江戸~戦前用語・用例事典

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江戸時代

  • 御触書(おふれがき) 幕府評定所が審決した正式な文書(一種の判例集)である。幕府の成立から解体されるまでの間に町奉行によって発令された文書・口達を町触と呼ぶ。評定所編纂の「御触書」が国の法律、江戸・大坂の町奉行発令の「町触」が自治体の規則・条例に相当する。

  • 八品(はっしな)商売人 享保八年(1723)、江戸町奉行が盗品物の捜索・防犯のため組合結成と記帳管理を命じた質屋、古着屋、古着買、古道具屋、小道具屋、唐物屋、古鉄屋、古鉄買の8業種。このうち鑑札(焼き印)を持つのは古鉄買いだけ。その後、八品商売人の代表格となった。

  • 連座制 犯罪行為の処罰を行為者だけでなく、特定の関係者(座の構成員全体)にも及ぼす法制。
     *正保二年(1645)の大坂町触の「古金買仕置(命令)」によれば組頭・五人組を決(究)め、「仲間の一人が違反すれば、五人組は同罪とする」(大阪編年史)とした。*享保の改革では、ふるがね買いは公認商売として組合結成と鑑札(焼印)を持って町内を往来できるようになった。組織運営は古鉄買い責任者(古鉄買行事)と盗難品調査責任者(紛失物改当番)の連携・協議(自主警察)を軸にし、関係者を「連座制」(大坂は五人組)で監視。古鉄買いに家を貸す家主は、店子の行動に一定の責任を負わされ(鑑札受取りに家主加判)、責任追及は家主や名主、町役人も広く及んだ。

  • 町役人 江戸町奉行の町民支配は「町年寄」やその配下の「町名主」を通じて行われた。町年寄は三家が置かれ、樽家が古金組合などを支配した(町年寄の家格としては二番目)。
     町名主は由緒や経緯から種々の区別がある。また各町には名主あるいは月行事が置かれ運営した(町の名主)。古がね組合に関して言えば、下から→各番組・商売人組合行事→家主、名主加印→町年寄(樽家)→奉行所、の各段階を踏んだ。

  • ふるかね・ふるがね(古金、古鉄) 鉄屑の明治前半までの呼称。上代では金(くがね、こがね)、銀(しろがね)、銅(あかがね)、鉄(くろがね、まがね)と呼び、鉄屑との呼称はない。ふるかね、ふるがねである。つまり錆びても壊れても価値を失わない「古い金(かね)」「金の古くなったもの」と見ていた。この言い方は室町、戦国時代以前からあり、戦国期に日本に渡来したポルトガル宣教師が作り上げた「日葡辞書」(1603年、日本イエズス会発刊)でも用例が多数紹介されている。
     フルカネヤ(古金屋)=Furucaneya。「フルカネヤ→古鉄を売る家、またはそれを売る人」。「フルカネ→古い鉄」。「フルカネヲオロス(古鉄をおろす)→古い鉄を鋳直す」との用語、用例を収録。

  • ふるかね(古鉄)組合・御触書 享保八年(1723)以来、古鉄屋は公認商売として組合結成と鑑札(焼印)を持って町内を往来できると触書した(八品商売人)。
    *古鉄商人は十人程ずつで組合を作り、日々売り買いの品を帳面に記し、盗難物(紛失物)の問い合わせがあった場合、帳面で調査(吟味)すること。*店外で商売(振売)する場合を公式に認め(奉行所が)、鑑札(焼印)を発行する。無札の売買は禁じる。無札の者を発見したら、同業仲閒で召捕、奉行所に連行すること。*古金問屋は無札の者から買い取ってはならない(独占売買の承認である)。*新規に商売する者は最寄り組合に加入すること。名主、月行事は組合を結成し、問い合せがあれば調査すること。組合の取調(仕方)に問題(吟味未熟)があれば、責任を追及する。
     同業組合結成の陳情と自主管理の申し出を通じて、紛失物や盗品の隠匿防止と自主警察を命じるものである。この触書は幕末まで引継がれ、明治以降、古物商取締條例(1884年)や戦後は古物営業法(1949年)や「金属類営業条例」へと姿を変え、現在まで生き残った。

  • ふるかねや(屋) 日本国語大辞典によれば①古鉄を売買する家、または商人。②古道具屋の意として用いられる。古鉄を回収した商人は検分し、再使用できるかどうかを判断する。イキで売れれば古道具屋の一面を持ち、潰して鍛冶材料とすれば古鉄屋となる。

  • ふるかね買い(江戸) 明治以前のふるかねの買受け人。古来から明治中期まで「たたら製鉄」で和鋼を作り続けた。鍛冶・鋳物屋が用途に応じた鉄器を作り(例えば刀鍛冶)、一般庶民の鉄器の大方は町や村鍛冶、鋳物屋の仕事場から生まれた。その場合フルガネの再利用が普通で、鍛冶・鋳物屋がいれば、町内から買い集める古金買いがいた。幕府資料(御触書)でふる金買いがでてくるのは、大坂町奉行が正保二年(1645)「古がね商及び古手商の営業禁止を解き、年寄・組頭・五人組の制を定む」(大阪編年史)とあるのが最初である。江戸町奉行の通達は、その5年後の慶安三年(1650)、「橋々河岸、辻々で古金を買うのは御法度(禁止)」として出てくる。道橋での売買を禁じるのは、江戸初期の道橋の構造上、人々が立ち止まり渋滞することは極めて危険だったからだろう。

  • 古金売買所 江戸時代商売・物流の発達に伴って諸商売の案内本が発刊された。天保三年「浪華買物独(ひとり)案内」によれば心斎橋南詰東入ルで河内屋清兵衛が「古金売買所」のノレンを出している。河内屋は古金だけでなく故紙も扱っており脇看板に古帳・反古と記している。七軒ある故紙業者は大方が「古帳売買」の大看板の脇に「反古・かみくず」と付けており、「古金」と「紙くず」が明確に使い分けられていたことが、このことからも分かる。

  • 鉄銭・鋳銭 江戸時代には銅銭だけでなく、鉄銭もあった。古代日本は和同開珎(708年)から乾元大宝(958年)まで皇朝十二銭を鋳造したが、朝廷の力が衰えた11世紀以降は中国渡来の銅銭を使った。日本で銅銭が再び鋳造されるのは寛永通宝(1636年)以降である。
     ただ元文年間(1736)、江戸や大坂で鉄銭鋳造が始まった。その後、御三家や諸藩も幕府に伺いをたて藩内流通を限度に鉄銭を鋳造した。鉄銭は一般に粗悪品が多く、金偏に悪いと書く鐚(びた)銭やその材料から銑(ずく)銭や鍋(なべ)銭とも呼ばれた。
     幕府は万延元年(1860)、一文銭に加えて四文銭も鋳造した(精鉄四文銭)。

  • 鉄座 田沼意次が幕府の財政を立て直すため安永九年(1780)、勘定奉行のもと大坂に開設した(真鍮座も江戸、大坂、京都に設けた)。幕府は開府以来、金銀鉱山は直轄(天領)したが、鉄山経営は各藩に任せ、また藩によっては民間経営に委ねていたが、このとき、幕府は鉄地金の独占販売を狙った。鉄の専売所(鉄座)を開設し全国各地の鉄はすべて大坂の鉄問屋に送らせ、強制的に買上げ、指定の仲買人を通じて販売する流通・販売独占方式を採った。諸国(藩)産の鉄は領内使用に限って許すが、他藩への売買は認めず、大坂蔵屋敷に輸送する数量も届出制とし、鉄座がすべて買上げるとした。これは鉄問屋の既得権益を侵すことになり鉄屋及び鉄職人の猛烈な反発と抗議運動を招いた。ただ鉄座を推進した田沼意次が失脚(天明六年八月)したこともあり、7年で廃止された。

  • 紙くず買い 古鉄買いは、古鉄業者の独占で同業者以外はできなかった。しかし「紙屑買い」(「紙屑拾い」は非人の専業とされた)は、魚の行商人と同様に当時の江戸町人(良民)なら誰でもできる出入り自由な商売だった。外見上、古鉄買いと紙くず買いは紛らわしく、紙くず買いが古鉄を扱う場合も少なくなかった。このため「古着買、紙屑買がみだりに古金を買取っているため、古金買の商売に支障が出る」から区別の目印が必要だと町奉行に古金買達が陳情(1739年、町触6518)し、改めて目印の「焼印(鑑札)」が古鉄買いに付与された(1791年、寛政の改革、町触9806)。焼き印は古金買い達の独占的な営業特権の印だった。

  • 御膳籠(ごぜんかご) 御膳籠とは①料理を入れ、天秤の両端にかけてかつぐ方形の竹籠。②屑屋が屑物を入れて担いだ籠(日本国語大辞典)。特に古金買い用に丈夫に作った籠を指す。
     「籠のつくりは、紙屑買いより大作りで、紙屑買いが鉄砲笊(ざる)一つを担いで歩くのに対し、御膳籠二つを天秤棒で担いで歩いていた」、とされる(籠を左右に振り分けることで重い古鉄のバランスを取るためである)。(江戸・東京生業物価事典)。
     町奉行は文化十四年(1817)、古金買い、古道具屋、紙屑買い、古着屋、立場業者に、御膳籠の使用停止と中味の見透かせる籠だけを使うとの証文を提出させた(町触11,754)。目が詰まっているため、中味が見透かせないから不正取引の温床となるとして、規制した。

  • 立場(たてば) 江戸時代の宿駅にあった人馬やカゴを継ぎ立てする問屋のことで、物と物の「中継ぎ所」の意味である。町奉行は文化十四年、御膳籠の使用停止につき、古鉄買いそのほか立場渡世の者、として証文の提出を命じている。これが古金、紙屑商売で「立場(たてば)」が文献(町触11,754)に出てくる最初とされる。*「私どもの店には古鉄買い、古道具・古着屋・古着買いあるいは紙屑買いたち(渡世)が出入りし、私共が買ったり、出入りの商売人同士が売買することから、彼等は私共を立場と呼んでいるようだが、自分たちがその名目を立て、商売したことはない」と断った上で、「組々名前帳を差上げ、銘々進退の時々は書替えをお願いしている」、「特に古金買いは焼印、その他を確認し、遵法している」、「私共より籠笊(ざる)を渡し売子として買い歩かせている者もいるが、売子であっても身元の不確かな者は決して使用していない。無札で古金は買い歩かないし、御膳籠は持ち出させない」との証文を出した。*「立場(たてば)」は、現在では「建場」と表記されることが多い。東資協二十年史によれば、「公式には屑物買入所の名称であり、業者仲間の呼び名が立場であった。(建場と表記するようになったのは戦後の都条例施行後)」とされる。

  • とっかえべぇ 「とっかえべぇ、とっかえべぇ」と呼び歩いて、鍋・釜・キセル・折れ釘などの古がねを飴と交換する商売。正徳年間(1711~16)に江戸浅草俵町紀ノ国屋善右衛門が、飴と古金を取り替え紀州道成寺の鐘を建立しようとしたのが初め。宝暦三年神田小柳町甚右衛門が飴と古銅との交換に成功し流行した(国語大辞典)。古かね買いは鑑札がなければ売買できなかったが、子供相手の飴交換は黙認されたと考えられる。この「取替えべい」は幕末までいた(江戸編年事典)。

  • お歯黒 平安貴族や江戸時代の既婚婦人は歯を黒く染める風習があった。古鉄や鉄粉を焼いたものを濃いお茶や米のとぎ汁に入れ、粥や酒、飴などを加え発酵させたアク汁に、さらに付着し易い五倍子(ふしのこ)蜂の分泌液を加えて粉末にした物を混ぜて作った。
     江戸期の花嫁道具の中には、鉄漿(おはぐろ)壺が必ず用意されていた、とされる。

  • 南蛮鉄 戦国、江戸時代初期に素材(最大長15~30㎝前後)として海外から舶載された材料鉄(明治以降は「洋鉄」と呼ぶ)。戦国武将が南蛮鉄で甲冑を作った例が知られている(九鬼嘉隆の南蛮鉄甲冑)。慶長年間にオランダ商館長が徳川家康に献上し、南蛮鉄を使って日本刀も製作された。

  • 鉄山必要記事(鉄山秘書) 「江戸時代における製鉄業(鉄山経営)並びに技術に関する一切の記録を集成した、わが国採鉱冶金史上の最も優れた古典の一つ」(日本庶民生活資料集成第十巻)。
     伯耆(鳥取)の国の住人で三代に渡って鉄山を経営した下原重仲(下原吉兵衛正庸、1738~1821年)が江戸中期の1784年春ごろ書き上げたと推定される。一般に本書は「鉄山秘書」と呼ばれたが、下原の命名に従って現在では現書名が用いられる(第8章・人物事典、下原重仲の項、参照)。

  • 鉄熕全書(てっこうぜんしょ) 熕(こう)とは大砲のことで「大砲鋳造法、鑚開法(穿孔)および図篇からなり大砲鋳造篇には鉄鉱石と鋳鉄の種類、反射炉のほか高炉の操業法も記述されていた。
     13葉の図中には反射炉・高炉の設計図も含まれており幕末のすべての反射炉・高炉が主としてこの設計図の解説に依拠して築造・操業されたことは(略)記録・図面と照合してみてまちがいない」(幕末明治製鉄史.25p)とされる。1850年(嘉永三年)に翻訳された本書(鉄熕全書、西洋鉄熕鋳造篇、鉄熕鋳鑑図)は、オランダでも最初の「リュージュ国立鋳砲所における鋳造法」(1826年)で、刊行25年後足らずの当時の最新情報だった。

  • 洋式高炉と釜石 鉄鉱石を製錬し銑鉄を生産する幕末の洋式製鉄法。安政元年(1854)薩摩・集成館の試験操業に始まり、安政四年(1857)、南部藩士大島高任が釜石大橋の高炉で出銑に成功した。
     問題はなぜ釜石で日本初の洋式高炉が開始されたかである。史書は大島高任の存在と南部領仙人峠で近代製鉄に適した磁鉄鉱の発見を理由とするが、釜石高炉10座の名義は藩。ただ実質は小野家(小野組)など藩内豪商が経営した。この10座はすべて銭座(鉄銭)を経営するなど、商業的動機が背景にあったとされる(幕末明治製鉄史184p、220p)。

  • 明治・大正時代

  • 和鉄(わてつ) 西洋の輸入鉄(洋鉄)に対し、たたら製鉄法で作られた日本の鉄。和鉄の用途は釘地金(角釘・建築用、船釘)が第一で、鋤鍬鎌の農工具、鍋釜、鉄瓶が主なところ。
     産地によって用途も異なり、藝州物は大工道具、刃物用を得意とした。和鉄の形状は大体平鋼で長さ一尺六寸ないし二尺三寸、幅は五分から二寸八分又は三寸位。相場は十貫建て又は駄物と称し一駄(三十貫)建てが多かったとされる(日本鉄鋼史・明治編86p)。

  • 洋鉄(輸入鉄) 明治期の輸入鉄(洋鉄)。洋鉄を最初に扱ったのが明和以来、江戸日本橋で鉄問屋を営んできた森岡家の七代目平右衛門で、横浜の外国商館に釘用地金の輸入を依頼したことに始まる。1877年(明治10)の国内鉄(和鉄)生産は8,200トン。輸入銑、鋼(洋鉄)は1万6,500トンで洋鉄輸入は和鉄生産の2倍。87年(明治20)和鉄1万5,300トンに対し洋鉄6万5,400トンで、洋鉄は国内需要の約8割を占めた。明治10年から16年を通じ洋鉄価格は和鉄(錬鉄)の4分の1ないし8分の1と極めて割安だった。この価格差は近代製鋼で大量生産される輸入鉄に対し江戸以来の旧式な手工業で少量しか生産できない砂鉄(和鉄)生産の制約から生まれた。

  • 言海(国語辞典)と鉄 1891年(明治24)、日本初の国語辞典である「言海」が刊行された。それによれば、鉄とは第一に「鍋釜ノ類ヲ鋳テ造ル」銑(ズク)であり、第二に「展ベ易キガ故ニ鍛ヒテ器ヲ作ル」ヤハラカガネであり、第三に「生鐵ヲ鍛煉シテ成ル」鋼(ハガネ)であるとされた。
     製鉄・製鋼法の説明は言海の「鉄」の中にはない。明治20年代は「たたら」製鉄の時代だった。

  • 明治の製鉄業 明治初年の製鉄業は「旧来の砂鉄精錬法によるもので、鉱石精錬がほんの少しばかり行われていたが、微々として振るわなかった」(日本鉄鋼史・明治編)とされる。
    ▼官営中小坂鉄山=群馬県。1871年頃民営・小型高炉で始まった中小坂鉄山を78年官営に買上げ高炉を修理し、79年7月から81年6月まで操業したが、「故障が続出し」2年間で900トン足らずを生産しただけで廃業した。▼官営釜石=維新後、釜石の製鉄事業はふるわなかったが明治政府は1874年(明治7)工部省釜石支庁を開設。英国式25トン高炉2基、錬鉄炉(パドル炉)12基、圧延・鍛造機、鉱石運搬の鉄道敷設費を含め総工費約240万円の国費を投じ82年(明治15年)完工した。しかし通算297日、合計5,282トンを出銑しただけで83年(明治16)2月官行を廃止。設備は売却・撤去した。▼民営釜石(田中製鉄所)=田中長兵衛親子が1887年残存建設物機械一切の払下げを受け「釜石鉱山田中製鉄所」を開設した。94年官行時代の英国型高炉(25トン→30トン)を改修し北海道夕張炭を使って我が国初のコークス製銑・鉄工業化の道を開いた。田中製鉄所の銑鉄生産は前年(93年)の8千トンから一挙に1万3千トンに上がり全国生産の半分を超えた。▼仙人山製鉄所(小型高炉)=日本製鋼所を作った雨宮一族の経営するもので、出銑量は最盛期の1906年4,300トンが最大。同製鉄所が最も活躍したのは日露戦争中で「1904年下期、(日露戦争勃発から)全部の製品を陸海軍に納入」「05年6トン高炉を増設、翌06年竣工と同時に火入れ」した。
    *   *   *
    ▼官営(八幡)製鉄所=開業式は1901年(明治34)11月。明治政府は鋼製品9万トン規模とする銑鋼一貫工場の建設を目指した(160トン高炉×1。25トン平炉×4。10トン転炉×1。分塊、圧延など5工場)。立上りは難航した。▼住友鋳鋼所(平炉)=官営製鉄所設立の練習生としてドイツに派遣された少壮技術者が1899年(明治32)設立した大阪鋳鋼会社(3.5トン平炉)が前身。同社は1900年4月から操業を開始したが、故障続出。翌01年6月住友家に30万円で買収された。▼神戸製鋼所(平炉)=東京の小林清一郎が呉海軍工廠の技術者(小杉)から鉄鋼業の将来性の有望さを説得され、民間企業の先鞭として設立。小杉は退官して渡英、ヴィッカース社で1年余の実習を積んだ。鈴木商店を通じて輸入した3.5トン平炉、付帯設備一式を備えた小林製鋼所が1905年(明治38)竣工した。ただ技術未熟から失敗の連続で操業1ヶ月足らずで総額55万円の融資を行っていた鈴木商店に身売りされ神戸製鋼所と改称した。▼川崎造船所(平炉)=鉄道・造船鋼材等の供給を目的に1907年(明治40)神戸に10トン平炉を持つ鋳鋼工場を建設。戦後の50年製鉄部門を分離し川崎製鉄として新発足した。▼日本製鋼所(平炉)=海軍援助のもと日・英合併の平炉・製鋼会社として1907年、室蘭に建設された。輪西製鉄所(60トン高炉)の姉妹会社。日本製鋼所は英国第一流の兵器会社であるアームストロング及びヴィッカース社の共同事業として世界的な注視を集めた。設備は50トン平炉をはじめ平炉8基。日産製鋼能力430トン。当時としては圧倒的な製鋼能力を誇った。明治工業史は「わが国における民間兵器製造所の嚆矢」と記した。▼日本鋼管(平炉)=1912年(明治45)神奈川県川崎にインド銑使用を前提に平炉を建設した。初出鋼は14年(大正3)1月。その半年後、欧州で第一次世界大戦が勃発した。
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    ▼土橋電気製鋼所(電炉)=信州松本の土橋長兵衛が1909年(明治42)、長野県で電炉操業を開始した。高速度鋼・特殊鋼などを作り高速度鋼はもっぱら陸・海軍工廠へ納めた。▼安来製鋼所(電炉)=砂鉄製錬を行っていたが、1910年エール式電気炉を設置した。▼戸畑鋳物(黒心可鍛鋳鉄)=鮎川義介が設立。鮎川は1903年東大機械工学科を卒業。日本の鋳物技術が世界に遅れをとっていることから05年単身渡米。米職工に互して技術並びに可鍛鋳鉄普及の実情を習得して帰国。10年(明治43)戸畑鋳物を創設。25年安来製鋼所を合併。昭和に入り日立金属を設立。

  • 第一次世界大戦と鉄鋼業 1914年(大正3)7月に欧州で勃発した第一次世界大戦は、日本の鉄鋼業界に未曽有の鋼材需要をもたらした。直前の13年の生産量は銑鉄が国内需要の48%、鋼材は国内消費の34%を充たすにすぎず、銑鉄・鉄鋼の大半は輸入(洋鉄)や移入に頼り、鋼材の6割以上を欧米品が占めていた。▽その輸入鋼材が欧州での開戦と共に途絶した。しかも戦時物資生産で手一杯の米・英など同盟各国から鉄鋼注文が殺到し、日本の鉄鋼生産・輸出は一挙に急膨張した。
    ▼大戦特需=鋼材の市場価格は戦前の1913年(大正2)に比べ15年には丸鋼、鋼板ともに2倍に跳ね上がり、英国が鉄鋼輸出を禁止した同年12月には4.5倍から5倍。16年には鋼材輸入は全く途絶。「わが国は未曾有の鉄飢饉状態を示した」(「鉄鋼」島村哲夫著)。17年8月、英に続き米国も鉄鋼の禁輸に踏み切った。開戦の年にはわずか1万トン台だった日本の鋼材輸出は、17年3万8千トン、18年5万2千トン、19年6万3千トンと急増、狂乱ブームをさらに煽った。鋼材価格も暴騰につぐ暴騰を重ね、丸鋼は開戦直前の89円から、17年8月には7.5倍の559円。鋼板は同じく85円から、15.2倍の1,285円に跳ね上がった。戦争が製鉄・石炭・電気・造船・機械・化学等の諸産業の発展を促し、製鉄業奨励法(17年)、船舶管理令(同年)、軍用自動車補助法(18年)、軍需工業動員法(同年)などの法整備を加速させた。「わが国の鉄鋼業が、企業としての基礎を築いたのは、大戦の好況に遭遇した結果であった」(同)。▼鉄鋼会社(年産5千トン以上)の新増設43=大戦直前の13年末、内地の製鉄業は官営八幡、釜石・田中製鉄所、北海道の日本製鋼所、輪西製鉄所、関東の日本鋼管、関西の住友鋳鋼所、神戸製鋼所、川崎造船所など規模の大きいのは8社だけだったが、製鉄業奨励法(17年)の保護と鉄鋼ブームから18年までの4年間に年産5千トン以上の新設会社、工場は30に及んだ。▼国内(内地)新設会社は15年(大正4)=大島製鋼、日東製鋼、大阪製鉄、藤田製鋼、日本特殊鋼など6社。▽16年(大正5)=山陽製鉄、東京鋼材、岸本製鉄、小倉製鋼所など7社。▽17年(大正6)=富士製鋼、日本高速度鋼、東京銑鉄、電機製鉄、日本銑鉄、九州製鋼、東洋製鉄、日本製鉄など11社。▽18年(大正7)=日本電気製鉄、石狩製鉄所、長崎製鉄、岩淵製鉄など6社。計30社。既設の設備拡張を含め戦時中に年産5千トン以上の工場は全国43工場、年産5千トン以下166工場、民間総数209工場を数えた。▼朝鮮では17年、兼二浦に三菱製鉄が設立され18年には2基の150トン高炉に火入れ。満州では本渓湖煤鉄公司が14年第一高炉(130トン)に火入れ、振興公司を通じて鞍山一帯の厖大な鉄鋼資源を確保した満鉄は18年、鞍山站製鉄所を設けて250トン炉2基の建設を急ぎ、19年第一高炉を火入れした(日本鋼管三十年史31p)。

  • 戦後恐慌と鉄鋼業 第一次大戦は18年(大正7)11月に終った。ただ戦禍に傷付いた欧州の復興は直ちに進まないことから終戦直後に限れば、国内景気はむしろ過熱(19年11月、公定歩合引上げ)した。これが一転したのは遅れてやってきた新増設設備による粗鋼生産の急増、需給バランスの崩壊、「戦後恐慌」だった。20年3月以降、日本発の株式・商品相場の戦後恐慌が世界に波及した(日本では169の銀行が預金取付けを受けた)。鉄鋼需要は激減し価格下落には拍車がかかり、設備の大多数が戦時中に乱造され建造費も高額であったため、販路縮小の打撃をまともに受けた。

  • 関東大震災と鉄鋼業 23年(大正12)9月1日、M7.9の大地震が関東一帯を直撃した。鶴見・川崎に集中していた製鋼・圧延会社の多くが被災した。復興を急いだ政府は「復興鋼材の輸入税を免除(25年まで)し、復興事業を見越した輸入の激増は未曾有の入超を記録」した。しかし復興事業は進まず、さらに八幡製鉄所がこの輸入鋼材の阻止対策として建値を引下げたため鋼材相場は「極端に沈滞するに至った」(日本鋼管三十年史213p)。「震災復興景気というのは仮需要に振り回される傾向にあり、実需がそれに伴わず、震災の年の末には早くも(鋼材)荷動きが停滞し、市場価格は低落に転じ始めた」(三菱商事社史202p)。大戦中、登場した鉄鋼会社の約4社に1社が戦後恐慌、震災による鉄鋼不況に直撃され廃業した。関東大震災の災害もあり「鉄価はとめどなしに下落し大正七年夏540円余だった銑鉄は十二年夏には63円、丸鋼は492円から120円、鋼鈑に至っては1,285円から120円と実に十分の一以下という悲惨な激落を示した」。「弱小企業の倒壊が相次ぎ、主要大企業さへも多くは操業休止と整理的な減資を余儀なくされた。製銑業者の方が製鋼業者よりも遥かに深刻な打撃を被ったことは特記しておく必要がある(日本鋼管三十年史33p)」。
     23年末現在で残った会社は63社。内訳は銑鉄21社(廃業12社)、製鋼・圧延21社(廃業4社)、圧延21社(廃業6社)。製銑会社の廃業が多いのが特徴で、戸畑の東洋製鉄は21年無償で八幡に移管され、釜石の田中鉱山も24年三井鉱山に買収された。

  • 銑鉄奨励金と鉄鋼業 輸入銑や鋼材価格は国内品に比べはるかに割安だった。1924年(大正13)6月八幡銑65円に対しインド銑52.4円。八幡・棒鋼113円に対し輸入棒鋼105円。政府は25年、市中銑価格と輸入銑価格の差を輸入税とする関税定率法の改正を行った。さらに同年、一貫製鉄所に対し1トン当り6円の銑鉄奨励金を交付し、営業税及び所得税の免除期間を15カ年に延長する改正製鉄業奨励法を策定し、国内銑の保護を図った。

  • インド銑と鉄鋼業 インド産の銑鉄。英領・インドが第一次大戦(1914~18年)の兵器需要に応じるため高炉を増設し(インドの銑鉄生産は21年の37万トンから29年135万トン)、戦後の余剰化から日本に大量に輸入された銑鉄をいう。インド銑の輸入量は大戦末期(18年)の7千トンから22年には10万トンへ増加、29年(昭和4)には41万トンと国内需要の約63%に達した。国内の製銑会社は安価なインド銑に圧倒され、経営危機に陥った(昭和恐慌で需要も激減)。当時、国内銑鉄価格はインド、満州、英国銑の輸入価格動向によって決り、八幡は銑鉄建値を27年頃から「外国価格追随主義」(「鉄鋼」223p」)を採るなど、インド銑対策が大正末年から昭和初期の鉄鋼政策を左右した。
     これが銑鉄カルテル結成や鉄鋼合同(日本製鉄設立)の遠因の一つとなった。
    ▼インド銑対策・銑鉄共同組合を結成=第一次大戦の年(1914年)49円だった銑鉄は18年9月には541円まで急騰したが、インド銑の大量入着が始まった21年9月には65円まで急落。25年の銑鉄需給は約42万9千トンの国内需要に対し全体の約39%、16万7千トンが外国銑。うちインド銑が9割以上の15万4千トンを占めた。このインド銑対策のため国内及び植民地製鉄業者(輪西製鉄・三井、釜石鉱山・三井、三菱製鉄・兼二浦、本渓湖煤鉄・大倉、満鉄・鞍山の民間5社と販売業者(三菱、三井、大倉の3店)は銑鉄販売の共同組合(シンジケート)を結成した(26年6月~32年8月)。▼インド銑対策・日本製鉄誕生の裏話=インド銑阻止のため銑鉄共同組合は1930年以降、関税引上げ陳情に動いたが、単独平炉各社の激しい抵抗から宙に浮いていた。このなかで苦境に陥っていた民間の釜石(三井)や兼二浦(三菱)の製鉄所と比較的優良な条件を備えた官立製鉄所が合同したうえで、関税障壁を高めてインド銑を押える救済策が「製鉄合同」、「関税引上げ案」と一体となって浮上。製銑・製鋼対立の猛烈な駆け引きのなかで満州事変や国防強化の動きも追い風となってインド銑の関税引き上げ案は32年6月議会を通過、同時に製鉄合同案も翌33年4月国会を通過し日本製鉄が34年1月発足した。▼インド銑対策・強力な銑鉄カルテル=インド銑対策を柱とした銑鉄共同組合は関税引き上げの目的を達成したことから解散(1932年6月)し、改めて一元的な銑鉄・統制販売機関として銑鉄共同販売株式会社を設立(同年8月)。日中戦争(37年)最中の国策的要請から38年7月1日、さらに統制管理を強固にした日満鉄鋼販株式会社に全面改組した。強力な銑鉄カルテルの登場も一因して単独平炉の銑鉄離れと輸入鉄屑使用の増大を促した。銑鉄カルテルの存在が「我国製鉄業の特徴である単独製鋼業の原料使用に益々屑鉄の割合を増加させ、銑の使用を減らして屑鉄の米国輸入を増加し依存させた」(鉄鋼246p)。

  • 金解禁(29年)と世界恐慌と鉄鋼業 第一次大戦中、「金本位」を停止していた米国を始め各国は終戦後、相次ぎ金本位に復帰した。大戦中の1917年に停止した日本でも、その復帰が論議され、旧平価(1円純金0.75グラム)とするか「国力相応の新平価」か、との論争が起った。結局30年1月から旧平価で解禁する大蔵省令が公布された(29年11月)。同じ29年10月24日、NY株式相場は突如大暴落し、大恐慌が世界を包み込んだ。そのさなかの国力不相応な円高選択(金解禁)は主力産業である絹や綿を始め輸出関連業に壊滅的な大打撃を与えた(昭和・デフレ恐慌)。29年と31年を比べるとGNPは18%、輸出は47%、個人消費支出は17%、民間工場労働者は18%減少した(昭和経済史)。失業者は150万人から200万人に達し、大量失業時代のなか東北地方では「娘の身売り」や欠食児童が大きな社会問題となった。その後の31年12月、金輸出は再禁止された。しかし一連の失政から政府への信頼は失われ、軍部の台頭を呼び込む一因となったとされる(陸軍将校クーデター事件の背景)。▽世界恐慌から震源地であった米国の粗鋼生産は29年の5,734万トンから32年は1,390万トンと恐慌直前の4分の1以下まで激減。操業率は20%に落込んだ。日本でも八幡を始め鉄鋼各社は軒並み巨額の欠損に苦しむこととなった。鉄屑輸入は29年の48.8万トンから31年は29.6万トンに減少しているのは、操業短縮・工場閉鎖の激しさを端的に物語っている。翌30年、民間製鉄業救済のため官民合同の製鉄所設立案が答申された。

  • 日本製鉄誕生(34年・民間製鉄業救済) 強力な官営製鉄所と民間製鉄会社を合同させる「官民合同」案は、1919年(大正8)以降、数次にわたり提案されたが、実現しなかった。
     32年の5・15事件後に成立した斉藤実内閣は、日本軍の満州国からの撤退を求める国際連盟を脱退する(3月)など国際的孤立を深めるなか、鉄鋼業の集約を目指して33年4月、日本製鉄法を制定した(9月施行)。▽製鉄合同案は好況時の設備投資から多額の利子返却などの苦境に陥っていた民間の釜石(三井)や兼二浦(三菱)救済のため、比較的優良な条件を備えた官立製鉄所と合同したうえで、関税障壁を高めてインド銑との競争を食い止める関税引上げ案一体として浮上した。その経緯から「合同案は合理化の美名に隠れて、三井、三菱の大財閥の経営する製鉄業を救済」する方策(銑鉄販売史210p)と見られた。▽当初案は八幡製鉄と民間製鉄・製鋼11社(輪西製鉄・釜石鉱山・浅野造船所製鉄部・日本鋼管・富士製鋼・大阪製鉄・浅野小倉製鋼所・東洋製鉄・九州製鋼・東海鋼業・三菱製鉄)を打って一丸とするものだったが、日本鋼管と浅野系2社は合同反対に回り、東海鋼業は株主間の意見が一致せず、官営八幡と三井、三菱系の民間銑鉄・鉄鋼の1所5社参加による半官半民(82.2%政府出資)の特殊会社として34年1月、発足した。その後、株式処理が遅れた東洋製鉄は34年3月、大阪製鉄は36年5月、合同に参加した。

  • 鉄屑(屑鉄)製鋼法と米国輸入屑 平炉製鋼で屑鉄を5割以上使用する場合の呼称。戦前の日本の製鋼業は平炉による屑鉄法の全面採用を特徴とする。現在ではLD転炉(純酸素上吹き転炉)製鋼法が一般的だが、戦後の1960年代までは製鋼といえば無条件で鉄屑を大量に装入する平炉製鋼を指し、日本では銑鉄と鉄屑を混合する屑鉄法が専らだった。大正末までの全国の主要製鉄会社の銑・屑の配合比率は60対40だが、昭和初年は50対50、1937年(昭和12)は36対64へと逆転。銑鉄を自給する八幡でも27年には43対57と屑使用割合が高く、戦前の住金、神戸、川鉄など平炉会社の屑比率は70%以上に達した。この屑使用を支えたのが米国屑。36年(昭和11)の銑・屑比は42対58。鉄屑消費321.5万トンでうち輸入屑が149.7万トン、その102.8万トンが米屑だった。

  • 鉄鋼自給体制の確立(36~41年) 政府は1936年7月、従来の日本製鉄中心主義(鉄鋼合同に参加しなかった会社には高炉建設の申請を黙殺し続けた)を改め、日本鋼管など日鉄以外の高炉建設の認可に踏み切った。これら新高炉建設などにより、銑鉄・鋼材の自給自足を目標に、41年までの5カ年計画の策定と生産販売統制のための新機関設置などを骨子とする鉄鋼強化策を発表した。
     37年3月、伍堂商相は41年末の鋼材生産を620万トン(37年500万トン)、銑鉄生産を590万トン(同362万トン)とする鉄鋼自給5カ年計画を発表。国策的要請のもと36年以降、日本製鉄を中心に日本鋼管など合同非参加各社の新高炉が立ち上がった。
    ▼日本製鉄では▽八幡=37年2月洞岡第3高炉(わが国初の1,000トン炉)、38年4月、第4高炉(初の純国産1,000トン炉)を火入れした。▽輪西、釜石=36年11月、新一貫工場を輪西に建設と決定。37年7月から順次、建設。釜石も38年10月以降、高炉を増設。▽広畑(新設)=日鉄誕生後の拡充計画に基づき、銑鉄70万トン、鋼塊50万トン、鋼材40万トンを目標に新工場を建設。従来の高炉立地は原料供給を優先したが、今回は「消費都市」に近い阪神周辺に適地を物色し、軍港呉にも近い広畑が選ばれ39年10月、1,000トン高炉に火入れ(1,000トン炉2基、平炉6基)。
    ▼日本鋼管=合同不参加表明と同時期の33年5月、高炉建設申請を政府に提出し、34年10月認可、36年6月2号高炉火入れ(立地の関係から)、37年2月1号高炉、38年3号高炉を完成させた。同時にトーマス転炉を導入し、38年6月転炉製鋼を開始。41年9月までに350トン高炉、400トン高炉、600トン高炉2基を建設した。▼浅野造船・鶴見=浅野総一郎が大戦中に設立した浅野造船が浅野製鉄を合併(20年)し、1号高炉(150トン)を27年建設。37年2号高炉(350トン)建設。40年10月、白石元治郎(浅野の娘婿)の日本鋼管と合併した。▽小倉=平炉5基、電炉1基に加え37年140トン平炉増設を行った小倉製鋼が39年350トン高炉を建設した。▼中山製鋼=亜鉛鍍金製造(19年)から薄板圧延(29年)や平炉(33年)製鋼に進出した中山製鋼所が39年7月、1号高炉(430トン)、41年9月2号炉(同)を建設した。▼尼崎製鉄=大阪の金属問屋商が当時最大容量の電炉を持つ尼崎製鋼所(32年)を創設。34年に平炉2基を増設。37年には久保田鉄工と折半出資で銑鉄自給のため尼崎製鉄所を設立。41年高炉(350トン)を導入した。
    ▼電炉業も進出=26年(昭和元)末の民間電炉は33基。公称トン数(1回当り)5トン以上は3基(残りは5トン未満)。大型化が進むのは戦時体制と特殊鋼需要が急増した33年(同8)以降でこの年、住友や日本特殊鋼が15トン炉を導入。34年(同9)の民間炉は106基。10トン炉以上は7基。

  • 戦時鉄屑統制時代

  • 企画院と金属回収、廃品回収懇話会 35年内閣調査局から出発し、37年5月企画庁に改称・改組。「支那事変下における戦時財政経済の企画を強化するため」(新経済辞典・昭和17年版)同年10月、資源局を合併し企画院を創設した。「各省に関連する計画経済もここで統合立案され、物資動員計画・生産力拡充計画などもここで作成」した。物資動員策定計画を受け持った企画院は、(41年の回収令による金属回収に先立って)38年に官公署の金属回収を計画し、39年2月簡単に代用が可能な灰皿、火鉢、棚などの回収を行った(全国2万個の郵便ポストやマンホールが供出された)。東資協二十年史によれば、物資動員計画が38年1月発動され、金製品の供出(「金集中運動」)が行われ「建場業者は各業者当たり最低1匁以上の金供出に協力した」。ついで商工商指示により各都道府県に「廃品回収懇話会」が結成された。「屑物買出人も産業報国隊に組織され、39年の(企画院による)『鉄製品供出運動』買出人として腕章を着用し回収作業に従事した」(44~45p、78p)。

  • 鉄屑統制 鉄屑統制は戦前の1938年(7月物品販売価格統制、11月鉄屑配給統制規則)から戦後の52年(物価統制令廃止)まで数次にわたって実施された。一定の鉄鋼製品の使用を禁じる「消費統制」(37年10月、鉄鋼工作物築造許可規則)として始まり、値段全般を公定する「価格統制」(38年7月、物品販売価格取締規則)に広げた。その価格統制公布の第1号が「鉄屑価格」(1938年10月1日)。鉄屑流通を国家管理の下に置いたのが「日本鉄屑統制株式会社」(38年10月)の設立であり、国民に鉄屑の強制供出を命じたのが「金属類回収令」(41年8月30日)であった。
    ▼その背景=昭和初期の日本の鉄鋼生産は安価に入手できるインド銑や米国鉄屑を多用する「鉄屑製鋼法」に傾斜していた。輸入屑使用が拡大した37年の銑鉄対鉄屑比率は36対64。住金、神戸、川鉄など関西平炉3社の屑比率は70%以上に達し、輸入屑の7割が米国屑だった。その米国が、日本軍が北部仏印に進駐した直後(40年9月25日)、10月16日以降の対日鉄屑・鉄鋼輸出の全面禁止を断行した。製鋼原料を確保するには、国内に鉄源(鉄屑)を求める、それしかなかった。
    ▼統制と組織:①消費統制(37年10月鉄鋼工作物築造許可規則)=軍需物資以外の製造に鋼・銑、鋼屑を材料として使用してはならない、とした。子供のオモチャから鉛筆削り、灰皿、コンパクトからタライ、火鉢から広告塔のネオンサインやエレベーター、交通標識や欄干・手スリなどおよそ150品目。鉄製品の製造を禁止した。これが第一弾。②価格統制(38年8月物品販売価格取締規則)=国が鉄屑売買価格の上限価格を定める(統制命令の第一号は38年10月平炉特級)。③配給統制(38年11月鉄屑配給統制規則)=鉄屑統制会社など諸組織の整備を待って、配給統制規則を制定した。当初は鉄屑集荷業者が入手した屑の配給・物流を統制。その機関が鉄屑は日本鉄屑統制株式会社、非鉄金属は日本故銅統制株式会社である。

  • 鉄屑配給統制協議会 鋼材における鉄鋼統制協議会に対応する。国内屑を扱う日本鉄屑統制、輸入屑を扱う屑鉄共同購買会などの上部組織。構成は官庁から商工省、陸・海軍、供給側から日本鉄屑統制会社、需要側から日本鉄工連、屑鉄共購会など各統制団体などの三者からなる。事業は四半期ごとの鉄屑需給大綱の策定、各消費団体に対する全国的な数量割当て、価格決定などを行う、1938年設立の最高統制機構である。

  • 輸入屑鉄共同購買会と六洋会 日鉄など製鋼会社は輸入原料の購入カルテル「輸入屑鉄共同購買会」を結成(1937年6月)し、当初の6社から40年には24社を数えた。代表的な輸入商社6社が「六洋会」を結成し、自治統制で実際の買付けにあたった。「この組織が統制会社的な統制に移行する礎石ともなった」(日本製鉄社史)。「輸入屑鉄共同購買会」は1938年から米国屑の輸入が途絶する40年10月まで輸入屑を一手に掌握した。国は、その後輸入屑の直接統制に乗り出し(製鉄用輸入原料配給等統制令・40年)、「日本鉄鋼原料統制会社」を設立し、共同購買会を吸収した。

  • 日本鉄屑統制株式会社(38年10月) 1938年(昭和13)10月25日、東京丸の内工業倶楽部で創立総会を開き、法令(鉄屑配給統制規則、38年)に基づく国策会社として発足した。本店を東京に、支店を大阪に置いた。▼役員=社長は日鉄常務を務め前年退職した保倉熊三郎。副社長は大阪の筆頭大手問屋当主の阪口定吉、常務は業者側から内田浅之助、岡憲市。取締役は東京から岡田菊治郎、德島佐太郎、小宮山常吉、黒田国三郎、西清太郎、鈴木徳五郎(監査)、中田秀。横浜から青柳孫市、名古屋は監査の大辻政市の各一人。大阪からは山口英一、岸本金三郎、河野参次、吉田由松、津田勝五郎、田所源七、監査の須浪昌律。神戸から塚崎茂平(監査)、門司から草野惣市、小倉から宮内竹次郎など(官報)。▼営業=商工省内に設置された「鉄屑配給統制協議会」の下部・実施機関として同社を指定会社と定めた鉄屑配給統制規則の施行日(12月1日)から鉄屑配給業務を開始した。▼金属回収統制株式会社に統合=鉄屑国内確保のため日米開戦後の42年7月13日、日本鉄屑統制、日本故銅統制を解散。金属回収統制株式会社に再編した(38年9月26日設立)。
    ***
    ▽日本ブリキ屑統制(株)=切断屑、電解(錫)に分類。電解・指定商(3個人)は36年7月~37年6月までの1年間に300トン以上の扱い者。商業組合は東京、大阪、名古屋の3組。▽日本故銅統制(株)=38年9月26日に設立された非鉄金属部門の回収・統制機関。▽日本アルミニウム屑統制(株)=アルミニウム屑配給統制規則により40年5月指定。

  • 鉄鋼統制会 「鉄鋼業の総合統制運営」を目的として、生産・販売・内外原料集荷など各レベルの統制地慣らしが済んだ1941年4月、日・満の主要鉄鋼、鋼材販売、鉄屑統制など50社を結集して創設した中央組織。経済新体制、高度国防国家体制の呼号のもと上意下達とした。
     会長には日鉄社長が就任し鉄鋼、鋼材販売、鉄屑統制まですべての会社が「指導者原理」に基づく最高決定機関としての鉄鋼統制会の直接指揮・監督に服することとなった。

  • ABCD包囲網(41年) 1941年に敷かれた対日輸出制限の包囲網。A(America=米国)、B(Britain=英国)、C(China=中国)、D(Dutch=オランダ)の英文頭文字。米国は39年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告し40年7月石油・鉄屑等を輸出許可品目に加えた。日本が北部仏印に進駐した直後(40年9月25日)、10月16日以降の対日鉄屑・鉄鋼輸出の全面禁止を断行した。39年の鉄屑輸入量は戦前最高の255.5万㌧、うち米国が217.5万㌧。10月から禁輸になった40年でも139万㌧、米国から111.2万㌧が入った。この鉄屑輸入の統制にあたったのが「輸入屑鉄共同購買会(38年)」で米国屑の輸入が途絶する40年10月まで輸入屑を一手に掌握した。
     その後は米国を中心とするABCD包囲や海上封鎖による締め付けから鉄屑輸入量は激減。戦略的な重みは国内で調達可能な金属類回収策が取って代わった。

  • 鉄屑配給統制規則(38年11月制定)企業許可令(41年12月制定)企業整備令(42年5月日施行)の戦時統制法令は、リサイクル関連法制の項参照

  • 金属回収統制株式会社 戦時経済の総力発揮に資する企業の整理統合と「設備の有効利用」を目的とする企業整備令施行2カ月後の1942年7月13日、日本鉄屑統制会社、日本故銅統制会社を再編し、一元的な回収・配給の国策会社として創設された。本社は東京都浅草区花川戸(浅草松屋)。
    ▼役員=社長は大蔵省銀行局長を務めた大久保偵次。副社長は旧故銅統制会社の社長だった崎山刀太郎。常務は鉄屑統制常務の岡憲市。取締役は永野重雄他1人。監査役は藤井丙午他2人。永野重雄は戦後の70年に合併誕生した新日鉄の初代会長。当時、日鉄の購買部長・鉄鋼統制会の理事。輸入屑を扱う鉄鋼原料統制会社では社長も兼ねた。▼運営=全国の鉄屑指定商・故銅特約代理店・特約商業組合等、約150社を率いて下部数万の業者を総動員する。「未働遊休設備または中小商工業者の転廃業による設備等の買い上げにより産業設備営団、国民更生金庫等が全面的に金属回収統制会社に協力を与え時局の要請に応じ」特別回収を押し進める「回収営団」的機関(大久保金属回収会社社長)。▼金属回収統制会社=国は43年(昭和18)10月、金属回収統制会社を改組。同月施行の統制会社令により統制会社は中央の金属回収統制会社の1社だけとした。旧指定商は全国18ブロック名を冠した回収会社に再結集させられた(たとえば関東金属回収会社)。▼再統合・全国1社=45年(昭和20年)3月、国は再び統制会社令の規定により回収統制会社と地区回収会社の合併を命じた。合併の方法は回収統制会社が地区回収会社を吸収合併し権利義務一切を承継すること。合併を完了すべき期限は5月3日までとした。▼消滅は48年3月=45年9月2日、日本占領の全権を掌握したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は10月、企業整備令、金属回収令など戦時統制経済法令を相次ぎ廃止(24日)。戦時中は回収・工作隊に組み込まれていた鉄屑業者も本来の自由業へ復帰した。一方、戦後、戦災屑整理で生き延びた旧金属回収統制会社は47年9月、社名を金属回収会社と改めた後、閉鎖機関の指定を受け48年3月末、最終的に姿を消した。

  • 国民更正金庫 稼動中の工場諸設備や使用中の機器などの供出を迫る特別回収(1941年11月)は、対価の支払いだけでなく関連諸法の整備が必要になる。国は金属類回収令に先だって41年7月、金属供出に伴う中小商工業者の転・廃業用の資金的裏付けを行う国民更正金庫法を制定した。
     「時局の要請に応じ転・廃業をなす商工業者の資産負債を整理し、更正を図る」(第1条)目的で設置された。更正金庫は資産を処分し金属設備を回収機関に売渡した。

  • 産業設備営団 回収令施行後の11月、金属回収処分を主要目的とする産業設備営団を創設した。戦時の自給経済下で産業設備の再編成を目的とし、戦争産業の拡充を進める一方、平和産業、不急産業の諸設備を屑化。機械・器具を含む遊休未稼働設備は同営団が買取り製鋼原料として処分する。

  • 特別回収(41年11月~43年) 金属類回収令(1941年)による金属類の回収。第一次が41年(昭和16年)11月~42年3月末まで(指定施設等からの回収)。
     第二次が42年5月1日から9月末まで。5月12日の回収令6条による強制譲渡命令の発動(「金属の応召」)と企業整備令(企業許可令の全面強化)を公布し、回収の完璧を期した。①工場、事業場等の指定施設の回収に重点を置く。指定物件には強制譲渡命令を発動し全部回収。②神社、寺院、教会等も指定施設と同一とし、国宝その他特に保存の必要あるもの以外は全部供出。③一般家庭分は「特に衆目をひきやすい物」を指定。ただしあくまで自発的供出を待つ。④集荷機構は回収機関を利用するが、緊密な連絡が出来るよう措置する(これが回収会社統合を促がした)。

  • 非常回収(43年8月~45年8月) 改正金属類回収令(1943年8月)による金属類の回収。「一般非常回収」や「戦力増強企業整備」などに及ぶ。施行規則がリストアップした物件は、綿・スフ紡績業を筆頭に80事業、電気設備など38設備物資と都道府県施設、鉄・銅などの個別物資などあらゆる金属製品に及んだ(8月12日、商工省令第51号)。▽期間は回収代替物据付けの難易によって異なるが、代替不用の第一種(官公庁、指定施設等のストーブ、扇風機など)が43年9月末日まで。代替物設置を考慮する必要のある第二種(鉄製ベッド、照明機具など)が43年12月末日まで。代替品と交換で回収する第三種(学生の制服ボタン、水道栓など)が44年3月末まで。
    ▼戦力増強企業整備=第一種:「金属類の回収または工場設備の転用に寄与する工業」。繊維工業など不急41業種。第二種:戦力増強のため拡充する部門。超重点五大産業など。ただし「劣悪遊休設備は回収を図る」。第三種:第一種、第二種以外の工業(日用・雑貨など転用貢献度の低い業種である)。繊維など第一種工業は設備を操業・保有・転用・廃止に分け、転用工場は陸海軍が転用先を決め、大工場は産業設備営団が、中小・町工場は国民更生金庫が換金、屑化処分する。
    ▼鉄屑化・供出(繊維産業)=企業整備令に基づき、不急・平和産業として強制屑化を受けた綿業では紡機896万8千台が供出された。「繊維工業全体では企業整備前に鉄量換算で約100万トンあったと推定される設備のうち供出によって約70万トンが鉄屑化された」(昭和経済史)。戦前の日本経済を支えた繊維業界の設備消失は、直接の戦災被害の10倍にも達した、とされる。

  • 指定商 日本鉄屑統制が指定する鉄屑業者。同社は「指定商は当社の株主より選定」すると定め鋼屑、銑屑、特殊鋼屑の順に指定した。▽指定商の資格:鉄屑指定商=37年(昭和12)中に鉄屑100トン以上の実需家納入実績業者。鋼屑指定商=37年(昭和12)中に銑・鋼合計300トン以上の実需家納入実績業者(「戦時経済と物資調整」577p)である。鋼屑指定商は東京79社、名古屋5社、大阪118社、小倉20社の計212社でスタートした。銑屑指定商の指定は翌40年。東京85社、名古屋16社、大阪71社、小倉22社との計194社。鋼・銑合計406社(実数383社)にのぼった。指定商洩れの非協力を恐れた商工省が、将来は大幅にしぼり込むにせよ、まず制度発足が先きと一歩退いて指定商に取り込んだためだ。指定商は鉄屑統制会社に対する交渉団体として「協調会」を各営業所管内に結成し、指定商の4円口銭確保を申し入れた。▼金属回収令の回収機関として=金属類回収令制定の41年10月、国は回収機関の指定を行い、指定商を工場事業所など指定施設からの回収・供出に起用した。当初、実数383社を数えた指定商は、この時大阪27社、東京22社など全国94社と約4分の1に整理された。さらに43年8月の金属類回収令の大改正により、旧指定商は全国18ブック回収会社へ配置され、指定商は完全に姿を消した。

  • 工作隊・回収隊 改正金属類回収令(1943年8月)による金属回収(非常回収)に専門的に従事する実務部隊。金属類の回収(非常回収)のため43年3月、国は中央に回収本部を創設し、地方に回収課を設置した。改正令は、地方長官は「回収機関」「その他の者」を「必要な作業に従事」させる(7条)と定めた。職務は金属回収統制会社傘下の実働部隊として、地方長官の命じる回収工作の集荷・解体作業である。有力・旧指定商は「回収会社」幹部として、回収隊・工作隊を差配し、その他多くの旧鉄屑業者や旧資源回収業者は、全国各地の回収隊・工作隊に組み込まれた。「今回の回収は遊休設備・不要不急設備の回収に重点を置いている。商工省金属回収本部では全国を18ブロックに分けブロックごとに回収工作隊を組織、回収会社の役員、収集業者、大工、左官等を適宜に網羅し、この外に国民勤労報国隊、奉仕隊、青少年団」をもって編成された(5月16日、東京朝日新聞)。「産業設備営団ができて遊休設備をツブすようになった。大阪府にも金属回収課(43年)ができてこれとタイアップした」(金田多四郎氏・金属回収大阪府責任者)。戦災鉄屑回収も非常回収とされ、地方長官指示のもと回収隊が担当し、工作隊は産業設備営団関係の屑化に注力した。

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