製鉄・製鋼事典
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高炉(blast furnace) 鉄鉱石(酸化鉄)とコークス(脱酸材)を交互に層状を維持して1500度という高温で鉄鉱石から酸素を奪い炭素を4.5%前後含む溶銑(銑鉄=アイアン)と不純物であるスラグを取り出す長円筒型の装置。高炉は銑鉄を生産する「製銑設備」である。炭素を4.5%前後含む銑鉄は粘りがなくもろい。この原因である炭素、リン、硫黄や珪素などの不純物を取り除き粘りのある強靭な「鋼(はがね)=スチール」を作る設備(製鋼設備)が高炉と別に必要となる。その製鋼法として平炉製鋼、転炉製鋼法がある。
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高炉の歴史 15世紀前半、ドイツ西部で初めて出現したと伝えられる。低シャフト(円筒)炉を大型化(高炉)し大量の鉄鉱石と木炭を詰め込み、水車送風機を使って製鉄した。
▼シャフト炉(縦型炉)=原料や燃料などの装入物を上から入れ、炉の底部から銑鉄、スラグを排出する縦型炉。高炉もキューポラも広い意味でシャフト炉の一種である。
▼木炭制約=当時の高炉は大量の木炭を消費するため、森林が失われれば高炉生産そのものが成立しなかった(森林を費消し尽くした英国は17世紀後半、木炭不足のため銑鉄輸入国に転じた)。森を失った英国でも石炭は潤沢にあったが、石炭に含まれる硫黄が赤色脆性(900度の赤熱状態の時脆くなる)を起こすため、その使用は嫌われた。
▼コークス製鉄法(木炭制約からの自由)=18世紀初め英人、アブラハム・ダービーが石炭ガスを抜き硫黄化合物をほとんど含まないコークスを熱源とする技術を開発(1709年)。高炉の大型化に伴う生産性の良さから19世紀には完全に定着した(回収した石炭ガスを使って「ガス灯」が登場し、廃棄物であるコールタールの有効利用から近代科学が発展した。ここから鉄鋼業は近代文明の父とも称される)。その後、コークスを使って反射炉による銑鉄精錬と圧延法が開発(1783年)されたことから、コークス製鉄法は拡大した。 -
パドル製鋼法(人力製鋼法) 反射炉のなかの半溶状の鉄を「パドル」(鉄棒)でかきまわし銑鉄を錬鉄の塊として取出し、圧延機にかけ滓をしぼり出す製鋼法。これは人力による攪拌作業に頼ったから、できたのは錬鉄の一種で、生産性に限界があった。これを機械作業に置き換える画期的な製鋼法(転炉法、平炉法)が19世紀後半、登場し製銑・製鋼の一貫処理が可能となった。
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反射炉 高さ10数mに及ぶ巨大なレンガ積みの溶解炉である。高塔は自然風による火力を得るためで銑鉄の溶解は巨大な構造物底部の一小部分で行われたにすぎない。「反射炉」名称の由来は原書訳により炉天の反射熱によって金属を溶解させる、と信じられたためだ(注)が、実際は反射によってではなく「火炎が溶解室に置かれた金属(銑鉄)に直接に」当たるよう設計されていた(大橋周治・幕末明治製鉄論・1990年版)。幕末の反射炉・高炉一覧によると反射炉の着工は佐賀藩による嘉永3年(1850年)を皮切りに1850~60年代を通じて薩摩、韮山、水戸、萩など全国11所に及びうち鳥取、岡山など4つの民間経営も含まれる。*(注)=「特徴は石炭の燃焼室と銑鉄の溶解室を切り離し、硫黄分が銑鉄に入りこんで鉄に脆性を与えるのを防止できる点にあった」「石炭の炎はアーチ形をした炉天井にそって上昇し、天井から反射した熱で銑鉄の溶解が行われるので反射炉と呼ばれた」(大橋周治、幕末明治製鉄史15p、1975年版)。
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木炭高炉(日本) 燃料としては木炭を使い(洋式木炭高炉)、鉄鉱石を製錬して銑鉄を生産する洋式製鉄法。安政元年(1854年)薩摩・集成館の試験操業に始まった。安政4年(1857年)南部藩士大島高任が釜石大橋に高炉を建設し、日本で初めて洋式高炉による出銑に成功した。
その釜石地区では安政~慶応年間に10基の高炉群が建設されている。 -
出銑比 1日当たりの銑鉄生産量(トン)を高炉容量(立法メートル)で割ったもの。たとえば日量1万トンの出銑量のある高炉容量が4,500立法メートルの場合(10,000÷4,500)は2.22と計算される。
つまり出銑比が分かれば銑鉄生産能力は比較的簡単に推計できる。 -
混銑率(pig ratio) 製鋼時に製鋼炉(転炉)に装入する銑鉄の比率(百分比)。スクラップ・レーショ(scrap ratio)は、スクラップ使用率に対する用語。
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冷鉄源溶解法 転炉を使って、鉄スクラップ(冷鉄源)を直接溶解する製鋼法。高炉を廃却した新日鉄・広畑が開発した(1993年7月操業開始)。「石炭を熱源とし酸素を使用して鉄スクラップを溶解する」もので、浴中の炭素分を過多に保つことで装入鉄スクラップを「銑鉄化」させ、低温(1,300度以下)溶融を実現した。その後、高炉を廃却した中山製鋼が同様の手法でNSR(中山式転炉熔解法)を開発した(2002年7月~10年6月操業)とする。
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ITmk3(アイテイ・マークスリー) 神戸製鋼が独自に開発した高炉法、直接還元法に次ぐ第3の製鉄法。粉鉱石と粉炭を混合した上で、ペレット状にして回転炉床炉(RHF)に投入、1,300~1,450度で約10分間程度加熱する(高炉法は8時間、直接還元法で6時間)。この間にRHF内部で還元・溶融・スラグ分離が一気に進み、高炉溶銑並みの純度(鉄分96~97%、炭素2.5~3.0%)の粒鉄が出来上がる。エネルギー効率が格段に良く高炉法に比べCO2排出は20%少なく、既存の製鉄法と比較して設備投資額は約半分とされる。
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水素還元製鉄 コークスに替わって水素を還元及び熱源として使用する次世代製鉄法。
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平炉(Open Hearth furnace=OH) 近代製鋼法と同時に始まり1960年代まで世界の製鋼法の主力だった。平らな蓄熱炉に鉄スクラップを半分近く装入して製鋼する(平炉製鋼、鉄くず製鋼法)。純酸素上吹き転炉(LD炉)が普及する以前は、高炉といえども平炉製鋼で大量の鉄スクラップを使用した(日本の鉄くずカルテル結成の背景)。世界の粗鋼生産は転炉(約7割)及び電炉(約3割)で、平炉使用はロシア、東欧などごく一部に過ぎない。
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平炉法の歴史 19世紀後半、英・仏の両国に登場した高熱蓄熱燃焼炉による製鋼法。鋼と鋼滓を分離するには1,600度以上の高熱を必要とする。英国のジーメンスはこの高熱を保持する蓄熱炉を発明し1857年、銑鉄と鉱石で製鋼する特許を取得した。仏人のマルチンも同様の方式で銑鉄と鉄屑で製鋼する方式を発明した(1865年)。この両人の名を冠して平炉製鋼法をジーメンス・マルチン法と呼ぶ。日本でも、鉄鋼生産を開始して以来、戦後の1960年代まで鉄鋼生産の歴史は平炉生産と共にあった。55年から始まる鉄屑カルテルの主要メンバーが、当時平炉製鋼が中心だった高炉各社だったのはそのためだ。しかし欧州で開発されたばかりの純酸素上吹転炉(LD)製鋼法は、原理的には鉄屑装入を不要とする。高炉各社はLD転炉の導入に踏み切り(56年)、これが普及した60年代以降急速に平炉設備を駆逐した。平炉生産のピークは61年度(昭和46年)の1,725万トン。77年東鉄・岡山が日本最後の平炉の火を落とし、幕を閉じた。
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平炉の特徴・構造 平炉は高温・蓄熱式加熱方式の反射炉。炉本体の下部に大きな蓄熱室があり炉内に1,200度から1,800度までの高温を供給する。長さの割には浅い炉床があり(従って平炉と呼ばれた)、ここに銑鉄と鉄スクラップを装入し加熱、溶解する。鉄スクラップは予め配合した「装入箱」に入れ炉内に装入(水平)し、箱を反転させ、炉床に納める。建物の中に平炉が各室、横一列に並び、各室ごとに煙突が立つ。6室あれば煙突が等間隔に6本。それが見る角度によっては1本にも3本にも6本に見え、かつては「お化け煙突」の名で親しまれた、とされる。
▼鉄スクラップ配合率=高炉を持たない平炉工場で鉄屑製鋼法を行う場合の鉄スクラップ割合は60~70%ぐらい。高炉を持つ銑鋼一貫工場の場合でも製鋼するには平炉が必要で自社銑鉄を主力としつつ、鉄スクラップを35~45%見当を配合する。 -
転炉(Converter、basic oxygen furnace) 転炉(BOF)は19世紀後半に平炉とほぼ前後して開発されたが、当初の転炉は空気そのものを使用したため窒素混入が嫌われた。しかし第二次世界大戦後の安価な純酸素の普及を背景にしたLD炉の発明が、製鋼工程及び原料購買に画期をもたらした(原理的には鉄スクラップの配合は不要)。特に鉄スクラップが不足していた日本で世界に先駆けて技術開発が進み、現在では大型高炉と大型転炉の一体運用が製鋼標準モデルとなった。
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転炉(LD転炉:LD-converter)の歴史 英人・ベッセマーは溶銑中に空気を吹き込むことで銑鉄中の炭素やマンガン、ケイ素を燃焼させ酸化熱で銑鉄が鋼に転化することを発見し(1856年)、可動式転炉の特許を取得した。ただベッセマー法ではリンは除去できないから原料は低リン鉱に限定された。その後、英人・トーマスが脱リン法に成功(トーマス法)したが、両法とも窒素混入は避けられなかった。空気に替わり純酸素を送風することで、問題を克服したのがLD転炉法である(オーストリアで最初に稼動したリンツとドナビツ工場の頭文字をとった)。日本でも官営(八幡)製鉄所は開設(1901年)と共に平炉と転炉(ベッセマー法)を導入したが、やがて平炉が主力となった。遅れて高炉を建設した日本鋼管は38年(昭和13)トーマス式転炉を導入した。
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LD転炉の導入(日本) ヨーロッパからの技術導入は1956年4月、日本鋼管が行った。LD転炉導入は日本鋼管と八幡製鉄との競願となったが通産省の斡旋で鋼管がジェネラルライセンスを、八幡がサブライセンスを取得することになった。日本鋼管はLD転炉法に関する特許を独占することなく希望する国内会社に均等な機会のもとに実施を許諾した(日本戦時企業論序説)。日本初のLD転炉製鋼は八幡(57年9月50トン炉)、日本鋼管(58年1月40トン炉)で動きだし、先発高炉は一斉にLD転炉製鋼に踏切った。関西平炉3社住金、神戸もLD転炉欲しさに高炉の構内建設に走り出したとされる。LD転炉の登場が、戦後の高炉6社体制を生み出し、鉄くずカルテルに幕を引くことになった。当時(56年)世界で実際に稼動していたのは数基にすぎなかった。製鋼技術史家は、欧米で完成された技術をそのまま導入したのではなく、日本独自の研究を加え、その後の世界のLD転炉技術発展の牽引車となり、日本の鉄鋼国際競争力を支えたと評価した。
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LD転炉の特徴・構造 化学反応熱で熔解するのは従来の転炉法と同じ。原理的に鉄屑装入をゼロに押さえられる。従来炉は圧縮空気を送風したため溶鋼中に窒素分が溶け込んだが、純酸素を吹き込むLD法はその恐れがなく、機械性能に優れる鋼の製造が可能となった。設備費、生産性の面でも競争力があり高炉一体設備(溶銑装入)として経済性に優れる。当初は上吹き法が中心だったが、1970年頃には底吹き法が、80年頃から上底吹き法(上から純酸素を吹き込み、底部から不活化ガス等を吹き込み攪拌する上下吹き製鋼)が主流となった。
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電炉(electric furnace) 19世紀末に電気放熱で熔解する設備として登場した。ただ電力制約から非鉄金属精錬や特殊鋼製造から始まり、汎用品である普通鋼製造は電力事情が大幅に改善された20世紀後半になった(米国も同様)。電力さえ確保できれば比較的簡単に起業できる。この創業(操業)の簡便さから日本では伸鉄業を前身とする会社が多く、また発展途上国でも大型設備と大量の資金を必要とする高炉ではなく、需要量相当の電炉工場を建設する例が多い。
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電炉の歴史 電磁誘導の発見(1831年)とともに発電機の開発が進められ1870年前後には工業的発電能力を獲得した。英のウイルヘルム・ジーメンスが3本の黒鉛電極を炉内に下ろし銑鉄、鉄屑、鉄鉱または特殊鋼の混合原料をアークに当て溶解・精錬する特許を取得(79年、アーク式)し、エルーが電極を1本の大電流による方式に改良(99年、エルー式)し、電炉時代が到来した(鉄の文化誌及び鉄鋼製造法)。日本の電気炉製鋼は1909年(明治42)信州松本の土橋長兵衛によって始められた。土橋は11年(明治44)長野県に土橋電気製鋼所を設立。高速度鋼・特殊鋼・銑合金・銅合金を作り高速度鋼は陸・海軍工廠へ納めた。第一次大戦中はフェロアロイから鋼の一貫生産を行った(幕末明治製鉄論)と伝えられる。1914年(大正3)に勃発した第一次大戦は日本に鉄鋼ブームを巻起こし、比較的簡単に事業化に着手できる電気製銑、電気製鋼の増加を呼んだ。昭和に入って軍需品としての特殊鋼需要の高まりが急増に拍車をかけた。戦中の43年末、高周波誘導炉を含む製鋼用電気炉は701基。45年770基まで膨脹した。
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電炉会社のルーツ 電炉会社の創業は、戦前からの流れを汲む軍事・特殊鋼を中心としたそれと、戦前・戦後にかけ進出した伸鉄業にさかのぼる。戦前に起源をもつ電炉会社の一部は、特殊鋼やステンレス鋼会社(大同特殊鋼、日立金属など)となり、戦後の伸鉄業から出発したグループが電炉を導入し製鋼・圧延一体工場を建設するのは、電力事情と国内鉄屑需給が大幅に改善された1960年前後からである。この流れが見え出すのは50年代後半からで、電炉会社のおもな顔ぶれが揃うのは60~70年にかけてである(62年共英製鋼、64年臨港製鉄、71年岸和田製鋼など)。電炉会社の第3のルーツとして単独平炉からの転進がある。最大で最後のケースが78年の東京製鉄・岡山の電炉導入。鉄屑カルテル時代の66年に設立された平電炉普通鋼協議会が「平炉」の名称をはずし「普通鋼電炉工業会」に変更したのが78年。これを機に普通鋼電炉業界は新たな世界に入った。
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電炉の特徴・構造(アーク炉他) 電気炉という場合、電極からの放電熱で直接熔解する「アーク式(エール式)」を指すのが普通である。大容量が可能なことから普通鋼や特殊鋼の製鋼はアーク式を用いる。最近では交流式、直流式などに多様化している。▼誘導炉=これとは別に誘導電流の抵抗熱を利用して熔解する誘導炉がある。るつぼ(コアレス)型の周囲を誘導コイルと水冷鉄鋼管などで覆ったもので、高周波誘導炉は主にステンレス鋼など特殊鋼の精錬に、低周波誘導炉は主に非鉄金属の精錬などに用いられる。▼電炉(アーク炉)の近代化・大型化=電炉製鋼の特徴は技術革新のスピードが早いことだ。1950年代が炉外精錬、60年代が炉体の大型化とUHP(ウルトラ・ハイパワー=超高圧電力操業)法の導入、70年代には石油危機(73年)対応の省電力化技術や公害対策(建屋集塵)、炉外精錬設備、電磁攪拌などの高品位化、トランス、連鋳などの改良が進み、欧州で開発された炉底出鋼(EBT)技術の標準化、スクラップ予熱装置の採用が見られ、90年代に入って直流式(DC)電炉の開発をはじめ大型炉の導入が相次ぐこととなった。
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電炉・直流炉(DC炉) 電極を上部に3本使う交流式(AC炉)に対し電極を上部1本と下部に分ける直流を使う電炉(DC炉)。1988年以降の主力設備の一つとなった(トピー工業・豊橋30トン炉が日本初)。高価な電極コストの削減(3本から1本へ)やフリッカー(照明のちらつき)発生の削減、均一溶解などが評価された(電炉業構造改善促進協会作成資料)。
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電炉・炉底出鋼方式(偏芯炉底出鋼・EBT) 通常のアーク炉は炉体を40度から45度傾け、出鋼桶を通して取鍋に溶鋼を注入するが、炉底に出鋼口を設けることにより、傾度5度で出綱する。出鋼時間の短縮による生産性の向上と溶鋼温度低下の低減等が可能となった。1979年西独で開発され、85年にトピー工業・豊橋が導入した(電炉業構造改善促進協会作成資料)。
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電炉・ツインシェル炉(1電源2炉) 1電源で2炉を交互に操業する。2炉間の配置距離を極力縮め待機炉に排熱を送り予熱する方式である。1電源1炉と比べて出綱、炉補修、初装等の非通電時間が省略できる。日本で開発され、1992年KBTC(大阪製鉄)、94年拓南製鉄、95年トーア・鹿島などが導入し、世界に普及した(資料引用・同上)。
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たたら製鉄 砂鉄と木炭を原料とする製鉄法(和鉄、和鋼)で、江戸~明治半ばまでの日本の鉄供給を担った。しかし明治以降、安価な洋鉄(輸入鋼材)の大量流入から競争力を失い、明治末期にはたたら経営者(鉄師)の多くは製炭業に鞍替えした。▼たたら生産量=江戸初期の1640年頃、日本全体で年間1,500~2,400トン。1万トンに達したのは江戸中期の1700年初頭。現在の粗鋼生産が1億トン前後だから約1万分の1に相当する(日本経済新聞、2002年11月14日文化欄)。
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たたらの特徴・構造 窪田蔵郎氏によれば「たたら」という言葉は「送風装置」や「製鉄炉そのもの」、「製鉄炉のある建物(高殿・タカドノ)」、「製鉄場全体(山内・サンナイ)」など多義的に使われ、踏鞴・鑪・高殿・多々良・多々羅などが当てられる、という(鉄の民俗史)。▼古くは「野だたら」=構造により「高殿たたら」と「野だたら」に分れる。高殿たたらが登場する近世初めまでは専ら「野だたら」だった。炉は小規模で露天に簡単な炉を築き、燃料(木炭)入手が簡単な山林を選んで、半年か一年間たたらを踏み、次の燃料を求めて絶えず場所替えを行っていたと考えられる。
▼「高殿たたら」=高温・乾燥保持のため、炉の地下に頑強で入念・精緻で巨大な「床釣り」構造を持つようになり、雨水防止と火災を避ける高屋(押立柱という4本の主柱によって支えた)を建設するようになると、それ以後を高殿たたら(注)と呼ぶようになった。高殿が建てられ始めた時期は踏鞴(フミフイゴ)をもとに強力送風が可能な天秤鞴(元禄4年=1691年の発明)が使われ始めた17世紀から18世紀前半の頃と考えられる。たたら製鉄は「一床(トコ)、二土(ツチ)、三村下(ムラゲ)」との口伝に尽きる。(注)高殿たたら(永代たたら)は大量の木炭を必要とする(木炭高炉だった英国は森林の喪失から製鉄事業が衰退)。長編アニメ「もののけ姫」(宮崎駿監督、97年作品)は森林伐採とたたら製鉄をテーマの一つにすえる。 -
鉧(けら)押し法と銑(ずく)押し法 砂鉄から直接、鋼を製造する「鉧押し」(直接製鋼・和鋼製造法、含有炭素1.0%前後)と砂鉄からまず銑鉄を作り、銑鉄を加熱・鍛練して錬鉄(卸し金・包丁鉄)を作る「銑押し」(間接製鋼法・含有炭素2.0~4.0%)があった。炉構造や作業方法は基本的にはほぼ同じだが、原料の砂鉄が違う。鉧押し法は真砂(マサ)系砂鉄(磁鉄鉱)を使って炉底に鉄の大塊を作る。一方、銑押し法は赤目(アコメ)系砂鉄(赤鉄鉱)を使って木炭との直接還元によって和銑(ずく)を作る。▼たたら操業は一代(ひとよ)限り=送風の開始から最後の取出しまでの1操業を一代(ヒトヨ)と呼ぶ。粘土で固めた炉は1回の操業ごとに大きく浸食され、作り代える必要があるため再使用はできない。製鉄作業は一回、築造炉は一代限りである。
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玉鋼(たまはがね) たたら製鉄で製鋼された鉄。窪田蔵郎氏の調査によれば、炭素が1.1~1.4%程度で造滓成分(珪酸・アルミ・カルシウムなど)を若干含み有害成分(燐・硫黄、銅など)の極めて少なく加工性の良い鋼。厳密な意味の玉鋼は江戸中期ごろのもので、永代たたらで生産された造鋼(ツクリハガネ)を指すとされる。
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たたら師(鉄師) 製鉄は各藩の直営とともに民営に委ねた。「鉄師」は採鉱現場である鉄穴(カンナ)、製鉄所である「たたら」、製鋼所である「大鍛冶」を持ち、木炭確保のため広大な山林原野を所有した。藩権威の及ばない山林原野での自律的な経営が求められたこともあり、タタラ師(「鉄師」)は製鉄場域内(山内)の自治・警察権が認められ、独自の「成敗」(裁判)を行った。
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鋳物(鋳鉄・鋳鋼、cast metal)鋼鋳物と鋳鉄鋳物がある。鋳物の性質を示す場合は鋳鋼、鋳鉄と呼び、炭素含有量2.1%までを鋳鋼、それ以上を鋳鉄と区別する。▼鋳鋼(鋼鋳物)=幕末・明治日本の鉄鋼生産は砲製作と造艦など軍器を目指し、民間製鋼会社の大方は鉄道や造船用などの鋳鋼品製造からスタートした。生産設備は平炉、転炉、電炉、高周波誘導炉など。▼鋳鉄鋳物=鋳鉄は普通3~4%の炭素と2%前後のケイ素を含んでいるが炭素量によって折れ口(切断面)の色が違う。ここから「白鋳鉄」、「ねずみ(片状黒鉛)鋳鉄」、「可鍛鋳鉄(malleable)」、「ダクタイル(球状黒鉛)鋳鉄」などに分類する。▼生産設備はキューポラ炉や誘導炉が中心。可鍛鋳鉄は可鍛性の良い鋳鉄。白鋳鉄で鋳造し普通鋳物の特性を維持しつつ熱処理による化学変化で粘性を得たもの。白心可鍛鋳鉄、黒心可鍛鋳鉄、パーライト可鍛鋳鉄がある。ダクタイルは鋳鉄中の黒鉛を球状化させたもので、ノジュラー(団塊状)黒鉛鋳鉄ともいう(可鍛鋳鉄とは別種)。機械的性能、耐摩耗性に優れ、伸びがあるため鋼に近い。兵器、自動車、鉄道など高級機械部品に多用される。
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鋳物の歴史 近世までの鉄は刀などの鍛造鍛冶(かじ)が作る鋼(はがね=刃となるカネ)と鍋・釜などの鋳造・鋳物に分かれる。鍛冶遺構は4世紀後半から5世紀前半にかけ(朝鮮からの鍛冶集団到来などのため)変化したあと奈良・平安時代を通じて基本的な形態は変っていない。中世の鋳物師は求めに応じて諸国に出向いて仕事をする必要から全国を自由に通行し営業できる特権(院宣=ただし後生の偽書も多いとされる)を朝廷から与えられた。網野善彦の「東と西の語る日本の歴史」によれば、平安時代を通じて日本列島を広く遍歴する職人の中で「とくにその範囲が広かったのが鋳物師で廻船によって畿内から九州、山陰、北陸まで鉄製品や原料鉄をもって交易を展開」し、鎌倉時代以降は鋳物師の移住と武家の台頭などからさらに東国、北陸へと及んだ、とされる。
鋳物師は株仲間を結成し価格などを協定した(東海鋳物史稿662p)が、明治以降、株仲間による営業制限は廃止された。またアルミや琺瑯鉄器の輸入などと共に日用品だけの生産を行っていた各地の鋳物産業は急激に衰退し「近代工業への転換を遂げた川口、桑名が主要な鋳物工業の中心地を形成した」(「中小工業の発達」―鋳物工業)。
▼長崎製鉄所とキューポラ=黒船来航に驚いた江戸幕府は長崎に海軍伝習所の開設と艦船改修工場の建設を計画し、工場はオランダ人技術者たちによって文久元年(1861)に竣工し、長崎製鉄所として稼働した。工場設備は鍛冶場、工作場、溶鉄場の3工場。原動力は25馬力、12基の溶鉄炉、工作機械20台。名称は製鉄所だが、艦船の修理・建造を兼ねた機械制作工場であった、とされる。日本最初のキューポラ炉と近代の旋盤機械はここから動き出した(明治政府は1884年、この設備・工場を三菱の岩崎弥太郎に貸与し、87年払い下げた=三菱造船所・創業)。
▼明治の鋳鉄管(クボタと栗本)=明治年間、コレラなど疫病予防のため東京や大阪で水道建設が求められた。クボタは大阪で鉄管製造に挑戦。1900年(明治33)、画期的な「丸吹竪込法」を発明し、水道鉄管の大量生産に成功した。クボタに銑鉄を売っていた老舗銑鉄問屋も1906年紀野吉鋳作所を新設し鉄管製造に乗出した。が、海運事業で破綻。紀野吉商店の顧問弁護士で同・鉄管工場の支配人であった栗本勇之助が工場を譲受け、1914年合資会社栗本鉄工所に改称した。 -
可鍛鋳鉄(malleable cast iron)の歴史 白心可鍛鋳鉄が発明されたのは1722年、黒心可鍛鋳鉄がアメリカで誕生したのが1826年である。白心可鍛鋳鉄の歴史は古いが、用途は薄物や小物などにごく限定される。自動車、鉄道、工作機械などは黒鉛化し強度を高めた黒心可鍛鋳鉄が中心。20世紀にはいってパーライト鋳鉄(1916年)、ミーハーナイト鋳鉄(22年)、球状黒鉛鋳鉄(48年前後、ダクタイル鋳鉄)などが発明され、鋳鉄の強靱化が加速された(日本鋳造50年史)。
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ダクタイル鋳鉄(球状黒鉛鋳鉄) ダクタイルとは、英語の「Ductile」のことで、延性のあるという意味の形容詞。一般的には基地に黒鉛として晶出する鋳鉄。1948年、「球状黒鉛鋳鉄」が開発され、片状黒鉛鋳鉄の2倍以上の強度と高い靭性を有したことから「ダクタイル鋳鉄」と呼ばれた(日本ダクタイル鉄管協会HP)。普通鋳鉄よりも数倍の強度を持ち、粘りなど機械的性質が優れていることから、強度の必要な自動車部品、水道管などに数多く採用されている。
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ミーハナイト・メタル ミーハナイト・メタルとは、特許製法により製造される鋳鉄製品を指す。 米国人Mr.G.F.Meehanが特殊黒鉛化剤により強靭鋳鉄の製法を発見し、英国人Mr. O.Smally(黒鉛析出状態を制御・管理し各種材質の作成方法を発明)と協力して高級鋳物製法の科学的管理方法を確立した。その後両者は米国にMeehanite Metal社を設立。以来、同社は技術管理を世界中に契約し技術指導を行っている。ミーハナイト・メタルは同社から特許実施権者として認定された工場だけが製造できる。(三井ミーハナイト・メタルHPを参考にした)。
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鋳物製造(キューポラとこしき) 江戸時代の原料銑鉄は主に山陰地方の砂鉄から作られた砂鉄銑で、燃料は木炭。熔解のための送風は踏み鞴(ふいご)が用いられた。鋳物作業を大きく分けると、砂で鋳型を作る造型作業と地金を溶かして鋳込みする、こしきなどの吹作業の二つとなる。「こしき」の多くは耐火性のある土砂で壷状に作って、外回りに鉄製のタガを掛けて補強した。こしきの中に薪を入れ、炭を重ねて点火。その上に地金を置き、木炭と地金を交互に積み重ねる。火力を強めるため必要な風を足踏み式ふいごで、5時間ないし8時間送り続けた(鋳物師・内田三郎)。
▼川口とキューポラのある街=川口で鋳物業が発達した理由は大消費地江戸に接していたことや荒川から良質の砂が取れたからとされる。キューポラとは18世紀半ばに英国で開発された(「こしき」と同原理の)溶解炉である。ラテン語で桶とか樽を意味し「こしき」が生活用具から転用されたのと同じ命名法。日本には幕末、洋式鋳造技術の導入に際して持込まれた。第一号は1861年(文久元)幕府の長崎造船所(当時の名称は「溶鉄所」、あるいは「製鉄所」)に設置されたもので、蒸気機関車の鋳物はこの炉で鋳込まれた。 -
鋳物原料 鋳物原材料に造詣の深い福田勝氏(「鋳物のエコティカ」)によれば、戦前日本の鋳物主原料は銑鉄。終戦直後の昭和20年代の新銑配合率は60~70%で、残りは戻り銑と故銑と呼ばれる鋳物スクラップであった。これが1955年以降(昭和30)新銑配合は40~50%となり、72年(昭和47)には30%、81年には20%を割り、86年には13.5%まで低下した。98年現在、新銑15%、戻り屑と故銑が40%、鋼屑が45%で鋳物の主原料は鋼スクラップに置き換わったとされる。
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伸鉄業(再生鉄・製造)
鉄スクラップから(製鋼工程を経ることなく)加熱・圧延・引き抜き等の工程だけで丸棒や平鋼を製造する業。日本では電炉業が普及する以前の昭和初期から発達した。戦後の電炉企業には伸鉄業を前身とするところが多い(伸鉄業は電炉業の今一人の父)。
このため「一時は約150社を数えた」伸鉄会社も、その有力会社の大方が電炉業に転出したため、2011年現在では「数社となった」(伸鉄会社11年HP)。ただ世界的に見れば船舶解撤(「シップリサイクル」)が盛んなインド、バングラデシュなど発展途上国では、肉厚鉄板などの発生が多く、伸鉄業が今なお地域の鋼材需要を支えている。 -
伸鉄業の歴史 伸鉄業の起源は不明だが、業が成り立つためには解体船や長尺材の発生が前提となるから、第一次世界大戦後、解体船が出回り始めた大正末期から昭和初年ごろにかけ自然発生的に登場したと推定される。伸鉄業を前身とする「臨港製鉄50年の歩み」によれば同社は1933年(昭和8)岡田菊治郎の出資による伸鉄工場として誕生した。このころ大阪は全国随一の伸鉄生産地で、37社、月産合計約1万4千トンを数えた。その中で阪口興産・伸鉄工場(1929年阪口定吉商店・伸鉄部として創業、現新関西製鉄の前身)が月産1,200トン体制でトップだった。伸鉄業界は各地の伸鉄組合を統合し1934年、日本伸鉄工業組合連合会を設立した(初代理事長・阪口定吉・阪口興産社長)。戦後、伸鉄工場が操業を再開するのは48年(昭和23)ごろから。50年8月には関西伸鉄協同組合が発足。鉄屑カルテル認可(55年)後の56年3月27日、全国伸鉄工業協同組合連合会(全伸連)を結成し、外貨割当を得てAカルテルを窓口に伸鉄材の輸入を行った。65年(昭和40)には全伸連は全国で196社を擁した。当時月産約7万5千トン。生産が最も多かったのが73年(昭和48)の168社月産、12万8千トン。ただ電炉業に転出する会社が増えたことと電炉と市場を同じくするため競争は激烈を極めた。80年(昭和55)106社から87年(昭和62)には40社を割り、現在ではわずか数社を数えるに過ぎないとされる(鞆神鉄団地協同組合)。
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船舶解撤 船舶、なかでも大型船は「動く工場」や「浮かぶホテル」である。使用鋼材も肉厚重量物が多く、発生・回収品も多岐にわたるから特に「解撤」との用語を使う。
▼船舶解撤の歴史=日本で伸鉄業が誕生した同じころ、第一次世界大戦後の海運不況から大量の解体船が市場に放出され解撤事業が本格化した。1933~34年(昭和8~9)のピークには世界の解体船の約90%を日本が処理した(伸鉄業勃興の背景)。第二次世界大戦後は米国で戦時中に建造されたリバティー船やT2及びT3タンカーなどを中心に解撤船量が増加し55~65年(昭和30年代)には、日本の解撤量は再び世界のトップについた(伸鉄業のピークに同じ。この前後、阪和興業は大量の解体船を手当てした)。65年(昭和40)以降は解体船の減少、環境問題や人件費の高騰などから日本の解撤業は国際競争力を急速に失い、電炉不況などから78年(昭和53)には財団法人「船舶解撤事業促進協会」を設立して、国の助成金のもと船舶解撤事業を促進することとなった。
84年(昭和59)函館ドッグで20万トン級のVLCCタンカーを、同年30万トン級のULCCタンカーを解撤するなど助成事業はそれなりの効果を発揮した。ただ86年以降、国の政策が「開発途上国における船舶解撤・国際協力」に移行するとともに国内での解撤事業は縮小。同協会も2005年に「日本船舶技術研究所」に改組し日本での解撤支援事業は終了した。
▼船舶解撤と伸鉄業=伸鉄するには肉厚の長尺の鉄屑がいる。もっとも手っ取り早い方法は老朽船を解体し、鋼材を確保することである。従って伸鉄業と船舶解撤は車の両輪の関係で育ってきた(伸鉄業が衰退の道を歩み始めたとき、最後まで伸鉄業が残ったのは造船の町、広島・鞆であったのはこのためだ)。伸鉄材は戦後の一時期までは平炉、電炉向けと並ぶ出荷部門の一つを占めた。鉄屑業者のなかから伸鉄業を開業するもの(岡田菊治郎、阪口定吉)や大型解撤船を自ら手当する者も少なくなく(産業振興など)、伸鉄会社の中には自ら解体船を輸入するところ(55年、臨港製鉄、現新関西製鉄)や商社でも扱い部門の一つを形成した(阪和興業、輸入解撤船)。この流れのなかで58年(昭和33)日本解体船工業会も結成され伸鉄会社もそのメンバーに名を連ねた。
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