鉄屑カルテル・業者対応事典

メニュー

鉄屑カルテル・業者対応用語

  • カルテル

  • 鉄屑カルテル・鉄屑需給委員会(概説)

  • 鉄屑カルテル申請(最初の申請は、取り下げる)

  • 日本鉄屑連盟と鉄屑需給研究会(54年3月)

  • 日本鉄屑連盟と東京都資源回収事業協同組合(東資協)

  • 日本鉄屑連盟の意見参酌条項

  • 第1回カルテルは空中分解(55年4月~10月)

  • 第2回(再建)カルテル

  • 輸入屑カルテル

  • 鉄屑連盟の主導権争いー中間業者と直納業者の対立(55年末~56年)

  • 第3回カルテル 事実上のカルテル崩壊

  • 「暫定運用」―鉄鋼と業者暗闘の2か月

  • 第4回カルテルー従来カルテルを全面書き直す

  • 「鉄屑連盟の意見参酌」条項を削る

  • A、B、C3カルテルを結成する

  • 鉄屑全国組織は分裂―鉄屑連盟と巴会・八日会

  • 180万㌧の輸入米屑と日本鉄屑連盟(57年7月~8月)

  • 第5回カルテルー「下限価格」と「天井価格」の混迷

  • 180万㌧の輸入米屑とカルテル協定価格―底割れが常態化

  • 「下限価格」と「天井価格」の混迷

  • 第6回カルテル

  • 日本鉄屑問屋協会を設立(58年11月)

  • 日本鉄屑協議会も誕生(59年6月)

  • 日本鉄屑連盟は活動停止状態へ

  • 外口銭制度とカルテル

  • 第7回カルテル

  • 第8回カルテル

  • 輸入屑カルテル・61年崩壊

  • 第9回カルテル

  • 第10回カルテル

  • カルテル運営強化を業者要望(63年6月)

  • 鉄屑カルテル再編成案(第一次・63年)

  • 鉄屑需給連絡協議会、発足(64年)

  • 第11回カルテル

  • 資金援助と問協の「浮き上がり」

  • 第12回カルテル

  • 鉄屑需給連絡協議会を明文化(66年)

  • 平電炉普通鋼協議会(67年3月)

  • 鉄屑カルテル再編成案(第二次・67年)

  • 第13回カルテル

  • 日資連もカルテルで発言

  • 新日鉄体制と外口銭廃止(70年2月)

  • 第14回カルテル

  • 新日鉄体制と9カルテルに拡充(第三次・71年)

  • 鉄屑需給連絡協議会と問屋協会

  • 鉄屑価格安定対策専門委員会―新日鉄的協調体制

  • 日本鉄屑協議会とニクソン・ショック―「危機対策陳情」

  • 第15回カルテル

  • 鉄屑価格・安定価格帯構想(72年)

  • 第16回カルテル申請(却下)

  • ポスト・カルテル対策(74年)

鉄屑カルテル・業者対応用語

  • カルテル 企業が競争の制限により独占的利潤を獲得することを目的として、参加企業の独立性を維持しつつ行う協定、または協定に基づく結合をいう(経済辞典。講談社)。日本では、戦後制定の独占禁止法がカルテルを禁じているが、実際には「合理化カルテル」、「不況カルテル」などの除外規定の他に、中小企業団体の組織に関する法律(中団法)など多数のカルテル許容規定が存在する。
     ▼日本では、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、軍国主義・ファシズムの経済的支配の打破を目指して1947年(昭和22年)4月、私的独占や不当な取引制限(カルテル)などを禁止する独占禁止法を公布(7月施行)したことから、法的に排除されていた。しかし52年(昭和27年)4月、対日講話条約の発効から日本が主権を回復し、GHQの制約がなくなると直後から(日本の国情に合った)カルテル復活を目指す独禁法の改正論議が、官民挙げて活発化した。

  • 鉄屑カルテル・鉄屑需給委員会(概説) 正式には「鉄屑需給委員会」。独占禁止法第24条の4に基づく合理化カルテルとして公正取引委員会の認可を受けた組織で、需要側の共同行為による価格の低位安定など鉄屑流通の管理を目指す。第1次申請は1953年12月出されたが、日本鉄屑連盟の猛反対のなか翌年6月取下げられた(幻のカルテル)。その後「日本鉄屑連盟の意見参酌」条項を明記するなど需給双方の事前調整を踏まえ55年3月改めてカルテルが申請され認可された。カルテルは55年4月の第1回から74年9月末まで15回19年6ヶ月間継続した。▼背景=戦前の1938年(昭和13)から戦後の52年(昭和27)までの14年間、鉄屑は金属類回収令や物価統制令などの統制下にあったが、日本独立直前の52年2月27日廃止された。50年(昭和25)6月に勃発した朝鮮戦争から鉄屑は未曾有の暴騰を記録。鉄屑価格のコントロールが独立日本の課題となった。当時日本の鉄屑は米国に比べ10㌦、欧州に比べ20㌦以上も割高。国際競争力を確保するには「共同行為」が必要であるとされた。▼カルテル内容の変遷=第1回カルテルは国内屑価格だけを協定した(国内屑カルテル)が、第2回からは米国輸入屑の義務購入を骨子とする共同購入を盛り込んだ(輸入屑カルテル)。この輸入屑カルテルは1961年2月崩壊。カルテル運営に影響をもたらした。▼カルテル数の変遷=発足当初(50年4月)は1カルテル。輸入屑カルテルが本格的に動き出した第4回カルテル(51年9月)以後は、B、Cカルテルを加え3カルテル。日本鉄屑問屋協会などカルテル協調組織が結成された第6回カルテル(58年9月)以後は、D、Eカルテルを加え5カルテル。新日鉄が発足し、鉄鋼協調体制が確立した第14回カルテル以降は全国9カルテル(71年2月)。
     ▼運営=運営の中核は鉄屑需給委員会(初代委員長・永野重雄)。参加全社の社長クラスによる会議。実際問題として開催することがきわめて困難であったことから、発足間もなくその運営を業務委員会に任せた。▼業務委員会=需給委員会が決定した国内および輸入鉄くずの価格の実施、その他これに伴う必要事項の運用に当った(初代委員長・稲山嘉寛)。1962年12月の第100回会議から「業務委員会及び平炉会議」と呼称し、正式に需給委員会に替えるものとした。▼専門委員会=業務委員会の下部機構として、必要に応じて組織され、専門的具体案の作成、実施など頻繁に開催された。主として参加各社の課長、係長クラスがこれに当った。

  • 鉄屑カルテル申請(最初の申請は、取り下げる) 講話条約(1952年4月発効)により主権を回復した日本政府は、鉄鋼産業の保護・育成のため独禁法を改正(53年9月)して「共同行為」に道を開いた。これを受けて鉄鋼20社は53年(昭和28)12月、「鋼屑価格の安定」と「製鋼原価の引き下げ」を目指して、公取に鉄屑カルテルを申請した(全カルテルの申請第一号)。カルテル価格目標は米国現地購入価格を下限とし(当時の米国価格35~36㌦=12,600~12,960円、1㌦360円)、協定価格は15,000~15,500円とするものであった。「この動きにガクゼンとしたのが(朝鮮特需から)鉄屑ブームに乗じてわが世の春を謳っていた国内鉄屑業者であった」(鉄屑カルテル十年史)。鉄鋼側がカルテルを申請した同じ12月、鉄屑供給業者は間髪を容れず、直ちに「日本鉄屑連盟」(鉄スクラップ団体の項参照)を結成し、全国規模で反対運動を展開した。▼鉄鋼20社はカルテルを申請したが、日本鉄屑連盟の反対運動や鉄鋼市況、鉄屑輸入環境の変化(1954年1月、鉄屑輸入は外貨割当制へ)などから、申請1ヶ月後の54年1月25日、公取に審査保留を申し入れ、翌2月再び審議の続行を申請し、6月末には市況変動から三転して申請を取下げた(幻のカルテル)。

  • 日本鉄屑連盟と鉄屑需給研究会(54年3月) 鉄屑連盟はカルテル反対を唯一の目標に結成されたが、連盟幹部は日本が置かれた現状から「反対はできても阻止できない」と見ていた。「鉄屑業界として努力すべきは業界の事情を参酌させた適正価格の決定だ」(伊藤信治)との現実的な条件闘争を模索し、通産省、鉄鋼メーカー、鉄屑業者、学識経験者を以て構成する組織(鉄屑需給研究会)の設立を呼びかけ(伊藤信治の項参照)、連盟幹部は稲山ら高炉トップとの協議を開始した(54年3月~55年3月)。この両者の数次にわたる会合から、カルテル協定価格の決定は「日本鉄屑連盟の意見を参酌」するとの妥協が成立し、カルテル申請承認の共同会見を開いた(55年4月4日)。

  • 日本鉄屑連盟と東京都資源回収事業協同組合(東資協) 鉄鋼20社は53年12月、公取に申請した鉄屑カルテルを54年1月25日、審査保留を申し入れ、翌2月再び審議続行を申請し、さらに6月末には三転して申請を取下げた。これが鉄屑連盟指導部と資源業者の間に亀裂を作った。即ち、鉄屑業界に無用の混乱(カルテル申請・保留・再申請・取下げ)をもたらした鉄鋼メーカーの責任を問う抗議文を作成すべしとする東京都資源回収事業協同組合(東資協)の提案を連盟指導部が却下したことから、東資協は鉄屑連盟を脱退した。▼東資協・二十年史は「東資協はなぜ自己の立場を主張する『場』を放棄したのか」。(「鉄屑連盟を牛耳っているのはディーラーでディーラーはメーカーに強い発言ができず建場業者が利用された形となる」との声を議事録から採録した後)、「鉄屑専業者との力関係から建場業界の主張をそのまま貫くことは困難であることは言うまでもない。しかし協議と発言の場を放棄することは明らかに誤りだった」「この後、公取の好意ある斡旋によってメーカー、鉄屑業者、通産省との公式の『場』が与えられるまで14年間の長い『断絶』の時期を(資源業者は)空白のままに過ごさねばならなかった」と痛哭の思いを記した。

  • 日本鉄屑連盟の意見参酌条項 カルテル結成を目指す鉄鋼側と反対運動を展開する日本鉄屑連盟の妥協の産物として、カルテル協定価格の決定は「日本鉄屑連盟の意見を参酌」するとの文言がカルテル協定書に盛り込まれた。鉄鋼会社にとってカルテルの設立目的は鉄屑価格の低位安定にある。成り行きとはいえ鉄屑カルテル価格の決定に業者側の意見を参酌しては、その達成は難しい。カルテル初期の歴史は、この文言の無視と日本鉄屑連盟の無力化、排除として始まり、その完成をもってカルテル(鉄鋼メーカー)による鉄屑需給支配を確立した。▼意見参酌=カルテルは「購入価格は、鉄屑需給委員会において参加者の需給状況等を勘案し日本鉄屑連盟の意見を参酌の上、その範囲内で各月決定」(2条3項)と明記する。▼価格は協議=参酌の度合いがはっきりしないとの下部業者の不安に対応するため、委員会を設置し、需給双方の代表者が協議した結果を十分に反映させる。▼構成=鉄屑業界は全国4地区から各1名。全国資源回収代表1名。関東地区4名。計9名で組織し、鉄鋼側委員と協議する。鉄屑業者は価格決定の関与へ一定の足場を固めた。

  • 第1回カルテルは空中分解(55年4月~10月) 高炉・平炉18社は合理化カルテルを55年(昭和30)3月30日公取に申請し、4月11日付けで認可された(第1回鉄屑カルテル)。カルテルは、鉄屑購入限度量は通産の行政指示に従い、各社が購入数量を決める(価格だけ協定)との方式でスタートした。しかし出口である鋼材の生産・販売をカルテル非参加のアウトサイダーが渦巻くフリーマーケットに委ねたことが崩壊の一因となった。発足当初鉄屑消費の70%を占めたカルテルの鉄屑支配は、急速な鉄鋼需要の伸びとアウトサイダー需要の拡大などから1年後の56年度上期には半分以下まで低下。特殊鋼や電炉などアウト各社にはカルテル規制は及ばず、ましてや輸入屑には何の影響力もなかった。アウト各社の積極買いから市中高騰が続いたことから、カルテル主力メンバーである高炉7社も市中実勢追随の「高値買付」(10月7日)に走り、さらに10月12日、自由買付を11月末まで黙認すると決定(協定価格決定を放棄)。カルテルは事実上崩壊した。▼鉄鋼連盟は直ちに稲山、藤井八幡常務などを中軸とする緊急対策委員会を設けた。これに間髪をいれず通産省は10月15日、厚板など7品目の輸出制限措置を通告した。▽通産省は鉄屑カルテル結成のため、独禁法改正(53年9月)、需給緩和のため米ドル地域の鉄屑緊急輸入承認(55年2月)、国有機械・建物の鉄屑40万㌧の払下げ(同3月)など必要な法的、対外的な露払いに努めてきた。そうして軌道に乗ったかに見えた鉄屑カルテルが鉄鋼会社の内部統制の乱れなどから、わずか半年足らずで空中分解した。▽それだけに通産省の鉄鋼会社に対する制裁は果断・迅速だった。「この措置はカルテルが機能を停止したことに起因するとの見方が一般的であり、その制限解除はカルテルを整備し再建させることが事実上の条件である、とも解釈された」(鉄屑カルテル十年史)。▽「自らカルテルの機能を停止し自主統制力の弱さをさらけだした鉄鋼業界」は輸出市場を維持し自律能力を証明するためにもカルテル再建を急がなければならなかった。

  • 第2回(再建)カルテル(1956年1月16日認可。同年6月末まで) 鉄鋼は通産の強硬な意向を受け55年12月22日、再建カルテルを公取に申請した。第2回カルテルの特徴は、消費数量の協定に加え、米国輸入屑の義務購入を骨子とする輸入屑の共同購入を組み込んだことである。即ち、①従来カルテルは「購入数量は通産省の行政指示を守る」とだけ規定したが、今回は消費数量も加え、購入限度量として協定内容とした。②違反防止のため監視制度や制裁規定を新設した。③国内屑の価格を安定化させるため、国内屑の需給だけでなく米国屑の共同輸入、義務引取、プール計算実施を協定内容とした(輸入屑カルテルの創設)。この結果、価格カルテルに加え国内及び輸入屑双方にわたる「数量カルテルの性格を持つ」(鉄屑カルテル十年史22p)に至った。▽これによってカルテル加盟会社は国内鉄屑の不足を補う米国屑を、カルテル各社と同一価格、同一条件(義務購入)で手に入れることができるようになった。▽また制裁規定も強化した。「需給委員会は国内屑、輸入屑の購入価格及び購入数量の決定その他」を決定する(7条)。その協定遵守と「的確な情勢把握のため」加盟各社に対し鉄屑需給状況、鉄鋼生産状況の報告も必要に応じ求めることができる。一方、加盟各社は鉄屑購入並びに消費、鋼塊生産その他必要事項はカルテルに報告しなければならず、協定違反防止のため鉄屑検収員など相互監視機関と制裁規定を制定した(9条)。▼再建カルテルは55年12月協定価格を鉄屑連盟に諮らず単独で23,000円とした。鉄屑連盟から直納業者団体である関東・巴会、関西・八日会などが脱退(10月)したため同連盟は業界の総意を代表していないとの理由だ。カルテルは鉄屑業者の分裂に乗じて明文規定を無視したわけだ。これが業者に早急な再統一の必要を痛感させた。▽公取は55年12月上旬、緊急対策委員会原料部会(鉄鋼)が決めた12月価格は鉄屑業界の意見を参酌していないため撤廃するか、聴取するようにと勧告した。

  • 輸入屑カルテル 第1回カルテル発足と同時に米国屑については各メーカーの購入希望量を集め、シッパー毎に折衝幹事会社(商社)を定め、業務委員会の承認を得て契約する方法をとった。▽第2回カルテルでは米国屑について「鉄屑共同購入に関する協定書」を作成し高炉60%、平炉40%の義務引取基準、プール計算(四半期精算)、検収基準の統一などの「輸入鉄屑カルテル」を結成した。▽米国屑の大量輸入に備えてカルテルは三井、三菱、木下、一物、朝日、日商(6社会)と共同で米国東海岸、湾岸(ガルフ)、西海岸の3班に分けて鉄屑調査団を派遣した。ただカルテルは調査途中の派遣商社員を急遽呼び戻した。▼調査団は米国の現地買付けは可能で、有利であるとの結論を得た。その帰国報告に対し稲山は「鉄屑はミルにとっては米びつの米である。現在は数量の確保こそ先決問題であって、商社側は安く買うと言うが、使う側の自分たちとしては安いか高いかは問題ではない。現地買付け案は中止して貰いたい」(鉄屑カルテル十年史)と、商社による現地買上げ構想を打ち切った。▽その後は商社を通さず直接、カルテルが米国シッパーと長期契約を締結することを常とした。鉄屑を米国からベルトコンベヤーに乗せ太平洋間を安定的に流すこの手法は「太平洋ベルトコンベヤー」方式とされ、1961年2月の「輸入屑カルテル分裂」まで続いた。

  • 鉄屑連盟の主導権争いー中間業者と直納業者の対立(55年末~56年) カルテル対応組織である鉄屑連盟を巡る主導権争いもあった。カルテル反対運動の旗頭として取り纏めに当った連盟会長の德島佐太郎(鉄屑懇話会会長)が、交渉不手際を責められカルテル発足直後に辞任(4月)したことから、カルテル協調を目指す直納大手業者組織(巴会、八日会)が団体加入し、連盟主導権を巴会が握った。が、連盟の地方や下部組織は中間・末端業者が多数を占める。巴会系とは水と油だった。このこともあってか10月度協定価格交渉は難航した。巴会系指導部は業者の集荷協力を条件に2,000円値上げ(18,500円)をまとめたが、実勢価格(20,000円超)を下回る妥結案に大方の地方理事は協力せず、巴会系の正副会長は辞任。さらに10月には巴会、八日会員が連盟から脱退して、中間・末端業者をバックにした德島佐太郎が再び連盟会長に返り咲いた。▼鉄鋼側は巴会系の連盟とは蜜月の関係にあったが、鉄屑懇話会系の指導に戻った鉄屑連盟は無視した(12月度の協定価格を鉄屑連盟に諮らず単独で23,000円とした)。鉄屑連盟から直納業者団体である関東・巴会、関西・八日会などが脱退したため業界の総意を代表していないとの理由だ。これが業者に早急な再統一の必要を痛感させた。▼業者が分裂しては「分断して統治せよ」の被支配の愚を招く。その恐れを回避するため再統一に動いた(55年12月)。翌56年1月、合同促進委員会を開き、合同後の発言権は会員数に拘わらず直納層・懇話会(中間層)五分五分とすることで原則的な折り合いがつき同月28日全国合同役員会に諮ることとした。方式は各地区(北海道、東北、関東、中部、 関西、九州)ごとに合同し全国を一本にまとめる。同年2月4日、大阪鉄鋼会館で鉄屑懇話会、関東巴会と関西八日会、関西鉄屑懇話会の四者会談を行い、統一問題を集中審議したが、合流方法を巡って対立。結局、意見集約は先送りとなった。

  • 第3回カルテル 事実上のカルテル崩壊 56年7月、鉄鋼スト終結(26日)後に予想される米国鉄鋼フル生産とスエズ国有化宣言による国際緊張予想が、内外の鉄鋼、鉄屑相場を刺激した。当時、アウトサイダー各社は通産省指導に従ってカルテル結成の準備を進めていたが、内外相場の高騰は、カルテル、アウトサイダーを問わず市中玉確保に寸刻の猶予も与えなかった。アウトサイダーは勿論、カルテル内部からも三万五千円超の高買いが続出し、カルテルの主軸である八幡原料担当幹部も稲山に「自由買付」を強硬に進言(8月6日、通信)する崩壊寸前の状況が出現した。

  • 「暫定運用」―鉄鋼と業者暗闘の2か月 56年7月2日認可。期間は9月15日まで。カルテル史をふり返るとき、鉄鋼側にとっても、業者側にとっても、この2ヶ月がカルテルでのその後の存否を左右する最大のヤマ場だった。鉄鋼は「アウトサイダー対策、米国屑対策」を、業者は「合同問題」を巡って組織の内側と外側の二正面から激しい攻防と対策を、次の認可審決(9月)までを期限として繰り広げた。▼事実上の崩壊=カルテルは、各種業者団体の意見を聴取したうえ「出荷協力」の確約を条件に5月17日、一挙に六千円引き上げ二万八千円とした。特殊製鋼各社は普通鋼カルテル価格が二万八千円になると上級屑は三万円以上出さないと買えないため採算は悪化すると猛反発。特殊鋼業界は公取に調査依頼を申し入れた。▼永野・富士、カルテル無用論=永野・富士製鉄社長は「二万八千円という高値はカルテルが機能を停止したと同じだ」(日経新聞・6月12日)と報じた。▼鉄屑業界、カルテル継続に反対=鉄屑連盟は条件の如何に拘わらず全面的に反対すると主張した。その理由として、①カルテル発足時は鉄鋼業界も著しく不況で、難局突破に協力した。②しかし鉄鋼ブームの現在、鋼材価格は狂騰のまま放置され鉄屑価格だけが抑えられるのは納得できない。③結成当初合意した意見尊重の条件は無視され、運用は独善をきわめている。④また実勢を無視したカルテル価格は、業界の思惑を助長し、鉄屑の荷動きをむしろ阻害している、と弁じた(6月18日、通信)。関西八日会(直納系)も6月11日、定例総会を開き、カルテルへの態度を討議した結果、全員一致でカルテル反対を決議した。▼この流れを受け、公取はカルテル期間を「暫定」的な色合いを込めた2ヶ月に留めると共に、鉄鋼側に協定価格の「合理的な決定」の作成を求めた。▼「鉄鋼需給安定法」の影も=鉄鋼は公取から2ヶ月の暫定運用しか与えられなかった。鉄鋼は抜本的なカルテル強化を急いだ。崩壊すれば通産省が手ぐすねを引く直接統制(鉄鋼需給安定法=リサイクル関連法制の項参照)の法令案が待ち構えていた。鉄鋼側にとっては、前門の狼(公取)、後門の虎(通産)だった。その中には「一手購入機関」の筋書きも書き込まれていた。鉄鋼は直接統制の予感に怯え、鉄屑業者は一手購入機関導入の風聞、思惑に身構えた。

  • 第4回カルテルー従来カルテルを全面書き直す (56年9月20日認可、期間1年間) 
     鉄鋼側は第1回以来の懸案だった内部問題(アウトサイダー)と外部問題(鉄屑連盟)対策を打出し、カルテル初期の大きな峠を越えた。つまり鉄鋼側は内部的にはアウトサイダーをB、Cカルテルの結成として取り込み、外部的には鉄屑業者の内部分裂を足場にして、協定書の「日本鉄屑連盟の意見参酌」を「鉄屑業界の意見を聞き」に書き改め、鉄屑連盟の価格決定の関与に一定の歯止めをかけた。その結果、第4回カルテルは、従来のそれとは異なる形に生まれ変わり、以後カルテル運営はこの時形作られた構造の上で動くことになった。

  • 「鉄屑連盟の意見参酌」条項を削る カルテルは、第1回カルテル申請以来の「日本鉄屑連盟の意見を参酌」するとの協定文言の排除にこだわった。カルテルは通産省と打ち合わせ、申請書を「国内鉄屑の各月購入価格は、鉄鋼市況、カルテル加盟の需給状況、入荷状況等を勘案し鉄屑業界の意見を聞き決定する」と書き改め、公取委に提出した。公取は9月20日付けで認可した。▼十年史によれば=「国内屑価格決定に際しての鉄屑業界代表として従来『鉄屑連盟』の意見を聞くこととなっていたが、直納業者の有力団体である巴会、八日会の脱退があったので、公取委側の意見をただしたところ『鉄屑連盟の意見参酌を削除することは申請上何ら差し支えないが実際問題として、鉄屑業者側から異議申立がなされた場合に再審査等の煩雑な問題を残すので、なるべく何らかの表現を挿入するほうが望ましい』とのことであったので『鉄屑業界の意見を聞き」の字句に修正することとなった』(同234p)。▼ただ鉄屑連盟が協議の場から排除されたわけではない。鉄屑連盟は9月28日、カルテル価格交渉に際し巴会、八日会と同じ各2名代表では業界の比重から見て不合理として7名(会長、関東2名、関西、中国、北海道、九州=計7名)を認めるようカルテルに要求し容認させた(10月8日、通信)。▼鉄屑連盟がその地位を失うのは第6回カルテル途中の58年(昭和33)11月以降。鉄鋼との協調を目指す鉄屑問屋協会や鉄屑協議会が登場してからである。

  • A、B、C3カルテルを結成する 公取は9月20日、普通鋼18社、特殊鋼14社、関西電炉9社から申請された3カルテルを認可した。この3カルテル発足に伴い、先発の高炉・平炉カルテルをAカルテル、それまでのアウトサイダー各社を、特殊鋼はBカルテル、関西電炉はCカルテルとして内部に取り込んだ。この取り込みのエサとしたのが、輸入屑の共同配分だった。アウトサイダー各社にとっても国内鉄屑の乱高下は歓迎できず、先発カルテルが打ち出した輸入鉄屑の共同配分(輸入屑カルテル)に与れるのは誠に好都合だった。この結果、国内鉄屑総消費量の85%が3カルテルによって支配されることになった。▼輸入屑の共同配分=輸入屑扱いでは米国屑は3カルテルのうち高炉のAカルテル業務委員会が代表窓口となり対外交渉を一元化し長期契約に乗り出す。運用に当って、合同委員会は公取の疑義から諮問機関となったが、3カルテルは協定書の中に「国内屑の価格、購入数量、その他重要な事項については(略)他の共同行為の実施機関と協議し決定する」と明記した。国内鉄屑の価格決定等はA、B、Cカルテル間で調整し、購入限度量は通産省および3カルテルが打合わせた上、個々のカルテル内で社別限度量、輸入屑を振り分けることとした。

  • 鉄屑全国組織は分裂―鉄屑連盟と巴会・八日会 鉄屑連盟と巴会など直納団体は、第3回カルテル発足直後の56年7月7日、大阪で第1回合同準備委員会を開いた。 7月末までに発起人(各既存団体代表)会を開き、8月をメドに創立総会に持込む。合同団体の骨格が整ったあと、全国一本化を貫徹するため全既存団体の解散を行い、新団体に高・平炉、電炉、集合(中間業者・建場)の三部会を設立。調整委員会を上部に設けカルテルとの折衝にあたるとの、基本方針を定めた。▽まさにこの時、「鉄鋼需給安定法」が漏れ伝わってきた。「一手購入機関」の筋書きも書き込まれていた。鉄鋼側が直納系業者にどのような工作を行ったかは資料的には明らかにできない。しかしこの風聞の広がりと軌を一にして、直納業者らの組織大合同への動きは急減速した。またそれゆえに中間業者らの直納業者らへの不信は頂点に達し、合同論議は水疱に帰した。▽鉄屑連盟の中間業者58社は9月5日、「同志会」を結成し、①巴会とは合同を打切りディーラーは個別・資格審査のうえ加盟を認める。②新たに発足を予定しているB、Cカルテルなどが鉄屑連盟の意見を無視すれば公取に提訴し出荷拒否運動を展開するとの強硬方針を決定。鉄屑連盟も同月13日、総会を開いて任期満了に伴う改選を行い、新会長に近藤正二・関西鉄屑懇話会長を選出。合同役員会では有志懇談会の提案で鉄屑連盟が主体となって業界の団結を図ると決議。合同不調は決定的となった。

  • 180万㌧の輸入米屑と日本鉄屑連盟(57年7月~8月) 戦前用語・用例の項参照

  • 第5回カルテルー「下限価格」と「天井価格」の混迷(57年9月20日認可、期間1年間) 
    第4回カルテルが始動した1年前の56年9月、米国鉄鋼ストの余波と鋼材暴騰から三万5千円超の高値が横行し、カルテル空中分解の危機さえささやかれた。それが1年足らずで一変した。

  • 180万㌧の輸入米屑とカルテル協定価格―底割れが常態化 戦前用語・用例の項参照

  • 「下限価格」と「天井価格」の混迷 鋼材価格が急落した。カルテルは、銑鉄価格を据置きながら鉄屑価格だけは下げた。カルテル協定価格の下限価格と最高価格を巡ってメーカーと業者で見解が真っ二つに分かれた。▽もはや鉄屑連盟でも関東巴会でもなかった。各業者団体は、カルテル各社に対し実際の購入価格(実施価格)をカルテル下限価格の一万五千円以下に引下げないよう強く申し入れた(11月25日)。また鉄屑連盟首脳らは通産省鉄鋼業務課を訪ね、下限価格割れの安値是正を要望した。カルテルは、協定価格は協定(共同行為)し得るシーリング(最高・天井)プライスである、つまり協定価格以上の買付はカルテル規約上できない(従って協定価格以上の高値買いは監視対象となる)が、それ以下の買付は自由にできる(それ以下の価格での買付を拘束するものではない)と主張した。公取もこの解釈を支持した。上限・下限論議は、折に触れ再燃したが、輸入屑の大量入着を背景とする需給緩和のなか実施価格は、協定価格を下回るのが常態となった。▼第5回カルテル晩期の58年8月東日本鉄屑需給委員会(Dカルテル)が、さらに9月中部鉄屑需給委員会(Eカルテル)が公取から認可され、全国5カルテル体制が発足した。この結果「国内屑の約90%がカルテル下におきうる態勢が整ってきた」(十年史32p)。(第9回カルテルの項、参照)。

  • 第6回カルテル(1958年9月20日認可。期間1年間) カルテル協定内容に特段の改変はない。ただ直納業者を中心に58年11月「日本鉄屑問屋協会」、59年6月「日本鉄屑協議会」が設立され、鉄屑カルテルとの協調を掲げる全国代表組織2団体が名乗りを挙げたことから、カルテルは「鉄屑業界の意見」を聞く協議対象から日本鉄屑連盟を外し、カルテルからの完全排除を果たした。▽また全国5カルテル体制が動き出し、アウトサイダー数を最小化したことから、鉄屑カルテルは内外共に盤石の足場を固めた。この間に富士系の東海製鉄(新日鉄住金・名古屋)の発足(58年9月)、戦後の商社解体から分散していた三井物産の大合同(59年2月)、日新製鋼の誕生(同月)、伊勢湾台風来襲(9月)などがあった。協定価格は58年1月16日から59年2月10日まで18,000円。2月11日から当カルテル期間を超え61年3月まで25ヶ月間19,000円が続いた。

  • 日本鉄屑問屋協会を設立(58年11月) 日本鉄屑連盟から集団脱退(55年11月)した巴会や八日会など直納業者は58年7月から新たにカルテル協調団体の結成に動いた。▽①Aカルテル直納業者が地域別・ミル別に新組織を作る。②北海道から九州まで地区毎に連合会を組織し、③これを全国組織に発展させ、④B、Cカルテルにも広げた。▽58年11月Aカルテル対応の「日本鉄屑問屋協会(松島政太郎会長)」が発足し、中央本部とこれに所属する北海道・東北・関東・関西・九州の各鉄屑問屋協会 地区支部組織)が誕生。59年3月Cカルテル対応の関西電炉鉄屑問屋協会、同4月Dカルテル対応の東日本鉄屑問屋協会、同5月Bカルテル対応の特殊鋼鉄屑問屋協会、Eカルテル対応の中部鉄屑問屋協会も相次ぎ結成された。▽組織化にはカルテルが協力し「鉄屑団体結成のための処理方針」を作成。中央組織の結成はカルテル地区委員会の推薦した直納業者の地区代表を発起人として推薦。 地区代表は主力メーカーの直納業者の代表格の人を選定する、とした。地区役員人事はカルテル同意事項となっており、実体はカルテル追認組織である。

  • 日本鉄屑協議会も誕生(59年6月) 日本鉄屑問屋協会に続いて59年6月、同協会及びその所属団体(全国6区)の他、B、C、D、Eカルテルの対応団体ならびに関東鉄屑業者団体連合会など中間業者団体を含めた「日本鉄屑協議会(松島政太郎会長)」が設立された。直納業者を中心とする日本鉄屑問屋協会と違い協議会は中間業者団体も含む。「この組織がカルテルに対応することによって全カルテルと鉄屑業界の意思の交換が単一化される仕組み」(十年史203p)が完成した。▽規約によれば目的は「鉄屑需給並びに価格の安定(1条)」と「各カルテルと双方の意志の連絡協議(5条)」。これこそがカルテル側の最大の狙いだった(各種団体・「日本鉄屑協議会」の項参照)。

  • 日本鉄屑連盟は活動停止状態へ 鉄屑カルテルは第4回以後、「鉄屑連盟の意見を参酌して」との条項を「鉄屑業界の意見を聞き」に改めていたが、巴会や八日会と並んで鉄屑連盟の意見も聴取していた。しかし第6回カルテルの途中、カルテルとの協調を目指す全国組織である鉄屑問屋協会や中間業者を含む鉄屑協議会が登場してきたことから鉄屑連盟は最早、主要な団体ではないとして意見聴取の対象から完全に排除した。カルテルはこれ以後、カルテル地区委員会の推薦による問屋協会や協議会を相手に「鉄屑業界の意見を聞」くことによって協定書順守の形式が可能になった。

  • 外口銭制度とカルテル 「日本鉄屑問屋協会(問協)はカルテル協調組織として直ちにその政治的、営業的な特段の配慮を求め、発足直後から納入業者の要望を集約してカルテルに陳情を重ね、なかでも強く求めたのが外口銭制の採用だった。▽この問協の申し入れに応じて59年2月、3月と協定価格のほかに別途千円口銭(外口銭)をつけた。しかしAカルテル以外から批判的な意見があり、4月以降一旦廃止されたが、鉄屑協議会が創設された同年6月、再び納入業者から外口銭の採用への申入れがあったため、5カルテルは同年11月から一定の条件のもとに外口銭制(五百円)を採用した。ただ外口銭制度はカルテル間ですんなりと承認されたわけではない。 カルテル十年史は、「問協側は過当競争等で適正な利益をあげることが困難になり、また下部組織の突き上げもあって59年6月の日本鉄屑協議会の創設を契機に『経営の安定、納入数量の確保』等を理由に再度、強い申し入れがあった」。そのため「日本鉄屑協議会並びに日本鉄屑問屋協会の努力、及び現状を勘案し各カルテルも原則論ないしは主義主張を離れて、政治的な見地から」実現を図ったと記す。カルテル協調努力に報いる「成功報酬」だった。カルテルは「カルテル購入枠に対し85%以上の納入責任を負う」こと、「不測の弊害等を惹起した場合は、直ちに廃止する」ことを条件に同年12月から実施した(なお第13回カルテルの項参照)。▼「取扱手数料」伊藤信司理論=カルテルは「鉄屑の供給量が需要量に比べて少ない」という前提で動いている。供給が少ないからメーカーはカルテルで価格協定を行う。供給が少ないから問屋は自由競争で口銭幅を削る。これでは問屋はやっていけない。その解消策として手数料制度の確立がある。従って手数料問題は価格の問題ではなく制度の問題である。カルテルが存続するとすれば問屋団体がやっていける制度的な見直しが必要になる。だからカルテル対応団体の口銭は当然、制度的・外口銭的なものでなければならない。

  • 第7回カルテル(1959年9月21日認可。期間1年) 協定内容に特段の改変はない。市中実勢は、需給バランスの良さや鋼材市況の平穏さに加え「5カルテル間及び(カルテル協調団体である)問屋協会との相互関係が外口銭制度の実施により」「すこぶる平穏で、(市中価格は)常にカルテル協定価格を下回った」(鉄屑カルテル十年史159p)。▽この間のトピックスは1960年4月以降、米輸入屑が自動承認制(AA制)へ切り替ったこと。チリ地震で三陸大津波(5月)、新安保条約の反対運動が渦巻いたことだ。カルテル協定価格は59年2月11日から61年3月まで25ヶ月間19,000円が続いた。市中実勢価格も59年10月20,600円、60年8月18,500円で推移した。

  • 第8回カルテル(1960年9月20日認可。期間1年) 協定内容に特段の改変はない。しかし輸入屑の運営を巡って第2回カルテルから実施されていた米国屑の共同行為(輸入屑カルテル)が内部の意見の違いから分裂、崩壊した(61年2月)。この分裂が引金となって輸入屑手当ではカルテルの下請け役に甘んじていた商社筋が、自社リスクで米国屑買付けに参入し、輸入屑扱いを足場に国内屑扱いに乗出す契機を作った。▽カルテル協定価格は61年3月まで25ヶ月間19,000円が続いた後、61年4月22,500円、5月20,500円、6月20,000円に変動した。市中価格は61年4月以降、高値23,700円(61年4月)、安値21,000円(6月)に終始した。

  • 輸入屑カルテル・61年崩壊 外貨(ドル)不足から1954年1月以降、国家管理下にあったドル地域からの鉄屑輸入規制(外貨割当制・FA制)が、国際収支の好転を背景に60年4月以降、自動承認制(AA制)へ切り替った。FA制のブロックに阻まれていた商社も自由に外貨を保有し鉄屑輸入ビジネスに参入出来るようになった。▽この時期、米国の鉄屑需給は緩和。日米関係も、売手市場から買手市場へと大きく変った。日本でも鉄屑対策の目的が絶対量不足の「数量対策」から「価格対策」に移行し始めた。この結果、カルテル内部でも従来の長期契約方式一本槍ではなく「買手市場化した現実を生かした買い方」(随時契約)も検討すべきとの主張が台頭し、両論が対立した。
     61年1月17日から2月22日まで同一論議を巡って「極めて白熱化した議論」が戦われたが、一致せず2月22日の会議で長契(AS会)派と随契派などに決裂した(2・22事件)。この分裂により、カルテルはシュレッダー屑、ソ連屑などの2~3の事例を除いて、「何らタッチしない」こととなった。▽鉄屑カルテル19年間の最大のエポックの一つが輸入カルテルの崩壊とこれを契機とした米屑への商社参入であろう。61年の商社参入前の6年間の市中価格平均は21,800円だが、商社参入後は専用船による潤沢な輸入屑の入荷と価格平準化効果もあって、新日鉄発足(70年3月)直前までの9年間平均は16,600円。実に5,000円以上も水準を下げた。

  • 第9回カルテル(1961年9月20日認可。期間1年) 米屑を巡る輸入屑カルテル崩壊は商社参入と思惑買いを呼込み、輸入屑は急増(1961年718万㌧、史上最高)・急落(62年286万㌧、急落量も史上最高)の乱高下にさらされた。▽この間、金融不況とLD転炉の普及から平炉37基の封印減産(62年7月)があった。カルテル協定価格は61年10月20,000円、62年1月19,000円、3月以降18,000円。輸入屑の殺到から市中実勢は61年9月21,500円を高値に62年6月11,100円に急落。カルテル下限価格割れが再び論争となった。▼下限割れ問題(公取判断)=関西問協(島田五三郎会長)は62年5月、協定下限価格割れはカルテル違反として、公取に提訴するとともに共同行為の一時停止を申し入れた。これに対し公取は8月、「15,000円は協定しうる価格の下限」と裁定した(十年史239p)。カルテル協定の下限価格が15,000円であれば15,000円未満の共同行為は行えない(15,000円未満での共同行為はできないが、各社の自由決定ならカルテル下限価格以下であっても買付けできる)とし、カルテル各社の実勢価格の下限価格割れを追認した。

  • 第10回カルテル(62年9月20日認可。64年までの2年間) カルテル協定書は「購入価格は…鉄屑業界の意見を聞き」(2条3項)を「国内鉄屑の購入価格及び購入数量を定める時は予め鉄屑業界の意見を聞く」(7条)に改め、購入価格・数量に関しても業界の事前・意見聴取を明記するなど業者に発言余地を与えた。▽原理的に鉄屑装入を不用とするLD転炉製鋼法が普及し、新旧高炉・LD転炉の新増設ラッシュが続くなか、伸鉄業から新たに電炉業に参入した各地の電炉会社が次第に発言力を高め、高炉対電炉の対立が表面化し、カルテル再編論も浮上(1963年8月)した。
     市中実勢は前年来の輸入屑ラッシュから62年10月12,700円でスタートし、63年高値17,100円、安値14,800円。64年も63年同様のゾーンで推移。カルテル協定価格は62年10月から63年4月まで15,000円、同5月から10月が16,000円、11月から64年8月まで16,500円(9月17,500円)。カルテル期間内の市中実勢の変動幅は最大約5,000円、協定価格は2,500円以内に収まった。

  • カルテル運営強化を業者要望(63年6月) 鉄屑問屋協会と鉄屑協議会は連名で63年6月 「国内鉄屑市場に対する責任の所在を明らかにし鉄屑カルテル体制とその運営強化を望む」との要望書をカルテルに提出した。第10回カルテルで価格だけでなく購入数量決定にも予め「業界の意見」を聞くことを踏まえたものである(十年史209p以下)。▽(1)国内鉄屑市場に対する責任=「需要者(メーカー)は家庭の事情」を盾に買付け量を急増・急減させ「供給者の経営は不安定となり、鉄屑企業経営に対する自信とカルテル並びに問屋協会に対する信頼を喪失せしむる結果となった」。「市場価格より低いカルテル価格で需要量の充足を強制されれば」「経営は成り立たず一つ残らず全滅」する。「我々は毎月のコンスタントな買付けに見合った、合理的で目的的なカルテル運営には協力を惜しむものではない」 が「国内鉄屑の市場秩序維持にはカルテル機能の恢復が必要であり、 そのためにはカルテルの鉄屑市場に対する(メーカーの)責任意識の明確化が先決」である。▽(2)鉄屑カルテル体制と運営強化を望む=カルテルの輸入部門はすでに崩れた(2・22事件)。このため国内部門の強化を求める。①カルテルは 「購入価格及び購入数量を定める時は予め鉄屑業界の意見を聞く(7条)」との条件で認可された。問屋協会はカルテル運営に必要不可欠な経済団体である。②カルテル運営会議の刷新を求める=カルテル「地区小委員会」では従来、協定価格・需給等、一応業者の意見を聞くだけで討議の場を与えられなかったが、今後は「我々が出席している会議内で相互に公示し」「カルテル価格を討議決定」し「一旦決定した数量、価格は変更を認めない」ことを求める。③「国内市中屑を優先」=企業規模に応じ一定量を毎月計画的、継続的に買付けることを求める。需要は浮動し価格は変化するからコンスタントな買付けはあり得ないとの反論も予想されるが、その論法は鉄屑カルテル廃止論である。価格と需給をメーカーと業者の協力により安定させるのが鉄屑カルテル運営の本質だから、「この提案以外には法的にも経済的にも、我われを納得させる方策は無い」。▽カルテル史は、上記要望書を掲載したうえで「カルテルはディーラー側の『納入責任』に信頼を置きがたいとの結論に到達し(63年9月)終止符を打った」。つまり「要望」を黙殺した(鉄屑カルテル十年史213p)という。

  • 鉄屑カルテル再編成案(第一次・63年) 1963年前後、高炉各社(平炉・鉄屑消費のピークは61年)に代って電炉の国内屑消費が急増した(63年電炉鉄屑消費786万㌧、平炉516万㌧、転炉263万㌧)。鉄屑消費の牽引役は高炉主導から、伸鉄業を足場に国内各地に簇出した中小電炉へと移りつつあった。▽このなかで高炉大手は輸入屑で製鋼を賄い、平電炉に国内屑を与えよとの主張がでてきた。それがCカルテル(関西・電炉)の永沢嘉己男需給委員長が提唱し電炉操業が多いB、C、D、E各需給委員長と協議のうえ63年9月、Aカルテルの稲山業務委員長に提示した「鉄屑カルテル再編成案」(永沢私案)である。高炉のカルテル支配に対する電炉側からの異議申し立てだった。
    ▼その骨子は①既存5カルテルを解消して全国単一のカルテルを再結成する。②シッパーや国内直納店は登録制とし登録外とは取引しない。③米屑はカルテル一本で買付け、価格はプール制とする。④従来の業種別カルテルの購入枠を廃止し、全国を6ブロックに分け、地域ごと・メーカーごとの購入枠を設定する。⑤「直納店は大幅に整理し実力のあるものだけを選ぶ。二次取扱店も整備し強固な組織を作らせる」(直納店が多すぎるため組織が弱く統制が取れない。関東、関西はそれぞれ25社を中核に全国50~70社に集約したい)。⑥「国内屑の価格は実施価格とする」。最高と最低を定め、半年間は変更しない(従来のシーリング価格は廃止し実施価格は買上げ・備蓄放出で維持)。⑦カルテルは特別の事情がない限り、国内購入枠充足の義務を有し、その枠以上は購入できない(国内屑で充足出来ない場合は輸入屑を国内屑価格で放出。損失は全メーカーが共同負担)。⑧そのため全国6ブロックにストックパイル(備蓄場)を設け需給・価格調整に備える、などである。

  • 鉄屑需給連絡協議会、発足(64年) この永沢私案(電炉提案)が引き金となって生まれた協議会である。Cカルテル提案のカルテル再編成案は1963年10月、7人委員会(この問題審議のためAカルテルの八幡、富士、鋼管3名とB、C、D、Eの計7名で組織)によって審議された。高炉が多いAカルテルは反対し、特殊鋼のBカルテルは時期尚早とし、関東Dカルテルは条件付きで賛成したが、反対多数で廃案となった。しかし国内屑に関し何らかの鉄屑安定対策の樹立は必要との認識から、5カルテルの問題を横断的に協議するものとして「鉄屑需給連絡協議会」が発足した(64年1月)。連絡協議会は各需給委員会にまたがる諸課題を調整するため中央に「鉄屑需給連絡協議会」、下部機構として「連絡小委員会」を設置した(協定書面の明文化は12回カルテルから)。

  • 第11回カルテル(64年9月20日認可。66年までの2年間) 協定価格の位置付けを明確にするため協定価格は協定し得る最高価格と明記した。▽東京五輪(1964年10月)の反動不況から日銀の山一証券特別融資(65年3月)、山陽特殊製鋼の会社更生法申請(同月)が渦巻くなか、鉄鋼各社の新増設ラッシュは一種の戦国状態を呼び込み、住金事件(11月)が表面化。戦国乱世の最終解決策として、永野・八幡社長による鉄鋼大合同構想(66年7月)が打ち上げられ、新たな模索が始まった。▽市中価格は64年9月16,410円(平均)で始まったが、高値は65年6月17,920円で変動幅は1,000円内外。協定価格も64年9月から65年7月まで17,500円、8月~66年1月17,000円、2月~8月16,500円(9月17,000円)の上下500円内に収まった。

  • 資金援助と問協の「浮き上がり」 カルテルからの資金援助は、日本問屋協会の発足直後の1959年2月の事務所開設費用の500万円借り入れを皮切りに始まった(60年5月返済)。本格的な資金援助は60年8月、事業資金としてまず500万円、62年度(月額13万2,000円)、64年度(月額16万円)と継続した。会員の会費未納の増加などから資金面での業者組織の弱体化が進んだ66年2月、鉄屑協議会及び問屋協会10団体事務局を一体化し「鉄屑協会事務センター」を開設した(資金援助の要請を拒否されたDカルテル対応の東日本問屋協会は66年4月から運営業務を停止した)。報道記事は「最近の問協及びカルテル運営は全般に冴えない。Aカルテルの上層部にすら合理化カルテル活動の舞台は終わったとの意見がもれている」。「問協組織に対する一般会員の反応及び参加意欲は年々低下しており、『浮き上がり状態』は否定できず今回の波乱をきっかけに全問協の有り方は真剣な議論を呼ぶことになりそうだ」と伝えた(日刊市况通信66年4月19日)。▼カルテル依存の悪弊を生む=カルテル史はこの背景として会員がカルテル対応組織としての問屋協会の意義を認めなくなり、会費の納入が悪化。「中央組織は勿論のこと地区問協も解散しかねない状態」(41年・42年度年史98p)に追い込まれた、と記した。▽このため1966年度、67年度の資金援助は5カルテル合計で月額28万円。67年12月に翌68年度の援助額として従来の倍の56万円を望むとの要請が鉄屑協議会から行われた。カルテルは問協の内部改善と予算案の提出等を条件に月額33万円(Aカルテルは16万円から18万円、Dカルテルを除く3カルテルは各1万円引上げ)に増額。70年度は全カルテルで月額32万円(Aカルテルは月額18万円から20万円へ)とし、73年度以降カルテル最終年度まで同額で継続した(41~42年度史98~99p、43~45年度史184p、46~49年度史267p)。この資金援助が問協の存在を歪める一因となったとされる。

  • 第12回カルテル(66年9月27日認可。68年までの2年間) カルテル発足10年。需給変化に見合った再編論や下限価格の引き下げ論が渦巻いた。新たに結成された平電炉普通鋼協議会(1966年11月)は、高炉と電炉の棲み分けを前提としたカルテル再編論を再び提起(66年11月)した。この間、当時最大の平電炉会社だった大谷重工が経営破綻(68年3月)し、住金事件を引き金とする鉄鋼大合同構想が八幡・富士の合併発表(4月)となって具体化した。▽市中価格は66年10月から67年9月まで16,000~17,000円をつけた後、大谷重工の信用不安から68年5月12,000円台まで下押した。▽協定価格は66年9月から67年1月17,000円。4月18,500円をつけた後、6月以降ジリジリと下げ大谷重工問題を映して68年5月以降15,000円に後退した。

  • 鉄屑需給連絡協議会を明文化(66年) 第12回カルテルでは連絡協議会を明文化するとともに、各地区に「地区連絡委員会」を設け、7地区(北海道、東北、関東、中部、関西、中国、九州)委員会がスタートした(鉄屑カルテル41・42年度史46p)。地区委員会は、従来の地区内部事項だけでなく他の「共同行為の実施機関(地区委員会=カルテル)」とも協議できることになった。この時、地区連絡委に対し鉄屑業者は協議会、問協会長名で「地区連絡委」への参加を求めた(66年11月)。▽「鉄屑直納業者の実態は苛烈な買付納入競争に終始する(略)現状にあり、鉄屑カルテルの運営、問屋協会の存続に対し批判的な声も次々と叫ばれる事態となっております」と問屋協会が置かれた苦境を率直に説明すると同時に、その打開策の一つとして「地区連絡委員会の運営に地区問屋協会代表も積極的に参加し、充分意見を申述べ双方がそれぞれの立場を尊重し、共存共栄の精神に則り鉄屑の安定対策」に参加することで存在感を示したい」と述べた。▽しかしカルテルは連絡委への業者参加を認めなかった。「本会は国内屑の情報・収集交換の場であって価格協定は行わない。また業界の意見を聞く必要があれば連絡委幹事が予め聞く」との理由だった。▽ただその後、「1カルテル1問協」となった70年以降、問屋協会との協議を制度化した(第14回の項参照)。

  • 平電炉普通鋼協議会(67年3月) 「開放経済体制下におけるわが国重工業の将来はいかにあるべきか」との大臣諮問(64年11月)に対し、産構審重工業部会・鉄鋼基本問題小委員会は66年11月、「今後の鉄鋼業のあり方について」との中間答申を行った。▽そのなかで平電炉メーカー対策として「現行の鉄屑カルテルを強化するとともに地域別・品種別の協調の場を設けること。特にスクラップの共同購入、販売面のグループ化または提携、窓口商社の一本化等の協調体制の確立を推進すること」が指摘された。▽その答申に基づいて産構審・鉄鋼部会は、下部機構として平電炉小委員会を設置(67年3月)し、平電炉メーカー対策が行政内部で討議されることになった。この動きに沿う形で平電炉各社も平電炉普通鋼協議会(66年・注)を立ち上げ、これが両輪となって平電炉メーカー対策、カルテルの再編問題に取組むことになった(41~42年度史74p以下)。

  • 鉄屑カルテル再編成案(第二次・67年) 平電炉普通鋼協議会と鉄屑基本問題小委員会は67年6月、鉄屑カルテル再編成案を取り纏め通産省に説明。以下の3点を主張した。▽1 方向=実勢価格18,000~19,000円は国際価格(30~35㌦)に比べ10~20㌦も高い。購入、流通機構を再整備し最終的に国際水準並みの12,000円程度に段階的に下げる。▽2 カルテル再編=鉄屑を主原料とする平電炉と副原料に近づいた高炉では買入価格その他の面で利害相反が多くカルテル運営は円滑に進まない。「比較的安価に輸入屑を使用できる立地条件にある高炉は輸入屑の依存度を上げ」て国内需給の緩和と価格引下げを図る。現行5カルテルを高炉と平電炉に分け、「高炉に対し国内屑の購入を漸減させるよう要求」し、平電炉は発生地域ごとに分割し実情に応じて弾力的に運用する。▽3 流通整備=複雑な鉄屑流通が価格を高くしているから「流通機構を再検討」する。
    ▼高炉側の反論(67年7月)=高炉側は、鉄屑の高値は国内供給を上回る需要と輸入屑依存を脱却できない国内体質にあると指摘したうえで、①高炉が輸入屑に全面的に依存すべきか否かは「経済性」で判断すべきだ。②鉄屑高値の原因が高炉側の価格にあるように主張するが「在庫保有が常に少ない」平電炉の操業に責任があるのではないか。③カルテルには既に連絡協議会があり横の協議は可能である。現行枠内で運用が円滑に行くよう検討すべき。④鉄屑価格の論議は生産・販売の両面にわたる「業界の競争・協調体制の一環として」検討されるべきで原料面だけ高炉に協力を求め、平電炉が販売対策を講じないのは「鉄鋼価格の安定という根本問題」の解決にならない。⑤鉄屑値下げを強行した場合、鉄屑業者への悪影響、製品価格へのハネ返り等を考慮すべき、というものであった。▼再編論議は「連絡協」で協議=この論議は「カルテルは中央に一本化し各地区に支部を設ける」との方向で煮詰まった。各カルテルは再編成を検討する専門委員を選出し67年11月の第1回会合から翌68年3月まで検討を重ねた。ただ高炉と平電炉の購入枠設定の調整はつかず第12回カルテルの残り時間も無くなったため、再編論議は中断した。

  • 第13回カルテル(68年9月27日認可。期間は2年間) 鉄スクラップ専業者だけでなく資源業者団体である日資連(日本再生資源組合連合会)の意見聴取も始まった。カルテルが高炉と電炉の内部問題を抱えたように、業者も高炉の鉄屑離れや電炉の台頭に対応する模索が始まった。出荷も多様化した。カルテルは初期のそれとは明らかに変質していた。▽鉄鋼過当競争の最終的解決を目指す八幡と富士の合併(構想発表68年4月)は、公取の合併否認(5月)を乗り越え、新日鉄誕生となって70年3月、結実した。巨大メーカーのリーダーシップによる協調体制(新日鉄的平和)が動きだし、カルテルと業者協調の証と見られた「外口銭」は廃止(70年2月)され、カルテル再編が改めてテーブルに乗った。▽市中価格は68年10月の14,000円から69年末18,000円、70年3月24,000円を推移。協定価格は68年5月から69年5月まで15,000円、6~9月17,000円、10月~70年1月19,000円、2月20,500円と安定したが、外口銭制が撤廃された3月以降、25,000円、5月24,000円、6月22,000円、7~8月19,000円、9月21,000円と変動幅を広げた。

  • 日資連もカルテルで発言 資源業者団体(東京都資源回収事業協同組合など)はカルテル反対に結集した日本鉄屑連盟の運営を巡る対立から脱退(54年)。カルテルに関する発言機会をこの時まで失っていた。そこで公取は、第13回カルテル認可に当り口頭で、①購入価格を決めるときは鉄屑業者の意見を十分に聴取すること。②比較的小規模業者で組織する日資連に発言の機会もしくは場を与えるよう配慮すること、と伝えた(43~45年度史13p)。

  • 新日鉄体制と外口銭廃止(70年2月) 外口銭はカルテルと日本鉄屑問屋協会、日本鉄屑協議会との緊密な結びつきの証だった。ただ問協などは、外口銭を代金とは切離して別途ディーラーに支払うよう希望したが、品代金に加算されることが多く、外口銭としての位置づけは曖昧となっていた。協定価格がありながら更に口銭と称して加算されるため、口銭を支払わない会社と加算を行う会社で購入上支障も生じ、議論の対象となった。また月末際の85%納入条件達成の駆け込みが相場乱調の一因とも目された。▽新日鉄誕生からカルテルの実質的な機能が薄れた70年2月、カルテルは、最高価格は内口銭、即ち口銭込みの価格とするとの決定を行い、11年間続けてきた外口銭制は廃止した(鉄屑カルテル昭和43~45年度史184p)。まさに縁の切れ目が金の切れ目だった。

  • 第14回カルテル(70年9月28日認可。認可期間は2年間) 新日鉄誕生による鉄鋼「協調体制」のもと、カルテルも全国9カルテルに再編され、業者との協議体制も整った。一方、ニクソンショック(1971年8月)から円は1㌦360円の固定制から変動為替制に移行し、田中内閣による列島改造ブーム(72年)などの内外情勢から鉄スクラップ相場は激しく翻弄された。▽70年10月18,000円前後で始まった市中価格は71年7月13,000円、ニクソン・ショックに直撃され10月10,000円を割った。70年10月19,500円で始まった協定価格は11月以降71年3月まで細かく改訂され、4月以降72年11月まで15,000円に張り付いた。

  • 新日鉄体制と9カルテルに拡充(第三次・71年) 1970年3月、八幡と富士が合併し世界最大の鉄鋼会社・新日本製鉄が誕生した。新日鉄を中心とする協調体制の確立からカルテルを取り巻く環境は大きく変った。▽そのなかで電炉普通鋼協議会は6月、第14回カルテル申請に向け、カルテル再編成に動いた。通産省は8月、全国一本化カルテルが望ましいとの意向を明らかにした。▽第14回カルテル申請に当り、従来のABCDEの呼称をやめ、Aカルテルは「高炉」、Bカルテルは「特殊鋼」、Cカルテルは「関西」、Dカルテルは「関東」、Eカルテルは「中部」に改めた。この地区別カルテル結成が呼び水となり、北は北海道から南は九州に至る全国7地区9カルテル体制がスタートした。アウトサイダー会社も地区カルテル内に吸収し、連絡協が横断的に組織を束ねるなかで、カルテルの国内市場支配力はかってないほど強大なものとなった。

  • 鉄屑需給連絡協議会と問屋協会 全国7地区9カルテル体制に応じて「連絡協」は鉄屑業界も一体となって意見を述べるのが望ましいとして、問協にも従来の「1カルテル1問協」から「1地区1問協」への再編を求めた。また日本鉄屑協議会も従来のカルテル別を改めて地区別に再編し、問屋協会内部に高炉、特殊鋼、電炉の3部会を設け、それぞれが対応処理することとした。▼地区問屋協会の仕事は「地区需給の実態を把握し、各月の価格見通しについて地区連絡委員会に意見を具申すると共に安定納入の責任について協力すべきもの」(「カルテル対問屋協会の在り方(1970年10月)」)とされ、カルテル地区連絡委員会は地区問協の意見を聴取の上、グレード別地区価格を設定し、連絡協議会事務局に答申し、次いで連絡委員会が、各地区価格を調整の上、協定価格(シーリング価格)を決定する。需給についても地区連絡委員会の幹事が参加各社の鉄屑需給計画を徴収・検討し、必要な場合は在庫品の融通や輸入屑の買付けに付き協議する、こととなった。

  • 鉄屑価格安定対策専門委員会―新日鉄的協調体制 鉄屑価格安定対策は70年11月、日本鉄屑協議会が各カルテルに提出した「鉄屑市況の安定対策についてのお願い」が発端となった。要望書は、新日鉄誕生の70年3月24,000円台にあった市中鉄屑価格が、足下(70年11月)では14,000円台に下落したことから「購入中止または購入制限等の処置は即刻中止し、購入割当全量を購入すると共に下限価格15,000円以下の購入は絶対行わない」こと。市況安定と「鉄屑業界の苦境の救済」を強く求めた(カルテル43年~45年度史110p)。▽カルテルは「価格安定対策専門委員会」を設置し、各地区カルテルの意見を集約し71年3月、「鉄屑価格安定対策」をまとめた。▽決定方針=「カルテルの全国的組織化の完成に伴い」「特級ベース15,000円を目標」とし以下の価格安定対策を行う。①緊急輸入手当(個別又は共同)、②輸入屑の融通(分譲又は貸与)、③在庫融通(分譲又は貸与)、④ヤードの小さいミル・地域は共同ヤードの設置、高炉あるいはディーラー協力によるヤード機能の借用。補完措置として安定基金の積立、責任納入体制の確立、である。▽鉄屑カルテルの運営、協定価格及び実施価格でも「新日鉄的協調体制」が本格的に動き出した。

  • 日本鉄屑協議会とニクソン・ショック―「危機対策陳情」 日本鉄屑協議会(德島佐太郎会長)はニクソン・ショック(1971年8月)が深まった71年9月「鉄屑業界の危機対策についての陳情」書を相次ぎ提出した。陳情書(9月21日)によれば、▽需給対策として①大手メーカーの鉄屑在庫の分譲中止。②輸入屑の購入停止。③鉄屑のストックパイルの検討。④購入数量枠の設定(購入中止・制限を行わず計画的に購入)。▽価格安定対策として①鉄屑価格の安定対策の実施。②価格改定は月2回を限度とする。③最低口銭の確保のため適切な外口銭の実施(復活)と発表価格は代納価格。④発生者価格の引下げ。▽カルテル体制として協定価格(15,000円)を下回る実施価格は問協と協議し「双方納得の上」決定するなどの対策を求めた(46~49年度史108p)。▽一週間後の9月27日には「追打ち的な値下げが行われ現在10,000~10,500円(九州は9,000円)に暴落。集荷機構、破壊の重大な事態に突入」した(陳情書)。しかしカルテル各社は自己防衛に動いた。実施価格は10月、11月とも9千円台。関東、関西のカルテルは高炉へ在庫分譲を要請し、高炉はこれに応じた。このため関東問協は12月、「高炉鉄屑在庫、分譲放出中止」の陳情を重ねた。

  • 第15回カルテル(72年10月1日認可。期間は74年まで) 最後のカルテル認可となったが、第1回カルテルと同様に、収拾不能の乱高下に翻弄された2年間だった。▽公取がカルテルの永続に反対の意向を示したことから「2年間に限って延長し、期間中にポスト・カルテル体制を検討する」と自ら期限を切ることで、公取認可を取り付けた。残り2年は「カルテル廃止後」に備えた新体制の創出期間となった。▽この間、「列島改造」(72年6月発表)ブーム、米国の鉄屑禁輸(73年7月~74年末)、石油危機(73年10月)、危機に便乗した買占め・売惜しみ、鉄屑相場の未曾有の急騰(74年4月4万円台)が渦巻いた。これに驚いた政府、鉄鋼各社は「ポスト・カルテル対策」に急いだ。市中価格は72年10月1万4千円台で始まったが、米国鉄屑輸出規制が伝えられた73年6月2万2千円台、石油危機が伝えられた10月は3万3千円台、買占め・売惜しみが頂点に達し、米国屑輸入の「太平洋ベルトコンベヤー」が止まった94年4月は4万円台、カルテル再延長の否認が見えた9月は4万5千円台に急伸。協定価格は71年4月~72年11月1万5千円。12月1万5,500円、73年1月~74年9月1万7千円で、カルテル末期にはほとんど有名無実と化した。

  • 鉄屑価格・安定価格帯構想(72年) カルテル申請当時、購入実施価格が協定価格を下回っていたため、価格設定が問題となった。カルテルは下限目標価格を1万5千円としたが、既に長期にわたってこれを下回っているため従来通りの申請では公取認可は難しいとの判断から「価格安定帯構想1万3千~1万7千円」とする帯状の価格帯に全面的に改めた。下限を1万3千円としたのは価格目標を(なお割安な)国際価格に近づけたいとの意図であり、上限を1万7千円としたのは過去の安定期の幅にならったためとされた(昭和46~49年度史20p)。▼カルテル価格監視機関(73年1月)=カルテルは協定価格の統一を守るため第2回カルテル以来、監視制度を定めた。実施価格が協定価格を上回った72年12月、カルテルは高騰防止対策を検討し、高炉は原則として国内屑は購入しないこと、カルテル各社は協定価格を遵守すること、国内屑監視機構の復活、運用を決めた。「監視機関実施要綱」(73年1月)作成し、同年7月から相互監視や常駐監視体制を敷いた。

  • 第16回カルテル申請(却下) 74年10月9日、公取は申請を却下した。理由は「鉄屑の価格は最近の状況では鉄鋼製品(主として小形棒鋼及び中形形鋼)の需給事情によって変動しているのが実情であり、共同行為による鉄屑価格安定効果は少なく、実質的な合理化効果は認められない。仮に多少の合理化効果が期待できるにしても、共同行為に伴う競争制限的な弊害を勘案すると、本件共同行為は企業の合理化を遂行するため特に必要なものとは認められない」。▼申請内容=カルテルは協定価格を、高炉熔銑価格をベースとし、熔銑コストと鉄屑の相対的価値を加味し前回カルテルの特級1万3千~1万7千円を2万5千~3万円に見直し、下限価格は購入最低維持価格とし、この価格以下での購入は原則として行わない、合理化カルテルは国内屑だけとする(輸入屑は別途カルテルを予定)などの新内容を盛り込んだ。▼鉄屑業者はカルテル再延長に賛否=日本鉄屑協議会は74年7月、全国会議を開いて検討した結果、「関西鉄原問屋協会及び関西鉄屑加工処理工業協会(原文のまま)の全面反対を除き」条件付でカルテルの存続に賛成した。協議会は賛成条件として①安定価格帯を3万~4万円に引上げること。②下限価格を割った場合、可及的速やかに安定価格帯への移行に努力すること。③業界の意見聴取を「業界の同意を得られるまで協議」に改めることを求めた(昭和46~49年度史49p)。▼日資連は絶対反対=「『合理化カルテル』はどのような見地からも必要は無い」と主張した。「鉄屑業界より『カルテル』19年の歴史をみれば、鉄鋼業界を驚異的に発展させた犠牲の連続である。業界は正常な発展が阻害され大部分の問屋層は中間問屋~ヤードディーラーとしての機能を喪失してメーカーに寄生する「取次代理店」化したため、発言の自主性さえ失い、僅かに中小企業~サブディーラーを主体として組織されている日資連又は関西鉄屑加工処理工業協会などが実際に鉄屑を取扱うものの意向を代表して『カルテル反対』を表明し得る状態である。この現状がさらに延長継続されると業界は窒息し回収再利用の機構は弱化崩壊につながり国民経済にデメリットをもたらすことは明らかである。絶対反対する(同50p)」。

  • ポスト・カルテル対策(74年) 第15回カルテル申請(72年8月)に当って次回以降の認可は困難との状況から通産省は①通産省、②鉄鋼メーカー、③日本鉄屑問屋協会、④日資連(資源)の四者からなる懇談会(需給安定会議)を発展させ、カルテル非認可後の新たな機関として据え直す鉄屑安定会議作りを模索。カルテル終了後の75年8月、通産省、ミル、供給、学識経験者からなる「需給安定会議(鉄くず会議)」を立ち上げたが、1回開いただけで、再開することなく終わった。
    日本鉄屑輸入組合=米国は鉄屑輸出の枠制限に踏み切った(73年7月)。日本は米国の輸出規制枠の強化を防止するためカルテルを中軸に「秩序ある輸入」を決定(73年12月)。その後、実施主体のカルテルの消滅が予想されたため鉄鋼各社は74年7月30日、共同輸入組織である日本鉄屑輸入組合を設立した。▼SRCとポスト・カルテル3団体=ポストカルテル対策として鉄屑備蓄を目的とするSRC(日本スクラップリザーブセンター)が74年1月、発足した。しかし公取は需要者(鉄鋼会社)だけで組織するSRCが鉄屑備蓄を行えば独禁法上、問題となると指摘したため機能を停止。通産省は公取の疑惑を回避するため、①SRCに替わる需給双方による備蓄機関として「日本鉄屑備蓄協会」、②集荷・回収支援組織として鉄屑加工処理設備の近代化資金調達の「回収鉄源利用促進協会」、③集荷・回収業者組織の「日本鉄屑工業会」のカルテル後継3団体の設立を決め、これらがポスト・カルテル組織として75年以降動き出した。▼編者注=かつて鉄鋼原料の8割を占め、高炉といえども4割以上の鉄屑配合を必要とした平炉製鋼法から原理的には鉄屑装入ゼロでも製鋼可能なLD転炉製鋼法に置き換わった。国家にとっても、大手高炉にとっても、鉄屑はもはや主要な関心事ではなかった。鉄屑カルテルの存続は国策的な意味を失い、公取が審決したとおり小形棒鋼周辺の製品需給に連動する電炉会社中心の一利害問題と化していた。日本の主権が回復した占領終結後、国が独禁法を改正してまで強行した鉄屑カルテルは歴史的な役割を終わっていた。

ページ
TOP
鉄スクラップ
総事典に
戻る