった一室で執務をとった。社長ではない皆の家長なのだ。戦後の45年8月社長を退き、51年12月25日死去。享年68。
     悦治は中学を3年で退学を余儀なくされた。その思いから40年(昭和15)私財100万円を寄付して苦学生を対象とする育英事業を行った(現中山報恩会)。創設以来、奨学生は3千名に達する(20年4月現在)。また浪速工業高校(現星翔高校)の運営つながった。

  • 奈良 覺次郎(なら)-深川区猿江裏町で古物商を開業する
    群馬県邑楽郡千江田村。農家の次男に生まれた(昭和15年8月歿・52歳)
    小学校を卒業と同時に上京。伯父の経営する油屋に入店。18歳の時、店を出て車力をしながら資金を貯め、深川区猿江裏町で古物商を開業した。専ら鉄屑を扱い、墨田区柳原に営業所、倉庫。昭和12年プレス機、自動車、台貫を設置した。(鉄屑界・第1巻7号)
    ▼奈良 義一郎=群馬県出身。昭和4年叔父覚次郎経営の渡貫商店に入店。覺次郎没後の業務を引き継いだ。18年企業整備により一時閉鎖。昭和22年渡貫商店を創業した。本所古物商組合銅鉄部長(鉄屑界・第1巻7号)。

  • 成島 英美(なるしま ひでとみ)-東京帝大出身の鈴木徳五郎の娘婿 業界の重石として
     成島英美は、東京帝大を卒業し、東京市社会局保護課に配属され貧民対策に従事。その後、徳五郎の娘婿となり、戦後は日本鉄屑連盟や日本鉄屑工業会の副会長を歴任した。
    ▼東京市社会局保護課に配属=山梨県甲府市に1904年(明治37)に生まれた(88年2月没。享年85)。甲府中学3年の時、合名会社小泉商店(東京・万世橋)に父親が勤めた関係で、東京の麻布中学に転校。東京帝国大学経済学部を29年卒業。東京市に入り社会局保護課に配属された。東京百年史によれば、18年8月富山から起こった米騒動を契機に東京市でも20年12月には貧民(細民)救済対策として地区有志による「方面委員」(戦後、民生委員と改称)制度を下谷区、深川区から実施した。成島が東京市に入った29年の4月、国による貧民救済の「救護法」が成立した(実施は3年遅れの32年1月)。以後、成島は、東京市役所貧民救済の専門職員として、昭和不況に突き落とされ、底辺の生活に喘ぐ東京市全域の「要保護者」たちと日常的に接することになった。
    ***
    ▼「現代人物論」(63年版)によれば=成島は「父の友人で徳富蘇峰の愛弟子、結城一郎に推められ、東京府社会課に入り、その出張所のある足立区本木部落で、社会底辺の貧民の群れに身を挺し九年間セツルメントとして生活を共にし、置き去られた人たちの社会復帰を指導した」との一文がある。その「現代人物論」によれば1938年、鈴木徳五郎商店が社員の応召から人手不足となり、金庫番代わりに入ったのが機縁で、徳五郎の次女(あさ)の婿となった、とある。
     この間のいきさつは、分からない。ただ成島は救護法が成立(29年)し、それが実際に施行(32年)されて以来、一貫して東京市社会局保護課員として、貧民救済にあたってきた。市内の貧困地区は本所、深川、浅草などで、建場業から銅鉄業に転業した鈴木徳五郎ら鉄屑業者の営業拠点とも重なる。課員として鉄屑回収の現場に足を運ぶこともあったろう。東京百年史によれば、準戦時体制のなかで救護法は変質していった。「東京市の社会事業は昭和13(1938)年度を境に軍事型の体制に変わっていく」。職業紹介事業も従来のように失業救済または防止というよりは、戦争遂行のための生産力の増強に力点が置かれることになり各種の救護事業は軍事援護事業としてのウェイトがかけられるようになった(第5巻382p)。
    ▼「鉄屑界」によれば=「(略歴)明治37年山梨県甲府市に生る。昭和4年東京帝国大学経済学部卒業。同年東京市社会局保護課に勤務す。昭和13年鈴木徳五郎商店に勤務し現在に至る」「(公職歴)特記すべきことなし」と簡潔に記している(53年8月鉄屑界)。成島には、おそらく固く信じるものがあったのであろう。1938年は、国による鉄屑統制が強化され、10月には日本鉄屑統制会社が設立され、鈴木徳五郎は統制会社の監査役に、翌年には鈴木徳五郎商店が指定商に認定された年だ。徳五郎もまた、軍部や役所と対等に交渉ができる人材を求めたろう。成島はうってつけだった。以後、成島は、徳五郎商店の社員、娘婿として、徳五郎の話相手となり、店の経営を支えた。
    ▼63年版人物論によれば=戦災で竪川緑町、深川枝川町、富山の各支店が焼失したが、唯一残った倉庫から戦後を立ち上げた。「敗戦直後、横須賀にあった三菱商事の六千万円相当の銅、鉛、亜鉛、錫などを進駐軍から守るため緑町に預かったが、これに一指も触れることはなかった」。
     鈴木徳五郎、成島英美の清廉さには定評がある。また鈴徳出身の有力者も多い。そのこともあってか成島は戦後の業者団体である鉄屑懇話会(52年)、日本鉄屑連盟(53年)、日本鉄屑協議会(59年)、日本鉄屑工業会(75年)でも各種の要職を務めた。76年秋の叙勲で、勲四等瑞宝章を授与された。徳五郎の死去(72年4月後、二代目社長に就任した。88年2月死去。享年85。

  • 西 清太郎(にし)-関東の4大業者の一人
    西清太郎は明治17年石川県江沼郡動橋村に生まれた。明治42年同村で運送店を経営。大正7年上京し、本所亀戸町6丁目で銅鉄商を開業。昭和9年合名会社西清太郎商店を設立。戦前の東京を代表する4大業者の一角となった。主として関東、甲信越、東北、北海道に収集網を拡大。昭和13年には鉄屑統制会社の取締役。「戦時中は一時休業せるも自ら東京都工作隊員として挺身す」。戦後は長男博に一切を任せた(鉄屑界・第1巻1号)。

  • 西 博(にし ひろし)-戦前の関東4大業者の一角。西製鋼を作る
    戦前の鉄屑業者のなかから製鋼会社を創ったのは、岡田菊治郎(東京製鉄)、清岡栄之助(吾嬬製鋼)などその例は多い、戦後、これに挑戦したのが関東4大業者の一角を占めた西博だった。
    1913年(大正2)10月生まれ、石川県出身。父清太郎(別掲)が経営する西清太郎商店の社員となり、41年西商事社長。43年秋出征。46年帰還し、亀戸3丁目で西商店再建。50年4月旧社名の西商事に改名した(鉄屑界・第1巻7号)
    ▼西製鋼=1951年伸鉄、船舶解体、製鋼原料の集荷・選別を行う西商事・砂町工場として発足。57年西商事から独立、30㌧平炉を導入し西製鋼を設立した。66年旧八幡製鉄系列。76年連続鋳造設備導入(平炉・小棒メーカーとしては日本初)。73年50㌧電炉設備を導入した。
    75年12月安宅産業の危機後、同社の処遇が問題となった。合同製鉄が78年西製鋼から従業員を引き継いだ江東製鋼を合併。残存設備を80年6月大三製鋼が買収した。

  • 西山 弥太郎(にしやま やたろう)-ペンペン草論争。日銀総裁の反対に抗して
     戦後銑鉄自給を目指して会社を造船部門と製鉄部門に分割。日銀総裁の不同意を押し切って自前の高炉を建設した。西山の作った臨海式大型高炉はその後の高炉建設の世界モデルとなった。
     1893年(明治26)神奈川県に生まれた(1966年没)。一高から東大工学部冶金科に進み、1919年卒業と共に川崎造船所に入社。造船鉄板用に作られた葺合工場に勤務。33年平炉製鋼法改善の功績から日本鉄鋼協会「服部賞」を受賞。「平炉の神様」と称された。38年製板工場所長、42年取締役就任。GHQの公職追放により川崎重工業(39年社名変更)の役員17名のうち13名が辞職したことから、追放を免れた西山らが戦後の川重の経営にあたった。
    ▼GHQは当初、過度経済力集中排除法の対象だった川重の製鉄部門の分割処分を求めたが49年、同法の指定を解除した。ところが造船と製鉄部門を一緒に抱えるのは合理性に欠けると分離を強く主張したのが44年6月から製鋼工場所長であった西山取締役だった。
    ▼日銀の一万田尚登総裁と「ぺんぺん草」論争=50年8月、川崎製鉄として分離・独立し西山が初代社長に就任した。社長就任と同時に、西山は単独平炉から自前の高炉建設に向け全精力で動き出した。実は直前の50年4月、それまで銑鉄の供給を仰いでいた半官半民の日本製鉄が八幡と富士に分割・民営化された。ライバル他社に主原料の銑鉄供給を依存する隘路打開を迫られていたのだ。
     しかしこの製鉄所開設は大反響を巻き起こした。50年当時の粗鋼生産は500万㌧規模、また高炉37基中稼働は12基たらず。外貨不足のなか鉄鉱石、原料炭の入手難など、業界は多くの問題を抱えていた。「この計画は『太陽を素手で捉える』冒険とみられ」、日銀の一万田尚登総裁は「計画は慎重に進める必要がある」と反対し、敢えて強行するなら「川鉄にぺんぺん草をはやしてやる」と言った、と世間に流布されることになった。
    ▼銑鉄、自前確保の執念=西山は①貿易立国を支えるためには最新鋭・大型設備がいる。②原料対策としては不安定な鉄スクラップではなく鉄鉱石が望ましい。③銑鉄供給が日鉄の分割で民間企業に移行すれば、不利になるとの持論を展開したが、西山を突き動かしたのは、旧日鉄・広畑が富士製鉄に帰属したため、川鉄が生き延びるには自前の銑鉄確保が要る。その一点だった。
    ▼51年1月、千葉製鉄所を開設した。折しも戦後復興と長期資金の供給を目的とする日本開発銀行が発足(51年4月)し、その融資選定として通産省は合理化計画の提出を求め52年2月、川鉄の高炉建設も鉄鋼業の第一次合理化計画の一つとして認可した。西山が競争力を確信した大型運搬船が横付けできる臨海・大型高炉はその後の高炉建設のモデルとなって世界を席巻した。
    西山は61年に水島を開設し1966年7月病気療養のため社長を辞し、会長のまま同年8月死去した。参考:川崎製鉄社25年史。「鉄のあけぼの」黒木亮ほか。

は行

  • 張田 昭夫(はりた あきお)-レアメタルリサイクルビジネスに挑戦(ハリタ金属)
    富山県高岡市 ホームページはこちら
     資源回収法制の変化を追い風に、地域・行政を巻き込んだビジネスモデルを作りあげた。
     ハリタ金属は張田昭夫(1942年生まれ)が18歳で1960年、富山県高岡市に張田商会を開業したのに始まる。65年自動車リサイクル業を開始し、72年ハリタ商会として同市福岡町に工場を建設・移転(現本社地)。75年8月ハリタ金属(株)を設立した。同年9月自動車中古部品販売を開始。78年アルミエンジン溶解炉の特許を取得し、製造・販売(85年アルミ二次地金の製造)を開始。83年廃棄物処分場を建設し、最終処分の許可を取得して資源回収及び廃棄物処理の両翼を広げた。91年大型シュレッダー、大型ギロチンを導入。93年石川県に進出、金沢ハリタを設立した。
    ▼家電リサイクルを足場に=節目となったのが家電リサイクル法だった。同社は家電リサイクル法の再商品工場の認定(富山県、石川県、Aグループ)を受け富山支店を開業。2004年二輪車リサイクル開始。06年FRP船リサイクル指定引取り場所認定。08年レアメタルなどを回収する射水リサイクルセンター(屋内設備型)を開設した。レアメタル確保などの国策に伴い10年「富山型使用済小形家電等のリサイクル推進モデル事業」に参画(北陸エリア・富山、石川)。
     13年4月小型家電リサイクル法の認定業者となった。

  • 日向 方齋(ひゅうが ほうさい)-住金事件の当事者 後発高炉の意地を貫く
     会社に一方的な不利な行政指導は、飲めないとして通産省(現経産省)に、公然と反旗を翻した「住金事件」の当事者。ミスター・カルテルの稲山と対比される。以下は「私の履歴書」による。
    ▼1906年(明治39)2月山梨県に生まれた(1993年2月没)。生家は極貧だったが苦学して東京高校、東大法学部に進み、31年住友合資本社に入社。41年4月から10月まで小倉正恒・総理事の近衛内閣蔵相就任に伴い秘書官を務めた。41年10月住友本社の経理部鉱山課に復帰した。経理部は住友のすべての事業や業務を掌握し、予算から決算まで統制する権限を持ち、鉱山・林業を統括する。戦前の44年7月、住友金属工業に転籍した。
     敗戦後、財閥本社スタッフは「公職追放」の対象になったが、日向は直前の転籍から追放の対象外とされた。住金で、常務、専務、副社長を歴任し、62年社長に就任した。 ▼住金事件の当事者=当時平炉だった住金は52年、高炉を持つ小倉製鋼を傘下に収め、日向は58年常務として渡米、世銀から3,300万㌦の借款を取り付け、和歌山製鉄所の高炉建設を柱とする銑鋼一貫製鉄所建設に道を開いた。山陽特殊などが事実上倒産した65年、通産省は各社一律減産の行政指導を示した。日向は過去の市場占有をベースに固定されるのは後発高炉に不利として公然と反発。佐橋滋事務次官が指揮する通産省は原料炭輸入の外貨割り当て削減などで報復し、これに公取委が異議を唱えるなど、政官財界・労組を巻き込む一大論争を呼び込んだ(住金事件)。
    ▼日向方齋の「私の履歴書」によれば=「事件」は1965年度第3四半期(10―12月)の粗鋼減産に関し、同社が通産省指示に異を唱えたことを発端とする。粗鋼減産そのものは第2四半期から始まっていた。これは自主減産だったこともあり住金も同調したが、 第3四半期は通産指導に強化され、輸出と国内を合わせた総ワク規制となった。輸出比率が高い住金には死活の利害に係わる。
     65年11月18日、日向は三木武夫通産大臣と会見し、「第3四半期に限り輸出扱いを弾力的に運用してもらいたい」と申し入れた。大臣も「そうだな」と頷いた。了承を得たと信じた日向が帰阪の新幹線を待っているところに常務が駆けつけ、通産は「第3四半期に限り」との条件付きでは受入れられない、と報告してきた。新幹線車内から電話を入れた日向に大臣は「そういう主張は聞いたが、了承はしていない」と答えた。翌19日通産は当日午後1時に最終回答を迫った。住金は拒否、自主生産の開始を決定した。これに対し通産は同夜、住金の「粗鋼用原料炭輸入割当を削減する」との次官声明をだした。しかし原料炭割り当てを定めた石炭業法は国内炭保護が目的で、鉄鋼生産の調整に適用されるいわれはない。日向は佐橋滋事務次官にその根拠を質した。
     事件の陰の主役は八幡・富士製鉄など先発各社と佐橋事務次官であり、事件の根っこには粗鋼生産のシェア争いがあり、富士など先発各社は住金、川鉄、神鋼の関西旧平炉3社の追い上げを阻むためシェア固めに動いたと日向は見た。
     26日、日向は株主総会で経過説明を行なった。株主は勿論、労働組合も全面支持を表明した。「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」の対比が取りざたされた。東京の財界は協調主義的空気が強い。関西は住金支持が大勢だった。公取は「原料炭削減は問題がある」と公式見解を出すまでになった。某日、中山素平・日本興業銀行頭取の仲介で日向は永野、稲山と会談したという。
     12月27日、日向は三木通産大臣を訪ね「41年度第1四半期以降は根本的に再検討する」との言質を得て、通産の減産指導を受入れた。問題の生産シェアについては不満が残ったが、設備調整の理論については住金の意見も尊重され一歩前進したと見た。
    ▼「私の鉄鋼昭和史―稲山嘉寛著」によれば=「実はこれには高炉の建設とシェア争いがからんでいた」。鉄鋼不況にもかかわらず、各社の高炉建設意欲は強く八幡でも堺の第2高炉、第3転炉などを計画していた。通産も対策に苦慮し、結局、着工を半年か1年ずらすことでまとまりかけた。ところが住金は「企業は自己責任によるものだし、 計画を変更するつもりはない」として同調しなかった。紆余曲折はあったが、ともかく住金、東海、川鉄は予定通り認める(八幡、鋼管は次年度に延期)が、第2四半期の減産は住金に飲ませ妥協の道を探った。一件落着と思われたが、第3四半期の減産問題が日程に上ったとき、第2四半期だけの緊急措置と考えていた住金側と減産を継続させようとした通産省とが全面衝突。輸出ワクを別扱いにしなかったため、輸出比率の高い住金が不利になることが頭にカチンときたようだ。通産省はあくまで強硬で「住金が独自の生産体制を貫くなら原料炭の輸入枠を削減するなど断固たる方針で臨む」と高炉9社の常務会の席上でぶった。
    鉄鋼生産に不可欠な原料炭を減らし、兵糧攻めにしようとしたわけだが、かえって住金の態度を硬化させた。関西財界の中には「行政指導の枠を逸脱した官僚の横暴だ」との声もあった。この問題は鉄鋼業界のみならず財界、政界、官界を巻き込み、住金としては自主性を貫くことができず、減産体制に復帰せざるをえなかった。これが住金事件のあらましだ―と同書は整理する。
    ▼事件は先発高炉(八幡、富士、鋼管)と後発高炉(川鉄、神鋼、住金)の設備増強とシェア争奪のなかで起こるべくして起こった。シェア争いの最終解決として鉄鋼大合同(八幡と富士の合併申請)が動き出した(68年)。合併審議さ中、公取に意見を求められた日向は合併に賛意を表明し、新日鉄誕生に一役買った。無用の過当競争の回避は日向にとっても望むところだったからだ。

  • 平石 慶三(ひらいし けいぞう)-鉄屑連盟、問屋協会、「鉄屑工業会」への橋渡し
     戦後の団体活動には、懇話会(第二次)創設以来、鉄屑工業会設立まで一貫してかかわった。
    ▼鉄屑界によれば=明治44年5月生まれ、栃木県出身。昭和2年東京市立滝野川商工学校卒。10年小石川の関口商店入社、鉄屑業を見習う。12年独立して小石川に平石商店創設。18年応召のため廃業。22年共栄金属株式会社を創設。鉄屑懇話会(第一次)副会長。城北銅鉄協同組合理事長。関東の業者団体である鉄屑懇話会(第二次)創設副会長。プレス委員長ほか(第1巻1号、8号)。
     懇話会では第一次、第二次ともに副会長。懇話会機関紙である「鉄屑界」では気鋭の経営者として論陣を張った(昭和28第1巻第9号・巻頭言「鉄屑全面活用とプレスの地位確立」プレス委員長平石慶三など)。日本鉄屑連盟でも東京選出の副会長(昭和29年12月)をつとめた。
     ほぼこの間、巴会とは距離を置く、中間業者の側にたって組織運営に当たった。
     鉄屑カルテルが終わり、ポストカルテルの組織作りに奔走したのも平石だった。「カルテル終焉・往年のリーダーは語る。カルテル初期の業界指導者・座談会」(75年1月・日刊市况通信)。「備蓄、回収、工業会3団体の性格と機能について 3団体理事平石 慶三氏」(75年8月・日刊市况通信)。平石は懇話会以来、業界の内部にいてその事情をつぶさに知る語り部となった。
    ▼昭和57年春(1982)勲五等瑞宝章授与。

  • 平林 久一(ひらばやし ひさいち)-「吉備の国」からビッグ・ビジネスを拓く(平林金属)
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     仲間は上級学校に進学したのに自分は旧制中学修了で終わった。それをバネとして中・四国最大の鉄スクラップ会社を作り、全国屈指の企業スポーツクラブを育てた。2006年10月その半生の記録を自費出版した。
    ▼「まがねふく吉備に生きて――平林金属の50年と私」=父佐喜蔵、母ちかえの第四子として岡山県に1932年(昭和7)7月生まれた。父の本家は丹後竹野郡の旧家だが、移り住んだ岡山で父母たちは畑作を営んだ。45年旧制岡山二中に入学。学制改革の48年、旧制3年修了で卒業。農業に将来を托した(当時は食糧難と農地解放の時代だった)。56年(昭和31)10月、オート三輪車1台で鉄屑商売に乗りだした。
    ▼総合リサイクラーへ=60年岡山市大供鹿田町に鋳物工場専用の可鍛コロ加工工場を作り、(有)平林商店を設立した。時代の追い風もあった(東京製鉄・岡山工場62年9月操業を開始。姫路の山特、大和工業、東伸製鋼などの船荷もあった)。63年平林金属(株)に改組し、67年高炉・電炉向けの一般スクラップ扱いを目指して野田工場を建設。500㌧圧ギロチンを導入した。
    ▼68年8月、平林は業界紙座談会に呼ばれた。テーマは「労務問題から見た鉄くず業の機械化」。参加者は平林のほか扶和金属興行(黒川友二・大阪)、山根清義(山根商店社長・堺)、山口徳松(香川金属社長・香川)、神田道夫(共栄葺合工場長・神戸)で、いずれも関西・中四国を代表する有数の先駆的ヤード業者である。
    平林の機械化は、中四国地区にあっては、時代の最先端にあった。
    *平林はこの前後、岡山から夜行汽車に乗って(山陽新幹線、新大阪~岡山開通は72年3月である)大阪まで加工処理の勉強会に出向いている。
    ▼72年船荷のため新岡山港営業所を開設。73年川鉄進出に対応して水島営業所を開設。81年東岡山営業所を開設。82年本社事務所・工場を岡山市下中野に移転。89年米子営業所を開設。91年港工場開設(シュレッダー・ギロチン処理工場)。95年本社ビル(ヒラキン・ビル)新築。01年御津町に「リサイクルファーム御津」(家電リサイクル法対応)を開設(*)。03年山陰工場(自動車リサイクル法対応)を開設。06年ヒラキン玉島工場(リサイクルステージ玉島)を開設した。
    *平林は各種リサイクル法制定を前に、鉄リサイクル工業会員として90年以降、その審議段階から情報収集とその対策設備に備えた。
     それが家電リサイクル法対応の「リサイクルファーム御津」であり自動車リサイクル法対応のリサイクルステージ玉島であった。
    ***
    ▼業界活動に取り組む=85年のプラザ合意(円高ショック)後の鉄スクラップ「逆有償」PR徹底のため平林らはポスターを作って県内会員に配布した。公取・広島支部から呼び出しがきた。値段を協定しているわけではない。逆有償を呼び掛けただけだ。「嵐がくるぞ、窓をふさげ」と呼びかけてどこが悪いと反論。結局、逆有償の呼び掛けは問題ないが組織名を掲げるのは不都合だということで落着した。
     94年平林は日本再生資源事業協同組合連合会(日資連)全国副会長に就任するとともに、日資連「西日本支部」を市再生資源事業協同組合、県連合会と同じヒラキン・ビル内に設置。同業者に日資連の参加を呼びかけた。
    2000年から2014年まで7期14年間、鉄リサイクル工業会・中四国支部長をつとめた。平林は支部長に就任するや四国、山陰、山口、岡山、広島の各ブロック部会を新たに設置して定期勉強会(講演会)を開催し、支部長以下役員が参加する体制を作った。06年4月、天皇主催の「春の園遊会」に招待され、07年9月には紺綬褒章を受章した。
    ▼市民スポーツ界のリーダー=長男や次男が小学校のスポーツ少年団に加盟したことから平林も少年団の指導者コースに参加。少年野球監督をつとめ理事に就任。83年岡山市スポーツ少年団指導者協議会副会長、第60回岡山国体、市競技力強化委員会副委員長を歴任し、企業スポーツ運営に本腰を入れた。
     11年同社女子クラブは全日本クラブ選手権5連覇、男子クラブは全日本選手権と全日本総合選手権の2冠を達成した。優勝祝賀会の席上、中辻恒文・日本鉄リサイクル工業会長は「工業会として平林金属に感謝とお礼を申し述べたい」「一つは日本一を目指すという初心を忘れず勝ち取った。我われにも同じ高見(たかみ)を目指す勇気を与えてくれたこと。二つはスポーツ育成、青少年の健全な発展という具体的な形で地域貢献の手本を示して戴いた」と謝辞を述べた。
    ***
    ▼平林実=1961年久一の次男として生まれた。岡山操山高校を卒業後、専修大学経営学部で将来に備え情報管理学を学んだ。卒業と同時にシュレッダーからギロチンまで多数の拠点工場を持つ東京の中田屋に入り、一従業員としてリサイクル業の何たるかを学んだ。
     平林金属には1987年に入り本社統括課に配属された。91年シュレッダーとギロチンを備えた港工場が開設。その工場長として3年間差配した。次いで家電リサイクル法対応の新規事業として「リサイクルファーム御津」工場の立ち上げと運営に5年間当たった。
    ▼JC運営専務として=岡山青年会議所(JC)には26歳から終了年限の40歳まで参加し、運営専務も務めた。会社運営とJCでの社会・経済人としての実践を踏まえ、06年開設したヒラキン玉島工場(リサイクルステージ玉島)の経営全般を担った。この玉島は平林金属の工場ではない。株式会社ヒラキン、平林実をトップとする別会社、別工場である。
    ▼発信力ある企業を目指して=14年4月社長に就任した。15年7月「えこ便」西古松局 開設。その独自の取り組みがKSB瀬戸内海放送の「自由人・会社人」で紹介された(15年9月6日・9月13日放映)。さらに「recycle+music」HIRAKIN 60th ANNIVERSARY BRAND MOVIEや「えこ便」サンバ・おうちの資源などTVCMにも積極的に広報した。
    *平林金属(ヒラキン)はどんな会社ですか?と問われたら、キーワードは5つ。「もったいない」「ありがたい」「独自性」「高品質」「(日本ソフトボールの)日本リーグ加盟」です(㏋挨拶)。
    「recycle+music」HIRAKIN 60th ANNIVERSARY BRAND MOVIE

  • 福田 隆(ふくだ たかし)-非鉄業から参入。総合リサイクル企業へ飛躍(東港金属)
    東京都大田区 ホームページはこちら
    明治年間に故銅店として創業し、戦後は非鉄企業としての地盤を築いてきた会社が、各種リサイクル法の施行を機に鉄スクラップ業に参入し、鉄・非鉄から廃プラまでの総合リサイクル企業に脱皮した。鉄リサイクル工業会員でもある。
     以下の記述は同社㏋の沿革を整理したものである。
    ▼福田勝西商店=1902年(明治35)東京市神田に伸銅品と非鉄金属地金の故銅店・福田勝西商店を創業。29年(昭和4年)福田庸一が第2代社長に就任した(庸一は95年87歳で他界するまで東京非鉄金属商工協組、非鉄金属問屋組合全国連合会(現非鉄金属リサイクル全国連合会)設立に奔走し、また東京金属事業厚生年金基金、東京金属事業健康保険組合の生みの親となった)。
    ▼47年・東港金属設立=戦後の47年、㈱福田地銅店、東港金属㈱を創立。製品の問屋業は福田地銅店が、地金の問屋業を東港金属が扱うこととした。60年板橋区に精錬及びインゴット製造を行う東京精錬㈱を設立(78年栗山鋳造及びアイアイデーの両社を合併し、東京銅基合金工業㈱に変更)する。
    ▼79年、本社移転=東京都の工場移転計画に従い大田区京浜島の鋳物団地に新工場を設立。系列の東京銅基合金工業株式会社も同地に移転した(東港金属が、スクラップ合金を回収・分別し、東京銅基合金が熔解、インゴットを製造した)。
    ▼85年・第3代社長福田勝年が就任=勝年は66年(昭和41)大学卒業後、東港金属に入社。現場に立ったが「年々利幅が圧縮される銅・真鍮スクラップを扱っただけではやっていけない」との考えから、選別技術が難しく、品質管理も要求されるリン青銅、洋白を主力商いに努めた。同時に94年電線リサイクル処理(ナゲット)プラントを導入し本社工場に設置。さらに「環境基本法」制定を機に、同年6月「産廃物収集運搬業」、9月「産廃物中間処理業」の許可を取得した。
     97年には東京銅基合金工業を東港金属が吸収し、業の一体化を進めた。そのなかで2001年家電リサイクルのAグループの指定引取場に認定された。
    ▼2002年・福田隆が社長就任=勝年が急逝したため28歳の隆が跡を継いだ。隆は他社修行時代に培った営業ノウハウと不要資産の整理など大胆な改革に取り組み02年度売上高9億円を04年には16億円と引き上げた。それが03年第二ヤードの開設、04年10月の精錬事業の撤退(跡地に三方締め大型プレス機を導入し、アルミスクラップ事業の拡大)、11月のナゲット処理事業の撤退(跡地に廃プラスチック類等を目的とした大型圧縮梱包機の導入)だった。
    ***
    ▼06年 鉄リサイクル業に本格参入する=06年運送部門を分社化し、トライマテリアル㈱を設立した(同社は産廃物収・運業務や本社関連の輸送業務を請負う。10年には本社とともに東京都の産廃エキスパートに認定された)。
     この年本社および京浜島でISO14001の認証を取得。ギロチン機を導入した。
     07年8月千葉県富津市に鉄・非鉄・プラスチックなど混合スクラップの選別・中間処理を目的とした千葉工場(42,000m2)を開設(産廃物中間処理許可・取得)。アクアラインを通じて40〜50分で京浜島の本社工場(8,600m2)と千葉の新工場を移動できる2拠点体制から取扱量の増大と広域集荷を狙った。その設備受け皿としてドイツ製の1,000馬力シュレッダーを設置。同じ8月非鉄回収のトライメタルズ㈱を設立した。
     09年情報セキュリティマネジメントの国際規格ISO27001の認証を本社・本社工場、千葉工場、東京事務所で取得。15年、鉄スクラップの船積み輸出も開始した。
    ▼20年9月1日付でホールディングス制に移行=持ち株会社「サイクラーズ」を設立し、その下に東港金属など事業会社5社がぶら下がる組織体制とした。

  • 星山 喜淳(ほしやま)-代で熊本に九州有数の企業を作る(星山商店)
    熊本県熊本市:ホームページはこちら
     1971年創業。建物解体、自動車解体、産廃物収運・中間処理も行う総合リサイクル企業。
    ▼星山喜淳=当時20歳台後半の星山が1971年「建造物解体を手がかりに、金属くずや建築廃材などのリサイクルをベースに」業を始めた。「高度経済成長にも後押しされ、93年の合志工場を皮切りに、現在10拠点を展開」している(20年8月現在・会長挨拶㏋)。
    ▼星山一憲=1970(昭和45)年8月生まれ。東海第二高校卒。90年に同社入社、2000年から常務。星山会長の次男。09年9月社長就任した。
    ▼沿革(会社㏋によれば)=昭和46年4月星山喜淳が個人創業。昭和55年4月有限会社星山商店設立。平成3年9月株式会社星山商店設立。平成4年2月産業廃棄物収集運搬業許可取得。平成5年4月合志工場新設。平成6年10月産業廃棄物処分業許可取得。平成8年1月甲佐工場新設。平成12年12月栄工場新設。平成13年5月解体事業部新設。平成21年4月(株)ホシヤマ設立。平成21年9月代表取締役に星山一憲が就任。
    ▼月間扱い量(㏋)=鉄屑平均 23,000t。その他非鉄金属 2,200t。

ま行

  • 増井 重紀(ますい しげのり)-世界に飛び出した商社マン、「鉄屑ロマン」(Fuwa Metal USA)
     商社の枠を跳び越え世界で挑戦した。日本だけでなく英米の鉄スクラップ史にも足跡を残した。
     福岡県に1941年生まれた。65年神戸大学法学部卒。同年住友商事本社に入社。鉄鋼原料部に配属された。その行動は自伝「鉄屑ロマン」(世界出版社)に詳しい。本項は自伝を参考とする。
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    ▼大阪港の沖仲仕=話は60年代後半の大阪から始まる。大阪時代の5年間、増井はひたすら現場と鉄屑との対話に明け暮れた。鉄屑と話をしたいなら大阪築港に行けと言う。だから毎日6時前に築港に通った。重機もクレーンも充分にない時代だ。沖仲仕が16人1組(ギャング)で船倉からスクラップを引き揚げる。高価な色物も混じっている。ギャング達は懐に入れるに忙しく引き揚げどころではない。そのギャングと若い商社マンがどう渡り合ったか。
    ▼鉄屑貿易に挑戦=75年当時、米国住商はリスクの高い「鉄屑相場」は御法度だった。増井は2年間粘り、社長許可を得て78年NYで鉄屑貿易商売に乗り出した。それが彼の人生を決定づけた。
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    ▼米国シッパー副社長=全米有数の鉄スクラップ加工・輸出会社であるヒューゴ・ニューが副社長のポストと同部門の全権付与条件に入社を要請してきた。2年半後の81年、申し出を受けた。米国最大の鉄スクラップ業者は(今はない)、ルリアブラザーズ社。同社の強みは自動車をプレスした№2バンドル。これを世界に売りまくったが、自動車シュレッダー加工に乗出しルリア社を駆逐したのがヒューゴだった(日本は60年初輸入)。不純物が多い自動車プレス品は下級品扱いで値段も安いがシュレッダー加工すれば高品位。非鉄も回収できる。これが米国の勢力図を一変させた。
    ▼ヒューカ・アメリカとの抗争10年=ヒューゴ・ニュー時代の約20年間、世界は米国鉄屑を中心に回っていた。その中軸にいたのが同社。同社の鉄屑を差配したのが増井。従って彼の行動は米国鉄屑史の様相をも併せ持つことになる。なかでも面白いのが高炉系商社であった日生下のアメリカ進出(ロスアンゼルス港進出)と、時を同じくして持ち上がった大型船が自由に発着できる同港湾使用権問題である。この10年にわたる熾烈な仕入れ競争と市当局相手の行政交渉の顛末は、日米の鉄スクラップ史研究者にとっては、それだけでも貴重な現場証言となっている。
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    ▼コンテナ・ビジネスでも=増井は同社を99年退社。2002年Inabata America社長に就任(07年同社を退社)。同年大阪の扶和メタルと組んでNYにFuwa Metal USAを設立(社長に就任)。鉄スクラップのコンテナ輸出に乗り出した。コンテナは小さく集めて数量・納期・価格を「小分け」し、世界のユーザーに「直送」できる。マンモス(巨大シッパー)と蟻(コンテナ企業)の闘いだ。10年7月、その体験を1冊の本(「鉄屑はロマン」)にまとめて発刊した。これが12年1月5日「海外で活躍する日本人」としてTV放映(カンブリア宮殿)された。
    ▼その挫折=全米に蟻が象を倒す「コンテナ革命」を引き起こした。独創的なビジネスだが、やろうと思えば、誰にでもできる。だから柳の下に群がるドジョウ状態となって、数百ものコンテナ出荷会社が国中に一斉に乱立する光景が出現した。残るのはすさまじい安値競争、仕入れ合戦だった。やればやるだけの大赤字だ。放置できないと見た黒川は12年夏、扶和メタルUSAを解体した。

  • 松岡 朗(まつおか あきら)-神戸の共栄株式会社初代社長 直納・八日会長として
    昭和2年に破綻した鈴木商店の残党。神戸を本拠に戦後は関西八日会を指揮した。
    ▼「共栄五十年の歩み」によれば=1897年(明治30)金沢に生まれ。1915年(大正4)金沢商業学校 (現石川県立金沢商業学校)の13回生として卒業後、神戸の鈴木商店に入社した。鈴木商店ロンドン支店では、日商(現双日)創業者の高畑誠一の下に勤務。アメリカ転勤後は、寺崎栄一郎ニューヨク支店長の下で働いた。27年(昭和2)鈴木商店は破綻した。
     帰国後、寺崎は大阪梅田新道の太平ビル内に机2つだけで砂糖貿易の共栄商会(現共栄株式会社)を立ち上げ、松岡も合流した(寺崎は鈴木商会でジャバの砂糖輸入を担当していた)。その関係でジャバの亜細亜貿易商会との取引のなかで28年(昭和3)溶解用くず鉄輸入商売が始まった。この取引は戦争から日本向け輸出が禁止されるまで10数年続き、全量神戸製鋼に納入した。またこの直後、シンガポールからパイナップル缶のブリキ屑の問い合わせがあり、この現地立ち合いのため34年(昭和9)には向田が出向し、さらに開戦後の43年(昭和18)には、命により「南方鉄屑輸入組合共栄隊」(ジャバ、香港、シンガポール、豪州の4部会に所属し、香港、シンガポールは部会長として理事をつとめた)を編成し、占領後の金属回収に出かけた。
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     この間の31年(昭和6)事務所を神戸に移し、2席だった事務机を3席にし、そこに座ったのが社員第1号の向田(二代目社長)だった。戦時統制が強化された41年(昭和16)兵庫県下の鉄屑業者との合併から共栄は「兵庫鉄屑株式会社」を設立(一方共栄商会は、南方鉄屑輸入組合メンバーとして、別個に南洋方面の鉄屑集荷業務を担当した)。
     地元の神戸では、島文を主体とする「神戸鉄屑株式会社」としのぎを削ったが、金属類回収令が大改正された43年(昭和18年)、2社の業務を統合し「兵庫県金属回収会社」として新発足。もぬけの殻となった「兵庫鉄屑株式会社」の全株式を共栄がもらい受け、組織を変更した。
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     戦後の関西で直納業者を代表する「関西八日会」と中間業者が多数を占める「関西鉄屑懇話会」が併存した。その一方の八日会の旗頭が松岡だった。
     ▼氏は共栄(株)の社員会誌(ひびき)に断続的に掲載(14号・17号、19号)し、会社沿革のほか戦時中の東南アジでの集荷、島文商店との合弁事業など創業初期のことに広く触れている。

  • 松島 政太郎(まつしま まさたろう)*詳説-南方貿易の草分け、巴会、問協の創設会長
     戦前の南方貿易の草分け。戦後は直納業者団体の関東巴会の創設会長、カルテル協調の日本鉄屑問屋協会、日本鉄屑協議会の創設会長。需給双方の関係者から「松島老」として一目おかれた。
    ▼63年版・現代人物論によれば=「兵庫県に明治23年生まれた(昭和44年・1969年5月没)。神戸の育英義塾を卒業後、台湾銀行神戸支店に入社、東京支店に転勤。東京府議から戦後、大蔵大臣になった小笠原三九郎とも席を同じくした。竹越与三郎著「南国記」に海外雄飛の夢をかき立てられ日蘭貿易に転職し、スマトラに渡った。時に大正2年。23歳。その1年後、第一次世界大戦が勃発、ドイツ巡洋艦エムデン号が地中海、インド洋を封鎖したため南方諸島の鉄スクラップが山と積まれ、これに目をつけた松島は帆船で2,000㌧を日本に送り込んだ。これがインドネシア屑の日本輸出第一号とされ、「南方スクラップ成金」となり、元祖として内地に帰って八幡製鉄、富士製鋼に食い込んだ。一時、カニ工船に転身したが、昭和の初め再び南方鉄屑の輸入に戻り、昭和興業を創設。南方屑鉄輸入組合の理事長に就任。日米開戦後は南方鉄屑輸入統制組合の初代理事長として、南方全域から三井、三菱と共に40万㌧を引き上げ、陸、海、大蔵、商工各省にその名を高めた。戦後は専ら国有財産のスクラップを扱い、鉄屑懇話会、問屋協会の代表格として、メーカーとスクラップ業界の間に立ち、通称「松島老人」として理論的なまとめ役を務める」(要約引用)。
     *日本軍の南方作戦が進むにつれ同地域の戦争屑(遺棄兵器、破壊橋梁、工場建屋)の回収に乗出した。日本鉄鋼原料統制(株)は傘下に南方鉄屑輸入統制組合を組織。米国鉄屑の輸入組合の六洋会(商社)や共栄、松庫など専業者を加えた各社社員総勢八百余名をフィリピンやボルネオ、スマトラやタイ、ビルマなどに派遣した。 ▼「鉄屑界」(略歴)によれば=台湾銀行員、郡山絹糸紡績支配人、日蘭貿易支配人、オリエンタル自動車常務、昭和工船支配人歴任。昭和6年昭和興業を創設。南方屑鉄輸入組合理事長、工業施設処理実行組合常務理事、安本生産局嘱託、商工省鉄鋼増産協議会委員、賠償庁中央委員、八幡・富士両製鉄直納屑鉄業者の組合起雲会幹事、関東巴会世話人。(鉄屑界・第1巻1号)
     松島が「鉄屑界」に登場するのは「鉄屑懇話会相談役」との肩書を付けた上掲略歴だけである。戦前・戦中は「南方屑鉄輸入組合理事長、工業施設処理実行組合常務理事」、戦後は「安本生産局嘱託、商工省鉄鋼増産協議会委員、賠償庁中央委員」を歴任し、業界にあっては「八幡・富士両製鉄直納屑鉄業者の組合起雲会幹事、関東巴会世話人」として重きをなした。
    ▼松島と巴会(巴会結成のいきさつ)=戦後、粗鋼生産の回復に伴って鉄屑の安定が重要な課題となってきた。直納問星の団体を設立してメーカー側との協力体勢を固める必要を痛感し、昭和24年八幡、富士、鋼管の直納問屋を主体に40数社の参加を得て関東巴会を設立し、私(松島)が会長に任命され德島、石川、小林源、岡、成島、伊藤(三好)、西氏等が世話人となり鉄屑安定の協力体制の第一歩に乗り出した。八幡、富士、鋼管の3社の直納問屋を主体に結成した事により三巴になることから関東巴会と名付けた。関西その他地区でも直納問屋団体を設立して全国的に協調体勢を固める事を企画し、岡氏と共に関西を訪問し、松岡氏ほか有力者と協議懇談の結果、関西八日会が設立され松岡氏が会長に就任し、北海道巴会、名古屋21日会、九州八栄会が誕生し全国的に直納問屋の協調体勢が整い、関東巴会が中心となってメーカー側に対応する方法を採って来た。
    ▼カルテル結成後=発足と共に、カルテルは需給委員長に永野富士製鉄社長、業務委員長に稲山八幡製鉄常務、事務局長に小池氏(八幡)が就任した。毎月のカルテル価格の決定は業務委員会を開催して翌月の価格を予め協議し日時を定めて鉄屑連盟、関東巴会、関西八日会を招集して予め決定されたメーカー側の価格を表示し、鉄屑業界の意見を求め十分協議し双方納得の上、最終的な価格を決定する方法が採られた。カルテル側及鉄屑業界側の意見に相違を生じた場合、関東巴会及関西八日会は直納問屋団体の立場上協調的な態度を以て臨んだが、鉄屑連盟は強固な態度で接し理事会に持帰って再協議する等、終始強い方針の下に対応し、為にカルテル側より「鉄屑連盟は労組である」といわれた程で、双方諒解点に達するまでには相当の混乱を生じた事も度々だった。
    ▼鉄屑連盟と巴会=カルテル運営も軌道に乗るに伴って業界側でも次々問題を生じた。大同団結する事が急務との声も次々と現れ、鉄屑連盟、巴会、八日会の幹部が参集し種々協議したが結論を見るに至らず、暫定措置として30年4月関東巴会、関西八日会は鉄屑連盟に団体加入した。その後、鉄屑連盟の運営上について根本的に意見の相違を生じ、10月には脱会のやむなき事態となった。
    ▼日本鉄屑問屋協会創設のいきさつ=その後メーカー側でも、真の協力団体として全国統一直納団体を設立する必要ある事を要望され、私もその方針を固め、「鉄屑協会」の設立について準備委員会を設け対策を促進した。関東でも石川豊吉氏提唱の「鉄屑問屋組合」の設立運動が生れ、その石川氏と協議した結果、一致協力して全国直納問屋の新団体を設立する方針を定めた。こうしてAカルテル参加メーカーより推薦された直納問屋を以てまず地区別の問屋協会を作り日本鉄屑問屋協会を昭和33年11月設立した(鉄屑カルテル十年史、松島「回顧」要約引用)。
    ***
    ▼松島の危機感=松島は、大手直納業者を主体に結成された関東巴会の創設に係わり、会長に就任した。連合国による占領が終り(昭和27年4月)鉄鋼主権を回復した日本にとって最大の眼目は鉄鋼増産とその原料である鉄屑の安定供給体制の構築であった。このため政府、鉄鋼会社は、カルテル結成を急ぎ鉄鋼20社28年12月カルテルを申請した。これに危機感を抱いた鉄屑業者は反カルテルの日本鉄屑連盟を設立。この中で直納業者団体である関東巴会や関西八日会は、零細・中間業者とは一線を画す別組織として、時には鉄屑連盟に集団加盟して内部から指導権を奪う激しい抗争を繰り広げた。松島の危機感を示すエピソードが鉄屑カルテル十年史に掲載されている。
     (某鉄鋼会社社長に向って)「あんた何をノンキそうにデンと机に座って・・、現在国内60万人の第三国人の大部分の者が大なり小なり屑鉄の集荷に頭を突っ込んで、今や専業化して来ている。資金力にものを言わせて市中発生屑の大方を握られている時代ですョ。(略)。屑の市中相場を自由自在に作ったり動かしたり出来る者は実に最末端の第三国人であって、吾々専門業者でもなければ大手鉄鋼メーカーでもないんですョ。彼等は日本の屑鉄業者がなんぼ結束しようとメーカーが非常手段に出ようとそんな事へっちゃらや・・吾々業者に金のないことも手持屑のない事もヨク知ってるし、メーカーの在庫もよう調べてますワ。そこで大メーカーとして重要資源確保の意味で官民一体となって恒久的な抜本策を今直ちに樹て直さん事には永久に第三国人に牛耳られた挙句に、思う存分甘い汁を吸われて吾々業者は実力の伴わない単なる仲買人に終わってメーカーはみすみす高い輸入屑を買て行かんと思いますが・・・」。これが松島の業者感だった(鉄屑カルテル十年史「懐かしい思い出」267p)
     松島は零細・中間業者や在日韓国・朝鮮人が多数を占める日本鉄屑連盟を業界の結束を乱すものと見ていた。メーカー側は、連盟に替わる「真の協力団体として全国統一直納団体を設立する必要がある」とその結成方を松島らに要望し、松島もその実現のため動いた。松島はカルテル協調団体の日本鉄屑問屋協会を58年11月、日本鉄屑協議会を59年6月立ち上げ、その創設会長に就任し、鉄屑連盟の活動にとどめを刺した。1969年5月死去。

  • 三浦 一族(みうら)-江戸時代から地域に根付く総合リサイクル企業(紅久商店)
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     中京地区を代表する有力業者で、かつ藩御用達の二百年企業の一つでもある。
    ▼江戸時代=安永4年(1775)東海道の吉田藩(豊橋)より紅花商御用商人の営業許可を取得。以来、七代にわたり「紅屋久兵衛」を襲名。頬紅、口紅など吉田藩御用達紅花化粧品を販売した。
    ▼明治・大正=1902年(明治35)八代目当主三浦多吉が紅屋久兵衛にちなみ、「紅久店」の屋号で豊橋市曲尺手町で金属リサイクル業を創業。19年(大正 8)「合名会社紅久商店」を設立した。
    ▼昭和・戦前=30年(昭和 5)九代目当主三浦久兵衛が代表社員となり、金属リサイクル業を拡大。31年豊橋市駅前大通二丁目に狭間町営業所、および倉庫を開設し、金属原料の貨車輸送を開始。37年豊橋市南松山町に本社、および倉庫を移転。鉄道引込線を利用し貨車輸送を促進した。
    ▼昭和・戦後=45年戦災、休業。47年営業再開。58年三浦伊久多郎を代表とする株式会社紅久商店に改組。東都製鋼・豊橋製鋼所(トピー工業)稼働に伴い指定直納問屋として納入開始(66年以降、本社事務所および工場、豊川工場、東工場、港工場、白鳥工場、穂ノ原工場を相次ぎ建設)。▼平成=2007年三浦圭吾が代表取締役社長に就任。13年小型家電リサイクル法認定事業者取得。
    ▼令和=19年三浦裕司が株式会社紅久商店 代表取締役社長に就任。同年浜松市の「中村金属興業株式会社」の発行済株式の全株を取得し、同社を完全子会社化した(以上、同社㏋沿革)。

  • 三木 平吉(みき)-徳島の伝説の男が作った会社、その現在(三木資源、三木鋼業)
     1932年(昭和7)初代九平が鳴門市で開業したのに始まる。52年徳島市佐古で阿波資源(株)を設立、翌53年三木資源に改称し、伝説の三木平吉が社長に就任した(日刊市况通信68年9月)
    ▼三木平吉=1968年(昭和43)、紀伊水道に注ぐ新町川に岸壁設備を持つ工場を建設・移転。64年、65年にも別会社を設立。3社を合せ月間六千㌧扱いに達した。その驚異的な企業展開力が当時の「伝説」となった(日刊市况通信68年9月)。
    ▼三木資源と三木鋼業=平吉は、三木資源を長男・義雄(79年)に、高松の会社(67年三木鋼業に改称)を次男・秀雄に譲ったが、92年5月平吉が、同年9月義雄が相次ぎ死去。
    三木秀雄が一時、三木鋼業と三木資源の経営を兼ねることになった。
    ▼三木資源と三木康弘=父・義雄の訃報の当時、康弘は学生(20歳)だった。卒業後、約1年半、東京のナベショーで飛び込み営業など実務を経験した後、呼び戻された。95年10月、23歳だった。
    ただ平吉と共に業容拡大に力を添えた祖母や番頭は健在だった。康弘は販売、営業実務の現場に降りて99年専務、01年副社長、04年社長に就任した。
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    ■徳島県・三木資源(㏋) 徳島県徳島市 ホームページはこちら
    =1927年徳島県鳴門市にて三木商店として個人創業。52年2月徳島市佐古にて三木資源株式会社設立(法人化)。69年2月本社工場を現住所に移転。92年5月産業廃棄物収集運搬・中間処分業許可取得。2003年4月自動車パーツ輸出開始。04年4月国際業務を分離し桜株式会社設立。7月自動車リサイクル法による解体業・破砕業許可取得。05年7月ISO9001認証登録(中四国業界初)。06年11月阿南・岡山支店を開設。07年10月一般建設業の許可取得。
    ■香川県・三木鋼業(㏋)香川県高松市 ホームページはこちら
    =1965年1月三木金属㈱発足。67年三木鋼業に社名変更。71年代表者三木秀雄。75年1月坂出工場開設。98年東京支店開設。2002年関西支店開設。03年シュレッダー工場完成。06年ISO9001・ISO14001(統合) 認証登録 本社・坂出工場。12年情報セキュリティマネジメントシステムISO27001認証登録 本社・坂出工場 通信機器処理。ISO9001登録取下、維持管理移行。14年自動車リサイクル工場 カーツ四国稼働。15年小型家電リサイクル認定業者。18年7月三木秀を取締役会長。三木高彦取締役社長に就任。同月大臣認定・ASR再資源化私設稼働。

  • 水谷 純(みずたに)-常陸那珂に港内スクラップヤードを開設(三衆物産)
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    雑品商売から始めて港内ヤードを確保。内陸にも拠点を広げ10年足らずで急成長を遂げた。
    ▼同社㏋によれば=2008年8月8日船橋市に本社を設立し、09年10月常陸那珂港の南港内に唯一の港内スクラップヤードを開設。同社は現在、ひたちなか港工場、船橋ヤード、台場ヤード、市原工場、鉾田リサイクルパーク、船橋夏見工場(19年10月)の6カ所の拠点を構えている。
    ▼業界紙記事によれば=会社黎明期は中国向けの雑品輸出が中心だった、現在でも鉄と非鉄スクラップの貿易及び雑品処理が主力事業。鉄スクラップは関東5カ所に拠点を構え月間2~3万㌧。うちおよそ半分はひたちなか港ヤードから常陸那珂港と日立港(日立市)で出荷。日立港は1万級船が着岸可能で近隣諸国の他バングラデシュへなどの遠方も定期的に行っている。また18年には敷地面積2万2600坪の「鉾田リサイクルパーク」を開設。月間4~5000㌧の雑品類を処理している(日刊市况通信。20年3月マンスリー)。

  • 宮崎 鶴松(みやざき)-明治25年、銅鉄店養子。業界における多角経営の祖
    千葉県銚子市松岸。(昭和7年1月歿・57歳)
    明治9年生まれ。明治25年、島田家から宮崎銅鉄店(東京日本橋小伝馬町)を経営する伯父・林蔵の養継子に入る。神田区材木町に移り、同区東福田町に支店、本所区千歳町河岸に倉庫及び伸鉄圧延工場。後、深川区海邊町に伸鉄工場を移設。金属精錬工場を創設。
    ▼業績=古銅鉄の売買を始めとし、会社官庁の払い下げ入札、古河電気工業の古ケーブル払い下げ、日本鋼管の鉄屑納入、製品の販売。伸鉄、精錬の工場を開設し、東京金物競売株式会社を創設した。「業界における多角経営の祖」。*昭和7年物故の後は、深川区海邊町の工場で伸鉄圧延業を営み、敗戦後は宮崎商事を創設(林治郎社長)。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 森田 喜之助(もりた きのすけ)-日本鉄屑連盟広報委員長。電炉業にも進出
    大正4年10月生まれ、石川県河北郡七塚字白尾出身。昭和4年森田三吉商店入社。18年高級鍛工株式会社代表に就任。20年横浜工業(株)創設。22年鋼材興業(株)設立。日本鉄屑連盟結成には関東鉄屑懇話会員として参加。昭和29年5月鉄屑連盟広報委員長(鉄屑界・第2巻7号)。
    ▼鋼材興業=昭和18年設立。28年再製電気銑工場完成・稼働。31年横浜市生麦工場に電炉導入。59年5月、製鋼中止。

や行

  • 矢追 欣爾(やおい きんや)-戦中・戦後の語り部、西の論客として(大阪故鉄)
    大阪市住之江区 ホームページはこちら
     戦前、戦中、戦後の大阪の鉄屑商売の語り部。堅実な商売でも知られた。
    矢追欣爾は1918年(大正7)大阪市西区江戸堀に生れた。父は死者26万人を数えたスペイン風邪に罹患、出張中の台湾で待望の男子誕生を知ることなく死去した。母の実家、徳島で矢追は高等小学校を卒業し、34年大阪の合資会社浪華商会に入った。丁稚奉公のかたわら西区商業青年学校に入学(定時4年制)、経理・簿記を修得したことが軍隊生活やその後の企業人生に幸いした。39年から41年まで現役兵として野砲隊。日米開戦前の41年に除隊。浪華商会に復帰し回収団の一員として金属統制会社に出向した。42年5月、指定商と回収団を統合し関西金属回収㈱が設立され、個人営業が停止されたことから、正式に金属回収会社に入社。回収団生え抜きとして産業設備営団関係の遊休設備の非常回収に従事した(業務部主任)。敗戦から金属回収会社の解散が決まった46年2月28日退社。戦後は46年3月、矢追商店を開業。52年1月大阪故鉄株式会社に改組し関西を代表する鉄屑業者として活躍した。主な役職・褒章は84年鉄屑工業会副会長・同関西支部長。82年紺綬褒章(中小企業振興功労)、89年春の叙勲で勲五等瑞宝章受章。
    ***
     矢追は業者座談会では無くてはならない人だった。戦前戦後を一貫するキャリアに加え、正確緻密なデータを持参し座談の軸を支えた。没後の13年(平成25)に業界紙主催で業者、商社座談会の席上、鈴木孝雄・元日本鉄リサイクル工業会第3代会長が、矢追の貢献に言及した。「設備機械が業界に本格的に導入され急速に装置産業化するのが80年代後半から。それまでのコスト分析に関して言えば、関西の矢追欣爾さんが綿密に計算されまして、彼自身が公表したというのがあります。それが唯一でしょう。矢追さんは、わが業界は装置産業化し、コスト意識を持ってやらなければならない、皆が意識変えなければならない、という警鐘を最初に鳴らされた方でした」。
    ▼鉄のひと 水のひと 矢追欣爾遺稿集=2001年2月、矢追徹夫・隆兄弟を発行人に刊行された。
     「生涯を鉄の商いにかけた。水辺で魚釣りをたのしむことを、人生の友とした。鉄のような堅物でいながら、 水のようにやさしいひとでもあった」。そのひととなりを裏表紙にひっそりと記した。

  • 梁川 福心(やながわ ふくしん)*詳説-「くず鉄一代記」を遺す(梁川鋼材)
    山口県防府市 ホームページはこちら
    山口県防府市の梁川鋼材の事実上の創業者である梁川福心(朝鮮名・姜福心)が1989年8月、亡き夫との一代記をおよそ二年の歳月をかけ、まとめた自家本(「くず鉄一代記」)がある。
    ▼戦前に「パスポート」貰い、渡日=姜福心と夫となる梁福周は全羅南道珍島の農家に生まれた。福心は16歳で7つ年上の梁福周と結婚した。結婚直後の1939年(昭和14)2月、二人は山口県防府の浜子(はまこ)として働くとの条件で日本渡航の「パスポート」を貰い、渡日した。2年間の浜子契約が終わった夫・福周も43年(昭和18)飯場を構え、土木作業経営に乗り出した。45年日本は戦争に負け、祖国は独立した。新円切り換え(46年3月3日実施)のため飯場経営で蓄えた旧円20万円を持って東京に飛び出した夫・福周は、騙されて有り金一切を失い、音信不通。子らのため開き直った福心は(夫不在のなか)たった一人でヤミ商売に乗り出し、朝鮮飴作りに励んだ。
    ▼自転車の荷台の大きな袋が転機、鉄スクラップ業に入る=50年(昭和25)5月。自転車の大きな荷物が転機となった(福周は山口に戻って、中古自転車の改造商売を始めていた)。中味は銅線で、一袋のもうけが3,000円にもなるという。福心の飴売りはせいぜい1日350円。福心は翌日から、市内のバタ屋を回って「よそよりも1貫目1円高く買う」と宣言し、「梁川商店」の看板を掲げた。福心も福周も鉄屑商売は全くの素人だった。が、次の朝、鉄屑を積んだバタ屋の行列がならんだ。1週間後、どたばたと集荷した金属屑の半分だけでも三十万円で売れた。
    ▼朝鮮戦争と鉄屑商売=朝鮮事変がその1月と20日後、勃発した。鉄屑は未曾有の高騰を記録する。福周達は1年後にはポンコツながら三輪車1台を買い、運転手一人を雇えるまでになった。本書は口述独特の柔らかな語り口で、淡々と記述は進むが「51年5月に起きた屈辱的な事件を、私は生涯忘れることができない」と口調を改める。鉄屑商売をはじめて1年たった51年5月。「スクラップ売買で詐欺の疑いがある」と福周はいきなり警察に拘留された。問題は調べ方だった。
    刑事は翌日から約2週間、毎日店に来て、在庫の品物を一つひとつ調べたあと「これはいつ誰から買ったのか」「取引を記録した帳簿を出せ」「なぜ持ち込んだ者の住所がない」としつこく聞き、怒鳴り声をあげ記載の不備を責め続けた。が結局、事件性はないとして、梁川商店の福周社長は後日、釈放された。これが「くず鉄一代記」が記す事件の顛末である。「刑事は容疑内容を具体的に話さなかったが、品物を引き取って金を払わなかった、というようなことかと思った」とも書いてある。しかし「屈辱的な」との言い方は重い。尊厳を傷つける刑事の言動があったのだ。
    ▼編者注記=51年5月と言えば、日本で最初の金属屑営業条例が山口県で施行された、まさにその時である。同条例は、朝鮮戦争のさなかの50年12月、米軍港を持つ世保市が制定した市条例(佐世保市古鉄金属類回収条例)に続くもので、制定の経緯から、金属屑の盗犯防止を掲げながら、実際は敵性朝鮮人の監視を目的とする一種の防諜法を兼ねた特異な条例だった(「56~58年 金属屑営業条例制定」の項参照)。詐欺容疑も、身元調査のための名目だったろう。また山口県警は、この時、在日朝鮮人の鉄屑屋のほとんどを一斉捜索に入った可能性がある。本書は、山口県金属回収業条例と在日韓国・朝鮮鉄屑業者の実際を語る貴重な証言ともなった。
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    とにかく社会的な信用がなかった。「梁川商店」の看板を掲げても市内の金融機関はどこも相手にしてくれない。が、商売には運転資金がいる。だから知り合いの(高利の)借金に頼った。このころ鉄屑の市中取引が軌道に乗り、同時に鋼材販売分野にも進出することとなった。この前後、取引相手が大手企業に広がった。運転資金は、バタ屋相手の比ではない。また事業の拡大とともに、それ相応の土地や加工・処理、在庫用の建屋・工場も必要になった。そのころ梁川商店に土地の売り込みの話が持ち込まれた。が、まとまった金はない。ただ当時の金融機関は、鉄屑業などには見向きもしなかった。ただ土地などの担保があれば別だ。そこで内金を済ませ登記を移したあと、土地を担保に差し出したから、銀行も長期月賦での融資に応じてくれた。初めての銀行融資だった。55年(昭和30)2月、株式会社梁川鋼材を発足させた。従業員32名。年商15億円だった。
    ▼パチンコ業も手がける=福心はパチンコ屋に目をつけた。客さえ来れば日銭が入り、手形の心配も無い。幸い駅近くに恰好な土地がある。初めは乗り気だった夫は、高額な開店費用を聞いた途端、「暴力団が出入りする。正業ではない」と説明すら聞かず反対した。これで話は終わったはずだが、しかし福心は諦めがつかなかった。その後、オイルショック(73年)と「全治3年」の大暴落が梁川鋼材にも波及した。座して過ごせば倒産しかない。危機打開には確実に日銭が稼げるパチンコしかない。それに福心は賭け、1号店は80年開業し、マイカー時代に対応した郊外型の2号店も82年竣工した。梁川鋼材は、鉄スクラップと鋼材販売の商売だけでなく、アミューズメント時代の波にも乗った。以上が「くず鉄一代記」の大方のあらすじである。
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    ▼編者注記=在日コリアン系鉄スクラップ業者は、一般に金融機関からの信用が薄かった。土地を担保に融資を受けることができても、その枠を超える信用(融資)は期待できなかった。が、鉄スクラップは相場商品で、板子一枚下は地獄だった。一方、パチンコ商売は、国の法律(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)で営業が規制される、いわゆる「風俗業」だ。だから福周は、商売のセンスに優れた福心のパチンコに賭ける思いを知りながら「正業ではない」と退けた。とはいえ「安全ネット」はいる。パチンコ業は立地と客筋さえつかめば、確実に「日銭が稼げる」。だからこそ金融機関を頼むことができない在日コリアン系鉄スクラップ業者にとって、パチンコ業は万が一に備える自己防衛のため、自社経営を守る非常救命装置として選ばれた。異境のなかで生き残るには、人の嫌がる商売に明日を見つける。その選択しか残されていなかった。
    福周は87年10月死去した。享年70。その2年後の89年8月、福心は夫との出合いから創業、現在に至る歩みを「くず鉄一代記」としてまとめ、夫への密やかな紙の墓碑銘とした。

  • 山下 昇一(やました しょういち)-「サイドプレス」を開発(香川オートリサイクル・山下)
    本社 香川県善通寺市
    プレスと言えば一般鉄スクラップ処理が中心だった1990年前後、自動車解体業者が自前で開発したのが、機械構造に熟知した山下昇一を中心とする解体業者グループだった。
    山下は香川県に1941年(昭和16)生れた(2006年7月没。享年66)。国立粟島海員学校を卒業し神戸の海運会社に就職。10年ほどの海外・機関船員生活後、69年故郷で自動車解体業を経営。
     76年(有)山下を設立。89年解体業者仲間(岡山市の宇野自工、広島県三原市のセコ)とタッグを組み、世に送り出したのが自動車解体業者専用・地上据え付け式プレス機である「サイドプレス」(山下らが協議、命名した)だった。
     第1号機は89年9月岡山の宇野自工。この年バブル後の鉄スクラップの需給バランスの崩壊からプレス業者やシュレッダー業者に自動車ボデーガラを持ち込んでも逆に処理代を請求されるようになった(逆有償)。自衛策として解体業者が注目したのがサイドプレスだった。圧縮減容することで処理・輸送能力を高め、販路も地場だけでなく遠方に拡大。これを機に廃車流通の力関係は大きく変化した(サイドプレス・ショック)。山下が見据えていたのは、当時既に法案化作業が始まっていた自動車リサイクル法施行下の自動車解体・部品業界の将来像だった。
     予想される自動車リサイクルの法制化に向けた勉強会(サイドプレス勉強会)を同機の設置業者に呼びかけ(92年)、中間処理の許可取得や(自動車リサイクル法に先立って)「産廃マニュフェスト」の使える工場作りを提唱し、独自に開発した油水分離装置(山下式)を組込んだ工場建設を指導した。山下は、法制化後の業界の有り様に警鐘を鳴らした。「気がつけば『裸の王様』か(99年6月)」、「将来のために今できること(10月)」、「日本規格・日本基準を作る(2000年6月)」。新法が施行された05年には「自動車リサイクル法と異業種・大手の新規参入の中で既存・中堅業者はどう生き残るか」(5月・日刊市況)との意見広告を出した。
     山下はサイドプレスというハードの開発を通じて、自動車解体・部品ビジネスというソフトの未来の変革を志した。しかし病魔は時をかさなかった。2006年7月死去。享年66。

  • 山中 正一(やまなか)-関東地区有数のビッグディーラー(YAMANAKA)
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    ▼山中正一=1921年(大正10)11月生れ。東京都出身。23年(大正12)父・常太郎が品川区西大崎で鉄屑商山中商店を始めた。正一も34年(昭和9)ごろから家業を手伝い、45年(昭和20)川崎市大島町に店舗を移し、46年個人経営を株式組織に改め㈱山中商店に改組。52年川崎市旭町に移転した。鉄屑懇話会会員(鉄屑界・53年1巻第8巻)。
     *当時、川崎地区では日本鋼管直納の丸和商店が圧倒的勢力を持っていたが58年3月、破綻した。丸和商店の残党、関係者がその後継に乗りだした(影島商店、丸和商事)が、力の空白が生まれた。また60年代は大手商社と戦後後発の電炉の時代だった。ヤード出荷能力が全てだった。そこに山中商店は新たな活路を求めた。
    ▼山中伊三郎=「私たちは、メーカーさんが紳士的に出てくれれば紳士的に対応しますが、メーカーさんが自己都合で動くなら、こちらも自己の自由で動きます。大きい小さいの違いはあっても小さいのは小さいながらもの力はあるんです」(電炉不況のなかで「メーカーが黙って」手形を百二十から百五十、百八十日に伸ばしていた)。「あくまでも山中のノレンを守って、商社を介さずに、月間の量の半分はどこまでもやっていきます。独自の立場がなければついていけない」(日刊市况通信。64年正月・メーカー・商社・業者業界紙座談会29p)。
    ▼山中昌一=大正12年の創業以来、私達は、製鋼原料である鉄スクラップの集荷から加工及び製鋼メーカーへの納入を、一貫体制で行って参りました。早くから資源の再利用・リサイクルに取り組み、現在では東日本に19拠点と海外に2拠点の工場を構え、年間の取扱高約120万トンと、製鋼原料加工事業としては国内トップクラスの規模と実績を誇るまでになりました(同社㏋・挨拶)。

  • 山根 清義(やまね きよよし)-日本初の本格ギロチン機導入と大型ヤード運営(山根商店)
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    日本の鉄スクラップ大型・機械による高速処理と複数の大型ギロチンの組み合わせによる効率稼働体制は、沖縄出身の堺市民の挑戦によって最初の一歩を踏み出した。
    ▼業界の先駆者として=沖縄県与那城町伊計島に1922年(大正11)生まれた(2010年12月没。享年89)。15歳で大阪に出て、49年(昭和24)大阪府堺市海山町の自宅で起業した。54年には早くも水圧プレス、55年には出入荷回転の高速化のためリフマグ付きクレーンを設置。同じ海山町の現在地に本社を移し、株式会社に改組したのが59年。鉄スクラップの機械処理といえば小型プレス機しかなかった64年、日本で初めて本格的な370㌧圧門型シャーを導入した。
     門型シャーを指して「ギロチン」との呼称が登場するのは、山根ヤードの紹介記事が最初である。「アメリカの業者も驚いた―ギロチン・シャーの威力」。リフマグ付き天井走行クレーン(5㌧)、弾丸プレス2基も備え「アメリカにもこれほどのヤードはない」と言わしめた(65年6月特集号29p。日刊市況通)。清義社長自らが日商岩井社員と共にドイツのリンデマン社に赴き購入したものだ(日本製のギロチンが登場するにはこの6年後)。さらに72年には500㌧圧機、74年には750㌧圧機を導入して画期的なギロチン3基体制による高速処理モデル工場を作り上げた。
     また間口250m、奥行き66m、総面積16,500㎡の単一ヤードとしては当時、日本最大の機械化処理工場に仕上げた。ギロチンも81年には1,000㌧、85年には1,600㌧へ更新。日本の近代ヤード設備導入と複数機の連携処理は山根商店を原型とする。
    ▼郷里沖縄のために=山根は55年(昭和30)ごろから米軍統治下にあった郷里の伊計小中学校へ野球道具を贈ったのをきっかけに伊計島や与那城町へマイクロバス、育英資金原資などの寄付を続けた。「島の人たちに役立ててほしい」と集会室を備えたコミュニティー施設「憩いの家」も贈った。マッサージ機や舞台のどん帳などの備品も含め総額で2,230万円。贈呈式で山根は「村や島のためになれば」とその思いを語っている(琉球新報02年10月記事)。2010年12月死去、享年89。

  • 横山 喜惣治(よこやま)-6拠点も時に利あらず、自己破産(横山喜惣治商店)
     横山喜惣治が1947年(昭和22)、墨田区立花で「横山プレス」として開業したのに始まる。
    ▼「鉄屑界」によれば=1921年(大正10)生れ、新潟県出身。35年郷里の高等小学校を卒業。37年上京し曳舟にて業を習い42年入隊。46年復員して開業。懇話会プレス委員(53年7月)。
    ▼「横山プレス」から「横山喜惣治商店」=51年(昭和26)、江戸川区平井に移転、有限会社横山喜惣治商店を設立(75年、株式に改組)。62年、現平井営業所に工場移設し、今日を固めた。
    ▼70年、千葉・市原に拠点を確保=平井が手狭になったため70年、千葉県市原に拠点を増設。さらに86年10月、業容拡大に伴い同じ市原の現在地に移転・拡張。大型ギロチン工場を建設した。
    ▼80年に勝浦、82年には白井に進出=80年、非鉄処理拠点として勝浦に出張所を開設。翌81年、同業者から譲り受ける形で白井に営業所を設置。市原に並ぶ大型ギロチン工場を築いた。
    ▼業界紙報道=「横山喜惣治商店-4工場合理化完成」とのタイトルのなかで「同社の衛星ヤードを地図で押さえると主力工場の市原を基点にして本社、白井、勝浦がほぼ50Kmの圏内にあり、近代化を達成したヤードをベースにして専務の榮一氏が商社など対外業務を、常務の良行氏が営業を行い、同社の経営を推進させている」(日刊市况通信87年10月・第220号)。
    ▼88年、八千代工場建設し、京葉5拠点体制を構築=廃業意向の同業者のヤードを引き取る形で、白井と市原の中間点の八千代に拠点を構え、東京・平井、千葉・4拠点の連携ができあがった。
    ▼89年、相馬に営業所=電炉メーカーの相馬進出に備え相馬市内に6番目の拠点を構えた。
    ▼94年、(有)京葉リサイクル設立=市原営業所を区画し、シュレッダープラント一式を備える有限会社京葉リサイクルを設立。鉄スクラップと同時に、産廃ビジネスにも本格的に参入した。
    ***
    ▼自己破産=16年10月白井営業所を閉鎖したが、18年3月、6月には金融機関の不動産差し押さえが相次ぎ19年8月事業を停止。8月22日付で自己破産を申請した(代表者 横山榮一)。

ら行

  • 李 敏錫(り)-戦時中は金属回収工作隊員・調布金属徳水商店
     戦前からの鉄屑商。明治37年8月生まれ、韓国出身。北多摩郡調布町上石原1。昭和10年より鉄くず業に従事。戦時中は金属回収工作隊員。戦後、鉄屑懇話会員(鉄屑界・第1巻7号)

わ行

  • 渡邊 治郎(わたなべ)-明治34年開業・丸和商店の開祖
    静岡県富士郡今泉村。庄屋の次男。(大正4年7月歿・38歳)
    幼少の折、火災で全財産を焼失し16歳で叔母にあたる沼津市の油問屋の小僧として住み込み24歳まで修業。明治34年独立して丸和渡邊商店を開設(沼津市春日町)。古物商を始め、鉄屑・故繊維・空缶空樽等の廃品回収に専念。沼津市初代の古物商組合長。丸和商店の基礎を作った。▼逸話=「人の不幸を喜ばず」をモットーに、清廉潔白だった。大正3年沼津に大火があり、市の半分が焼失し大量の鉄屑が出たが「人の不幸による金儲けはしない」として焼残鉄屑は一貫も買い入れなかった、とされる。長男・好郎が社業を継いだ。(鉄屑界・第1巻7号)

  • 渡邊 哲夫(わたなべ てつお)-戦後鉄屑界の理論家 丸和商店一族のひとり
     1908年(明治41)生まれ(83年11月没)。静岡県出身。戦後の業者団体である懇話会、日本鉄屑連盟で広報委員長を引き受けた。「鉄屑界」(機関紙)切っての理論家であった。
    ▼63年版・人物論によれば=沼津に拠点を持つ渡邊一族の出身。1932年青山学院経済学部卒業。「大学を終えるとすぐ兄(渡邊好郎)の経営する沼津の丸和商店に入社。その間兵役で1年間ほどブランクがあったが、1941年度再度応召するまで鉄くず屋としてのすべてを身につけた」。45年シベリア抑留。抑留・復員後の49年㈱丸和商店東京出張所設立により所長就任。▼鉄屑界によれば=鉄屑集荷と共に貿易業を営み「今日当業界の宿将として重きを」なしつつある(第1巻7号)。
     渡邊は鉄屑懇話会の機関誌(鉄屑界)創刊後(1954年1月)、欧米など先進諸国の鉄屑情報をほぼ毎号のように寄稿し、鉄屑業界切っての論客として注目された。創刊号では「太平洋スクラップの謎」とのタイトルで、米議会調査による朝鮮戦争前後の太平洋地域での鉄屑流通の「謎」を翻訳・紹介し、第3号では欧米各国の鉄屑市場を概観した。その後もカナダ、米国、さらに「欧州シャーマンプランにおける鉄屑状況」など解説。理論的な支柱を業界に提供した。
     カルテル反対運動を契機に日本鉄屑連盟が発足した53年12月(伊藤が広報委員長から価格対策委員長に転出したことから)、広報委員長に就任し、「鉄屑界」の編集長(2巻第1号~4号)を兼任した。陸軍将校上がりだったので、伊藤がつけたあだ名が「青年将校」だった。
    ***
     1958年(昭和33)3月。沼津の丸和商店本店が整理解散した。東京出張所長だった渡辺哲夫は翌4月丸和商事㈱を設立(横浜市鶴見区)。日本鋼管の指定直納問屋として関東、東北全域から集荷した(同社㏋)。この時、川崎出張所長だった影島義忠は同年5月影島商店(川崎市)を設立。沼津市春日町の本店も6月丸和鉄屑㈱を再建し、61年㈱丸和に改称した。
     75年日本鉄屑工業会創設にあたり設置された環境整備委員会初代委員長。83年11月没。

  • 渡邉 淳(わたなべ あつし)-関東鉄源協同組合・初代理事長として(丸和商事)
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     沼津に拠点を持つ渡邊一族の出身。父(渡邊 哲夫)は丸和商店・東京出張所長。58年3月。沼津の丸和商店本店が整理解散した後、翌4月丸和商事㈱を設立(横浜市鶴見区)した。
    ▼工業会幹部として=92年近代化委員(「工業会活性化会議」報告書。鉄屑ニュース第94)。94年広報委員長に就任(2期4年)。98年6月工業会・関東支部長に就任。丸和商事社長。
    ***
    ▼関東鉄源協同組合・初代理事長(2001年9月~12年9月)=鉄屑の輸出増加に伴い、商品責任を明確にするため、関東鉄源協議会は任意団体から輸出機能に焦点を絞った法的な組織として2001年9月、全面的に改組した(設立総会9月20日、渡邊淳理事長・丸和商事社長。創設会員67社)。
    *その発足説明=協議会の共同輸出は10万㌧(00年)に達し01年は20万㌧超が予想される。従来の任意団体では、マーケットクレームや放射線物混入が出た場合、対応上問題が生じる。法人化することで責任が取れる組織とし、需給と市況の安定を図る。また営利活動もできる(「関東鉄源協議会長・渡邊淳氏にその内容を聞く」。01年8月、日刊市况通信夏季特集7p・要約)」。
    *11年3月11日、東日本を襲った大震災と津波で東京電力・福島原子力発電所が爆発。放射能汚染が拡大するなかで同協組の汚染対策は鉄リサイクル工業会・本部の迅速な対応行動と相俟って鉄スクラップ放射能汚染の「風評被害」防止に大きく貢献した。

  • 渡邊 泰博(わたなべ やすひろ)*詳説-ニッチでユニークな専業商社を育てる(ナベショー)
    大阪市中央区 ホームページはこちら
     渡邊泰博は、1970年代に後発のユニークな鉄スクラップ「コンビニ商社」を育てた。また父・泰輔は「渡邊商事百年史」を、泰博は「次代に夢を」(1994年)、「ニッチな商社、ナベショー(上・下)」(2016年)を刊行。歴史認識の高さを示した。以下お記述はそれらを参考にした。
    ▼由緒書きによれば=渡邊家の遠祖は渡邊綱。江戸時代を通じて福山藩の古津番役人。維新後、旧役宅で製綿業を始め、1882年生まれの傳七が「船釘、鉄材」業に乗り換えた。
     その長子の泰輔が1931年(合資)渡邊傳七商店を設立し、戦前・戦後を通じて福山を拠点にした。55年業容拡大を目指して大阪に本社を移し、渡邊商事に社名を変更した。
    ▼阪和興業営業社員として3年間(67年~70年)=渡邊泰博は、泰輔の長男として1945年(昭和20)1月福山に生まれた。67年中央大学経済卒。同年阪和興業・東京に入社した。新入社員は「現場で鍛える」のが、阪和興業の伝統的なやり方だ。初めの一年半は、江東区枝川町にある非鉄金属部門に配属された。早朝から出社し、時には宿直し、残業も深夜・連日に及ぶのはざらで、そんな朝は、太陽が黄色くなるどころか、時には紫色に見えたりもした。
     在籍2年目の後半。営業部門に替わった。まず「得意先は自力で開拓しろ」「やり方は自分で考えろ」というのも阪和興業の営業のやり方だった。会社などでぼんやりなどしていたら、叱られ、怒鳴られる。しかし行くあてなどない。しかたがないから、行ったことにして日報を書く。ウソほどエネルギーを使う作業はない。ダメ社員の蟻地獄から抜け出すには、実際に外に飛び出し、歩き回るしかない。朝出勤して夕方帰社するまで、時間をどう使うか。行動半径をどう設定するか。相手に自分をどう印象付けるか。それを成果に、どう結びつけるか。そのすべてを必死に考え込んだ。
    ▼余命3年の宣告=ある日、上司から「お前、会社を辞めるのか」と聞かれた。父・泰輔が無断で会社に辞表を送りつけていた。70年1月に渡邊商事・大阪本社に入社した(八幡と富士が合併し新日鉄が登場したのが3月末)。ただ入社するまで、会社の実態をほとんど知らなかった。
     会社に入った渡邊が衝撃を受けたのが、「する仕事がない」ことだった。そんななか丸紅の社員から「あと3年もてばいいほうじゃないか」と言われた。会社でぼんやりすることなど考えられなかった阪和興業時代の記憶が生々しいだけに、行く末は、想像するだに、恐ろしかった。席を同じくする社員が、「する仕事がない」、「ヒマの怖さ」を、なんの異常とも、怖さとも感じていないだろう不気味さ、その怖さがさらに怖さを募らせた。三年持てばよいほうだ、との丸紅社員の厳しい見立ては、いわば世間の目。必ずしも的をはずしたものではなかった。
    ▼「商権」の高い壁を前に=渡邊が動き始めた70年は、それまでの戦国乱世に終わりを告げる新日鉄が誕生した年だ。その新日鉄を頂点に鉄鋼販売、鉄スクラップ納入は、鉄鋼会社・大手商社(直納)・業者(代納)の精密なピラミッド構造にガッチリと組み込まれていた(新日鉄的平和)。新参者を遮る半公然の関所として立ちはだかっていた。ガラスの分厚い「商権」の壁だった。
     では生き残る道をどう切り開くか。答えは単純。商売の王道を歩むことだ。「自力で新たなルートを作ればいいのだ。そのために商品を買い取り(所有権を移し)、自社品として納入する。自らの力でルートを開拓し、拡大する。納入品にトラブルがあれば責任を持って弁償する、リスクを負う。それを継続すれば、信頼ある会社として、世間の見る目も変わるはずだ。物を動かすだけで、納入品に最終責任を負わないブローカーからの脱皮を目指す試みだった。
    ▼オフ・コン導入は73年12月=一人の女性社員が風邪で休んだ。それだけで帳簿記入が止まった。事務処理能力の無さが会社を潰す。その恐怖がIT(情報技術)導入の理由だった。
     事務能力が無いのであれば、人員を確保しなければならない。が、渡邊商事に入ろうと思うような脳天気な人間などいない。当時、世にコンピュータなるものの存在がようやく知られるようになっていた。切羽詰まった渡邊は、コンピュータの導入を思いついた。が、社長に反対された。ブローカーに毛の生えた程度の渡邊商事には、高価なコンピュータの導入は、不釣り合いだった。しかし、阪和興業で営業を叩き込まれた渡邊には、計数管理の会社経営の持つ重みが、いやというほどにのしかかっていた。いま対策を怠れば、会社は事務能力の脆弱さから確実に破綻する。もはや社長を説得する一刻の猶予もなかった。だからコンピュータ会社(兼松ニクスドルフ)の社員と社外ですべての手はずを密かに整え、社長が帰宅した深夜、素早く設置した。勿論、翌朝、激しく叱責された。が、すでにことは終わっていた。73年12月も押し詰まったころだ。  その後の問題は、社長にではなくコンピュータ性能と社員にあった。誰もまったく使いこなせないのだ。渡邊は休日どころか、盆も正月もなくなった。朝から晩までコンピュータに向き合った。慣れない入力は困難を極めたが、「自分さえ頑張れば」との一念が支えた。気に入らなければそっぽを向く人間が相手ではない。相手は機械だ。動く・動かないは、自分の努力次第だからだ。
    ▼電話から字がでるFAX導入は74年=その翌年の74年12月にはFAX機も導入した。きっかけは郵便ストだった。ストで郵送が止まり、代金支払いができなくなった。ストのせいだとしても、金銭支払いは渡邊商事の信用に係わる大事だ。さて、どうしたものか。ところが電話一本で声どころか、文書も送れる機械が開発されたという。これも高価なうえ事務机ほどに大きい。が、全事業所に設置しようと即決した。正解だった。その後のことだが、FAXを使って得意先全社に、価格変更や荷受けは勿論、荷動きなど独自情報を流した。これが思わぬ反響を呼んだ。取引の薄かったお客様からもFAXを流せとの要望が増え、取引チャンネルが広がった。
    ▼嵐の中、77年社長就任=73年秋の石油危機に始まった電炉不況は、75年には業界丸ごとの「構造不況」に陥った。このなか高炉を大阪製鋼と大谷重工業が合併し合同製鉄として発足(77年6月)。この合併参加に名を連ねその後脱落した日本砂鉄鋼業は、直後から信用不安に巻き込まれた。
     新参の渡邊商事には、有力電炉会社に直納窓口を持つ「商権」がなかったが、その数少ない例外が日本砂鉄鋼業で、かつトップクラスの債権を保有していた。だから日本砂鉄鋼業の去就は、渡邊商事そのものの命運に直結する。その固唾を飲むような77年1月、創業70年目の節目に、渡邊は第三代社長に就任した。社会人11年。渡邊商事入社8年。33歳だった。
    ▼骨身にしみた自力の無さ=社長に就任して見せつけられたのは、余りに非力な自社の現実だった。生き残るには、自分の身は自分で守る、そのような確固とした体制を作ること。未来に責任を持つ者(社長)として、業務改革、体質改善に全力で取り組むこと。そう決意をした。しかし面従腹背どころか、社長提案のことごとくが、古参社員たちに反対された。従来手法でよしとする古参社員と、将来のために今をどう変えるかと訴える渡邊とでは、発想の次元が違った。
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    ▼必死で人材を求めた=古参幹部が次々と去ったが、確固たる経営指針、営業方針のもと、組織力で目的に突き進む社員集団を作る、との信念は揺らがなかった。では、その社員集団をどう作るか。
    ▼業界とは無縁の経験者を採用する=採用しても、新卒も業界経験者も、数ヶ月もたたずに、次から次へと辞めていった。こうなれば業界に関係なく社会経験のある人間を中途採用すればいいと腹をくくった。が、これが正解だった。中途・異業種採用だから、面接時には前社での退社理由をストレートに聞く。それで性格・相性が分かる。また彼らにとっても、先入観や予断を持つことなく挑戦できる。前職の経験も応用できる。それだけではない。異業種転入組から教えられたのは、鉄スクラップビジネスが、実は「驚くほど恵まれている」という見方だった。彼らによれば、このビジネスは現場・現物、即決・現金。押せば、押しただけ動く。こんなに面白い商売、世界がどこにあるのか、ということだ。なるほどと目から鱗がおちた。
    ▼流通の「マルチ仲介」業者として=86年から本格化した高炉との取引が画期となった。大手商社と商社をつなぐ仲介ビジネスが動き始めた。いままでは大手商社のメンツと縄張り意識がお互いの物流を塞いでいた(大会社のワナ)。メンツも縄張りもない渡邊商事が中に入れば、互いに意地をはることなく、物は動く。物が動けば利益が発生する。大手商社にとっても悪い話ではない。
     その「使い勝手の良さ」もあってか、大手ヤード業者の土地・設備と渡邊商事の営業力・情報力を結合し、共同販売を手がけるヤード連携ビジネスが始まった。
     87年2月のことだ。ではなぜ、この時期、渡邊商事に、そのようなマルチ仲介が可能となったのか。外部背景としてはこの時期、大手商社が、本体から鉄スクラップ部門を切り離し、100%資本の子会社に移し始めたこと。行く手を阻む「商権」の壁が、内側から崩れだした、ことなどがあった。
    ▼貿易ビジネスに「商権」は無い=90年前後、国内だけでなく海外貿易が、鉄スクラップ関係者の視野に入り始めた。新規の海外輸出ビジネスは「一物一価」。そもそも「商権」が入りこむ余地など、ない。流通全体の構図が変わった。数万トン単位の大型外洋船、輸入貿易なら大手商社の独壇場だ。しかし数百トン単位の小ロットの輸出貿易は、大手商社のコストには見合わないし、国内扱いに乗り出すには、多くのシガラミを抱え過ぎている。それは白黒反転で勢力図が変わるオセロゲームの世界だった。渡邊商事の弱点(既得商権の不在、小口・多角取引)が突然、強みに変わった。
    ▼88年「最高の広報マン」活動に乗り出す=月間扱いが五万㌧台に乗った81年以降、渡邊は、業界各紙の取材に応じ、事業活動などの話題を提供すると共に、業界紙に企業広告を掲載する積極的な広報活動を強めた。この企業活動キャンペーンは、予想外の反響を呼んだ。そのため91年7月から同紙での定期広報・広告掲載(「THE NSニュース」)を開始した。
    ▼94年「次代に夢を」を刊行=業界に入って24年。そのすべてを振り返り、未来を見据えた「次代に夢を―次世代へのバトンタッチのために」との自家本を出版した(94年9月)。
    ▼94年10月「ナベショー」に改めた=この「次代に夢を」の制作、出版が、渡邊の次の転機となった。社名を渡邊商事から「(株)ナベショー」に改め、7カ条の「企業理念」を制定した。
    ▼94年・企業理念を制定=①商権とは商売をすることができる権利と理解せよ。②ナベショー語録に口銭という言葉はない(口銭ではなく利益だ)。③利益は堂々と取れ(相手に喜んで貰える仕事をせよ)。④当事者能力を持て(自己責任に徹底せよ)。⑤利益率は上がらないと考えよ(取引を最優先せよ)。⑥ウソは必ずバレルと思え(下手な駆け引きはするな)。⑦余計なプライドは捨てよ」だ。
    渡邊は「理念①は、全くの逆説だった。3年も持ったらいい、としか見られていなかった当社には、実は商権(「既得権益」)など一切なかった。だから敢えて字義通り商権とは(誰でもオープンに)「商売できる権利」だ、だから胸を張れ、と社員を叱咤した」と言う。
    ▼「セールスマニュアル」本を刊行=その理念に基づき96年から日刊市况通信社のデイリー版紙面に身辺雑務から世界経済に及ぶ「伝言板」の連載を開始した。また社員教育用として、2001年に7か条の企業理念と実戦的な「考働力(行動力)」営業を敷衍した「セールスマニュアルNO1」(手帳サイズ200p)を作成。その10年後の11年には、その後の実績を検証した「セールスマニュアルNO2」を刊行。成熟した業界は自らの歴史・歩みを検証すべきだとの思いから2005年、業界紙編集長の冨高幸雄と共著で「鉄スクラップ全史とビジネス」を発刊。業界の注目を集めた。
    ▼07年3月5日、日経「会社の金言」へ=日経新聞・朝刊の「会社の金言」欄に理念第3条の「利益は堂々と取れ」が見出しとなって紹介された(中見出しは「サービスの対価、顧客も納得」)。
    「製鉄原料となる鉄スクラップの老舗問屋であるナベショー(大阪市)。渡邊泰博社長が営業担当者を育てようと自らつくった『セールス・マニュアル』でスローガンとして唱えるのが『利益は堂々と取れ』。原料問屋として取引先に適切な情報を提供し、継続的に取引を維持できる仕組みをつくれば利益は得られる、という意味。『顧客に喜んでもらい、胸を張って利益を受け取れ』と社員に言い聞かせる(略)。『利益は堂々と取れ』という標語は、社内では『給料は堂々と取れ』となる。提案力を鍛えようと人材育成に力を入れる(二〇〇七年三月五日朝刊)」。
    ▼史書、事典を業界に提供=歴史とは認識の共有である。認識は正確な用語を前提とする。泰博は会社創業100年を記念して09年「日本『市中鉄源』-現代70年編年史」を日刊市况通信社の全読者に贈呈し、15年冨高幸雄の「鉄スクラップ総事典」の出版に協力し取引先に同事典を贈った。
    ▼「ニッチな商社、ナベショー」を刊行=泰博は「次代に夢を」(1994年)、「セールスマニュアルNO1」(01年)、セールスマニュアルNO2」(11年)の集大成として「ニッチな商社、ナベショー(上・下)」(2016年)を刊行し、次の百年への夢を社員に託した。

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