自動車部品・解体業小史

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はじめに

自動車部品業の沿革

  • 輸入車の解体が始まり

  • 東京は竪川、関西は市岡

  • 行き詰るポンコツ屋・60年代が転機

ポンコツ屋とモギトリ屋は違う

  • 専門職としてのポンコツ屋

  • マイカー時代の到来とモギトリ屋

  • 部品回収のパラドックス

  • ネット利用の在庫共有、広域販売

  • ポンコツ屋現代版(ネットグループ)

はじめに

  自動車中古部品回収業者は、かつて「ポンコツ屋」と呼ばれた。「ぽんこつ」 の初出は、明治初めごろにさかのぼるが、近年はもっぱら「使いものにならなくなった自動車の解体。またはそれをする商売。転じて中古のこわれかかった自動車を指す。この語が自動車の廃品を指すようになったのは「阿川弘之の新聞小説によって一般にひろまったもので、ポンポンコツンコツンと叩く音からでた」(日本国語大辞典)とされる。

自動車部品業の沿革

  • 輸入車の解体が始まり 一般には自動車部品の回収は「国産の自動車が出現せず海外からの輸入車が幅をきかせていた大正時代後期から始められている」とされる。「東京自動車中古部品協同組合50年史」によれば日本の自動車解体・部品回収業発祥の地は佃大橋の京橋にあった業者が当時、極めて高価で、 部品の入手も困難だった輸入車を解体し中古部品の回収を手がけたのが始まりだとの古老の証言を紹介する。自動車解体業の歴史・立地は外川健一著「自動車とリサイクル・166p」(日刊自動車新聞)に詳しい。

  • 東京は竪川、関西は市岡 日刊市况通信社64年1月「自動車スクラップ時代」によれば、 自動車解体で名高いのが、東京では竪川一帯(小説、「ぽんこつ」は60年前後の同地区風景を描写する)で100軒余り、関西では大阪市内の市岡や夕凪、杭全(くまた)などが多く、 合せると100軒位の業者がいる。これらの地区にはパーツ(部品)を求めて北海道や九州から修理屋がやってくるが、この数も64年当時には、3年前に比べグンと減った。
     ポンコツ業は自動車の出現とともに始まり、二代目の老舗も多く、小は従業員4~5名、大は修理屋を兼ねて20~30人を置いていた(東京)。「だがポンコツ屋はスクラップ屋ではない」。廃車を解体してパーツを抜き取り、選り分けて売っていく。だから車の年式から約3千種に及ぶ部品を記憶し需要の有無を見極める専門的な知識と解体技術を身に付けておかねばならない。最近(64年)自動車が増え廃車も急増しているからポンコツ屋は繁昌してもいい筈だが、実際は逆だ。戦前、外車の輸入が禁止された時や戦後の窮乏期は車の数も少なくパーツが不足した時代は、大いに繁昌し潤ったが、新車がドンドン作られ、パーツが出回るにつれ、ことにガソリンスタンドがパーツを備え付けるようになったことからは、ポンコツ屋は儲らない斜陽業種となった、と記している。

  • 行き詰るポンコツ屋・60年代が転機 パーツや中古車の利益率は60年ごろまでは70%やそれ以上だったが、61年以降50%、40%と急速に悪化。63年現在では20%や30%に満たず、その結果、従来あまり問題にされなかったスクラップ売上げがこれに取って替わった。 ポンコツ屋に見切りをつけて修理屋や他業種に転業する動きも広がっている。 が、一方で積極的にプレスやシャーリングを導入し鉄スクラップ業に進出する動きもある。 その彼等は「決してポンコツ屋の商売をやめたわけではない。ポンコツ屋であると同時に鉄スクラップ屋としての商売を始めたわけである」。まさにこの前後からポンコツ屋が鉄スクラップ商売にも軸足を移す現在の自動車部品・解体業の形が登場した。

ポンコツ屋とモギトリ屋は違う

  • 専門職としてのポンコツ屋 ポンコツ屋は前記の通り「廃車を解体して予めパーツを抜き取り、選り分けて売る。車の年式から数千の部品を記憶し需要の有無を見極めておかねばならない」。これは自らパーツを選別、保管し販売する商売(いわば専門職)だが、これとは別に多種多様な廃車を露天に並べ、客が自由にパーツを抜き取り、そのパーツを売渡す(もぎ取り)商売もある(古い物を修理しながら使い続ける英国文化を伝える豪州では、年式制限が無いこともあって、いまも「もぎ取り」型がパーツ販売の主流である)。

  • マイカー時代の到来とモギトリ屋 モギトリとは専門的な知識がなくても(客が好みのパーツを選ぶ)、大量の車を並べてパーツ販売し、抜き取りの残骸を鉄スクラップとして処理し出荷する商売である。この商売はマイカー時代の到来による廃車の増加と、廃車の大量発生を前提とした。日本の自動車保有台数(3輪車以上)は敗戦の45年が14万2千台。 55年が90万台。 65年が698万台で自動車生産はこのころを境に急増する。
     高度経済成長(54年~73年)と東京五輪(64年)を契機とする高速道路網の急激な発達は庶民レベルでもマイカーブームをもたらした。乗用車は12年前後が耐用年数とされ廃車されるから1970年前後から自動車解体業は各地で自然発生的な形で登場した。
     京都と大阪を結ぶ国道一号線沿いの京都府八幡市内に「もぎ取り」解体業者群が登場し始めたのもその頃である。幡地区の解体業者の増加は、自動車保有の高まりとほぼ足並みをそろえており、交通の要衝を押えた「地の利」とモータリゼーションの「天の時」から同地区の解体業者(もぎ取り業)は65年以降一気に増加した。

  • 部品回収のパラドックス マイカー時代以後に登場した地方解体業者もメタル回収だけでなく、部品回収を経営に柱に据えた。しかし最大の問題は、回収量の多い中古部品は(誰でも入手できるから)収益性が低く、付加価値の高い部品(回収量が少ない部品)は(販路が限定されるから)は手元に無いか、あっても何時売れるか分からない。数量を追えば収益はさほど期待できず、価格、在庫を追えば不良在庫のリスクが発生する。
     その根本的な原因は、地方・ローカル業者が置かれた販路の絶対的な狭さと資金力不足からくる在庫リスクにあった。廃車は確保できるが、部品販売に注力しても、来客が少なさ過ぎるし、販路が狭すぎる(地域制約)。それが地方部品販売の最大の泣き所だった。

  • ネット利用の在庫共有、広域販売 販路が狭ければ広域化すればいい。在庫リスクがあるなら、皆の在庫を共同利用すればいい。80年前後、その発想のもとIT技術の開発と解体・部品業者の協業化が大きく進んだ。狭い地域の制約を超えるため有志業者は仲間を求めて全国の同業者に参加を呼びかけた。「部品在庫の共有・共同・広域販売」を目指して、当初は電話回線(FAX)を利用し、さらにパソコンなどの普及から独自にソフトを開発し、これを足場に90年以降、インターネット販売に乗りだした。「地域制約」と「部品制約(発生量の多い部品は安い。発生量の少ない部品は在庫管理が難しい)」の壁を超えるビジネスに挑戦し、今や世界に中古部品を販売する最先端ビジネスを作り上げた(79年ビッグウェーブ、85年NGP、88年TCRグループ、89年システムオートパーツ)。

  • ポンコツ屋現代版(ネットグループ) 現在のネット販売の主流は、売れ筋商品(パーツ)を業者が予め回収し「責任(保証)商品」としてユーザーに提供するビジネスモデルで動いている。いわば廃車処理の祖型であったパーツ販売(「ポンコツ屋」)を、最も洗練した事業形態(ネット販売)として広域化(ネット販売)し、部品点数の最大化を求めて協業化した。ポンコツ屋の祖型を、広域・ネット販売として、今に蘇らせたのだ。

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