鉄スクラップ関連団体事典
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鉄スクラップ関連団体
古がね買組合(江戸)
関東鉄屑懇話会―鉄屑連盟の中核母体組織
関西鉄屑懇話会―鉄屑連盟の西の中核
関東巴会、関西八日会―直納業者組織
日本鉄屑連盟―反カルテル全国組織
鉄屑カルテル関連団体
カルテル・鉄屑需給委員会
日本鉄屑問屋協会―巴会の全国拡大組織
日本鉄屑協議会―カルテル対応の全国組織
日本鉄屑加工処理工業協会―設備近代化組織
ポストカルテル組織
日本スクラップ・リザーブセンター(SRC)
日本鉄屑輸入組合
(社)日本鉄屑備蓄協会
(一社)日本鉄屑工業会(現日本鉄リサイクル工業会)
(社)回収鉄源利用促進協会
全国小形棒鋼工業組合
(一社)日本鉄源協会
資源業者関係
東京都資源回収事業協同組合(東資協)
日本再生資源組合連合会
日本再生資源事業協同組合連合会
鉄スクラップ輸出関連団体
関東月曜会
関東鉄源協議会
関東鉄源協同組合
関西鉄源協議会
大阪府金属リサイクル工業協同組合
使用済み自動車・部品回収関連団体
八幡自動車処理事業協同組合
(一社)日本ELVリサイクル機構
(一社)JAPRA(日本自動車リサイクル部品協議会)
その他の有力団体
(一社)日本鉄鋼連盟(製鉄・製鋼メーカー団体)
(一社)日本鋳鍛鋼会
普通鋼電炉工業会
(一社)日本鋳造協会
(独法)石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)
(独法)日本貿易振興機構(JETRO ジェトロ)
スチール缶リサイクル協会
アルミ缶リサイクル協会
(公財)自動車リサイクル促進センター
(一社)自動車再資源化協力機構(自再協)
(一財)家電製品協会(家電リサイクル対応組織)
(公社)全国解体工事業団体連合会(全解工連)
(公社)全国産業資源循環連合会
鉄スクラップ関連団体
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古がね買組合(江戸) 八代将軍吉宗の享保の改革の一つとして、古着屋など八品商売人への盗品物の捜索・防犯体制を定め、古鉄古金買いに組合結成と記帳管理などを命じた(1723年)。
▽一 古鉄商人は十人程ずつで組合を作り、日々売り買いの品を帳面に記し、盗難物(紛失物)の問い合わせがあった場合、帳面で調査(吟味)すること。▽一 店外で商売(振売)する場合を公式に認め、鑑札(札)を発行する。無札の売買は禁じ、無札の者を発見したら、同業仲閒で召捕、奉行所に連行すること。古金問屋は無札の者から買い取ってはならない。▽一 新規に商売する者は最寄り組合に加入すること。このように決めたから名主、月行事はこの内容に沿って組合を結成し、問い合せがあれば入念に調査すること。組合の取調(仕方)に問題(吟味未熟)があれば、責任を追及する(御触書2100)。▼これは同業者組合結成の陳情と自主管理の申し出を通じて、紛失物や盗品の隠匿防止と自主警察を命じるものである。この自主警察、団体結成方式は、幕末まで引継がれ、明治政府もこの「組合」と「鑑札」制度を継承し「相手方の確認と記帳励行」などを求める行政監視はその後、古物営業法や「金属類営業条例」へと姿を変え、現在まで生き残った。
▼江戸町奉行の町民支配は「町年寄」や配下の「町名主」を通じて行われた。町年寄は三家が置かれ、古金関係は樽家が担当した。各町には名主あるいは月行事が置かれ運営していた(町の名主)。古がね組合に関して言えば、下から→各番組・商売人組合行事→家主、名主加印→町年寄(樽家)→奉行所、の各段階を踏んだ。 -
関東鉄屑懇話会―鉄屑連盟の中核母体組織 日本の戦後の鉄屑業界を代表する任意団体。日本鉄屑連盟や日本鉄屑協議会、さらに日本鉄屑工業会の母体のひとつである。▼第一次鉄屑懇話会=伊藤信司によれば戦後の東京の業者団体の初めは47年(昭和22)6月の「東京地方鉄屑懇話会」。伊藤信司、小林源次郎が呼びかけ人。戦災で行方不明の者も多いのでタブロイド版の一般紙に広告を出し、結成を呼びかけたという。鉄屑懇話会の主な仕事は加配米、軍手、地下足袋、自動車用燃料等の統制物資の配給の世話であったが、揮発油の統制廃止を期に存在感がなくなったとして52年(昭和27)7月22日解散した(第一次懇話会)。▼第二次鉄屑懇話会=しかし「改組して存続すべき」との意見から52年10月、岡田、鈴木、德島らの呼びかけで新関東鉄屑懇話会(第二次)として再発足。創設会長は德島佐太郎、副会長伊藤信司・平石慶三(結成会員190人)。同会は、会員に直納業者やこれと取引する中間業者、中間業者に持込む資源回収業者を抱合。業界活動として「鉄屑信用組合」の設立、「月刊・鉄屑界」の刊行を決めた(鉄屑ニュース18号)。▼反カルテル組織として=53年初め鉄屑の共同購買(カルテル)案が流布されだしてきた。懇話会は53年3月13日、日比谷陶々亭で抗議集会を開催、全国から300余名(懇話会員以外も含む)が参加した(3・13緊急業者集会)。鉄鋼20社が鉄屑カルテル結成を申請した同年12月、東京京橋第一相互ビルにカルテル申請に抗議する業者・団体代表約70人が参集。鉄屑懇話会を中核に「日本鉄屑連盟」を結成した(鉄屑懇話会長の德島が鉄屑連盟の会長に就任。以後、鉄屑懇話会が鉄屑連盟の主要組織として鉄屑連盟を指導)。関東鉄屑懇話会は「連盟」結成後も独自組織として並列的に活動し、同会から連盟役員を多数輩出した。各地で誕生した業者組織のリーダー格として存在感を示した。▼鉄屑連盟から59年8月退会=カルテルは発足当初は「鉄屑連盟の意見を参酌」したが、鉄屑業界の分裂に乗じて、意見聴取団体から「鉄屑連盟」の名指しを消し(56年9月)、日本鉄屑問屋協会が新たにカルテル対応団体として名乗りを上げた(58年11月)。この状況から関東鉄屑懇話会(德島佐太郎会長)は、鉄屑連盟全国総会で組織の解散を求めたが否決された。同懇話会は59年8月7日理事会で鉄屑連盟からの退会を決め、「今後は純然たる親睦団体として再出発する」(8月10日、日刊市况通信)とした。▼92年6月解散=鉄屑連盟から退会後は、運動会など親睦活動以外の実質的活動は少なく92年6月26日解散。最後の会長は黒田駿黒田鋼業会長。会員数57社。
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関西鉄屑懇話会―鉄屑連盟の西の中核 敗戦直後の1945年10月、関西在住業者によって発足。当時唯一の業者団体として大阪、神戸、京都を中心に百社を超える業者が参集(創設会長は松岡朗・共栄社長)。戦後から経済成長期にかけ直納業者団体である関西八日会と並ぶ業者組織として存在感を示した。▽53年12月の反カルテル行動では有力組織の一つとして日本鉄屑連盟結成に参画。以来、鉄屑連盟会長は東西の懇話会長が交替で兼務するのが習いとなった。関西の懇話会は関東の鉄屑懇話会に比べ中間業者色が強く、鉄屑連盟の「強硬派」的存在としてリードした。▽カルテル終了後、日本鉄屑工業会(日本鉄リサイクル工業会)関西支部、大阪府鉄屑加工処理工業協同組合(大阪金属リサイクル工協組)、関西鉄源協議会が相次いで立ち上がった。懇話会の加盟会社もこれらの団体に加盟。業界活動の中軸はそれら団体活動に移った。▽14代会長となった小森憲治(小森憲商店・社長)は、人間と同様、団体活動も引き際が肝心だと判断し2003年(平成15年)4月総会で58年の歴史に幕を引いた。▼歴代会長は①松岡朗(共栄)、②矢倉林三(日商)、③須浪昌律(東亜興産)、④近藤正二(近藤興産)、⑤清水辰治(浪華金属)、⑥磯野歓一(近畿金属)、⑦田所龍雄(田所商会)、⑧小西康寛(小西寛商店)、⑨天川陸一(鐘和金属)、⑩谷村潔(谷村鉄材)、⑪木村正二(新虎商事)、⑫西畠博(西畠商店)、⑬玉置真壽夫(玉置鐵興)、⑭小森憲治(小森憲商店)。▽小森憲治氏によれば、発足当初は「関西鉄屑懇話会」と称したが、木村会長時代の80年代に「関西鉄原懇話会」に改称した。
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関東巴会、関西八日会―直納業者組織 直納業者団体である巴会誕生とこれを母体とした日本鉄屑問屋協会結成に至るいきさつは、巴会、日本鉄屑問屋協を作り上げた松島政太郎の回顧によれば、以下の通りである。
▼巴会結成のいきさつ=戦後、鉄鋼業界の混乱に伴って鉄屑の実態は不安定な情勢を続けており、粗鋼生産の回復に伴って、鉄屑の安定が重要な課題となってきた。鉄屑の安定と鉄屑直納問屋の商権の確立、その他相互の親睦を図る目的を以て直納問星の団体を設立してメーカー側との協力体勢を固める必要を痛感し、メーカー首脳部及鉄屑業界指導層と懇談の結果、多数の賛同を得たので、確か昭和24年八幡、富士、鋼管の直納問屋を主体に40数社の参加を得て関東巴会を設立し、私(松島)が会長に任命され德島、石川、小林、岡、成島、伊藤(三好)、西氏等が世話人となり鉄屑安定の協力体制の第一歩に乗り出した。▽設立総会は西久保巴町の鉄源社長野村氏邸で開催した。八幡、富士、鋼管の3社の直納問屋を主体に結成した事により三巴になることから関東巴会と名付けた(ただ集会に使われた商工省公館が麻布狸穴にあり向かいの町名が「ともえ町」だったことに由来するとの説=伊藤三好氏もある)。その後関西その他地区でも関東巴会同様の直納問屋団体を設立して全国的に協調体勢を固める事を企画し、岡氏と共に関西を訪問し、松岡氏ほか有力者と協議懇談の結果、関西八日会が設立され松岡氏が会長に就任し、北海道巴会、名古屋21日会、九州八栄会が誕生し全国的に直納問屋の協調体勢が整い、関東巴会が中心となって連絡協議しメーカー側に対応する方法を採って来たのであるが、これらの地区団体がすべてその後の日本鉄屑問屋協会の母体となった。
▼カルテル結成まで=朝鮮動乱の休戦、鉄屑価格統制の廃止等の事態もあったが鉄鋼生産は年々発展成長するに伴って、鉄屑の需要も増大し大混乱を迎えた。この事態にメーカー側はカルテル結成への準備を始め昭和28年5月、鉄屑需給対策委員会を設立して本格的にカルテル申請の方針を決定。同28年12月公取に鉄屑合理化カルテルを申請した。一方関東巴会でも鉄屑の長期安定策を協議し対策を検討しメーカー側に意見を具申した。昭和29年を迎えるや国際収支の悪化に伴って政府の緊縮政策により、鉄鋼業界も鋼材価格の下落や減産に突入。メーカー側は昭和29年6月、カルテルの申請を一時取下げた。その後、経済界の不況も立直りの方向に進み昭和30年、メーカー側は再び鉄屑合理化カルテルの再申請を決定すると共に日活国際会館に鉄屑業界の代表を招いて、鉄屑合理化カルテル結成について懇談会を開催した。鉄屑業界側では関東巴会の松島、石川、岡、小林各氏、関西八日会松岡、島田各氏。鉄屑連盟の德島氏ほか副会長数氏が出席した。
▼カルテル結成=その結果、鉄屑業界側も鉄屑カルテルの結成を諒承し、昭和30年4月、高・平炉メーカー18社参加の鉄屑合理化カルテルは正式に公取より認可された。発足と共に、鉄屑需給委員会需給委員長に永野富士製鉄社長、業務委員長に稲山八幡製鉄常務、事務局長に小池氏(八幡)が就任し、カルテル事務局の体制は出来上った。毎月のカルテル価格の決定は業務委員会を開催して翌月の価格を予め協議し日時を定めて鉄屑連盟、関東巴会、関西八日会を招集して予め決定されたメーカー側の価格を表示し、鉄屑業界の意見を求め十分協議し双方納得の上、最終的な価格を決定する方法が採られた。関東巴会、関西八日会はそれぞれ理事会を開催して協議すると共に九州、名古屋、北海道地区直納団体とも連絡協議し、全国的な意見を取りまとめて松島会長、関西松岡会長が出席して、カルテル側との価格折衝に当った。▽鉄屑連盟は全国理事会を開催協議の上理事会を中断して德島会長及副会長4名がカルテル事務局において巴会とは別個に鉄屑カルテル価格についての意見を述べ、協議を行った。カルテル側及鉄屑業界側の意見に相違を生じた場合、関東巴会及関西八日会は直納問屋団体の立場上協調的な態度を以て臨んだが、鉄屑連盟は強固な態度で接し理事会に持帰って再協議する等、終始強い方針の下に対応し、為にカルテル側より「鉄屑連盟は労組である」といわれた程で、双方諒解点に達するまでには相当の混乱を生じた事も度々だった。
▼鉄屑連盟と巴会=鉄屑カルテル運営も本格的な軌道に乗るに伴って業界側でも次々問題を生じた。価格答申は鉄屑連盟および関東巴会、関西八日会がカルテル側に意見を述べ決定する方法が採られたが、鉄屑連盟および巴会それぞれ立場の相違もあって、考え方に相違点を生ずる場合もあり、このまま推移する事は鉄屑業界の弱体化を招く、従って一本の姿に大同団結する事が急務との声も次々と現れ、鉄屑連盟、巴会、八日会の幹部が参集し種々協議したが結論を見るに至らず、暫定措置として30年4月関東巴会、関西八日会は鉄屑連盟に団体加入した。その後、鉄屑連盟の運営上について根本的に意見の相違を生じ、10月には脱会のやむなき事態となった。
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▼日本鉄屑問屋協会創設のいきさつ=その後メーカー側でも、真の協力団体として全国統一直納団体を設立する必要ある事を要望され、私もその方針を固め、5地区直納問屋団体に呼掛け「鉄屑協会」の設立について協議して準備委員会を設け、諸対策を促進した。時を同じくして関東でも石川豊吉氏提唱の「鉄屑問屋組合」の設立運動が生れ、再々準備委員会が開催され私の提唱する「鉄屑協会」の設立運動と競合する情勢となった。▽早速石川氏と懇談協議した結果、石川氏の鉄屑問屋組合の設立運動は日本鋼管・安田部長の御意向もある事が明らかとなり、石川氏とも十分協議し、八幡、富士、鋼管3部長の新たな意見も求め、一致協力して全国直納問屋の新団体を設立する方針を定めた。▽メーカー側はこの方針をカルテルにおいて協議した結果、新団体設立世話人を決め世話人はカルテル側と連絡協議し、Aカルテル参加メーカーより推薦された直納問屋を以て先ず地区別の問屋協会を設立し、本部たる日本鉄屑問屋協会も昭和33年11月設立された。他方メーカー側でもAカルテルに次いでB、C、D、E各カルテルが結成されると共に、各カルテルごとに問屋協会も設立され、各問屋協会の参加を得て日本鉄屑協議会も誕生し、ここにメーカーの協力団体として直納問屋の全国統一体勢が出来上った。▽直納者団体の名称も私の提唱した鉄屑協会、石川氏提唱の問屋組合の双方を勘案し「問屋協会」と名付けた(カルテル十年史・松島政太郎「鉄屑カルテル結成及び鉄屑問屋協会設立前後の経緯について」より)。 -
日本鉄屑連盟―反カルテル全国組織 鉄鋼20社がカルテル申請を行なった1953年(昭和28)12月11日、東京京橋第一相互ビルに業者・団体代表約70人が参集し関東鉄屑懇話会を中軸に「日本鉄屑連盟」を結成。組織内にカルテル対策委員会を設け、関係各省庁に対し反対運動を展開した。
▼組織=創設会長は関東鉄屑懇話会長の德島佐太郎。副会長は中部の青柳市三、関西の須浪昌律。行動の中核となったカルテル対策委員長には伊藤信司が就いた。加盟団体は関東、関西鉄屑懇話会の他、全国各地の鉄屑業者、資源回収業者団体に及び上は直納業者、中間業者から末端の一般収集、資源回収業者まで各階層を網羅。戦後混沌のなかカルテル結成に危機感を強めた全国の広範な鉄屑業者を集めた。
▼運営=上は德島など大手・直納商から下は零細末端業者まで利害相反の全業者団体を包含したから、内部分裂の危機と意見対立の緊張から運営は困難を極めた。連盟首脳部はメーカーと結託しているのではないかとの東資協など資源業者の不信に加え、鉄屑連盟の指導権を奪おうとする巴会など直納・大手業者との対立にも翻弄された。
▼「意見参酌」を条件にカルテル申請に同意=鉄屑連盟は「広範な層を背景とする組織の熾烈な反対運動」を展開したが、リーダー達はこの組織が反カルテルだけを目的に全階層が集結している寄せ木細工的な危うさを持っていることを承知していた。政府、業界が着々と外堀を埋めていくなか、鉄屑カルテル認可は「時間の問題」(反対運動はできても阻止はできない)と見た指導部は54年2月以降、伊藤信司らを中心に条件闘争を模索した。そのなかで鉄屑連盟は「鉄屑業界として努力すべきは業界の事情を参酌させた適正価格の決定だ」との方針を固めた。その方策として伊藤等は通産省、メーカー、鉄屑業者、学識経験者を以て構成する「鉄屑価格審議会」(後の鉄屑需給研究会)の設置を直接、稲山など高炉トップに呼び掛けた。この相互の歩み寄りを踏まえ鉄鋼メーカーはカルテル(55年3月)申請に当って「日本鉄屑連盟の意見を参酌の上」価格を決定するとの文言を協定書に明示し、鉄屑連盟も参酌条項の挿入を条件にカルテル申請を認めるとの妥協が成立した(共同発表4月4日)。
▼カルテルの喉に刺さった小骨=カルテル側は55年の第1回協定明文に「日本鉄屑連盟の意見を参酌して」との条項を盛り込むことを呑んだ。しかしカルテルの本来目的は鉄屑価格の低位安定にある。成り行きとはいえ利害相反の業者側の意見を参酌しては、その達成は難しい。ではどうするか。この鉄鋼側の意向を体して、巴会、八日会は「直納業者の意見を強く反映させることを目的に」、第1回カルテルさ中の55年5月、(德島会長辞任の混乱のなか)鉄屑連盟に集団加盟し、直ちに会長職を確保し指導権を握った。反カルテルに結集した中間・下部業者(懇話会、中間業者)と大手直納業者の巴会、八日会とは水と油だった。さらにカルテル発足直後の混乱期、いわば火中の栗を取りに行った直納業者出身の鉄屑連盟のトップは忽ちカルテル非参加の鉄鋼会社や鉄屑連盟内部の中間業者の激しい価格争乱に翻弄された。会長職は確保したが価格交渉は失敗。鉄屑連盟の正副会長職を投げ出した。同時に巴会、八日会は連盟から集団脱退(55年11月)した。これを見たカルテル側は同年12月の価格決定に当り、鉄屑連盟の意見を参酌せず協定価格の値決めを単独で行った。これは連盟内部で巴会が脱退したため、鉄屑連盟はもはや業界の総意を代表していないとしたためだ(連盟は全国14団体807社を擁する「価格参酌機関」であると強く反論した)。
▼カルテルは鉄屑連盟を排除=これが業者に早急な組織再統一の必要を痛感させ、鉄屑業界は連盟・巴会の枠を超えた組織再統一に向け動き出した。鉄屑連盟と巴会などディーラー団体は合同準備委員会(56年7月7日)を開催し、カルテル折衝等の基本方針を定めた。しかし連盟内の強硬派である中間業者58社は「同志会」を結成し巴会との合同を打切り(56年9月)、鉄屑連盟(近藤正二会長兼関西鉄屑懇話会長)も同月の第4回総会でこの決定を追認した。これをカルテルは、鉄屑連盟の「分裂」と捉え56年9月の第4回の認可申請にあたり第1回以来協定書に明示してきた鉄屑連盟の意見斟酌条項を削除した。カルテル十年史は「公取委側の意見をただしたところ同条項を削除することは申請上何ら差し支えない」が、「何らかの表現を挿入するほうが望ましい」(十年史234p)との助言があったため「鉄屑業界の意見を聞き」に改めたという。ただその後も、カルテルは鉄屑連盟を有力な業者組織として巴会や八日会と並んで意見聴取していた。しかし第6回カルテル途中、カルテルとの協調を目指す全国組織である鉄屑問屋協会(58年11月)や鉄屑協議会(59年6月)が登場してきたことから、鉄屑連盟はもはや主要な価格交渉団体ではないとして、カルテルは意見聴取の対象から鉄屑連盟を完全に排除した。
▼創設団体や指導者が離脱し機能停止=日本鉄屑問屋協会がカルテル対応団体として名乗りを上げた58年11月以降、鉄屑連盟の求心力は急激に衰えた。鉄屑連盟結成の呼びかけ人だった伊藤信司や直前まで鉄屑連盟会長だった石川豊吉らは日本鉄屑問屋協会の創設に動き(59年4月、東日本鉄屑問屋協会・伊藤信司会長)、関東鉄屑懇話会(德島佐太郎会長)は同年の鉄屑連盟全国総会で鉄屑連盟の役割を終わったとして解散を求め(結果は否決)、鉄屑連盟から退会した(59年8月)。この直後、伊藤信司は問協だけでなく中間業者を含めた新たな全国組織の創設とこの参加を鉄屑連盟に求めたが、鉄屑連盟は拒否。伊藤らは鉄屑連盟抜きで日本鉄屑協議会を立上げ、取り残された鉄屑連盟は組織活動の実態を喪った。カルテル史は「従って、カルテルの対応組織としての地位を強調していた鉄屑連盟は後退の止むなき状態となり業務停止の実情」(203p)となったと記した。
▼編者注=日本鉄屑連盟は日本鉄屑史のなかでも最大の奇跡であり政府、高炉を向こうに回して一歩も退くことなく新時代を開いた。その活動の歴史は日本の鉄屑業者の意気を示すものとして特筆されるべきものだろう。一夜にして結成された鉄屑連盟が、戦前には東京府会議員をつとめ鉄屑統制会社設立以前からの論客である伊藤信司らを指導部にカルテル初期の数年間、国家と鉄鋼企業の手足を縛ったのには、ただただ驚く他はない。▽鉄は国家と言われ(戦前から戦後52年まで統制が続いた)、国家の存亡すら背負うと目された時代(国家主権の回復後に政府が最初に手がけたのが鉄屑カルテルの結成)、その国家と日本最大の企業群を向こうに回して反カルテルに立ち上がり(鉄屑連盟の結成)、巧みな戦略(統制復活阻止のスローガン)と鮮やかな戦術転換(カルテル絶対反対から条件闘争)を駆使して、交渉相手から最大の譲歩(「日本鉄屑連盟の意見を参酌」)を引き出し、敵の武器(カルテル認可)を利用して、一時は勝利した(鉄鋼側の単独値決めはカルテル規約違反として公取に提訴し、是正させた)のだ。▽カルテルはメーカー購入価格の低位安定を目的とする。その価格決定に利害相反の業者の意見を参酌しては本来の目的は果せない。従ってカルテルはその発足直後から陰に陽に鉄屑連盟排除に動き、意見参酌条項を無視し、(協調団体の仕掛けた)鉄屑業界の混乱に乗じて名指しを削除した(第4回カルテル)。▽鉄屑連盟は「反カルテル」を唯一の目標に一夜にして結成された巨大で不安定な寄せ木細工だった。そもそも「カルテル対応団体」として全国の業者に結集を呼びかけたわけではなかった。カルテル阻止組織だったものが成り行きから本来目的とは真反対の「カルテル対応」に名指しされた準備不足の生徒だった。その弱点が「カルテル時代」の定着と共に表面化した。カルテル認可後、カルテルを前提とした鉄屑需給が内外にわたり整備され、時代は新たな組織活動を求めた。しかし鉄屑連盟にはその用意と能力がなかった。「古い革袋」のまま鉄屑連盟は時代から取り残された。創設団体や伊藤など指導者が去った後には、理論的な支柱も実戦的な行動力も、もはや残されてはいなかった。
鉄屑カルテル関連団体
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カルテル・鉄屑需給委員会(1955年4月~74年9月末) 正式には「鉄屑需給委員会」。独占禁止法第24条の4に基づく合理化カルテルとして公正取引委員会の認可を受けた鉄鋼会社の鉄屑価格の協定行為を行う組織である。▽第1次申請は1953年12月出されたが、日本鉄屑連盟の猛反対のなか翌年6月取下げられた。「日本鉄屑連盟の意見参酌」条項を明記するなど需給双方の事前調整を踏まえて55年3月改めて申請が提出され、認可された。同カルテルは55年4月の第1回から74年9月末まで15回19年6ヶ月間継続した(詳細は、鉄屑カルテルと業者対応の項参照)。▼カルテルは鉄屑の絶対的な欠乏下(その結果、国際的に割高)にあった日本の鉄鋼界が、国家主権の回復(52年4月)後、総力を挙げて取り組んだ国内原料・価格対策だった。当時は鉄屑を4割以上も必要とする平炉製鋼の時代だった。不安定な供給と高価な鉄屑は鉄鋼だけでなく日本の産業国際競争力を阻害する。その危機感がバネとなった。従って原理的には鉄屑装入を不要とするLD転炉製鋼法が普及する60年代後半まで、日本の鉄鋼各社の関心はカルテル運営と鉄屑価格動向に集中し、需給双方の利害抗争はカルテル運営を巡って集中的に噴出した。その活動を鉄屑需給委員会は「鉄くずカルテル十年史」や「鉄屑カルテル・昭和41~49年史」として編纂し、後世に残した。
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日本鉄屑問屋協会―巴会の全国拡大組織 直納業者団体である巴会や八日会が中心となって58年11月に創設した鉄屑カルテル協調の全国組織である(「日本問屋協会創設のいきさつ」の項参照)。▼活動=カルテル協調組織として発足しカルテルに陳情活動を行った。その後、中間組織を含むより広範な全国組織として日本鉄屑協議会(問屋協会を中軸に結成された)が設立されたことや問協会長と協議会長(初代松島政太郎、二代德島佐太郎)が兼ねたことからカルテル対応は問屋協会、協議会の連名で行うのを例とした(鉄屑協議会の項を参照)。カルテル協調団体として誕生した経緯から、直納業者は「外口銭」制を要望し、問協、協議会の維持・運営のためカルテルに「資金援助」を仰いだ。この資金援助問題などからその自立性に問題を残した(なお第6回カルテルの項参照)。
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日本鉄屑協議会―カルテル対応の全国組織 日本鉄屑問屋協会及びその所属団体の他、BCDEカルテルの対応団体ならびに関東鉄屑業者団体連合会など中間業者団体を含めた広範な全国組織として59年6月、設立された。「この組織がカルテルに対応することによって全カルテルと鉄屑業界の意思の交換が単一化される仕組み」となった(十年史203P)。
▼活動=「日本鉄屑協議会は鉄くずカルテルに関連する組織として最大のものでありカルテルが終結するまで対応組織として存在した。カルテルはその協定事項のうち毎月定める協定価格の決定に際して鉄屑業界と協議することが明示されており、この鉄屑業界の代表が日本鉄屑協議会である。従ってこの鉄屑協議会はカルテルの発足と相前後して設立され(注)中央に本部を持ち全国各地に支部を持つ組織化された機関であって、その連絡組織として再生資源回収組合や中間的組合を有している」「カルテルが価格を協定するに当って鉄屑協議会は全国組織を通じて価格動向を把握し、その動向を踏まえて価格を答申した。日本鉄屑協議会はカルテルの解散と時期を同じくして解散したが、協議会は日本鉄屑工業会に発展し業界の中心的機関となっている」(昭和46~49年度史177P)。*(注)鉄屑協議会設立はカルテル結成(55年4月)の4年後の59年6月である。「発足と相前後して」との説明は誤りである。
▼設立経緯=カルテル十年史に寄稿した石川豊吉によれば、関東のABD問協の首脳が相談を重ね、特にD問協の伊藤信司が音頭をとって中間業者団体である東京鉄屑商工業協同組合、神奈川県金属商工業協同組合及び末端業者団体である関東資源協同組合連合会の各団体に加入を呼掛け、関東ABD問協を含めて関東鉄源協議会を立ち上げ、Aカル問協の会長であった石川豊吉が同協議会長に就任。松島日本問協会長とも相談して全国各問協及び中間、末端を含めた組織として結成された。
▼カルテル終了後、日本鉄屑工業会へ発展=鉄屑工業会「十年史」によれば「問屋協会(鉄屑協議会)はカルテルの廃止で解散の方向に進んでいたが、鉄屑備蓄の組織上、全国組織が必要となってきた。そこで通産省から問屋協会を鉄屑工業会にしたらどうだという案がでてきた」。消滅するはずだった鉄屑問屋協会等は備蓄対応の供給側組織として生まれ変り、社団法人挌を獲得することとなった。
▼編者注=問題はカルテル協調の全国組織として問屋協会が生まれたのに、その直後、屋上屋を重ねるような協議会が全国組織として、なぜ結成されたのか、ということだ。石川豊吉は直前まで日本鉄屑連盟の会長。伊藤信司は鉄屑連盟結成の呼びかけ人である。その伊藤は協議会結成に当り「(直納業者だけでなく)中間業者及び資源業者を加え、日本全国の問屋から資源まで、まとまった鉄屑業界の団体にせねば」と鉄屑連盟の理事会で連盟の協議会参加を提案している(結果は否決)。このような流れや中間団体を包含する組織構成から見ても、この組織は先発の問屋協会と同様に、カルテルの存在を前提として、しかしカルテルの単なる同調者としてではなく、より積極的に中間業者の利益擁護をも目指す「新しい革袋」だった。その伊藤らの思いが、問協とは別種の組織を必要としたと編者には思われる。一方、カルテルにとっても日本鉄屑連盟の「毒(反カルテル)」を抜いた「業者利益擁護」団体=協議会の登場は、むしろ望むところだっただろう(あからさまな協調団体・御用団体=問屋協会は、対外的にはむしろ使いにくい)。ただカルテルにとっても鉄屑連盟的な色合いを残す協議会は簡単に手なずけることができる相手では無かった。問屋協会、協議会は連名で陳情を行ったが、その陳情は会長職の交代(初代は松島政太郎・69年5月死去。その後德島佐太郎会長)などから、当初の問協(協調)色から、次第に協議会(業者利益擁護)色へと微妙にニュアンスを変えた。ことにLD転炉製鋼法の普及や電炉の登場から、従来の鉄鋼会社と鉄屑業者の位置関係が変化するなか協議会は、法的なカルテル対応業者団体としての立場から、より機能的なカルテル改革を提案し、危機打開の提言・陳情を重ねたことは、特記に値するだろう。 -
日本鉄屑加工処理工業協会―設備近代化組織 64年7月、中小企業基本法の業種指定を受け近代化助成法適用対象となったため全国組織を結成し、65年11月、全国鉄屑加工処理911社の中央機関として設立された(德島佐太郎会長)。鉄屑業者の工場及び設備の近代化は税制改正(63年4月、プレス等の償却年数の短縮)とこの助成・組織化をバネに飛躍的に発展した。カルテル終了後、鉄屑協議会と共にポスト・カルテル対応として登場する予定の日本鉄屑工業会結成に向け合流した。
ポストカルテル組織
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日本スクラップ・リザーブセンター(SRC) 政府・鉄鋼業界は次回カルテルの不認可を予告された第15回カルテル申請に当り、価格安定維持の一つとして「共同ヤード」の構想を約束したことや米国鉄屑輸出規制の衝撃(73年7月~74年末)もあり、備蓄機関の設立に動いた。高炉ワーキンググループは70万㌧目標とする備蓄案を提出(73年8月)し、全国7地区25万㌧の備蓄構想が確定した(同9月)。▽この実施組織として「日本スクラップ・リザーブセンター(SRC)」が74年1月、鉄鋼81社出資のもと田部三郎社長(新日鉄専務。本社・高炉カルテル事務局内)体制で発足した。▽しかし公取は需要者(鉄鋼会社)だけで組織するSRCが鉄屑備蓄を行えば独禁法上、問題となると指摘したため、機能を停止。75年8月、事業目的、定款を変更し、還元鉄と解体船を重点とする「新鉄源開発㈱」に改組して再スタートした。▽その後、国内鉄屑と解撤船需給の変化から85年9月、新鉄源開発㈱は解散し業務は鉄屑備蓄協会が引き継いだ。
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日本鉄屑輸入組合(1974年7月~99年3月) カルテル廃止直前の1973年、米国は内外の鉄屑需給の逼迫を前に、国内保護のため鉄屑輸出許可制度を実施(73年7月~74年末)、日本の鉄鋼業界は対応に追われた。世界的な鉄屑争奪が予想されるなか「最大の鉄屑需要国である日本が需要に任せて自由に輸入を行った場合、国際間に無用の摩擦を起こす」として「『秩序ある買付け』を第一義に考える必要があり、特に輸入屑の80%を占める米国屑の輸入取引に関し、輸出入取引法7条に基づき輸入協定の締結を行う」(カルテル46~49年度史161p)こととし、鉄鋼各社はポスト・カルテル対策も兼ねて74年7月30日、共同輸入組織である日本鉄屑輸入組合を設立した。▽しかし日本の経済成長とLD転炉法導入による製鋼法の変化、円高などから輸入屑扱いは減少。99年3月、同組合は解散し業務は「(社)日本鉄源協会」が引き継いだ。
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(社)日本鉄屑備蓄協会(75年~88年8月、日本鉄源協会に改組) SRCが公取委の指摘から機能を停止したため、通産省はSRCに代わる備蓄体制整備の構築に取組み75年6月、鉄鋼各社、日本鉄屑問屋協会、日資連など需給双方結集のもと備蓄機能を持つ(社)「日本鉄屑備蓄協会」を立ち上げた。(社)日本鉄屑工業会、(社)回収鉄源利用促進協会と並ぶポスト・カルテル3団体の中心的組織だった。▽SRCの代替組織として設立されたいきさつもあり、協会理事数は独禁法の疑義を避けるため需給双方1対1で構成された。設立資金は政府5億円・メーカー5億円、鉄屑工業会1億円で工業会は理事及び供給組合として運営に参加した。▽3ヵ年30万㌧(半年5万㌧)備蓄の計画でスタートし高炉8社と在庫置場契約を行ったが、財政的な裏付けや民間資金も得られなかったことから10年後の85年までに同協会が行った鉄屑買上げ・払い下げ数量は国内8,263㌧、輸入1万2,767㌧、高炉リターン5万5,500㌧、合計7万6,530㌧に留まった。▼価格動向等をモニター=買上げ・払下げに必要な市況把握のため75年11月全国7地区・需給双方によるモニター体制を整備し、旧カルテルが行っていた「鉄屑関係資料」や価格モニターを継承した(鉄屑資料の一貫性はこれによって守られた。その後、日本鉄源協会が継承した)。▼機能失調、鉄源協会に改組=設立目的と機能が85年9月のプラザ合意を起点とする円高と国内鉄屑供給の増加で一挙に失われた。86年5月、鉄屑買上げに対し電炉側から強硬な反対論がでたため備蓄は中断。需給双方は懇談会を立ち上げ協議を重ねたが、備蓄機能は事実上86年5月で終わり88年8月から内外の鉄源・鉄スクラップ事情や同流通調査等を目的とする(社)日本鉄源協会に改組した。
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(一社)日本鉄屑工業会(現日本鉄リサイクル工業会) ホームページはこちら
(社)日本鉄屑備蓄協会、(社)回収鉄源利用促進協会と並ぶポスト・カルテル3団体の一つ、(社)日本鉄屑工業会として75年7月1日通産省の設立許可を受けて発足した鉄スクラップ業界の全国組織である。リサイクル法(91年4月)の制定後の91年7月、(社)日本鉄リサイクル工業会に呼称を変更。2012年4月、一般社団法人に移行した。▼備蓄対応が設立の発端=工業会の設立は、19年間続いた鉄屑カルテルが廃止される中、米国の鉄屑輸出規制の脅威におびえた鉄鋼、通産省がカルテル後継組織欲しさに立ち上げようとした備蓄構想(SRC)が挫折したあと、これに替わる組織(日本鉄屑備蓄協会)作りのためのパートナーとして創設された。鉄屑カルテル廃止とともに消滅するはずだった鉄屑問屋協会は備蓄対応の供給側組織として社団法人挌を獲得して新登場したわけだ。▼出資・出捐金4億円=初期資金の大半が、日本鉄屑備蓄協会、回収鉄源利用促進協会設立のための出資・出捐金として投じられた。初年度の出資・出捐は他団体である鉄屑備蓄協会への出資が1億円、回収鉄源利用促進協会設立への出捐累計が2億8千万円。工業会はポスト・カルテルの推進ロケットそのものだった。工業会だけを設立するのであれば1千万円もあれば充分と言われるなかでの巨額の負担であった。ただ創設関係者は巨額の負担を敢えて忍んでも工業会設立によって獲るところは大きいとの信念に燃えていた。▼行政と交渉できる組織=鉄屑ニュース1号(75年9月)で小澤・初代会長は、工業会はポスト・カルテル対応の「国家的要請にこたえるため鉄屑業界の総意をもって」結成され、社団法人という「社会的人格が法的に認められた」。これをバネに行政と対等に話し合える立場から工業会は①日本標準産業分類の「鉄スクラップ卸売り業」を「加工処理業」へ改める、②業界近代化達成のため中小企業近代化促進法近促法)の業種指定、③課税負担の軽減化を3本柱に行政折衝に乗り出した、と記した。行政にとっても健全な業界団体は望むところだったろう。鉄屑業を製造業とする産業分類改訂は直ちに実施され(76年5月)、「近促法」の業種指定(77年5月)、シュレッダー業者などが求めた処理設備(シュレッダー)の特別償却・課税標準の特例も間髪を容れず認められた。業界の今日に至る制度的な基盤はこの時、大きく固まったと評価できる。▼資源リサイクル法と工業会活動=産構審は「廃自動車処理・再資源化小委員会」を自動車リサイクル法の制定を前提に「自動車リサイクル小委員会」に改めた(2000年9月)。工業会からは専務理事が委員として参加し、工業会内部にも会長直轄の産構審特別委員会を設置した。同年11月、自動車リサイクル法の実務的な受け皿・事業機関として自動車リサイクル促進センターが設立され、工業会も発起人に名を連ね理事、評議員を派遣した。各種リサイクル法は製造者に最終処理責任(拡大生産者責任)を求める。法は委託を認めるから各地で地力を養ってきた鉄スクラップ業者が家電メーカーや自動車メーカーの委託を受け、処理実務を行う実務パートナーとして新たなビジネスの地平を拡大した。 -
(社)回収鉄源利用促進協会(1975年6月~2004年10月) 鉄屑供給基盤の近代化と資源の有効利用を促進するため加工処理設備近代化資金の債務保証や処理設備の近代化調査その他を行うことも目的に75年6月6日設立された。(社)日本鉄屑備蓄協会、(社)日本鉄屑工業会と並ぶポスト・カルテル3団体の一つだった。▼沿革=設立出捐金は75年から78年の3年間で政府3億5千万円、民間3億7,300万円強(工業会出捐が75%2億8千万円)、計7億2千万円強。これを原資にその10倍の72億円の債務保証が可能となった。▽出資比率でも分かるとおり鉄源利用促進協会の設立に最大の期待を込めていたのは卸売業から製造業への脱皮を模索していた工業会メンバーだった(それが「産業分類」改訂への動きであり、「近促法」の業種指定への動きだった)。▽協会資料(「10年の歩み」)によれば鉄屑業者が「機械設備の購入資金を金融機関から借入れる場合、金融機関に対しその債務を保証し資金調達の円滑化」を図ることを目指す。裏返せば鉄屑業者は「金融機関から借入れる場合、金融機関に対し債務を保証」する制度が無ければ「資金調達の円滑化」は困難だったという当時の事情が浮かび上がってくる。▽設立以来10年間で延べ88件30億円の債務保証を実施。シュレッダーダストの有効利用調査、鉄屑加工処理業の動態調査などを通じて鉄屑供給基盤の近代化を果たした。▼99年3月解散決議(04年10月清算・消滅)=リサイクル業者の経済的基盤や信用が整うにつれ促進協会の「債務保証」制度の役割は薄れた。協会は99年3月解散を決議。債務保証業務の整理のため存続したが2004年2月、残余資金の帰属先を日本鉄源協会と決め、10月7日に清算完了総会を開催し、消滅した。
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全国小形棒鋼工業組合(77年8月~91年4月) 第一次石油危機(1974~75年)による不況対策として、中小企業団体の組織に関する法律(中団法)に基づき登場した電炉会社の組織である。電炉の余剰設備対策として「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)が制定(78年)され、390万㌧の設備廃棄が実行された。また過剰生産の防止対策を進める必要から中団法に基づき、77年8月全国小形棒鋼工業組合(小棒組合)として認可された生産者組織である。▽中団法による組合であるから大臣認可により不況カルテル、合理化カルテルなどの調整事業等が行える。また員外者に対し小棒組合への強制加入、事業活動規制、設備制限などの大臣命令が発動できる(アウト規制)。その意味ではアウト対策に苦しんだ鉄屑カルテルなどより外部統制力は強い。▽政府は平電炉業界に200億円の緊急融資を行った。小棒組合が平電炉会社から買い上げたビレットを担保に商工中金が融資する(77年11月)。この小棒組合が買上げた小棒は、高島浩一・小棒組合理事長の発案によりアジア・アフリカ諸国向け無償援助物資として政府が買い上げた(78年から12年間、総計45万2千㌧の小棒が無償援助物資となった)。▼小棒組合の鉄屑「共同購買」と工業会の反発=小形棒鋼の共同販売組合である小棒組合は78年5月定款を変更し「鉄くずの共同購買及び共同保管」の文言を挿入した。これに危機感を強めた鉄屑工業会は直ちに反対運動を決議し78年9月、小棒組合(高島理事長)と工業会(小澤会長)が会談を開き、共同行為の不実施と同条項削除に合意した(10月)。▼解散=土地・株式相場バブルから小棒不況対策の必要が消えた91年4月、解散した。
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(一社)日本鉄源協会(1988年8月~。ポストカルテル組織の受皿)ホームページはこちら
(社)日本鉄屑備蓄協会は88年8月9日付けで、組織と目的を全面的に変更して(社)日本鉄源協会として新発足した(2012年4月、一般社団法人に移行)。この改組により同協会は鉄屑備蓄は行わず、①鉄屑に関する情報の収集と調査研究、②鉄屑の需給の安定確保、③鉄屑の品質改善・処理技術の開発等を主目的とする情報収集・分析組織に生まれ変わった。構成は需給双方で構成された旧組織を受け継ぎ、メーカー側50名、供給側50名(うち鉄リサイクル工業会30名、日資連20名)。▼ポスト・カルテル組織の受け皿=日本鉄源協会はポスト・カルテル対応組織として設立され、その後、歴史的な使命を終えたとして解散した各種のポストカルテル組織の最終受け皿となった。即ち新鉄源開発㈱(85年9月解散)、日本鉄屑輸入組合(99年3月解散)、回収鉄源利用促進協会(99年3月解散決議、04年清算完了)などの残存業務を同協会が継承した。ポスト・カルテルとして設立された鉄屑関連組織は14年現在、同会と日本鉄リサイクル工業会を残すだけである。
資源業者関係
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東京都資源回収事業協同組合(東資協) ホームページはこちら
資源業者組織である日本再生資源事業協同組合連合会(日資連)の中核的組織である。この東京都資源回収事業協同組合の結成は、敗戦直後の衣料品不足対策を契機とする、とされる。商工省は1948年頃、ガラ紡の原料として故繊維の全国特別回収を計画していた。その実施は、戦中の流れをくむ旧資源統制団体ではなく、戦後生まれの新組織が担うべきとして、東京の全建場(たてば)業者を結集して48年11月2日千代田区丸の内の保険協会講堂で創設総会を開催、誕生したものだ。▽戦前の資源業者組織としては、警視庁の屑物営業取締規則の改正を契機に33年発足した東京古物屑物問屋商業組合がある。これは商業組合法施行(32年10月)後、全国で8番目、東京では2番目の設立であった。東京の資源業者には、公認の許可業者である「町建場」と非公認の「バタ建場」の二種があり、両者はしばしば対立・反目した。バタ建場を代表するのが、約百軒の仕切業者と約四千人の拾集人で結成された「和合会」。同会は後に足立地区の拾集建場のほとんどを包含する「城北屑物組合」の中核となった。足立区外の業者は「愛国廃品回収組合」を結成。このバタ建場両組合と町建場の東京古物屑物問屋商業組合とが鼎立した。「廃品回収業者は東京古物屑物問屋商業組合の解散後、四散」したが、東京が灰燼に帰した戦後の48年10月「現下の困難な諸条件を克服、打開」するため「大同団結」を果たした(設立趣意書、東資協二十年史66p)。▽初代理事長が那須野定平(48年11月~49年)、二代前田勝(49年11月~53年)、三代鹿島外吉(53年11月~55年)、四代松沢辰次郎(55年5月~57年4月)。鉄鋼がカルテルに動き出した53年以降、前田、鹿島ら理事長が東資協を率い、反カルテル運動に参加した。▼東資協二十年史(1970年刊行)=組合員が自らの手で仕上げた。「苦々しい記憶であっても、事実は事実として記述する」との編集方針が、後世に貴重な証言・資料の宝を残した。 -
日本再生資源組合連合会(1951年~72年・旧日資連) 1951年(昭和26)、再生資源組合を束ねる任意団体として設立された。72年の第21回全国大会を最後に、日本再生資源事業協同組合連合会(新・日資連)として再発足した。新日資連は創立40年記念誌の発刊(2012年)に当り旧日資連の初期資料を捜索したが創立総会、第2回全国大会は発見できず「第21回大会資料が手に入った」だけで、初期の活動詳細は不明とされる。▽資源業者の活動を記録した文書として「東資協二十年史」(70年発刊)がある。同書の「東京都古物屑物問屋商業組合」活動紹介のなかに「1939年、第五代理事長に高橋勝作氏が就任した。氏はその後、日本廃品回収組合連合会理事長を兼務。現在の「日資連」の前身である」とあるから、戦前の日本廃品回収組合連合会が戦後、日資連として衣替えした可能性が高い。なかでも注目すべきが、改正刑法案に対する日資連の運動である(▼改正刑法案に総決起(65年3月)。戦後・現代用語・用例の項参照)。この全国運動を契機に「親睦団体の域をでなかった日資連が利益共同体としての、また業者としての連帯感の自覚を高めた」(東資協二十年史275p)とされる。▼カルテルと協議=資源回収団体(東京都資源回収事業協同組合)は鉄屑カルテル対応の全国組織(日本鉄屑連盟)から脱退(54年)したため、カルテル結成後は価格協議の場に呼ばれていなかった。ただ第13回カルテルの認可(68年9月)に当って公取は口頭で、購入価格を決めるときは鉄屑業者の意見を十分に聴取すること、比較的小規模業者で組織する(旧)日資連にも発言の機会もしくは場を与えるよう配慮することと伝えた。カルテルも意見聴取を行うとともに行政も「各期に1回程度通産省が主催してカルテル、問屋協会、(旧)日資連をメンバーとする鉄屑懇談会を設置(68年11月、第1回開催)した(鉄屑カルテル43~45年度史13p)。
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日本再生資源事業協同組合連合会(1973年~・新生日資連) ホームページはこちら
設立は1973年(昭和48)7月11日。東京通商産業局を原局として法人格を取得。その後の2008年(平成20)12月10日、経産省・産業技術環境局リサイクル推進課を原局とする全国組織団体に認可された(HP)。▼新生日資連として=74年9月末に終了したカルテル後継組織として設立された日本鉄屑備蓄協会、回収鉄源利用促進協会の設立に(新生)日資連も供給者組織として参加。供給側役員として運営に連なっている。▼再生事業者登録=91年改正廃棄物処理法は廃棄物再生事業者登録を新設し、国は「一般廃棄物中の資源物を取り扱う事業者が広域自治体区内ごとに一致結束した協同組合」を登録、認定した。「この時点で初めて、再生資源業界と市町村行政との関係性が確立」した。(日資連四十年の記録12p)。▼日資連のデモ活動=バブル崩壊後、大量の鉄スクラップが放出され、市中価格は暴落した。日資連は「丸棒価格が六万円で、なぜ鉄スクラップは五千円なのか」とのスローガンのもと、東京・読売ホールで危機突破全国大集会を開催し経団連まで街頭デモを行い、鉄鋼連盟、普電工に要望書を提出(91年11月)。▼リサイクル化証明書=再生資源業者は逆有償や低価格に喘いだ。その対策として99年11月、日資連独自に「リサイクル化証明書」の運用を開始(04年様式改訂)。さらに06年4月から回収物品の適正処理(法令遵守・追跡可能性の追求)を日資連として組込んだ「再生資源回収事業者認定制度」を立ち上げた。
鉄スクラップ輸出関連団体
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関東月曜会 関東地区でヤードを2カ所以上持ち経営実務の第一線にいて、月曜日に会合に出席できる10社(ヤマナカ、中田屋、高関、黒田興業、東金属、岩本興産、塩貝鉄鋼、関東シュレッダー、富士商会、鈴徳)が1983年8月結成した。当初会長を塩貝博(塩貝鉄鋼社長)がつとめ84年1月から鈴木孝雄(鈴徳・常務)が引継いだ。▽「慢性的な不況のもとマクロ的には業界の経営近代化を進め将来ビジョンを策定する。ミクロ的には過当競争の是正とコスト意識の確立を目指す」との方針のもと84年1月23日、神田・如水会館で記者会見を開き、10社提出資料に基づく「鉄屑加工処理コスト」を開示し適正コストの確保に向け新たな方向を示した(月間3,000㌧扱い、500㌧ギロチンでトン当りコスト4,896円)。(日刊市况通信社84年1月26日)。▽その月曜会が鉄屑の余剰化が見え始めた88年、「月曜会はいずれ訪れるであろう鉄屑輸出を想定しその対応を模索すべく韓国、台湾、トルコなどの鉄屑輸入国の市場調査を検討してきたが、その一環としてまず隣国で急成長目覚ましい韓国を訪問することとした」として訪韓記事を鉄屑工業会の会報紙・鉄屑ニュース(№73)に掲載し、鉄屑輸出の可能性を広く会員に訴え、業者主導による鉄屑共同輸出の先触れをつとめた。日本の鉄屑流通はこれを契機に、新たな時代に入った。
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関東鉄源協議会(1990年3月~2001年9月) 関東月曜会設立の後を追って、湘南、京浜、京葉、埼京の4地区協議会が誕生した。月曜会と4地区協議会は1990年3月、67社80数カ所の事業所が参画し「関東地区の鉄スクラップ全体の6~7割をカバーする」関東鉄源協議会(鈴木孝雄会長・鈴徳社長)を結成。4ブロックから委員を出し一体運営。労働時間の短縮や機械の稼働状況のアンケート調査、それを基礎にシュレッダー、ギロチン、プレス機の損益分岐調査、「適正利益モデル計算例」などを発表した。協議会は96年4月、鉄屑輸出を定着させるため共同入札方式を採用し、月1回の定期入札に踏み切った。これが関西鉄源協議会など各地域の共同輸出のモデルになった。
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関東鉄源協同組合 ホームページはこちら
鉄屑の輸出増加に伴い、商品責任を明確にするため、関東鉄源協議会は任意団体から輸出機能に焦点を絞った法的な組織として2001年9月、関東鉄源協同組合に全面的に改組した。「協議会の共同輸出は10万㌧(2000年)に達し01年は20万㌧超が予想される。従来の任意団体ではマーケットクレームや放射線物混入が出た場合、対応上問題が生じる。法人化することで責任が取れる組織とし、需給と市況の安定を図る」(設立趣旨説明)。11年3月11日、東日本を襲った大震災と津波で東京電力・福島原子力発電所が爆発。放射能汚染が拡大するなかで、同協組の汚染対策は鉄リサイクル工業会・本部の迅速な対応行動と相俟って日本発の鉄スクラップ放射能汚染の「風評被害」防止に大きく貢献した。 -
関西鉄源協議会 関東の鉄源協議会設立に刺激され1990年4月、「協議会」方式の任意団体として黒川友二・扶和メタル社長を代表幹事に発足した(発足当初名は「ヤードディーラー協議会」)。混入ダストの定率引きや週休2日制の定着、コスト計算など経営課題を中心に取上げたが、バブル崩壊後の市況急落のなかで「逆有償」のパンフレットを協議会名で作成・配布(91年)し、道交法改正に当たっては積載アンケートを行う(93~94年)など積極的な対外広報・内部情報の共有に努めた。鉄屑需給の失調後はトライアル輸出(96年)を皮切りに、大阪地区からの共同輸出を定期的に開始した。▽その後の07年、大阪・兵庫だけではなく近隣の京都、和歌山など他地域を加え、より広域な「関西鉄源連合会」に改称、拡大した。
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大阪府金属リサイクル工業協同組合 ホームページはこちら
1974年、営利活動が法的に可能な大阪府鉄屑加工処理工業協同組合として発足し、2002年に現在名に改めた。01年7月、同年11月から協同組合として共同輸出入札を実施している。
使用済み自動車・部品回収関連団体
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八幡自動車処理事業協同組合 「自動車解体処理に伴う公害発生は解体業者と自動車関係企業全体の社会的責任である」との視点から、自動車解体のメッカ八幡在住業者を中心に76年9月結成された。▼結成のいきさつ=京都府八幡地区の自動車解体業は「土方と種々の資源くず回収など日々の不安定な仕事に追われていた(被差別部落の)人々が生業として始めた」のを起点とする。開業の早いグループは60年代前半。大方が70年代までには出揃い、「約70の業者が(自動車解体関連業に)携わり、年間数万台に及ぶ全国屈指の廃自動車の集積地(メッカ)」(自動車解体共和会)となった。そこから廃車や廃タイヤの野焼き、処理途中の油漏れが毎日のように続き、生活環境に敏感な新住民との対立・騒動が当時の社会問題となった。これを部落解放同盟京都府連合会六区支部の責任者は、廃車解体業者の不始末とだけには終わらせず、むしろ社会・経済の枠組み全体の中で、広く関係者が参集し、共に解決すべき課題だと提起した。その視点から「自動車解体処理に伴う公害発生は解体業者と自動車関係企業全体の社会的責任である」と訴え、その解体業者側の行動主体として八幡自動車処理事業協同組合(以下、組合)を創設した(76年9月)。▼活動の広がり=自動車関連側にも働きかけ、京都府・大阪府の自販連、整備振興会、中古自動車販売協会と共同で「八幡自動車解体公害防止協議会」(公防協)を結成した(76年11月、80年5月には奈良県、滋賀県も参加)。行政側でも大阪通商産業局・大阪陸運局・京都府・八幡市が「行政連絡会」(77年9月)を立ち上げた(その後、京都地方法務局・京都労働基準局も参加)。この公防協の活動を通じて国や製造メーカー団体である自動車工業会(自工会)に働きかけ79年(昭和54)、2億8千万円(国・京都府・八幡市のほか「自工会及び自動車タイヤ協会も6千万円拠出」)の炉体費用を要するタイヤ焼却炉(八幡市立環境保全センター)を建設した。2000年以降、老朽化から稼働を停止していた焼却炉は06年8月撤去。公防協も08年9月解散した。▼編者注=公害防止協議会と行政連絡会が企業の社会的責任を問い始めたのは京都市でユーザーと生産者に一定の責任を問う空き缶条例が制定(80年8月)された80年後半からである。議論は製造メーカーである自動車工業会を巻き込む形で進み、「自動車関連業界の団体及び企業は、自動車解体に伴う公害問題について作る立場・売る立場・整備する立場から各々係わりがあり責任があるとの認識を持ち、公害防止についても積極的に取り組むこと」。「行政連絡会は同和問題に係る企業の社会的責任に適切な指導を行う」(81年3月)と決議した。シュレダーダストの不法投棄問題が表面化するのが90年代以降。製造者にも処理責任を問う自動車リサイクル法が制定されるのは24年後の2005年。その後の各種リサイクル法の基本理念である「拡大生産者責任」を先取りする実際行動は、歴史的にも注目に値する。
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(一社)日本ELVリサイクル機構 ホームページはこちら
自動車解体・部品回収業者が自動車リサイクル法に合せ、中央省庁の協力のもと設立した各地区団体加盟の全国組織である。2000年5月に設立された自動車解体業者の任意団体である日本ELVリサイクル推進協議会(代表理事・酒井清行)と日本自動車リサイクル部品協議会(JAPRA)が2005年1月からの自動車リサイクル法の完全施行に合わせ05年6月16日、中間有限責任法人(現一社)に改組した。 -
(一社)JAPRA(日本自動車リサイクル部品協議会) ホームページはこちら
リサイクル部品流通を業とする業者団体が1995年11月に結成(2010年11月任意団体から一般社団法人に改組)した。加盟団体は、(株)ビッグウェーブ、(一社)部友会、(株)JARA、NGP日本自動車リサイクル事業協同組合、テクルスネットワーク、(株)システムオートパーツ、シーライオンズクラブ、日本パーツ協会、リビルト工業会全国連合会、自動車補修部品研究会、(一社)ARN。
その他の有力団体
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(一社)日本鉄鋼連盟(製鉄・製鋼メーカー団体) ホームページはこちら
戦時鉄鋼統制会の解散後、鉄鋼業の総合的な調査研究機関として設立された民間団体。戦後の48年11月、日本鉄鋼会と日本鉄鋼業経営者連盟を統合し、日本鉄鋼連盟として発足した。2001年11月、鋼材懇話会・銑鉄懇話会の流れを組む鋼材倶楽部(1947年設立、01年3月亜鉛鉄板会と統合)と日本鉄鋼輸出組合(53年設立、01年4月日本亜鉛鉄板輸出組合と統合)を加えた3団体を統合し、新生・日本鉄鋼連盟として再発足した鉄鋼会社の全国組織。鉄鋼会社と鉄鋼流通商社を構成員とする。 -
(一社)日本鋳鍛鋼会 ホームページはこちら
1947年創立。事業内容は、鋳鋼・鍛鋼業に関する内外市場・需給調査、各種セミナーの開催、内外メーカーおよび需要産業に関する各種情報の提供、内外統計資料の提供、海外調査活動、鋳鋼・鍛鋼技術委員会の開催など。 -
普通鋼電炉工業会 ホームページはこちら
1964年11月、通産大臣は「開放経済体制下におけるわが国重工業の将来はいかにあるべきか」との諮問を行い、産構審・重工業部会・鉄鋼基本問題小委員会は66年11月、「今後の鉄鋼業のあり方について」との中間答申を行った。平電炉メーカー対策として「現行の鉄屑カルテルを強化するとともに地域別・品種別の協調の場を設けること等」が指摘された。その答申に基づいて67年1月産構審は下部機構として平電炉小委員会を設置。この動きに沿う形で平電炉各社も66年11月18日、平電炉普通鋼協議会(参加66社)を設立した。▼78年5月名称を変更=日本で最後まで平炉を操業した東京製鉄が平炉を廃棄(77年12月)したことから、78年5月「普通鋼電炉工業会」に名称を変更し、現在に至っている。 -
(一社)日本鋳造協会 ホームページはこちら
2005年7月、日本鋳物工業会、日本強靱鋳鉄協会、日本鋳造技術協会が合併し、09年には日本非鉄金属鋳物協会を吸収統合。14年5月、日本鋳造機械工業会と統合した。鋳造事業者に加え機械設備や原材料鋳造関連業界が大同団結する中核団体。 -
(独法)石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC) ホームページはこちら
1963年制定の「金属鉱物探鉱融資事業団法」により「金属鉱産物の優良資源の確保を図り、金属鉱業の国際競争力の強化に資するため金属鉱物の探鉱に必要な資金の貸付けを行なうことを目的」(第1条)に設置された(73年「金属鉱業事業団」に変更)。2004年「独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)」に組織変更した。 -
(独法)日本貿易振興機構(JETRO ジェトロ) ホームページはこちら
2003年10月、日本貿易振興機構法に基づき、日本貿易振興会を引き継いで設立された。▽目的及び業務=中小企業等の海外販路開拓支援。日本企業の海外展開支援。海外経済情報の調査・分析。貿易投資相談。外国企業誘致。開発途上国支援。経済連携協定(EPA)に基づく活動。開発途上国研究などを行う。 -
スチール缶リサイクル協会 ホームページはこちら
1995年12月施行の容器包装リサイクル法に備え使用済みスチール缶の再利用の推進を目的とする任意団体。前身は1973年設立の「あき缶処理対策協会」。▽主な活動は電炉や高炉会社の空き缶再利用状況の調査。スチール缶リサイクル年次レポート発行(94年以降毎年)など。2001年4月スチール缶リサイクル協会に名称を変更。 -
アルミ缶リサイクル協会 ホームページはこちら
1973年(昭和48)オール・アルミニウム缶回収協会として設立。89年アルミ缶リサイクル協会に改称した。 -
(公財)自動車リサイクル促進センター ホームページはこちら
設立2000年。自動車リサイクル法の適正処理の確認組織として、自動車リサイクル及び適正処理の促進に関する①自動車リサイクル法に基づく再資源化等業務、②同法に基づく情報管理業務、③同システムの運営・管理、④二輪車リサイクルシステムの運営など全般業務を行う。 -
(一社)自動車再資源化協力機構<略称:自再協> ホームページはこちら
自動車リサイクル法により、国内自動車メーカーならびに自動車輸入業者は、ASRなど指定3品目の引取・再資源化(適正処理)が義務付けられた。2004年1月に設立した。▽自再協は自動車会社12社及び自動車輸入組合から委託を受け「実際にフロン回収作業、エアバッグ類解体作業を行う回収/解体事業者の窓口」として、適正作業方法や作業代金の支払い等の業務を行っている。 -
(一財)家電製品協会(家電リサイクル対応組織) ホームページはこちら
沿革=1973年家電製品協議会発足。74年(財)家電製品等再資源化促進協会発足。80年家電製品等再資源化促進協会に家電製品協議会を吸収し(財)家電製品協会となる。2000年通産大臣及び厚生大臣より家電リサイクル法に基づく指定法人に指定。01年家電リサイクル券センター設置。指定法人業務センター設置。12年一般財団法人家電製品協会となる。 -
(公社)全国解体工事業団体連合会(全解工連) ホームページはこちら
1993年設立。会員数=正会員:41団体(傘下企業数約1,600社)。 -
(公社)全国産業資源循環連合会 ホームページはこちら
全国産業廃棄物連合会として1978年創立。85年公益社団法人化。2001年からは環境大臣の所管。18年4月全国産業資源循環連合会に名称を改めた。
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