主要鉄鋼国史事典

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英国鉄鋼史

  • 英国鉄鋼業の繁栄と衰退

米国鉄鋼史

  • 20世紀前半はUSスチールの時代

  • 米国鉄鋼労組の歴史

  • 米国鉄鋼業の変化

  • 米国鉄鋼は保護貿易に救いを求める

  • 米国製造業は1970年代から衰退

  • 米国の粗鋼生産は世界第3位

EU鉄鋼史

  • EUと鉄鋼

中国鉄鋼史

  • 「土法製鋼」と大躍進政策

  • 大飢饉と毛沢東

  • 文化大革命-暗黒の11年

  • 鄧小平と改革・解放

  • 天安門事件と南巡講話

  • WTO加盟と中国の鉄鋼大増産

  • 胡錦濤、習金平体制と鉄鋼政策

韓国鉄鋼史

  • 日韓基本条約と浦項製鉄所建設が転機

  • 韓国鉄鋼業投資規制廃止(86年)

  • 韓国建設ブームと電炉業の統廃合

  • 97年アジア危機が韓国鉄鋼業を直撃

  • 現代グループの台頭と高炉建設

  • 韓国の粗鋼生産は世界第6位

台湾鉄鋼史

英国鉄鋼史

  •  近代製鋼の歴史は、産業革命と共に英国の鉄鋼の歴史だった。以下の記述は先行鉄鋼史に拠った。▼木炭製鉄法と森林制約=15世紀の前半、ドイツのアイフェル地方に出現したとされる高炉は、還元剤として大量の木炭(森林資源)を必要とする(木炭法)ため、輸送に便利な川筋に沿った森林地帯に作られ、周辺の森林を食い尽くすと新たな森林を求めて移動していったとされる。豊かな森林に恵まれていた英国は高炉生産の適地だった。その英国(イングランド)でも高炉が林立するようになると忽ち森林はまる裸となり、何度も木炭の使用制限令が出されるなど地元民と激しく争った後、森林の減少と共に高炉は急速に数を減じた(サセックス地方の高炉は1574年51基から1717年29基へ減少)。イングランドで森が消え、アイルランドでも17世紀末までに利用可能な海岸の森林が完全に消えた。森林の消失と共に英国の高炉生産は衰退(森林制約)し、以後18世末までのほとんど100年間、英国はドイツやスウェーデンなどの輸入鉄に頼らざるを得なくなった。
    コークス製鉄法を発明=英国は地上の森林を失ったが、石炭なら幾らでもある。ただ石炭は硫黄を含有し硫黄が溶け込むと鉄は脆くなる(赤色脆性)。さらに石炭を燃やすには強力な風力を必要とするため、石炭製鉄は1世紀以上の大きな壁にぶつかった。18世紀になって英国のアブラハム・ダービー親子によって石炭を蒸し焼きにしたコークスを燃料とするコークス高炉製鉄法(1709年)が確立。同じ英国でコークスを熱源とする製鋼法(坩堝法1735年、反射炉による人力・パドル精錬法1784年)が発明され、製鉄・製鋼は森林制約から解放された。さらに鍛造、圧延工程や各種製造ラインにジェームス・ワットによる蒸気機関の発明(1769年特許)が加わった。コークス製鉄法と蒸気機関の発明は安価な鉄の大量生産を背景に産業革命(英国の時代)を生み出した。
    平炉製鋼、転炉製鋼も発明=19世紀に入ると人力に頼るパドル精錬の製鋼能力と大量出銑が可能となった高炉製銑能力のギャップが拡大し打開策が求められた。その要請に応えた製鋼法が英国で発明された。一つがベッセマーによる転炉法とシーメンスによる平炉法である。パドル精錬のように人力に頼ることなく化学反応熱(転炉法)や高熱溶解(平炉法)で大量処理に道を開き、その後の改良(マルチン平炉法1864年、トーマス転炉法1879年)を経て近代製鋼法が確立した。

  • 英国鉄鋼業の繁栄と衰退 これら一連の鉄鋼関係の技術革新などから18世紀初期には2万㌧弱であった英国の銑鉄生産は18世紀末には10万㌧を超え、19世紀半ばには100万㌧を記録し、海外諸国で工業化と鉄道建設が巻き起こった19世紀後半には380万㌧台に達して世界生産の半分を覆った。しかも生産の40~50%を海外に輸出。英国は世界の鉄鋼市場を独占した。ただその英国も1886年に新興国・米国に世界一の座を奪われ、1893年にはドイツにも追い抜かれた。背景として古い歴史を持つ英国鉄鋼企業は個人経営が多数を占め、資本集中が進んだ米国企業との競争格差が生れたこと。さらに伝統的な自由貿易主義政策から保護関税を持たず、国際競争力の低下もあって輸入鋼材の増大(1913年粗鋼生産779万㌧、輸入223万㌧)に晒されたことだ。世界全体の英国の粗鋼生産シェアは第一次大戦直前の1913年には10%まで低下した。▼英国鉄鋼は国家管理へ=対策として英国政府は1932年に輸入鋼材に高率関税をかける保護貿易政策に転じた。さらに政府は輸入関税諮問委員会(略称IDAC)を設立し、価格・設備投資の管理権限を与えた。業者団体であった全国鉄鋼業連盟は34年からより強力な英国鉄鋼連盟に再編成され、業界を代表して対外的には国際鉄鋼カルテル、対内的には設備投資や価格決定をIDACと交渉する任務を与えられた。「英国の鉄鋼業は最古の歴史を持ちながら、合理化に立ち後れたために1930年以降、他の鉄鋼国に先駆けて国家管理の下に置かれることになった」(世界の鉄・山地八郎著)。第二次世界大戦後の49年、労働党政権は鉄鋼業国有化法案を制定して鉄鋼業を国有化し、約80の鉄鋼会社がイギリス鉄鋼公社に移された。政権を奪回した保守党は53年鉄鋼業を民営に戻したが、再び政権をとった労働党は67年二度目の鉄鋼国有化を実施。14の鉄鋼会社を束ねて英国鉄鋼公社(略称BSC=ブリティシュ・スチール)を新設し、地域別に4グループに再編した。BSCはサッチャー保守党政権下の88年再び民営化され、オランダのホゴベンスと合同して99年10月、当時欧州最大のコーラス(CORUS)グループを形成したが、2007年3月インドのタタ製鉄に買収された。

米国鉄鋼史

  •  アメリカ東部のペンシルベニアに鉄鋼業が興ったのが1692年。初の製鋼炉(浸炭法)が1747年。ワシントンらの独立宣言が1776年。コークス製鉄が開始されたのが1840年。カルフォルニアで金鉱が発見されたのが48年。60年には鉄道は4万9千㎞となって南北間の移動も飛躍的に増大し、南北の経済的利害の対立も一つの背景に61~65年、内戦が起こり、北の勝利から米国の近代産業(一次産業から二次産業へ)の離陸が始まった。▼南北戦争、鉄鋼生産を加速=米国は南北戦争中(南部出身議員不在のなか)、北部資本に都合の良い法律を整備したことから戦後の産業成長に弾みがついた。なかでも鉄鋼業は新技術(ベッセマー転炉)の利用・拡大、都市建設、国内鉄道網の整備の高まり(大陸横断鉄道の完成は1869年)、自動車産業(フォード自動車設立は1903年)の勃興、巨大鉄鉱山(メサビ鉱山の発見は1890年)の開発などをバネに急伸した。
    ▽粗鋼生産は南北戦争終結の20年後の1886年には260万㌧に達し、英国(230万㌧)を抜き世界最大となった。なかでも異彩を放ったのがカーネギーである。米国最初のベッセマー転炉を導入(1867年)し、現代鉄鋼業の幕が上がった。彼は鉄鋼3社を合同してイリノイ・スチール(89年)、カーネギースチール(92年)を立ち上げ、鉱山を含む鉄鋼企業群をカーネギーオブニュージャージ(1900年)に統合、全米最強の鉄鋼企業を作りあげた。さらに1901年4月、保有全株をJ.P.モルガンのフェデラル・スチールに売り渡し、鉄鋼業から去った。

  • 20世紀前半はUSスチールの時代 J.P.モルガンのUSスチールが1901年誕生した。発足当時のUSスチールは高炉78基、製銑能力740万㌧、149の製鋼工場による製鋼能力は940万㌧、国内粗鋼生産シェア66%、鉄鉱石44%、コークス41%をおさえた。この圧倒的市場支配から同社をプライス・リーダーとする鉄鋼価格維持協定がスタートした。司法当局は1911年、反トラスト法(シャーマン法)の「市場独占」に当るとして同社の解体を要求したが20年、米連邦最高裁は不当な排他行為があって初めて法的に問題となる(条理の原則)との論理のもと7人の裁判官のうち4対3の僅差で訴えを却下(「この解釈は40年代まで裁判所を支配した」・注)。USスチールの価格指導力は強化された。▼世界恐慌と米国鉄鋼業界=鉄鋼業は米国を震源とする世界恐慌に直撃された。29年5,734万㌧、世界シェアの47.5%を占めた米国の粗鋼生産は30年4,135万㌧、31年2,636万㌧、32年1,390万㌧と4分の1以下まで激減。操業率は20%に落込んだ。33年ルーズベルト大統領が就任し革命ソ連(17年)の政策手法を取り入れた公共事業などを含む「ニューディール政策」(TVA開発)を打出したことから鉄鋼生産も回復軌道に乗り、37年5,138万㌧と恐慌直前の90%水準まで戻した。▼戦時体制と米国鉄鋼業界=ただ米国が恐慌の泥沼から脱したのは粗鋼生産で見る限り、欧州で始まった世界大戦(39年)による軍需生産が最大の転機となった。38年再び恐慌直後の水準まで落ちた粗鋼生産(2,880万㌧)は、ドイツ軍がポーランドに侵攻した39年(欧州で第二次世界大戦勃発)4,790万㌧、国防費が大幅に増加し軍需生産が始まった40年には6,000万㌧台、41年7,000万㌧台に急増。軍需が鉄鋼供給の59%を占めた43年には8,000万㌧台、大戦末期の45年の世界シェアは61%に達した。米国鉄鋼業は、世界大戦と朝鮮戦争による軍需物資増産の政府資金や優遇措置を飛躍台とした。第二次大戦の参戦中(41~45年)、米国鉄鋼業の設備投資18.3億㌦のうち12.6億㌦が国家資金で賄われ、朝鮮戦争(50~52年)でも政府は軍用資材調達のため低利子融資などの優遇措置を鉄鋼業界に与えた。▽ただ朝鮮戦争は短期戦が予想されたことから「優遇措置に乗り遅れまい」と工場建設を急いだため、当時の先端技術だった純酸素転炉採用を見送るなど「生まれた時から時代遅れ」の膨大な設備(50~54年の5年間で大型平炉43基、2,600万㌧)を作った(これらの新鋭平炉増設が転炉導入を遅らせた)。(注)この米国史の大方は「アメリカ鉄鋼業の盛衰」児玉光弘著を参考にした。

  • 米国鉄鋼労組の歴史 最初の全国組織である鉄鋼労働者の合同組合は1878年に結成された。米労働史上最初の大ストライキは1892年にカーネギー製鋼・ホームステッド工場で起こった。会社側と労組が銃や大砲で応酬する流血ストとなり、州兵出動の社会的な争議に発展した。その操業再開の際、雇用期間の長い者から優先して職場復帰を認めさせた(スト破り排除のため)。これが「シニオリティ(先任権)」の始まりで、その後の労組にとっては、血で購った不可侵の労働慣行とされた。▼20世紀前半は労使が激突=全米最大のUSスチールは反組合主義を宣言し、徹底的な労組弾圧を繰り返した。恐慌後の33年に登場したルーズベルト大統領は労働組合の団体交渉権、最低賃金、労働時間の制限などを保証する全国産業復興法(NIRA)を施行した。しかし米最高裁は35年、同法は連邦権限を逸脱し違憲と判決。直ちに廃止された。ただルーズベルト政権は労働者の権利に関する部分を全国労働者法(NLRA、ワーグナー法)に移し替え、この新法を受けて全米鉱業労働組合(UMW)の指導の下に36年、鉄鋼労働者組織委員会(SWOC)が発足した。しかし鉄鋼会社の協調組織であるアメリカ鉄鋼協会(AISI・1908年設立)は鉄鋼労組との直接交渉を拒否し続けた。そのなかでUSスチールは37年、単独でSWOCと交渉し、労組の権利を認める協定を締結した(ただ他の鉄鋼大手はこれに同調せず、労使の暴力的な対決は続いた)。41年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに米国は参戦。この直後、労働側は戦争継続中にはストは行わないと宣言し、42年には労働関係局の働きかけで鉄鋼各社もSWOCを承認。SWOCはその後、強大な交渉力を持つ全米鉄鋼労働組合(USW)に発展した。▼鋼材値上げと賃上げはセット=労働条件を巡っては対立姿勢を続けた会社も、しかし賃金に関しては寛大だった、とされる。賃上げは鋼材値上げに転嫁できる限り、会社には重大な負担とはならなかったからだ。朝鮮戦争が終り53年、賃金・価格の統制が撤廃されるや圧倒的な価格支配力を持っていたUSスチールなど各社は賃金と鉄鋼価格のセット値上げを実施した。労働協定改定のたびに賃上げ繰り返したから、82年には鉄鋼業の賃金は全米産業平均の2倍に達した。▼労働協定のくびき=56年にUSWと締結した「労働慣行尊重条項」(「確立している労働慣行は、基本的な条件に変化がない限り変更しない」)が、その後の新技術導入を阻止しただけでなく、不合理な旧慣行を是正することすら不可能にしたとされる。この条項を盾に省力機械が導入されてもUSWは人員整理を認めず、合理化効果は減殺された(日本の平炉は77年姿を消したが、米国第二のベスレヘム社は86年まで平炉を使い続けた)。▽59年鉄鋼会社は同条項の撤廃を求めた。116日に及ぶ長期ストの末、会社側が敗北。同条項は米国鉄鋼業全体が行き詰まった90年代までその効力を維持した。さらに全国組織の賃金の平準化、すなわち同一職種・同一賃金を文書的に担保する「ジョブデスクリプション」(職務記述書)が、労働の柔軟性を奪った。記述書以外の仕事をする場合は、新たな交渉や追加記入が必要となり、その間、現場実務は停滞した。▽73年の協約改訂ではUSWは協定有効期間中のスト権を放棄する代わりに、会社側は毎年消費者物価指数の上昇に合せて賃金を自動的に上乗せする「生計費自動調整条項(COLA)」を新設。実験的交渉協定(ENA)と呼ばれたが、これによる労務費の急上昇が鉄鋼業の体力をさらに削ぐこととなった。▽賃上げと鉄鋼価格のスパイラル上昇が鉄鋼業界を危機的状況に追い込み、国際競争力を奪ったとの認識から83年、USWもCOLA条項の1年間停止と休暇削減に合意。▽87年改訂では賃金カットも受入れた。▽89年改訂ではCOLAに代るインフレ調整金制度に合意したが、84年から92年までの米国鉄鋼賃金上昇率は名目で平均3%に留まり、87年以降日本の賃金を下回るに至った。

  • 米国鉄鋼業の変化 ▼ミニミル(電炉)の進出=55年のスト直後からUSWに加入していない労働者を雇用する「ミニミル」が進出した。電炉は炉容量制約から大量生産には不向きだと見られ、軍需用の特殊鋼生産などに限定されていた。そのなかでローカル色の強いミニ・ミルが60年前後、各地に登場し棒鋼、線材などの分野に進出した。先駆けとなったのがフロリダ・スチール。電炉工場を58年11月タンパに建設し普通鋼の大量生産に乗り出した。その背景となったのが長大な高速道路網の建設と州によって大きく異なる電力料金の選択利用だった、とされる。68年、ニューコアが電炉市場に参入した。州知事は雇用が欲しい。だから土地代と電力コストを知事と相談のうえUSWの支配の及ばない辺境に建設。世界最大の電炉会社となった。▼長期ストが外国品に道を開く=59年の116日間におよぶ鉄鋼ストと解決策としての鉄鋼価格の値上げは(安い外国製品の大量輸入と相俟って)、大手鉄鋼会社の寡占体制を突き崩した。需要家は長期ストの間、鋼材途絶を回避するためドイツや日本などの輸入鋼材を使い、品質・価格・納期が米国の国内鋼材製品に比べ遜色ないことを知った。米国鉄鋼会社はスト後、恒例のように製品を値上げしたから安い輸入鋼材が63年以降漸増し、これを契機に米国は世界最大の鉄鋼輸入国に変った(鉄鋼輸入は60年330万㌧→78年2,110万㌧に増加)。▼内陸(米国)と臨海(日本)製鋼の競争力格差=新たに高炉を建設した日本の鉄鋼会社は大型船が接岸可能な臨海部に新鋭工場を建設(川鉄・千葉モデル)し、コストの安い鉄鉱石・原料炭を世界に求めて選択的に使用したのに対し、メサビ鉱床(スペリオル湖)や豊富な炭田をもつ米国・鉄鋼会社は、恵まれた国内立地条件に逆に制約された。この結果、米鉄鋼業は原料鉄鉱石や原料炭コストで新興鉄鋼国である日本と大きな格差が生じた。つまり米国鉄鋼業は長年の採掘による鉱石・原料炭の深々度化や品位低下などに直面し、臨海部に高品位の輸入原材料と新鋭工場を持つ日本などの海外勢とのコスト競争で劣位に追い込まれた。1886年英国から奪って以来一世紀近く守ってきた粗鋼生産世界一の座を80年、日本に明け渡した。

  • 米国鉄鋼は保護貿易に救いを求める 米国内の輸入鋼材は65年には国内鉄鋼消費の10%を占め、67年には1,000万㌧を超えた。米国鉄鋼業界は、輸入鋼材の拡大は輸出国の低賃金やダンピングが背景にあるとして、輸入規制を政府に求めた。▽米政府は69年、日本、ECの両地域が自主規制の形で各580万㌧に制限するとの同意を取り付け、急場をしのいだ(これが74年まで継続した鉄鋼自主規制・VRA協定)。歴史的には、石油危機(第一次)が勃発した73年が米国鉄鋼業凋落の分水嶺となった。米国の粗鋼生産はベトナム戦争末期の73年1億3,680万㌧の史上最高を記録した。しかし同年10月に発生した石油危機がエネルギー多消費型の米国産業を直撃した。全治3年の経済減速、米軍ベトナム撤退(73年3月)、COLA条項による労働コストアップなどから鉄鋼業界は急激に需要背景を失った。鉄鋼各社は企業再整備に走り(77年USスチールは多数の旧設備廃棄)、再び輸入品排除のダンピング提訴に動いた。▽カーター政権は78年にトリガー価格(TPM。主に日本の輸入鋼材を標的にした)制度を設け、国内鉄鋼の保護を図った。TPMで一定の成果を上げた米国鉄鋼業界は80年ECを相手にダンピング提訴を再開し、日本向けのTPM制度は82年に廃止された。▼常態化する保護政策=82年になると日本や欧州の鉄鋼産業は品質面でも米国を凌駕した。82年全米の製鉄会社の赤字額は30億㌦超を示し、それまでの8年間で200以上の工場が操業を停止し20万人が完全失業。残った製鉄所も稼働率48%と大恐慌以来の状態に陥った。4万人がレイオフされ、外国製の鉄が国内市場の26%を占めた。▽84年1月ベツレヘムスチールとUSWは鉄鋼産業史上最大の輸入規制運動を開始し、84年9月、レーガン大統領は向こう5年間、国内消費の18.5%に輸入を限定するよう関係国と自主調整するとの自主規制協定(VRA・注)を発動させた(注)第一次VRA=84年10月1日~89年9月30日。日本・韓国他15カ国及びEC。第二次VRA=89年10月1日~92年3月31日。日本・韓国他14カ国及びEC。

  • 米国製造業は1970年代から衰退 70年代後半から80年代にかけて鉄鋼会社の破綻が相次ぎ、資本が鉄鋼業から逃げ出した。鉄鋼業の平均的な利益率は70年代以降5%を下回り、77年ゼロ、82年から5年間の連続赤字は設備閉鎖、売却を加速させた。70年以降、鉄鋼設備の集約を進めてきたUSスチールは86年、社名からスチールを外してUSXに改称。ベツレヘムスチール、ナショナルスチールなども事業を縮小した。▼ミニミルが高炉分野に進出=60年代から各地に進出したミニミルは80年代に入ると高炉分野にも挑戦した。ニューコアは大和工業と合弁企業を87年設立し、H形鋼分野に進出。93年には大型H形鋼を製造、89年には薄スラブ連続鋳造によって薄板分野にも乗り出した。大手高炉は(輸入鋼材だけでなく国内ミニミルとの競争でも)守勢に回った。92年大手高炉各社は値上げに踏み切ったがニューコアの値下げから一斉改訂は定着せず、高炉主導の価格誘導は破綻。大手高炉の撤退、閉鎖が続くなかニューコアは2001年、USスチールを抜いて米国粗鋼生産のトップに躍りでた。▼レガシーコストと連邦破産法第11章=米国では社会保障と貧困者のための医療保護はあるが、国家としての制度はなく年金と健康保険は雇用者が用意した。これらの年金、保険金が労働協定改訂時に積み上がった。これらの費用は目前のコストを上げないが、将来のコスト上昇となった。この二つのコストは鉄鋼従業員数の減少につれ、会社と現役従業員の重荷となって鉄鋼業の転落の一因となった(「負の遺産・レガシー・コスト」)。85年、大手一貫メーカーのホイーリング・ピッツバーグが破産法第11章(日本の民事再生法)に基づく再生手続きを開始、86年業界3位のLTVもこれに続いた。同法の適用を受ければ、賃金引き下げやレガシーコストを合法的にカットできる。この再生手法が新たな競争力を生み出す転機となった。▼ウィルバー・ロスとミタル・スチール=ウィルバー・ロスは危機資産を安値で購入してコスト削減を果たしライバル企業と合併させ、一括パッケージとして高値で売却しては資産を築いた。彼はこの手法を鉄鋼分野に持ち込んだ。LTV、全米第二のベスレヘム・スチール、さらにACME、ジョージタウン、ヴィアートンなど鉄鋼会社を次々と買収し、インターナショナル・スチール・グループ(ISG)を設立した。ウィルバーはこれが軌道に乗った2005年、インド人鉄鋼実業家ラクシュミ・ミタルにISGを一括売却。世界最大のミタル・スチール登場の先触れをつとめた。

  • 米国の粗鋼生産は世界第3位 米国の粗鋼生産は1886年に英国を抜き1980年に日本に抜かれるまで一世紀近く世界一の座を占めた。ピークは1973年の1億3,680万㌧で同年10月に勃発した石油危機(第一次)が米国鉄鋼業の転機となった。以後、2度にわたる石油危機を通じて自動車産業と共に鉄鋼も国際競争力を失った。2012年(暦年)の米国の粗鋼生産は8,870万㌧で中国、日本に次いで世界第3位。世界上位50社ランキングに名を列ねる鉄鋼会社はUSSスチール(12年、13位)とニューコア(15位、電炉)の2社だけ。米国の電炉生産は02年以降転炉鋼生産を上回っており、13年現在の電炉シェアは60.6%。米国はいまやミニミル(中堅電炉)の国である。

EU鉄鋼史

  •  EUの歴史は1951年パリで条約を調印し52年設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)に遡る。ECSCは50年5月、仏・独両国間の紛争の種だった鉄鋼、石炭に単一市場を設定し加盟国が共同管理することで、二度と戦火を交えない平和構想に基づくものだ。▼ECSC=European Coal and Steel Commu-nityの略語。欧州に石炭、鉄鋼の単一市場を設定し、生産・価格・競争・労働条件などを加盟国で協同管理する組織である。このため鉄スクラップのひっ迫時には米国から共同購入し、発生スクラップとプールしたこともある。創設国は仏、西独、伊、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの6ヵ国(創設母体となったECSC条約は規定に基づき設立後50年を迎えた2002年7月失効した)。▼EECとEC=ECSCの活動を契機に57年には欧州原子力共同体や欧州経済共同体(EEC)が結成され、加盟国が重なることから67年、3共同体は欧州共同体(EC)と総称された。ECは73年以降、英、アイルランド、デンマーク、ギリシャ、スペイン、ポルトガルを加え12ヵ国(拡大EC)。▼EU発足(93年)=ソ連(91年12月)後の92年2月、欧州連合(EU)条約(マーストリヒト条約)を調印し、93年11月超国家連合である欧州連合(EU)を創設した。90年代にEU域内の入国・税関審査を廃止し、93年1月には単一の貿易ルール、単一の関税、単一の行政手続きを共有する単一市場が始動。ポンド使用を求めた英国などを除く加盟国中12カ国は2002年1月から自国通貨を放棄し単一通貨ユーロの採用に踏み切った。

  • EUと鉄鋼 欧州の鉄鋼トップは1999年、英国BSC(ブリティシュ・スチール)とオランダのホゴベンスが合同し誕生したコーラスグループだが、2002年には仏・ユジノール、ルクセンブルグのアーベッド、スペインのアセラリアの3鉄鋼が合併。アルセロールとして登場した(本社・ルクセンブルグ)。04年、インド人ミタルが率いるLNMグループが米・ISGを買収してミタル・スチールを設立し、世界最大の鉄鋼会社の名乗りを上げた。ミタルが06年1月、アルセロールの買収(TOB)に動いた。当初アルセロール及びフランス、ルクセンブルグ、スペイン政府は敵対的買収であると猛烈に反発したが5月末、アルセロールがロシア第2位のセバスターリ社と合併すると発表したことから状況は一変した。セバ社とロシア政府とのつながりを欧州のアルセロール株主たちは警戒したためだ。これが転機となってミタルは7月、アルセロール・ミタル(本社・ルクセンブルグ。粗鋼生産能力1億1,000万㌧)が生まれた。

中国鉄鋼史

  •  現代中国の鉄鋼生産の歴史は、いわば中国共産党とその権力闘争の裏歴史でもある。
     現代中国は1949年10月、国共内戦(46~49年)を勝ち抜いた中国共産党が北京で共和国樹立を宣言したことから始まる(毛沢東国家主席)。56年ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われると中国でもこれに呼応する形で共産党独裁批判(「百花斉放、百家争鳴」)が噴出した。毛沢東・共産党はこの動きを押しとどめるため57年6月、「反右派闘争」を開始。一党独裁を強めた。その上で毛沢東は58年、粗鋼生産などで米英など先進国を追い越す「大躍進政策」を指示した。

  • 「土法製鋼」と大躍進政策 大型高炉や製鋼所が絶対的に不足していた当時の中国(注1)では到底、不可能であった。しかし「大躍進」は達成されなければならない。そのため小型民間坩堝炉とでもいうべき「土法製鋼炉」(注2)が、村々町々に乱立し、生活鉄器の供出・回収と製鋼従事が、人民の最優先課題とされ(農業従事より、製鉄従事)、折から農村部では全土的な異常気象も重なり、大飢饉が発生した。政策を公然と批判した古参幹部の彭徳懐(朝鮮戦争義勇軍総司令官)を毛は「右翼日和見主義者」として党中央から追放(59年9月廬山会議)し、一切の反論を封殺。大飢饉対策は放置され(正確な数字は不明だが)1,500~4,000万人以上が餓死したとされる。
     注1=粗鋼生産は57年535万㌧だったが、毛の指示(大躍進)に従い58年には1,108万㌧、59年1,335万㌧に急増した。しかし限界が露呈した60年は1,100㌧まで後退した。
     (注2)=「鋼の時代」によれば58年9月までに建設された「土法炉」は70万基、生産された鉄は400万㌧。「学校や官庁の庭にさえ作られて素人が『鉄作り』に取組んだ。ところが59年になると忽ち下火になって土法炉は見当たらなくなった」(ワイルド・スワン)。

  • 大飢饉と毛沢東 中国はソ連とも対立を深めた。第20回党大会(56年)でスターリン独裁を暴いたフルシチョフ(53~64年党第一書記)は東西冷戦の緊張緩和に動き出した。毛はこのフルシチョフの動きを日和見主義として批判し、ソ連は60年7月中国に派遣していた技術者総引き上げと原油供与を停止し、中国は有力な支援国を失った。この国際的な孤立のなかで叫ばれたのが「自力更生」であり、戸籍制度制定(注)による農民の移動制限だった。しかしどのような強力なスローガンも事実を隠蔽することはできない。大躍進政策は内政上の破綻(地方・関係各機関から偽りのノルマ報告。58年から60年の異常気象などによる経済停滞・餓死者増加)や国際的な孤立が極まるなか、毛は62年の中国共産党・拡大工作会議で自己批判を余儀なくされた。毛に代って登場し、過剰な政治路線から堅実な経済再建への転換を訴えたのが、劉少奇と鄧小平だった。
     (注)=1958年「戸籍登記条例」。条例は「公民が農村から都市に移転するときは必ず都市労働部門の採用証明、学校の合格証明または都市戸籍登録機関の転入許可証明を持参し、常住地の戸籍登記機関に転出手続きを申請しなければならない」と規定したから農民の都市部への移住は、都市での就職・大学入学や軍への入隊以外は事実上、不可能とされた。この戸籍制度が、「改革・解放」後の都市と農村の貧富の格差拡大の一因となった。政府は2014年「都市と農村の戸籍の統一」を目標に掲げた「戸籍制度改革」に着手した。

  • 文化大革命-暗黒の11年 劉少奇が第2国家主席に就任し、毛の影響力は失われたかに見えた。しかし党中央で正規権力を失った毛は、63年以降「社会主義教育運動」や「文芸整風」を提唱し、66年「文化大革命」の呼号のもと「造反有理」(反逆するには理由がある)とのスローガンと共に党中央への反攻を開始した。▽その手足となったのが人民解放軍を指揮する林彪発行の「毛沢東語録」を高く掲げ、毛の妻である江青の指示を受けた「紅衛兵」であった。武装集団である軍、将来集団である学生、生産集団である労働者たちが毛に荷担したため、劉少奇と鄧小平など党中央、地方党組織のすべてが「資本主義の道を歩む実権派」として打倒された(66年8月、党第8期11中全会決定)。▽毛のカリスマ性と造反有理を行動原理とする文化大革命には一元的な規律は存在しない。各地で紅衛兵同士の対立が発生し、内乱状態に陥った国内統治に影響力を強めたのが、江青らの四人組と林彪が掌握する中国軍であった(林彪は69年、第9回党大会で毛の後継者に指名されたがクーデターが露見。71年9月モンゴル上空で撃墜死)。毛は先鋭化した紅衛兵対策として、非労働者である学生身分はブルジョア的で「農民に学ぶ」必要があるとして都市部から農村への「下放」を呼びかけた(67年)。▽林彪に代って実務的な周恩来が登場(71年以降~76年1月死去)し、毛・周は内政の行き詰まりを外交に求めた。米国選手を中国に招待するピンポン外交(71年)が始まり、ベトナム戦争のドロ沼に足を取られていたニクソン訪中(71年7月予告、72年2月訪問)、台湾に替わる中国の国連加盟(71年秋)、日中国交回復(72年9月、田中首相)が進んだ。▽76年9月、毛が死去し華国峰が総理に就任し10月、江青ら四人組を逮捕。文化大革命は終わった。文化大革命の終息は毛沢東の死を待たねばならなかった(文革・暗黒の11年)。

  • 鄧小平と改革・解放 国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に復帰した鄧小平は78年10月、新日鉄(君津)やトヨタを視察。それを踏まえ同年11月、第11期3中全会で毛沢東時代の階級闘争から「経済建設」に転換するとの路線を決定した。経済特区の新設や「先豊主義」(「豊かになれる者から先に豊かになろう」)を含む「改革・解放」経済路線を打出し、西側資本の呼び込みを図った。新日鉄・君津をモデルにした中国初の臨海一貫大型製鉄所建設は曲折した(これをモデルとしたのが山崎豊子の「大地の子」)が、調印(78年5月)以来、7年ぶりに上海宝山製鉄所として85年9月完成し、中国鉄鋼業の現代化が始まった。ソ連でも「ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)」を掲げた党総書記が登場したのが同じ85年。東側の世界は政治・経済・文化のあらゆる面で改革に向け動きだした。

  • 天安門事件と南巡講話 経済・文化の自由化の波は政治の自由化を求める。その改革派として登場し失脚した胡耀邦の葬儀をきっかけに天安門事(89年5月)が発生した。ベルリンの壁撤去(同年11月。90年10月東西ドイツ統一)、ソ連邦崩壊(91年12月)を見た党内保守派は、天安門事件や国際市場が要求する近代化、政治的自由は国家分裂につながるとの体制崩壊の危機感を強めた。反政府活動を弾圧し改革・解放を公然と批判する方針を示したことから、海外からの資本流入に急ブレーキがかかった。天安門事件鎮圧を指揮した後、一切の公職を退いていた鄧小平は92年初武漢、上海などを視察。改革・開放路線の継続を訴える「南巡講話」を発表して党内保守派を打倒した。南巡講話は政治的には社会主義、経済的には市場経済を守るとの「社会主義市場経済」体制を内外に宣言。西側資本の中国投資の安全を保証し、加速させるアクセルとなった。

  • WTO加盟と中国の鉄鋼大増産 その後の中国の急成長は、南巡講話路線のもと東西冷戦の終結と世界経済のグローバル化の賜物だった。それを決定づけたのが2001年12月11日のWTO(世界貿易機関)正式加盟だった。その後の中国は安価な労働力を提供する「世界の工場」からスタートし、膨大な人口と豊かさを求める中間層の台頭を経て「世界の消費市場」へと変貌した。
     文化大革命(1966~76年)末期の76年、わずか2千万㌧だった中国の粗鋼生産は、78年の「改革・開放」、85年の上海宝山製鉄所火入れ、92年の南巡講話を契機に増加に転じ96年、日本を抜いて世界のトップに立った(日本のトップ在位は80年から95年)。

  • 胡錦濤、習金平体制と鉄鋼政策 2003年に国家主席に就任した胡錦濤、2012年に国家主席に就任した習近平は、鉄鋼生産の増強に力を注いだ。

韓国鉄鋼史

  •  韓国の鉄鋼生産の歴史は、日本統治と朝鮮戦争、その戦後復興と自立建設の歴史である。
     日本の敗戦から朝鮮は北緯38度線を境に分断された。戦前まで日本は朝鮮に2カ所の製鉄所を保有していた。一つが大正年間に建設され日本製鉄に合同した兼二浦製鉄所と日鉄誕生後の1939年5月から建設工事が進められた清津製鉄所(注)。いずれも38度線の北側にあり兼二浦製鉄は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)・黄海製鉄所として、清津製鉄所は同・金策製鉄所と名称を変更し現在に至っている。そのほか三和製鉄所(小型高炉)、朝鮮理研金属仁川工場(平炉)がある程度で、製鋼所は極めて少なかった。しかしこれらも1950年の朝鮮戦争で打撃を蒙った。戦争後、政府は「鉄鋼5カ年計画」(56年)を打出し戦後復旧・再建に乗出し三和製鉄所の小型高炉3基の補修や朝鮮理研金属・仁川工場の後身として大韓重工業公社(50㌧平炉)を立ち上げた。60年代半ば頃から三鋼製鋼所(現・東部製鋼)、東国製鋼、韓国製鋼なども相次いで誕生した。ただ当時、大方は単純な加工・圧延で製鋼できる伸鉄・圧延業としてスタートし、戦争スクラップを材料とした。従って、近代鉄鋼業の建設は日韓基本条約締結後の70年以降、国策的に進められた。
     (注)日本製鉄は清津製鉄所で500㌧炉2基の建設を目指し、第1高炉は42年5月、第2高炉は同年12月火入れした。製鋼設備は未完成のまま敗戦を迎えた(日本製鉄社史)。

  • 日韓基本条約と浦項製鉄所建設が転機 61年の朴正熙政権登場が転機となった。朴大統領は65年12月、日本と日韓基本条約を締結して国交正常化を図り無償3億㌦、有償2億㌦、民間借款3億㌦の国家再建資金を確保。さらに第2次「鉄鋼5カ年計画」(67~72年)を策定し総合製鉄工場建設計画を打ち立てた。68年には国営浦項製鉄(現ポスコ)が設立され73年7月慶尚北道浦項に韓国初の高炉(粗鋼年産103万㌧)として火入れした。▽韓国鉄鋼協会の加盟電炉は77年現在で、8社(東国製鋼、仁川製鉄、江原産業、極東鉄鋼、韓国鉄鋼、日新製鋼、大韓商事、ソウル製鋼)。生産能力は浦項製鉄(転炉)260万㌧とこれら電炉175万㌧を合せ435万㌧レベルとされた(「アジア諸国の鉄鋼業」)。仁川製鉄の歴史は植民地時代に遡り(旧朝鮮理研金属・仁川工場)、植民地帰属財産をもとに設立された韓国重工業公社を母体にする。当初は50㌧平炉で条鋼類を生産し、70年代初めに年産20万㌧規模の電炉を導入した。60年代には民営化されたが、経営不振から韓国産業銀行の管理会社(再国営化)とされた。政府の再民営化方針に製鉄事業への進出を目指していた現代グループが応じたことから78年、同グループ傘下に組み込まれた。80~90年台前半を通じて生産規模が大きかったのが、この仁川製鉄、東国製鋼や江原産業、極東製鋼などである。政府は70年、鉄鋼工業育成法を制定して一定規模以上の設備増設、新規参入を許可制(投資規制)にすると共に認可企業には各種の優遇措置を行った。鉄鋼業の棲み分けを狙った措置から「高炉、電炉、圧延の分業体制は同法をもとに形成された」(「アジア諸国の鉄鋼業」)。

  • 韓国鉄鋼業投資規制廃止(86年) 86年の同法廃止による鉄鋼業の投資・設備拡張や領域開発の自由化が、韓国鉄鋼業の次の転機になった。国策会社ポスコ(2002年5月浦項総合製鉄から現社名に改称)の民営化も87年からスケジュールに上がった。第2製鉄所である光陽製鉄所は85年3月着工、92年2月竣工(高炉4基)した。73年以来、ポスコは、主に国内単圧向けに銑鉄・半製品を供給した(垂直分業)が、光陽製鉄所ではCGLやEGLなど自動車・家電製品向けの最新鋭圧延設備を建設(冷延比は日本の高炉5社平均と同水準)し、投資規制解除後の川下事業の進出に備えた。80年代前半までの韓国鉄鋼業はポスコが製銑からホット・ストリップ・ミルに至る銑鋼一貫生産を独占的に行っていた。同時にポスコから鋼鈑類の供給を受ける単圧メーカー、条鋼類を生産する電炉メーカーが多数存在し、ポスコを補完した。この生産体制を「ポスコ一極体制」と呼ぶ。
     87年末、政府はポスコの民営化を発表(ただ財閥系が経営権を握るのを防ぐため、同社を「公共的法人」に指定し、特定企業や個人が株式の1%以上を保有することは禁じた)。翌88年6月株式市場に上場した。その後、政府は2000年10月までに株式を段階的にすべて処分し、00年9月には「公共的法人」の指定を解除。ポスコは完全に民営化された(05年には東証一部に上場した)。

  • 韓国建設ブームと電炉業の統廃合 86年の投資規制の自由化やポスコ民営化路線は、同社の銑鉄供給に依存していた単圧の連合鉄鋼(86年東国製鋼グループ入り)や日新製鋼(84年東部製鋼に改称)、現代グループを刺激した。一方、90年代初めの住宅ブームは電炉各社に設備投資を呼び込んだ。積極的だったのが韓寶鉄鋼だった。建設会社が錦湖産業(旧極東鉄鋼)を買収。その後の建設ブームで莫大な利益を上げ、これを原資に西海湾開発計画に合わせ牙山湾を埋立て93万坪の土地を確保し一貫製鉄所を含む製鉄工業団地計画に乗りだした。95年1月、100万㌧級の小形形鋼、同年6月直流電炉、ホットコイル100万㌧工場を竣工しポスコ以外でホットコイルを生産する初の企業となった。同時期、現代グループも仁川製鉄内に91年、高炉建設検討組織を作り、94年高炉建設を表明した。これはポスコの温存と財閥の経済力集中を嫌った政治的判断から拒否された。

  • 97年アジア危機が韓国鉄鋼業を直撃 97年のアジア通貨危機と直前の円安、鋼材需要の落ち込みが韓国鉄鋼業を直撃した。政府は同年11月、IMF(国際通貨基金)に緊急融資を申請。韓国財政はIMFの管理下に置かれた(12月)。この「国難」に対する政府、企業の危機意識とその打開への結束が、その後の韓国経済、企業競争力を大きく飛躍させる大きなバネとなったとされる。企業の「選択と集中」が一気に進んだのだ。電炉でも、丸永製鋼(96年12月→02年韓国鉄鋼が買収)、韓寶鉄鋼(97年1月→04年現代グループが買収)、韓寶(97年1月→02年日本の大和工業が釜山製鋼所を買収。YKスチールに改称)、三美特殊鋼(同3月→00年現代グループが買収)、起亜特殊鋼(同7月→03年セアベ・グループが買収。セアベスチールに改称)、韓国製鋼(98年4月→07年韓国鋳鋼が買収)、江原産業(同年7月→00年仁川製鉄と合併)などが淘汰・改変を迫られ、勢力図は一変した。

  • 現代グループの台頭と高炉建設 この前後、業界再編の核となったのが現代自動車グループだった。同グループは危機直後に起亜自動車を買収し、鉄鋼メーカー買収にも積極的に乗出した。まず傘下の仁川製鉄を通じ、電炉のトップ3の一角を占めていた江原産業を2000年3月吸収合併。同年12月には三美特殊鋼を買収(BNGスチールと改称)し、社名も01年8月INIスチールに改称。04年、倒産後その設備の行き先が二転三転していた韓寶鉄鋼を吸収合併し06年3月、INIスチールから「現代製鉄」に改めた。仁川製鉄は高炉建設を検討していた(前出)ことから分厚い内部留保を蓄えていた。危機後も黒字経営を維持したことが企業買収の原動力となった。このなかで高炉建設も可能な韓寶鉄鋼の唐津製鉄所を買収した(04年)ことは現代自動車グループに大きな飛躍の機会をもたらした。買収手続きが完了した04年10月、現代自動車グループは唐津での一貫製鉄所建設を正式に発表した。95年以来、同グループの高炉建設計画を阻んできた政府はこの時、これを押える政策的な手段を持たず、中国の需要急増で東アジア需給がひっ迫している中では反対する理由もなかったとされる。現代製鉄は10年1月、唐津の一貫製鉄所の高炉に火入れを行った。高炉生産はポスコに次ぎ2社目である。一方、「現代ショック」に対応するためポスコは自動車向けなどの高級鋼生産を拡大すると同時に、海外での現地高炉生産(注)に注力することとなった。

  • 韓国の粗鋼生産は世界第6位 韓国の粗鋼生産(12年)は6,910万㌧。ロシアに次いで世界6位である。高炉はポスコ(12年、世界粗鋼生産5位)と現代製鉄の2社。電炉は10数社で全体の39.0%を生産している(13年)。世界2位の電炉メーカーである現代製鉄が唐津に高炉(5,250)を10年1月、同年11月に同型の第2号高炉、13年9月にも第3高炉に火入れした。3基合計の生産能力は1,200万㌧。高・電炉を合わせた粗鋼生産能力は2,400万㌧。ポスコは光陽第1高炉を13年改修し、容積を3,950から世界最大の6,000に拡大した。

台湾鉄鋼史

  •  1960年代までの台湾は、小規模な電炉や船舶解体業から鋼材が供給される程度で、高炉を持つ一貫製鉄所はなかった。70年代に入って大型石油化学コンビナートや大型造船所(中国造船)の建設が進められ、これに合せて一貫製鉄を目指す国営の中国鋼鉄(CSC)が71年設立された(95年民営化)。中国鋼鉄の高炉に火が入ったのが77年末。第4高炉が97年までに稼働。中国鋼鉄の子会社、中龍鋼鉄も第1高炉を2010年火入れした。台湾鉄鋼業の最大の特徴は、先行した圧延設備能力に後発の粗鋼生産が追いかける、粗鋼能力と圧延能力の不均衡にあった(00年、粗鋼生産に対し圧延能力は1.4倍=電炉業構造改善促進協会03年資料)。このため高炉建設(CSC)や日本の住金などと合弁企業(「東アジア連合鋼鐵」=03年11月、住金・和歌山製鉄所の上工程を同製鉄所から分離、運営)を立上げ、CSCの子会社である中龍鋼鉄で高炉を建設するなど粗鋼供給力の確保に努めた。電炉各社も90年代後半から大型電炉の新増設を進めたことから、粗鋼生産は06年には2,000万㌧台に乗った。電炉粗鋼生産シェアは08年の49.3%がピーク。中龍鋼鉄の高炉稼働が加わった13年粗鋼生産は2,230万㌧、電炉生産シェアは46.4%に後退した。

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