再生資源業界・最近小史(明治~現在)

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再生資源業界・最近小史(明治~現在)

  • 明治の古金類商売結社規則

  • 太政官令

  • 1907年(明治40)警視庁、屑物業者に日暮里、千住への移住命令

  • 1914年(大正3)警視庁、屑物営業取締規則

  • 1923年(大正12)関東大震災、日暮里、三河島、千住に細民が流入

  • 1933年(昭和8)警視庁、屑物営業取締規則(改正)

  • 戦前・商業組合の発足

  • 東京都資源回収事業協同組合(48年11月)

  • 屑物取扱業に関する条例(東京都・53年11月)

  • 日本鉄屑連盟から東資協は脱会(54年)

  • 金属類営業条例と自主防犯組織(57年3月)

  • 日本再生資源組合連合会(51年~72年・旧日資連)

  • 日本再生資源事業協同組合連合会(73年~・新生日資連)

再生資源業界・最近小史(明治~現在)

 明治初年、警視庁は江戸幕府の御触書による紙屑業者等の取締行政を引継いだ。以下は東資協資料(東京都資源回収事業協同組合二十年史)に寄りかかって屑屋関係の流れを紹介する。

  • 明治の古金類商売結社規則 1876年(明治9)6月、江戸幕府から古がね、古物回収行政を引き継いだ警視庁は新たに「古着、古金類商売結社規則」を発令した。質屋、古物商(古道具、古銅鉄、古本、古紙、両替屋)などが、同業組合を組織する場合の取締規則である。「結社規則」は警察管内の業者に同業組合を結成させ業者の自主防犯による協力体制を求めた。さらに官憲との連絡、情報交換、不正品の申告、古物台帳の記載義務を定め警察官の倉庫内の立入り検査、台帳と現品の照合、確認権限を与えた。内容は旧幕府当時の御触書(鑑札所持や盗品防止の御膳籠の規制)と変わっておらず旧幕規制を踏襲した。

  • 太政官令 くず物買出人は明治初年の太政官令による取締りの「雑業鑑札」を所持し、一般行商人として規制され、古着、古道具類を扱う古物商としての「古物鑑札」も所持する、「二枚鑑札」の規制を受けた。バタ拾集人の竹籠、買出人が大八車につける竹籠の目数、寸法まで厳しく規制した。
    ▼河岸バタ=浅草、下谷は上野駅周辺や浅草の盛り場などから大量の紙屑、ボロ(古布)屑が放出され江戸時代以来の流れもあり古物商、建場(たてば・注1)やバタ(注2)産業の拠点となった。「明治末期、塵芥の増量と処分に悩んだ東京府が、浅草吉原を縄張りとする某組の流れをくむ二派の無職渡世に箱車によるゴミの拾集を委ねたことから河岸バタの歴史が始まる」(二十年史13p)。
     (注1)建場(たてば)=「公式には屑物買入所であり業者仲間の呼び名が立場であった(同41p)。立場とは江戸時代の宿駅などで人馬や駕籠の継ぎ立て問屋から「中継ぎ」 の意味である。
     (注2) バタ=拾集(拾いや)を業とするものを「バタ屋」。それから仕入れるのを「バタ仕切」。買い子(買取や)からの買入を主とするのが「町仕切・町建場」(同8p)。

  • 1907年(明治40)警視庁、屑物業者に日暮里、千住への移住命令 1899年(明治32)西日本にペストが発生すると政府は予防のため同年11月18日、ボロ・古綿の輸入を禁止した。翌年3月、伝染病対策として汚物掃除法、下水法を公布した。1907年(明治40)警察庁は6月30日を期限として、下谷浅草方面の屑物業者に郡部の日暮里、千住元宿、同牛田方面への移住を命じた(ただし3年間の猶予を与えた)。1895年(明治28)制定の古物商取締法は、伝染病汚染物は消毒後でなければ買い受けを禁止する(8条)など、古物商を公衆衛生面からも規制していたから、都市衛生上の措置の一面もあったろう。「建場業者をも含めた屑物業者は石をもて追われる如く、市外への大移動を開始した」(二十年史15p)。以後、彼らが落ち着いた日暮里、三ノ輪、三河島、千住方面は、職住一体となったトンネル長屋、百軒長屋として世間の耳目を集めた。

  • 1914年(大正3)警視庁、屑物営業取締規則 屑物営業者とは「ボロ・古紙、古綿、古糸くずの売買、取扱い並びに消毒、洗浄、漂白を業とするもの」である。取締の要点は①地域制限=住宅地、商業地は不許可。工場用地と未指定地域(日暮里、三河島、千住地区など)のみ許可。②距離制限=電車通り、寺社、官公所、学校等より二十間以内は不許可。➂設備制限=コンクリ床、窓には金網など。④(伝染病予防のため)未消毒品の売買禁止など厳格を極めた。
     ただ建場業者が膨大な費用を要する蒸気消毒設備を自力で設置することは不可能だったから(注)、東京市中や郡部に設置された消毒所の所属店舗として許可を取得した(二十年史18p)。
     注=「未消毒品の市外搬出命令」「屑物業者の市内営業禁止令(大正6)」が相次いだため日暮里のボロ業者が中心になって関東消毒所を設立した(1920年、大正9)。建場業者の多くが形式的にはこの消毒所名義で従属せざるを得なかった。これが心理的な陰りを与えたとされる(同20p)。

  • 1923年(大正12)関東大震災、日暮里、三河島、千住に細民が流入 「大震災は旧市街と市域内のスラム街を壊滅させ、これら地区の貧民街の移動と屑物業者の移転を招いた。日暮里地区は全国の屑物、とくにボロの一大集散地となり、紙屑を商う業者もまた多数にのぼった」(28p)。「日暮里、三河島、千住地区は震災前のスラム街以上の、一大細民街を形成した」「建場業者は取締規則による公認業者と、基準にみたない非公認業者に豁然と分かれた」(30p)。
    ▼日暮里、三河島のバタ仕切業者に荒川放水路以北への退去命令=震災後、警視庁は1927年(昭和2)、日暮里、三河島のバタ仕切業者に荒川放水路以北への退去を命じた。「日暮里、三河島地区に居住し営業していた町建場も、バタ建場と収集人の退去を内心では歓迎した」「彼らは拾い屋であり、拾い屋を取引相手にするというだけで、町建場からも排斥され」、「このようにして、昭和3年足立の本木地区に建場百数十軒、収集人約四千人を収容する一大部落が形成された」(32p)。

  • 1933年(昭和8)警視庁、屑物営業取締規則(改正) 旧令の許可条件は名義借りを招いたため、個々の建場業者及び屑物取扱業者(対象は前令と同じ)が消毒所に消毒を委託するとの条件に改めた。屑物買出人は明治初年の雑業行商人では不都合とされ「屋外屑物営業者」として独立規制対象となった。取締の要点は①作業所設置禁止区域=電車軌道と幅員10米以上の道路に接する場所。寺社、官公衛、学校、病院、停留所、食品市場等より百米以内の地、衛生上その他公益を害するおそれのある場所。②設備制限=一定規模の仕切場、荷造場、置場の設置。コンクリ床、窓には金網など。➂消毒所に支払う消毒委託料=ボロ、紙とも1貫当たり2銭。

  • 戦前・商業組合の発足 この屑物営業取締規則の改正を契機に33年、「東京古物屑物問屋商業組合」(町建場)が発足した(当時、各警察署管内には古物商組合があり、建場業者も参加していた)。商業組合法(32年9月公布、10月施行)施行後、全国で8番目、東京では2番目の成立であった。この前後、荒川放水路以北への退去を命じられた約百軒のバタ建場と約四千人の拾集人が(社)「和合会」を結成し、和合会は後に「城北屑物組合」の中核となり、足立区外のバタ建場業者が「愛国廃品回収組合」を結成。バタ建場と町建場は相互に反目したが、3者は戦後の48年(昭和23)10月、東京都資源回収事業協同組合として合同することになる。
    ▼戦中は統制組合へ所属=屑物業界も40年から41年にかけ、日本故紙統制組合、日本故繊維統制組合、再生毛織統制会社、ゴム屑統制会社などの統制組合に再編成され、買出人の多くは回収工作隊や産業報国隊に所属した。

  • 東京都資源回収事業協同組合(48年11月) 東京の全建場業者を結集し48年11月2日千代田区丸の内の保険協会講堂で創設総会を開催した。東京都資源回収事業協同組合の結成は、敗戦直後の衣料品不足対策を契機とする、とされる。戦前の資源業者は、公認の許可業者である「町建場」と非公認の「バタ建場」の二種があり、両者はしばしば対立・反目した。バタ建場を代表するのが、足立地区の拾集建場のほとんどを包含する「城北屑物組合」。足立区外の業者は「愛国廃品回収組合」を結成。バタ建場両組合と町建場の東京古物屑物問屋商業組合とが鼎立した。
     戦後の48年頃、商工省はガラ紡の原料として故繊維の全国特別回収を計画していた。その実施は、戦中の流れをくむ旧資源統制団体ではなく、戦後生まれの新組織が担うべきとした、その流れの中での組織大合同だった。

  • 屑物取扱業に関する条例(東京都・53年11月) 戦前の屑物営業取締規則は、戦後の改正で罰則を削除(48年1月)し、法的強制性を失った。戦後の東京では海外引揚者、戦災者、失業者の増加と住宅難から「仮小屋生活者」が各地に点在した(一億総ルンペン生活)。
     主なところでは帝国ホテル脇、芝公園山内、浅草寺周辺、お茶の水壕端、上野葵部落、言問橋アリの会などでこれら「不法占拠者」は、法的規制のない廃品回収を生活の糧とした。49年5月制定の古物営業法は、「空き缶類、金属原材料、被覆いのない古銅線類」は同法の対象外としていた。その直後の、朝鮮戦争(50年6月)後の金属類の高騰と盗難事故の多発と「モグリ」非公認の屑物回収者の増加は社会問題となった。
     このまま放置すれば戦前同様の警察規制の強化を招くとの危機感を募らせた正規建場業者団体である東京都資源回収事業協同組合(東資協)は「屑物条例獲得運動」に乗り出した(77p)。「請願運動の成果が実って53年11月1日付けで『屑物取扱業に関する条例』施行が決定した」(82p)。

  • 日本鉄屑連盟から東資協は脱会(54年) 鉄鋼20社は53年12月、「製鋼原価の引き下げ」を目指し公取に鉄屑カルテルを申請した。鉄鋼側のカルテル申請後、鉄屑供給業者は直ちに「日本鉄屑連盟」を結成。東資協など資源業者も参加した。
     鉄鋼各社は申請1ヶ月後の54年1月25日、公取に審査保留を申し入れ、翌2月再び審議の続行を申請し、6月末には三転して申請を取下げた。これが鉄屑連盟指導部と資源業者の間に亀裂を作った。即ち、鉄屑業界に無用の混乱(カルテル申請・保留・再申請・取下げ)をもたらした鉄鋼メーカーの問う抗議文を作成すべしとする東資協の提案を鉄屑連盟の指導部が却下したことから、東資協は鉄屑連盟を脱退した。「この後、公取の好意ある斡旋によって、メーカー、鉄屑業者、通産省との公式の『場』が与えられるまで、14年間の長い『断絶』の時期を空白のままに過ごさねばならなかった」(97p)。

  • 金属類営業条例と自主防犯組織(57年3月) 明治の古物商取締條例(1884年)は「古物商とは古道具(略)や古銅鉄、潰金銀を売買する者」と定義したが、49年5月制定の古物営業法は「空き缶類、金属原材料、被覆いのない古銅線類」は同法の対象外とした。
     ただ50年の朝鮮戦争以後、金属屑が高騰し、金属類の盗難が多発。「金属屑は何らの法的規制を受けることなく自由に商売できるため、種々の犯罪を誘発」しているとの規制論が台頭。1951年以降58年までに29道府県が「金属類営業条例」を制定した。
     神奈川県が56年11月から許可制を骨子とする金属類営業条例を制定した。警視庁も条例制定を「検討中」と伝えられたが、再三の折衝の結果、「警視庁としては当分の間、条例は施行しない」が、「自主的な防犯協力を要請された」(119p)。このため鉄・非鉄・資源の3団体で各警察署管内に防犯協力会を、上部に「東京金属防犯連合会」(鉄屑懇話会の德島会長を連合会会長に推戴(57年3月)。「金属条例の阻止」の実を取った。

  • 日本再生資源組合連合会(51年~72年・旧日資連) 1951年、再生資源組合を束ねる任意団体として設立された。「東資協二十年史」の「東京都古物屑物問屋商業組合」活動紹介のなかに「39年、第五代理事長に高橋勝作氏が就任した。氏はその後、日本廃品回収組合連合会理事長を兼務。現在の「日資連」の前身である」とあるから、戦前の日本廃品回収組合連合会が戦後、日本再生資源組合連合会に衣替えした可能性が高い。
    ▼刑法改悪反対に総決起(65年3月)=法務省は60年改正刑法準備草案を公表し、贓物(盗品)過失犯を罰する条項を新設した。不注意(過失)を犯罪とする処罰規定である。
     東京都古物商防犯連合会は63年6月下谷公会堂で草案撤回総決起大会を開き、東京都資源回収事業協同組合(東資協)が同年7月、関東資源回収組合連合会も反対運動を決定し、同年9月の日資連第12回総会は草案反対を決議。岡山県倉敷市で開催された日資連第13回総会(64年9月)は65年3月に全国抗議大会挙行を決議。「65年3月16日、日資連など4団体・計五千五百名の業者」が日比谷公会堂に参集して総決起大会を開催。請願運動を各地で活発に繰りひろげた。法制審議会第五小委員会の審議では同条項の削除が多数を占め、刑事法特別部会は「財産犯には過失犯を適用すべきでない」(65年10月)とした。全国運動を契機に「親睦団体の域をでなかった日資連が利益共同体としての、また業者としての連帯感の自覚を高めた」(275p)。

  • 日本再生資源事業協同組合連合会(73年~・新生日資連) 日資連は72年の第21回全国大会を最後に、日本再生資源事業協同組合連合会として再発足した(注)。
     新・日資連の設立は73年7月11日。東京通商産業局を原局として法人格を取得。08年(平成20)12月10日、経産省・産業技術環境局リサイクル推進課を原局とする全国組織団体に認可。同会HPによれば、正会員・賛助会員2,600人。総会、理事会のほか広報、調査研究、業務(金属部会、古紙部会、回収部会)などの委員会を設置している。
     (注)新・日資連は創立40年記念誌の発刊(2012年)に当り 旧日資連の初期資料を捜索したが創立総会、 第2回全国大会は発見できず「第21回大会資料が手に入った」だけで、初期の活動詳細は不明とされる。

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