戦後~現代用語・用例事典
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戦後~現代用語
財閥解体指令と鉄鋼会社
物価統制令(戦後統制)と鉄くず
戦時賠償問題(45~46年)
石炭と鉄鋼の集中的傾斜生産
鉄鋼補給金制度
47年7月体系と鉄鋼業救済
過度経済力集中排除法(集排法)
戦時賠償は全面破棄(47~49年)
鉄屑資源調査
古物営業法と鉄くず
東南アジア鉄屑調査と輸入屑
AA屑
ドッジ・ラインと鉄鋼業廃止論
朝鮮戦争と鉄鋼、鉄屑価格
日本製鉄解体(1950年)
川崎製鉄の高炉進出(ペンペン草論争)
関西平炉3社と高炉
高熱超重筋労働(鉄鋼業)
金属類営業条例
鉄屑カルテルと鉄屑業者(55年4月)
スエズ動乱(56年)米国鉄屑禁輸
鉄鋼需給安定法案(56年~57年3月)
鉄屑使節団の派遣(57年2月・訪米)
180万トンの輸入米屑と国際信義(57年)
180万トンの輸入米屑と日本鉄屑連盟(57年7月~8月)
180万トンの輸入米屑の衝撃―カルテル協定価格の底割れが常態化
大阪砲兵工廠跡地とアパッチ騒動(58年10月)
LD転炉導入と新高炉体制
関西平炉、構内高炉建設
尼崎製鉄と神鋼の高炉参入
小倉製鋼と住金の高炉参入
大阪製鋼と高石義男
日新製鋼と高炉とその後
鉄鋼合理化計画
LD転炉と第三次鉄鋼合理化
平炉生産の衰退
商社の時代
鉄屑(輸入)専用船
商社ヤードとシュレッダー機
改正刑法案に資源業者らが総決起(65年3月)
65年不況(鉄鋼乱世)
住金事件―日向、稲山、永野の思惑
鉄鋼大合同構想(66年8月)
大谷重工破綻(68年)
新日本製鐵誕生(70年3月)
「鉄鋼公開販売制」の運用停止と新日鉄の誕生
ニクソン・ショック(71年8月)
列島改造論と土地投機と鉄屑暴騰(72年)
粗鋼生産77年度1億5千万トン予測
米国、鉄屑輸出規制(73年7月~74年末)
秩序ある輸入屑買い付け(73年9月)
石油危機・第1次(73年10月)
安宅ショック(75年12月)
安宅ショック・その後(商社の時代の終わりの始まり)
特定不況産業安定臨時措置法(特安法・78年)
船舶解撤事業促進協会(78年12月)
石油危機・第2次(79年1月)
東鉄・鉄スクラップ旋風(79年11月)
H形戦争・第1次(82年8月)
特定産業構造改善措置法(産構法・83年6月)
H形戦争・第2次(84年5月)
プラザ合意(85年9月)と鉄屑
バブル経済(86年11月~91年2月)
バブル経済・崩壊
平成不況(91年5月~02年1月 失われた10年)
平成不況とは何か
日産・ゴーンショック(2000年)
JFEが登場、鉄鋼は2大グループへ
鉄鋼の選択と集中(1993~2002年)
鉄スクラップ先物取引(05年~09年)
京都議定書と鉄スクラップ
アルセロール・ミタル社(06年)が登場
日本高炉の対ミタル対策
05年耐震偽装事件と改正建築基準法
資源バブルとBRICs
サブプライムローン問題(07年8月)と資源バブル(07年~08年7月)
リーマン・ショック(08年9月)
ソブリンリスクと世界経済(10~13年)
東日本大震災と放射能汚染と鉄スクラップ(11年3月)
失われた20年(1992~2012年)
ジャスミン革命と「イスラム国」(11年~19年)
新日鉄と住金が合併、鉄鋼再編も加速(12年)
鉄鋼2系統体制と業者(「合従連衡」「異業種提携」)
金属類営業条例の復活(13年)
アベノミクスと黒田ショック(13年)
ゼロ金利政策と出口戦略(14年)
中国の生産過剰と貿易摩擦問題(16~18年)
英国のEU離脱と難民問題(16年)
「雑品」もしくは有害使用済機器と国際規制(18年)
トランプ大統領と世界経済(17~20年)
パンデミックと世界経済(20年~)
逆オイルショックと世界経済(20年)
戦後~現代用語
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財閥解体指令と鉄鋼会社 ポツダム宣言に従い、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が指令した戦後の経済民主化の第1弾が財閥解体指令である(1945年11月)。解体指令は当初、三井・三菱・住友・安田の持株4大財閥を標的としたが、財閥系だけでなく持株会社(注)すべてに拡大し、持株会社整理のため46年4月、持株会社整理委員会が設置された。▽鉄鋼会社も日鉄、川崎重工、神鋼、鋼管、扶桑(45年11月財閥解体指令より住金から社名変更)の5社が分割・整理の対象となり、5社は常時、委員会の監督下に置かれた。▽財閥解体遂行のため財閥系子会社は「制限会社令」(45年11月)の指定を受けた。制限会社は「常務の執行を除いて」資産の制限を受けGHQの許可を必要とした。鉄鋼では前記5社のほか尼崎製鉄(鐘紡系)、小倉製鋼(浅野系)、日本製鋼(三井系)、日本特殊鋼管(日鉄系)、野村製鋼(野村系)、三菱製鋼の6社。計11社が制限会社の指定を受けた。*(注)Holding company(ホールディング・カンパニー)。戦前の日本の財閥は株式保有を通じて多数の企業を支配したことからGHQが整理を命じ、独禁法はこれを禁じた(47年)。その後、橋本行革内閣のビッグバン政策(1997年)により50年ぶりに解禁された。
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物価統制令(戦後統制)と鉄くず リサイクル関連法制の項参照
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戦時賠償問題(45~46年) リサイクル関連法制の項参照
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石炭と鉄鋼の集中的傾斜生産 敗戦後の経済機能マヒと激烈なインフレの打開策として(外貨不足と石油輸入途絶のなか)国内自給が可能なエネルギー源である石炭の「集中的傾斜生産」にいっさいの施策を集中した非常時経済政策。石炭の増産には炭鉱構内を補強する鉄鋼の増産が必要であり、鉄鋼の増産には何よりも石炭が必要である。東大教授有沢広巳が唱え(1946年12月)、戦後最強の経済官庁とされた経済安定本部(安本)が中核となって実施した。この鉄源確保の要請から、鉄屑配給統制が復活し(47年1月・注)、鉄鋼「補給金制度」が創設された。
*(注)戦後・鉄屑配給統制=戦前とは違い、一般市中屑は対象とせず国費を投じて処理する兵器・艦艇・沈没商船(兵、艦、商)の3物件の配給統制にとどめた。 -
鉄鋼補給金制度 戦後の緊急物価対策として1947年7月、国庫一般会計の補給金を柱とする価格差補給金制度(7月体系)が打ち出され、この「補給金」の大半は、戦後のインフレに取り残された鉄鋼会社に投じられた。この給付金創設により鉄鋼業界は戦後の不需要期をからくも乗り切った。補給金支出は47年度の一般会計歳出総額の21%。48年度は24%。うち鉄鋼向けだけで補給金総額のほぼ4割を占めた(昭和経済史・下)。
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47年7月体系と鉄鋼業救済 「7月体系」とは、日本経済がほぼ正常だったと認められる戦前(1934~36年)の65倍(48年7月、110倍に改定)を限界として決められた「新物価体系」である。「戦前のピークとされた34~36年の基準年次価格の65倍を目標に、原価主義によって生産者価格と需要(消費)者価格の2本建価格を決定し、その差額を国の一般会計より価格差補給金として支出することで鉄鋼の生産費を補償」したもので、「戦後の復興期、特に鉄鋼業の再建に大きな意義をもった」(戦後鉄鋼史)とされる。▽補給金は生産者価格を形成する石炭、鉱石、運賃の取扱い手数料にも及んだ。1948年7月を例にとると丸棒需要者価格は10,120円、この生産者価格21,300円との格差が補給金で賄われ、生産者価格と鉄鉱石、原料炭、銑鉄などを加えた裸生産者価格(42,350円)との格差も補給金で運営された。結局、丸棒需要者価格(10,120円)は裸生産者価格から起算すると合計32,185円の補助金に支えられた(戦後鉄鋼史39~40p)。価格調整は47年6月設立の価格調整公団が一元的に行った。この政策と体系によって、鉄鋼業は戦後の困難期を生き延びた。
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過度経済力集中排除法(集排法) 日本的トラスト(企業合同)の排除を目指して、GHQの提示に基づき1947年12月に制定され、48年2月325社が指定された。
▽鉄鋼業では日鉄、鋼管、扶桑、川重、神鋼の5社のほか小倉製鋼、中山製鋼、日本製鋼、大同製鋼、三菱製鋼、日亜製鋼、大谷重工、東京製鉄の計13社が指定を受けた。▽ただ東西冷戦による対日占領政策の見直しから戦時賠償計画の破棄(49年5月)と同様に、集排法も「懲罰主義を脱却し日本を自立せしめる」との方針のもとに大幅緩和された。 -
戦時賠償は全面破棄(47~49年) 米陸軍長官は1948年1月、日本を共産主義の防壁とするため非軍事・賠償・集中排除などの諸政策を転換しなければならないと演説。占領政策の大転換が始まった。鉄鋼に関しては当初、懲罰的賠償を求めた(ポーレー中間案)。しかしこれは厳しすぎるとして47年ストライク使節団を派遣。東西冷戦から占領政策が「転換」された48年3月、「日本を強力な工業国にする方が経済的失調を続けるより危険が少ない」との緩和案が出された。▽5月、ジョンストン報告はこの方針を進め、翌49年5月、FECは中間賠償取立ての停止を声明。戦時賠償計画を破棄した。この戦時賠償計画の破棄により、輸入原料の導入と共に鋼管・川崎5号高炉、釜石10号高炉、八幡洞岡1号高炉が48年4月以降、火入れし、鉄鋼の戦後操業が本格化した。
▼賠償計画の変遷(鉄鋼)=ポーレー中間案(45年12月)=年産250万トンを超える全鉄鋼加工能力を撤去。▽FEC中間案(46年5月~12月)=銑鉄200万トン、鋼塊350万トンの超過分。▽ポーレー最終案(46年11月)=銑鉄50万トン、鋼塊225万トン、鋼材150万トンの超過分。▽米陸海国務3省調整委案(46年2月)=銑鉄200万トン、鋼塊350万トン、鋼材265万トンの超過分。▽ストライク案(48年3月)=しかし日本から有効な生産設備を撤去すれば①世界生産を阻害し、②日本の自立の可能性を阻害し、③米国市民に多額の税金を強い、④賠償有権国家の利益にもならない。▽ジョンストン案(48年5月)=ストライク案通りとする。 -
鉄屑資源調査 戦後の日本の鉄屑総量把握のため、商工省鉄鋼局に鉄屑回収課を新設し、鉄屑資源調査規則(1948年8月)のもと、鉄屑業者を動員した鉄屑全国一斉調査である。
▼第1回(48年)=鉄屑保有量を327万トン(鉄屑241万、屑化物件86万)と集計した。しかしGHQは納得せず本国より鉄屑専門3名を呼び寄せ、49年1月から1カ月をかけ主要地域を視察させ、調査団は700万トンと推計する報告書を商務省に提出した(49年4月)。調査が日米で2倍以上も食い違ったのは、鉄屑・屑化物件のとらえ方の違いにあったとされる。同じ戦災建物でも被災が中破以上であれば米側は全量を屑化物件と見たが、日本側は曲りくねった部分だけを屑とし、(米国側が屑とした)各種仕掛け品、鋼塊を日本側は活用可能と判断した。▼第2回(50年)=朝鮮戦争勃発(50年6月)後の鉄屑対策のため日本鉄鋼連盟は「鉄屑確保対策委員会」を設置。専門委員会は①国内鉄屑の在庫量調査、②東南アジア各国への戦時鉄屑調査団の派遣、③鉄屑統制価格の廃止、④南方水域の戦時沈船の調査、⑤鉄屑規格の改正等を提言。これに基づいて51年2月再び大々的な全国鉄屑調査(第2次)が行われた。48年全国一斉調査がGHQ指令による賠償供出を前提とした「保全調査」だったのに対し51年(第2次)一斉調査は政府、業界を挙げ戦後復興に向けての「資産調査」の色合いを帯びた。報告数量155.7万トン、補正量は183.6万トン。屑化物件42.3万トン、補正量が61.5万トン。鉄屑・屑化物件合わせた補正総量は245.1万トンと集計された。 -
古物営業法と鉄くず 49年制定の古物営業法は「金属原材料、被覆いのない古銅線類」は、「廃品であって古物ではない」として、同法の取締りの対象外とした(リサイクル関連法制の項参照)。
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東南アジア鉄屑調査と輸入屑 政府は朝鮮戦争勃発(1950年6月)後の鉄屑対策のため、国内の鉄屑資源調査(51年2月)と並行してGHQの承認を得て、東南アジア各国の沈船・鉄屑調査を行った。▽51年から官民合同の調査団を3班にわけ派遣(A班=琉球。B班=インド、パキスタン、ビルマ、タイ。C班=インドネシア)。八幡、富士、川鉄3社も共同して51年7月、ベトナムに沈船調査団を送った。サイゴン港やカムラン湾などの沈船をフランス系商社が鉄屑として売り込んできたのはこの調査がきっかけである(鉄屑カルテル十年史)。▼戦後の鉄屑輸入は50年9月、岩井産業が香港から富士製鉄向けに1,004トンを手当てしたのが最初。南方・沈船調査団が活動した51年度は23万トンが入った。ほとんどが東南アジアからの戦争屑。米国からは1トンもない(米国輸入は53年、本格化は54年以降)。▼米軍払下げ屑も登場した。「米軍は兵器・車輌・通信その他器材など旧式化、破損したもの(50年の朝鮮動乱後はこれが多い)はすべて日本で処分した。再利用を防ぐため屑化を条件とした」(同)。48年が233トン。朝鮮動乱後の56~57年には8~10万トンへ急増した。53年まで日本政府へ払い下げていたが、54年以降は直接、業者へ払い下げた。
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AA屑 外貨のAA(automatic approval system・自動承認制)地域からの輸入鉄屑。主にフィリピンやベトナムなどの東南アジアの輸入鉄屑(沖縄も含む)がAA屑と称された。▽鉄屑輸入は外貨不足が明らかになった1954年1月から全地域がAAからFA(fund allocation system・外貨割当)制となった。▽ただ同年4月、東南アジアなどポンド地域はAA制に戻ったが、米国屑などドル地域はFA制に残された。60年4月、米国屑も外貨事情が好転したことからAA制へ切替った。
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ドッジ・ラインと鉄鋼業廃止論 米国は1948年12月、対日「経済安定9原則」を発表。特使としてデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジを派遣。来日したドッジは49年3月記者会見を行い「日本の経済は竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内補助金の機構である」と警告。改善策として均衡財政の実施、戦後経済に即した為替の決定、補助金削減を柱とする政策方針(ドッジ・ライン)を明らかにした。ドッジ・ラインの影響をまともにかぶったのは「基幹産業中の基幹産業として石炭とともに傾斜生産方式の対象となっていた鉄鋼であり補助金も集中していた鉄鋼にほかならない」(戦後鉄鋼史51P)。
▽鉄鋼補助金は50年7月1日から削減・全廃予告を受けた。為替レートは「日本の輸出品の80%が採算可能な水準」として当初1ドル300円を想定したが、インフレ上昇を加味して360円に決定(49年4月25日から実施)した。この「円安」決定が、その後の日本の貿易輸出を支えた、とされる。ただ、このなかで、日本の鉄鋼業廃止論が浮上した。▽ドッジに同行したオーレアリーは日本のアルミと鉄鋼生産は廃止すべきとした。また当時、経済安定本部の中でも、極度に資本の枯渇した現状において鉄鋼業のような危険の多い産業に投資を行うことは妥当でないとの見方があった。鉄鋼連盟がこれに反論(49年9月)するなど、白熱の論議を呼んだ。 -
朝鮮戦争と鉄鋼、鉄屑価格 ソ連と米軍が北緯38度線を挟んで対峙するなか1950年6月25日未明、北朝鮮と韓国が戦争状態に入り、瞬く内に国連軍(16ヵ国)と中国・北朝鮮連合軍の衝突に拡大。米軍は一時、核攻撃を検討したとされる。▽朝鮮全土を戦場として南北軍が占領と撤退を繰返したため、多くの住民が戦場の中を逃げ惑い、一部は日本に非合法に再入国したとされる。51年7月10日休戦会談を開始した(2020年現在も、会談続行中である)。
▽戦後の鉄鋼業界を支えた鋼材補給金が50年6月末全廃されることとなった(ドッジ・ライン)その撤廃5日前に突如勃発した戦争が、鉄鋼、鉄屑市場の様相を一変させた。▽戦争遂行のための米軍の需要(特需)はドラム缶、レール、形鋼、トラック、機械など一次及び二次鉄鋼製品が多く、9月20日までの3ヶ月間の受注高は鋼材5.3万トン、二次製品2.5万トン、合計7.8万トン。年率40万トンの勢いで進行した。特需は一種の輸出であり、世界的に戦略物資の買溜めが顕著となり、米国を始めとする輸出一般も好転した。▽戦後の市中鉄屑価格は、鉄鋼需要の衰退のなか常に公定価格を下回っていた。この市中鉄屑価格が開戦とともに一気に爆発し、公定価格を超過した。市中実勢価格は年初4,400円から年末には1万円。51年3月1万6千円へ急騰した。公定価格違反は物価統制令違反として処罰される。が、市中実勢価格が公定価格を常に上回っている状況では、取引関係者は、すべて違反せざるを得ない。これは日々無益な違反者を作るだけの悪法だとの批判に抗えず、51年3月31日GHQは一時停止を指令し、52年2月27日付けで廃止した。 -
日本製鉄解体(1950年) 朝鮮戦争直前の50年3月31日、過度経済力集中排除法により日本製鉄は八幡製鉄と富士製鉄などに分離した。当初の解体案(47年3月)及びその後の改定案(48年6月)は、旧官営の八幡と旧民営(輪西、釜石、富士)の北日本製鉄に分割するが、官民合同後の37年に建設した(火入れ39年)当時最新鋭の広畑(1,000トン高炉2基ほか)の最終帰属は未定(ただし八幡への譲渡は許さない)としたため、関西平炉3社(扶桑・旧住金、川鉄、神鋼)と北日本製鉄が激しくやり合った(そのなかで北日本製鉄が広畑を持つのはおかしいとのクレームから社名を富士に改めた)。広畑は旧富士製鋼出身で新会社の社長に内定していた永野の決死の談判から富士に帰属した。▽日鉄分割と銑鉄供給の変化が、その後の鉄鋼各社、特に関西平炉3社に早急な銑鉄対策を迫った。これが川崎製鉄の高炉進出と日銀総裁のペンペン草論を呼び込んだ。
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川崎製鉄の高炉進出(ペンペン草論争) 千葉(川鉄)にペンペン草をはやしてやる。川崎製鉄の千葉製鉄所建設構想に反対する一万田・日本銀行総裁のエピソードとして必ず鉄鋼史に登場する有名なやりとりである。▽日鉄解体直後の1950年夏、川鉄は自力で銑鉄を確保するため新高炉建設に日銀の支援を仰いだ。が、当時の日本の国力からして旧日鉄以外には高炉操業はやらせられない、とするのが日銀の判断だった。しかし西山弥太郎・川鉄社長はこれに屈せず、発足間もない日本開発銀行(51年4月開業)等の支援を取付け、臨海高炉の建設着工に踏み切った(千葉1号600トン高炉の火入れは53年6月)。
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関西平炉3社と高炉 GHQは日鉄の分割策として旧官営の八幡と旧民営の北日本製鉄の分離を指示し、最新の高炉を持つ広畑の帰属は「八幡以外」の各社の綱引きにまかせられた。結局、広畑は富士に帰属したが、争奪に破れたことが関西平炉3社に銑鉄自給への危機感を呼び込んだ。▽銑鋼一貫大手は自前で銑鉄を調達できるが、関西平炉3社は銑鋼一貫3社(八幡、富士、鋼管)の銑鉄か輸入銑鉄(銑鉄配合割合は51年、一貫43%、平炉30%)に頼るしかない。しかし外貨制約が厳しい当時、銑鉄輸入は事実上不可能(51年~55年の5年間合計5.9万トン)だった。平炉会社は製品販売で競争関係にある一貫3社から銑鉄を購入しなければならない。メシの種をライバルの供給に仰ぐことは危険過ぎる。実力を誇る関西平炉3社は、自前の銑鉄調達を目指した。▽まず川鉄が53年6月、製鉄所(千葉)を建設し、同年7月、住金が高炉を持つ小倉製鋼を吸収し、翌54年10月神鋼も高炉を持つ尼崎製鉄を系列におさめて、高炉メーカーの仲間入りを果した。
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高熱超重筋労働(鉄鋼業) 日本では第二次鉄鋼合理化(1956~60年)で人力に頼るプル・オーバーが姿を消すまで、鉄鋼作業は「典型的な高熱重筋労働」(「鉄鋼」市川弘勝・56年岩波新書)とされた。なかでも「高熱超重筋作業」(戦後鉄鋼史789p)とされたのが薄板圧延工程で人力に頼る手動式圧延(プルオーバー)だった。▽同書によれば熔銑・熔鋼に接する鉄鋼作業の輻射熱は夏には50度を越え、薄板工場の操作・圧延作業は60度以上にも達する。製銑工(炉前作業、ノロかき)、製鋼工(ドロマイト、マンガン投入)、圧延工場の圧延工(箸取り)、薄板工場の剥離工(板はぎ、手動式圧延機・プルオーバー作業)は高熱重筋労働の最たるもので、「薄板工場の操作・圧延作業では(1日の作業で)体重の減少が1㎏以上、発汗量5㎏前後に及ぶ」、疲労度指標検査では「一般人の2倍以上」を示す過酷な重労働であるとされた。▽鉄鋼各社はこの合理化を急ぎ、「第二次合理化計画でも第一次と同様、圧延部門に対する投資が大きく、圧延機別にみるとホット・ストリップ・ミルに対する投資が一番大きい」(同725p)、連続式広幅帯鋼圧延機(ストリップミル)が導入されたことから鉄鋼作業環境の近代化は一気に進んだ。▽「薄板圧延は鉄鋼合理化の中心となり各社のストリップミル建設によりプル・オーバー」は主力工場から姿を消した(同789p)。
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金属類営業条例 1951~58年にかけ29道府県が制定した(リサイクル関連法制の項参照)。
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鉄屑カルテルと鉄屑業者(55年4月) 55年4月、鉄屑カルテルが認可され、以後74年10月の申請却下まで19年間連綿として続いた(「鉄屑カルテルと業者対応」を参照)。
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スエズ動乱(56年)と米国鉄屑禁輸 第二次大戦終結後、世界は新秩序模索の途上にあった。ニュース風にいえば、スエズ運河の国有化宣言(1956年7月)と直後の対英仏戦争(10月)による運河封鎖、ソ連支配を拒否したハンガリー事件(10月ソ連軍が鎮圧)、米国鉄鋼ストなどが鉄屑相場を直撃。世界の鉄屑需給は一気に緊迫した(56年末、米屑65ドル。56年8月日本・特級3万5千円)。このなかで戦後復興基調にあった日欧が米国鉄屑の輸入拡大を強めた(注)ことから、米国は戦略物資である鉄屑禁輸に動いた。*(注)鉄屑カルテルは56年8月、米国2社43万トン、同11月米国6社と206隻、約180万トンの輸入契約(長契)を締結。これが深刻な対米摩擦を招いた。
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鉄鋼需給安定法案(56年~57年3月) リサイクル関連法制の項参照
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鉄屑使節団の派遣(57年2月・訪米) 日本政府、鉄鋼各社は戦後の国内屑の絶対的不足を解消するため輸入屑の供給に努めた(1956年・輸入鉄屑カルテルの結成)。その安定確保のため(56年8月・商社の介入を排し)、Aカルテルが窓口となり海外シッパーと直接交渉して米国シッパー6社と56年11月、コンポジット値決めベースで1年間205隻(約180万トン)の長期契約を「米国政府の制限に抵触せざることを条件」に締結した。▽スエズ動乱後、鉄屑輸出調査を行ってきた米政府は57年2月、日・英・欧州共同体に対する鉄屑輸出許可の停止を発表した。▽米国シッパー6社と約180万トンの長期契約を締結していた日本は状況打開のため永野・富士製鉄社長、稲山・八幡製鉄常務ら鉄鋼業界トップと通産省重工業局次長を主とする「鉄屑使節団」を編成、57年2月12日訪米。使節団は鉄屑使用抑制の切札として65年までに25基の高炉建設を予定していると説明して、鉄屑輸出規制の解除を求め、米国も日本側の意向を了承し、解除に応じた(戦後鉄鋼史217p)。
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180万トンの輸入米屑と国際信義(57年) 1960年までの日本は恒常的な外貨不足に悩まされ、外貨保有量をベースとする財政・金融政策が景気動向を左右する傾向にあった。神武景気による輸入増加から外貨は減少、金融引締めに転じたことから景気は減速。鉄鋼各社は鋼材下落と大幅減産下にあった(57年6月)。そのなか国策として長野、稲山ら鉄屑使節団を派遣して確保した180万トンのいわば「国策・輸入屑」がやって来る。180万トンもの輸入屑は、国内屑の絶対不足を補うどころかいまや国内需給を押しつぶしかねない厄介ものとなった。しかし国際信義上、何としても契約は完遂しなければならない。鉄鋼各社は在庫増に苦しんだが「国内屑に優先して全量引き取る」との方針に決した。つまり国内屑は荷止めしてでも輸入屑は引き取る、との宣言だった。
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180万トンの輸入米屑と日本鉄屑連盟(57年7月~8月) 輸入屑180万トンの大量入着は、国内業者の荷受けの門戸を閉ざす。危機感を強めた日本鉄屑連盟(石川豊吉会長)は、大量の輸入屑引取りの影響が深刻化した7月、カルテルに対し国内屑の優先買付け等の打開策を求めた。さらに輸入屑の一元窓口であるAカルテル業務委員会に会談を申し入れたが、カルテルは各社平均4ヶ月の在庫を保有している上に輸入屑も入着、決済代金にも困窮している状況で打開策は無いと会談を拒絶(18日)した。このため鉄屑連盟は危機打開全国大会を開いて政府・関係各省庁に窮状を訴える広範な陳情活動を決議した。時系列でみれば以下の通りである。▽7月18日 鉄屑連盟、業者大会を決定=鉄屑連盟では「国内屑優遇に関する要望書」をまとめメーカーや関係各所に善処を要望した。18日にはカルテル業務委員会に持ち込み、先の要望書の線に基づいて善処を求めたが、メーカー側は①現在の値下げ、資金難からやむをえずとった措置であること、②輸入屑180万トンは国際信義に基づくと回答。交渉は進展しなかった。鉄屑連盟は、業界の苦境は池田財政の失敗とカルテルの過度の米国屑依存にありメーカー交渉では前進はないと見て7月26日(大阪)、27日(名古屋)、29日(東京)で業者大会を開き、危機打開を政府当局に訴えた。▽8月1日・中央陳情=危機突破全国鉄屑業者大会の陳情団20名は7月30日朝から中小企業庁、大蔵省、経済企画庁を訪れ、中小企業庁では長官と指導部長、大蔵省では政務次官、経済企画庁では河野長官に会い、善処を要望した。一行は午後4時から通産省で通産大臣と会見し、窮状を訴えた。また重工業局長とも懇談を行った。▽しかし輸入屑は契約通り入着。荷止め・暴落状況に陥った(57年2月、市中価格3万5千円→同年12月1万5千円割れ)。
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180万トンの輸入米屑の衝撃―カルテル協定価格の底割れが常態化 第5回カルテル協定は7月度二万七千円で始まったが、大量の輸入屑入着と操短・減産、荷止めの中で市中相場(メーカー実際購入の実施価格)は底割れした。同時に実施価格と大きく遊離した協定価格は、この時から鉄鋼・業者双方にとって相場指標的な位置付けを失った。20万トン以上の在庫を抱え事実上買い止め状態にあった八幡製鉄が7月20日以降、協定価格を下回る二万五千円への値下げに踏み切ったのだ。カルテル協定価格をメーカー購入の実施「下限価格」と見ていた国内鉄屑業者に大きな衝撃を与えた。メーカー購入実施価格がカルテル協定価格を下回る逆転現象が出現したのだ。8月8日に行われた8月価格協議では鉄屑連盟の二万三千円の主張に対しカルテル側はすでに巴会、八日会とは二万円で妥結し一部ではその価格で買付も行われていると対立した。一週間間後の再協議を経て前月比五千五百円下げの二万一千五百円で妥協が成立した。しかし足元のメーカー購入実施価格(平均)は、すでに協定価格を大きく下回る一万八千四百円だった。このカルテル価格の底割れが以後、常態化することになる。(カルテル価格と市中実勢の関係はカルテルと業者対応の項に詳しい)。
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大阪砲兵工廠跡地とアパッチ騒動(58年10月) 終戦前日の8月14日、B29戦略爆撃機約150機による白昼空襲で大阪陸軍砲兵工廠は壊滅した。未処理不発弾の残存から手つかずだった同工廠跡地に眠る15万トンの膨大な金属屑の集団奪取と警察当局の取り締まりが58年、世上を賑わせた。新聞報道によれば、大阪府警は58年6月末ごろから捜査本部を設置し、旧大阪造兵廠跡の古鉄類を狙って集団的に出没する「アパッチ族」の捜査を続けたが、10月27日までに大物の組長を含め291人を強盗・窃盗・故買・業務執行妨害・傷害・軽犯罪法違反の疑いで検挙した。「アパッチ部落には朝鮮人を中心に3千余人の古鉄ドロが住み、数人から20人の組織を作っていた」(新聞報道)とされた。▽これが大阪在住の開高健の潜行取材(日本三文オペラ。59年初出)や小松左京の作品(日本アパッチ族。64年初出)を通じて登場し、30年後、梁石日ら内側の人間からも多面的に報告され(夜を賭けて。94年初出)、一時代の文化・風俗を伝承する記録となった。
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LD転炉導入と新高炉体制 ヨーロッパからのLD転炉技術の導入は、戦前(1938年)からの転炉(トーマス式)操業の実績を持つ日本鋼管が1956年4月、行った。この日本鋼管はLD転炉法に関する特許を独占することなく、希望する国内会社に均等な機会のもとに実施を許諾したとされる。
日本初の50トンLD転炉が八幡(57年9月)、日本鋼管40トン炉(58年1月)で動きだし、先発高炉は一斉にLD転炉製鋼に踏切った。▽既に系列子会社で高炉を確保していた平炉大手の住金、神鋼もこのLD転炉欲しさに高炉設備の構内建設に走り出した。LD転炉の登場が、戦後の高炉6社体制を生み出し、鉄くずカルテルの幕を引くことになった。 -
関西平炉、構内高炉建設 平炉でも実力を誇る関西3社は一貫3社の支配から距離を置くため(銑鉄制約からの自由)、独自に高炉建設(川鉄・千葉1953年6月)や系列高炉の確保を目指した(住金、小倉製鋼53年7月、神鋼、尼崎製鉄54年10月)。60年前後、構内高炉の建設となってこの動きを加速させたのが、原理的には鉄屑装入なしに製鋼が可能なLD転炉製鋼法の登場だった(鉄スクラップ制約からの自由)。▽平炉製鋼は銑鉄と共に大量の鉄屑を必要とするが、LD転炉法なら鉄屑は必要としない。必要なのは溶銑を転炉に供給する高炉設備だ。高炉建設は莫大な投資を要するが、高炉と同時にLD転炉を導入すれば、銑鉄調達は勿論、価格・数量とも不安定な市中鉄屑の制約は回避できる。「高炉を持つ小倉製鋼を合併したが主力工場に高炉がなかった住友金属、高炉を持つ尼崎製鉄を系列化したが自社高炉を持たなかった神戸製鋼の両社は社運をかけて一貫製鉄所の建設に当った」(日本産業百年史)のは、このためである。
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尼崎製鉄と神鋼の高炉参入
1932年当時、最大容量の電炉を持つ尼崎製鋼所が誕生し37年には久保田鉄工と折半出資して銑鉄自給のため尼崎製鉄所を設立。41年5月高炉設備(350トン)が稼働した。戦中の原料事情から44年高炉生産を停止。戦後の46年5月製鋼圧延部門を分離し、新たに尼崎製鋼を設立。操業を停止していた尼崎製鉄・第一高炉の操業を53年再開した。▽しかし尼崎製鋼は長期ストから54年7月倒産。銑鉄の安定調達を望んでいた神戸製鋼が54年10月尼崎製鉄に資本を出資。尼鉄の経営に参画して尼崎製鋼を再発足(55年4月)させ、58年10月尼崎製鉄が尼鋼を吸収合併する形で7番目の銑鋼一貫メーカーとなり65年4月、尼鉄を吸収合併した。
▽神鋼は59年に灘浜1号高炉、70年に加古川製鉄所を新設した(構内高炉建設)。これらの新旧工場間の生産格差が拡大したことから78年尼鉄の2号高炉・製鋼を休止。87年9月最後まで鋳物用銑鉄を生産していた尼鉄・1号高炉を閉鎖。尼鉄は63年、冷間圧延のため堺工場を新設したが、上工程との連携を欠いたこともあり(尼鉄を吸収合併後の)66年、日新製鋼に譲渡した(神鋼70年社史、Web版尼崎地域史事典を参考にした)。 -
小倉製鋼と住金の高炉参入 1915年、ワイヤーロープなどを生産する東京製綱小倉製鋼所として始まった。同9月、12月平炉を導入。東京製綱の関係者でもあった浅野總一郎が17年買収、浅野小倉製鋼所として新発足させ、36年12月小倉製鋼に改称した。39年4月第一高炉(350トン)操業を開始。44年南方移設のため第一製鋼工場の平炉5基解体。45年小倉製鋼に社名変更。戦後は高炉を休止して平炉1基だけで操業したが、51年処女第二号高炉に火入れした。52年3月以降、住金と資本・事業提携。53年7月住金と合併、小倉製鉄所と改めた。▽神鋼と同様に住金も小倉で銑鋼一貫生産を習熟し、61年和歌山製鉄所1号高炉を建設し、構内高炉一貫体制を築いた。
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大阪製鋼と高石義男 高石義男は1896年(明治29)2月、大阪市西淀川区西島の篤農家の長男として生まれた。1921年自宅裏に高石圧延工場(伸鉄)を設立。37年平炉4基を備える「大阪製鋼」を設立。41年石原兄弟製作所を合併して資本金1,000万円を超える大会社とした。しかし45年6月の空襲で大阪工場は平炉を残して壊滅。46年、操業再開直後に賠償工場に指定された。逆境にもめげず47年8月、尼崎工場に国産初の連続式条鋼圧延機を開発・導入(大河内記念技術賞受賞)。60年4月、大阪・西島工場に高炉(第一号高炉326)を新設、「トランジスタ高炉」の愛称をえた。
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日新製鋼と高炉とその後 ステンレス単圧の日本鐵板(周南、大阪、徳山、東京)と亜鉛鉄板の日亜製鋼(呉、尼崎、神崎)の八幡系平炉・単圧2社が1959年4月合併し、ステンレス鋼専業の日新製鋼として発足した(当時、最大の平炉会社)。62年6月呉に高炉を建設。銑鋼一貫メーカーの仲間入りを果たした。▽2012年、同じステンレス鋼製造会社である日本金属工業と経営統合。17年3月、株式公開買い付けにより新日鉄住金の子会社となった。20年4月、親会社の日本製鉄に吸収合併され解散。日鉄の設備見直し方針から呉の高炉、製鉄所の全面廃止が打ち出された。
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鉄鋼合理化計画 鉄鋼合理化計画は3次にわたって実施された。▽第1次・1950年6月産業合理化審議会の答申に基づき、51年度を初年度とする計画(鉄鋼業第1次合理化計画)として策定され、52年から55年に1,282億円の費用を投じて実施された。鉄鋼第一次合理化計画は、欧米に比べ最も見劣りがする圧延機の近代化・合理化を中心とした。▽第2次・56年度を初年度とする5カ年計画。約4,500億円の資金を予定し、計画実施により日本は新旧高炉各社の新炉増設や転炉・連鋳設備などの近代化で世界有数の力を持つに至った。▽第3次・61年度から政府の所得倍増計画(70年粗鋼4,800万トン)に沿い、65年度粗鋼3,800万トンを目途とする第3次合理化がスタートした。10年後の70年・4,800万トンを達成するには30基の高炉が必要と見込まれた。▽第3次合理化計画初年の61年、富士は2月大分県鶴崎、川鉄は6月岡山県及び倉敷市、鋼管は10月広島県及び福山市と製鉄所の建設に合意、八幡は9月君津で工場建設に着工。神鋼もこの年加古川に用地を買収。住金も8月茨城県と鹿島進出の交渉に入った。今日見る製鉄所のほとんどはこの時期に基礎を置く。
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LD転炉と第三次鉄鋼合理化 第3次合理化では31基の転炉建設が計画された。1962年川鉄、住金、神鋼、日新(62年呉に高炉建設)、大阪製鋼の高炉各社も一斉に平炉から転炉の新・増設に踏み切り、炉容量も2倍以上へと大型化した。東鉄・岡山100トン平炉が62年10月完成(62~69年さらに4基)したが、その後の平炉建設は大谷重工、中山製鋼の各1基に過ぎない。
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平炉生産の衰退 平炉鋼生産のピークは61年=1961年度平炉製鋼1,697万トン、平炉生産シェアは60%。同鉄屑消費815万トン(42.3%)。平炉に取って替る転炉鋼は当時536万トン、電炉鋼は594万トンであった。▼62年・平炉封印、25%減産=国際収支改善の金融引締めをまともに受け(62年不況)、鉄鋼関係は戦後最悪の状態となった。大手高炉は62年度の設備計画を当初の3分の2に圧縮したが、高炉と転炉の新増設は続き、需給軟化に拍車をかけた。通産は減産監視委員会を設置、粗鋼20%減産と高炉メーカーを除く各社の中形形鋼、厚中板の全量を窓口商社に買取らせ、凍結(「鉄鋼市況安定対策」)を指示。通産、鉄鋼は平炉封印と常駐監視を決め、高炉10社の平炉37基に初の封印と粗鋼35%減産、厚板40%減産に踏み切った。▼62年度以降、平炉消費は転落=平炉封印があった62年度平炉用鉄屑消費は前年の815万トンからに467万トン(43%減)へと激減。大手高炉の中には国内鉄屑の買付けを中断するところも現れはじめた。(高炉の鉄屑離れ)。平炉の鉄屑消費は第3次合理化計画が終了し、転炉体制が確立した65年以降は減少の一途をたどった。
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商社の時代 日本では流通商社は製品・原料の出入りの両面にわたって関与し、鉄屑の絶対量不足が続いた一時期、国内では直納業者として、また国外輸入屑の扱い窓口として、鉄鋼会社や業者経営に深く係わり、電炉経営や鉄屑業者の「商社支配」が問題となった。
▼戦後~61年まで・カルテルと外貨割当の壁=戦後から1960年4月までの米国屑輸入は外貨割当制(FA制)で管理され、商社は自由に扱えなかった。また55年から発足した鉄屑カルテルは、数量確保を優先し米国屑を直接買入れた(太平洋ベルトコンベヤー)から、商社独自の活動余地はなかった。ただ数量のまとまるカルテル代行に関与すれば商社は、ほとんどノーリスクで仲介口銭が稼げた。関西五綿と称された伊藤忠、丸紅飯田、東洋綿花、日綿実業、兼松などが輸入屑扱いに惹かれて「糸から鉄」へなだれ込み、総合商社化を目指した。当時、国内屑への商社の関心は全般に薄く、三菱や三井のような古くからの総合商社や日商岩井、木下産商、入丸産業などの鉄鋼専門商社が国内窓口を持っていた程度だった。新たに輸入屑扱いに参入した糸ヘン商社は、平電炉への「与信」問題や発生量の制約などから国内屑扱いには慎重だった。▼61年2月・輸入屑カルテル崩壊=米国屑の数量確保を最優先した鉄屑カルテルは当初、商社の起用を排して直接買付け、共同配分を行った。しかし1961年2月、世界的な需給緩和などから数量確保だけでなく価格にも配慮すべきではないかとの意見が対立し、カルテルは一元的な直接買付を打ち切った(輸入屑カルテル崩壊)。このカルテルの輸入機能の崩壊を契機に米国屑買い付けは商社に全面的に移行し、商社の存在感は急激に高まった。▼商社が商権にぎる(63年)=「近年、商社は輸入屑のほかに国内屑への進出が目ざましいが、これは設備資金に追われるメーカーの手形が長くなり、専業者の限られた資金力では金繰りが難しくなったため、商社の大きな金融力に依存せざるを得なくなったことが第一の理由である。この傾向は電炉メーカーの信用不安が深まるにつれて、拍車がかかり1963年現在、関西では平・電炉メーカーに向けられる国内屑の95%以上は商社経由と推定される。商社は鉄屑の流通を完全に掌握した」(日刊市况通信社63年夏季特集号)。 -
鉄屑(輸入)専用船 鉄屑輸入カルテルの崩壊は、カルテルの下請け・代行手続き業務に甘んじていた国内商社に直接買付けの場を与えた。各商社は輸入ビジネス、外洋流通に本格的に乗出した。三菱商事は日本初の鉄屑専用船「アシビイ丸」を就航させ(64年)、阪和興業(和光丸65年、仁光丸68年)や住商(StarTaro号65年)などの建造がこれに続き、丸紅飯田は豪州のシムスの鉄屑専用船をフルに利用した。従来の北米西航路はリバティー船(戦時標準船)が9千トン足らずの鉄屑を45日以上もかけて運び、荷揚げに20日以上を費やしたが、2~3万トンの大量屑を30日で運び、8日足らずで荷揚げを行う大型外洋船の登場は、流通革命と商社間の競争を加速させた。
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商社ヤードとシュレッダー機 1965年前後、原理的には鉄屑装入を不要とするLD転炉の導入による高炉メーカーの輸入屑離れ、国内電炉メーカー設備の新増設の増加、高度経済成長に伴う鉄屑の発生・回収の増加などから5年後の70年前後には輸入屑はゼロになり、国内屑で置き換わるとの需給見通しが広がった。商社は輸入屑ゼロの「国内屑時代」の到来を前に、国内電炉メーカーの囲込みや加工屑対策に本格的に乗出した。▽大手商社筋では(衰退する)輸入屑に替わる国内屑の「流通機構の核として」(鍵谷・三菱商事)直営ヤード(商社ヤード、シュレッダープラント)を開設する動きが広がった。なかでもマイカー時代の到来と廃車処理プラントの導入・普及に商社が果たした役割は大きい。商社筋は競って鉄屑業者と提携し米国製大型シュレッダー機を導入し、加工・流通図を塗り替えた。70年3月から米国製シュレッダー機が関東・関西で一斉に動き出した。いずれも商社が関係する大規模処理工場で、73年11月までに全国10工場が稼働した。
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改正刑法案に資源業者らが総決起(65年3月) =法務省は60年改正刑法準備草案を公表し、贓(ぞう)物(盗品)過失犯を罰する条項を新設した。不注意(過失)を犯罪とする処罰規定である。▽東京都古物商防犯連合会は63年6月下谷公会堂で草案撤回総決起大会を開き、東京都資源回収事業協同組合(東資協)が同年7月、関東資源回収組合連合会も反対運動を決定し、同年9月の日資連第12回総会は草案反対を決議。岡山県倉敷市で開催された日資連第13回総会(64年9月)で大会決議として、①反対署名運動、②1業者五百円の資金カンパ、③65年、全国抗議大会挙行、を掲げた。▽「65年3月16日、日資連三千名・全古連(古物商)千五百名・全質連(質商)八百名・全金融(金融)二百名、4団体・計五千五百名の業者」が日比谷公会堂に参集して総決起大会を開催。請願運動を各地で活発に繰りひろげた。この反対運動の広がりを受け、法制審議会第五小委員会の審議(65年6月)は同条項の削除が多数を占め、刑事法特別部会は「財産犯には過失犯を適用すべきでない」(65年10月)として、同条項の新設は見送られた。
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65年不況(鉄鋼乱世) 第3次合理化の目標年である1965年前後は新高炉の建設ラッシュとなった。名古屋の東海製鉄の火入れが64年9月、八幡製鉄・堺が65年6月、日本鋼管・福山が66年8月、川崎製鉄・水島が67年4月に立ち上がった。その特徴は鉄鉱石と石炭の荷揚げが容易な臨海に立地したこと、ほとんどの高炉設備が世界最大容量かそれに迫ったことだ。その一方、東京五輪(64年10月)景気の反動である「65年不況」が影を落とした。▽64年12月関東の日本特殊鋼が会社更生法を申請。年を越した65年1月、今度は関西の田中電機工業が行詰まった(5月倒産)。3月、高炉建設を目指した姫路の山陽特殊製鋼が更生法適用を申請。同月、名古屋の中部鋼鈑も「黒いうわさ」に包まれた。4月以降も各地で事実上の倒産、製鋼休止が相次いだ。企業倒産は9月末には早くも前年を上回った。▽たしかに65年不況はあった。ただ平・電炉業界を追い込んだのは需要後退だけが原因ではない。圧倒的な高炉支配の存在と高炉間の激しい競争構造があった。その中でまず、弱い輪から壊れ(山陽特殊製鋼など)、強い輪同士の縄張り争いとして起ったのが「住金事件」(65年11月)で知られる通産省が介在した先発高炉と後発高炉の対立であった。
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住金事件―日向、稲山、永野の思惑 ▼日向方齋の「私の履歴書」によれば=「事件」は1965年度(昭和40年度)第3四半期(10―12月)の粗鋼減産に関し、同社が通産省指示に異を唱えたことを発端とする。▽粗鋼減産そのものは第2四半期から始まっていた。これは自主減産だったこともあり住金も同調したが、第3四半期は通産指導に強化され、輸出と国内を合わせた総ワク規制となった。輸出比率が高い住金には死活の利害に係わる。65年11月18日、日向は三木武夫通産大臣と会見し、「第3四半期に限り輸出扱いを弾力的に運用してもらいたい」と申し入れた。大臣も「そうだな」と頷いた。了承を得たと信じた日向が帰阪の新幹線を待っているところに常務が駆けつけ、通産は「第3四半期に限り」との条件付きでは受入れられない、と報告してきた。新幹線車内から電話を入れた日向に大臣は「そういう主張は聞いたが、了承はしていない」と答えた。翌19日通産は当日午後1時に最終回答を迫った。住金は拒否、自主生産の開始を決定した。これに対し通産は同夜、住金の「粗鋼用原料炭輸入割当を削減する」との次官声明をだした。しかし原料炭割り当てを定めた石炭業法は国内炭保護が目的で、鉄鋼生産の調整に適用されるいわれはない。日向は佐橋滋事務次官にその根拠を質した。▽事件の陰の主役は八幡・富士製鉄など先発各社と佐橋事務次官であり、事件の根っこには粗鋼生産のシェア争いがあり、富士など先発各社は住金、川鉄、神鋼の関西旧平炉3社の追い上げを阻むためシェア固めに動いたと日向は見た。
▽日向は株主総会で経過説明を行なった。株主は勿論、労働組合も全面支持を表明した。「稲山・協調哲学」と「日向・自由競争哲学」の対比が取りざたされた。東京の財界は協調主義的空気が強い。関西は住金支持が大勢だった。公取は「原料炭削減は問題がある」と公式見解を出すまでになった。某日、中山素平・日本興業銀行頭取の仲介で日向は永野、稲山と会談したという。
▽12月27日、日向は三木通産大臣を訪ね「41年度第1四半期以降は根本的に再検討する」との言質を得て、通産の減産指導を受入れた。問題の生産シェアについては不満が残ったが、設備調整の理論については住金の意見も尊重され一歩前進したと見た。▽以来、鉄鋼業界はかえってまとまりがよくなり八幡、富士合併の時も日向は「日鉄の分離自体が、財閥解体、集中排除に伴う不自然なことだった。両社が望むならいいではないか」と国会で証言し、側面から擁護した。
▼「私の鉄鋼昭和史―稲山嘉寛著」によれば=「実はこれには高炉の建設とシェア争いがからんでいた」。鉄鋼不況にもかかわらず、各社の高炉建設意欲は強く八幡でも堺の第2高炉、第3転炉などを計画していた。通産も対策に苦慮し、結局、着工を半年か1年ずらすことでまとまりかけた。ところが住金は「企業は自己責任によるものだし、 計画を変更するつもりはない」として同調しなかった。紆余曲折はあったが、ともかく住金、東海、川鉄は予定通り認める(八幡、鋼管は次年度に延期)が、第2四半期の減産は住金に飲ませ妥協の道を探った。一件落着と思われたが、第3四半期の減産問題が日程に上ったとき、第2四半期だけの緊急措置と考えていた住金側と減産を継続させようとした通産省とが全面衝突。輸出ワクを別扱いにしなかったため、輸出比率の高い住金が不利になることが頭にカチンときたようだ。通産省はあくまで強硬で「住金が独自の生産体制を貫くなら原料炭の輸入枠を削減するなど断固たる方針で臨む」と高炉9社の常務会の席上でぶった。
鉄鋼生産に不可欠な原料炭を減らし、兵糧攻めにしようとしたわけだが、かえって住金の態度を硬化させた。関西財界の中には「行政指導の枠を逸脱した官僚の横暴だ」との声もあった。この問題は鉄鋼業界のみならず財界、政界、官界を巻き込み、住金としては自主性を貫くことができず、減産体制に復帰せざるをえなかった。これが住金事件のあらましだ―と同書は整理する。
「私は住金の立場、主張は当然だと思った。自分の会社を大きくしようとするのは経営者の責任である」。一方、政府は国家的な立場から対応するのも理解できる。「問題は通産省が悪平等論に立っていたことだ」。こうした行政のやり方に文句を言ったが勝てない。
それに勝つためには「合併によって大きな会社にして、悪平等や不平等に起因する悪い競争を排除することだ。新日鉄誕生の伏線はこのときにすでに芽生えていた」。「住金事件当時、設備調整に関して、いろいろな構想があった。永野氏がぶち上げた東西合同製鉄論もその一つである。私はもともと合併には賛成だったし、そのころ永野氏と極秘に『八幡、富士で一緒になろう。高炉が大型化している今日、みんなで設備競争をしていたら共倒れになる』と話し合ったことがある」。
「このとき富士の田阪くんが永野氏の使いとして『永野がカンカンに怒って住金を鉄鋼連盟から除名しろといってる』旨を伝えるために来た。『住金を除名すると言ったら、向うは喜んで除名されてしまう。そんなことで解決できる問題じゃあない』と返事して同調しなかった。永野発言は彼の本心というより彼一流の演技で一応はそういう風に怒ってみせて向うが引っ込めばそれでよしという考えであったと思う。のち八幡、富士合併の時、日向氏が合併に賛成された。公取委としては公聴会を開いて、できれば『合併反対』に回ってもらおうとの魂胆だったが、それが賛成論をぶったのだから、あてがはずれたも同然で、公聴会での日向発言は強い味方になった」。 -
鉄鋼大合同構想(66年8月) 第三次鉄鋼合理化計画による旧高炉(八幡、富士、鋼管)と新高炉(川鉄、住金、神鋼)各社の設備拡大は、過剰な生産能力を呼び込み、この生産調整に動いた通産省の行政指導に激しく反発した住金・日向社長の行動は「住金事件」を呼び込んだ(1965年11月)。
このなかで産構審・鉄鋼基本問題小委員会は設備能力の巨大化に比べて需要は相対的に低下する傾向にあるとして合併を含めた「体制整備」の必要と設備の(自主)調整が必要であるとの答申案を固めた(66年10月)。▽審議中の66年8月、富士製鉄永野社長は「6社なり10社が大規模な製鉄所を経済速度で建設すれば過剰設備・過剰生産となる。2社ぐらいにして経済スピードで効率よく建設する必要がある」との大合同構想を発表。生産調整を個々の会社の減産に求めるのではなく、会社そのものの統合・集約に求めた。 -
大谷重工破綻(68年) 平電炉会社最大の大谷重工が68年3月経営危機に陥った。関西の尼崎と東京の羽田で主として厚板・丸棒・鋼塊を粗鋼ベース月間8万トン生産する。稲山鉄連会長が再建に動き、佐藤首相自らが閣議に持込む政治決着で救済が決まった。当時、鉄鋼は戦国乱世の真っ只中にあった。高炉は先発大手3社(八幡、富士、鋼管)と後発大手3社(川鉄、神鋼、住金)が激しいシェア争いを繰りひろげた(65年住金事件の背景)。▽一方、大谷重工など単独平炉会社の多くは先発高炉の系列に属することで銑鉄供給と経営支援を期待したが、旧・平炉(関西3社)が高炉となって登場してきたこと(販売競争の激化)、鉄屑を使用する電炉会社の台頭(原料調達競争の激化)の背腹にライバルを迎え経営体力を損耗。景気後退による信用収縮が追い討ちをかけた。
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新日本製鐵誕生(70年3月) 大谷重工救済劇のさ中の1968年4月、「大合同」論者であった永野富士と稲山八幡両社長が両社合併に関する構想を明らかにし同年5月、両社は合併趣意書を公取に提出した。合併の事前審査は68年6月から開始された。公取は合併後の市場占有率が30%以上となる9品種に関係各社から詳細なヒヤリングを行った。うちブリキ、レール、鋼鉄板、鋳物用銑の4品種が問題となった。翌69年2月、対応措置が必要であるとされた鋳物用銑、レール、鋼鉄板に関係する釜石の分離問題が伝えられた。両社は3月合併文書に調印したが、公取は5月合併否認を勧告。しかし両社は勧告を拒否し(公取始まって以来の)審判に持ち込まれた。▽審判に入った両社は8月、問題4品目をライバル他社に譲渡することで公取と折衝を重ね、10月公取は譲渡案を了承して、判決手続きを経ず合併を認めた(日本産業史3)。▽70年3月、新日本製鉄が誕生した。従業員8万2千名、粗鋼生産能力4,160万トン。生産拠点は北から室蘭、釜石、君津、名古屋、堺、広畑、光、八幡および当時は建設中であった大分の9製鉄所。粗鋼生産はUSスチールを抜いて自由世界第一位である。▽新日鉄のシェアは誕生した70年が粗鋼36%だが、75年32%、80年30%に低下。競争他社の比率が上昇するなど節度ある競争を維持した。ニクソン・ショックの71年不況では「新日鉄主導で自主的な協調減産が実行され」「高炉大手協調体制」の時代に入った。
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「鉄鋼公開販売制」の運用停止と新日鉄の誕生 通産省は、独禁法適用除外法の制定を試み、失敗した後は行政指導強化に転換した。それが鉄鋼メーカーと協議のうえで創出した「公開販売制度」だった。「不況公販」(57年7月)、「好況公販」(58年6月)、「安定公販」(59年5月)と続けた。ただこれは事実上の製品カルテルとも目され、規制官庁である公取から度重なる「疑問」を投げかけられ、「独占禁止政策の立場から根本的に再検討する必要があると考えている」(公取・69年度版年次報告87p)とまで宣告されるに至った。「鉄鋼の需給及び価格の安定」に係わる行政指導にも限界が見え始めてきた。次の一手が求められた。それが行政指導のもとでの共同行為(「鉄鋼公開販売」)を超える完璧な共同統治(企業合同)の追求だった。▼注目すべきは新日鉄が誕生したから「新日鉄的平和」が実現したのではなく、鉄鋼「協調体制」が必要だったから、その実現のために誕生したのが新日鉄だったことだ。さらに言えば、鉄鋼「協調体制」の原型である鉄屑カルテルのより高度な発展形(協調から合同・統合へ)とも見える、ことだ。▽鉄屑カルテルは鉄鋼各社の共同行為そのものだったが、平炉3社を含む鉄鋼大手がLD転炉導入にナダレ込み、原理的には鉄屑装入が不要となったことから、カルテルの存在意義は薄れ、それとともに共同歩調の足並みは大きく乱れた(鉄鋼戦国乱世の出現)。▽それが住金事件(65年11月)として噴出した。鉄鋼乱世を終わらせる最終的な解決策としてチャンピオンメーカーの創設とその指導力による「協調体制の確立」が求められた(鉄鋼大合同)。鉄屑カルテルに代わる、より強力な「共同行為」の創出が求められたのだ。▽新日鉄の登場は無益な競争に疲弊した業界の総意だったとも言える。だからこそ八幡・富士の合併論議のさなか住金・日向も合同是認の意向を表明したのだろう。
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ニクソン・ショック(71年8月) ニクソン米大統領は1971年8月15日、①金(きん)とドルの交換停止、②10%の輸入課徴金、③賃金・物価の90日間凍結等の「新経済政策」を発表。世界で唯一、金と交換できるドルがベトナム戦費、多国籍企業の海外投資で米国から流出し、ドル防衛と経済立て直しを迫られたためだ。日本も360円の固定相場から変動相場に移行(8月28日)した。
主要各国は同年12月、ワシントンのスミソニアン博物館で10カ国蔵相会議を開き、ドルと金の交換停止、ドル切下げと主要通貨の切上げ(10ヵ国平均で約12%だが、1ドル=308円とした円は16.88%引き上げ)を柱とする対策(スミソニアン体制)をまとめた。国内輸出産業は「いざなぎ」景気(64年~70年)から一転した深刻な不況に陥った。▼鉄屑炉前価格1万円を割る=円高は日本産業と鉄鋼業界に衝撃を与えた。新日鉄誕生(70年3月)による新秩序と粗鋼減産から鉄屑実勢価格は8月までに既に1万3千円台に沈んでいたが、ニクソン・ショックが追い打ちをかけた10月以降、1万円を割った。カルテル対応の業者組織である鉄屑問屋協会は鉄屑カルテルに対し協定価格(1万5千円)を下回る実施価格は、問屋協会と協議し「双方納得の上で」決定するなどの早急な対策を求めた(71年陳情書・第14回カルテル)。▼下級老廃物にマイナス価格=京阪神資源回収組合は冷蔵庫、電気釜、洗濯機など家庭電器は1台当たり50円。自転車、鍋、釜、石油缶などは1個30円のマイナス価格を提示した。排出者に処理料金負担を求める「マイナス価格」は「関西、恐慌相場で集荷機構の破壊も」との業界紙トップ記事関連として掲載された。 -
列島改造論と土地投機と鉄屑暴騰(72年) 田中角栄の日本列島改造論が1972年6月出版された(7月首相就任)。これは①工業再配置、②新25万都市、③東北新幹線など高速交通網の整備、建設を柱とした。同年6月、首都圏・近畿圏等の工場立地を制限し地方への工場移転を進める工業再配促進法も成立した(同法を境に電炉の地方建設が進んだ)。▽円高不況に苦しんでいた産業界は田中内閣の発足と内需を喚起する列島大改造を期待して沸騰。工場再配置、新幹線建設を先取りした土地投機が走った。新日鉄主導のもと協調減産、不況カルテル下にあった鋼材価格は同年秋以降、深刻な供給不足も一因として急騰した。ニクソン・ショックに沈んでいた市中鉄屑価格も列島改造論を背景に72年12月頃から上伸気配を示し、73年5月2万円台、10月には57年1月以来16年ぶりに3万円に乗った。▽鉄屑カルテルも機能不全に=米国鉄屑禁輸情報(73年6月)が伝えられた7月から鉄屑は暴走。鉄屑カルテルは協定価格を相互監視する「常駐」体制を敷いた。
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粗鋼生産77年度1億5千万トン予測 列島改造論の鉄鋼版とでもいうべき「70年代の鉄鋼業」が1973年産構審から答申された。▼年率8.5%の内需拡大予測=72年粗鋼生産1億297万トンを基準に「列島改造」をベースとした国民生産予測値(年率8.5%増の内需拡大)と輸出見積りを合算し、5年後の77年度粗鋼生産量を1億5千万トンと想定する。▼鉄屑は693万トン不足=粗鋼1億5千万トンを前提に転炉鉄屑配合率17%、電炉シェア18%とすれば鉄屑需要5,989万トン、国内供給5,299万トン。不足分即ち必要輸入屑は693万トン。▼対策=500万トン超の輸入量は価格高騰とコスト上昇を呼び込むから、対策として①電炉生産の伸び率を国内鉄屑の供給にあった形で調整し、②転炉鉄屑配合率の引き下げを図る必要があると分析し、鉄屑需給と価格安定のため以下の提言をおこなった。
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▽①共同備蓄の提案=市中屑の93%は平・電炉が購入しているが、極めてわずかな鉄屑在庫能力しかない。個々の企業ではできない在庫強化、「共同備蓄対策を積極的に進める」。②ポスト・カルテル組織=鉄屑カルテルが廃止される予定から「鉄屑の需給、価格安定のため「共同輸入体制の継続、共同備蓄ヤード」を実施する協調機関を設置する。③シュレッダーの薦め=「自動車くずの大半はプレス処理されている」が「不純物が十分除去されないまま形成されるため公害規制強化によって鉄鋼メーカーは使用量を減少せざるをえない」。このため「シュレッダー屑の量的拡大」を図る。▽これら共同備蓄の提案やカルテル終了後に備えた組織設立の提案は、鉄スクラップ・リザーブ・センター(SRC)や日本鉄屑備蓄協会などの創設につながった。ただその後に尾を引いた最大の問題は、5年後の77年度粗鋼生産を1億5千万トンと過大に予測したことだ。実際の生産量(1億65万トン)が5千万トンも下振れしたため、新規設備の導入に賭けた鉄鋼・商社・業者は、予測と現実の大きなギャップに煩悶することになる。 -
米国、鉄屑輸出規制(73年7月~74年末) 日本の鉄鋼操業は米国鉄屑輸入に左右された。米国鉄屑輸出動向は日本の鉄鋼会社の最大の関心事だったから鉄屑カルテルは輸入屑カルテルを設置(第2回カルテル以降)し、商社を排してカルテルが直接買い付けた。その米国は57年2月と73年7月の2回、鉄屑輸出を禁止し、日本の鉄屑需給を揺さぶった。▼57年2月・輸出許可停止=1956年のスエズ動乱に端を発する鉄屑需給対策として実施された。日本側は直ちに稲山・永野ら鉄鋼トップを送り込み、高炉などの新増設による鉄源確保を約束して規制を解除。57年6月147万トンの輸入枠を確保した(「鉄屑使節団」)。▼73年7月~74年末・輸出枠規制=米国は1962~71年の10年間、年平均700万トンを輸出した。しかし国内で電炉用原料として多用するミニミルが増加し、国際規模での原料需要が内外で拡大したことなどから、73年世界の鉄屑相場は過去20年来の高値となった。6月末、米国禁輸情報が入った。日本は直ちに73年(暦年)500万Sトン(約450万Mトン。1Sトン=0.907Mトン)に自主規制し、超過数量は74年1~3月に繰り延べると米国に打電し7月2日事前許可制を発表。米国は3日、7月1日以降の鉄屑輸出許可制を発した。米国は日本の要求する500万Sトンの輸入は認めるが、日本の協力は必要としたため、日本は協力の証として「秩序ある輸入」の検討を開始した(鉄屑カルテル史)。米国は、翌74年以降は四半期ごとに210万Sトン(年間840万Sトン)をシッパー別、国別に配分するとの規制強化を実施。最大の日本配分は年間約300万Sトン(272万Mトン)とし、輸出規制は74年を通して実施された(鉄屑輸入実績73年437万トン、74年255万トン、75年237万トン。米国規制どおりである)。▼輸出規制の影響=鉄屑カルテルは輸入屑を「ベルトコンベヤーに流れるように」(稲山・八幡社長)潤沢に国内に供給、管理することで市中価格を抑制してきた。その仕組みが、米国鉄屑輸出規制から破綻した。これに石油危機直後の狂乱物価と棒鋼の輸出ラッシュが重なった。市中価格は74年4月4万円、6月4万3千円、カルテル廃止直前の9月、4万5千円に跳ね上がった。これが通産、鉄鋼各社に9月末に予告されたカルテル廃止後の鉄屑需給、「ポスト・カルテル」の危機感をさらに煽ることになった。
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秩序ある輸入屑買い付け(73年9月) 米国で1970年6月、鉄屑の輸出禁止・制限のロビー活動が伝えられた。危機感を抱いた鉄鋼連盟は「鉄屑特別委員会(田部三郎委員長・新日鉄常務)」(70年7月)を設置し「米国鉄屑の秩序ある買付方法」として70年11月、「輸入鉄屑懇話会」を創設した。ただその後、日本の鉄鋼不況から米国屑需要は消え、同会の実質的な活動はなかった。
これが3年後の73年、再び息を吹き返した。その背景には73年7月実施された米国禁輸措置があった(鉄屑輸出規制の項参照)。日本側も「秩序ある輸入」策を模索した。73年9月以降、「ミル(製鋼会社)発券を伴う輸入許可制を前提に、各カルテルが商社あるいはシッパーから共同輸入する」という各カルテルの共同輸入方式を決定し、実施した。 -
石油危機・第1次(73年10月) 1973年10月の第4次中東戦争をきっかけにOPEC(石油輸出国機構)は石油を武器に対米圧力を高める戦略を採り、湾岸6ヵ国が原油価格を1バレル(159㍑)2ドルから年末には11.65ドルへ引上げたことから始まったエネルギー危機。原油の99.7%を輸入に依存した日本の高度成長はこれによって終わったとされる(交易条約の悪化)。74年度日本の実質GNP(国内総生産)は前年度比0.2%減と戦後初のマイナス成長に陥没し、石油をがぶ飲みする「重厚長大」産業やアルミ精錬などエネルギー多消費型産業は、抜本的な省エネルギー対策に取り組むか、さもなくば国内退場を迫られた。▼「狂乱物価」=石油危機はエネルギー価格の高騰→将来の物価高→現在価格での売惜しみ・買溜めを世界的に誘発した。政府は総需要抑制策(73年12月、公定歩合9.0%へ引上げ)を打ち出したが、逆に物価高騰予想を煽り立てた(74年1~2月消費者物価、前年比23~26%アップ=狂乱物価)。米国でも鉄屑需給は極度にひっ迫し、東部3都市平均で算出するNo.1ヘビー総合価格(コンポジット価格)は73年末100ドルを超え「鉄屑は今や金である」(アイアンエージ誌2月4日)とされた。国内でも73年末、電力規制による減産警戒から暴落した鉄屑は74年始以降、一気に反発。背景には73年7月以降実施され、74年には一段と強化された米国鉄屑禁輸があった(鉄屑輸出規制の項参照)。▼鉄鋼輸出は急増から急減=「石油ショックは投機買いを喚起したため、世界の鉄鋼需要は74年初から再び過熱し輸入引合いが殺到。輸出価格は上昇し続け国内価格との差が拡大。平電炉各社が輸出を積極化した」(阪和興業40年史)。74年鉄鋼輸出は数量で前年比31.9%増、金額で99.6%増の伸びを示した。しかし74年後半、鋼材輸出がかげった。小棒は10月以降、急減速し、総需要抑制=内需減・価格急落が重なった。74年9月4万5千円の高値をつけた鉄屑はわずか1年で転げ落ちた(75年10月1万6,500円)。
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安宅ショック(75年12月) 戦前からの鉄鋼系商社の安宅産業が1975年12月、海外石油開発に絡んで巨額(3億3,700万ドル、約千億円)の焦げ付きを作って経営危機に陥った。当初、住友商事との合併話が進行したが旧当主家の反対で挫折。連鎖倒産を恐れた住友銀行が伊藤忠商事に安宅の継承を頼み込んだのが生体解剖的合併劇の始まりとされる。▽伊藤忠は安宅の債務を全て洗い出したうえ76年10月、安宅産業の吸収合併に調印した。戦後再発足した伊藤忠商事の売り上げは繊維部門が全体の90%を占めた。重化学部門の強化を目指したが参入は容易でなかった。そのさなか「鉄鋼商社・安宅」の救済話が舞い込んで来た。伊藤忠は鉄鋼関連では25社を継承し、業界3位に躍り出た。戦前からの新日鉄の指定商、鉄の商権あればこその合併だった(77年10月合併)。
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安宅ショック・その後 (商社の時代の終わりの始まり) 報道(注)によれば、安宅以外の有力8商社だけでも1,500億円以上の問題債権が発生し、商社筋はそれまでの拡張路線から一転し「戦線縮小、撤退」論が渦巻いた。三菱商事を主力商社とした南部製鋼が77年5月、会社整理を申請し倒産した。同社の行き詰まりは75年利川製鋼、76年興国金属、手塚興産に続くもので「大商社のカサの下にいれば絶対潰れることはない」との神話を打ち砕いた(日経産業77年)、とされる。
*(注)日経産業77年6月18日~28日「平電炉グループ別診断」の商社動向分析によれば、安宅産業は西製鋼に50億円、山口共英、昭和鋼業、大安製鋼の3社に200億円以上の債権を持っているが、伊藤忠の合併を前に「当事者能力が無い」。兼松江商は船橋製鋼に230億円の債権を持っている。三菱商事は500億円、三井物産は300億円を平電炉に貸し込んでいる。
その他5商社(トーメン、丸紅、日商岩井、住友商事、日綿実業)の平電炉に対する債権は500億円以上に達している模様で、 取立て不能債権も少なくない。数年前まではシェア拡大に必死だったが、今は揃って「戦線縮小、撤退作戦展開中」だ。 -
特定不況産業安定臨時措置法(特安法・78年) リサイクル関連法制の項参照
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船舶解撤事業促進協会(78年12月) 造船不況対策として構造不況法(特安法)により造船業界が1978年から行った設備合理化事業のひとつ。82年度までに400万総トンの船舶解撤を進めることで仕事を確保する船舶解撤事業が策定され、運営のために設立された(78年12月設立)。促進協会は、国の助成金を使って重量トンで20万トン超のVLCC級や同30万トンを超すULCC級の解撤を行った。しかし2005年「日本船舶技術研究所」に改組し、解撤事業から撤退した。
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石油危機・第2次(79年1月) 1978年12月、OPECは79年1月からの原油価格の段階的値上げを決定した。イラン革命(79年1月)で親欧米政権の抑制を失った原油価格は1バレル30ドル時代へ入った。第1次危機の石油価格の引上げ幅8.64ドル(73年10月→74年1月)に対し、第2次は15.3ドル(78年末→80年4月)と大幅だったが、前回に比べ危機の「影響は軽微」に留まった。史書はその理由として①前回の「学習効果」が大きくショックに伴う物価上昇を短期で終息させたこと、②前回は列島改造論に石油危機が重なり「千載一遇のチャンス」との便乗値上げが横行したが、今回は企業・消費者とも減量経営・買い控えで対抗した。③日銀の早めの金融引き締めで通貨供給が抑制されたためなどとする。世界もこの第2次石油危機を乗り越え「80年代は石油供給過剰の時代になった」。理由として(石油価格の上昇から)非OPEC系の石油生産が大幅に増えたこと、先進国で省エネ技術開発やエネルギー源の多様化が進んだことを指摘する(昭和経済史・下)。
▼小棒輸出急増=日本は円高から円安(78年11月184円→79年11月238円)に一転し、輸出産業はこの追い風を受けた。内需も刺激され自動車、鉄鋼は過去最高の決算を記録。電炉は前年度比28%増のフル生産に走り、79年度小棒生産は1,336万トン、前年度比30%増、小棒輸出は同比2.1倍の243万トン、丸棒価格は8万円に迫った(鉄源協会)。構造不況対策として前年から「特安法」の下、設備の廃却を進めたが、廃却のほとんどが老朽・予備炉。むしろこれを機に合理化した電炉各社は生産能力アップに注力した。▼鉄屑4万円=カルテル終了後、設立された鉄屑備蓄協会は大車輪の出番となった。需給調整のための鉄屑買上げが79年1月から80年2月まで7回約4万5千トン、払下げが8回約5万9千トン、関東・関西・九州や中部地区で実施された。小棒価格が7万円に肉薄し、東鉄が内航船による国内買い付けを鮮明にした79年11月、特級価格は3万円台、翌80年2月4万円台に跳ね上がった。石油危機を追い風に電炉各社が一斉に増産に走ったこと、米GAO(米会計検査院)調査団が80年1月、米国鉄屑輸出規制のデータ収集のため来日したことが急騰のバネとなった。ただ①鉄屑備蓄協会が2万5千トンの高炉スクラップの払い出しを決めた(79年11月)、②高炉各社が3月以降ビレット10万トンを放出した。③東鉄の内航船手当てに対抗して関西電炉輸入組合が米国屑の共同手当に動き始め、電炉首脳会議で原状価格での凍結を決議したことから4月以降、沈静に向かった。さらに石油危機の対応として平均50.8%の電力料金値上げ(80年3月)、金利引き上げ(3月9%)など第1次石油危機以来となる総需要抑制策が実施され、米GAOが米鉄鋼業界の輸出規制要請を却下する報告をまとめたこと(7月)、原油・エネルギー高による景気後退懸念が重なったことから10月以降、一気に値を崩した(80年11月、26,800円)。 -
東鉄・鉄スクラップ旋風(79年11月) 日本で最後まで平炉を使い続けた東京製鉄が岡山の平炉を廃却(1977年12月末)し、電炉2基(140トン炉)で操業を開始(78年4月)。1年後の79年4月の同社(岡山、高松、九州、高知)粗鋼生産量は月間20万トンに達した。岡山工場の鉄スクラップは当初、所要の80%を海外から輸入する方針と伝えられた。これが国内屑に変ったのが79年6月。岡山価格に「海上価格」が登場したのが同年10月。さらに11月9日、同社は西日本工場の購入価格を一挙に3千円引き上げた(特級・海上35,500円)ことから、瀬戸内・関西、関東を巻き込む「東鉄旋風」が吹き荒れた。▽「岡山の鉄屑購入量は80%近くが輸入屑で賄われているが、長期的には国内屑の購入引上げが望ましい。とはいえ国内屑の入荷は早々には増えない。思い切った値上げをしないと流れは変わらない。『国内屑の集荷に対し東鉄が如何に真剣に取り組んでいるかを分かってもらうために』3千円の値上げに踏み切った」(80年1月、池谷正成社長談話)。▽以後、鉄スクラップ輸出が600万トンを越し、湾岸浜値動向が注目されるまでの約30年間(1980年~2010年)、同社の価格動向が日本の鉄スクラップの指標的な地位を占め続けた。
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H形戦争・第1次(82年8月) 「1982年8月、東京製鉄は高炉が独占していた大型H形鋼分野への進出を発表した。84年4月の稼働を目標に九州工場に大型H形鋼ミルを建設するというもので、工事が完成すればH形鋼生産は新日鉄を抜いてトップとなると予想された。また同時期、日本鋼管が系列の東伸製鋼からの委託圧延という形で増産を開始、高炉の協調体制を崩した」、「新日鉄は調整役を降り一転して攻めの販売に踏み切った。これに他の高炉も同調し、電炉も応戦したため双方のシェア争いが本格化(阪和興業四十年史)」した。▽10月からわずか3ヶ月の間に小型の市中相場は7万3千円から5万5千円まで暴落。H形のドロ沼化は他の商品にも波及した。この結果、新日鉄をリーダーとする「高炉協調体制」は(東鉄という電炉企業の市場参入により)崩壊。高炉・電炉が入り乱れたシェア争いのなか市中相場は急落し、鋼材問屋に多額の評価損を与えたことなどから83年2月、採算割れに陥った高炉・電炉が後仕切りを廃して第1次H形戦は休戦に入った」(同)。同じ82年8月、新日鉄は74年の中止以来8年ぶりに(光製鉄所を除く)全国7製鉄所で市中鉄屑の購入再開を発表した。業界ではH形戦争の鉄屑版との見方が専らだった。
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特定産業構造改善措置法(産構法・83年6月) リサイクル関連法制の項参照
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H形戦争・第2次(84年5月) 東京製鉄は九州工場の大型H形鋼ミルを1984年4月稼働させたが、受注が極端に少なかったことから5月、販売促進のため6千円値下げを発表した。高炉も対抗値下げに動いたため第2次H形戦争が始まった。▽直後の6月、新日鉄は大分や名古屋などで鉄屑増量買いを発表し、製品から原料全般に及ぶ全面抗争の様相を見せた。ただ前回(82年9月~83年2月)の経験から、長期化を懸念した流通業界から安値自粛ムードが生まれ、東鉄も9月積み販売価格の引上げと減産を発表。紛争は短期で決着した。
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プラザ合意(85年9月)と鉄屑 貿易収支と経常収支の双子の赤字に苦しんだ米国では、基礎的条件の悪化にも係わらずドル高が続き、その信認が揺らげば一気にドル暴落の危険があった。このため1985年9月、G5(日、米、英、西独、仏)は緊急蔵相・中央銀行総裁会議を開き、ドル高是正の協調に動いた(プラザ合意)。▽積極的な円高を是認した日本の円相場は合意直前の1ドル250円台から年末200円台、翌86年8月以降は150円台(40%の円高)に急騰し、88年12月(122円)をピークとする丸3年以上に及ぶ長い円高が続いた。▼「新価格体系」へ移行=40%の円高は対外的には品代40%の値上げ効果を持ち、対内的には40%の値下げ効果を持つ。鉄鋼は直接輸出が生産の3割を占め、国内鋼材も4割が製品として外へ出ていった。その製品単価が40%ダウンした。鉄屑業界は需給の悪化(生産抑制)と為替高(輸入価格安)の両面から新たな(水準切り下げ)価格体系の構築を迫られた。カルテル廃止後の75年から85年までの11年間の鉄屑価格平均は25,400円。プラザ合意後の86年から中国バブルが始まる02年までの16年間の平均が13,400円、約47%ダウン。86年以降、月間平均価格が2万円を超すことはついになかった(為替調整安)。
▼鉄屑備蓄協会、機能停止(86年7月)=カルテル後継機関として設立された日本鉄屑備蓄協会は需給安定のため鉄屑備蓄を行っていた。備蓄協会の本来機能(鉄屑備蓄)が円高で一挙に失われた。市中実勢が1万3千円を割った86年5月、製品急落(5万3千→3万5千円)に苦しむ電炉側が備蓄(買い)に反対したため7月以降の備蓄は停止。円高定着を呼び込むプラザ合意は、電炉の製品輸出と鉄屑備蓄の終りの宣告でもあった。▼伸鉄業界にとどめの一撃=円高が付加価値の低い伸鉄業界の経営余地を狭めた。「86年以降、大阪だけでも布施製鋼、七福鋼業、大正伸鉄、住江製鋼、平和鉄工。広島鞆では山陽金属工業、宮本鋼材、平和鋼材、大倉製鋼、蔵本鉄工など。そのほか四国、関東を含めて(廃業は)十数社を数え、伸鉄の大半の灯が消えた」(阪和興業四十年史)。
▼マイナス価格の登場=プラザ合意直前の85年8月2万5千円台だったH2炉前価格は1年後の86年8月には1万4千円台(下落率44%)に陥没。危機感を強めた鉄屑工業会は「空缶・廃家電製品などの下級くず類は『処理費』を申し受けなければ回収できない状況」とのPR文書をだした。同月、四国再生資源加工処理協同組合は地元の徳島新聞の一面を買い切って「円高が続くと古紙、鉄クズ、廃車クズなどの回収ができなくなる」との意見広告を掲載し世間を驚かせた。 -
バブル経済(86年11月~91年2月) 1985年9月のプラザ合意を起点とする「円高不況」対策が発端。円高対策の対米公約(前川レポート)とされた内需拡大・都市再開発による土地高、87年2月以来27ヶ月に及んだ2.5%の超低金利を嫌って株式に殺到した株式高、優良貸し出し先を失った銀行の「新規融資」として土地再開発に向った不動産・建設バブル、この相乗による「資産効果」、「信用膨張」の全体を言う(87年末、日本の地価総額は米国全体の2.9倍、88年1月現在東京銀座の1等地は1坪1億円を超えた。昭和経済史・下)。▼バブルと小形棒鋼=構造不況法(特安法、産構法)によって設備投資が抑制された11年間、電炉設備工事は建屋集塵などの公害対策や予熱装置・自家発電の省コスト対策、LF(炉外精錬)、電磁攪拌などの高品位化、トランス、連鋳などの改良・更新に限られた。しかし同法終了(88年6月)直後、バブル需要に遭遇した電炉業界は、一斉に新鋭電炉導入と大型化に走った。小形棒鋼生産は89年(暦年)が1,260万トン。地価高騰と不動産建設の真っ只中の90年には1,375万トンを記録。丸棒価格は90年初の5万7千円から同年11月6万円乗せに迫ったあと92年4月まで1年3カ月にわたり6万円前後で「固定」。この小棒価格の高値安定と秩序だった販売は構造不況法の「学習効果」の賜物とされた。▼バブルと鉄スクラップ=鉄屑供給は1987年以来、バブル景気の市中・工場発生を追って年間200万トンペースで増え続けた。ヤード業者の設備や輸送車両などの大型化も進み処理・出荷能力は飛躍的に向上した。鉄屑価格は「円高」(鉄屑価格抑制)とバブルによる鉄屑供給の増加から、1万5千円中心の狭いボックス圏内に封じ込められたが、扱い業者は数量景気の恩恵には浴した。▼備蓄協会の改組と月曜会の鉄屑輸出挑戦=円高で鉄屑備蓄の本来機能を喪失した日本鉄屑備蓄協会は1988年8月、鉄屑の余剰化に備え内外の鉄源調査を主務とする日本鉄源協会に改組した。この需給動向の変化に危機感を抱いた関東月曜会(関東で複数以上のヤードを持つ大手業者が83年結成した任意組合)は「鉄屑輸出時代の到来に備え」88年6月、メンバー独自で韓国向け鉄屑輸出に挑戦した。
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バブル経済・崩壊 日銀はバブル封じのため1989年5月以降、1年3カ月の間に5回金利引上げを断行(2.5%→90年8月6.0%)。政府も不動産関連融資の総量規制(90年4月)、地価税(91年5月公布、92年1月施行)を制定したため、株、地価ともに90年をピークに下落に転じた。その値崩れの穴埋めが「損失補填」問題(91年3月)として表面化した。バブル破裂とは株式不況(資産目減り)と共に住宅・建設不況であり、銀行の与信管理問題であった。建設・公共関連である小棒もドミノ(将棋倒し)的減産に追い込まれた。▼鉄スクラップ(逆有償)=バブル崩壊後、国内鉄屑需給は「供給過剰と消費過小」のダブルパンチに叩かれ、鉄屑価格は1991年後半から下げ足を速めた。この安値を嫌って関東湾岸から西送りの船荷が月間10万トン台に乗り(91年6月)、路上放棄車が増加するなか自動車工業会(自工会)は「路上放置車処理協会」を結成(7月)。関西鉄源協議会など任意団体は「品代と回収・運賃は別建て」とのパンフレットを作成(8月)、石川県6団体は逆有償の意見広告(10月)を掲示した。また関東月曜会の後継団体である関東鉄源協議会は、共同輸出に動き出した(91年11月)。関東では電炉特A・手形9千円(伊藤製鉄)が出現。全国的にもH2・1万1千~2千円(72年以来の安値)に暴落した(11月)。▼資源業者(日資連)=日本再生資源回収組合連合会は91年11月「丸棒価格が6万円で、なぜ鉄スクラップは5千円なのか」とのスローガンのもと、東京・読売ホールで全国大集会を開催。経団連まで街頭デモを行い、鉄鋼連盟、普電工に要望書を提出した。デモ行進は鉄屑カルテルの結成に反対し55年日比谷公園に集まって以来、36年ぶりだった。▼鉄屑余剰対策=日本鉄源協会は91年4月、95年度の粗鋼生産を1億500万トン、電炉シェアを現行32%とした場合、89年度比500万トン超の鉄屑余剰が発生するとの見通しをまとめ、協会は92年2月「冷鉄源需給問題特別部会」を設置して余剰スクラップ輸出の検討を開始した。この一環として鉄源利用促進協会の依頼を受けた日本鉄屑工業会は運営委員長を団長に92年2月9日から22日までアセアン5カ国の現地調査を行い「東南アジア鉄スクラップ需給調査報告書」をまとめた。▼電炉業界の優位性崩壊=歴史的に見れば、この年を境に電炉業界は内外で鉄屑独占の優位性を失った。つまり対内的には高炉・構内電炉の登場(1990~94年)で国内独占が崩れ、対外的には新たな需要開拓気運が公然と登場し(海外需給調査団の派遣)、海外需要家との争奪の可能性が浮上した。電炉による国内鉄屑独占はこの時、破られたといえる。
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平成不況(91年5月~02年1月 失われた10年) 92年に崩壊したバブル後遺症は、地価上昇を前提に貸し込んだ銀行・住専(住宅金融専門会社)やゼネコンなどの「多重債務」「逆資産効果」として表面化(93年)。政府は住専に公的資金を注入(95年12月)し、危機を乗り切ったかに見えた。▼97年=しかし橋本政権が、消費税引上げを含む実質9兆円増税(97年4月)、98年度からの公共投資の7%一律カット(6月)に踏み切ったことなどから、戦後初のゼネコン倒産(7月)、北海道拓殖銀行や山一証券の破綻(11月)が相次ぎ、本体金融機関や大手証券会社(三洋、山一)の経営破綻が表面化した。海外でもアジア各国の通貨危機(8月)、韓国のIMF管理(12月)が渦巻いた。▼98年=大蔵省は不良債権76.7兆円と発表(1月)、与信不安が再燃した。海外ではロシア通貨危機(8月)、国内では日本長期信用銀行が破綻(10月)、日本債券信用銀行も国の特別管理下に入った(12月)。▼99年=金融監督庁は、不良債権73兆円と発表(1月)。日銀は短期金利を0.15%へ引下げる実質「ゼロ金利」に踏切った(2月)。▼2000年=破綻企業救済のため従来の和議法を廃止して再建型民事再生法がスタート(4月)。金融庁が発足(7月)。このなか日銀(速水総裁)は政府の延期要請を振り切ってゼロ金利政策を解除、10年ぶりの利上げ(短期金利目標0.25%)に踏み切った(8月)。▼01年=この日銀の利上げも景気悪化に伴い、再び金利引下げ策に戻った(2月。9月ゼロ金利)、さらに銀行の資金流通量を促す「量的緩和」(ゼロ金利だけではなく銀行が必要とする以上に供給する)策に追い込まれた(3月)。97年の橋本政権の早すぎた増税策の失政と同様、日銀の早すぎたゼロ金利解除が経済回復の足を蹴飛ばした、とされた。▼小泉財政再建=2001年4月発足した小泉政権は「構造改革なくして景気回復なし」とのスローガンのもと①不良債権処理、②競争的経済システム、③財政健全を掲げた。バブル破裂対策として打ち出した総合経済対策と急激に膨れ上がった公共事業投資額を向こう10年間で欧米並みの国内総生産(GDP)比率まで落とすとの財政方針(7月、次年度の公共事業関連予算10%削減)を掲げた。▼02年=不良債権処理のため「金融再生プログラム」(10月)を公表。不良債権の半減目標と個別金融機関への資金投入を可能とする10兆円超の公的資金投入や日銀の「量的緩和」(01年)をバックに不良債処理を進めた。主要銀行に限れば02年3月末不良債権率8.4%から06年3月末1.8%に低下した。▼しかし実感なき景気回復=2002年2月から始まった景気拡大は01年12月の中国WTO加盟を起点とする輸出主導で始まった。大手企業は国際競争に生き残るため利益を設備投資とTOB対策としての株主還元に充て、労働賃金を抑え込んだ。フリーターや非正規雇用増加による「賃金格差」が社会問題となった。
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平成不況とは何か 日本が世界に先立って経験した現代経済市場下での初の真性デフレーション不況とされる。1991年5月に始まり、2002年2月に底を打つまで10年以上に及んだ(「失われた10年」)。特徴は、①株、地価暴落による「逆資産効果」、バブル後遺症や資産デフレによる企業・個人の「多重債務」と銀行等の「与信管理不安」(01年、不良債権100兆円超)。②丸7年にわたる長期かつ大幅な円高不況(91年6月139円→95年6月85円→98年6月139円)と産業空洞化、海外生産シフトにともなう国内投資の不在(「債務・設備・雇用」の3過剰)。③東西冷戦の終結(91年12月、ソ連崩壊)と米国型投資経済の膨張、旧社会主義国の労働市場開放(92年、中国の社会主義市場経済)、経済活動のグローバル化から「輸入デフレ」の定着(賃金、物価の継続的下落)などが絡み合い、「生産活動の低下→物価・労賃下落(世界労賃水準への切り下げ)→購買力低下→生産活動の縮小」の負の循環が、スパイラル状に拡大、進行したことだ。日銀は、デフレ不況が悪化した1999年から実質ゼロ金利、2001年からは強制的に資金供給を促す「量的緩和」を採用した。金利操作という伝統手法を失った後の「非伝統的な」世界初の金融手法だった。08年のリーマンショック後、信用秩序の破綻の危機に際した欧米主要銀行も日銀手法にならうことになる。
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日産・ゴーンショック(2000年) 不況のなかで外資傘下の自動車メーカーは主力材料である鋼鈑の購買先を絞り込んだ。フォード傘下のマツダは1999年7月メッキ鋼板の調達先を6社から新日鉄、住金の2社に、GM傘下のいすゞも5社から新日鉄、NKK、川鉄の3社に、同年3月ルノー傘下に入った日産自動車は10月、国内5工場の閉鎖と2万人削減、購買コストは3年間で1兆円の削減を目標とした「日産リバイバルプラン」を発表。この方針のもと2000年1月、鋼板購入は大手5社から新日鉄を中心に川鉄、NKK、神鋼に集約した(ゴーンショック)。
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JFEが登場、鉄鋼は2大グループへ 2000年のゴーンショックが、川鉄とNKKの統合を促した。両社は01年4月、2年後をメドとする合併計画を発表。八幡と富士の合併は(住金事件に端を発した)過当競争回避を目指す供給者同士の棲み分けを目指したが、30年後のそれは強大なユーザーへの対抗を目指す供給者同士の守りからの集約だった。▽NKKと川鉄は02年9月、JFEホールディングスを設立。03年4月両社統合の製鉄会社として千葉、京浜、福山、倉敷に生産拠点を持つJFEスチールを立ち上げた。▽これに新日鉄を軸とする神鋼、住金の提携が続いた。01年12月新日鉄と神鋼(4日)、新日鉄と住金(11日)は相次いで包括的業務提携を締結した。信用収縮と世界的な不況の連鎖が広がる中、02年11月には住金の株価が36円、神鋼が42円に暴落する額面割れが続出。この不安を払拭する意味を含めて同月、新日鉄と住金、神鋼3社は相互に資本を持ち合い業務提携を進めると発表した(05年12月には持株比率を高め戦略的提携を深めた)。
国内は高炉大手6社体制から川鉄とNKK連合のJFEグループ(粗鋼生産2,500万トン)と新日鉄・住金・神鋼連合(4,200万トン超)の2大グループに集約された。 -
鉄鋼の選択と集中(1993~2002年) 鉄鋼2大グループ出現の背景には、高炉役員・経産省局長等が作成した「鉄鋼業の競争力と将来展望」(01年12月)報告があった。▽「将来展望」は小泉政権(01年4月~06年9月)の公共投資の大幅圧縮(現状の4割削減)方針から建設需要は今後10年で「2割程度は減少」し「粗鋼生産は1億トンから概ね9千万トン前後にシフトする」可能性を指摘。対策として「生産拠点の集約化と効率的な生産棲み分け」(選択と集中)、国内「高炉と電炉」の役割分担が必要、と提言した。鉄鋼各社の「選択と集中」を年表的に整理すれば、次の通りである。
▼93年=7月新日鉄・広畑、高炉撤去。▼94年=9月合同製鉄、高炉撤去。▼96年=7月新日鉄・釜石、高炉撤去。▼98年=8月大倉商事、自己破産。9月トーア・スチール、任意清算(親会社NKKが99年4月、NKK条鋼として継承)。9月ヤハギ、準自己破産。▼99年=3月中山鋼業、会社更生法適用申請(2001年12月会社更生法計画案承認)。▼2000年=2月昭和鋼業、解散(商権は日本スチールへ)、3月東海鋼業、解散(4月新日鉄と九州製鋼がトーカイ設立)。4月東洋製鋼、倒産(産業再生法により小棒商権は朝日工業へ)、6月淀川製鋼所、製鋼部門廃止。▼01年=10月平鋼の関西製鋼と臨港製鉄合併(新関西製鉄として新発足)。住金は11月溶接材事業を、12月ステンレス事業を新日鉄と統合すると発表した。▼02年=7月中山製鋼、高炉撤去。12月住友電工、製鋼部門廃止。12月国光製鋼、倒産。▼03年=7月石原製鋼所、自主廃業。10月住金、ステンレス事業を新日鉄と統合(新日鉄住金ステンレス)。11月住金、和歌山の高炉・転炉を台湾の中国鋼鉄と共同運営する「住金鋼鉄和歌山」設立。▼05年=東鉄は5月、愛知県田原市に新工場建設と発表(10年3月電炉製鋼開始・420トン電炉1基・薄板250万トン生産を目指した)。同社の品種構成は「条鋼類6、鋼板類4」だが、九州の厚板ミル(07年1月稼動)、自動車用鋼鈑も視野に入れた田原の稼動が軌道に乗れば4対6に逆転する。高付加価値生産で生残りを目指した。
■商社(分社と統合)=商社本体の再編も進み、商社原料部隊の分社、子会社化が相次いだ。丸紅の株価は2001年12月58円。02年3月期には1,164億円の最終赤字を計上し、株価は倒産株価以下に暴落した。▼ニチメンは2002年12月、鉄鋼部門を住友商事に譲渡。三菱商事と日商岩井は03年1月、鉄鋼原料を除く鉄鋼製品部門統合子会社として「メタルワン」(三菱6割、日商4割)を、日商岩井鉄鋼建材およびエムシー・メタルテックを統合して「メタルワン建材」を、設立。04年7月、旧三菱商事及び旧日商岩井の鉄スクラップ部門を同建材に移管。ニチメンと日商岩井HDは04年4月、双日を設立。川鉄商事も同年8月、JFE商事HDを設立し、NKKトレーディーデングを傘下に置くJFE商事として発足した(10月)。
■鉄スクラップ(50年来の安値)=トーア・スチール、任意清算などから不況が極まった1998年~2001年にかけ、電炉各社のH2炉前価格は6~8千円台の過去50年来の安値に落込んだ。国内では排出者に処理料金を請求する「逆有償」(用語の項参照)が一般化し、国は各種リサイクル法の制定に動き始め、業者は結束して、海外に輸出販路を求め始めた(「バブル経済・崩壊」の項参照)。 -
鉄スクラップ先物取引(05年~09年) 中部商品取引所は2005年10月11日、鉄スクラップ先物市場として「新断」を期間3年で試験上場した。市場参加型の新たな指標・マーケットを社会に提供するとの挑戦だった。その後、試験期間を1年延長したが09年8月、「十分な取引量が見込まれる」との上場要件を満たさないとして上場を断念した。
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京都議定書と鉄スクラップ 地球サミット(1992年)を受け、国連気候変動枠組み条約締約国会議が京都で開催(COP3)され、温暖化防止の「京都議定書」が締結された(97年12月)。議定書は2005年2月から発効し、加盟国は08年1月1日から削減実行期間に入った(日本は会計制度の関係で同年4月開始)。▼その内容は①第一約束期間(2008~12年の5年間)にCO2など地球温暖化ガス(6種類)を90年の水準に比べ加盟国全体で5.2%削減。②削減目標はEUが8%、米国7%、日本6%。③温室効果ガスを削減するためCDM(クリーン開発メカニズム)や排出権取引などの「京都メカニズム」を創設する。ただ米国が議定書から離脱し、発展途上国であるとして中国、インド、韓国などが枠外となったことから削減義務国は世界全体の4分の1程度となり実効性が疑われた。▼鉄鋼会社(CO2削減対策)=高炉会社の鉄スクラップ購入はLD転炉法の全面採用(1960~65年)を機に急減。72年前後には高炉各社は鉄スクラップの外部購入を中止した。この流れが変わるのは円高不況のなか高炉を廃却した新日鉄が、上工程の鉄源不足対策として鉄スクラップ購入を再開(93年)してからであり、全面的に拡大したのは京都議定書の発効が確定した05年以降である。高炉会社全体の鉄スクラップ製鋼配合率は1965~70年度は18~20%、LD転炉法が普及した80年度以降は1桁台に落ち、2002年度までの23年間の平均配合率は7%台であった。これが03年度以降急増し、CO2削減対策が本格化した08年10月の配合率は15.3%、従来の2倍以上を記録した。▼鉄スクラップ(高炉の鉄スクラップ外部購入復活)=鉄鋼のCO2排出は鉄鉱石由来の粗鋼1トンで約2トン前後。電気を使う電炉鋼は340㎏で高炉排出量の約4~6分の1(普電工・品質環境委員会資料)。高炉などが転炉に鉄スクラップを装入する場合は(装入エネルギーによるCO2排出は伴うが)溶銑の高熱で熔解するため、新規のCO2排出量は原理的にはゼロに近い。高炉では新日鉄が1993年以降、鉄スクラップの購入再開に乗り出し、JFEスチールはCO2削減のため京浜に鉄スクラップを年間50万トン装入する「新型シャフト炉」を建設(2008年8月稼動)し、京浜、倉敷、福山の各製鉄所でも既存転炉を改造(ランス増設)するなど鉄スクラップ使用を強化した。また新日鉄(名古屋、大分)は鉄スクラップ使用のため08年、構内に3,500~4,500馬力のシュレッダープラントを導入した。▼リサイクル業者(21世紀の戦略産業)=地球温暖化防止と持続可能な経済活動を目的に制定された各種リサイクル法は「拡大生産者責任」を採用し、製造会社に資源の有効利用と地球温暖化防止につながるリサイクル責任を課した。法律は適正な第三者への処理委託を認めるから処理ノウハウを蓄積した鉄スクラップ業者が、製造者の管理監督責任の下、温暖化防止を担う実務企業として登場した(家電リサイクル法、自動車リサイクル法)。
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アルセロール・ミタル社(06年)が登場 インド出身のラクシュミ・ミタルが1976年にインドネシアで設立した「イスパット」(電炉メーカー)に始まる。89年のトリニダード・トバコを皮切りにメキシコ(92年)、カザフスタン(95年)、ウクライナなど中米、旧ソ連など経営危機に陥った国営鉄鋼メーカーや北米でも鉄鋼会社(インランド・スチール98年)を買収し急成長した。2005年イスパットとLNMを合併してミタル・スチールを創設し、同年ウィルバー・ロスの保有するインターナショナル・スチール・グループ(ISG)4社を45億ドルで買収、世界の最大手鉄鋼会社に名乗りを上げた。▼06年1月、ミタル社は前年まで世界の鉄鋼トップだったアルセロール社(注1)にTOB(株式公開買い付け)を仕掛け、06年8月1日付けで粗鋼生産能力1.1億トンを有するアルセロール・ミタル社を設立した。*(注)アルセロール社=仏・ユジノール、ルクセンブルグのアーベッド、スペインのアセラリアの3社が合併。2002年、世界最大の鉄鋼メーカーとなった。
▼TOBと日本の鉄鋼=東西を隔てた政治的な壁が消え、資金・経済のグローバル化が国境を超えて活発化するなか、TOBが鉄鋼戦略の一つとなった。関係者はミタルの次の標的は世界一の技術力を誇る日本メーカーと見た。日本でも自社株を買収原資に使える「三角合併」が2007年5月解禁された。外資による買収条件も整った。ミタルの最初の標的が「新日鉄でなかったのは幸いだった」(新日鉄社長)。これを契機に日本の鉄鋼各社はTOB対策に傾注することになった。 -
日本高炉の対ミタル対策 03年以来の高炉戦略は、先の「鉄鋼業の競争力強化と将来展望」に沿ったものだが、それらはバブル後遺症による公共工事の長期的な縮小や国内需要の後退などに備えた国内体制の再構築(リストラ)を前提としていた。TOBなどを駆使した海外からの再編攻勢や世界粗鋼生産の半分を占めるに至った中国や成長著しい韓国、台湾などの世界市場の変化を前提としたものではなかった。日本はハード(設備)とソフト(株主)の両面から早急な戦略、戦術の組み替えが求められた。まずTOB対策の強化と世界で闘う新組織の設計が模索された。
■TOB対策=ミタルがアルセロールにTOBを仕掛けた(06年1月)直後、新日鉄は同社株15%以上の買収に対する防衛策を策定(3月29日)し、新日鉄と住金・神鋼の3社は相互に敵対的買収の共同防衛策を発表した。▼国内対策=関連会社との関係も見直した。山陽特殊製鋼を持分法適用とし(06年2月、持株15%へ)、子会社の日鉄商事と合わせて中部鋼鈑の筆頭株主となり(07年1月9%保有へ)、合同製鉄(同6月、15%へ)、王子製鉄(同9月、大同特殊鋼保有の42.8%を取得)も持分適用会社とした。新日鉄は旧日本製鉄時代にルーツを持つ大阪製鉄(形鋼トップ)と合わせ、山陽特殊製鋼、大同特殊鋼(特殊鋼トップ)、王子製鉄(平鋼トップ)、合同製鉄(条鋼・線材)など国内各種鋼材トップ企業を傘下に収めた。▼海外対策=06年10月、韓国のポスコと新日鉄は高炉改修時の半製品の相互融通を発表。中国の宝鋼集団が新日鉄に出資を要請した(同年12月)。また新日鉄はブラジルのウジミナスに直接資本参加して同社の経営権を握る株主グループに参画(06年11月)し、同社を持分適用会社とした(同年12月)。▼海外高炉構想も=新日鉄は08年7月、ウジミナスに製鉄所を建設すると発表(リーマンショック後、計画凍結)。JFEスチールは08年4月、韓国の東国製鋼(JFEが15%出資)やヴァーレと合弁で製鉄所建設を目指すとした(リーマンショック後、計画変更)。住金も07年12月、仏鉄鋼会社と共同でブラジルに高炉一貫建設の参画覚書に調印した。またインドには、新日鉄がタタ製鉄と、JFEが15%弱を出資するインドJSWと、住金はブーシャン社と組んで、高炉一貫製鉄所プロジェクトへ参画。タイでも新日鉄、JFEが新高炉建設プロジェクトに名乗りを上げ、簡易製鉄法であるITmk3を開発した神鋼は米国に続いて、インドやベトナムでも同プラント建設に動きだした。 -
05年耐震偽装事件と改正建築基準法 必要な鉄筋量の使用量を2~4割減らしてマンションなどを施工した設計事務所の耐震偽装が2005年11月発覚し、社会問題になった(耐震強度偽装事件)。再発防止のため建築基準法が改正され07年6月20日から施行された。ただ改正法は事前周知が徹底せず、何重にも厳格な規定を設けたため、受付事務や施工現場は混乱し工事中断が各地で相次いだ。新設住宅戸数は施行直後の07年7月から前年比4割以上のマイナスに転落し、新築工事の混乱は半年以上も続いた(8月前年同月比43%減、9月44%減、10月35%減、11月27%減)。
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資源バブルとBRICs 東西冷戦の終結(1991年12月、ソ連崩壊)と米国型投資経済の膨張、旧社会主義国の労働市場開放(社会主義市場経済)による経済活動のグローバル化などから、世界経済は2003年以降持続的に拡大した。前年比・伸び率は03年4.0%、04年5.3%、05年4.8%、06年5.1%、07年5.0%(IMF資料)と好況が続いた。▼起点となったのがBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)を中軸とする新興市場国の急激かつ持続的な経済拡大だった(新興市場国全体の伸び率は03年6.2%、04年7.6%、05年7.3%、06年7.9%、07年8.0%と世界平均を3ポイント前後、上回る)。▼BRICsなる用語が登場した03年以降、世界の資源・エネルギー環境は一変した。米国コンポジット価格は01年11月の64ドルから04年11月250ドルに跳ね上がった。05年の鉄鉱石長期契約価格は前年比71.5%高、石炭価格は同2.2倍(過去最高の上げ幅)。07年のロンドン金属取引所(LME)相場はニッケル(98年比約6.4倍)、銅(4.6倍)、鉛(6.1倍)、亜鉛(2.8倍)とも過去最高。NY・WTI原油(同5.5倍)、NY金2.4倍)も急伸。鉄鉱石価格は5年間で約2.9倍、日本のH2炉前価格も27年ぶりに4万円の大台(07年9月)に乗った。
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サブプライムローン問題(07年8月)と資源バブル(07年~08年7月) 通常、支払能力に疑問のつく劣等ローン。米国の住宅バブルを通じて住宅価格が上昇したため上昇分を担保に支払い能力不安者にもローンが組まれた。これら劣等ローンは金融技術によって小口証券化され(RMBS=住宅ローン担保証券)、再加工(CDO=債務担保証券)され、世界中のさまざまな金融商品に複雑に組込まれた。これが2007年8月破綻。欧米系銀行や証券会社は突然の「不良債権」問題に投げ込まれた。この金融リスクから株式相場は暴落。G7は世界経済の警戒声明(07年10月)を出し、欧米各国や中央銀行はリスク回避のため金利引下げに走った。▼歴史の皮肉は欧米先進国が(サブプライムローンによる不良債権や信用回復対策として)投じた資金供与や低金利政策によって生み出された大量の余剰マネーが(株式、実体経済などの不信から)行き場を失い、商品市場や新興市場国へ流れ込み、未曾有の資源・エネルギー・穀物相場高を巻き起こし、金融・信用不安と資源・エネルギー価格の急騰が同時に進行した。▼ロバート・シラー、エール大学教授によれば「米国主要10都市で見た住宅価格は06年10月にピークをうち、15ヶ月連続で下降し値下がり率は7%強。過去の経験から住宅の本格的な調整はさらに長引く可能性が高い」「適切な手を打たないと日本のバブル崩壊と似た経験をする恐れがある」(08.1.12日経)と警告。08年前半は金融・信用不安と資源バブルが並列進行した。▼その一方、ブラジル・ヴァーレと日本の高炉は、4月から始まる鉄鉱石・年度価格を前年度比65%値上げで合意(08年2月)した。しかも豪州に拠点を持つリオ・ティントはヴァーレの値上げに同調せず、中国との間で80%値上げを取り付けた(6月)。鉄鋼連盟は7月、鉄鉱石・原料炭の調達コストアップを3兆5千億円と試算。溶銑価格は1トン当たり5万円台に乗ったとされた。年初から騰勢を強めたNY原油(WTI)は7月11日147ドルの史上最高値を記録した(東鉄・岡山、特級7月15日7万2千円)。ただ米国当局が投機規制に乗り出したことから原油相場も急落。証券会社や銀行の信用不安が高まるなか7月第2週523ドルの高値をつけた米コンポジット価格を始め、LME非鉄関連、内外鉄スクラップは8月以降一気に崩れ始めた。
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リーマン・ショック(08年9月) サブプライムローン問題を持ち越した08年、米大手銀行(シティバンク)・証券会社(メリルリンチなど)などの巨額損失が相次ぎ表面化。不安が高まった9月、全米4位の証券会社リーマン・ブラザーズが突然、連邦破産法第11章(日本の民事再生法相当)の適用を申請(9月15日)。世界は「百年に1度の危機」(グリーンスパン)に震え上がった。▼世界は一斉に財政出動=米国は直ちに7千億ドルの公的資金の注入を可能とする金融安定化法を制定。欧州各国も銀行管理や公的資金の注入が相次いだ。しかしNY株や日経株は10月下旬、大暴落。欧米の主要銀行、証券会社の信用毀損と先行き不安から産業の血液(資金・信用保証)を失った世界経済は恐慌寸前の様相を呈し始めた。▽そのわずか2ヶ月後の11月9日、中国は今後の2年間で4兆元の景気刺激策を発表。米連邦準備理事会(FRB)は同年12月、実質ゼロ金利策を導入する量的緩和に踏み切った(QE1)。またオバマ新大統領は翌09年2月、約7870億ドルの景気対策を打出すなど世界は一斉に財政出動に動いた。▽08年9月から09年前半に集中した恐慌対策(財政出動)の特徴は、欧米日など先進主要国が信用維持(銀行・金融対策)から一歩踏み出し、個別産業や企業を「中核産業」保護の名目で直接支援したことだ(米国ではクライスラー社が09年4月、GMが同6月破産法11章の適用を申請、米国政府は公的資金を投入。ドイツなど欧州各国は地球環境の保護、温暖化防止との名目で自動車買替え・廃車促進補助金策を導入。09年5月日本もこれに追随した)。▼日本版、財政出動=①エコカー減税:09年4月から低公害の環境対応車は自動車重量税(国税)と自動車取得税(都道府県税)を減免する。さらに欧州の「新車買替え・廃車促進補助金制度」にならって09年4月10日から普通車25万円、軽自動車12万5千円、トラック・バスなど40~180万円の「買替え補助金」制度を新設。期間は当初10年3月末までだったが、同年9月まで延長した(この補助金で約150万台が廃車された)。②家電:エコポイント。省エネ性能の高いエアコン、冷蔵庫、TVの購入者にエコポイント(金券)を渡す制度。発行期限は09年5月15日~10年12月31日購入分まで。③住宅・エコポイント:「エコ住宅」と認定された新築(09年12月~10年12月末日までに着工)に適用した。自動車や家電製品は、鉄鋼生産の太宗を占める。自動車、家電製品への財政出動(販売促進策)は、実質的には鉄鋼産業支援でもあったろう(自動車や鉄鋼生産は09年下期以降、前期比2~3割急増した)。▼世界粗鋼生産は急減=世界鉄鋼協会は08年10月、粗鋼生産予測の公表を見送った。「9月から世界は大きく動いている。そんなとき需要見通しを出すのは罪だ」との理由だ。粗鋼生産は10月から急ブレーキがかかり08年は前年(13.5億トン)比マイナス1.3%の13.3億トン、09年もマイナス7.3%の12.3億トンと2年連続で陥没。世界の09年1~3月期粗鋼生産は前年同期比23%減、4~6月期も同比22%減。1~6月期は同比21%減。▼日本の粗鋼生産は半減=JFEは08年12月、倉敷・第3高炉を09年1月に、福山・第3高炉も2月末に休止。新日鉄は大分1号高炉の吹き止め予定を2月1日に早め、君津2号高炉も2月末、バンキング減産を実施し、住金、神鋼も生産を落した。09年1~3月期粗鋼生産は前年同期比42.9%減、4~6月期は同38.5%減に追い込まれた。▼鉄スクラップ業者、天国から地獄へ(09年)=08年の国内鉄スクラップ相場は、年始から7月までは未曾有の暴騰に終始し、8月以降は自律調整下げに転じ、9月からは世界恐慌前夜のパニック安に震え上がった。▽第1段階=08年・年始4万円(東鉄、岡山・特級、海上)→7月央7万2千円。サブプライムローン問題のなか鉄鉱石や原油の急騰が資源商品の全面高の期待を煽った。▽第2段階=7月30日7万2千円→8月末4万2千円。原油、貿易相場などの海外安から1ヶ月で3万円下落。ただ扱い業者は通常の自律反落相場と比較的冷静に見ていた。▽第3段階=9月前半4万2千円→9月末4万7千円。ブラジルのヴァーレが9月、鉄鉱石の追加値上げを要請したことから調整安後は反発すると見た業者が買いに動いた。▽第4段階=10月・リーマンショックによる荷止め、値下げの追い打ち。東鉄は10月の1ヶ月だけで13回値下げした(9月末4万7千円→11月5日1万2,500円)。電炉会社は一般に荷止めをためらわないが、ヤード業者は持ち込み業者への「買止め」を嫌う。「3時に仕入れて4時(東鉄、価格発表時刻)に損をする」状況が続き、この売買差損が業者の傷口を深く、大きく広げた。▼鉄スクラップ需給=高炉休止(計4基)などから粗鋼生産は激減(前年同期比約4割減)。09年1~3月期の鉄スクラップ消費は前年同期比53%減、4~6月期も同51%減に見舞われた。しかし(海外から見ての割安感も手伝って)09年1月以降、中国向けを中心に輸出は急増し、韓国の手当も加わった4月からは月間100万トン台に乗り、09年(暦年)輸出総量は940万トンの過去最高に達した。特級・H2炉前価格は08年11月には1万円台に急落し、業者は01年以来となる「逆有償」の検討に入った。ただ09年初めから輸出が急増し、4月を底に騰勢に転じたことから09年8月炉前価格は、3万円台を回復した。
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ソブリンリスクと世界経済(10~13年) ソブリンリスク(国家信用不安)とは2007年8月に表面化したサブプライムローン問題の長い影である。08年秋のリーマンショック、恐慌回避として主要国は財政出動が求められた。財政出動は国家の資金・信用・体力を奪う。信用低下は貸出金の取り立て不安を引き起こす。▼10年4月以降、欧州の最も弱い輪であるギリシャやスペインでソブリンリスクが表面化し、世界は再び経済破綻の危機に怯えた。民間の失敗は国家が救済できる(日本の公的資金の注入、米国のリーマンショック対策)。しかし国家財政の破綻は誰も救済できず、国家の約束で借りた金は返済されなければならない。債務免除や公的資金注入は、免除した銀行、国家の体力を奪う「負の連鎖」を生む。それが欧州をはじめ世界経済の重荷となった。
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東日本大震災と放射能汚染と鉄スクラップ(11年3月) 2011年3月11日、M9.0の巨大地震と大津波が太平洋岸の東北・関東を襲い、死者・行方不明2万人、全・半壊39万戸の大厄災をもたらした(東日本大震災)。同日午後5時、政府・東京電力は福島第一原発の非常用電源喪失を発表。12日午後から15日未明にかけ設置6基中4基が水素爆発を起こした。事故後、鮮魚や生鮮食品では放射能の「風評被害」が社会問題となった。中部、北陸電炉でも16日以降、放射能検知機が搬入車に反応した。しかし鉄鋼各社は事前に検知・返品レベルを定め(98年)、検知機を設置していたことから、風評被害は未然に防止された。韓国の鉄鋼会社も同様の対策を行っていた。このため韓国向けの鉄スクラップ輸出業務も別段の支障はなかった。その背景には鉄鋼連盟と鉄鋼各社の周到な事前対策があった。▼鉄鋼連盟の対策=鉄鋼連盟は1997年、専門ワーキンググループ(WG)を設置し、①鉄スクラップへの放射性物質問題、②原子力発電施設の解体に伴う廃棄物再利用問題を中心に検討を行い、98年「鉄スクラップへの放射性物質混入問題対策(自主運用の手引き)」を作成していた。運用、返品、隔離レベルも定め、隔離措置が必要なレベルは「5(マイクロ・シーベルト)μSv/時」と各社に提案していた。▼2000年放射線検知器、標準装備=「自主運用の手引き」に従って2000年以降、高炉や電炉など鉄鋼各社は放射線検知機を標準装備化した。このこともあってか、住友金属・和歌山(00年4月)、神鋼・加古川(同5月)、川鉄・水島(同6月)で放射線検知が相次いだ。一方、鉄スクラップ、ステンレス業界でも同時期、放射線対策が検討され(門型検知機はともかく)少なくともハンディー型検知機の備えはヤード業者段階では進んでいた。▼原発事故後の鉄鋼各社の対応=鉄鋼各社の隔離レベルは5μSv/時だが、返品レベルは周辺住民の安全ため、当初は隔離レベルの10倍、もしくは100倍も厳しい0.5~0.05μSv/時で運用していた。しかし原発事故後各地でバックグラウンド(自然背景)放射能が、0.05μSv/時を超える状況が出現したため、大方が0.5μSv/時に変更した。▼韓国の放射能対策=韓国は11年7月、放射線の安全管理体制の強化を目的とした「生活周辺放射線安全管理法」を制定(12年7月施行)。放射線基準を携帯型計測器による接触測定で0.3μSv/時未満に統一するよう要請。現代製鉄は12年1月、日本の輸出関連事業者に対し輸入玉の(放射線)返送基準を0.5μSv/時から0.3μSv/時へ引上げると通知した。▼輸出=関東鉄源協同組合は放射線検査基準(自主管理)を11年3月から0.3μSv/時、12年3月から0.2μSv/時として運用した。
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失われた20年(1992~2012年) 小泉内閣(2001年4月~06年9月)のあと短命内閣(12年12月まで6人交代)が相次いだ。「コンクリートから人へ」の公約を掲げた民主党が政権交代(09年9月)を果たしたが、外交や内政全般の公約違反、東日本大震災と原発事故の対応が問われる形で国民の信任を失い、惨敗(12年12月)。短命政権による政治的な「真空状態」から韓国(竹島)、ロシア(北方4島)、中国(尖閣島)など周辺国との領土対立が表面化。欧州危機が渦巻く10年以降は、政権基盤の弱さがつけ込まれた。米国はドル安、欧州はユーロ安のなか、経常黒字国であり政治体制が惰弱な日本は思い切った「円安」対策はとれないだろうとの投機筋の思惑から、ソブリンリスクの逃避先として円相場は歴史的水準まで急騰した(円高・デフレ経済の定着)。▽欧州危機が高まれば円高(76~80円)、危機が薄まれば円安(80~85円)との超円高・高原状況が11~12年を通じて続き、これが輸出関連産業だけでなく、国内鉄スクラップ相場の上値を封じ込めた(2011~12年の日本の鉄スクラップ相場は当時、世界の最安値)。▽マスコミはバブル崩壊後の「失われた10年」(1992~2002年)に加え、この間の円高・経済停滞を「失われた20年」と呼ぶ。
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ジャスミン革命と「イスラム国」(11年~19年) リーマンショック(08年)とソブリンリスク(10年)の世界経済の不安が、政治の弱い輪にも飛び火した。11年1月チュニジアで中東初の市民革命(ジャスミン革命。2月エジプト大統領辞任。4月シリア内戦。8月リビア・カダフィ政権転覆)からアラブ全域の既存秩序は崩壊した。この間隙を縫ってイスラム国・IS(14年6月)がシリアで建国を宣言し、シリア内戦の激化やIS排除戦争は、米国、ロシア、周辺各国を捲き込む形で拡大。また大量の難民を生み出した。
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新日鉄と住金が合併、鉄鋼再編も加速(12年) 新日鉄と住金は2011年2月、合併協議を開始し、12年10月「新日鉄住金」として登場した。日本の鉄鋼トップといえども世界5社の一角を辛うじて確保するに過ぎない(10年実績)。この危機感に突き動かされ新日鉄と住金は「世界で闘う」合併へ踏み出した。▼JFE系電炉4社も=JFEスチールでも系列電炉4社(豊平製鋼、JFE条鋼、ダイワ、東北スチール)を集約し、JFEスチール100%出資の新JFE条鋼を12年4月1日立ち上げた(東北スチールは生産休止)。▼日新製鋼・日金工も=日新製鋼と日本金属工業は12年10月、日新製鋼ホールディングスとして統合した(日金工・衣浦は上工程を休止)。
▼高炉の戦略:▽JFEスチール(12年4月、中期経営計画)=「グローバル鉄鋼会社」を目指す。高級鋼に加え新興国需要を取り込み5年後に4,000万トン生産を視野に入れる。「輸出と海外現地生産の両輪」への転換を図り自社原料比率の向上(自社原料比率30%目標)を目指す。▽新日鉄住金(13年3月、中期経営計画)=「総合力世界No.1の鉄鋼メーカー」を目指す。鉄源対策としては、高出銑比操業等を極限まで追求、より小さな固定費で高い生産性を実現すると同時に低品位原料使用等変動費面でも徹底した低コスト操業を目指す。▽神鋼(13年5月、中期経営計画)=「オンリーワン製品・技術・サービス」を中心に「17年度を目処に神戸の上工程(高炉・転炉)を休止。加古川に集約。また栃木県真岡市や神戸の高炉跡地での電力供給事業を目指す。
▼電炉の戦略:▽共英製鋼=94年ベトナムに製鋼・圧延一貫のビナ・キョウエイを設立。11年以降、ベトナムでの製鋼・圧延の増設(生産能力・年50万トン)を目指す。▽大阪製鉄=12年末にインドネシア国営クラカタウ・スチールと「PTクラカタウ オオサカ スチール」を設立。 -
鉄鋼2系統体制と業者(「合従連衡」「異業種提携」) 高炉系列、商社系列、独立系など群雄が割拠していた国内電炉会社も、12年以降、新日鉄住金系とJFE系の高炉2系統と東鉄など独立系数社に集約された。この結果トップ数社の「あうんの呼吸」が通じる「需要に見合った(協調)生産」体制が可能となった。▽需要者(鉄鋼・電炉)が少数に集約されたことから、原料鉄スクラップ業者との力関係は、劇的に変わった(買い手市場化)。これが供給側(業者)にも大きな変質を迫った。従来まで、原料問屋機能の中核は、①数量・②価格・③納期・④品質、の安定供給を、需要側に保証することにあった。ただ市中回収品である鉄スクラップは、本質的にそのいずれも、常に不安定さがつきまとった。この不安解消のため鉄鋼側は「鉄屑統制」(戦前)や「鉄屑カルテル」(戦後)を作り、強制的な数量、価格の調整を目指した。しかし高炉2系統の傘下の「需要に見合った生産」体制下では、その恐れは消えた。系統電炉ユーザー各社が「あうんの呼吸のもと」①数量と②価格の事実上の決定権を握り、分散する流通ヤード業者は、その指示のもと③納期・④品質を提供するとの関係に変化した。▽これが流通業者の「合従連衡」や異業種交流を促した。その一つは、ナショナル(地域)連合として、金属回収と産廃物処理の垣根を超え、資源リサイクルの要望に対応する体制の構築(リバーホールデングスなど)。今ひとつは、国内需要の長期的縮小と高炉2系列化の現実を見据え、納期・品質のブランド力と同時に、海外輸出、販売力を確保するとの選択である(FKSなど)。さらに自動車リサイクル、自動車リユース部品販売などに見られるグループ化、ネット連合である(ビッグウェーブ、部友会など)。エリア・ローカルの枠内に留まっていた鉄スクラップ企業が、業の未来と可能性に向け、一団となって挑戦していく姿である。さらなる企業提携が続いてもおかしくない。新たな経営戦略が求められる時代が到来した。
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金属類営業条例の復活(13年) 金属類営業条例は1951~58年にかけ全国29道府県で制定された。しかし鉄スクラップ相場が世界的に暴落(1998~2001年、逆有償)し、金属類の盗難事件も激減するなかで警察規制から外して一般行政に移行する動きが99年以降出てきた。また半数近い自治体が廃止した(14年までに13県が廃止し、存続は北海道、茨城、長野、静岡、福井、滋賀、大阪、兵庫、奈良、和歌山、岡山、広島、島根、山口、徳島の16道府県)。このなかで2000年に同条例を廃止した岐阜県が、13年10月再制定した。▼岐阜県が再制定=岐阜県は同条例を2000年廃止したが13年10月、内容を強化し再施行した。新条例は旧条例を踏襲しつつ、営業場所の制限・従業者名簿の保存・防犯対策などを追加。許可申請を排除する欠格条項の範囲も遺失物横領を含む財産犯や盗品売買、粗暴犯など廃棄物処理法並に厳格化。報告徴収範囲を旧例の「盗品等又は遺失物に関し必要な報告を求める」から「使用済金属類取引業者に対し使用済金属類営業に関し必要な報告又は資料の提出を求める」に拡大した。▼千葉県も「ヤード設置適正化条例」制定に動く=千葉県は2013年7月、ヤード設置適正化条例検討会議設置要綱を施行、不法ヤードは「犯罪の温床」との認識のもとに、14年内に条例化制定に向け動き出した。
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アベノミクスと黒田ショック(13年) 12年12月16日の選挙で勝利し、自民、公明両党で3分の2以上の安定多数を確保した安倍内閣は「デフレ修正」を目指して、2%以上のインフレを目標とする経済政策(アベノミクス)を掲げ、新政権による日銀人事(白川→黒田総裁)、政策(金融システム重視→インフレ誘導)を打ち出した。▼黒田ショック=黒田新総裁を迎えた日銀は13年4月、①2年程度の期間に2%のインフレを実現する。②手段として、12年末138兆円だった資金供給量(マネタリーベース)を14年末は270兆円に増やす「異次元金融緩和」での短期決着を目指した。▽その後、資金供給量を15年末355兆円に増とし、国債買い入れも増枠するなど数次にわたる追加緩和策を打ち出したが、目標には達せず、超低金利政策(短期金利をマイナス0.1%、長期金利をゼロ%程度)を「少なくとも20年春ごろまで」続けるとした(19年4月)。
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ゼロ金利政策と出口戦略(14年) リーマンショックから米国は実質ゼロ金利を導入(08年12月)し量的緩和に踏み切った。日本も10年10月4年ぶりにゼロ金利を復活した。ソブリンリスクが拡大するなか欧州中央銀行も、貸出金利を限りなくゼロ(0.05%)に抑え、預入にもマイナス金利を導入(14年)し量的緩和の増枠(15年)などの対策に追われた。▼ただ、これは「非伝統的」な非常措置である。まず米国が通常への出口を模索し始めた15年以降、米国金利引上げ動向が世界リスクと認識されだした。米国の国債購入は14年10月終了したが、問題はゼロ金利と量的緩和期を通じて大量のドル資金が新興国に流れ込んだ、そのゼロ金利からの脱出策だった。FRBは15年12月、金利を年0~0.25%から0.25~0.50%に引き上げた。利上げは9年半ぶり。08年末から続くゼロ金利政策を解除した。16年以降も段階的に引き上げる。米国の金利引き上げは新興国の通貨安・政策金利引上げと(ドル建て)債務悪化に直面する。それが16年以後の新興市場国リスクと見られた。▼FRBは、その後もスケジュール通り0.25%刻みの金利引き上げを継続したが、米中貿易戦争の激化などから米国経済の先行き警戒感が台頭したことから、18年12月の金利2.25~2.50%への引き上げを最後に利上げを見送った。利上げ回数は15年、16年が各1回、17年3回、18年は4回。19年は3回の利上げが予定シナリオだったとされる(見送りコメント19年1月)。
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中国の生産過剰と貿易摩擦問題(16~18年) 世界鉄鋼協会によると世界66ヶ国の粗鋼生産は17年16億7472万トン。うち中国は8億3173万トンで、世界生産のほぼ半分に迫った。OECDによると世界の粗鋼過剰生産能力は15年7億トンを超え、うち約4・3億トンが中国とされ、中国を巡る過剰生産対策が16年以降の世界の課題となった。中国の粗鋼生産急増と共に鉄鋼輸出は16年、17年連続で(日本の年間生産を上回る)1億トンを超え、米国・欧州を始め世界各国で保護貿易と関税引上げ問題が沸騰し、貿易摩擦が深刻化した。この対策として中国は16年10月、20年までに1億4千万トンの生産能力削減を公表し、18年3月李克強首相は、18年までの過去2年間で1億1千万トンを削減したと表明した。▼粗鋼能力削減の目玉の一つが、違法鋼材である地条鋼企業の整理だった。地条鋼とは、小規模誘導炉による非正規な棒鋼用半製品である。年間生産能力8千万~1億トン、全国に300社以上とされた。17年4月以降、地条鋼企業の取締りが伝えられた。▼中国の電炉化促進政策=中国廃鋼鉄応用協会は、20年の鉄スクラップの発生量は2億トン、25年には3億トン増えると予想。鉄鋼企業に配合率20%への引き上げや粗鋼生産の電炉比率20%を要請した。
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英国のEU離脱と難民問題(16年) 欧州ではソブリンリスク対策としての金融緩和に係わらず経済停滞は長期化した。そのなかジャスミン革命に失望した市民やイスラム国戦争から逃れる膨大な難民が、トルコやEU域内に殺到。世界は「21世紀の難民問題」に直面することになった。▽欧州各国は東欧の移民に加え、アラブ系難民の大量流入という新たな(経済的、宗教的、治安的)難題を抱えた。選挙の度に移民排斥・反EUを主張する政党の勢力が拡大し、国論は分裂した。難民対策も争点の一つとなった国民投票で、英国はEUからの離脱を選択した(16年6月)。
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「雑品」もしくは有害使用済機器と国際規制(18年) 配電盤、モーターなど鉄製容器収納の非鉄類(雑品)の解体は、人件費の高い日本ではコストが嵩むため処理困難物とされた。そのため90年代後半から人件費の安い中国向け輸出が増加し、00年代後半から現地に合弁、もしくは直接工場を開設する動きが拡大した。雑品の輸出量は日中両国の通関統計(鉄スクラップ・銅スクラップ)差から推計でき、04年は中国向け鉄スクラップ輸出全体の40%超に達した(06年1月17日、日刊市况通信)。このため中国国家質検総局(AQISQ)は05年1月、輸入企業を許可企業だけに限定した。鉛や有害金属を含む「雑品」貿易は、有害廃棄物の国境を越える移動」を規制するバーゼル条約(92年発効)でも問題とされた。中国は18年3月「廃棄物原料環境保護基準」(新版)を施行し、さらに中国生態環境部は18年4月、輸入廃棄物の管理品目について18年末で雑品をはじめ、雑線・廃モーターといった銅、アルミスクラップなど16品目の輸入禁止を公告した(18年4月23日、産業新聞)。▼日本でも18年4月から改正廃棄物処理法を施行し、家電リサイクル法4品目と小型家電リサイクル法指定28品目、計32品目を対象に、保管・処分業者について都道府県知事又は政令市長への届出を義務付けや保管・処分基準の遵守、都道府県による報告徴収及び立入検査、改善命令及び措置命令を規定。これとほぼ同内容を持つ改正バーゼル法を10月施行した。
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トランプ大統領と世界経済(17~20年) 米国でトランプが大統領に就任。選挙公約である移民規制からメキシコ国境に壁を建設に署名し(17年1月)、10年間で1兆ドルのインフラ投資、連邦法人税率を35%から20%の引き下げ、個人の税率や相続税率の軽減を打ち出し(3月。17年12月議会税率21%で合意)。過去最大の減税が景気の起爆剤となった(米株式相場は20年2月史上最高値)。暖化防止のパリ協定から離脱(17年6月)し、公害規制を緩めシェールオイルなどの開発を促進したことから19年以降、原油の純輸出国。「アメリカ一番」の具体化として鉄鋼に25%、アルミ10%の関税上乗せを表明(18年3月)。対米輸入車に20%の関税引き上げを提案(18年5月)するなど保護貿易の姿勢を鮮明にした。▼対米貿易額が多い中国の輸入品年間5200億ドル分を標的に、10~25%、30%の高関税(3月)を通告した(発動は第1弾18年7月、第2弾18年8月、第3弾18年9月~19年5月、第4弾19年9月~12月)。中国も米国輸入品600億ドル分5~25%の高関税を適用するとしたから、18~19年の世界経済は両大国のディール(取引)に巻き込まれ、貿易量の縮小と経済減速の危機に怯えた。▼トランプは公然とFRBに金利引き下げを促した(19年4月)。FRBは同年7月、9月、10月と0.25%刻みで利下げを実施した。
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パンデミックと世界経済(20年~) 中国を起源とする新型コロナウイルス(COVID-19)が、WHOによって「パンデミック(世界的な大流行)」と認定された(20年3月)。新型ウイルスで誰も免疫を持っていない爆発的に感染する危険が高い。ヒトとヒトの接触禁止、外出禁止、都市・国境封鎖(3月)が広がった。ヒトの移動が禁止されるから、現在産業の中核である物流・サービスなど第三次産業は全く動けない。1929年の世界恐慌以来のマイナス成長(IMF専務理事)の危機が予想された。FRBは3月3日0.5%、同月15日1.0%の大幅利下げと無制限の量的緩和に踏み切った。FRBは雇用の回復などを条件に「景気が(新型コロナに)耐え切ったと確信が持てるまで、ゼロ金利政策を据え置く」とした。▼世界各国は、経済陥没、大量失業、社会不安の拡大に備え、国内総生産(GDP)の10~20%相当の巨額の対策費を計上した。IMFは、2.9%のプラス成長だった19年から大幅に悪化し、20年世界経済成長率予測をマイナス3.0%へ下げた(4月)。
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逆オイルショックと世界経済(20年) 原油相場(NY原油・WTI期近物)で20年4月20日、5月物の清算値が1バレルマイナス37.63ドルを付けた。買主が原油代金を払うのではなく原油と共に37ドルを貰う相場だ。パンデミックによる需要蒸発とサウジアラビアなどOPECとロシアなどで構成する「OPECプラス」の仲間割れによる供給過剰から、原油の保管場所さえひっ迫する状況が生み出した珍事だ(マイナス価格は保管費に相当する)。世界の原油需給は、米国のシェールオイルの増産とパンデミックから供給過剰は歴然だった。サウジアラビアが主導するOPECは日量1000万バレルの減産を提案したが、シェア拡大を狙うロシアは拒否。これに激怒したサウジが自国生産能力目いっぱいの増産と契約価格引き下げを断行した(3月)ことから、原油国際相場は一気に崩壊した。
米国のシェールオイルの採算ラインは1バレル40~50ドル程度。またロシアもその他の原油生産国もこの低価格では財政がもたない。そこでOPECプラスも急遽、協調減産に再結束した(4月)。しかし未曽有の世界的需要蒸発と同床異夢の政治的供給調整による価格の着地点は全く見えない。
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