鉄スクラップ通史
メニュー
日本鉄鋼業・概説
鉄スクラップ流通業・概説
前史
金・銀・銅・鉄と古金
室町時代
鍛冶屋と鋳物屋の時代
日葡(日本・ポルトガル)辞典
江戸時代
概説
江戸時代と古鉄買い
大坂町奉行・正保二年町触(1645)
慶安三年の御触書(1650)
享保八年の御触書(1723)
明治時代
概説
近代鉄鋼業は明治30年後半から
電炉製鋼も登場
鋳物や亜鉛鍍金工場も登場
明治の古金屋
明治の古金屋、東京は堅川 大阪は九条の川筋に
古金から鉄屑へ その変遷
大正時代
概説
鋼材の5割以上が欧米輸入品
大戦特需
年産5千㌧以上の新増設は43工場
戦後恐慌と鉄鋼会社淘汰
インド銑が日本を席巻
昭和初年から日米開戦まで
概説
金解禁(円高)デフレと世界恐慌
官民合同の「日本製鉄」
製鋼は輸入銑鉄・鉄屑に依存
戦前の新設、一貫製鉄所
日鉄・広畑は39年(昭和14)火入れ
戦時経済体制と統制のなかで
概説
37年(昭和12)金属統制
日本鉄屑統制会社と鉄屑配給(38年)
指定商(鉄屑統制会社)
鉄屑統制は3種類
昭和15年の開戦とABCD包囲網(41年)
金属回収は「特別」「非常」と「企業整備」
その実施機関と関係法令
戦時中の統制会社と鉄屑業者
鉄屑業者は回収隊、工作隊
敗戦から激動の10年
概説
戦時賠償指定
石炭と鉄鋼の集中的傾斜生産
鉄鋼補給金制度
朝鮮戦争と鉄鋼、鉄屑価格
物価統制令廃止
日本製鉄解体(50年)
関西平炉3社と銑鉄自給
LD転炉法導入の背景(57年)
鉄屑カルテルの時代
概説
鉄屑カルテルの背景
幻の鉄屑カルテル(53年12月)
鉄屑カルテル
国内カルテルと鉄屑輸入カルテル
「もはや戦後ではない」時代のなかで
スエズ動乱(56年)と米国鉄屑禁輸
鉄屑使節団派遣(57年2月)
180万㌧の輸入屑入着と反対運動(57年)
金属条例制定
金属類営業条例(50~58年)を制定
新旧高炉、大型高炉を建設(59年)
鉄鋼第三次合理化(61年)
輸入屑カルテル崩壊(61年2月)
輸入屑と商社の時代
東京五輪反動不況
住金事件(65年)
新日鉄誕生(70年)
70年代は新日鉄と世界波乱の時代
概説
ニクソン・ショック(71年)
列島改造と粗鋼1億5千万㌧予測(72年)
カルテル廃止予告と鉄屑輸出制限(73年)
第一次石油危機(73年10月)
太平洋ベルトコンベヤー崩壊、鉄屑4万円超
政府、鉄鋼は鉄屑備蓄組織設立(74年)
(社)日本鉄屑工業会を設立(75年)
石油危機と構造不況の時代(75~80年)
概説
安宅ショック、商社の戦線縮小(76年)
過剰設備対策とアウト規制(77年)
AA諸国向け無償援助(78年)
電炉は構造不況業種(78年)
大阪製鉄が登場、東鉄・電炉に進出(78年)
第二次石油危機と東鉄ショック(79年)
特級4万円を超す(80年2月)
構造不況改善法延長
構造改善の11年(電炉新増設を制限)
プラザ合意と円高不況対策(80~90年)
概説
鉄屑検収基準を見直す(82年)
H形戦争・新日鉄的秩序の終焉(82年)
新日鉄、鉄屑購入再開(82、84年)
プラザ合意・米国経済衰退と円高(85年)
鉄屑備蓄協会は機能停止(86年)
粗鋼生産9千万㌧台予想も
トーア・スチール登場(87年)
商社、国内鉄屑部門を子会社に(87年)
円高対策とバブル(内需拡大、低金利策)
構造不況法終了(88年)
関東月曜会が鉄屑輸出(88年6月)
90年代、歴史的な転換点のなかで
概説
バブル崩壊と「逆資産効果」(91年)
丸棒6万円(構造不況法の学習効果)
鉄スクラップ500万㌧余剰予測と街頭デモ
鉄リサイクル工業会に改称(91年)
電炉対高炉の激突と構内高炉建設(94年)
平成不況と電炉設備(95年)
関東鉄源、共同輸出定時入札(96年)
平成不況(「失われた10年」)とは何か
住専に公的資金を注入(95年)
日本経済は束の間の回復(96年)
橋本行革政権の失政(97年)とアジア危機
日本発の恐慌も(98年)
トーア・スチール、中山鋼業が行き詰る
産業活力再生法と電炉整理(99年)
百兆円の不良債権と小泉財政再建(01年)
資源バブルと世界的信用収縮
概説
鉄スクラップ輸出時代(01年)
逆有償の歴史的な役割(98年~02年)
各種リサイクル法制定(00年~05年)
平成不況とゴーンショック(99年)
NKKと川鉄が合併、新日鉄3社連合(01年)
商社・鉄鋼部隊は再統合(03年)
高炉は超大型炉へ「改修」(04年~09年)
中国、粗鋼生産急増(02年~13年)
BRICsが登場(03年)
地球温暖化防止、京都議定書(05年)
世界最大の鉄鋼会社はTOBで登場(06年)
日本企業のTOB対策(06年)
サブプライム・ローン問題(07年8月)と資源バブルの暴走(08年7月)
リーマン・ショック(08年9月)
百年に一度の危機(08年9月~11月)
ソブリン・リスク(10年~13年)
日本・大震災(11年3月)
鉄鋼再編時代と世界的出口戦略
新日鉄と住金が合併、鉄鋼再編加速(12~20年)
アベノミクスと黒田ショック(13年)
17年 中国の生産過剰と貿易摩擦
18年 「雑品」もしくは有害使用済機器と国際規制
パンデミックと鉄鋼大減産(20年~)
日本鉄鋼業・概説
鉄鋼蓄積の浅い日本は、戦前・戦中を通じて鉄スクラップが少なかった(41年・金属類回収令の背景)。戦前の鉄鋼生産は、官営製鉄所を起源とする日本製鉄(高炉)と米国鉄スクラップに依存する民間平炉会社が分担した。
鉄鋼各社の勢力変化は戦後の50年(昭和25)、日本製鉄を民営の八幡製鉄と富士製鉄に分離したことから始まった。分割前の日本製鉄に銑鉄供給を仰いでいた関西平炉3社のうち、まず川鉄が自社での銑鉄確保を目指して、高炉建設に動き(50年、川鉄千葉・ぺんぺん草論争)、住金(53年小倉製鋼)・神鋼(54年尼崎製鉄)は高炉会社を系列傘下に収めた。原理的には鉄スクラップを不要とする転炉製鋼(LD転炉)法が確立したのが60年前後。このLD転炉欲しさに神鋼(59年)、住金(61年)も構内高炉を建設。平炉製鋼は急速に衰退した。その同じ頃、高度成長による鉄鋼需要の拡大に伴い市中の鉄スクラップ発生量は増加。鉄スクラップを多用する電炉製鋼生産が拡大した。
旧高炉(八幡、富士、日本鋼管)と新高炉(川鉄、住金、神鋼)各社の設備拡大は、過剰な生産能力を呼び込み、この生産調整(減産)に動いた通産省の行政指導に住金・日向社長は激しく反発した(65年・住金事件)。事件を機に、過剰生産調整を個々の会社の不確かな減産に求めるのではなく、会社統合そのものに解決を求める大合同構想が提唱され(66年)、八幡・富士の2社が合併し、新日本製鉄が誕生した(70年)。
次の変化は内外から起こった。ニクソン・ショック(71年、円・固定為替離脱)、石油危機(73年・第一次、79年・第二次)などエネルギー事情の変化から鉄鋼など「重厚長大」産業は国の内外で需要の裾野を狭め、プラザ合意による急激かつ大幅な円高が追い打ちをかけた(85年)。この影響を受けたのが鉄鋼、なかでも国内電炉業界だった。
業界丸ごと倒産の「構造不況」産業との認定のもと、電炉業界は78年から88年までの11年間、新規の生産設備建設を禁じる手厚い国家保護の下に逃げ込んだ(78年~83年「特定不況産業安定臨時措置法」、83年~88年6月「特定産業構造改善措置法」)。
「円高不況」対策として、政府・日銀は低金利策(87年2月→89年5月末)を採用し、バブルの芽が育ち始めた。88年6月、設備増強に歯止めをかけていた構造改善法が廃止され、電炉は設備建設ラッシュ時代を迎えた。高炉各社も対抗策に動いたから90年代前半は、新鋭設備を備えた電炉の台頭と守りに回った高炉の対立が際立った。
バブルがはじけ、日本が膨大な不良債権に足を取られた98年、有力な電炉が相次ぎ脱落し(98年9月トーア・スチール、99年3月中山鋼業など)、高炉各社もユーザーによる厳しい淘汰にさらされた(00年、日産・鋼板購入を特定3社に集約・ゴーンショック)。
この衝撃が大手高炉5社体制の見直しを迫った。ゴーンショックの直撃を受けたNKKと川鉄は01年4月、合併計画を発表(03年4月、JFEホールデング設立)。新日鉄を軸に神鋼、住金の「3社連合」(01年12月)も発足し、鉄鋼2大グループが動き出した。 中国の粗鋼生産の爆発的な増加(01年以降)、ミタル・スチールによるアルセロール社買収が進行した06年以降、日本の高炉各社も新たな世界戦略の構築に乗り出した。それが「品質と数量」を追う新日鉄と住金の合併だった(13年10月、新日鉄住金発足)。
鉄スクラップ流通業・概説
鉄スクラップは江戸・明治後期まで「古金(ふるがね)」と呼ばれた。享保の改革以来、江戸町奉行は「古金買い」に組合結成と自主警察機能を求め、商権の証として鑑札を発行した(無鑑札の者は古金を扱えない)。
古金の呼称が「鉄屑」に置き換わったのは、原料として鉄スクラップを多用する平炉製鋼会社や官営製鉄所が登場した1901年(明治34)前後とみられ、この直後から現在につながる鉄スクラップ業者が登場する(従って創業100年企業も珍しくはない)。
国による「戦時鉄屑統制」は「日本鉄屑統制会社」(38年)の設立と売買枠等を指図する鉄屑伝票制度から始まった。鉄屑業者は「指定商」に集約され「金属類回収令」(41年)と改正(43年)により、工作隊・回収隊の中核として鉄屑の強制回収に奔走した。 統制は戦後とともに終わったが、政府はインフレ対策として「物価統制令」(46年)を制定して鉄屑価格を公定、違反者を処罰。これが朝鮮戦争(50年)による鉄屑暴騰から有害無益となったため停止(51年)され、鉄屑売買は名実ともに自由になった。
占領から独立した日本(52年)と鉄鋼会社は鉄の復活を目指した。その最大の障害が欧米に比べ高すぎる鉄屑価格だった。政府、鉄鋼は事実上の国家統制である「鉄屑カルテル」申請に動き、鉄屑業者は「日本鉄屑連盟」を結成(53年12月)して激しく対抗した。 鉄屑連盟幹部は「反対はできても阻止はできない」と見ていた(54年2月)。トップ間の協議で鉄鋼側がカルテル協定文書中に「鉄屑連盟の意見を参酌する」との文言の明記を約束したことから妥協が成立。鉄屑カルテルは55年(昭和30)、申請・認可された。ただ供給側である鉄屑連盟の意見を参酌しては、カルテル価格の低位安定は望めない。
カルテル開始直後から鉄屑カルテルと鉄屑業者の暗闘が始まった。反カルテルを唯一の目的に結成された日本鉄屑連盟は全階層を網羅したが、鉄屑連盟内部でも(鉄屑カルテルの運営が始まるとともに)、カルテルとの協調を求める大手・直納業者(巴会、八日会)と中堅・末端集荷筋(鉄屑懇話会)の内部抗争、支配権争いが表面化した。
カルテル側は、鉄屑連盟の内部抗争に乗じて、鉄屑連盟の意見参酌条項を削除して(56年9月「鉄屑業界の意見を聞き」に改定)、鉄屑連盟の無力化を図り、さらにカルテル協調を目指す直納業者中心の「日本鉄屑問屋協会」(58年11月)、「日本鉄屑問屋協議会」(59年6月)の創設を促し、その結成を待って価格協議の場から鉄屑連盟を追放した。
カルテルはこれら2団体との「二者共益」の証として、直納業者には「外口銭」(59年2月~70年2月)を、鉄屑問屋協会には運営「資金援助(59年2月~74年)」を与えた。
そのカルテルが74年(昭和49)9月末廃止された。カルテルの援助漬けなどから指導力が低下した鉄屑問屋協会もカルテル廃止とともに消えるとみられていた。当時、国は鉄屑需給(ポスト・カルテル)対策として鉄鋼会社を中心に鉄屑備蓄会社(SRC)を立ち上げたが、需要側(鉄鋼)だけの備蓄会社は独禁法上、疑義があるとされたため、急遽、供給(鉄屑業者)側を加える必要が生まれた。そのため鉄屑問屋協会等を母体に、より強固な通産省認可の社団法人「日本鉄屑工業会」が設立された(75年7月)。
工業会創設に当たって資金の大半は、実は工業会以外の日本鉄屑備蓄協会、回収鉄源利用促進協会設立など「ポスト・カルテル」の枠作りのために投じられた。初年度資金は鉄屑備蓄協会出資が1億円、回収鉄源利用促進協会設立への出捐累計2億8千万円。工業会だけを設立するのであれば1千万円もあれば充分と言われるなかでの負担であった。ただ関係者は巨額負担の自腹を切っても法人格を持つ工業会によって獲るところは大きいと確信していた。それが今日の日本鉄リサイクル工業会(91年改称)の、独立的で自律的な運営の背骨を作った。鉄屑流通の近代化、組織化の基礎は、ここから始まった。
前史
-
金・銀・銅・鉄と古金 鉄と同様に金銀銅など古くから日本人に馴染みのある金属は中国渡来の漢語とは別の大和言葉を持っている。金は古代では、その色から黄金と書かれ「きがね、こがね」と呼ばれ、銀は白銀「しろがね」、銅は「あかがね」。鉄は「くろがね」、その用途が広範・多岐にわたる主要金属だったことから「真金(まがね)」。その本来の用を終えた鉄は、「金の古くなったもの」として「古金(ふるがね)」と呼ばれた。古代から江戸・明治前半までの呼称は古金であり「鉄屑」との言い表し方は存在しなかった。
-
室町時代 室町中期(1445年)の「入舩納帳」(兵庫北関入舩納帳)によれば1年間に10隻150駄10貫文の鉄が瀬戸内から畿内へ搬送されている。「中国山脈の奥地で採取される鉄はいったん瀬戸内沿岸に小船または陸路で運ばれ、畿内に向う大型の塩船に積替えられた」。「納帳に記された鉄は、京都の太刀屋座あたりへ売却される良質の鉧(ケラ)でないかと推測される」。京都の太刀屋座はこの刀をどう捌いたのか。室町幕府の財政を支えたのが明国と行った勘合貿易で貿易の中心商品が切れ味と美しさを誇る日本刀だった。
永享四年(1432年)以降の百年間で推定20万本以上の日本刀が勘合貿易品などとして中国に渡った(田中健夫『倭寇と勘合貿易』思文堂・昭和36年、125p)と見られる。 -
鍛冶屋と鋳物屋の時代 日本の鉄は、砂鉄を材料に炭素分1%前後の錬鉄(玉鋼・たまはがね)や炭素分の多い銑鉄(ずく)を作った(「たたら製鉄」)。
錬鉄は刀鍛冶によって槍や刀に鍛えられ、野鍛冶など鎌や鍬、鋤などの農具に加工され、銑鉄は鍋・釜の鋳物用材料になった。室町・近世までの「鉄器時代」とは実はこれらの鍛冶、鋳物の時代であった。製鉄(和鉄)と製品製作(鍛冶、鋳物)が室町時代以降、分離・専業化することで加工専門業者としての鍛冶屋・鋳物師集団が成立し、これが各地に分散して室町・戦国期の豊かな鉄器文化を作った。 日葡(日本・ポルトガル)辞典 鉄は真金(まがね)であった。その真金が壊れたり、用途を終えた物を、中世の人々はなお尊んで古金(ふるがね)と呼んだ。金銀銅鉄と並ぶもの。錆びても壊れても価値を失わない「古い金(かね)」と扱った。「古がね」との言い方は、少なくとも室町、戦国時代以前からあったようだ。日本に渡来したポルトガル宣教師が布教活動のため日本人信徒を使って作り上げた「日葡辞書」(1603年、日本イエズス会発刊。)のなかに、その用例が多数紹介されている。フルカネヤ(古金屋) =Furucaneya。
「フルカネヤ→古鉄を売る家、またはそれを売る人」。「フルカネ→古い鉄」。「フルカネヲオロス (古鉄をおろす)→古い鉄を鋳直す」との用語、用例を収録している。日葡辞書のなかには「イカケ、クル→こわれた金属製容器の欠け損じた部分を溶接して修理する。即ちロウ付けする」との説明まである。
江戸時代
-
概説 日経新聞03年12月19日文化欄の「たたら製鉄に見る日本史」によれば、砂鉄製法の画期は炉底地下防湿施設を伴った高殿(たかどの)式の建設(高殿たたら、永代たたら)と足踏み式の天秤鞴(てんびん・ふいご)が開発された17世紀末以降とされ、従来の踏吹鞴1、吹差吹鞴2に対し天秤鞴4の革新的な生産性の向上をもたらした。
鉄生産は江戸時代中期・天明年間の1780年代には年間1万㌧に達し、75%は中国地方を中心とする西日本で生産され、需要の約7割は農具が占めたと紹介する。
中国山地のたたら稼働地は伯耆、出雲、石見、播磨、美作、備中、備後、安芸の八ヵ国に及び19世紀初頭には大坂の入鉄量の90%に達し、江戸後期には江戸と新潟を結ぶ線をほぼ境界に中国地方産の鉄と奥羽産の鉄が国内市場を二分し国内需要を賄ったとされる。 -
江戸時代と古鉄買い では中世から近世にかけ古がねはどのように回収・利用されていたか。前出の「日葡辞書」に「フルカネ」や「フルカネヤ」の用例が出てくる。「古ガネヤ」は①古鉄を売買する家、または商人。②古道具屋を指す。現代の自動車処理がそうであるように古鉄を回収した商人は、再使用できるかどうかを判断する。イキで転売できれば古道具屋の一面を持ち、材料にしかならないとして鍛冶屋に持込めば、古鉄屋となる。
鍛冶・鋳物屋が用途に応じた鉄器を作り(例えば刀鍛冶)、一般庶民の鉄器の大方は町や村鍛冶、鋳物屋の仕事場から生まれた。その場合フルガネの再利用が普通で、鍛冶・鋳物屋がいれば、町内から買い集める「フルガネ買い」がいた。 -
大坂町奉行・正保二年町触(1645) 幕府資料などで古がね買いなどが出てくるのは、大坂町奉行が正保二年、「古がね商及び古手商の営業禁止を解き、年寄・組頭・五人組の制を定む」(大阪編年史)とあるのが最初である。「古金買仕置(命令)」によれば「古金買いが盗品などの金物を買付けるため、小盗人を誘発するから古金買いは禁止してきた。今回、関係者が是正を約束するから、組頭・五人組を決めた」とし、以下の規則を定めた。
「仲間に入らず古金買いする者は見付け次第、捕らえる」、「侍屋敷や町中へ古金買いに出る場合は二人で行くこと」、「こっそりと買ってはならない」、「古金買へ持ってくる品物は、両隣五人組に見せ買受けること」、「仲間の一人が違反すれば、五人組は全員同罪とする」、「五人組の他、組頭を置いて毎月例会を開いて調査(吟味)し、仲間に不審者がいれば、調査・報告する」など自主警察を誓約し、営業再開の道を開いた。
この町触は、一旦禁止された営業再開と防犯の仕組みを取決めている。つまり、この町触以前、大坂の古金買いは前記の制約なしに自由に商売していた、ということがわかる。 -
慶安三年の御触書(1650) 江戸町奉行の町触は慶安三年(1650)に初めて出てくる。
「橋々河岸、辻々で古金を買うのは御法度(禁止)に仰せ付けられた」(町触43)。
2年後の慶安五年(1652)四月、今度は評定所とこの命を受けた江戸町奉行が「焼失した侍町へ出掛けて、古かね古釘の類を一切買ってはならない、買った場合は、違法(曲事・くがごと)である。また以前から通知したように、古かね買いが橋々辻々に買いに出るのは、違法(急度曲事)として処分する」(御触書2036、町触71)との禁制を出した。
道橋での売買を禁じるのは、江戸初期の道橋の構造上、人々が立ち止まり渋滞することは極めて危険だったからだ。橋・門・瓦、樋・寺社の「外し金物」は、関係者以外の者が取り扱うことは少ないから、売買される場合は、盗品である可能性が高いからで、繰り返し御触書を出たのは、それだけ外し金物の盗品が多かったからと思われる。 -
享保八年の御触書(1723) 吉宗の享保の改革以来、古鉄屋は天下公認の商売として組合結成と鑑札(焼印)を持って町内を往来できるようになった(八品商売人・注1)。
一 古鉄商人は十人程ずつで組合を作り、日々売り買いの品を帳面に記し、盗難物(紛失物)の問い合わせがあった場合、帳面で調査(吟味)すること。
一 店外で商売(振売)する場合を公式に認め、鑑札(焼印・注2)を発行する。無札の売買は禁じ、無札の者を発見したら、同業仲閒で召捕、奉行所に連行すること。」
古金問屋は無札の者から買い取ってはならない(独占売買の承認である)。
一 新規に商売する者は最寄り組合に加入すること。名主、月行事はこの内容に沿って組合を結成し、問い合せがあれば入念に調査すること(注3)。
組合の取調(仕方)に問題(吟味未熟)があれば、責任を追及する。
注1=質屋、古着屋、古着買、古道具屋、小道具屋、唐物屋、古鉄屋、古鉄買。
注2=「焼印」は取締のためではなく独占的な営業特権の付与の証明だった。焼印を求めたのは「古着買、紙屑買がみだりに古金を買取っているため、古金買の商売に支障が出る」。区別が必要だと陳情した古金買い達である(町触6518)ことからも明らかである。
注3=警視庁は御触書による幕府の古がね統制を「古金類商売結社規則」(1876年・明治9)として引き継ぎ、戦後の1956~58年(昭和31~33)にかけ、大阪など全国28道府県は「金属類営業条例」を制定したが、内容は享保の改革の御触書の引き写しに近い。
明治時代
-
概説 明治の文明開化は欧米の技術、学問の丸ごと導入(「御雇外国人」や鉄道、動力機械)として始まった。鉄の文明開化とは、西洋の鉄(洋鉄)と製法が、和鉄とその製法(たたら鉄)を圧倒したことを意味する。明治は列強覇権の時代でもあった。国家の独立を守るには武器開発、艦船建造を可能にする鉄鋼がいる。官営製鉄所(八幡)はその中から生まれ(1901年)、日本は官民共に近代的な鉄鋼業の創出、育成、自立に全力を注いだ
-
近代鉄鋼業は明治30年後半から 1877年(明治10)の国内鉄鋼(和鉄)生産は8,200㌧。輸入銑、鋼(洋鉄)は1万6,500㌧で洋鉄輸入は和鉄生産の二倍。欧米の機器導入が本格化した87年(明治20)には西洋渡来の洋鉄は国内需要の約八割を占めた。明治10年から16年を通じ洋鉄の価格は和鉄(錬鉄)の四分の一ないし八分の一と極めて割安だったこともある。和鉄と洋鉄の価格差は近代製鋼で大量生産される輸入鉄に対し江戸以来の旧式な手工業で少量しか生産できない砂鉄(和鉄)の生産ギャップから生まれた。
▼釜石鉱山田中製鉄所=94年(明治27)官行時代の英国型高炉(25㌧)を改修し、日本初のコークス製銑を開始。03年(明治36)、60㌧高炉と平炉を増設した。
▼官営(八幡)製鉄所=開業式は01年11月。明治政府は鋼製品9㌧万規模とする銑鋼一貫工場の建設を目指した(160㌧高炉×1。25㌧平炉×4。10㌧転炉×1)。
▼住友鋳鋼所=平炉操業は1900年(明治33)4月。大阪鋳鋼が火入れしたものの軌道に乗らず日本鋳鋼所が継承。しかし故障・不良品続出のため01年、住友家が買収した。
▼神戸製鋼所=05年(明治38)東京の小林清一郎 (小林製鋼所) が平炉を据えたが失敗。 建設機械の輸入融資を行っていた鈴木商店に身売りされ神戸製鋼所と改称した。
▼川崎造船所=鉄道・造船鋼材等の供給を目的に07年(明治40)神戸に10㌧平炉を持つ鋳鋼工場を建設。戦後の50年製鉄部門を分離し、川崎製鉄として新発足した。
▼日本鋼管=12年(明治45)神奈川県川崎にインド銑使用を前提に平炉を建設した。初出鋼は14年(大正3)1月。その半年後、欧州で第一次世界大戦が勃発した。 -
電炉製鋼も登場 電炉製鋼は09年(明治42)信州松本の土橋長兵衛によって始められた。10年(明治43)、砂鉄製錬を行っていた安来製鋼所(現日立金属安来)がエール式電気炉を設置。明治末期までに稼動した電気炉は民間2社、呉海軍工廠の3基とされる。
-
鋳物や亜鉛鍍金工場も登場 鋳物業の近代的なグループの創業は明治前半から始まる。クボタの創業は1890年。93年には早くも水道用鋳鉄管の製造を開始した。ステンレス登場以前の日本で求められたサビ止め鉄板の田中亜鉛鍍金工場(日亜製鋼)08年、亜鉛鍍(日本鉄板)が11年創業、両社が日新製鋼の母体となった。
-
明治の古金屋 幕末まで「古がね屋」が軒を列ねていた東京では、明治期を通じて席巻した安価な洋鉄の圧倒的な流通のなかで系譜は断絶したようだ。戦前の東京で大手と目された鈴木徳五郎、岡田菊治郎、德島佐太郎、清岡栄之助らは地方(静岡、福井、高知)の出身で上京後、「立(建)場」や銅鉄商経営を経て鉄屑業や鉄鋼業を興したこと、和歌山の古勝や岡山の岡山金属などをわずかの例外に、江戸時代にルーツを持つ古金屋が見当たらないことから考えると、日本の鉄屑業は近代製鋼業と共に始まったとみていいようだ。
古がね屋は旧幕時代の和鉄・鍛冶屋に対応し、集荷・回収を通じて生産を支える存在だった。それが明治維新後、輸入洋鉄が和鉄に取って替わるなか、古がね屋は従来の売り先を失い、これが集中した東京、大阪などでは退場を余儀なくされた公算が大きい。 -
明治の古金屋、東京は堅川 大阪は九条の川筋に 鉄屑業界の機関誌(鉄屑界)によれば、明治末年ごろまでは東京府内、山の手で業者としては田代商店が唯一社あるだけで、多くは川筋の竪川周辺に店を構えていた。川筋の最初期の開業は明治40年との記載がある。その背景には、大量の鉄屑を必要とする近代平炉製鋼の登場があった。大量となれば、集出荷能力が問われる。また陸上の輸送手段が未発達であった明治・大正年間では、大量輸送の主力は安い船荷(舟便)だった。そして水上流通の地と言えば、まず竪川。本所、深川であった。明治末年から昭和にかけ、両国橋そばの本所元町から緑町、徳右衛門町、さらに亀戸町まで約5キロメートルの竪川の水路に沿って、大小の古金屋、「銅鉄商」が軒を並べる景観が出現した。その最たるものが、戦前の大店と目された岡田、鈴木、德島、西らの四大問屋の荷受け河岸だった。東京よりも早く、鉄屑商売が始まった大阪でも、縦横につながる堀川に向かって、大小の業者が店を開いていたとされる。西区阿波座は、延宝七年(1679)の「難波鶴」によれば鍛冶屋や釘屋が多く、立売堀古金町・立売堀新鍛冶屋町・鉄町などの町名は、その繁昌に由来する。また木津川や安治川などの水運の便から明治以降、阿波座周辺には鉄鋼製品の取引が盛んとなり鋼材問屋や鋼材の原材料である解体船や鉄屑集荷業者が集まり、西日本地区の鉄鋼関係の中心地の一つとなった。なかでも運送(舟便)に便利な立売堀、新町周辺には鉄商が集まり、明治後期から大正初期にかけ問屋街を作った。立売堀、新町周辺が和鉄、洋鉄の新鉄を中心としたのに対し、古鉄から出発し、後に新鉄を扱ったのが境川、九条筋である。
-
古金から鉄屑へ その変遷 江戸、明治末までの呼び名は「ふる鉄(かね)」である(言海・明治31年版)。また第一次世界大戦最中の「成金」騒ぎを伝える新聞記事でも「古鉄」と書いてある(大正5年2月・朝日新聞。「10貫目60銭のガラクタ古鉄も1円30銭にハネ上がった」)。大正初めまでは、古鉄であって鉄屑ではない。「鉄屑」の初出は知らないが、東京では、恐らくは大正後半、近代製鋼法としての平炉・屑鉄製鋼法が普及し、その技術用語(スクラップ)として使用され、一般に広まった可能性が高い。昭和2年の恐慌を伝える新聞記事に「鉄クズ7銭→4銭」がある(「物価の世相100年」)。「古金屋」に替わって「鉄屑屋」がでてくるまでの間、一般には「古銅鉄商」または「銅鉄商」で通っていたようだ。たとえば昭和初期の紳士録に登載された岡田菊治郎は「銅鉄地金商」、42年の人事録に載った鈴木徳五郎は「銅鉄商」で、職業名としての「鉄屑商」は見られない。では、その転機はいつか。編者は国策として「日本鉄屑統制会社」が登場した38年頃ではないかと考えている。この時、鉄屑はその後の強制回収と共に、いわば公式の呼称となった。
大正時代
-
概説 第一次世界大戦(1914年、大正3)による鉄鋼需要の拡大から(競争力の劣る日本品でも販路が拡大し)製銑・製鋼会社がにわかに登場した。
しかし大戦終了(18年)、関東大震災(23年)、昭和初期の世界恐慌(29年)や金解禁による円高・デフレから大半が淘汰・消滅した。さらに大戦後余剰化した安いインド銑や鉄鋼輸入品が大量に殺到したことから民間製銑、製鋼会社は軒並み苦境に陥った。 -
鋼材の5割以上が欧米輸入品 1914年(大正3)7月に勃発した第一次世界大戦は鉄鋼業界に未曽有の特需景気をもたらした。13年の生産量は銑鉄が国内需要の48%、鋼材は国内消費の34%を充たすにすぎず、鋼材の6割以上を欧米から輸入していた。
その輸入鋼材が欧州での開戦と共に途絶。しかも同盟各国から鉄鋼注文が殺到し、日本の鉄鋼生産・輸出は一挙に急膨張した。 -
大戦特需 英国が鉄鋼輸出を禁止した15年12月、鋼材価格は戦前の13年(大正2)に比べ4.5倍から5倍。海上運賃の暴騰が重なった16年には鋼材輸入は全く途絶した。英に続き米国も17年8月、鉄鋼の禁輸に踏み切ったことから開戦の年には1万㌧台だった日本の鋼材輸出は17年3万8千㌧、18年5万2千㌧、19年6万3千㌧と急増、狂乱ブームを煽った。鋼材価格も暴騰につぐ暴騰を重ね、丸鋼は開戦直前の89円から17年8月には7.5倍の559円。鋼板は85円から15.2倍の1,285円に跳ね上がった。
-
特需景気から年産5千㌧以上の新増設は43工場 大戦直前の13年末、内地の製鉄業は八幡製鉄を含め規模の大きいものが8社。官営八幡、釜石・田中製鉄所(銑鉄・圧延)、北海道の日本製鋼所(鍛・鋳鋼)、輪西製鉄所(銑鉄)、関東の日本鋼管(鋼管)、関西の住友鋳鋼所(鋳鋼)、神戸製鋼所(鍛・鋳鋼)、川崎造船所(鍛・鋳鋼)だけだったが、製鉄業奨励法(17年)の保護と鉄鋼ブームから18年までの4年間に年産5千㌧以上の新設会社、工場は30に及んだ。これに既設工場の設備拡張を含めると戦時中に年産5千㌧以上の工場は全国43工場、年産5千㌧以下166工場、民間総数209工場を数えた。
-
戦後恐慌と鉄鋼会社淘汰 大戦は18年(大正7)10月終った。その後にやってきたのは大戦特需を当て込んだ新増設による需給バランスの崩壊、「戦後恐慌」の大波だった。
日本発の株式・商品相場の「戦後恐慌」(20年、日本では169の銀行が預金の取付け)、鉄鋼需要の世界的激減から価格は暴落。官営製鉄所を除く、田中鉱山など民間製鉄所の操業率は軒並み低水準に落込んだ。
これにマグニチュード7.9の関東大震災が追い打ちをかけた(23年9月)。鶴見・川崎に集中していた製鋼・圧延会社の多くが被災し、復興を急いだ政府は「復興鋼材の輸入税を免除(25年まで)し、復興事業を見越した輸入鋼材は未曾有の入超を記録」した。
さらに八幡製鉄所がこの輸入鋼材の阻止対策として建値を引下げたため、供給過剰と価格低迷から鋼材相場は「極端に沈滞」。大戦中、登場した鉄鋼会社の約4社に1社が戦後恐慌、震災による鉄鋼不況に直撃された。23年末現在で残った会社は63社。内訳は銑鉄21社(廃業12社)、製鋼・圧延21社(廃業4社)、単圧21社(廃業6社)。
製銑会社の廃業が多いのが特徴で、戸畑の東洋製鉄は21年無償で八幡に移管され、歴史を誇る釜石の田中鉱山(釜石)も24年三井鉱山に買収された。 -
戦後余剰化したインド銑が日本を席巻 第一次大戦に際して、兵器需要に応じるため急激に高炉を建設した英領・インド銑が戦後の大正後期から昭和初めにかけ大量に日本市場に殺到した。インド銑の輸入は大戦末期(18年)の7千㌧から22年には10万㌧、29年(昭和4)には41万㌧と国内需要の約63%に達し、国内製銑各社を圧倒した。
輸入銑や輸入鋼材価格は国内品に比べはるかに割安だった。政府は25年、市中銑価格と輸入銑価格の差を輸入税とする関税定率法の改正を行い、同年、一貫製鉄所に対し1㌧当り6円の銑鉄奨励金を交付するなど国内銑の保護を図った。ただ当時、銑鉄・鋼材とも安価な輸入価格が市場をリードしていたから国内保護の実効は薄かった。
昭和初年から日米開戦まで
-
概説 日本は満州事変(31年)、日中戦争(37年)に突入し、欧米列強と中国支配を巡る緊張を高めた。政府は戦時体制を想定した国家総動員法を公布(38年)し、鉄鋼、鉄屑の国家統制に踏み切った。大正・昭和を通じて鉄鋼業は銑鉄シンジケートや八幡の支配を嫌ってインド銑や安価な輸入(米国)鉄屑を多用する「鉄屑製鋼法」に傾斜していた。その米国屑が日米開戦前夜、輸出禁止(40年10月)となり途絶。鉄屑製鋼法が主流だった当時、鉄屑こそが軍器製造、戦争の命運を決する国家の大事だった。では輸入屑に替って国内から鉄屑をどう確保するか。国家は鉄屑の回収、流通を民間に任せることなく直接、自らの統制・管理下に置き、民間鉄鋼設備の強制屑化を命じた。
-
金解禁(円高)デフレと世界恐慌 第一次大戦中、世界各国は「金本位」を停止したが、終戦後、各国は金本位に復帰した。17年停止した日本でも金本位への復帰が論議され、旧平価(1円純金0.75㌘)か「国力相応の新平価」か、で論争が起った。
結局、(国力以上の円高となる)旧平価の解禁を選択した政府は、国民に緊縮財政と節約奨励を求めた(30年1月金解禁)。その直前の29年10月24日NY株式相場は突如大暴落。大恐慌が世界を包み込んだ(暗黒の木曜日)。そのなかの円高選択は主力産業である絹や綿を始め輸出関連業種に壊滅的な打撃を与えた。金融恐慌(27年鈴木商店倒産)、世界恐慌(29年)に続く政策不況(「円高」)が二重、三重に日本経済を締め上げた。
昭和初年からの大量失業時代(大学はでたけれど)のなか、東北地方では「娘の身売り」や欠食児童が大きな社会問題となった。31年12月金輸出は再禁止された。しかし一連の失政から政府への信頼は失われ、これがその後の軍部台頭を呼び込む一因となった。 -
官民合同の「日本製鉄」 安いインド銑の大量入着と昭和恐慌は民間製銑会社(釜石・三井、兼二浦・三菱)に打撃を与えた。政府内で、この救済のため関税障壁を高めてインド銑を食い止める関税引上げ案と国防強化のため優良な官立製鉄所と民間製鉄所を合同する鉄鋼合同案が一体として浮上。官営八幡と三井、三菱系の民間銑鉄・鉄鋼の1所5社参加による半官半民(82.2%政府出資)の特殊会社「日本製鉄」が34年1月、発足した。
世界恐慌の影響冷めやらぬ当時、行き先を失った安い米国輸入屑が日本に流入。これを使って生産していた日本鋼管や関西平炉3社(住金、川鉄、神鋼)など民間製鋼会社の多くは鉄鋼合同には参加しなかった(財閥系鉄鋼会社救済の色濃い合同策を嫌ったためとされる)。 -
製鋼は輸入銑鉄・鉄屑に依存 32年(昭和7)末、平炉を備えた20の内地製鉄所のうち高炉を兼備した「一貫」は4ヶ所。また官営・八幡以外の3社(輪西、釜石、浅野)の生産は6~14万㌧と小規模だった。なぜ民間の銑鋼一貫生産が発展しなかったのか。
大戦中から本格化した輸入屑(大戦中の16年4月、鉄屑輸入関税はゼロ)が、戦後も世界の鉄鋼需要の激減から引き続き安価で入手できた。平炉各社はインド銑、米国屑の入手から多額な投資を必要とする高炉を建設する必要が無かったのだ。34年の日本製鉄設立にはインド銑との競争に疲弊した輪西、釜石が参加したが、上工程を持たない民間製鋼(平炉)会社が合同参加を見送ったのはこのためだ。ただ銑鋼一貫の日本製鉄も、平炉・鉄屑製鋼法を採用していたから(民間平炉会社と同じく)輸入米屑を多用した。 -
戦前の新設、一貫製鉄所 (鋼管、小倉、中山) 日本製鉄を通じて国家統制を目指した政府は、日鉄合同に参加しなかった民間アウト会社の高炉建設に対し、申請却下や引き延ばしで妨害した。ただこれらの高炉建設を押えれば輸入屑手当が増大し、国際収支のバランスを壊し、全体としての鉄鋼生産の増強力を失う。
このため結局、政府は日鉄各製鉄所(八幡、輪西、釜石など)で大型炉の導入や広畑製鉄所の開設(36年)を進める一方、アウト会社に対しても34年(昭和9)日本鋼管1号、36年浅野小倉、中山製鋼、浅野造船、尼崎製鋼などの高炉建設を認可した。 -
日鉄・広畑は39年(昭和14)火入れ 日鉄誕生後の設備増強のため銑鉄70万㌧、鋼塊50万㌧、鋼材40万㌧を目標に新工場が建設された。従来の高炉立地は石炭など原料供給に有利な地を優先したが、今回は「消費都市」に近い阪神周辺で適地を物色し、軍港呉にも近い広畑が選ばれ、39年10月、1,000㌧高炉に火入れした。
-
概説 日本は満州事変(31年)、日中戦争(37年)に突入し、欧米列強と中国支配を巡る緊張を高めた。政府は戦時体制を想定した国家総動員法を公布(38年)し、鉄鋼、鉄屑の国家統制に踏み切った。大正・昭和を通じて日本の鉄鋼業は銑鉄シンジケートや八幡の支配を嫌ってインド銑や安価な輸入(米国)鉄屑を多用する「鉄屑製鋼法」に傾斜した。その米国屑が日米開戦前夜、輸出禁止(40年10月)となり途絶。鉄屑製鋼法が主流だった当時、鉄屑こそが軍器製造、戦争の命運を決する国家の大事だった。では輸入屑に替って国内から鉄屑をどう確保するか。国家は鉄屑の回収、流通を民間に任せることなく直接、自らの統制・管理下に置き、民間鉄鋼設備の強制屑化を命じた。
-
37年(昭和12)金属統制金属統制は「明治憲法すら死文化する」(昭和経済史)広範な委任立法であった国家総動員法(38年・制定)に先立って、まず一定の使用を禁じる消費統制(37年10月、鉄鋼工作物築造許可規則)として始まり、ついで値段を公定する価格統制(38年7月、物品販売価格取締規則)に広げ、さらに自由な売買を禁じる配給統制(38年11月、鉄屑配給統制規則)へと段階を追って強化された。
その統制手法は「暴利取締令」(37年8月)を改正して、まず輸入品を規制する「輸出入品等臨時措置法」を制定するや、輸入品だけでなく国内品にも関連するとして「物品販売価格取締規則」(38年7月)を定め、公定価格制度を導入する巧妙なものであった。
鉄は国家だった。鉄が国家ならその6割を生む鉄屑は国家の背骨。戦前は戦争の時代。国家総動員法に基づく価格統制の第1号が「鉄屑価格」(38年)。鉄屑流通を国家管理の下に置いたのが「日本鉄屑統制株式会社」の設立であり、国民に鉄屑の供出を命じ、強制回収の手足として業者を駆使したのが「金属類回収令」(41年)であった。 -
日本鉄屑統制会社と鉄屑配給(38年) 日本鉄屑統制(株)は38年10月発足し、細目を定める「鉄屑配給統制規則」は11月制定された。配給統制は「本邦内に於いて発生したる鋼、又は銑の屑又は故」(1条)を対象とし、鉄屑を使用する者は原則として統制会社(日本鉄屑統制)を通じて買わなければならず(2条)、統制会社以外の者は鉄屑使用者に販売してはならない(3条)とした。これは配給を鉄屑統制会社に一元化した規定だ。配給は切符(鉄屑割当証明書)制度とし、統制団体に属する者は統制団体から、そうでない者は地方長官から切符を貰わなければ鉄屑を入手できない(6条)。自家発生屑は統制せず発生量を届出るにとどめた(8条。その後、鉄屑供給の柱は自家発生屑に移り、規定は厳格化する)。同規則は「輸出入品等臨時措置法」2条により制定されたから本則違反は同法の罰則(1年以下の懲役または5千円以下の罰金。法5条)の適用を受ける。
-
指定商(鉄屑統制会社) 統制会社は「指定商は株主より選定」すると定め、株主となった業者のうちから鋼屑、銑屑、特殊鋼屑の順で指定が行われた。鋼屑指定商は東京本店直轄79社、名古屋営業所5社、大阪営業所が最大の118社、小倉営業所20社の計212社でスタートした。鋼・銑指定商は合計406社(実数383社=40年現在)にのぼったが、これは指定商洩れの非協力を恐れた商工省が将来は大幅にしぼり込むにせよ、まず制度発足が先と一歩しりぞいて「希望する業者は誰でも」指定商に取り込んだためだ。
-
鉄屑統制は3種類 金属統制は国家総動員法に先立って、一定の使用を禁じる消費統制として始まり、価格統制、配給統制へと段階を追って強化され、配給機関として鉄屑統制会社(38年10月)が設立され、金属類回収令(41年9月)として仕上げられた。
①消費統制(37年10月鉄鋼工作物築造許可規則)=軍需物資以外の製造には鋼・銑、 鋼屑を使用してはならない。子供のオモチャから文鎮や鉛筆削り、灰皿、コンパクトからタライ、火鉢から広告塔のネオンサインやエレベーター、交通標識や欄干・手スリなどおよそ150品目。鉄製品の製造が禁止されるから鉄屑の発生も減る。これが第一弾。
②価格統制(38年8月物品販売価格取締規則)=国が鉄屑売買価格の上限価格を定める。統制としては最も長命で戦後は「物価統制令」に衣を替え52年2月27日まで存続した。価格統制は38年10月の平炉特級100円が、全統制製品を通じての命令第一号。
③配給統制 (38年11月鉄屑配給統制規則)=鉄屑統制会社など諸組織の整備を待って、配給統制規則を制定した。当初は鉄屑集荷業者が入手した屑の配給・物流を統制した。その機関が鉄屑統制会社。ただ金属類回収の強化(43年改正金属類回収令)により金属回収統制会社に改組し「供出命令」による配給を統制した。 -
昭和15年の開戦(米国禁輸)とABCD包囲網(41年) 米国は39年(昭和14)7月、日米通商航海条約の廃棄を通告し40年7月石油・鉄屑等を輸出許可品目に加えた。日本が北部仏印に進駐した直後(40年9月25日)、10月16日以降の対日鉄屑・鉄鋼輸出の全面禁止を断行。第二次大戦中の欧米諸国が続いた。これがいわゆる「ABCD包囲網」である。A(America=米国)、B(Britain=英国)、C(China=中国)、D(Dutch=オランダ)の頭文字。日本はここに「鋼塊生産所要原料の3割」 を失うに至った。この米国の対日鉄屑禁輸措置は、 米国による無血の軍事産業・兵力の減殺を意味し、兵器建造を禁圧する事実上の宣戦布告だと軍部は理解した。当時、日米の主要物資生産力の「物的国力差」は1対77(昭和経済史)。しかも開戦に伴う損耗と海上封鎖による物資杜絶を計算すれば(誰が机上演習しても)、存亡に係る最低限度の国力維持すら危ぶまれたのだ(「昭和16年夏の敗戦」・猪木直樹著)。
-
金属回収は「特別」「非常」と「企業整備」 国からの金属供出は戦時体制の強化に応じて3種、3段階がある。特別回収は三期に分けられる。 ▽特別回収・第一期=39年(昭和14)2月~41年前半まで。
企画院が官公署から代替可能な金属品を回収した(民衆からの回収は行なっていない)。
第二期=日米開戦後の41年(昭和16年)11月~42年3月まで。
「金属回収令」による指定施設等からの回収。ただし譲渡勧告だけで強制命令は出していない(法令による特別回収。民衆対象の初回収)。
第三期=42年(昭和17)5月~43年2月。指定施設に譲渡命令を発動(「金属の応召」)。寺社の金物も「国宝」などわずかの例外を除いて供出を命じた(第2次特別回収)。
▽非常回収=43年(昭和18)3月以後の回収。国は金属類回収令を改正し、統制組織を全面的に強化して取組んだ。対象は平和・不急産業として「企業整備」を命じられた繊維などの「未働遊休」設備が中心。紡績工場は鉄量換算で 100万㌧あった設備のうち70万㌧が屑化・解体された。その後の戦災による焼跡屑回収も「非常回収」と呼ぶ。 -
その実施機関と関係法令
▼国民更正金庫法(41年7月)=「時局の要請に応じ転・廃業をなす商工業者の資産負債を整理し更正を図る」(第1条)。更正金庫は資産を処分し金属設備を回収機関に売渡した。▼産業設備営団(11月)=平和産業、不急産業の諸設備を屑化。機械・器具を含む遊休未稼働設備は同営団が買取り、製鋼原料として処分した。
▼企業許可令(12月)=企業整備の前提として上は石炭鉱業から下は露天商、てんびん棒に至るまで全国443種の商工業で固定。新規事業の開始は許可制とし全面不許可とした。▼企業整備令(42年5月)=戦時経済の「総力発揮に資するため」企業の整理統合と「設備の有効利用」を目的とする(2条)。「設備の有効利用」が鉄屑化と決まれば工場、事業所を丸ごと鉄屑とするが登場する。「繊維工業全体では企業整備前に鉄量換算で約100万㌧あったと推定される設備のうち供出によって約70万㌧が鉄屑化された」(昭和経済史)。 繊維業界の場合、 強制屑化による設備消失は、直接の戦災被害の10倍にも達した。 -
戦時中の統制会社と鉄屑業者
ここで鉄屑統制組織と指定商、業者の関係を、時間を追って、整理しておきたい。
地方回収団などの動きは(公式資料は見当たらないので)、42年3月から45年3月まで統制会社の内側にいた矢追欣爾氏からの聞き書きに基づく(日刊市况通信。83年8月15日特集)。
38年=価格統制(7月制定、10月実施)に続いて鉄屑統制株式会社が設立され(10月)、鋼屑月間100㌧扱いを基準とする「指定商」の認定を巡って中小業者の不満が爆発した(12月)。
39年=このため銑屑50㌧扱いを追加し、39年4月までに鋼・銑指定商383社が決まった。配給統制は「鉄屑配給統制規則」により切符(鉄屑割当証明書)制とし、同規則は「輸出入品等臨時措置法」により制定されたから、違反は同法の罰則(1年以下の懲役または5千円以下の罰金)の適用を受けた。しかし価格と指定販売(切符)以外の鉄屑商売は自由にできた。
40年=米国が日本への鉄屑輸出を禁止した(10月)。日本は国内屑の調達強化を急いだ。
41年=41年9月「金属類回収令」が制定された。従来の鉄屑配給統制は鉄屑流通・販売だけ(鉄屑問屋と需要工場間)を規制したが、回収令は前段階である一般家庭や工場、施設など金属屑所有者を直接に名指しして、売渡しを命じた。回収機関として鉄屑統制会社とその傘下指定商を改組して起用した。一般家庭及び非指定施設は同法では回収の対象にならないが、実際には「戦時物資活用協会」傘下の宗教法人、青年団、婦人会が受け持ち、回収に当った。
指定商は月間1000㌧扱いを基準に全国94指定商に再編された(41年10月告示)。ただ各地の中小業者は寄り集まって、合同会社(「故鉄」など)を設立し、指定商枠に踏み留まった。それら業者は、合同会社に資本参加(役員)すると共に従来会社の維持や商売は継続できた。
42年=42年3月ごろ、国は道府県に「金属回収団」の設置を命じた。大阪の場合、府が「統制会社の指定商に一人ずつ団員を派遣するよう命じ」鉄屑統制会社近くの京町堀に本部を置いた。団員といい仕事といい統制会社の別働隊に近いもので団長は統制会社の役員に名を連ねた山口英一。団員は50~60人。産業設備営団が指定する遊休工場・設備の解体・屑化を行った。
同年5月、国は金属類回収令に基づく強制回収(「金属の応召」)に踏み切り、回収の実効を上げるため鉄屑統制会社と故銅統制会社を解散・統合して「金属回収統制株式会社」を立ち上げた。故銅統制会社は9月19日、鉄屑統制会社は21日臨時株主総会を開いて解散。金属回収統制会社がこれに替って9月21日から業務を開始した。本社は浅草区花川戸(浅草松屋)に置いた。社長は大蔵省銀行局長を務めた大久保偵次。副社長は旧故銅統制会社の社長だった崎山刀太郎。常務は大阪の大手業者で鉄屑統制会社の常務でもあった岡憲市、陸軍退役少将など4人。取締役は鉄鋼側から永野重雄他1人。監査役は藤井丙午他2人であった。
永野重雄は戦後の70年合併誕生した新日鉄の初代会長。当時、日鉄の購買部長・鉄鋼統制会の理事。輸入屑を扱う鉄鋼原料統制会社では社長も兼ねた。藤井丙午は戦後、新日鉄から政界へ転じた。当時は日鉄の秘書課長。鉄鋼原料統制会社では監査を兼ねた。
金属回収統制会社は、直接全国の鉄屑指定商・故銅特約代理店・特約商業組合等、約150社を率いて下部数万の買出し業者を総動員する一大機関となった。「即ち未働遊休設備または中小商工業者の転廃業による設備等の買い上げにより産業設備営団、国民更生金庫等が全面的に金属回収統制会社に協力を与え時局の要請に応じ」特別回収を押し進める「回収営団」的機関となった(鉄鋼統制・昭和18年1月号。「大東亜戦争と金属回収」)。
43年=4月、国は「非常回収実施要綱」を策定し、中央に回収本部を創設し地方庁の回収課を一元指揮した。8月「金属類回収令」を改正し、一般民衆には「戦力増強」のため学生ボタンなど代替可能品の回収、「不急・平和」設備や工場には強制屑化(非常回収)を命じた。
10月、金属回収統制会社は三度改組された。同月施行された統制会社令により、統制会社は中央の金属回収統制会社の1社だけとなり、指定商制度は廃止され、金属回収統制会社は全国18ブロック回収会社に再整理された。地区株式会社の名称は▽北日本「金属回収会社」▽東北(「以下同様」)▽関東▽新潟▽北陸▽東海▽中部▽京都▽関西▽兵庫県▽中国▽山口▽北九州▽日豊▽熊本▽長崎▽鹿児島▽四国の18。地区有力・旧指定商が幹部として回収・工作隊を差配した。指定商は姿を消し、業者の商売は禁じられたから廃業した業者も少なくない。
統合組織は「金属回収統制会社」と金属回収団の流れを引く「非常工作回収隊」の看板を掲げた。看板は二枚だから、回収統制会社の社員は同時に非常工作回収隊の隊員でもあった、という。旧指定商は金属回収会社の社長や責任者へ、鉄屑業者や資源・回収業者その他の者は、都道府県知事の命じるところに従って、鉄屑の非常回収に従事することになった。工作隊は繊維産業などの不要・不急産業の屑化・引取にあたり、戦災屑等は回収隊が担当したとされる。東京都では、関東金属回収株式会社。社長には地域最大規模の鈴木徳五郎をあてた。
この時、鈴木は全国18回収会社筆頭の関東金属回収会社の社長として、傘下の金属回収工作隊を指揮し「国内における金属回収量の3分の1を引き受けた」(緑綬褒章・経歴紹介)。
大阪府では、関西金属回収株式会社。初代社長は鉄屑統制会社では副社長の阪口定吉。次が回収営団の団長を務めた山口英一。部署は非常回収、一般回収、非鉄回収に分かれた。一般回収は大阪府下を7営業所に分け、営業所ごとに下請け班を作り、各班長が集荷の任にあたった。
ただ一般回収といっても、一般家庭や町工場から鉄屑は出ない。出るのは軍需関連工場だけ。軍が支給している材料から出たものは、軍に納めている製鋼所に返せという。このため軍需関連の回収材として統制会社のヤードに下ろさず、営業所ごとに回収会社が仕分けした。
11月、国は商工省や企画院を吸収して軍需省を設置。企業整備本部を新設して、金属回収本部の職員を企業整備本部の職員とし「企業整備の統括及び金属類の回収」事務にあてた。
44年=5月、国は金属統制法規を金属類回収令に集約した。38年以来の鉄屑配給統制規則を廃止し、工場発生屑に係る条項を回収令へ移し、鉄屑の呼称をやめ「鉄返り材」に改めた。
45年=1月、国は軍需充足会社令を制定し金属回収会社を指定した。さらに3月。回収統制会社と18地区回収会社の合併を命じた。統制会社が地区回収会社を吸収合併し、合併の完了期限は5月3日。鉄屑扱いはこの統制会社ただ1社となった。
6月、沖縄地上部隊が全滅。空襲は東京、大阪、名古屋(3月まで)から全国の中小都市へと広がり、戦災屑が街路にあふれた。戦災屑も軍部にとっては貴重な物資だった。「焼跡の屑鉄金属類は急速回収を図る必要があるので輸送力を有する陸海軍および航空総局が分担収集する」「防衛工事および重要施設の地下移転等の資材とする」ためだ(東京朝日3月23日)。
-
鉄屑業者は回収隊、工作隊 統制会社発足当時の39年、 鋼・銑扱いで実数383社を数えた指定商は41年の回収令に基づく回収機関の指定(41年10月)で大阪27社、 東京22社など全国94社と約4分の1に整理された。さらに43年(昭和18)金属回収令の改正から統制会社は中央の金属回収統制会社の1社だけとなり、旧指定商は全国18ブロックの地域回収会社に再結集された。いずれも地域名を冠し地区の有力・旧指定商が幹部として回収・工作隊を差配した。回収・工作隊に組込まれた業者は、金属回収統制会社傘下の実働部隊として地方長官の命じる回収工作の集荷・解体に従事した。
45年3月。国は中央の回収統制会社と地区回収会社の合併を命じた。合併を完了すべき期限は5月3日。回収統制会社の鉄屑扱いは統制会社ただ1社となった。 -
概説 占領政策の全権を握ったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は旧支配体制の排除を指令した。鉄鋼も例外ではなく最低限の能力を残して他国に供与すべきとの戦時賠償策(45年)が打ち出され、指定を受けた高炉・平炉会社は賠償管理下に置かれた。ただ直後の米ソ対立(東西冷戦)から日本に一定の産業力を残置する方が得策との方針転換から賠償指定は解除され、鉄鋼分割も日本製鉄(50年)を除いて見送られた。
国は戦後復興には動力源としての石炭と素材としての鉄がいるとして「石炭・鉄鋼の集中的傾斜生産」策を打出した(47年)。これが国庫一般会計支出による補給金を柱とする価格差補給金制度(7月体系)で、この補給金制度が戦後初期の鉄鋼業を支えた。
この仕組みが財政健全化を謳うドッジによって否定された(49年)。補給金全廃(50年7月)に鉄鋼業界が怯えた6月下旬、 朝鮮戦争が勃発し鉄鋼需給環境は一変した。 鉄屑相場は暴騰につぐ暴騰を重ね、物価統制令も停止(51年)され、講和条約で主権を回復した日本(52年)は政府、鉄鋼会社が新たな鉄屑対策(鉄屑カルテル)を模索し始めた。鉄屑業界では個人業が復活し、旧植民地出身者を含む新規業者が登場。このなかで鉄鋼業界は、価格統制のない自由マーケットに突入し、需給双方の対立が表面化した。 -
戦時賠償指定 ポツダム宣言の第11項の対日賠償規定に基づき、極東委員会(FEC)が46年6月、日本の戦時賠償(中間)案として、鉄鋼は「銑鉄200万㌧、鋼塊350万㌧を超える能力」を賠償に充てる(海外供出)とし、GHQは505工場に賠償指定を通知、保全を命じた。うち鉄鋼のへの指定は13社22工場で、海外への賠償指定となった工場はGHQの厳格な保全管理指令下に置かれ、戦後の鉄鋼業復旧の手足を縛った。
しかし、その後の東西冷戦の高まりによる米国の対日占領政策が進む中で48年以降、対日賠償・集中排除・経済パージなどの強硬策は次第に緩和され、「日本に一定の産業力を残す」方が得策との方針から49年5月、中間案などの賠償計画は全面破棄された。 -
石炭と鉄鋼の集中的傾斜生産 敗戦後の経済機能マヒと激烈なインフレの打開策として、(外貨不足と石油輸入途絶のなか)国内自給が可能なエネルギー源である石炭の「集中的傾斜生産」にいっさいの施策を集中した。石炭の増産には炭鉱構内を補強する鉄鋼の増産が必要であり、鉄鋼の増産には何よりも石炭が必要である。東大教授有沢広巳が唱え(46年12月)、戦後最強の経済官庁とされた経済安定本部(安本)が実施した。
また戦後のインフレ対策から、物価統制令(46年3月)が制定され、鉄屑価格も再び統制下に置かれた(公定価格)。兵器・艦艇・沈没商船に限定した配給統制も復活し(47年1月)、その上で石炭と鉄鋼傾斜生産支援の「補給金制度」が創設された。 -
鉄鋼補給金制度 戦後の緊急物価対策として47年7月、国庫一般会計の補給金を柱とする価格差補給金制度(7月体系)が打ち出され、この「補給金」の大半は、戦後のインフレに取り残された鉄鋼会社に投じられた。この給付金創設により業界は戦後の鉄鋼不需要期をからくも乗り切った。補給金支出は47年度の一般会計歳出総額の21%。 48年度は24%。うち鉄鋼向けだけで補給金総額のほぼ4割を占めた(昭和経済史・下)。補給金制度は石炭と鉄鋼の傾斜生産政策の計算書。この政策によって鉄鋼業は戦後の困難期を生き延びた。
-
朝鮮戦争と鉄鋼、鉄屑価格 しかし補助金行政は財政の健全化を損う。50年7月を期して「鉄鋼補給金」の撤廃を決定したドッジラインから日本の鉄鋼業は空前の危機感に包まれていた。撤廃直前の6月25日未明、朝鮮半島の38度線全域が戦争状態に入った。鉄鋼会社は米軍の作戦用鋼材調達や世界的な需要急増から息を吹き返し鉄屑相場は沸騰した。
-
物価統制令廃止 インフレ対策として始まった物価統制令は、朝鮮特需以降の鉄屑関係者にとって(経済実態から乖離し)統制違反者を生み出すだけのものでしかなかった。51年3月31日GHQは同令の停止を命じ、52年2月27日付けで統制を正式に廃止。占領体制の終結(講和条約52年)から、その後の鉄屑相場は奔放な動きを示した。
-
日本製鉄解体(50年) 過度経済力集中排除法などから50年4月、日本製鉄は八幡製鉄と富士製鉄などに分離した。旧官営の八幡と旧民間(輪西、釜石、富士)の2社に分割するが、合同後の37年に誕生し最新鋭の大型高炉(1,000㌧炉2基)を持つ広畑 (八幡の帰属認めない)を巡って関西平炉3社と永野・富士が激しくやり合った。
結局、広畑が富士に帰属したため関西平炉3社は、早急な銑鉄対策を迫られた。 -
関西平炉3社と銑鉄自給 川鉄は直後の50年夏千葉に高炉建設を計画(これが一万田・日銀総裁の川鉄・ぺんぺん草エピソードを生んだ)。53年6月火入れした。住金は高炉を持つ小倉製鋼を吸収し(53年7月)、神鋼も高炉を持つ尼崎製鉄を系列に収めた(55年)。
関西平炉3社は銑鋼一貫3社の支配から距離を置くため銑鉄自給を目指した(銑鉄制約からの自由)が、これを加速させたのが原理的には鉄屑装入なしに製鋼が可能となるLD転炉製鋼法の登場だった。平炉製鋼は銑鉄と共に大量の鉄屑を必要とするがLD転炉法なら鉄屑は必要としない。高炉と同時にLD転炉を導入すれば銑鉄調達は勿論、価格・数量とも不安定な市中スクラップの制約は回避できる(鉄スクラップ制約からの自由)。
「高炉を持つ小倉製鋼を合併したが主力工場に高炉がなかった住友金属、 高炉を持つ尼崎製鉄を系列化したが自社高炉を持たなかった神戸製鋼が一貫製鉄所の建設に当った」 (日本産業百年史)のはこの故である。 -
LD転炉法導入の背景(57年) 日本を鉄鋼大国に押し上げた歴史上の逆説は、鉄屑が世界で最も高かったことである。その世界一高い「鉄スクラップ制約からの自由」が世界に先駆けて鉄スクラップ装入を必要としない純酸素上吹き転炉製鋼法(LD転炉法)を導入させる最大の動機付けとなった。戦前からトーマス転炉(38年)操業のノウハウを持っていた日本鋼管がLD転炉法の基本特許を、さらに周辺特許を八幡製鉄が取得して、まず八幡が初稼働 (57年) させ、鋼管などその他の高炉がこれに続いた(58年)。
-
概説 朝鮮特需は休戦会談の開始(51年7月10日)とともに、1年余りで勢いを失った。反動不況は52年(昭和27)を通じて続き、これが鉄鋼業界の再編成と設備合理化、新たな鉄屑戦略を促すこととなった。この時期注目されるのは「戦時中の(鉄鋼生産)設備は、極端に荒廃化するまで酷使され、設備の近代化は焦眉の急」(大阪経済史)との官民挙げての危機意識のもとに戦後初めて大規模な設備合理化計画が政府援助のもとで始まったことだ(第一次鉄鋼合理化計画)。即ち独立を目前にした52年2月、通産省鉄鋼部会は51年度を起点として3年間に628億円を投じる大規模な鉄鋼設備の近代化を答申。政府は開銀融資および日銀外貨貸付けで積極的に資金調達を援助した。
第一次鉄鋼合理化計画が終了した55年(昭和30)頃には平炉、薄板ミル、鋼管設備の約5割、厚板ミル、線材ミルの約3割が新鋭設備となった(日本産業百年史)。 -
鉄屑カルテルの背景 鉄屑カルテル(第1回55年4月から、第15回74年9月末まで)は鉄屑の絶対的な欠乏(その結果、国際的に割高)の下にあった日本の鉄鋼界が、国家主権の回復(52年4月)後、政府(公正取引法改正・53年9月)、鉄鋼業界の総力を挙げて取り組んだ対策だった。当時は鉄屑を4割以上も必要とする平炉製鋼の時代だった。
不安定な供給と高価な鉄屑は鉄鋼だけでなく日本の産業の国際競争力を阻害する。その危機感がバネとなった。従って原理的には鉄屑装入を不要とするLD転炉製鋼法が普及する60年代後半まで日本の鉄鋼各社の関心はカルテル運営と価格動向に集中し、需給双方の抗争はカルテル運営を巡って集中的に噴出した。その活動を鉄屑需給委員会は「鉄くずカルテル十年史」や「鉄屑カルテル・昭和41~49年史」として編纂し後世に残した。 -
幻の鉄屑カルテル(53年12月) 鉄鋼20社は「米国アイアン・エージもしくはメタル・マーケット紙掲載のピッツバーグ渡し製鋼業者鋼くず購入価格」 を目標とする鉄屑購入カルテル結成の申請書を53年12月公取へ提出した。
同日、業者側は関東鉄屑懇話会を中心に全国の関係業者を幅広く網羅した「日本鉄屑連盟」を創設(德島佐太郎会長)し、激しい反対運動を繰り広げた。公取審査の長期化と市况変化から、鉄鋼側は翌54年6月、カルテル申請を自主的に取下げた。 -
鉄屑カルテル 「鉄スクラップ総事典」の「6 鉄屑カルテル・業者対応事典」の項に詳しい。
以下は時系列整理と関係法令まとめである。
■幻のカルテル(53年12月~54年6月30日)=(「戦後鉄鋼史」は53年カルテルを「第一次カルテル」と記載する。▽鉄鋼20社が53年12月11日に申請したカルテル。54年1月25日に審査保留を、2月9日には再審査を、需給環境の変化から6月30日に申請を取下げた。これに反対する業者は申請と同日、日本鉄屑連盟を結成。反対運動を展開した。ただこの間、対立打開のため鉄鋼と業者は共同で「鉄屑需給研究会」を立ち上げ、合理的な妥協策の案出を研究した。
■第1回カルテル(55年4月11日~10月7日)=これを踏まえて鉄鋼と鉄屑連盟は「鉄屑連盟の意見を参酌する」ことなどを条件に妥協。高炉・平炉18社は鉄屑合理化カルテルを55年3月30日公取に申請し、4月11日付けで認可された(第1回鉄屑カルテル)。▽しかし制度的な不備(アウトサイダー、輸入屑問題)などから半年足らずで崩壊(10月7日、自由買付容認)した。
■カルテル空白期(55年10月~12月)=56年10月から同年末までカルテルは機能していない。制度的欠陥を補うため通産省、鉄鋼側は米国輸入屑カルテル結成、数量カルテルなどのカルテル再建・強化を図った。この時期、鉄屑業者もカルテル協調の直納業者・巴会と中間業者を中核とする鉄屑連盟に分裂(55年10月)し、独自活動の一方で再統合に向け動き出していた。
■第2回再建カルテル(56年1月16日から同年6月末)=①従来カルテルは「購入数量は通産省の行政指示を守る」とだけ規定したが、消費数量も加え購入限度量として協定内容とした。②国内屑の価格を安定化させるため、米国輸入屑カルテルを創設した(米国屑の共同輸入、義務引取、プール計算実施を協定内容とした)。さらに③実効性を担保するため監視や制裁規定を新設した。
■第3回カルテル・事実上の空白期(56年7月2日から9月15日まで)=この前後、実質的にカルテル崩壊し、カルテル廃止を含む激しい批判にさらされた。このためカルテルは抜本的な見直しが求められ、期間も暫定2ヶ月間とされた。鉄鋼各社は勿論、分裂後の再合同協議に結集した業者にとっても今後の組織、体制のありかたを左右するカルテル初期の最大のヤマ場だった。
■第4回カルテル(56年9月20日認可。期間1年間)=鉄鋼側は、再建カルテルで強化した米国輸入屑を材料にアウトサイダーを内部に取り込み(B、Cカルテルを新設)、鉄屑業者の内部分裂を足場に協定書の「日本鉄屑連盟の意見参酌」を「鉄屑業界の意見を聞き」に書き改め、鉄屑連盟の価格決定の関与に一定の歯止めをかけた。業者はカルテル協調の直納系団体と中間業者を中核とする鉄屑連盟に決定的に分裂した。その後のカルテル運営はこの基本構造で動くことになった。
■第5回カルテル(57年9月20日認可、期間1年間)=180万㌧の米屑入着による「供給過剰」の定着と金融不況による国内屑購入抑制が重なり、市中価格(実施価格)がカルテル協定価格以下に陥没した(下限割れ問題)。「カルテルの解散又は中断説まで出た」(57年12月)。
■第6回カルテル(58年9月20日認可。期間1年間)=稲山試案を叩き台とした鉄鋼「不況公開販売(公販)」(58年6月)の行政指導に合わせ、鉄屑カルテルも5カルテル体制に拡充(9月)した(鋼材・鉄屑の完全カルテル体制の完成)。直納業者を中心に日本鉄屑問屋協会(11月)、日本鉄屑協議会(59年6月)が結成された。鉄屑連盟はカルテル価格協議の場から排除された。
■第7回カルテル(59年9月21日認可。期間1年)=「不況公販」から看板を変えた「好況公販」(59年5月)や「5カルテル間及び(カルテル協調団体である)問屋協会との相互関係が外口銭制度の実施により」「すこぶる平穏で(市中価格は)常にカルテル協定価格を下回った」(十年史)。
■第8回カルテル(60年9月20日認可。期間1年)=第2回カルテルから実施されていた米国屑の共同行為(米国輸入屑カルテル)が内部の意見対立から分裂、崩壊した(61年2月)。これを機に商社筋が、輸入屑扱いや国内屑扱いに乗りだしたため、直納専業者が没落する契機となった。
■第9回カルテル(61年9月20日認可。期間1年)=輸入屑の商社参入と思惑から輸入屑は急増(61年718万㌧、史上最高)・急落(62年286万㌧)と乱高下。市中実勢は61年9月二万一千五百円を高値に62年6月一万一千百円に急落。カルテル下限価格割れが再び論争となった。
■第10回カルテル(62年9月20日認可。期間2年間)= カルテル協定書は「購入価格は鉄屑業界の意見を聞き」を「国内鉄屑の購入価格及び購入数量を定める時は予め鉄屑業界の意見を聞く」(7条)に改め、購入価格・数量に関しても事前・意見聴取を明記し業者に発言余地を与えた。
■第11回カルテル(64年9月20日認可。期間2年間)=東京五輪(64年10月)の反動不況から山陽特殊製鋼の会社更生法申請(65年3月)が渦巻くなか、住金事件(11月)が表面化した。鉄鋼乱世の最終解決策として永野・八幡社長が鉄鋼大合同構想(66年7月)を打ち上げた。
■第12回カルテル(66年9月27日認可。期間2年間)=カルテル発足10年。需給変化に見合った再編論や下限価格の引き下げ論が渦巻いた。平電炉普通鋼側は、高炉と電炉の棲み分けを前提としたカルテル再編論を提起(66年11月)した。この間、大谷重工が経営破綻(68年3月)し、住金事件を引き金とする鉄鋼大合同構想が八幡・富士の合併発表(4月)となって動き始めた。
■第13回カルテル(68年9月27日認可。期間2年間)=鉄スクラップ専業者だけでなく資源業者団体である日資連(日本再生資源組合連合会)の意見聴取も始まった。公取は鉄鋼公開販売(公販)制度の運用に「疑問」を明記した。鉄鋼設備・価格の過当競争の最終的解決を目指す八幡と富士の合併(構想発表68年4月)は、公取の合併否認(5月)を乗り越え新日鉄誕生となって70年3月、結実した。巨大メーカーのリーダーシップによる協調体制(新日鉄的平和)がはじまった。
■第14回カルテル(70年9月28日認可。期間2年間)=新日鉄誕生による鉄鋼「協調体制」のもとカルテルも全国9カルテルに再編された(71年2月)。ニクソンショック(71年8月)が直撃し円相場は変動為替制に移行。ショック後の円高、粗鋼減産から市中相場は71年4月以降18ヶ月以上もカルテル協定価格(一万五千円)を下回った(71~72年の市中価格平均一万三千円台)。
■第15回カルテル(72年10月1日認可。期間2年)=公取は、カルテルの永続に反対の意向を示した。鉄鋼は自ら2年間の期限を切り、公取の認可を取り付けた。しかし認可後「列島改造論」(72年6月発表)、米国の鉄屑禁輸(73年7月~74年末)、石油危機(73年10月)が渦巻き、鉄屑相場はカルテル史上でも未曾有の急騰(74年9月四万五千円台)を展開した。 -
国内カルテルと鉄屑輸入カルテル 第1回カルテルは発足後、半年足らずの55年10月12日 、アウトサイダー同業メーカーの高値買いに翻弄され崩壊した(注1)。通産、鉄鋼連盟は緊急再建に走り同年12月、「輸入屑カルテル」を盛り込んだ再建カルテル(第2回カルテル・56年1月認可)を立ち上げた。鉄屑の絶対量が足らないのなら、国を挙げて輸入すればいい。その中心となる米国屑輸入は「鉄屑共同購入に関する協定書」に従って共同購入、共同計算で運用する仕組みをカルテル内に組み込んだ。
この輸入屑カルテルの創設が吸引力となってアウトサイダー各社をカルテル内に取込み (56年9月、B・Cカルテル結成)、同時に米国屑をベルトコンベヤーに乗せたように安定的に日本に流し込む稲山戦略(注)が動き出し(56年11月大量契約)、この米国鉄屑輸入を巡って、日米交渉(57年2月、永野・稲山「鉄屑使節団」派遣)が繰り広げられた。
(注1)これに間髪をいれず10月15日、通産省は厚板など7品目の輸出制限措置を通告した。通産省は鉄屑カルテル結成のため、独禁法の改正(53年9月)など必要な露払いに努めてきた。そうして軌道に乗ったかに見えた鉄屑カルテルが鉄鋼会社の内部統制の乱れなどから半年足らずで空中分解したのだ。「この措置はカルテルが機能を停止したことに起因するとの見方が一般的であり、その制限解除はカルテルを整備し再建させることが事実上の条件である、とも解釈された」(カルテル十年史)。
(注2)稲山・太平洋ベルトコンベヤー方式=米国鉄屑輸入は価格よりも数量確保を最優先するとの方針から(商社を通さず直接)、カルテルが米国シッパーと長期契約を締結する方式。商社による輸入屑業務はカルテルが買付けた後の輸入代行手続きに留まった。 -
スエズ動乱(56年)と米国鉄屑禁輸 日本は56年の経済白書で「もはや戦後ではない」と戦後の終わりを告げ「今後の成長は近代化によって支えられる」と新たなチャレンジを宣言した。一方、世界は第二次世界大戦後の新秩序模索の途上にあった。 ニュース風にいえば、スエズ運河の国有化宣言(56年7月)と直後の対英仏戦争(10月)による運河封鎖、ソ連支配を拒否したハンガリー事件(10月ソ連軍が鎮圧)、米国鉄鋼ストなどが鉄屑相場を直撃。世界の鉄屑需給は一気に緊迫・暴騰した(56年末、米屑65㌦。56年8月特級3万5千円)。さらに戦後復興体制にあった日欧が米国鉄屑の輸入拡大を強めた(注)ことから、米国は戦略物資である鉄屑の禁輸策に動き出した。
(注)第2回カルテルの輸入屑購入として56年8月米国2社43万㌧、同11月米国6社と206隻、約180万㌧の輸入契約(長契)を締結。これが深刻な対米摩擦を招いた。 -
鉄屑使節団派遣(57年2月) 日欧の買付け拡大に危機感を募らせた米国は57年2月鉄屑輸出許可の停止を発表。日本側は間髪を入れず同月、永野・富士製鉄社長、稲山・八幡製鉄常務、通産省重工業局次長らをメンバーとする鉄屑使節団を派遣(鉄屑使節団)。
米国政府に、65年までの高・転炉の増設計画とこれによる鉄屑の対外依存の段階的縮小を約束して米国政府の了承を取り付け米屑の対日停止は3月25日解除され、6月147万㌧の輸出承認をもって決着した(戦後鉄鋼史217p)。鉄屑は当時、日本経済の死命を制する最重要物資だった(60~70年を通じ鉄鋼輸出は外貨獲得の№1だった)。 -
180万㌧の輸入屑入着と反対運動(57年) 日本は当時、恒常的な外貨不足に悩まされ、外貨保有量をベースとする財政・金融政策が景気動向を左右する傾向にあった。神武景気による輸入増から外貨は減少、国が金融引締めに転じたことから景気は減速。鋼材価格の半値下落・大減産下に大量の輸入屑が相次ぎ入着し、市中鉄屑価格を封じこめた(57年2月、市中価格3万5千円→同年12月1万5千円割れ)。危機感を強めた鉄屑連盟は大阪、名古屋、東京で波状的な大規模抗議集会(57年7月26日、27日、29日)を開催した。しかし抗議も虚しく輸入屑は入着。市況は底抜け状態に陥った(朝鮮戦争以来の安値)。
-
金属条例制定 「鉄スクラップ総事典」の「5 リサイクル関連法制事典」の項に詳しい。
-
金属類営業条例(50~58年)を制定 戦前の古物商取締法は、一度でも使った銅鉄類を売買交換する者は、おしなべて古物商として、取締り対象とした。しかし戦後の古物営業法(49年)は、古銅鉄類を「古物」類の対象(規則2条は古物12種を列挙する)に加えず、「空き缶類、金属原材料、被覆いのない古銅線類」は同法の取締りの対象外とした。従って戦後の一時期、鉄屑扱い業者を正面から直接規制する国の法令は存在せず、法制上の歴史的な空白が生まれた。
▼制定の動き=朝鮮戦争さなかの50年(昭和25)12月、米軍港を持つ長崎県佐世保市が、金属屑商に関し、許可制による取締り(規正)を目指す古鐵金属類回収業(条例44号)を市条例として制定した。県レベルの制定の最初は翌51年3月山口県。届出制によるもので、同年7月福岡、8月広島、52年5月高知、7月鳥取と続いた(第1波)。▽佐世保市条例の6年後の56年10月以降、鉄屑流通を巡って国家的な模索(鉄屑カルテル結成、鉄鋼需給安定法など)が続くなか、金属屑価格の高騰と共に金属屑盗犯事件が多発し、全国的な防犯条例制定の波が起こった。神奈川、埼玉が56年10月1日の同月同日、許可制での制定に踏み切り、57年大阪府などをピークに58年まで北は北海道から南は佐賀まで24道府県に広がった。この時、東京都や京都府知事は、条例による取締りではなく業者に自主組織の結成を働きかけ、警察と一体となった防犯体制作りを選んだ。この結果、条例制定は、全国47地方自治体の半数強の29道府県に留まった(第2波)。▽その後1999年から2005年にかけ14県が廃止した(第3波)。▽しかし2013年以降、一旦廃止した金属屑類条例を全部(岐阜県・警察)、または一部を一般条例として再制定(鳥取県など)する動きがでてきた(第4波)。現在、同条例を施行しているのは、再制定を含め16道府県に及ぶ。
▼公安・国家監視=「公安関係等のもの(条例)には、各省から制定を要求されたもの、その内容を指示されたもの、準則等を流して制定およびその内容を直接・間接に強制されたものが少なくない」が、「金属屑条例にもその気配がうかがわれる」(久世公尭「行政事務条例の実態」『都市研究』1951年1月号、28p)。同営業条例は、金属くずの盗犯防止等を制定目的とするが、隠れた狙いは鉄屑集荷・回収業者が多い在日韓国朝鮮人を(朝鮮戦争以後、東西冷戦激化のなか)、日本国法の監視下に置くことにあり、国会審議を必要とする「法律」によらず、個別自治体だけで可決される条例制定によったとも見られた。このため自治体のなかには条例制定を拒否するところ(京都府)や業者の自主組織を結成し条例制定を回避するところ(東京都)がでるなど、政治的な論議と反対運動を呼んだ。 -
新旧高炉、大型高炉を建設(59年) 59年1月、神鋼・灘浜の第1高炉(753m3)に火が入った。同年4月、八幡は大阪湾岸(堺市)への進出を決め、9月当時日本最大の戸畑1号高炉(1603m3)を竣工。この年富士・室蘭2号(1042m3)、鋼管・川崎第2(1137m3)など先発一貫は1000m3以上の大型化に乗り出した。
▼関西平炉、構内高炉建設=関西平炉3社のうち川鉄は53年、自前の製鉄所(千葉)に火入れし、61年水島製鉄所(岡山)を開設。住金は53年、高炉を持つ小倉製鋼を吸収して小倉製鉄所と改め、61年和歌山製鉄所1号高炉を建設。神鋼は54年、高炉を持つ尼崎製鉄を系列におさめ、65年尼鉄を吸収合併。59年に灘浜1号高炉、70年に加古川製鉄所を開設(87年9月鋳物用銑を生産していた尼鉄・1号高炉を閉鎖)。高石義男が37年に創業した大阪製鋼も60年4月、大阪・西島に高炉(326m3)を新設した。
▼ステンレス鋼の日新製鋼も登場=59年4月、ステンレス単圧の日本鐵板と亜鉛鉄板の日亜製鋼の八幡系平炉・単圧2社が合併し日新製鋼として発足。62年6月呉製鉄所に高炉(894m3)を建設。銑鋼一貫の仲間入りを果たした。 -
鉄鋼第三次合理化(61年) 56年から始まった鉄鋼の第2次合理化計画は60年頃ほぼ完了。61年から政府の所得倍増計画(70年粗鋼4800万㌧)に沿い65年度3800万㌧を目途とする第3次合理化がスタートした。第3次初年の61年。富士は大分県鶴崎、川鉄は岡山県倉敷市、鋼管は広島県福山市での製鉄所建設合意をとりつけ、八幡も君津で建設に着工。神鋼も加古川に用地を買収。住金も茨城県と鹿島進出の交渉に入った。
第3次合理化では31基の転炉建設が計画された。62年川鉄、住金、神鋼、日新、大阪製鋼の高炉各社も一斉に平炉から転炉の新・増設に踏み切り、大型化。東鉄・岡山100㌧平炉が62年10月完成したが、平炉建設は大谷重工、中山製鋼の各1基にすぎない。
電炉の大型化も進んだ。炉容量は54年が最大・最高で10㌧。これが57年には20㌧、61年には80㌧が出現。 電炉でも60年台には30~40㌧炉が主流となった。 -
輸入屑カルテル崩壊(61年2月) 外貨不足から54年1月以降、 国家管理にあったドル地域からの鉄屑輸入規制(外貨割当制・FA制)が60年4月、自動承認制(AA制)へ切り替った。FA制の壁に阻まれていた商社も自由に外貨を使って鉄屑輸入ビジネスに参入出来るようになった。また米屑購入に関しても従来の数量優先の長期契約一本槍ではなく、買手市場化した価格メリットを活かした随時契約方式も検討すべきではないかとの意見が台頭。 協議を重ねたが61年2月、決裂。国内・輸入の両足で立つ鉄屑カルテルのうち、輸入屑の共同買付け機能は停止し、輸入屑カルテルは、この時をもって崩壊した。
-
輸入屑と商社の時代 輸入屑カルテルの崩壊は、新たなビジネスチャンスを商社の前に投げ出し、大手商社は資金供与、原料供給の双方から平電炉に対する影響を強めた。
それ以上に折からの不況(62年不況・平炉封印)、手形の長期化、金融引締め、信用不安の高まりは従来の専業問屋に連鎖倒産の恐怖を呼び起こし、商社支配が急速に高まった。 「メーカーの手形が長くなり専業者の限られた資金力では金繰りがむずかしくなったために 商社の大きな金融力に依存せざるを得なくなった。63年現在、関西では平・電炉メーカーに向けられる国内屑の95%以上は商社経由と推定される。専業者は(平電炉の倒産から)全財産を一瞬にしてふっ飛ばされた同業者を見て、ぞっとしたのだ。商社は鉄屑の流通を完全に掌握したのである」(日刊市况通信63年夏季特集号)。 -
東京五輪反動不況と山陽特殊の行き詰まり(65年) 経済史は「65年不況」とは東京五輪が開催された64年10月に始まり65年10月に底を打ったと定義する。この後、電炉淘汰の嵐が吹き荒れた。64年7月、東都グループ4社が合併しトピー工業が発足。同年12月関東の日本特殊鋼が会社更生法を申請。65年1月、大阪の田中電機工業が行詰まった(5月倒産)。3月、姫路の山陽特殊製鋼が更生法適用を申請(国内・貿易商社の桑正が同年8月連鎖倒産)。同じ3月、名古屋の中部鋼鈑が「黒いうわさ」に包まれた。
-
住金事件(65年) 第三次合理化計画の最終年度の65年前後、新鋭製鉄所炉が一斉に立ち上がった。名古屋の東海製鉄の火入れが64年9月、八幡・堺が65年6月、鋼管・福山が66年8月、川鉄・水島が67年4月。特徴は鉄鉱石と石炭の荷揚げが容易な臨海に立地したこと。ほとんどが世界最大容量かそれに迫ったことだ。第3次計画で策定した70年生産目標4800万㌧を4年も早い66年に達成。設備能力は計画の4年先を突っ走った。これが鉄鋼業界に争乱の種を残し、新旧大手高炉6社による戦国乱世に突入した。
この「乱世」を象徴するのが通産行政に公然と反旗を翻した「住金事件」である。
事件は平炉から高炉に進出した住金が和歌山3号高炉を建設したばかりの65年11月、 通産省の粗鋼減産指示に対し異を唱えたことから起こった(当時、民間企業が監督官庁の指導に逆らったのは異例とされた)。減産は「国内+輸出の総枠」で指示されたが、輸出割合の高い住金は、輸出は別枠にすべきと主張。第3四半期に限り輸出を弾力的に扱うとの別案を通産に提示したが不調(大臣は承知したかに見えたが佐橋事務次官が拒否)。通産省は住金への制裁として輸入原料炭の割当削減を通告。住金はこれに激しく反発。公取も「輸入原料炭の割当削減は問題」とし、当時の社会問題となった。その後の12月、通産から「66年第1四半期以降は根本的に再点検する」との言質を得て通産指導を受け入れた。 これが「事件」の概要だが「住金事件の根はもっと深いところにあった」。つまり八幡、 富士製鉄など先発高炉会社が「住金、川鉄、神鋼の関西系後発高炉3社の追い上げを阻むため」(稲山嘉寛・私の鉄鋼昭和史)通産を巻き込む形で仕掛けた企業戦争であった。 -
新日鉄誕生(70年) 山陽特殊の行詰まり(65年3月)、住金事件(同年11月)、大谷重工の経営危機(68年)は、鉄鋼合理化路線の総仕上げのなかで起きた。自由競争は放置すれば歯止めのない設備増強競争に行き着く。危機感を強めた八幡と富士の旧日本製鉄2社は過当競争の最終解決策として68年5月、合併趣意書を公取に提出した(ただ合併趣意書は、本格的な自由化時代を迎え企業規模の拡大が必要なこと、欧米における設備合理化・企業再編の進捗、技術革新が企業の大型化を促しているなどを列挙した)。
審査は68年6月から始まった。69年3月両社は合併に調印したが、5月公取は否認を勧告。両社はこの勧告を拒否し公取始まって以来の審判に持ち込まれた。その後、問題とされたブリキ、レール、鋼鉄板、鋳物用銑の4品目をライバル他社に譲渡することを公取に示したことから公取も10月譲渡案を了承し、判決手続きを経ず合併を認めた。
70年3月新日本製鉄が誕生した。粗鋼生産能力4,160万㌧。室蘭、釜石、君津、名古屋、堺、広畑、光、八幡および当時建設中だった大分の9製鉄所を擁し、粗鋼生産は自由世界第一位の巨大鉄鋼メーカーが登場し、大手高炉協調体制が確立した。チャンピオン会社が出現したから「協調」が訪れたのではない。過剰設備と競争の危機感が新日鉄誕生を促した。
両社合併を側面から応援したのが住金の日向社長だったのはそのためだ。
戦時経済体制と統制のなかで
敗戦から激動の10年
鉄屑カルテルの時代
「もはや戦後ではない」時代のなかで
70年代は新日鉄と世界波乱の時代
-
概説 新日鉄が登場した70年以降、鉄鋼業界はそれまでの設備、シェア競争時代から新日鉄をリーダーとする協調時代に入った。一方、世界はベトナム戦争の疲弊からニクソン・ショック(71年)、第一次(73年)、第二次(79年)の二度にわたる石油危機に見舞われ米国の一国支配体制が終り、エネルギー多消費型経済から省エネ型経済(軽小短薄)へと全面的に転換した。80年代の変化は省エネ型経済への転換を通じて加速された。
-
ニクソン・ショック、市中価格1万円割れ(71年) ニクソン米大統領は71年8月、ドル防衛のため金とドルの交換停止を骨子とする「新経済政策」を発表。主要各国は同年12月、ワシントンのスミソニアン博物館で10カ国蔵相会議を開き、ドルと金の交換停止、ドル切下げ、 主要通貨の切り上げ(1㌦=308円)を柱とする対策(スミソニアン体制)に合意した。日本では1㌦360円からの急激な円高が進む中で、鉄屑市中価格は同年11月1万円を割り込んだ。京阪神資源回収組合は引取りに当り冷蔵庫、電気釜、洗濯機など家庭電機は1台当たり50円。自転車、鍋、釜、石油缶などは1個分当たり30円のマイナス価格を提示した。当時はまだ「逆有償」という用語はなかった。逆有償を前提とした循環経済法やその体制がスタートするのはこの30年後のことである。
-
列島改造ブームと粗鋼生産1億5千万㌧予測(72年) その不安を吹き飛ばす一大ブームが72年沸き起こった。田中角栄内閣が掲げた①工業再配置、②新25万都市、③東北新幹線など高速交通網の整備などの列島改造人気だ。同年6月、首都圏・近畿圏等の工場立地制限を強化し地方への工場移転を進める「工業再配促進法」が成立。輸出・円高不況に苦しんでいた産業界は工場再配置、新幹線建設を先取りした土地投機から沸騰した。
翌73年7月、列島改造の鉄鋼版とでもいうべき「70年代の鉄鋼業」が産構審から公開・出版された。産構審は5年後の77年度粗鋼需要(生産)量を1億5千万㌧、鉄屑は693万㌧が不足すると想定。その時点での鉄屑需給安定のため①鉄屑の共同備蓄、②ポスト・カルテル組織の結成、③シュレッダー使用、を薦める意欲的なものだった。 -
カルテル廃止予告と米国鉄屑輸出制限(73年7月) 公取は72年9月、「永久カルテル」とする考えでは認可しないとの方針を鉄鋼側に伝えた。カルテルは向こう2年間に限って延長し「期間中にポスト・カルテル体制を検討する」との条件で認可を取り付けた。
国内では列島改造論が土地投機、買い占めとなって白熱。政府は緊急法(73年7月投機防止法)の歯止めを迫られた。日本全体が一種の賭場と化している中、米国が鉄屑輸出制限に動き出した。世界鉄屑相場が過去20年来の高値となり、米国でも鉄屑を多用する電炉が増加したことから相場は極端に過熱したことから73年6月末禁輸に踏み切った。この結果、米国鉄屑は73年7月以降74年末まで米国の輸出規制下に置かれた。 -
第一次石油危機(73年10月) 鉄鋼業界内では、過当競争の根を断つべく八幡と富士が合併し(70年)、新日鉄主導による協調体制が始まっていた。一方、国内外では、ニクソン・ショック(71年8月、1㌦360円の固定為替から変動為替へ移行)による相場暴落と列島改造ブーム(72年)による相場急騰の嵐が吹き荒れた。そのさなか世界的な石油危機(73年10月・第一次・注)が勃発。便乗値上げやこの防衛としての米国の鉄屑輸出規制(73年7月~74年末)の衝撃が大津波となって激しく日本を襲った。
(注)73年10月勃発した第4次中東戦争をきっかけに、1バレル約3㌦だった原油価格が約12㌦と上昇。安い原油に依存するエネルギー多消費型産業は競争力失った。 -
太平洋ベルトコンベヤー崩壊、鉄屑4万円超 この結果、第2回カルテル以来、鉄屑需給の安定を数量面から支えてきた「太平洋のベルトコンベヤー輸入システム」は崩壊し、鉄スクラップ需給、価格は未曾有の混乱と高値に直面した(74年5月特級49,000円)。
その対策として鉄鋼会社はカルテル継続に一縷の望みを託した。しかし公取は「鉄屑は主として平電炉製品の需給によって変動しているのが実情で共同行為による価格安定効果は少ない」としてカルテル申請を却下(74年9月)。世界的な鉄屑需給ひっぱくのなか、カルテルの支えを失った政府、鉄鋼は新たな安定化組織の設立を迫られた。
■第16回カルテル 申請却下(74年10月6日)=「鉄屑価格は最近の状況では鉄鋼製品(主として小形棒鋼及び中形形鋼)の需給事情によって変動しているのが実情であり、本件共同行為は企業の合理化を遂行するため特に必要なものとは認められ」ないと公取は、鉄鋼側の申請を却下。鉄鋼と通産省は、公取の判断に抵触しない新たな鉄屑需給の安定装置づくりの模索することとなった。
****
■独占禁止法との関係=独禁法は「企業の私的な独占及び不当な取引に制限」を禁じていた。その柱が第4条、第5条。適用除外の例外を認めたのが24条だった。国は鉄屑カルテルに道を開くため第4条、第5条を全面削除し、例外規定である24条に24条の3(不況カルテル)、24条の4(合理化カルテル)を追加して、独占禁止規定を骨抜きにした(53年9月)。改正独禁法の適用除外条項の申請第1号が鉄屑カルテルであり(53年12月)、認可申請が公取の審決で却下されたのは、鉄屑カルテルが最初で最後(74年10月)だった。鉄屑屑カルテルの却下後、合理化カルテル申請はほぼ皆無となり、99年には適用除外規定(24条3,4)が削除された
■独占禁止法適用除外法と行政指導=通産省は54年頃から57年まで毎年のように独占禁止法の適用を受けない独自案の国会提出を試みた(54年・鉄鋼事業合理化法案。55年・鉄鋼業合理化促進法案。56年・鉄鋼需給安定法案)。しかし公取は勿論、統制強化を嫌う鉄鋼業界の合意を得られず、独自立法への三度目の挑戦となった57年4月、ついに法案制定を断念した。そこで通産省は、独禁法の適用除外法ではなく自らの行政裁量で業界を誘導する「行政指導」に転換した。行政指導なら、すでに鉄屑カルテルで実験済みだった。
■行政指導と鉄鋼公開販売制度=稲山試案を叩き台とする鉄鋼公開販売制度は、58年6月、まず鉄鋼「不況公販」として始まった。米国鉄屑の長期契約による大量入着(180万㌧)と折柄の金融引き締めによる鉄屑需給の超緩和と粗鋼減産、それに伴う鉄鋼価格の暴落対策が目的とされた。が、このタイミングで岩戸景気の42ヶ月が始まった。不況公販はわずか半年で意味を失った。一旦手に入れた事実上の鉄鋼製品カルテルは手離せない。通産省と鉄鋼首脳は真逆の「好況公販」に看板を掛け替え、存続を図った。公取も呑んだ(59年5月)。これは裏カルテルではないかとの疑念がつきまとい、公取も警告を発したから、通産省と鉄鋼は三度、装いを改めた。それが価格「安定公販」(60年7月)である。通産省と鉄鋼が普通鋼鋼材生産量と販売価格を事前に公然と取り決めることの疑義は、やはり深かった。このため公取は年次報告で「安定公販」への疑問を表明した。公取の疑問表明の最後が69年次報告である。
■公販制度運用停止と新日鉄登場=この公販制度に公正取引委員会から度重なる「疑問」を投げかけられた。67年度以降は年次報告にも明記された。行政指導にも限界が見え始めてきた。次の一手が求められた。それが行政指導の「完全カルテル(共同行為)」を超える完璧な共同統治(企業合同)の追求だった。それらを背景に新日鉄が登場し、新日鉄的協調体制がスタートした。 -
政府、鉄鋼会社は鉄屑備蓄組織設立(74年) この安定化組織として鉄鋼81社出資の「日本スクラップ・リザーブセンター(SRC)」が設立された(74年1月)。が、公取は需要者(鉄鋼会社)だけで組織するSRCが鉄屑備蓄を行うのは独禁法上、問題となると指摘した。公取が問題にしたのは「需要家だけ」で運営する仕組みだった。であれば鉄屑業者など「供給側も」参加させればいい。これが鉄屑工業会創設の発端となった。
通産は公取の疑惑を回避する別組織として、①鉄鋼会社や鉄屑供給業者など需給双方による備蓄機関として「日本鉄屑備蓄協会」(75年6月)、②集荷・回収支援組織として鉄屑加工処理設備の近代化資金調達の「回収鉄源利用促進協会」、③集荷・回収業者組織として「日本鉄屑工業会」のカルテル後継3社団法人の設立を決めた。 -
(社)日本鉄屑工業会を設立(75年) カルテル終了と共に消える筈だった鉄屑問屋協会は、政府のポスト・カルテル対策の流れのなかで(社)日本鉄屑工業会に改組した。この社団法人格を持った日本鉄屑工業会設立(75年7月)の効果は抜群だった。標準産業分類上の「卸売り」に分類されていた鉄屑業は、76年5月「製造業」に変更され「その他の鉄鋼業」、「鉄スクラップ加工処理業」との認定を受けた。翌77年5月鉄屑業は「近代化促進法」の「指定業種」に指定され、近代化計画告示を受けた(80年7月12日官報)。以後、鉄屑業者の経営・設備の近代化はこれらの法的、税制的な支援を背景に急速に進展した。
石油危機と構造不況の時代(75~80年)
-
概説 石油危機によるインフレ対策のため、世界は一斉に引締め政策に動いた。経済史は74年、75年の日本経済は「全治3年以上の重傷」を負ったとの福田赳夫副総理の言葉を引用する。74年前半の仮需・暴騰のツケが75年以降、内外需要の一斉減産・不況というかたちで回ってきた。75年は年始早々2万4千円を割り込む急落で始まった。
直接のきっかけは73年7月から実施された米国鉄屑輸出規制が75年1月から全面解除され「太平洋ベルトコンベヤー」(輸入)が復調したことと仮需反動減産のダブルパンチだった。さらに当時、鉄鋼業界は77年度粗鋼生産1億5千万㌧を夢見ていた。その構想を前提とした生産能力増強と石油ショック後の減産の二重のギャップが「業界ぐるみ」の「構造不況」を招いた。政府は平電炉・伸鉄業など32業種を不況業種に指定(75年1月)し、8月末、平電炉・単圧53社は不況カルテル(75年9月認可。76年3月末まで30~35%の強制減産)に逃げ込んだが、平電炉の統廃合や休止、電炉倒産が相次いだ。 -
安宅ショック、商社の戦線縮小(76年) 75年12月戦前からの鉄鋼系商社の安宅産業に経営危機が発生した。住友銀行が伊藤忠商事に「損はかけない」と安宅の継承を頼み込み、内容を精査した伊藤忠商事は76年10月、吸収合併に調印した。戦後再発足した伊藤忠商事の売り上げは繊維部門が全体の90%を占めた。伊藤忠は安宅の債務を洗い出し安宅の営業規模の約40%、鉄鋼関連では25社を継承し、業界3位に躍り出た。
安宅解体と並行して平電炉の再編も進行した。76年1月、新日鉄系の大阪製鋼・日本砂鉄鋼業・東海鋼業・大谷重工業の旧八幡系平電炉4社は統廃合による合併に合意。まず大阪製鋼と大谷重工2社が77年6月末をメドとする合併覚書に動いた(大谷重工救済色が濃いことが協議難航の背景にあったとされる)。2月、新日鉄系の大同製鋼、日本特殊鋼、特殊製鋼の特殊鋼3社も合併に合意し、9月大同特殊鋼が発足した。
6月、大阪の興国金属工業が会社更生法の適用を申請(77年5月、再建を断念)。10月、鉄屑の機械処理分野から鉄鋼分野(日本鋳鋼を買収)に進出した手塚興産も行き詰まった。さらに三菱商事を主力商社とした南部製鋼が77年5月、会社整理を申請。「大商社のカサの下にいれば絶対潰れることはない」との神話を打ち砕いたとされた。 -
過剰設備対策とアウト規制(77年) 通産省が設置した平電炉基本問題研究会は77年2月、過剰設備対策として390万㌧(平電炉330万㌧、高炉60万㌧)の設備廃却、中団法(中小企業団体法)に基づく商工組合の設立等を骨子とする報告をまとめた。
通産省は中団法による「全国小形棒鋼工業組合(小棒組合)」を認可した(77年8月)。この組合は、員外者(アウト会社)に対し組合への強制加入、事業活動規制、設備制限などの大臣命令が発動できる強行性を持つ(アウト規制)。
通産省は10月小棒組合が申請した数量・価格カルテルを認可した。これを見た東京製鉄などアウト各社は通産省基礎産業局に聴聞意見書を提出した(組合によるアウト規制は憲法違反と主張)。しかし通産省は中小企業安定審の了承を得て、調整期間を77年12月1日から78年3月31日までとする「鉄筋用小形棒鋼調整規則」などを公布。12月から東京製鉄や東洋製鋼などアウト12社に対する直接監視に乗り出した。 -
AA諸国向け無償援助(78年) 全国小棒組合は大手商社に小棒の買上げを要望。11月ロール国内向け20%、12月30%をメドに合意し、関西では小棒カルテル価格5万2千円の90%、4万7千円での買い上げが決まった。
高島浩一・小棒組合理事長はアジア・アフリカ諸国向け無償援助物資として小棒供与を政府に働きかけ、了承された。78年から12年間、総額358億円、総計45万2千㌧が外務省を通じてエジプトやネパールなどアジア・中近東に向け船積みされた。 この商工組合設立と対をなすものとして、平電炉の現有設備330万㌧の廃却を進めるため、特殊法人「平電炉構造促進協会」が設立された(12月)。政府出資3億5千万円と民間から同額の出資を得て「10倍保証」の形で金融機関から70億円の資金を確保し、休廃止メーカーの運転資金にあてるものだ。 -
電炉は構造不況業種(78年) 石油ショックと円高は造船業界・繊維業界・アルミ製煉など非鉄金属を直撃した。これに平電炉を加えた4業種の過剰設備改善を目的に「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)が制定(78年5月)され、「安定基本計画」が策定された。285万㌧の平電炉設備を廃棄し、80年度末(81年3月末)までは新増設・改造は行わないとするもので、電炉業界は設備競争の一時停止を国の力を借りて実現した。
-
大阪製鉄が登場、東鉄・電炉に進出(78年) 77年6月大阪製鋼と大谷重工業が合併し発足した合同製鉄は78年4月、姫路の日本砂鉄鋼業と江東製鋼(関東の西製鋼から従業員を引き継いだ)の2社を吸収合併。新日鉄系の大鉄工業と大和製鋼も同年10月合併して大阪製鉄として新発足。前年12月平炉を廃却した東京製鉄・岡山が78年4月、1号電炉と2号電炉(各140㌧炉)を稼働させた。最後まで残った東鉄の平炉廃棄に伴い、平電炉普通鋼協議会は「普通鋼電炉工業会」に名称を変更した(5月)。
-
第二次石油危機と東鉄ショック(79年) OPECは79年1月からの原油価格の段階的値上げを決定した。イラン革命(79年1月)で親欧米政権の抑制を失った原油価格は1バーレル30㌦時代へ入った(注)。日本は前年来の円高(78年11月184円)から円安(79年11月238円)に一転し、輸出産業を起点に内需も刺激され自動車、鉄鋼は過去最高の決算を記録。電炉各社はフル生産に走り、79年度小棒生産は1,336万㌧、小棒輸出は同比2.1倍の243万㌧、丸棒価格は八万円に迫った(鉄源協会モニター価格)。 電炉体制に入った東鉄(岡山)に「海上価格」が登場(79年10月)。米国の鉄屑輸出規制再発の動きや石油危機による鉄屑需給ひっ迫のなか西日本工場購入価格を一挙に3千円引き上げた(11月、特級・海上35,500円)ことから「東鉄旋風」が吹き荒れた。
(注)79年のイラン革命を契機に1バレル13㌦の原油価格が急騰。第一次、第二次石油危機とこの対策を通じて日米の鉄鋼、自動車産業の競争力格差が鮮明となった。 -
特級4万円を超す(80年2月) 第二次石油危機の直後の物資買い溜め、米国鉄屑禁輸を連想させる米国調査団の来日(80年1月)、これに重なる東鉄の内航船による国内買い付けショックなどから、特級価格は80年2月、4万円台に跳ね上がった。カルテル終了後、需給ひっ迫と価格調整の安全弁として設立された鉄屑備蓄協会は、大車輪の出番となり、買上げが79年1月から80年2月まで関東・関西・九州や中部地区で実施された。
-
構造不況改善法延長 電炉業界は78年度末までに285万㌧の設備能力を廃却し、新増設を抑制したが、実際の生産能力は高電圧操業(UHP=ウルトラ・ハイパワー)など製鋼技術の進歩や鉄屑予熱など付帯設備の導入によって大幅に高まった。この能力増の一方、重油と電力料金が石油危機で大幅に値上げ(コスト増)、反動不況と産業構造の変化(重厚長大から軽薄短小へ)による需要後退から製品市況は暴落。緊縮財政をとった81年度は公共事業の伸び率がゼロになったことから電炉は小棒を中心に大幅減産を強いられた。国は81年3月末で期限切れとなる特安法を83年6月末まで延長した。
-
構造改善の11年(電炉新増設を制限) 特安法(78年)は過剰設備の廃却を命じるとともに将来の「電炉の新設・増設・改造は行なわない」として電炉の設備計画を規制した。当初3年の時限法だったが83年まで延長。その後、同法を引き継ぐ形で「産構法=特定産業構造改善措置法」が制定され、電炉設備の新増設規制は88年6月末まで11年間続いた。78年からの特安法を第一次構造改革、83年からの産構法を第二次構造改革と呼ぶ。
プラザ合意と円高不況対策(80~90年)
-
概説 原油高に起因するエネルギー転換策に遅れた米国経済は第二次原油高以降、急速に衰退(81年自動車輸入規制、85年鉄鋼輸入規制)し、見せかけの「ドル高」の危うさの是正が急務となり、主要国は為替の再調整に結束した(85年プラザ合意)。 一方、2度の石油危機を乗り切った日本の鉄鋼、自動車生産は米国を抜いた(80年)が、内需産業に留まった電炉は造船、繊維、アルミなどと並んで「構造不況」業種に陥没した。この「構造改善」のため過剰設備の廃却、新増設に制限を課す「特安法」や「産構法」が制定され、78年から88年まで平電炉業界は同法によって設備競争が禁じられた。
国策として「円高」を選択した日本は産業構造の転換も兼ねた「内需拡大」(前川レポート)や超低金利策を採用(87年2月~89年5月)。バブルの芽が育ち始めた。 -
鉄屑検収基準を見直す(82年) 特安法は設備削減と共に原料・流通の改善を求めた。普電工は81年2月、原料委員会を設置し①検収規格の全国統一、②契約納入制の導入、③輸入屑の安定購入策の検討を打ち出し、82年10月から新規格を採用。 国際商品化している鉄屑に対し米国屑等の規格と照合させることによって輸入屑との格差障害を取除くとの方針のもと、重量鉄屑の呼称を「ヘビー」に改め、基準品種を「特級」から「H2」に統一した(ただ東京製鉄は、従来通り「特級」呼称を残した)。
-
東鉄対新日鉄のH形戦争・新日鉄的秩序の終焉(82年) 日本の高炉各社も米国の反ダンピング策(80年)による輸入抑制策と内外鋼材市況の下落から窮地に立った。粗鋼生産は72年以来10年ぶりに1億㌧台を割った。そのなかで「82年8月、東京製鉄は高炉が独占していた大型H形鋼分野への進出を発表した。また同じ時期に日本鋼管が系列の東伸製鋼からの委託圧延という形で増産を開始、高炉メーカーの協調体制を崩し」「新日鉄は調整役を降り、一転して攻めの販売に踏み切った。これに他の高炉も同調し、電炉も応戦したため双方のシェア争いが本格化」(阪和興業40年史)した。10月からわずか3ヶ月の間に小型の市中相場は7万3千円から5万5千円に暴落。新日鉄をリーダーとする「高炉協調体制」は(東鉄という電炉企業の市場参入を契機に)終わりを告げた。
-
新日鉄、鉄屑購入再開(82、84年) 同じ82年8月、新日鉄は合理化計画の一環として74年の中止以来8年ぶりに(山口の光を除く)全国7製鉄所で市中屑の購入を再開すると発表した。業界ではH形戦争の鉄屑版との見方が専らだった。その後の84年、九州工場の大型H形鋼設備を予定通り稼働させた東京製鉄は、販売促進のため5月、6千円値下げを発表。高炉も対抗値下げに動いたため第2次H形戦争が始まった。直後の6月、新日鉄は大分や名古屋などで鉄屑増量買いを発表。紛争は製品から原料全般に及ぶドロ沼化の様相を見せた。ただ前回(82年9月~83年2月)の抗争が流通全体の疲弊を呼び込んだ教訓から、東鉄も9月積み販売価格の引上げと減産を発表し、二度にわたる紛争は終結した。
-
プラザ合意・米国経済衰退と円高(85年) 疲弊した米国は81年の自動車に続いて、85年鉄鋼輸出の自主規制を日本に求めた。この前後、行過ぎたドル高が世界経済の先行きリスク要因とされ、是正のため85年9月G5(日、米、英、西独、仏)は緊急蔵相・中央銀行総裁会議を開き、ドル高是正の協調行動(プラザ合意)に動いた。
円相場は合意直前の1㌦250円台から翌86年8月には150円台(40%の円高)まで一気に円高が進行し、3年後の88年12月には122円まで上昇した。40%の円高は対外的には品代40%値上げ効果を持ち、対内的には40%値下げ効果を持つ。鉄屑業界は円高不況による需給悪化(生産抑制)と為替高(輸入相場安)の両面から激しく叩かれた。 排出者に処理料金負担を求める「逆有償」なる用語がこの時、市民権を得た。 -
鉄屑備蓄協会は機能停止(86年) カルテル後継機関として設立された日本鉄屑備蓄協会の本来機能(鉄屑備蓄)がこの円高で一挙に失われた。市中実勢が1万3千円を割った86年5月、備蓄買いの「自動出動」に対し製品急落に苦しむ電炉側(注)から強硬な反対論がでたため、7月以降の備蓄を中止し機能は停止した(その後の88年8月、鉄屑に関する資源調査などを目的とする社団法人「日本鉄源協会」に全面的に改組した)。
-
粗鋼生産9千万㌧台予想も 円高不況は高炉経営を直撃した。大手高炉各社は87年2月までに1㌦150円、粗鋼生産9千万㌧を前提に設備合理化・人員削減計画を相次いで打出した。新日鉄は釜石を始め室蘭、堺、戸畑の5基の高炉を89年度末までに休止。住金は和歌山の2号高炉を87年9月までに休止するなど高炉6社全体で18万人の従業員のうち90年までに余剰要員4万人を減らす計画とした。日本の粗鋼生産コストを100とすれば新鋭高炉を持つ韓国は72(野村総研)。競争力は韓国に比べ遙かに劣るとされた。
-
トーア・スチール登場(87年) 電炉も合理化を急いだ。東京製鉄は生産規模の小さい高知工場を閉鎖(87年3月)。同年8月、大安製鋼(圧延)と清本鉄工・佐賀(製鋼)が合体して九州製鋼が発足。10月、鋼管系の東伸製鋼と吾嬬製鋼所が合併し、当時国内最大の電炉メーカー、トーア・スチールが誕生した。ジュニアH形鋼に進出した大和工業は米国のニューコアと合弁でニューコア・ヤマトスチールを設立した(87年2月)。
-
商社、国内鉄屑部門を子会社に(87年) 商社は輸入屑を中心とする海外貿易と国内供給の両翼体制で臨んだが、高炉が転炉製鋼に切り替え、輸入手当てや国内購入を減らし、電炉が「構造不況」業種に転落するに及んで商社本体が業務とする必然性は薄れた。87年4月、三井物産は「三井物産金属原料」を、丸紅は「丸紅テツゲン」を、日商岩井・九州の金属部・原料部は「東洋メタルサービス」を立上げ、本体から切り離した(商社史参照)。
-
円高対策とバブル(内需拡大、低金利策) 日米間の経済摩擦が米国の不満を膨らませ対日強硬策を生んだとの認識から前川・前日銀総裁を座長とする諮問委員会が輸出主導型の経済構造を内需主導型へ転換すべきとする施策報告(86年4月、前川レポート)をまとめ、これが内需産業を刺激した。必要施策として①内需拡大(住宅対策・都市再開発・労働時間短縮による消費生活の充実・地方自治体による社会資本整備)、②産業構造の転換、③市場アクセスの改善と製品輸入促進などをあげ、経常黒字の縮小を最大目標とした。
日銀は「円高不況対策」として当時、異例の超低金利策(86年1月5.0%から87年2月まで0.5%刻みで計5回引下げ2.5%へ。この低金利が89年5月末まで27ヶ月継続)を実施した。「前川レポート」(86年4月、87年4月)を政策的な背景に住宅建設(87年度住宅着工、前年比23.5%増の173万戸)と総額6兆円の緊急経済対策(5月)などの財政出動から景気は急旋回(民需・民活の「内需主導型」)。超低金利策と株高(89年末、東証株価3万8,915円)が相俟って、その後のバブルを呼び込む伏線となった。 -
構造不況法終了(88年) 87年初3万1千円だった丸棒は年末6万1千円に急騰。建築用丸棒の不足はようやく回復軌道に乗ろうとしている景気回復の足カセともなりかねない。丸棒不足の原因が材料不足と見た通産省はゴルフ中の鉄屑工業会の専務理事を急遽呼び出し、全会員に対し鉄屑を売り惜しみすることなく円滑に供給するよう求めた。
しかし高値が高値を呼ぶ空前の建築ブームから丸棒価格は6万円台に乗った(90~91年)。電炉設備の新設・増設・改造を規制した「構造(不況)改善法」は終わった(88年6月)が、電炉各社の設備能力は直ちには立ち上がらない(丸棒高の背景)。
一方、土地バブル・建設ラッシュによる「スクラップ・アンド・ビルド」から大量に発生した市中鉄屑は電炉会社に鉄屑の安定供給と安値(H2・1万5千~2万円)をもたらした。製品・材料需給環境が挙げて電炉経営を後押しした。電炉各社は構造改革 「10年の穴」を埋めるべく、各地で一斉に設備の新増設に走った(電炉増設ラッシュの背景)。 -
関東月曜会が鉄屑輸出(88年6月) 関東地区で2カ所以上のヤードを持つ大手10社(ヤマナカ、中田屋、高関、黒田興業、東金属、岩本興産、塩貝鉄鋼、関東シュレッダー、富士商会、鈴徳)は「業界の経営近代化と過当競争の是正、コスト意識の確立を目指す」との目的から、月曜会を結成していた(83年8月発足)。84年1月23日には記者会見を開き、10社資料に基づく「鉄屑加工処理コスト」を開示し適正コストの確保に向け新たな方向を示した(月間3,000㌧扱い、500㌧ギロチンでトン当りコスト4,896円)。
その月曜会が88年、「月曜会はいずれ訪れるであろう鉄屑輸出を想定しその対応を模索すべく韓国、台湾、トルコなどの鉄屑輸入国の市場調査を検討してきたが、その一環としてまず隣国で急成長目覚ましい韓国を訪問することとした」として訪韓記事を鉄屑工業会の会報紙・鉄屑ニュース(№73)に掲載し、鉄屑輸出の可能性を広く会員に訴えた。日本の鉄屑流通はこれを契機に、新たな時代に入った。
90年代、歴史的な転換点のなかで
-
概説 90年前後は、世界史的な転換点だった。89年(1月)には昭和天皇が崩御し平成に改元、消費税が施行(4月)され、中国では天安門事件(8月)、欧州ではベルリンの壁が撤去(11月)された。東西ドイツの統一(90年10月)、ソ連邦の解体(91年12月)から東西冷戦は西側の勝利で終り、日本では不動産の総量規制(90年4月)、地価税成立(91年5月)などからバブルが崩壊した(91年3月、証券会社の損失補填表面化)。
バブルは電炉業界に空前の需要をもたらした。丸棒は6万円に乗り(90~91年)、「スクラップ・アンド・ビルド」は鉄屑大量供給をもたらした。製品高原高と鉄屑安を享受した電炉は設備増強に走り、高炉も構内電炉の建設に踏み切った(住金、川鉄、新日鉄)。
しかしバブル崩壊から住専問題が表面化。公的資金が投入された(93年)。この底入れが見えたと判断した橋本政権は公共投資抑制を打ち出し(97年6月)、戦後初のゼネコン倒産が発生し(8月)、アジア通貨危機(同年7月)、ロシア危機(98年)、日本発の金融危機(98年)が相次ぎ、100兆円超の不良債権が伝えられた。電炉ではトーア・スチール(98年9月)、中山鋼業(99年3月末)が行き詰まり、鉄スクラップ炉前価格は98年以後4年間平均で8,800円に陥没。排出者に処理価格負担を求める「逆有償」が定着した。 -
バブル崩壊と「逆資産効果」(91年) プラザ合意(85年9月)の直前1万2千円台だった株価(東証・一部)は89年12月大納会では3万8千円台まで急伸し、日本地価総額が米国の2.9倍となる大暴走が始まった。日銀はバブル封じのため89年5月以降、1年3カ月の間に5回金利引上げを断行(2.5%→90年8月6.0%)。国も不動産関連融資の総量規制(90年4月)、地価税(91年5月公布、92年1月施行)を制定した。この結果、さしもの株、地価のバブルは90年をピークに崩壊に転じた。 しかし、今度は株式と地価のバブル破裂による「逆資産効果」が住宅、不動産産業などを直撃した。バブル期の87~90年の4年平均住宅着工は168万戸。92年140万戸と後退した。バブル破裂とは株式不況(資産目減り)と共に住宅・建設不況であった。
-
丸棒6万円(構造不況法の学習効果) 鉄筋用小形棒鋼生産は、地価高騰と不動産建設の真っ只中の90年1,375万㌧を記録。丸棒価格は90年初の5万7千円から11月6万円乗せに迫ったあと92年4月まで1年3カ月にわたり6万円前後で「固定」した。電炉各社は構造改善法のしばりが解けてわずか2年足らず。新規設備はまだ立ち上がってはいなかった。構改法が残した「減産体制」の恩恵をメーカー各社はフルに享受したのだ。
鉄屑の国内供給量はバブル景気の市中・工場発生増の後を追って87年以降、年間200万㌧ペースで増加。ヤード業者の設備や輸送車両の大型化も急速に進み、1社当たり処理・出荷能力は飛躍的に向上した。その鉄屑供給増のなかでバブルが崩壊した。鉄屑価格は円高(鉄屑価格・抑制)、鉄鋼蓄積増加(鉄屑供給・増加)を背景とする鉄屑需給軟化と高値抑制の両面から圧迫され、90年後半以降1万円台(H2炉前価格)に転落した。 -
鉄スクラップ500万㌧余剰予測と街頭デモ(91年) 鉄源協会は91年4月、粗鋼生産を1億500万㌧、電炉シェアを現行32%とした場合、95年度の鉄屑は89年度比500万㌧超の余剰が発生するとの中・長期見通しをまとめた。市中では91年後半から値崩れが続き、流通も大きく変化し始めた。関東湾岸から西送りの船荷が月間10万㌧台に乗り(91年6月)、関東鉄源協議会は本格的な共同輸出に動き出した(11月)。さらに路上放棄車の増加から、自工会は7月「路上放置車処理協会」を結成した。
関東では電炉特A・手形9千円が出現し、全国でもH2炉前・1万1千~2千円(同年11月)に暴落した。資源回収業者団体である日資連(日本再生資源事業協同組合連合会)は同じ11月「丸棒価格が6万円で、なぜ鉄スクラップは5千円なのか」とのスローガンのもと東京で危機突破全国大集会を開催し、街頭デモを行った。鉄屑問題でデモ行進が行われるのは鉄屑カルテルの結成に反対した55年以来、実に36年ぶりのことだった。 -
リサイクル法施行・鉄リサイクル工業会に改称(91年) 経産省主管の「再生資源利用促進法」(リサイクル法)が91年10月から施行された。リサイクルは環境保全と共に経済ビジネスの有力なキーワードとなり、その後、容器包装(97年)、家電(01年)、建設(02年)、自動車(05年)など各種リサイクル法が制定される先導役となった。日本鉄屑工業会も同年7月3日付けで名称を「社団法人日本鉄リサイクル工業会」に改めた。
-
電炉対高炉の激突と構内高炉建設(94年) 構造不況法の期限切れを待って着工した電炉設備が92年以降、各地で一斉に立ち上がった。92年4月、東鉄・岡山で直流150㌧炉が完成。電炉初のホットコイル生産が始まった。同年12月、トーア・スチールも東京製造所から移転し、鹿島に新鋭電炉工場を建設すると発表。小型高炉(618?)を持つ合同製鉄・大阪は高炉を廃却。電炉生産に特化した(94年9月)。
この前後、高炉構内電炉の新設が相次いだ。共英・和歌山は住金・和歌山(90年7月)に、関西ビレットセンター(KBTC)は新日鉄・堺(92年1月)に、ダイワスチールは川鉄・水島(94年1月)に、新鋭電炉・圧延設備を設置した。新日鉄は広畑の高炉を廃却し、鉄屑を転炉で熔解・製鋼する「冷鉄源溶解法」を開始した(93年7月)。 -
平成不況と電炉設備(95年) 90年代に入って高炉対電炉の鉄スクラップ争奪の構図が鮮明となった。この間、有力電炉が陣地取りに奔走した。共英製鋼は91年、和歌山事業所を分離してキョウエイ製鉄を設立(7月)、94年矢作製鉄(名古屋)を傘下に収め(2月)、 新鋭電炉を持つ相場製鋼(茨城県)を吸収し関東スチールを立ち上げた(3月)。
95年は大型電炉の工場建設が相次いだ。トーア・スチールは東京から鹿島に拠点を移し、6月から稼動体制に入った。直線上に1電源2炉の150㌧直流炉2基を据え月間粗鋼生産10万㌧。競争力は当時「世界一」といわれた。東鉄・宇都宮工場が同年11月から立ち上がった。年間80万㌧のH形鋼などを作る。しかしトーアや東鉄の両新鋭工場が直面したのはバブル崩壊による需要の全面後退と高炉との厳しい競争の現実だった。 -
関東鉄源、共同輸出定時入札を開始(96年) 日本の鉄スクラップ流通はこの年を境に姿を大きく変えた。日本の輸出をリードしてきた関東鉄源協議会(月曜会から90年改組、91年11月から共同輸出開始)が96年4月から入札制を導入し定期輸出に踏切った。各地の有力ヤード業者で組織する鉄源協議会もこの頃、一斉に「共同輸出」に踏み切り、関東鉄源協議会の入札価格動向は、日本発のマーケット情報として世界の関係者の注目するところとなった。廃車関係では、安定型の廃棄が認められていた自動車シュレッダー・ダスト(ASR)が管理型に変更された(同年4月)。中国の粗鋼生産がこの年、1億㌧に達し日本を抜いた(日本の技術援助で85年宝山製鉄所、第一高炉火入れ)。
-
平成不況(「失われた10年」)とは何か 日本が世界に先立って経験した本格的なデフレ・スパイラル不況だった。即ち ①バブル後遺症(株、地価暴落による逆資産効果・資産デフレ)による企業・個人の多重債務、信用収縮、②丸4年にわたる長期かつ大幅な真性・円高不況(91年6月139円→95年6月85円。産業の空洞化、海外拠点シフトにともなう国内投資不在)、③東西冷戦構造の解体による世界経済の変質(米国型グローバル経済と世界的な労働賃金低下、輸入デフレ)が複雑に絡み合い、④国内生産活動の低下と物価下落がスパイラル状に進行した世界の経済史にも例を見ないデフレ不況だった(注)
(注)政府、日銀はデフレ不況が悪化した99年からは実質ゼロ金利、01年からは強制的に資金供給を促す「量的緩和」を採用した。08年のリーマンショック後、世界の信用秩序の破綻の危機に際し、欧米主要各国も日本の先行手法にならうことになる。 -
住専に公的資金を注入(95年) バブル後遺症は、まず地価上昇を前提に貸し込んだ銀行・住専(住宅金融専門会社)や不動産業(ゼネコン)などの「多重債務」として表面化。銀行、流通、企業の「不良債権化」と厖大な回収不能の噴出は金融機関の「信用毀損」、「信用収縮」を招き、全産業活動の低下という危機的状況を呼び込んだ。
この元凶である住専、ノンバンクの過剰債務処理が最大の問題と目された。国は93年1月、金融機関の不良債権処理のため「共同債権買取機構」を設立。95年には第二地銀や住専7社が破綻、農協系金融機関への影響も懸念されたため同年12月、母体銀行の債権全額放棄を条件に6850億円の「公的資金」を住専処理に注入した。
これに先だって政府は公共事業を中心に92年8月以降、93年4月、同年9月、94年2月と大型景気対策を打ち出した。94年12月の東京協和、安全信用の2信組に続いて95年7月(コスモ信組)、8月(兵庫銀行、木津信組)と銀行・信組の破綻が表面化したため、政府はさらに同年9月、14兆円の経済対策を追加し、景気の底割れに備えた。 -
日本経済は束の間の回復(96年) 96年の実質経済成長率は5%増。88年以来の成長となった。住宅着工は前3年間平均の18%増。新車販売も同18%超に沸いた。
円高から一転した円安(95年4月80円→同年末112円)を背景とする景気底入れに加え、97年4月から実施される消費税5%への引上げ・特別減税廃止・保険料引上げなど総額9兆円の実質大増税を前に高額物件(住宅建設・新車購入)の「駆け込み需要」増加によるところが大きかった。96年11月橋本龍太郎内閣は銀行・証券・保険の業態別規制の垣根を払う日本版「ビッグバン」構想と政策を打出し、戦後の財閥解体を機に禁止されていた「持株会社」制を半世紀ぶりに解禁。原則自由とした(97年12月)。 -
橋本行革政権の失政(97年)とアジア危機 住専処理を乗り切ったと見た橋本政権は97年度「財政健全化」(増税)策に打って出た。それが消費税引上げを含む実質9兆円の増税(97年4月)、98年度からの公共投資の7%一律カット(6月)だった。戦後初のゼネコン倒産が発生(7月)し、北海道拓殖銀行や山一証券が破綻した(11月)。「住専」問題どころではない本体金融機関や大手証券の本格的な経営危機が表面化した。
海外ではアジア通貨危機(8月)や韓国のIMF管理(12月)が渦巻き、年を越した98年1月、大蔵省は不良債権76兆円と発表。日本発の世界恐慌も懸念された。 -
日本発の恐慌も(98年) 「不良債権問題」は大蔵省が98年1月、銀行不良債権76.7兆円と発表したことから再燃した。日本長期信用銀行(長銀)は98年10月破綻、日本債券信用銀行(日債銀)も同年12月、国の特別管理下に入った。日本発の世界恐慌の恐れが海外からも指摘され始めた。年が明けた99年1月、金融監督庁は、銀行不良債権は73兆円と発表。日銀は同年2月、短期金利を0.15%へ引下げる実質「ゼロ金利」に踏切った。翌00年4月和議法を廃止して再建型民事再生法がスタート。金融庁が7月、金融監督庁(98年10月発足)と大蔵省金融企画局を吸収して発足、関連法整備も進んだ。このなかで日銀(速水総裁)は00年8月、政府の延期要請を振り切ってゼロ金利政策を解除し10年ぶりの利上げ(短期金利目標0.25%)に踏み切った。ただこれも景気悪化に伴い翌01年2月、再び金利引下げ策に戻り(01年9月、ゼロ金利再開)、さらに01年3月、銀行の資金流通量を促す「量的緩和」(短期・翌日金利をゼロとするゼロ金利だけではなく銀行が必要とする以上に供給する)策に追い込まれた。97年の橋本政権の早すぎた増税策の失政と同様、日銀の早すぎたゼロ金利解除が経済回復の足を蹴飛ばした、とされた。
-
大倉商事、トーア・スチール、中山鋼業が行き詰る 明治以来の歴史を持つ大倉商事が自己破産(98年8月)し、トーア・スチールが9月、任意清算に追い込まれ親会社のNKKが事業継承のため新会社を作る(99年4月NKK条鋼)と発表。鉄鋼専業の松庫(38年設立)も行き詰った(11月)。97年9月から始まった鉄スクラップの下落は98年4月H2、1万円際で止まるかに見えたが、9月のトーアショックから大台を割り、99年3月の中山鋼業の会社更生法適用申請を受け6千円台の歴史的な安値に陥没。この安値が以後、丸3年以上も貼り付くこととなった(鉄スクラップは逆有償へ)。
しかしこれは日本だけではなかった。アジア通貨危機(97年)、ロシア危機(98年)から原油価格(NY・WTI)は98年年間平均1バレル14.40㌦、99年19.30㌦の安値をつけ、コンポジット価格も99年11月70㌦まで陥没。資源・エネルギー価格安が世界を包んでいた(これが本格的に反転するのはBRICsが登場する04年以降である)。 -
産業活力再生法と電炉整理(99年) 鉄鋼業界は、電炉稼働状況を調査(99年1月)し、構造不況法の第3弾の実現を狙った。これは不発に終わったが骨子を包み込む形で「産業活力再生法」が成立(99年10月)した。同法は中山鋼業対策には間に合わなかったが、東洋製鋼には役立った(00年4月、上場企業としては再建型民事再生法の初適用)。成り行きを見守っていた電炉・関連会社がこの前後、相次ぎ整理・統合に動いた。
昭和鋼業(北九州)は解散し、商権は日本スチールへ移譲(00年2月)、東海鋼業は解散し、新日鉄と九州製鋼がトーカイを設立(00年4月)、国光製鋼は中山鋼業に製鋼を委託(00年10月単圧化、02年12月倒産)した。平鋼の関西製鋼と臨港製鉄は合併し新関西製鉄として新発足(01年10月)。会社更生法を申請した中山鋼業の再建は共英製鋼と合同製鉄の共同支援で進み01年12月、会社更生法計画案が承認された。 -
百兆円の不良債権と小泉財政再建(01年) 100兆円を越す不良債権が銀行経営を圧迫し、企業活動と信用を収縮させた。01年4月発足した小泉政権は「構造改革なくして景気回復なし」とのスローガンのもと①不良債権処理、②競争的経済システム、③財政健全を目標に掲げた。またバブル破裂対策として打ち出した総合経済対策と急激に膨れ上がった公共事業投資額を向こう10年間で欧米並みの国内総生産(GDP)比率まで落とすとの財政方針(7月、次年度の公共事業関連予算10%削減)を掲げた。さらに不良債権処理のため「金融再生プログラム」(02年10月)を公表し不良債権の半減目標と個別金融機関への資金投入を可能とする10兆円超の公的資金投入や日銀の「量的緩和」(01年3月)などの金融支援をバックに不良債処理を進めた。この結果、主要銀行に限れば02年3月末の不良債権率8.4%から06年3月末の不良債権率は1.8%に低下。不良債権処理は完了した。
資源バブルと世界的信用収縮
-
概説 第2次大戦終結以来45年近く続いてきた東西冷戦構造の崩壊(89年11月ベルリン壁崩壊)から世界は西側の「資本の論理」に統一された。「世界の工場」となった中国の躍進で21世紀は始まった(中国のWTO加盟は01年12月)。中国を筆頭にインド、ブラジル(BRICs)など新興市場国の「豊かな中間層」の拡大から原油、鉄鉱石など資源・エネルギー関連商品は軒並み高騰した(04年以降、資源バブル)。
サブプライム・ローンの証券化を通じて肥大した米国の住宅バブル(07年7月、サブプライム・ローン問題表面化)はリーマンショック(08年9月)に姿を変えて世界を恐慌の淵に追い込んだ。先進諸国や中国を始めとする懸命な景気テコ入れから危機は回避されたかに見えた(09年後半)が、ソブリンリスク(10年)となって再燃した。
一方、冷戦終結に弾みをつけた「資本の論理」は国境を越え(インド人ミタルによる企業買収)、体制の違いを超えた(中国の粗鋼生産は01年1.5億㌧から13年7億㌧)。
日本の鉄鋼会社はミタルの企業買収戦術、中国企業群の台頭など外部変化と円高(産業空洞化)、少子高齢化など内外の構造変化に直面し、早急な経営体制の組み替えを迫られた(12年、新日鉄住金誕生)。鉄スクラップ環境も一変した。地球サミット(02年)は「持続可能な経済成長」と「地球温暖化防止」を打出し、鉄スクラップは地球温暖化防止、「地上の都市鉱山」として再評価され、鉄スクラップ業者の役割は内外に高まった。 -
鉄スクラップ輸出時代(01年) 日本の鉄スクラップ輸出は01年以降、一気に600万㌧台に駆け上がった。その背景は①鉄スクラップの約7割近く消費してきた電炉生産が公共事業抑制から98年を境に急落(電炉生産シェアは96年度33.2%→05年度26.2%)し電炉・鉄スクラップ消費が97年度3,258万㌧から01年度2,895万㌧へ急減したこと(国内需要の後退)。②その一方、WTO(世界貿易機関)に加盟(01年12月)し産業活動を高めた中国やIMF管理後急速に立ち直った韓国向けに鉄スクラップ輸出が動き始めたこと(経済のグローバル化)、③相次ぐ電炉会社の破綻と鉄スクラップ価格の低迷から排出者に処理料金を請求する逆有償も、取引手法の一つだとの認識が定着したこと(経営手法の改善、発想の転換)。そのなかで④鉄スクラップ輸出が販路拡大の一つとして、全国各地の湾岸・業者に幅広く浸透したこと(ビジネスの国際化)などがある。
-
逆有償の歴史的な役割(98年~02年) 歴史的に言えば「逆有償」が「資源リサイクル」業の将来形を示唆した。①「資源リサイクル法」の制定を促す=素朴な逆有償(排出者が処理料金を負担する)を踏台に、理論付け制度化したものとして製造者にリサイクル責任(拡大生産者責任)を課し、一般市民に排出者としての応分の協力(処理費用負担)を求める家電や自動車など各種リサイクル法が登場した。②リサイクル業の業態拡大を促す=家電や自動車リサイクル法が制定されるなか、家電や自動車メーカーに替わって、もしくは共同して新たな拠点を立ち上げたのが、鉄スクラップ業者達だった。非伝統的な「逆有償」をベースに置いたから都心部の伝統的な業者よりも地方・辺境や新興勢力業者が比較的多い。③リサイクル業の組織近代化を促す=個々の業者だけでは取引相手を説得しにくい逆有償が、業者全領域でコスト意識、経営意識を徹底的に鍛え直し、各地に自主的、活動的な業者組織の結成を促した。「逆有償」と低価格に最も苛まされた自動車解体・部品回収業者は機械化処理(プレス機導入)や広域ネット販売網の構築に取組み経営体力を強化した。④リサイクル業者の意識変化を促す=98年9月(トーア・スチール自主清算)に始まり02年4月まで3年8ヶ月続いた炉前価格1万円割れが業者の意識を大きく変えた。一つが「逆有償」を契機とする新経営手法(逆有償ビジネス)への挑戦と資源リサイクル時代に備えた体制(コンプライアンス企業)の確立が進んだこと。さらに今一つが「余り物に値無し」(それが「逆有償」の現実)の打開。国内で需要が無いのであれば海外に求めればいい。00年以降、各地で業者が海外市場にアクセスし、需給環境を自らの手で作り変えた。
-
各種リサイクル法制定(00年~05年) 廃棄物処理とリサイクルは「廃棄物処理法」と「資源有効利用促進法」 体系に大別される。資源有効利用法は循環型社会形成推進基本法 (00年)とともに「3R(リデュース=発生抑制、リユース=再使用、リサイクル=再生利用)」を骨子とし生産者に製造物が廃棄された後の処理・再資源化を求める(「拡大生産者責任」)。 個別法に「容器包装リサイクル法 (97年施行)」「家電リサイクル法 (01年施行)」「自動車リサイクル法(05年完全施行)」などがある。法は拡大生産者責任を規定しているが、家電メーカーなどの生産者はリサイクル経験が乏しいため(法は外部委託を認める)、鉄スクラップ業者に新たなビジネスチャンスが広がった。
-
ゴーンショック(99年) 外資傘下の自動車メーカーが鋼鈑の購買先を絞り込んだ。99年フォード傘下のマツダはメッキ鋼板の調達先を6社から新日鉄、住金の2社に、GM傘下のいすゞも5社から新日鉄、NKK、川鉄の3社に、ルノー傘下に入った日産自動車は国内5工場の閉鎖と2万人削減、購買コストは3年間で1兆円の削減を目標とした経営再建策(「日産リバイバルプラン」)を発表。この方針のもと00年、鋼板購入は大手5社から新日鉄を中心に川鉄、NKK、神鋼に集約した(ゴーンショック)。
-
NKKと川鉄が合併、新日鉄3社連合(01年) ユーザーによる供給者選別(ゴーンショック)が、川鉄とNKKの統合を促した。両社は01年、2年後の03年4月をメドとする合併計画を発表した(両社は02年9月、JFEホールディングスを設立。03年4月持つJFEスチールを立ち上げた)。これに新日鉄を軸とする神鋼、住金の提携が続いた。01年12月新日鉄と神鋼、新日鉄と住金は相次いで包括的業務提携を締結した(02年11月住金の株価36円、神鋼42円の額面割れ。同月、新日鉄と住金、神鋼3社は相互に資本を持ち合い、業務提携を進めると発表した)
▼統廃合=住金は新日鉄と溶接材事業を02年7月統合し、03年10月ステンレス事業は新日鉄住金ステンレスとして新発足させた。和歌山の上工程(高炉・転炉)を台湾の中国鋼鉄(CSC)と共同運営する「住金鋼鉄和歌山」を立ち上げた(03年11月)。大阪の中山製鋼は02年7月、高炉から撤退(日本国内から1000m3以下の高炉は姿を消した)し、新日鉄・広畑の先行例にならって転炉に鉄スクラップを装入し製鋼する「中山式転炉溶解法(NSR)」と発表した。電炉では国光製鋼が倒産(02年12月)し、石原製鋼所が自主廃業(同年7月)を発表した。 -
商社・鉄鋼部隊は再統合(03年) ニチメンは02年12月、同社鉄鋼部門を住商に譲渡で合意した。三菱商事と日商岩井は03年1月、鉄鋼原料を除く鉄鋼製品部門の統合子会社として「メタルワン」を設立(三菱6割、日商4割)。日商岩井鉄鋼建材およびエムシー・メタルテックの2社を統合し「メタルワン建材」を設立。04年7月、旧三菱商事及び旧日商岩井の鉄スクラップ部門を同建材に移管した。ニチメンと日商岩井HDは04年4月、双日を設立。川鉄商事も同年8月、JFE商事HDを設立し、同社とNKKトレーディーデングを傘下に置くJFE商事として新発足(10月)した。
-
高炉は超大型炉へ「改修」(04年~09年) バブル崩壊を経験した日本は高炉の新建設ではなく従来炉の改修・大容量化で製銑・製鋼能力を最大限引き出す戦略を採用した。
新日鉄君津・4号の改修(5151?→5555?)への改修(03年5月)を皮切りに大分・2号、名古屋・1号を5000?超とし、大分・1号・2号(5775?)を世界最大のツイン体制とした。▽ JFEは倉敷・2号を4000?(03年11月)へ改修した後、京浜・2号、福山5号、同4号、倉敷3号を5000?超に改修。千葉6号、倉敷4号と合わせ5000?超6基体制とした。▽住金は04年9月、鹿島に日本では25年ぶりとなる新高炉を建設(5370?の新1号高炉)。3号も新1号と同容量のツイン体制とした。▽神鋼も07年5月、加古川・2号高炉を5400?に改修した。この結果、14年4月改修の戸畑・4号を含め14年現在、高炉33基中5000?以上は14基となった。うち新日鉄住金が7基、JFEが6基である。 -
中国、粗鋼生産急増(02年~13年) 中国は01年12月WTOに加盟し、08年オリンピック開催、10年上海万博誘致に成功し、安価な労働力と世界最大規模の潜在市場(人口13億人)を武器に外資を呼び込んだ。海外からの中国向け直接投資は02年、米国を抜き世界一となった。中国は05年7月、鉄鋼上位10社で粗鋼生産比率を10年に50%、20年に同70%に集約する本格的な鉄鋼産業政策を打出した。WTO加盟前の粗鋼生産は1.5億㌧だったが、05年には3.5億㌧、12年には7.2億㌧に達し(世界粗鋼生産の46%)、12年の企業別・世界ランキングの上位10社のうち中国企業が6社を占めるに至った。
-
BRICsが登場(03年) 東西冷戦の終結(90年ドイツ統一)は世界経済の垣根を取り払い、中国や東欧などの安価な労働力を取込む形で資本と労働の流動性を高めた。
米国などの金融技術は新たな信用創出に働き欧米日など先進国に並んで中国、インド、ロシア、ブラジルなどBRICs諸国の台頭を招き入れ、03年以降世界の資源・エネルギー価格は新たなステージに乗った。鉄鉱石や石炭など資源メジャーの寡占化やアルセロール・ミタル社など鉄鋼会社の再編を呼び込んだ(資源インフレ・資源争奪)。 -
地球温暖化防止、京都議定書(05年) 97年の「京都議定書」は第一約束期間(08~12年)にCO2、メタンなど温暖化ガスを90年の水準から加盟国全体で5%削減する(日本は90年比6%削減)ことを国際公約とた(条約は05年2月発効し、加盟国は08年1月1日から削減実行期間に入った。日本は会計制度の関係で同年4月開始)。
エネルギー多消費型の典型である鉄鋼会社はCO2排出抑制の一つとして鉄スクラップの活用を本格化させはじめた(JFEスチールは鉄スクラップ専用の新型炉を08年導入)。鉄鋼連盟によれば鉄鉱石由来の高炉生産の粗鋼1㌧当たりのCO2排出量は約2㌧。鉄スクラップを多用する電炉は340㎏、高炉の約6分の1。転炉に鉄スクラップを装入する場合は溶銑の高熱を利用するためCO2排出量はさらに少ないと見られた。 -
世界最大の鉄鋼会社はTOBで登場(06年) 世界の鉄鋼トップは、99年はコーラス社(英)、02年からはスイス、ルクセンブルク、仏の欧州系3社が合併したアルセロール社だったが、インド生まれのラクシュミ・ミタルが米国ISG社を買収して世界最大のミタルスチール社を作りあげた(04年10月)。ミタル社が06年1月、アルセロール社にTOB(株式の公開買付け)を仕掛け、8月1日付で粗鋼生産1.1億㌧規模のアルセロール・ミタル社が誕生した。ミタルが買収に走るのは「川上」の資源メジャーの独占に対抗し有利な交渉力を確保するためとされる。「量こそ力」だとの戦略だ。
これが日本に衝撃を与えた。日本の高炉各社は優秀な技術と高級鋼の生産力に絶対的な自信を持っていた(品質の追求)。その技術力への過度な思い込みがTOBや株主対策の不在の脇腹を突かれた。日本の鉄鋼業界は世界の変化に応じたハード(設備)とソフト(株主、TOB対策)の両面から早急な戦略・戦術の組み替えが求められた。 -
日本企業のTOB対策(06年) 新日鉄は同社株15%以上の買収に対する防衛策を策定(06年3月)し、新日鉄と住金・神鋼の3社は相互に敵対的買収の防衛策を発表した。新日鉄は山陽特殊製鋼を持分法適用とし(06年2月)、子会社の日鉄商事と合わせて中部鋼鈑の筆頭株主となり(07年1月)、合同製鉄(同6月)、王子製鉄(同9月)も持分適用会社とした。新日鉄は大阪製鉄(形鋼)、山陽特殊製鋼、大同特殊鋼(特殊鋼)、王子製鉄(平鋼)、合同製鉄(条鋼・線材)など国内各種鋼材トップ企業を傘下に収めた。またブラジルのウジミナスに直接資本参加して同社を持分適用会社とした(06年12月)。
この間、東京製鉄は愛知県田原市に工場用地を取得し(05年)、岸壁設備を持つ新工場を09年10月から稼働させた(10年3月電炉製鋼開始・420㌧電炉1基・薄板250万㌧)。東鉄の品種構成は従来「条鋼類6鋼板類4」だったが、九州の厚板ミル(07年1月稼動)や自動車鋼鈑も視野に入れた田原の稼動が軌道に乗れば4対6に逆転する。 -
サブプライム・ローン問題(07年8月)と資源バブルの暴走(08年7月) 世界経済は03年以降BRICsの急速な経済成長を取込む形で07年まで5%前後の持続的拡大を遂げた。これは米国の住宅バブル(サブプライム・ローン)を各種証券に組込んで金融機関に嵌め込む信用創出と、ここから生み出された余剰資金が欧米先進国や中国など新興市場国の成長を支えるインフレ循環そのものであった。しかし米国の住宅バブルが終り、住宅ローンが不良債権化したことから「信用創出」は「信用喪失」に逆回転し、欧米主要銀行・大手証券は破綻の危機に直面した(07年8月、サブプライム・ローン問題)。欧米各国はこの緊急対策として、低金利と潤沢な資金供給で崩壊拡大の回避に努めた。
歴史の皮肉は欧米先進国が(不良債権や信用回復対策として)投じた資金供与や低金利策によってもたらされた大量の資金が(株式、実体経済などの不信から)行き場を失い、高成長が見込める商品市場へ流れ込み、未曾有の資源・エネルギー、穀物相場高を巻き起こしたことだ。98年1バレル14.40㌦(年間平均)まで沈んだNY原油(WTI)はBRICsの登場以来、上昇基調にあったが、先進国が低金利で市場に資金を供給し始めた08年初からは異常なまでの騰勢を強め、7月11日147.27㌦(年間平均99.75㌦)の史上最高値をつけ、東京製鉄(岡山)も直後の7月14日、特級7万2千円を記録した。 -
リーマン・ショック(08年9月) サブプライムローン問題(07年7月)を持ち越した08年初頭、米国大手銀行(シティバンク)・証券会社(メリルリンチなど)の巨額損失が表面化し9月15日、リーマン・ブラザーズが連邦破産法第11章(日本の民事再生法相当)の適用を申請したことから世界は、一挙に恐慌の瀬戸際に追いつめられた。
欧米の主要銀行、証券会社の信用毀損と信用収縮から世界「ハーフ・エコノミー(5割操業)」のパニックに陥った。2ヶ月後の11月中国は4兆元の景気刺激策を発表。米連邦準備理事会(FRB)は12月、実質ゼロ金利策と量的緩和に踏み切った(QE1)。
08年9月から09年前半に集中した恐慌対策の特徴は、欧米日など先進主要国が信用維持(銀行・金融)から一歩踏み出し個別産業や企業を「国内中核産業」の名目で直接保護したことだ。米国ではクライスラー社が09年4月、GMが同6月破産法11章の適用を申請、 米国政府は公的資金を投入した。ドイツなど欧州各国は地球環境保護、温暖化防止の名目で自動車買い換えの促進策を導入。日本もこれに倣った(09年5月)。 -
百年に一度の危機のなかで(08年9月~11月) リーマン・ショックから世界は突然、恐慌の瀬戸際に追いつめられたが、直前までの資源バブルの熱気を背景に、ヴァーレは10月以降の鉄鉱石12%の追加値上げ要請(9月)し、東鉄・岡山価格はリーマン・ショック後も騰勢を維持した(9月11日、19日値上げ)。東鉄が値下げに転じたのは10月1日、ヴァーレが追加値上げ要請を撤回したのが11月4日である。これが国内業者の傷口を広げた。一部業者が「底値買い」的な在庫補充に走ったのだ。しかし9月末には「需要蒸発」が誰の目にも明らかとなり、荷止め、連日にわたる猛烈な値下げの大波が容赦なく業者を襲った(東鉄、岡山特級9月19日4万7千円→11月5日1万2千5百円)。
-
ソブリン・リスク(10年~13年) リーマンショックは世界経済・信用の連鎖破綻(大恐慌)の危機を呼び込んだ。恐慌回避として先進各国は財政出動(国家資金による経済活動)が求められ、財政出動が国家の資金・信用・体力を奪った。信用供与とは貸付け(金)であるから、信用低下は貸出金の取り立て不安を引き起こす。それがソブリンリスク(国債償還不安)として10年以降、南欧諸国を包み、世界経済の先行き不透明感を強めた。
欧州諸国は12年9月以降、ECB(欧州中央銀行)とESM(欧州安定メカニズム)の連携によるソブリンリスク対策に本格的に動き出した。即ちESMとECBは①各国がESMに支援を要請した場合、国債を無制限で買支える。②支援を受けるには財政再建が義務付けられる等を骨子とする「財政健全化」を絶対条件とした。財政の健全化とは、財政出動の抑制や増税・歳出削減を意味するから「政策不況」の選択である。
欧州各国のソブリンリスク対策が動き出した12年9月、米国FRBは量的緩和第3弾(QE3)に踏み切り(12月、月額総額850億㌦の国債購入を追加)、日本でも同年、白川・日銀が追加金融緩和(9月、10月、12月)に動いた。 -
日本・大震災(11年3月) 日本では小泉内閣(01年4月~06年9月)のあと短命内閣 (11年9月まで首相が6人も入れ替わった)が相次いだ。11年3月11日、東日本各地を襲った大震災と大津波は、先進国を直撃した地震として世界に衝撃を与えた。
欧州危機が渦巻いた12年は、ソブリンリスクの逃避先として円相場は歴史的水準まで急騰した(経常黒字国であり政治体制が惰弱な日本は思い切った「円安」政策はとれないだろうとの投機筋の思惑などから円が買われた)。欧州危機が高まれば円高(76~80円)が進み、危機感が薄まれば円安(80~85円)に動くとの状況が11~12年を通じて続き、これが自動車など輸出関連産業だけでなく鉄スクラップ相場の重石となった。
鉄鋼再編時代と世界的出口戦略
-
新日鉄と住金が合併、鉄鋼再編加速(12~20年) 新日鉄と住金は12年10月合併し「新日鉄住金」として登場した。日本の鉄鋼トップといえども世界5社の一角を辛うじて確保するに過ぎない(10年実績)。この危機感に突き動かされ新日鉄と住金は「世界で闘う」合併へ踏み出した。▼JFE系電炉4社も=JFEスチールでも系列電炉4社(豊平製鋼、JFE条鋼、ダイワ、東北スチール)を集約し、JFEスチール100%出資の新JFE条鋼を12年4月1日立ち上げた(東北スチールは生産休止)。▼日新製鋼・日金工も=日新製鋼と日本金属工業は12年10月、日新製鋼ホールディングスとして統合した(日金工・衣浦は上工程を休止。同社は17年、株式公開買付により新日鉄住金の完全子会社)。▼20年4月、新日鉄住金は社名を「日本製鉄(NIPPON STEEL)」に改めた(同時に、旧日新製鋼・呉製鉄所の廃止を含む製鉄所統廃合方針を明らかにした)。
-
アベノミクスと黒田ショック(13年) 12年12月16日の選挙で勝利し、自民、公明両党で3分の2以上の安定多数を確保した安倍内閣は「デフレ修正」を目指して、2%以上のインフレを目標とする経済政策(アベノミクス)を掲げ、新政権による日銀人事(白川→黒田総裁)、政策(金融システム重視→インフレ誘導)を打ち出した。▼黒田ショック=黒田新総裁を迎えた日銀は13年4月、①2年程度の期間に2%のインフレを実現する。②手段として、12年末138兆円だった資金供給量(マネタリーベース)を14年末は270兆円に増やす「異次元金融緩和」での短期決着を目指した。▽その後、資金供給量を15年末355兆円に増とし、国債買い入れも増枠するなど数次にわたる追加緩和策を打ち出したが、目標には達せず、超低金利政策(短期金利をマイナス0.1%、長期金利をゼロ%程度)を「少なくとも20年春ごろまで」続けるとした(19年4月)。
-
17年 中国の生産過剰と貿易摩擦 世界鉄鋼協会によると世界66ヶ国の粗鋼生産は17年16億7472万㌧に達し、うち中国は8億3173万㌧で、世界生産のほぼ半分に迫った。OECDによると世界の粗鋼過剰生産能力は15年7億㌧を超え、うち約4・3億㌧が中国とされ、中国を巡る過剰生産対策が世界の課題となった。中国の粗鋼生産急増と共に鉄鋼輸出は16年、17年連続で(日本の年間生産を上回る)1億㌧を超え、米国・欧州を始め世界各国で保護貿易と関税引上げ問題が沸騰し、貿易摩擦が深刻化した。この対策として中国は16年10月、20年までに1億4千万㌧の生産能力削減を公表し、18年3月李克強首相は、18年までの過去2年間で1億1千万㌧を削減したと表明した。
粗鋼能力削減の目玉の一つが、違法鋼材である地条鋼企業の整理だった。地条鋼とは、小規模誘導炉による非正規な棒鋼用半製品である。年間生産能力8千万~1億㌧、全国に300社以上とされた。脱硫・脱燐処理、成分調整が行われないため、強度や靭性に劣る。中国では鉄スクラップには40%の輸出関税がかかるが、地条鋼企業の取締りが伝えられた17年4月以降、同国からの鉄スクラップ輸出は急増し、最大となった9月は50・8万㌧、17年通期で年間220万㌧超に達した。ただ地条鋼企業が一掃された18年1月以降の同輸出は月間一桁の万㌧未満に減少した。
■中国の電炉化促進政策=中国廃鋼鉄応用協会は、20年の鉄スクラップの発生量は2億㌧、25年には3億㌧増えると予想。鉄鋼企業に配合率20%への引き上げや粗鋼生産の電炉比率20%を要請した。工業情報省は18年1月、CO2削減対策を兼ねて「高炉・転炉から電炉への切り換えは等量置換が可能」とする(地方及び中小)高炉企業からの電炉企業への転換奨励の方針を発表した。 -
18年 「雑品」もしくは有害使用済機器と国際規制 配電盤、モーターなど鉄製容器収納の非鉄類(いわゆる雑品)の解体は、人件費の高い日本ではコストが嵩むため処理困難物とされた。そのため90年代後半から人件費の安い中国向け輸出が増加し、00年代後半から現地に合弁、もしくは直接工場を開設する動きが拡大した。雑品の輸出量は日中両国の通関統計(鉄スクラップ・銅スクラップ)差から推計でき、04年は中国向け鉄スクラップ輸出全体の40%超に達した(06年1月17日、日刊市况通信)。鉛や有害金属を含む「雑品」貿易は、有害廃棄物の国境を越える移動」を規制するバーゼル条約(92年発効)でも問題とされた。中国は18年3月「廃棄物原料環境保護基準」(新版)を施行し、さらに18年4月、輸入廃棄物の管理品目について18年末で雑品をはじめ、雑線・廃モーターといった銅、アルミスクラップなど16品目の輸入禁止を公告した(18年4月23日、産業新聞)。日本でも18年4月から改正廃棄物処理法を施行し、家電リサイクル法4品目と小型家電リサイクル法指定28品目、計32品目を対象に、保管・処分業者について都道府県知事又は政令市長への届出を義務付けや保管・処分基準の遵守、都道府県による報告徴収及び立入検査、改善命令及び措置命令を規定した。これとほぼ同内容を持つ改正バーゼル法を10月施行した。
-
パンデミックと鉄鋼大減産(20年~) 中国を起源とする新型コロナウイルス(COVID-19)が、「パンデミック(世界的な大流行)」と認定された(20年3月)。ヒトとヒトの接触禁止、外出禁止、都市・国境封鎖(3月)が広がった。国は産業の中核である物流・サービスなど第三次産業に「営業自粛」を要請した。IMFは1929年の世界恐慌以来のマイナス成長の危機を語った。FRBは3月3日0.5%、同月15日1.0%の大幅利下げと無制限の量的緩和に踏み切った。FRBは雇用の回復などを条件に「景気が(新型コロナに)耐え切ったと確信が持てるまで、ゼロ金利政策を据え置く」とした。▼IMFは、2.9%のプラス成長だった19年から大幅に悪化し、20年世界経済成長率予測をマイナス3.0%へ下げた(4月)。世界各国は、経済陥没、大量失業、社会不安の拡大に備え、国内総生産(GDP)の10~20%相当の巨額の対策費を計上した。▼日本の4月粗鋼生産は前月比16.8%減、前年同月比23.5%減に陥没した。4月の1日当たり粗鋼生産は22.1万㌧で、3月比14.0%減となった。日本製鉄は4月、鹿島と和歌山で計2基の高炉を一時休止。JFEスチールも倉敷で、改修工事の前倒しにより高炉1基を一時休止した。日鉄は5月にも君津の高炉を一時休止し、7月は室蘭などでも踏み切る予定。JFEも「4~6月期の生産能力は3割減」とした(20年5月現在)。
TOP 日本鉄
スクラップ史
集成に戻る