鉄スクラップ加工設備小史
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はじめに
輸送手段
貨車・河川流通
木造機帆船
トラック輸送
加工手段
大正はタガネ、昭和初期にプレスも
昭和初期・人工結束
戦後・機械化以前
設備近代化は税制の後押し
プレス機(圧縮・減容機)
始めは岡田菊治郎
德島式水圧プレス機
メーカー検収
戦後は日本特殊商工・杉山式
油圧でも水圧でも
60年前後に開発進む
製鋼メーカーが設置
廃車専用プレス機
シャーリング(切断機)
まず製品加工機として登場
東京記者座談会
輸入ギロチン(64年)
国産・大型シャーは68年以降
自動車処理機
処理工程
機械化以前
廃車プレス
米国バンドルド№2(Aプレス)
カーベキュー(マップス・プラント)
プローラー・スクラップ
重機及びアタッチメント
ヤード合理化の切り札
廃車解体と重機(自動車解体機)
簡易切断機(もうカッターなど)
はじめに
鉄スクラップ処理は人力による作業と機械処理に分けられる。明治から戦前までは、回収・扱い量も少なかったこともあり、大方の業者は専ら手作業。ごく一部の大手業者がプレスや切断機などを使用した。大型機械が一般に登場するのは高度経済成長で鉄スクラップの大量発生、高速処理が急がれるようになった70年代以降のことである。
輸送手段
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貨車・河川流通 大正~昭和初:「東京でも本所あたりではトラックの運送会社は一軒もない。必要な時は銀座あたりに電話した。日本鋼管は側線を利用した貨車と船便。トラックは普及していないので牛・馬車が中心。問屋は船で運ぶか地方は貨車で送ってきた。問屋は地方の駅の近く、東京では川沿いにありました」(伊久美甲子郎氏)。
「東京以外の地方は鉄鋼所がないため地方業者は周辺のモノを集め隅田川駅に輸送する、貨車に積みやすくするため、ブリキなどは「角造り」で1個30~40㎏に締め、鉄屑やズクは「カマス」や俵に詰め、貨車一両を単位にして輸送してきた。船積みは人夫が天秤棒を肩に担いで運んだ。バラものは竹で編んだ『パイスケ』(かご)に入れ、重量物は『ハリモチ』といってタガをかけて棒を通し二人で担いで船に運んだ(三宅泰治氏)。
戦後でも:「クレーンやリフマグはありませんから、荷役は麻袋を被ってプレス一個ずつ肩に載せて(船に)運ぶ、大変な重労働でした」(影島義忠・影島商店社長)。 -
木造機帆船 朝鮮動乱の時、月3,000㌧を八幡製鉄に送った。輸送は戦時中に作られた木造の機帆船で100㌧しか積めない。当時はクレーンも起重機もホークリフトもないから、 板を渡して担いで船に積み込む。風が吹いたり、天候が悪くなると名古屋から八幡まで1週間も10日もかかる。高炉には船で送ったが、陸送はほとんどが貨車で大同特殊鋼などは側線(引込み線)が入っていた(三井物産OB冨野金三郎氏)」
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トラック輸送 昭和28年か29年ごろ木炭車に鉄屑4㌧と運転手の他二人乗せて愛知製鋼・刈谷に走った。坂道になるとこの二人が降りて押すためだ。これがトラック輸送の始まりだ(三浦伊久多郎・紅久社長)。
加工手段
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大正はタガネ、昭和初期にプレスも 戦前は専業者でも切断設備などもっていない。ただ長過ぎる物はタガネを当て、ハンマーで打ち、折って短くした。
「輸入の鉄屑プレスが動いたのは27年(昭和2)ごろ。東芝電機の前身である芝浦製作所鶴見工場が珪素鋼板くずを締めるために米国から輸入した。日本鋼管に入ってくる輸入屑のなかに自動車屑をプレスしたものがあり、またプレスは知っていましたが、実際に見てビックリしました。昭和4~5年頃だったでしょうか(伊久美甲子郎氏)」。 -
昭和初期・人工結束 「スソ物の集荷に力を入れたのは德島佐太郎さんで(昭和3年頃だと思いますが)スソ物処理の『人工結束』を考案した。長方形の型にブリキなどスソ物を入れ突き棒でブリキを突いて潰し結束するのです。この方法は都市・農村部を問わず全国津々浦々で行われましたし、戦後もある時期まで続きました。德島さんは人工結束されたものを全国から集めていました(その後、德島は昭和9年に「德島式水圧プレス機」を開発。 自社用に使用)。これを釜石に送るのです(伊久美甲子郎氏)」。
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戦後・機械化以前 「昭和20年代や30年代は大同特殊鋼や愛知製鋼は自社内に、ガス切断やプレスの処理工場を持っていた。業者は集めた鉄スクラップをそのままメーカーに持ち込めば良かった。だから業者は運送屋のようなものだった。業者が持っていたプレス機は水圧がほとんど。油圧は少なかった(三井物産OB冨野金三郎氏)」。
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設備近代化は税制の後押し きっかけは63年、それまで20年だった耐用年数がシャーリングは10年、プレス機は8年(64年から7年)に短縮された税制改正が大きい。ヤード設備・機械を作る全日本資源機械工業会もこの年結成された。65年11月、日本鉄屑加工処理工業協会が全国911社を束ねる機関として設立された。兄弟組織である日本鉄屑問屋協会は中小企業基本法にもとづく近代化助成法(近促法)適用を受けるべく「近代化促進委員会」(64年7月)を立ち上げた。これが大きく前進したのは通産省の働きかけを受け75年創設した日本鉄屑工業会(日本鉄屑加工処理工業協会も合流)以降である。工業会は卸売りから加工業種の変更や近促法の業種指定を活動方針に掲げ76年、77年に相次いで目標を達成し、これをバネに一気に機械化・ヤード近代化が飛躍的に進んだ。
「処理機械を作っていたのは、(工業会設立)当時手塚やいすゞくらい。私も日本中の機械メーカーを回って鉄屑処理機械を作ってくれと頼んだが、全然受け付けて貰えなかった。それが業種指定され、耐用年数も短くなり、加工処理業の看板を貰ったら、やっと機械メーカーも機械の製作に乗り出してくれた。電炉メーカーもたくさんできて、それに対応する専業者も機械を導入するようになった(三井物産OB冨野金三郎氏)」。
プレス機(圧縮・減容機)
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始めは岡田菊治郎 原材料新聞社(現代人物論63年)はプレス機の開発は岡田菊治郎に始まるとする。当時棄てられていたスソ物の活用を思い立って「大正初年にプレス機を製造し、プレス品を八幡に船で送り業界の注目を集めた。時に30歳(明治14年生まれだから明治44年前後)。その頃の女房役椙山(すぎやま)貫二氏(日本特殊商工社長)は今も優秀なプレス機製造業を継承している」と紹介し「実業界初のプレス機考案の功により緑綬褒章受章 (53年)」したと功績を讃えている。
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德島式水圧プレス機 産業振興60年社史によれば、德島は28年(昭和3)「鉄屑結束機」、34年「德島式水圧プレス機」を考案し日鉄・釜石に搬送している。この水圧式プレス機は醤油の豆絞り機がヒントになった。戦後の50年に設置した1㌧プレス機はプレス品重量が500㎏の画期的なプレス機として評判になった (当時の在来プレス機の成品重量は70~80㎏)とされる。53年尼崎製鋼から構内プレス設置の依頼が来た。
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メーカー検収 51年(昭和26)八幡製鉄がCプレスやダライ粉プレス価格を打出し、川鉄、神鋼など大手他社も同調し新分野が生まれた(66年1月特集・日刊市况通信社22p)。
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戦後は日本特殊商工・杉山式 「岡田が米国プレス機を3台輸入し、図面も取り寄せて製造権を譲り受けたのでしょう。日本での初のプレス機メーカーは日本特殊商工です。当時プレス機といえば杉山式だけでした」(尾関精孝氏)。「丸和商店は昭和21年末に川崎に出張所を開設し、本所亀沢町にあった日本特殊商工さん、つまり椙山さんのところに行った。これが戦後初のプレス機発注だと思います。このプレスは仕上がりが5~60㎏だった筈です。「58年(昭和32)頃、杉山のプレスを入れました。その後、総和金属製の五月女式プレス機がでてきた。当時、機械と言えばプレスしかない」、「自動車メーカーにもプレスがないから新断はバラででる。電炉メーカーにしても小さな60~80㎏のプレスでないと使えない。米国のバンドルド№2は平炉でしか使えない」(坂本護氏)。
「五品さんは今のような機械屋さんではなかった。(杉山のあと)プレスを始め、途中でスクラップをやったことのある手塚興産が登場します」(尾関精孝氏氏)。 -
油圧でも水圧でも 「(当時のプレスは)油圧でも水圧でもいい。だから岡田さんは大きな水を蓄える圧力タンクがあってここから2基、3基あるプレスへパイプを引いて使っていた。効率は油の方がいいが、水だと洩れても汚れない。だから油でやったり水を使ったりの両刀でした。現在のような精巧な機械ではないからできた」(尾関精孝氏氏)。
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60年前後に開発進む 日刊市况通信の機械メーカー記事や広告を見れば、手塚興産が「ドラム缶3本締め」のプレス機開発(60年4月)と表示し、水・油圧切替え可能としているから、この前後、油圧プレスが登場したことが分る。当時はプレス表示としてドラム缶1本締めとか、3本締めだとか、ドラム缶本数で言うのが一般的だった。手塚興産は、ダライ粉を高圧で圧縮・減容する「弾丸プレス機」も開発(61年1月)している。
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製鋼メーカーが設置 60年10月手塚興産が八幡製鉄に全自動式500馬力2㌧締めプレス(東洋一)。61年8月1,200馬力3㌧締めプレス(世界最大)納入。川鉄、住金に各2㌧締めを納入(63年)。その後、電炉装入に梱包式プレスが使用された。手塚興産が65年開発し、日本鋼管も製造に乗出した電気炉専用・鉄スクラッププレス機である。自社プレスだから調合の自由度が高く大容量だから追加装入回数が削減できるメリットから67年8月現在、鉄鋼18社が最大45㌧型を含め23基を導入した(67年8月特集)。
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廃車専用プレス機 四国の山下昇一氏ら有志が解体業者の立場から89年開発した地上設置式・専用プレス機(サイドプレス)。同機の開発・普及によって自動車解体業者の販路・価格交渉力は飛躍的に増強し90年代「サイドプレス」ショックとも称された。
シャーリング(切断機)
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まず製品加工機として登場 シャーリングは戦前、製品加工用(寸法切り)として登場した。戦後の60年代前後に鋳物・可鍛材料の加工用に転用され、普及した。しかし当時のシャーリングは大方が人力の装入を前提とし、かつ小型で、作業能率が極めて低かった。
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東京記者座談会 「記者C:ここ5~6年前はシャーリングの普及は物凄い勢いだった。ただシャーでは1日2~3㌧しか切れない。プレスは人数にもよるが10数㌧は締められる。人件費も5~6年前に比べ2~3倍高くなったから最近プレスに重点が移った。
記者D:従来スタイルのシャーが売れないのは能率に問題があるからだ。ただ大物の発生はどの地域でも増えている。その処理に見合った新しい形のシャーが求められる段階に入っている。しかし機械メーカーは業者の実情に合わせた機械の大幅な改良には手をかけなかった。これが今後の課題と思う」(日刊市况通信社・65年新春号)。 -
輸入ギロチン(64年) 日本でヤード業者が大型シャーを導入したのは64年10月、堺の山根商店が独・リンデマン製のシャー(350㌧圧・門型。これがギロチン名称の初出)を設置したのが最初である(65年6月・日刊市况通信社特集号に「ギロチン・シャーの威力」の紹介記事)。67年7月、東京の老舗・岡田商事もリンデマン製の同型シャーとプレスを設置、ヤード業者の大型化が東西で口火を切った。電炉では東芝製鋼が68年12月小島鉄工所(700㌧圧)製ギロチンを導入した(東芝は68年6月平炉製鋼から電炉製鋼に切替えた。嵩非常を高める必要やコストダウンが急がれた)。
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国産・大型シャーは68年以降 伊藤忠商事51%出資で千葉県船橋市の京葉金属工業ヤード(商社系ビッグヤード)が68年10月開設された。小島鉄工所製の700㌧圧ギロチンを設置。東芝製鋼が同じ小島鉄工所製700㌧圧ギロチンを同年12月導入。国産ギロチンは小島鉄工所がまず大手商社や鉄鋼メーカー向けに製作したと見られる。一般ヤード業者向けには大阪の平川商事に手塚興産が400㌧機を70年3月導入。次いで富士車輌(69年参入)が 71年早々に堺の中辻産業に350㌧シャーを納入。日本で門型シャーなどの大型化が進むのは71年以後、1,000㌧超の大型が登場するのは80年以降である。
自動車処理機
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処理工程 廃車スクラップ処理は手解体、圧縮(プレス)、焼却、切断(シャー)、破砕(シュレッダー)に分かれる。歴史的にも、上記の順に登場、普及した。
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機械化以前 「ポンコツ屋の解体作業は、ビスをはずし、ドアを取りこわすのから始めるのが常道だ。次は危険のないようにガソリン・タンクをはずす。それからハンマーとタガネで、ぽん、こつん、ぽん、こつんの仕事が始まる。時には大きな玄翁(げんのう)も持ち出して車の上に仁王立ちになって、ボディをぶんなぐって叩きつぶすこともある。ハンマーとタガネで片づかない部分が出て来て、ようやく簡易機械化部隊が動員され、アセチレンと酸素の火を使う焼切りが始まる」。マイカー時代直前の東京・竪川の自動車部品回収業を描いた阿川弘之作「ぽんこつ」の一節。
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廃車プレス 70年代までの日本のプレス機は自動車の丸ごと処理は想定していなかった (小型プレスが主流)。ただ鉄屑カルテルは米国から廃車プレス(バンドルド№2)を輸入していた。「輸入バンドル物の品質不良は言語に絶する。鉄屑業界の『黄変米』で、かかる黄変米を輸入し国内プレスを買い止めて業界を苦境に陥れる輸入政策は改善されなければならない」(57年春、近藤正二・日本鉄屑連盟会長兼関西鉄屑懇話会長)。
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米国バンドルドNo.2(Aプレス) 「(米国の)自動車解体業者は廃車を買って、露天ヤードに置いておく。すると客がやって来て好きな部品を取り外し買っていく(モギ取り)、解体業者も自分でエンジンを外して解体し、残ったボディーなどをヤード業者に売る。ヤード業者は銅線など非鉄を取除き、または焼却炉で付着物を焼き去り、プレス機で締め上げる。これが「バンドルド№2」としてカルテル当時の日本などに輸出された。
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カーベキュー(マップス・プラント) 手塚興産が「高熱炉内で車体を回転させながら焼き一定の溶融温度管理の下、鉛、アルミ、銅、鉄を分離回収する」システムを開発(64年8月)し65年1月NHK・TVで放映された(66年12月発売)。手塚興産と星和産業が共同出資で「東邦カーベキュー」を設立し月間4~5,000台の処理を計画したという報道もある(日経70年1月21日)」(自動車リサイクルの歴史研究序説・浅妻佑)。
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プローラー・スクラップ 米国のプローラーなる人物がグロリア州で鉱石を破砕する機械(シュレッダー機)を廃自動車処理に転用したことから始まる。日本には60年3月、米国のヒューゴニュー社から同スクラップの輸入提案を鉄屑カルテルが受け、八幡など6社が購入63年4月、入着したのが最初である(鉄屑カルテル10年史82p)。従って、当初はプローラー・スクラップと呼ばれた。
▼シュレッダープラント:日本でも、70年春から夏にかけて関東、関西で商社と大手業者の提携による自動車用のシュレッダー工場が一斉に動き出し、70年代前半の一大ブームとなった。産構審が73年7月「70年代の鉄鋼業」を発表し「不純物が十分除去されない」自動車プレスの改善策として「シュレッダーくずの量的拡大」と低利資金融資、税制優遇などの助成措置を提言したことや電炉メーカーが下級プレスの追放に動いた(76年)ことが商社と提携した大手だけでなく一般業者もシュレッダー機を導入する引金となった。? ▼国産シュレッダー:国産シュレッダー第一号機は、川崎重工がヤマナカ・横浜工場に74年に納入した。その後、富士車輌や手塚興産などの開発が相次いだ。自動車暴発事故防止のため「プレ・シュレッダー」も開発された(81年・伸生)。
重機及びアタッチメント
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ヤード合理化の切り札 油圧式重機が作業の効率化、労働環境の改善に画期をもたらした。重機はアタッチメントの交換で各種作業をこなすから多様な開発を呼び込んだ。
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廃車解体と重機(自動車解体機) 発端は79年、沖縄の拓南商事が広島の油谷重工(現コベルコ建機)に、南国の苛酷な自然環境に耐えられる作業機械の製作を依頼したことに始まる。重機と言えば土木・建設作業機専用と見られていたなかで、油圧と専用アタッチメントによる解体処理の機械化を実現させた。「自動車解体機」と命名された同機の登場から、 その後の自動車解体作業は一変した(81年科学技術庁長官賞受賞)。
豊富産業グループ(富山)を築いた高倉可明が、重機を使った各種の技術開発に傾注した(87年自動車解体プレス機、88年エンジン割機、89年移動式廃車処理機、93年タイヤホイール分離装置、97年コベルコ建機と共同で全油圧式マルチ解体機を開発)。
コベルコ建機の存在も大きい。コベルコは神戸製鋼の統一商標で、1930年(昭和5)国産初の電気ショベルを中国の撫順炭鉱掘削用に開発。戦後の55年にはP&Hと技術提携しクレーンの大型化に取り組んだ。83年廃車解体機を開発した油谷重工を吸収し、建機専業分野を立ち上げ、97年高倉可明と共同で全油圧式マルチ解体機を開発した。 -
簡易切断機(もうカッターなど) 油圧重機はアタッチメントの交換で各種の作業をこなす。その特性を利用した簡易切断アタッチメントが96年10月発売された(ナベショー 「もうカッター」)。重機さえあれば、アタッチメントの装着だけで切断・加工が(軽資本でも)できる。この簡易切断機の普及はその後の流通・加工に大きな変化をもたらした。
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