在日コリアン・鉄スクラップ史

はじめに

始めに=鉄スクラップは産業活動の中からも、生活周辺からも、休むことなく発生する。鉄器時代の現在にあって、飲み水のようにも、また下水管のようにも、流れている。その回収、集荷は法的な許可・資格を必要とせず、また比較的軽資本でも参入できるため戦後、日本に留まるを得なくなった在日韓国・朝鮮人(注)にとって格好の職種の一つとなり、21世紀の現在、日本の鉄スクラップリサイクルの相当量は、彼ら在日コリアンたちの手によって動いている。本書はその彼らの今日に至るまでの歩みを、法制、実務、文書を通じて明らかにしようとの試みである。
*注=本書は歴史的な流れに従い、植民地時代は在日朝鮮人、戦後は(韓国独立により)在日韓国・朝鮮人、91年入管法改正後は在日コリアンと呼ぶ。

日本渡来のいきさつ

  • 日韓併合(1910年)=まず、なぜ韓国・朝鮮人が日本に渡来し、なぜ現在も在日コリアンとして居住しているのか。在日コリアンの現在を知るためには、日韓に横たわる歴史を知らなければならない。
      日露戦争(1904年)の勝利を足場に日本は韓国に対し財政・外交権を掌握する協約(第一次04年8月、第二次05年11月)を締結し、日本の韓国保護をロシアに認めさせた日露講和条約(05年9月)後は、韓国の直接支配のため統監府(12月)を開設した。翌10年(明治43)8月22日、日本は韓国併合に関する日韓条約を締結。韓国の国号を朝鮮に改め、韓国支配の絶対権限を統括する朝鮮総督府(注)を置いた。
     (注)朝鮮総督府=朝鮮支配のため軍事・行政の全権を包括的に掌握した。総督は陸海軍大将を充てた。治安維持のため一般警察ではなく軍直属の憲兵警察制度(1910年9月)で朝鮮国民を監視した。

  • 在日韓国朝鮮人渡来の歴史=在日韓国朝鮮人渡来の経緯は以下のように要約される。
    ▼第1期(1910~20年)=韓国併合からまだ日が浅く、憲兵などを全面に立てた武断支配の反発などから19年3月1日から約半年、朝鮮全域で反植民地闘争(3・1運動)が勃発した。総督府は反植民地運動の日本持込みを警戒し、旅行証明書を義務づけるなど日本への渡航制限した(19年4月)ことから、この時期の渡航は少数にとどまる。
    ▼第2期(20~30年)=日本では23年(大正12)関東大震災の混乱のなか日本人自警団による朝鮮人虐殺事件が発生するなど、日本人の在日朝鮮人への警戒感も時として暴発した。総督府は治安維持のため朝鮮人の日本渡航は引続き禁圧したが、内地資本にとって低賃金でかつ劣悪な労働環境でも自由に使える朝鮮人は貴重な労働力であった。このためブローカー等による就労勧誘と「密航」が相次ぎ、渡航制限も有名無実化した。「就職が確実と認められること、労働ブローカー以外の募集であること、旅費を除き60円以上の余裕があること」等を認可条件に渡航を再開した(28年)。在日朝鮮人の居住総数は、20年代前半の3万人強から30年には30万人(内務省警保安局調べ)に膨れ上がった。この頃、日本全国にいわゆる「朝鮮部落」が形成され始めたとされる。
    ▼第3期(31~38年)=満州国建国(32年3月)に合せ、総督府は朝鮮域内での兵站産業化及び満州開拓のため朝鮮人労働力の活用に軸足を移した。日本渡航は抑制する方針としたが、実際はこの間も増加し続けた。
      内地軍需産業の拡張と膨大な人力を必要とする石炭、鉱山事業から、安価な労働者を求める圧力はさらに高まり、34年に50万人だった在日朝鮮人の居住人口総数は4年後の38年には80万人を超えた。

  • 39年~45年、強制連行=第4期(39~45年)=日中戦争から戦時体制化から国家総動員法(38年4月公布)が制定され、総督府は朝鮮語の使用を禁じる教育令(同年3月)や朝鮮の姓を日本風に改める創氏改名(39年12月)、さらに志願兵(38年4月)や徴兵制度(42年5月)を実施。戦時体制に伴う後方生産活動の労働力確保のため朝鮮全土から徹底的な「労務供出」(強制連行)を押し進めた。日本では労働者の軍需工場への徴発を可能とする国民徴用令が39年施行されたが、同令の朝鮮への適用は避け、労働力の徴発は「募集」の形で段階的に始まった。
      ① 自由募集による朝鮮人労働者の動員(39年9月~42年1月)。
      ② 官斡旋・隊組織による募集動員(42年2月~44年8月)。
      ③ 国民徴用令(44年8月~敗戦)=斡旋では生ぬるいとして、一般徴用令を発動した。
      39年から敗戦までの7年間に強制的に日本国内に連行され、就労させられた朝鮮人は、控えめに見て72万人、最大126万人を数え、敗戦当時の居住人口総数は236万人に達したとされる(注)。
    (注)朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」によれば39年から45年までの動員計画数は106万人。連行数は72万人、78万人、94万人、126万人。敗戦時の在日朝鮮人の居住人口は210万人、236万人との両資料が存在する。

  • 戦後、60万人が残留に至る経緯=戦後の45年8月から9月、朝鮮は北緯38度線を挟んで北はソ連、南は米軍(日本占領は連合国が行ったが、朝鮮は太平洋米国陸軍総司令部の単独占領)の軍政下に置かれ、米軍支配下の南朝鮮は48年8月、大韓民国(韓国)として、同年9月北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立。朝鮮は南北に分れた。45年9月から46年3月までの半年間で米軍支配下の韓国には94万人、50年までに104万人が帰国したが、ソ連支配下の北朝鮮には47年6月までわずか351人が帰ったに過ぎなかった。
      この引揚げも50年6月25日の朝鮮戦争の勃発と同時に中止され、GHQ(連合国最高司令官総司令部)覚書きによって日本政府による引揚げ業務は終わった。ただ独自に海峡を越えた者も少なくなく、韓国政府発表によれば、日本からの帰国者総数は日本側記録より多い141万4千人に達したとされ、また「非合法的な形で出国した数は81万人に達すると推定される」との資料もある。

  • 済州島事件、朝鮮戦争=外国人登録の公式記録によれば50年度の在日韓国朝鮮人は54.5万人、55年57.8万人。朝鮮南部で発生した済州島事件(48年4月3日から54年9月・注)や、その後の朝鮮戦争(50年6月25日勃発。51年7月休戦会談開始)の政治的争乱を逃れるため、一旦は帰国した日本に非合法に再入国した者もおり、実際の居住人数は公式数より多い(これが外国人登録証携行義務と強制送還に絡む)。
    (注1)済州島4・3事件=米軍政下の48年5月に南朝鮮で北朝鮮抜きの単独選挙が予定された。これに反発した一部島民が4月3日、武装蜂起したことが発端となった。南北朝鮮政府の樹立(8、9月)、済州島鎮定に反対した軍隊の反乱(10月)、戒厳令布告(11月) など政治・軍事の対立が深まるなかで、残存反乱者の鎮圧は南北朝鮮の代理戦争の様相を呈し、「敵性地域」とみなされた周辺住民の無差別虐殺が7年余り続いた。
     事件はその後、韓国では語ることも書くことも長くタブーとされたが、自国の歴史清算を進めた盧泰愚政権の誕生によって公然化され、犠牲者の名誉も回復された。殺害された島民の正確な数は未だに不明だが、「真相調査報告書(03年10月)」などによれば島民28万人のうち3万人近くが犠牲になったとされる。

  • 北朝鮮、帰国事業=北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰還は朝鮮戦争の勃発から一時中断したが、54年頃から日朝の赤十字会を通じて再開の可能性を探り始めた。ただ北朝鮮と韓国は(休戦中とはいえ)戦争状態にあり韓国政府は帰還事業に激しく反対したため、北朝鮮への無害・安全渡航保証を韓国から取り付ける必要があった。
      日朝赤十字の協定により北朝鮮の派遣船ではなく、 安全のためソ連船で帰還した。59年12月14日、新潟港からの第1船975人を皮切りに、3年間の中断期(68~70年)をはさんで84年までに9万3千人余りが帰国した。朝鮮戦争を戦った李承晩政権(在位48年8月~60年5月米国亡命)下の韓国は、政権維持のため反政府勢力や民衆を徹底的に弾圧していた。その政治状況の中で行われた北朝鮮帰国者の98%は南朝鮮出身とされた。

在日韓国朝鮮人の法的地位

日本の韓国併合(1910年8月)に伴い日本国籍民とされた韓国人は、日本の敗戦と朝鮮の支配権喪失から戦後、現に日本国内に居住する間、どのような法的取扱いを受けるかが問題となった。

  • 「第三国人」扱い=GHQは45年11月1日、「日本占領及び管理のための連合国最高指令官に対する降伏後の初期の基本指令」に基づいて、「朝鮮人は軍事上の安全が許す限り解放国民として取り扱う。彼等は日本人という用語には含まれないが、彼等は日本国民であったのであり必要な場合は敵国人として取り扱うことが出来る」とした。
      「これは朝鮮人を解放国民として扱うことを明確にしたものであり、占領政策に障害をきたす問題が生じた場合には日本人と同じ扱いをするとのことである」(在日朝鮮人の人権と日本の法律)。ただ、この通達から台湾人、在日朝鮮人は解放国民でも日本人でもない「第三国人」だとの呼称が、当時の日本人の間で浮上した。

  • 外国人登録令(47年)、外国人登録法(52年)=日本政府は台湾人、朝鮮人など在日旧植民地人は、治安管理上外国人登録令(47年5月)では「当分の間、これを外国人とみなす」(令11条)とした。そのうえで「常に外国人登録証を携帯と呈示」(令10条、法13条)することを義務付け、不呈示は刑事罰(令12条、 法18条・注)の対象とした。
     この罰則規定等は日本独立後に改正された外国人登録法(52年4月)でさらに重罰化され、14歳以上の外国人の指紋押捺義務も追加された(法14条)。戦前の在日朝鮮人は協和会バッジの着用でその存在を監視された。
     外国人登録証はその戦後版である。
     (注)登録法18条は登録証を受領せず、携帯せず、又はその呈示を拒んだ場合や指紋押捺をせず、妨げた者は1年以下の懲役若しくは禁固とする。

  • 強制退去と大村収容所(50年)=政府は在日韓国朝鮮人の管理のため、出入国管理令に一般的な強制退去理由とは別に、外国人登録法違反(24条)を加え、同令で禁固以上の刑を受けた(ただし執行猶予の場合は除く)場合は強制退去とした。つまり一般的な退去事由に加え、在日韓国朝鮮人に対しては単なる外国人登録証の不携帯や指紋押捺拒否だけでも、 違反者を強制送還できることとした。
     強制退去のための留置施設として朝鮮戦争さ中の50年10月、長崎に大村収容所を開設(注)した。
     (注)大村収容所=正式には「法務省出入国管理局所轄大村入国者収容所」。刑事犯罪者を収容する刑務所とは異なるが、出入国管理法違反者を収容、監視する機能は刑務所と本質的には変わらない。済州島事件や朝鮮戦争などで非合法に再入国した者やその容疑をかけられた者も収監された。送還が目的だから国内釈放の期限の定めはなく、収容者から「刑期なき牢獄」と恐れられた。軍事独裁政権下にあった当時、日本での反政府活動者には本国送還後、死刑を含む重罰が待ち構えていた。非政治的な理由で送還される場合でも(長年の在日から韓国に生活の場を持たない者が多いから)、送還は異国への放逐と異ならなかった。
     ***
     戦前に日本に渡航し、現に在日しているコリアンの多くは、父祖が「出稼ぎ」で来たのが多いとの報告がある。統計学的に処理されたものではないが、若い世代150人余りの聞き取りでは、親もしくは祖父が「強制連行」された者はゼロだったという(福岡安則著「在日韓国・朝鮮人」)。戦中、本人の意思に反して連行され、過酷な労働を強いられた者達は、前出の資料のとおり膨大な数に達した。しかしその多くは日本の敗戦と祖国解放と共に矢も楯もたまらずに、おそらくあらゆるツテを求めて帰国しただろう(韓国資料によれば、日本からの帰国者総数は141万人強に達する)。ただ出稼ぎで日本に職を求めてやって来た者の場合は、それとは事情が異なる。国や故郷には帰りたいが、帰っても裸一貫からの出直しだ。また不安定ながらも生活の拠点は日本にあったし朝鮮戦争による本国の混乱が不安を募らせた。
     こうして帰国の意思を持ちながら、また朝鮮戦争による帰国事業の中断などから、60万人近い在日韓国・朝鮮人が日本に留まることを余儀なくされた。戦後の49年制定の古物営業法は鉄屑を「原材料」として古物扱いから除外したから鉄屑扱いには法的規制がなかった。また市中の至るところに戦災屑が放置され、鉄屑回収は誰にとっても手っ取り早い商売として解放されていた。徴用先の工場から放り出され、生き延びるための手段を求めていた在日韓国・朝鮮人が、簡便な鉄屑商売に飛びついたのは、当然の成り行きであったろう。
     後出の「くず鉄一代記」はこの間の事情を生の声で証言する貴重な資料ともなっている。

  • 「永住権」問題=日本は52年の講和条約で、朝鮮独立が承認され、在日朝鮮人は正式に外国人となり「日本国籍を離脱したものとする」との立場をとった。とはいえ現に日本に居住する在日朝鮮人の法的地位をどうするかが別の問題として残った。永住権問題である。外国人とは「日本国籍を有しない者」(出入国管理令2条) だが、戦前は日本人扱いした台湾人、朝鮮人などは戦後「当分の間、外国人とみなす」(登録令11条)とし、日本永住は基本的に認めない方針をとった。ただ講和条約の発効から52年、現に日本に在留している在日朝鮮人等には永住付与の特例を設けた。その特例は当人の「一代限り」で世代継承は認めなかったため、在日朝鮮人の在留(永住)資格は世代によって個別法、もしくは特例追加で対応せざるを得ず、複雑を極めた。

  • 40年後、最終結着=従来の法令は世代によって在留資格が異なり、東西冷戦の歴史的緊張関係を映して過度に取締に傾いていた。また日韓条約締(65年)結後25年を経過し、協定永住3世問題に結着をつける必要にも迫られた。
     このため日本政府は91年に行われた日韓外相会議を受け、協定3世を始め戦前から日本国民の一員として居住していた者の永住資格を一括して認める「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(入管特例法)」を制定し、その法的資格を最終的に確定した。
     戦前から居住する法律126号や協定永住者、特例永住者は勿論、「平和条約国籍離脱者の子孫で出生その他の事由により入管法に規定する上陸手続きを経ることなく」在留する者も、「法務大臣の許可を受けて」特別永住できる(4条)とした(これにより済州島事件などの「密入国者」も届出により特別永住許可が与えられることとなった)。
     これら特別永住者は外国人登録証に替わって「特別永住者登録証」の受領と呈示義務は負うが、「常時携行」義務及び罰則は免除(17条)され、指紋押捺も外国人登録法の改正により撤廃された(93年及び00年改正)。

鉄スクラップ業との係わり

 在日韓国・朝鮮人は、鉄スクラップビジネスとどのように係わり、どのように見られたのか。
 そこに見え隠れするのは植民地経営国の多くがそうであったように、宗主国民と植民地民の「支配と差別」の意識、旧植民地民の台頭を恐れる旧支配者心理の微妙な陰影である。

  • 就業実態―戦前は土建、鉱業が中心=戦前の在日朝鮮人の職業は、専ら肉体・単純労働としての工業一般、土建業がその大半を占めた。韓国併合から10年後の1920年当時の在日朝鮮人総数は4万1千人、有職者3万5千人(全体の86.4%)で、非有職者(つまり家族)は少なく、ほとんどが非定着の単身労働者だったと見られる。
     仕事は手っ取り早く職に就ける工業一般と土建(つまり土方・人夫)や鉱業(炭鉱夫)など肉体労働3分野だけで全体の71・1%に達した。30年の在日総数は41万9千人、有職者26万人(全体の62.0%)。前記3分野で59.5%。農・商業、運輸22.7%、日雇い7.4%と多角化を見せた。
     これが大きく変わったのが戦時体制と実質的な強制徴用が始まった40年以降である。在日総数は10年間で3倍強の124万1千人に増え、有職者52万3千人(全体の42.1%)で非有職者(家族)が過半数を越え、在日朝鮮人の定住化傾向を示した。肉体労働3分野(66.5%)に集中したが、古物商3万8千人7.3%が職業分類4位に登場したから、在日朝鮮人の鉄スクラップ業への参入はこの前後から始まったと見られる。戦時中の内地の金属類回収は月間鉄屑扱い100㌧以上の「指定商」を中心だから、参入間もない在日朝鮮人は戦時回収の中核組織には入っていない。

  • 49年・古物営業法は鉄屑を取締り対象から除外=鉄屑は江戸時代以来、古物の代表とされ戦前の古物商取締法でも厳格な取締りの下にあった。しかし戦後の49年(昭和24)5月制定の古物営業法は、鉄屑など「金属原材料、被覆いのない古銅線類」は、「廃品であって古物ではない」(警視庁・解説)として、取締りの対象から除外した(規則2条)。この時、江戸時代以来の古銅鉄の取締りが歴史的に断絶した。▽戦後まだ日が浅く、膨大な戦災屑が残る当時の日本で、目の前に広がる鉄屑扱いが「取締り対象とならず野放しになった」(57年大阪・金属くず条例懇談会、古物商発言)。昨日までのように官憲の許可は要らないのだ。この時から鉄屑回収は、明日の糧を求める在日韓国・朝鮮人たちにとって、今日からでも、誰でも出来る、自活自営の商売となった。

  • 51年 朝鮮戦争と金属屑条例=古物営業法制定1年後の50年6月、朝鮮戦争が勃発した。在日朝鮮人・韓国人の祖国帰還業務も停止した(11月)。その直後、米海軍港を持つ長崎県佐世保市が古鉄金属回収業条例を制定(50年12月)し、ほぼ同様の内容をもつ条例が山口県(51年3月)、福岡県(51年7月)、広島県(51年8月)、高知県(52年5月)、鳥取県(52年7月)が相次いだ。条例は「盗犯防止」を立法目的に、古物営業法に準拠して、鉄屑商の取締りに道を開いた。軍港・佐世保市条例が第一号であること、在日韓国・朝鮮人の多い西日本5県であり、在日韓国・朝鮮人が多い金属屑商を標的にしたことから、敵性在日韓国・朝鮮人の摘発、監視法とも見られた。

  • 戦後は有職者の10人に1人が古物屑鉄商=法務省調査によれば59年の在日人口60万7千人。有職者が14万9千人(全体の24.5%)である。うち古物屑鉄商が1万3千人で有職者全体の9.0%。実感的には働いている在日韓国朝鮮人の10人に1人が古物屑鉄商と見られる。戦後の鉄屑価格は物価統制令(46年3月)で監視されたが、戦前・戦中のように切符がなければ一切販売できない(販売統制)という法的なシバリはなかった。
     また市中の至るところに戦災屑が放置され、鉄屑回収は誰にとっても手っ取り早い商売として解放されていた。
     強制徴用先の工場から放り出され、生き延びるための手段を求めていた在日韓国朝鮮人が、この簡便な商売に飛びついたのは当然の成り行きであったろう。
     64年の公式在日人口は57万9千人。有職者14万1千人(24.3%)、古物屑鉄商が約1万人弱で有職者全体の7.0%。69年(昭和44)が60万4千人。有職者15万人 (全体の24.9%)。古物屑鉄商が8千人弱で有職者全体の5.2%で古物屑鉄商は漸減傾向を示している。74年は63万9千人、有職者14万9千人(全体の23.2%)。うち古物屑鉄商は5.0%、約7千5百人に後退し、専門・技術性の高い技能・生産工23.5%、 貿易、その他販売15.7%、事務職14.0%、専門職・管理的職業6.5%など多方面での社会進出が見られる(この項「在日韓国朝鮮人」)。
     戦後からほぼ一世代(30年)、日韓条約による法的地位の確認(65年)から10年、この頃から在日韓国朝鮮人の職業選択は多様な広がりと社会的な上昇傾向を見せ始め、現在に至っている。

  • 在日朝鮮人脅威論=法務省の調査資料で明らかなように、リヤカー一つで商売できる鉄屑回収は在日韓国朝鮮人にとっては、制約と差別の多い日本でも極めて低資本で、確実に現金を握れ、継続できる数少ない職業の一つだった。それが戦後まだ日が浅い50年代には在日韓国朝鮮人の10人に1人がその職に従事することとなり、日本の末端鉄屑流通を覆った。その光景は、鉄屑の絶対的な不足のなか戦後復興の柱としての鉄鋼生産(「鉄は国家」であった)と鉄屑カルテルの結成を急ぐ日本(政府)と鉄鋼会社にとって、ある種の「潜在的な脅威」を与えることとなった、と想像される。
     当時、各地で進められた地方自治体の金属条例の制定や鉄屑カルテル認可後(55年)に繰り広げられた日本鉄屑連盟の排除の動きは、そのような状況のなかで進んだ(直接に在日韓国朝鮮人に言及するものは少ない。ただ例外として鉄屑カルテル十年史、回顧談がある)。

  • 鉄屑カルテル十年史の集団意識=鉄屑需給委員会が67年、カルテル結成10年を記念して「十年史」をまとめた。
     そのなかに当時の在日韓国朝鮮人に対する危機感が率直に紹介されている。
     私(鉄鋼会社社長)「・・・時にM(原文は固有名詞、直納業者団体のトップ)さん、今度のカルテルについて業者側の意見はいかがですか?」。
     M 「あんた何をノンキそうにデンと机に座って・・、現在国内60万人の第三国人の大部分の者が大なり小なり屑鉄の集荷に頭を突っ込んで、今や専業化して来ている。その資金力にものを言わせて市中発生屑の大方を握られている時代ですョ。(略)。屑の市中相場を自由自在に作ったり動かしたり出来る者は実に最末端の第三国人であって、吾々専門業者でもなければ大手鉄鋼メーカーでもないんですョ。彼等は日本の屑鉄業者がなんぼ結束しようとメーカーが非常手段に出ようとそんな事へっちゃらや・・吾々業者に金のないことも手持屑のない事もヨク知ってるし、メーカーの在庫もよう調べてますワ。そこで大メーカーとして重要資源確保の意味で官民一体となって恒久的な抜本策を今直ちに樹て直さん事には永久に第三国人に牛耳られた挙句に、 思う存分甘い汁を吸われて吾々業者は実力の伴わない単なる仲買人に終わってメーカーはみすみす高い輸入屑を買て行かんと思いますが・・・」。
    「M老の屑鉄対策についての熱弁は何時果てるとも知らず、私も少々辟易致しましたが、元より私利私欲のない老の熱意の迸(ほとばし)りであるだけに、別段反駁もせず、それを事実として素直に受取れたのは一に老の淡々とした風格による」(十年史267p)。
     当時の鉄屑関係者、ことに日本人関係者が在日韓国朝鮮人にどのような種類の脅威を感じていたか、それが組織としてどのような行動を促したのかが、これによって推測できる。
     Mの発言の根拠は不明である。しかしこの証言を「第三国人」ではなく「ユダヤ人」に置き換えれば、欧米の根拠なきユダヤ人脅威論に極めて似通ってくる。ただ、ここで筆者(冨高)がある種の違和感を禁じ得ないのは、なぜ、 このような発言が公正取引委員会の「活動認可を受けた組織団体の保存資料として」採用されたのか、という疑問だ。丁寧に読み返せば、寄稿者はMの発言を十年史刊行の機会を通じて後世に伝えたかったのだろうとの熱意が伝わってくる。
     問題は、恐らく当時としても不適切な表現を含む回顧内容の編集に、さほどの注意が払われていないことだ。十年史刊行に際し、編集委員も「別段反駁もせず、むしろそれを事実として素直に受取れた」可能性が高いと推測できることだ。とすれば、この寄稿文とその掲載は、当時の鉄鋼業界の「集団意識」 をごく自然に反映したもの、として読むべき歴史的な意味あいを示唆するだろう。

  • 鉄屑カルテルと金属屑条例の拡大=56年(昭和31)10月神奈川県や埼玉県、德島県が金属屑条例を制定した。これを皮切りに、57年から58年は24道府県が加わり、51年~52年の先行5県を合わせ、47都道府県のうち29道府県が金属屑条例を施行した。なぜ、この時、全国的な規制が実施されたのか。当時、国と鉄鋼会社は「鉄屑カルテル」を立ち上げたが、発足わずか半年足らずで崩壊(55年10月し)、早急な再建と強化を迫られていた。鉄屑カルテルを安定運営の軌道に乗せるには、供給側である鉄屑業者、ことに末端流通の多数を占める在日韓国・朝鮮人対策を含めた、全国的な流通整備を図る必要がでてくる。つまり全国各地に集荷・回収網を張り巡らしている在日韓国・朝鮮人をどのように管理、統制していくかが国家的な課題となった。そこで使われたのが、すでに先行例がある金属屑条例の一斉制定だった。ただ管理、統制していくだけなら、なにも業者反発の多い条例制定で強制することはない。警察署単位で業者らが「自発的に」組合を作り、氏名・住所を明らかにするのであれば、それでいい(東京都、京都府など)との対応に分かれた。

  • 「日本三文オペラ」とアパッチ族=神武景気(54年12月~57年6月)のなかで鉄屑をはじめ各種の金属屑は高騰し、盗難事件が多発、社会問題化した。そのため57年1月、前記の通り大阪でも「金属屑条例」を制定し防犯対策に乗り出していた。そのなかで在日韓国朝鮮人を中心とする一群が大阪陸軍砲兵工廠跡地に眠る厖大な鉄屑を求めて日夜出没した。新聞は神出鬼没な攻勢から「アパッチ族」と報道(58年6月)し、世間の耳目を集めた。
     終戦前日の8月14日午後、約150機のB29がアジア最大の大阪陸軍砲兵工廠を徹底的に爆撃し尽くした。戦後10数年経ったが、不発弾爆発の危険もあって大阪城外堀一帯には戦災屑が未処理のままに放置されていた。跡地に眠る15万㌧もの膨大な鉄屑とその(非合法) 回収戦に作家はテーマにとった。開高健はその処女作「日本三文オペラ」(59年)で、50年代前半の在日韓国朝鮮人の鬱勃たるエネルギーを描き、梁石日は「夜を賭けて」(94年)で、在日朝鮮韓国人の目線から、アパッチ事件(第一部)の内側と収監先の大村収容所の実態(第二部)を克明に描いた。

  • 「夜を賭けて」=「大阪造兵敞跡の対岸の朝鮮人集落がいつ頃できたのか判然としない。B29の猛爆を受けて多くの死者を出し、焼け野原となった大阪造兵敞跡の周辺は薄気味悪く、日本人の寄りつかないこの場所に行くあてのない朝鮮人がバラック小屋を建てて住みつくようになったと思われる。要するに日本人が忌避して住まない場所に朝鮮人集落ができているのである」。この作品が日本人作品と異なるのは、アパッチ族の顛末は、壮大な前奏曲に過ぎないということだ。作品の面目は、アパッチ族の後日談としての第二部、不法入国者の留置施設としての大村収容所の実態を収監者の目を通して描くことにあった。

  • 「65万人・在日朝鮮人」(77年)の目線=その20年後の77年、「65万人―在日朝鮮人」(宮田浩人編著)が発刊された。第1章「65万人」第2節「日本経済の底辺で」、「姿を消した三輪車部隊」の項で、在日韓国朝鮮人業者たちの姿を報告している。
     夫が運転手、妻が助手席に座る。工事現場を駈け回り、スクラップを現金で買い夕方、最寄りの問屋に積荷をおろす。1、2㌧積みの軽便な三輪トラックで走り回る彼等は、地元業者から「三輪車部隊」と呼ばれたという。愛知県では最盛期にはこうしたブローカーが約千人近くおり、うち7割ほどは在日朝鮮人が占めていた。三輪車部隊が登場する以前は、小さなリヤカーを引いて一般家庭から鉄、紙、布くずを回収して歩く「リヤカー部隊」が主力で、 かなりの部分が在日韓国朝鮮人だった、とまず在日韓国朝鮮人の回収実態を描く。
     その中での在日韓国朝鮮人からの取材として、大量に鉄屑がでる工場は「日本人業者に押えられる」し「同じ値段なら日本人に売ると(言われ)足下を見られる」。「朝鮮人にはメーカーの直納権が認められていない」から納入は日本人代行店の名義で行わざるを得ず、何段階にもわたる流れのなかで「日本人業者は労せずしてマージンにありつく」。さらに「商社が納入ルートを押え、代行店を系列化した。朝鮮人業者は商社と直接取引きするのはほとんどまれだ」との流通構造と系列化による在日韓国朝鮮人排除の流れを紹介する。
     こうして在日韓国朝鮮人は疲弊、傍流化しているようだと前段で切り取ったあと、では、その在日韓国朝鮮人を日本人はどう見ているのかと後段で分析する。在日韓国朝鮮人業者の愛知県の鉄屑扱いに占める割合は正確には分らない(同県人口に占める在日朝鮮人業者の割合は1%に満たない)が、問屋筋の一致した推測として、不況の最近でも30%、ある商社筋は「5割近い」と見ており、「かりに朝鮮人業者が足並みを揃えてストや売止めをしたら一部の電気炉は止まってしまうだろう」との商社筋の発言を伝えている。
     ▼編者注=「朝鮮人業者が足並みを揃えてストや売止めをしたら」とのコメントは、当時の商社筋の在日韓国朝鮮人業者の見方を端的に示している。日本人業者が足並みを揃えてストや売止めを行う可能性は考慮せず、一方だけの可能性を指摘するのは、公平ではない。

在日コリアンと鉄スクラップビジネス

  • 概説=その後の歴史的な事実が指し示すのは、日本の鉄屑流通を(日本人業者と並んで)全国規模で支えているのは、いまや二世から三世の世代に入った在日韓国・朝鮮人業者であるという現実である(在日韓国朝鮮人の呼称は近年、英語表記を映した「在日コリアン」へ、韓国朝鮮は「コリア」に変わった)。
     たしかに金属屑回収業の創めは、リヤカーひとつで出発した。しかしリヤカーひとつの軽資本で参入でき、あとは自分の才覚だけで取引を拡大できる闊達な自由がこの業には、ある。しかも現金決済でことは終わるから本質的に最も障壁の少ない業である(だから今日、在日コリアン企業家が多い業のひとつとなった(注)。
     (注)在日韓国人会社名鑑(97年度版)や日刊市况通信社調べによれば2020年現在、東北、関東、中部、近畿、中四国、九州など各ブロックの上位には日本人と並んで在日コリアン、若しくはそれに起源を持つ会社がランクされ、指導的な役割を果たしている。

  • 地価上昇が在日コリアンの「信用」を創造=日本の鉄スクラップビジネスは70年代前後、それまでの肉体作業から機械・設備産業へ大きく転換した。天井走行クレーンと組み合わせた大型電気マグネットが荷捌きを行い、手切りシャー程度から始まった機械切断も今や1,000㌧圧以上の大型機が一般化し、使用済自動車等を細かく引きちぎるシュレッダー機も登場した。高速道路網の発達に合せて大型トラックやトレーラーでの大量出荷と大規模工場経営が広がった。この機械化の波にいち早く乗ったのが、鉄スクラップ業者として各地で一定の土地と資力を蓄えていた在日コリアンたちだった。
     戦後初期の在日コリアンは、重量の嵩む鉄スクラップの引取りに便利な都市周辺に「職住一体」に近い形で、回収作業場を構えた。経済成長期に入った都市の膨張と急速な土地再開発の波は、かつての周辺部を都心部に呑み込み、それなりの土地を持っていた在日コリアンに思わぬ資金(信用)と経営機会をもたらした。
     世は将に土地神話時代だった。つまり土地の転売や担保提供を通じて審査にうるさい銀行も工場・設備融資には応じる。その転売金や信用でヤード用地と機械を導入し、さらに次の土地(次の担保材料)を買う。ほとんど自力で信用を創造し、ヤード設備の大型化・機械化を実現したのだ。
     勿論、日本人業者もヤードの近代化には精力的に動いていたから、日本人業者と在日コリアンがほぼ同時期、同じような機械化・ヤード化に乗出すことになった。

  • 「鉄スクラップの特性」と在日コリアン=さらに鉄スクラップの持つ「商品特性」が、いわば根無し草同然だった在日コリアンたちのビジネス拡大に有利に働いた。
    ① 鉄スクラップは「産業活動・消費」の「事後生成物」であり、高度に発展した産業・消費国家では、最もありふれた「都市鉱山」で、戦後の回収は自由に任されていた。
    ② 流通商習慣として現物・現金の即時決済が通常だから換金性は極めて高い。銀行信用も基本的には不要であり、リヤカー一つの軽資本からでも自由に参入できる。
    ③ 基本的に「廃棄物」であるから、時計やTV商品などの「機能性商品」と違い、鉄分・重量評価で価格が決まる(「成分評価商品」)。価格決定が単純で、透明性が高いから、相場に素人であっても参入しやすい。
    ④ 重量評価特性から販売のための外部営業は(たいていは)不要で、在庫・管理コストも極めて安価(錆びても、曲がっても、販売に問題はない)、かつ(量がまとまれば輸送車両がなくても)自社置場でも売れる。
    ⑤ 数量・ボリュームが価格交渉力を左右する(「多ければ多いほど」プレミアム価格が上乗せできる)。「物のあるところに買い手が寄ってくる」特異な商品・ビジネスである。つまり、流通チャンネルが無くても、鉄スクラップのボリュームさえ確保できれば、そのボリュームの山が営業力を生む。大手商社も、その量に惹(ひ)かれて寄ってくる。それがさらに在日コリアンの存在感を高めるとの連鎖が大きく動き出した。

  • 製鋼技術と流通組織の歴史的変化=流通の集荷結節点であるヤード業者の段階で全面的な機械化が動き出した同じ70年代、流通の最終点である鉄鋼会社の製鋼法も大きく様変わりした。
     鉄スクラップを大量に必要とする平炉製鋼法(鉄屑製鋼法)替わって、鉄スクラップ装入が原理的にはゼロでも製鋼できる上吹き転炉製鋼が開発(57年、初稼働)され、 60年代を通じて普及(平炉会社だった川鉄、住金、神戸も高炉・転炉製鋼に進出)した。 鉄スクラップ消費の主力は大手高炉から各地の電炉会社に移り変わった。
     この時期、在日韓国朝鮮人が多数を占めると見られた鉄屑連盟を鉄屑カルテル対応組織から放逐することに力を尽くした高炉系の直納業者を中核とする業者団体は存在感を失っていた。転炉製鋼法を採用した高炉各社が鉄スクラップ市場から姿を消した後、電炉会社が鉄スクラップ市場に登場した。この電炉会社は戦前の特殊鋼の流れをくむものと戦後発の伸鉄業の流れをくむものに大別され、さらに鉄スクラップ業者を創業者とするところも少なくない。
     それら各地で新たな拠点を築いた電炉会社は、当然のことながら、地場の鉄スクラップ業者に材料供給を仰ぐ。そこにあるのは経済合理的な選択だけである。

  • くず鉄一代記=山口県防府市の梁川鋼材の事実上の創業者である梁川福心(朝鮮名・姜福心)が1989年8月、亡き夫との一代記をおよそ二年の歳月をかけ、まとめた自家本である。
     本書は、日本統治下の朝鮮人がなぜ日本に渡来し、戦中・戦後をどのように生き抜き、今日の鉄スクラップ業をどう築き上げてきたのか。その失われかけた輪を、未来に書き残した希有な証言書である。同時に、在日コリアン鉄スクラップ史としてだけではなく、日韓併合以来の在日韓国朝鮮人の生活史、さらに天の一方を支える女性史としても読める普遍的な内容を備え、口述筆記の闊達さと加筆添削の周到さが、全編を貫く端正な文章となって時代と人を鮮やかに描き出している。
    戦前に「パスポート」貰い渡日、浜子から飯場を開業=姜福心と夫となる梁福周は全羅南道珍島の農家に生まれた。福心は16歳で7つ年上の梁福周と結婚した。結婚直後の1939年(昭和14)2月、二人は山口県防府の浜子(はまこ)として働くとの条件で日本渡航の「パスポート」を貰い、渡日した。しかし塩田の浜子作業はまさに地獄だった。準戦時下の日本では戦時兵役、徴用のため単純重労働はどこも人手不足。その穴埋めだった。二人して「はげネズミのようになる」まで働いても食うのがやっとだ。そんななか福心の田植えの上手さが、近所の農家の評判となった。手助けの米と日当が窮地を救った。福心はこの米を元手に朝鮮飴を作り、小金を蓄えた。2年間の浜子契約が終わった夫・福周も43年(昭和18)飯場を構え、土木作業経営に乗り出した。45年日本は戦争に負け、祖国は独立した。福周達も一家を売り払い家財を整理して、まず福周の両親達が日本を離れた。新円切り換え(46年2月発表、3月3日実施)のため飯場経営で蓄えた旧円20万円を持って東京に飛び出した福周は、騙されて有り金一切を失って音信不通。(帰国の身辺整理から)住む家すらない福心は3人の子らと一緒に自死を決意した。が、死ぬ気であれば何事にも耐えられるはずだ。子らのため、開き直った福心はヤミ商売に乗り出し、再び朝鮮飴作りに励んだ。
    自転車の荷台の大きな袋が転機、鉄スクラップ業に入る=50年(昭和25)5月。自転車の大きな荷物が転機となった(福周は山口に戻って、中古自転車の改造商売を始めていた)。中味は銅線で、一袋のもうけが3,000円にもなるという。福心の飴売りはせいぜい1日350円。福心は翌日から、市内のバタ屋を回って「よそよりも1貫目1円高く買う」と宣言し、「梁川商店」の看板を掲げた。福心も福周も鉄屑商売は全くの素人だった。が、次の朝、鉄屑を積んだバタ屋の行列がならんだ。1週間後、どたばたと集荷した金属屑の半分だけでも三十万円で売れた。
    ***
     朝鮮事変がその1月と20日後、勃発した(6月25日)。鉄屑は未曾有の高騰を記録する。福周達は、1年後にはポンコツながら三輪車1台を買い、運転手一人を雇えるまでになった。本書は、口述独特の柔らかな語り口で、淡々と記述は進むが、「51年5月に起きた屈辱的な事件を、私は生涯忘れることができない」と口調を改める。鉄屑商売をはじめて1年たった51年5月。「スクラップ売買で詐欺の疑いがある」と福周はいきなり警察に拘留された。問題はその調べ方だった。
     刑事は翌日から約2週間、毎日店に来て、在庫の品物を一つひとつ調べたあと「これはいつ誰から買ったのか」「取引を記録した帳簿を出せ」「なぜ持ち込んだ者の住所がない」としつこく聞き、怒鳴り声をあげて、記載の不備を責め続けた。が、結局、事件性はないとして、梁川商店の福周社長は後日、釈放された。これが「くず鉄一代記」が記す事件の顛末である。「刑事は容疑内容を具体的に話さなかったが、品物を引き取って金を払わなかった、というようなことかと思った」とも書いてある。しかし「屈辱的な」との言い方は重い。尊厳を傷つける刑事の言動があったのだ。
    ***
    *山口県条例は、鉄屑従事者の氏名、住所、本籍など写真入りの届出を求め、鉄屑売買に関する各種の義務規定を設け、違反には一年以下の懲役、又は五万円以下の罰金とした(山口県金属くず回収業条例・条例28号。51年3月30日公布、施行5月1日)。鉄屑業の届出に関しては、条例施行前に現に「営業を営んでいる者は」施行後一ヶ月以内の届出とするとの経過措置がある。その経過期間内に警察が来たから、警察も届出違反を追及することはできない。
    *記載の不備について言えば、鉄屑は古物営業法の適用を受けないから、鉄屑業者には鉄屑売買に関する記帳記載の義務はなかった。
     条例は新たに記載義務を定めたが、施行後わずか数週間足らずで、鉄屑業者を拘留し、記載義務違反を責めるのは、余りにも強権に過ぎて編者には違和感が残る。
    ***
    編者注記=51年(昭和26)5月と言えば、日本で最初の金属屑営業条例が山口県で施行された、まさにその時である。同条例は、朝鮮戦争のさなかの50年12月、米軍港を持つ世保市が制定した市条例(佐世保市古鉄金属類回収条例)に続くもので、制定の経緯から、金属屑の盗犯防止を掲げながら、実際は敵性朝鮮人の監視を目的とする一種の防諜法を兼ねた特異な条例だった(「56~58年 金属屑営業条例制定」の項参照)。詐欺容疑も、身元調査のための名目だったろう。また山口県警は、この時、在日朝鮮人の鉄屑屋のほとんどを一斉捜索に入った可能性がある。本書は、山口県金属回収業条例と在日韓国・朝鮮鉄屑業者の実際を語る貴重な証言ともなった。
    ***
     とにかく社会的な信用がなかった。「梁川商店」の看板を掲げても市内の金融機関はどこも相手にしてくれない。が、商売には運転資金がいる。だから知り合いの(高利の)借金に頼った。このころ鉄屑の市中取引が軌道に乗り、梁川商店の名前が通ると共に、地元の工場建屋の解体工事も手がけ、有力企業との取引も本格化した。また同時に鋼材販売分野にも進出することとなった。この前後、取引相手が大手企業に広がった。運転資金は、バタ屋相手の比ではない。また事業の拡大とともに、それ相応の土地や加工・処理、在庫用の建屋・工場も必要になった。ただ当時の金融機関は、鉄屑業などには見向きもしなかったし、朝鮮人ならなおさらのことだった。ただ土地などの確実な担保があれば、銀行は別の顔を見せる。梁川商店に土地の売り込みの話が持ち込まれた。が、まとまった金はない。そこで内金を済ませ登記を移したあと、土地を担保に銀行から金を借りることにした。銀行も長期月賦での融資に応じてくれた。初めての銀行融資だった。55年(昭和30)2月、株式会社梁川鋼材を発足させた。当時の従業員32名。年商15億円だった。
    パチンコ業も手がける=福心は、仕事が一段落するや気晴らしをかねてパチンコ屋に通い詰めた。そのうち次の商売はこれだ。客さえ来れば日銭が入り、手形の心配も無い。幸い駅近くに恰好な土地がある。この資材置場を転用すればいいのだと思いついた。初めは乗り気だった夫は、高額な開店費用を聞いた途端、「暴力団が出入りする。正業ではない」と説明すら聞かず反対した。これで話は終わったはずだが、しかし福心は諦めがつかなかった。田中内閣の列島改造ブームから鋼材・鉄屑価格は暴騰に暴騰を重ね、梁川商店に思わぬ大金が転がり込んだ。これをチャンスとみた福心は、再びパチンコ商売を夫に訴えたが、夫は今度も聞かない。それどころか、さらに大量の鉄屑仕入れに走った。この直後にオイルショック(73年)と「全治3年」の大暴落が世界を襲った。鉄屑が全く売れなくなった。在庫損が日ごとに膨らんだ。座して過ごせば倒産しかない。危機打開には確実に日銭が稼げるパチンコしかない。それに福心は賭け、1号店は80年開業し、マイカー時代に対応した郊外型の2号店も82年竣工した。梁川鋼材は、鉄スクラップと鋼材販売の商売だけでなく、アミューズメント時代の波にも乗った。以上が「くず鉄一代記」の大方のあらすじである。
    ***
    編者注記=編者にはある疑問があった。在日コリアン系鉄スクラップ業者とパチンコ業との関係だ。その関係をこの書は見事に解き明かした。在日コリアン系鉄スクラップ業者は、一般に金融機関からの信用が薄かった。土地を担保に融資を受けることができても、その枠を超える信用(融資)は期待できなかった。が、鉄スクラップは相場商品で、板子一枚下は地獄だった。一方、パチンコ商売は、国の法律(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)で営業が規制される、いわゆる「風俗業」だ。だから福周は、商売のセンスに優れた福心のパチンコに賭ける思いを知りながら「正業ではない」と一旦は退け、再提案もニベもなく無視した。とはいえ相場の乱高下に備えた「安全ネット」はいる。ここから見えてくるのは、在日コリアン系鉄スクラップ業者が「安全資金の自己調達」にかける執念にも似た思いだ。パチンコ業は立地と客筋さえつかめば、確実に「日銭が稼げる」。だからこそ金融機関を頼むことができない在日コリアン系鉄スクラップ業者にとって、パチンコ業は万が一に備える自己防衛のため、自社経営を守る非常救命装置として選ばれた。異境のなかで生き残るには、人の嫌がる商売に明日を見つける。その選択しか残されていなかった。
    ***
     福周は87年10月死去した。享年70。その2年後の89年8月、福心は夫との出合いから創業、現在に至る歩みを「くず鉄一代記」としてまとめ、夫への密やかな紙の墓碑銘とした。

  • 日本鉄屑工業会と在日コリアン=鉄スクラップの需給調整を目的とした鉄屑カルテルも歴史的な役割は終わったとして廃止された(74年9月)。鉄屑カルテル終了後、これに替わる新たな鉄スクラップ需給の調整・流通整理の一環として(通産省指導のもと)、鉄屑備蓄を担当する日本鉄屑備蓄協会、機械設備の融資等を担当する回収鉄源利用促進協会と並ぶ供給業者組織として、社団法人格を持つ日本鉄屑工業会が作られた(注)。
     在日コリアンにも新たな時代が始まった。ただ工業会創設に当って当時の在日コリアンが創設準備委員会等に名を列ねたのは関西や九州支部など一部に限られる。
     在日コリアンがビジネスの現場で存在感を示し出すのは、戦後生まれの第二世代が先代から自社経営権を譲り受け(世代交代)、世界のリサイクルが地球環境・資源問題を大きな枠組みとして捉え直した90年代以降(各種リサイクル法など新ビジネスの台頭)、ことに日韓鉄鋼業界が急速に接近した2000年以降である。
     (注)日本鉄屑問屋協会などを改組して75年7月発足した鉄スクラップ業者の全国組織。

日韓のパートナーとして

  • ■ニュービジネスのパイオニアとして=90年代以降、世界的な環境問題と資源確保の高まりが追い風となった。日本はEUなどで関心が高まった家電リサイクルや自動車リサイクルにキャッチアップする形で、新規法制の制定に動いた。ただ老廃・発生品である家電や自動車などは、歴史的には鉄スクラップ流通の主流ではなかった。主流は工場発生や機械・建物解体などの重量スクラップだった。解体手間がかかり不純物が多い家電、自動車などは傍流だった。しかし環境問題と資源確保の高まりが、そのイメージを大きく変えた。
     きっかけは地球温暖化防止(92年リオ国際会議)や、限りある資源の有効活用として日本でも00年以降、各種循環ビジネス法が動き出したことだ。
     家電や自動車リサイクル法は、環境・経済の特別法(だから環境省と経産省の共管)として、製造会社に最終リサイクル責任(拡大生産者責任)を課した。しかし、大手家電や自動車メーカーにはリサイクルのノウハウ(技術)がない。そのため技術・経営提携の白羽の矢が、長年の間、実績と信頼を積んできた鉄スクラップ業者に立った。
     とは言え、家電や自動車リサイクルなどは、鉄スクラップ扱いの傍流と見られ、零細と軽んじられていた。その「すき間」に、機を見るに敏な日本人と各地の在日コリアンたちが果敢に挑戦した。新法は厳格なコンプライアンス(法令遵守)が求められた。その法制上の枠組みや大手メーカーと提携・交渉が、リサイクルビジネスに新たな画期をもたらした。単に鉄リサイクルだけではない、地域・行政・メーカーと一体となった新たな総合リサイクルビジネスが、在日コリアンたちを一つの軸に動き出した。
    ■海外貿易を切り開く(ハイブリッド企業として)=日本の鉄スクラップ輸出は、関東月曜会が96年4月から月例入札を行っていたが98年から2002年まで続いた「逆有償」時代を通過して、全国各地の湾岸に広がり、2001年から一挙に年間600万㌧超に増加した。鉄スクラップは、先進国で生まれる「都市鉱山」である。鉄スクラップは先進国が圧倒的に販売力を持つ輸出商品となった。政府(経産省)も万㌧級の大型船が接岸可能な港湾運用に本格的に乗り出した。
     この時、存在感を示したのが在日コリアン系業者だった。
    すでに家電リサイクル法や自動車リサイクル法などで日本国内で収集・加工拠点の足場と体力を築いていた彼らにとって、何のシガラミもなく自由に売り先を選べる輸出・貿易商売は、まさに新天地、ニュービジネスの世界だった。
     貿易商売は、相手国と自国の需給ギャップ、価格ギャップを埋め、時間(先物契約)と空間(船荷)を文書・契約で管理する高度にテクニカルなビジネスである。さらに商売とは一面、情報戦でもあるから「敵(相手国の事情)を知り己(自国の事情)を知る」必要がある。
     新たな貿易商売が動き出した時、「在日」はもはやシガラミではなく、むしろ逆境に耐え抜いた彼らの「挑戦」として商売の輪をさらに広げた。
     その実績と成果として、いまや在日コリアン系企業は日本の鉄スクラップ流通や加工・出荷を各地で支え、日本発の海外貿易ビジネスの一角を大きく切り開くに至った。
    ***
     その実績から在日コリアン系企業は、日本の鉄スクラップ流通の大きな流れを占め、その企業幹部は日本の鉄リサイクル業界の有力な指導者として活躍するに至った。

余談として

  •  在日コリアンを語ることは、現在でもなお微妙な問題をはらむ。それを取り上げること自体が、一種の差別であり、避けるべきではないか、との強い指摘もうけた。ただ編者は、長年にわたる業界紙記者として、多くの在日コリアンに接してきた。また日本の鉄屑業における彼らの圧倒的な供給力を目にしてきた。
     彼らの存在と働きをなかったことにしては、日本の鉄屑業の正当な姿は伝えられないと信じた。では、どのように伝えるのか。
     資料はやや古いが、在日韓国商工会議所発行の在日韓国人会社名鑑(97年度版)中の「金属資源再生」の登録会社は361社。うち日本鉄リサイクル工業会の会員会社と重なるのは31社である。勿論、この「韓国人会社名鑑」や「鉄リサイクル工業会」に記載のない在日コリアン系の鉄スクラップ企業は、このほかに相当多数存在する。ただ在日コリアン鉄屑業の歴史を書き記した資料、文献はほとんど見当たらない。それは当然だろう。それらはいわば「一家の個人史」であって、公に示すものではないからだ。
     そこで編者は、個々の企業、人物のあれこれに立ち入ることなく、全体を覆う概論として「在日コリアン鉄スクラップ業史」(13年、日本鉄スクラップ史集成)を書いた。その出版後、インターネット等で在日コリアンと鉄スクラップに関する記事を瞥見したが、その大方が編者の先行出版本からの無断転用であった。なるほど、これに代わる知見はないのか、と納得した。であれば、本書はなお一層のこと正確な情報提供に努めなければならない。それを肝に銘じた。

引用・参考資料

    1. 朝鮮人強制連行の記録 朴慶植 未来社 65年

    2. 済州島四・三事件 記憶と真実 考える会・新幹社

    3. 朝鮮近代史 渡部学編 AA叢書 1968年

    4. 在日韓国・朝鮮人 福岡安則 中央公論社 93年

    5. 在日韓国人会社名鑑 在日韓国商工会議所97年度版

    6. 在日朝鮮人企業活動形成史・呉圭祥著・雄山閣

    7. 在日朝鮮人の人権と法律 (第3版)  姜徹・雄山閣

    8. 在日朝鮮人 (歴史・現状・展望) ・朴鐘鳴編・明石書店

    9. 在日韓国朝鮮人 金容権・李宗良編・三一書房

    1. くず鉄一代記 梁川福心 1989年

    2. 山口県 金属くず回収業に関する条例

    3. 65万人―在日朝鮮人・宮田浩人編著・すずさわ書店

    4. 鉄屑カルテル十年史・鉄屑需給委員会

    5. 大阪府議会速記禄 (昭和31年12月) 公安条例関係

  • 自著

    1. 日本鉄スクラップ史集成 2013年 日刊市況通信社 

    2. 鉄スクラップ総事典 2015年 スチールストーリーJAPAN

    3. 日本鉄スクラップ業者現代史  2017年 スチールストーリーJAPAN

    4. 近現代日本の鉄スクラップ業者列伝 2018年 スチールストーリーJAPAN

ページ
TOP