商社活動小史

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はじめに

戦前

  • 明治前半は鉄商と外商の輸入鉄(洋鉄)

  • 明治後半から「指定商」制度

  • 米国鉄屑輸入と「六洋会」

戦後

  • 財閥系商社は徹底解体

  • 東南アジア輸入(AA屑)に活路

  • 財閥系商社復活と新興商社

  • 鉄屑カルテルと商社活動

  • 米国屑と商社

  • 第一期、カルテルと外貨割当の壁

  • 第二期(61年~67年)、輸入屑カルテル崩壊

  • 第三期(67年~74年)、商社全盛

商社ビッグヤード構想(70年代)

  • 鉄くず自給時代に備えて

  • 日本カーべキュー

  • 葉金属工業ヤード

  • 丸紅スクラップセンター

  • みやま製鋼原料

  • 関東製鉄(関東シュレッダー・高関)

商社、戦線縮小(80年代)

  • 石油危機の後遺症、商社の戦線縮小

  • 80年代後半・商社も分社化

専業者の復活と商社再統合(2000年代)

  • 専業問屋が新ステージへ

  • 商社、子会社を再統合

  • 鉄スクラップ関係商社の現在

はじめに

 日本では流通商社は製品・原料の出入りの両面にわたって関与し、鉄屑の絶対量不足が続いた一時期、国内では大手・直納業者として、また輸入鉄屑の扱い窓口として鉄鋼会社や業者経営に深く係わり「商社支配」が問題となった(60年代後半)。高度経済成長に伴う需給環境や製鋼技術(LD転炉法)の革新から鉄屑輸入の減少は予想されるなか、商社は国内扱い拡大に挑戦(70年前後)し、相次ぐ原油危機や産業構造の変化に押されて、本体業務から切り離し(87年分社化)、鉄鋼会社の「選択と集中」の後を追った。

戦前

  • 明治前半は鉄商と外商の輸入鉄(洋鉄) 鉄屑と近代商社の出合いは明治時代に遡る。
     還元剤にコークスを使う近代的な高炉(民営・釜石、田中製鉄所)の出銑が、たたら銑を上回ったのは1894年(明治27)で、日本の製鉄史上の江戸時代は、この年終わった。
     当時の鉄需要は生活用具である鍋・釜を別とすれば、住宅用や船の釘、農具の鋤・鍬等に限定された。文明開化の道具としての鋼材・鉄器はほとんどが輸入鉄(洋鉄)であった。明治20年(1887)の国産鉄生産は1.5万㌧、輸入鉄は6.5万㌧で鉄の8割強は洋鉄。国産鋼材は明治20年代でも千㌧台の域をでなかった(日本鉄鋼史・明治編)。
     明治初期は外国商館に拠点を構えた外国商人(外商)が活躍した時代でもあった。洋鉄を最初に扱ったのが森岡平右衛門で横浜の外国商館を相手に釘用地金の輸入を依頼(明治2年1月のメモ)し、和鉄と区別するために輸入品を「洋鉄」と呼んだ、とされる。 森岡家を通じて大阪や各地に販売され、横浜だけでなく神戸などの外国商館を通じて大阪商人も洋鉄取引に進出した。この結果、旧幕以来、独占的地位を誇っていた「大阪第一主義は破れ自由活発な取引の新世界が開けてきた」(日本鉄鋼業史)。

  • 明治後半から「指定商」制度 官営(八幡)製鉄所は、明治末期から官需の余剰品を払い下げるとの形をとり、東京は三井物産を代表とする三井組、関西は大倉組(大倉商事、岩井、安宅、岸本、鈴木と東京の森岡)が独占したが、第一次世界大戦(14年)による鋼材需給のひっ迫から鋼材価格は急騰。不公平感が高まったため17年(大正6)これを解消し一般入札制度に改めた。大戦終了後、鋼材価格は大暴落、鉄鋼不況から苦境に直面した。「その最たる所は官営八幡製鉄所で、八幡は在庫の増大に苦しみ、販路打開のため新販売政策を打出した」(三菱商事社史176p)。新たに指定商制度を設け、民間向けは三井・三菱・岩井・鈴木(27年・昭和2年倒産後は安宅)・森岡・岸本の6社に限定した。「この結果、指定商という特別の地位が生まれ、かれらは製品販売の独占権を掌握」し「全国の鉄問屋は再編成され、指定商と問屋の二階層となり、問屋はいずれかの指定商の傘下に入り、系列に所属」した(日本鉄鋼業の発展。500p)。森岡・岸本2社が離脱したあとは上記4社が指定商として終戦まで民間向け鋼材を一手に扱った。

  • 米国鉄屑輸入と「六洋会」 戦前の製鋼の特徴は一貫メーカーと住友、神戸など単独平炉メーカーと伸鉄が並存する二重構造だったこと、平炉メーカーが安価なインド銑や満州・朝鮮などの植民地銑に依存したこと、世界恐慌(1929年)以後、世界的な鉄屑需給の緩和と値下がりを背景に安価な輸入鉄屑、ことに大量の米国屑を利用したことだ。
     ただこの状況が戦時体制の強化から一変する。満州事変(31年)や準戦時体制が呼号された35年以降、輸入鉄屑は国策的戦略物資となった。37年6月、日鉄、神戸、鶴見、小倉、鋼管、川崎の鉄鋼6社で米国、カナダ等北米鉄屑「輸入鉄屑共同組合」を組織。これに呼応して三井、三菱、岩井、浅野、日商、長谷川の貿易6社が「六洋会」を結成。統一的買付けに当ったことから大手商社の本格的な鉄屑輸入活動が始まる。
     六洋会指導のため日鉄は社員を派遣しNYに事務所を開設(38年2月)。買付けはドル資金をにらみ合わせ商工省の許可を得て、輸入量を六洋会6社に割当て、六洋会各社は割当て数量に対し共同購買会メンバーと直接契約を締結。値段は予め米国FOB(最高値)を示し、 商社がCIF・日本値で契約する。38年から米国屑が杜絶する40年10月まで「購買会」が北米(米国、カナダ)から「大量輸入を敢行した」(日本鉄鋼原料史・下巻)。
     一方、 国内鉄屑は官営八幡の開業に合せ国内鉄商や新興の鉄屑業者などが扱った。

戦後

  • 財閥系商社は徹底解体 戦後の47年7月5日、財閥解体等を目指したGHQ指令より、三菱商事、三井物産は即日会社解体を命じられた 。指令日以前の10年間に部長職以上の幹部であった者同士の新会社設立や旧社員100名以上での新会社設立の禁止、旧事務所や類似商号の使用を許さないなど「予想できなかったほど苛酷」だった。三菱商事では(商権継承会社・光和実業)全国163社、三井物産では約200を超える新会社に分散した。

  • 東南アジア輸入(AA屑)に活路 戦後、GHQ指令で財閥は解体され、 三菱や三井など財閥系商社も解散を命じられ、貿易活動は休止状態に追い込まれた。輸出業務が再開されたのが48年。米国向けに特殊鋼屑7万㌧強を輸出したのが皮切りとされる。
    当時、米国屑は政府承認を必要とする外貨割当制(FA)の下にあり、商社は自由に動けなかった。ただ朝鮮戦争勃発後の需要復活から、外貨制約のない東南アジア(AA・自由承認制)屑の輸入や同方面の沈船、鉄屑輸入調査などを足場に徐々に動き出した。

  • 財閥系商社復活と新興商社 財閥系商号禁止の廃止(52年)から、住友商事が登場した。
    ▽住友商事(52年)=財閥解体が決定的となった45年11月商事会社の設立禁止(大正9年、鈴木総理事指示)の事業方針を転換し、商事活動拡大が必然となる将来に備え商事部門を新設(日本建設産業)。財閥の商号復活から52年6月、住友商事を名乗った。
    ▽三菱商事(54年7月)=新会社のうち、いち早く日鉄、鋼管から旧商事の後釜として指定されたのが「丸の内商事」。商権継承会社である光和実業は52年(昭和27)5月財閥商号禁止令の廃止により三菱商事に社名を変更。54年(昭和29)7月、不二商事、東京貿易、東西交易の実業3社と合同して新三菱商事を設立した。
    ▽三井物産(59年2月)=旧三井物産系の会社は「室町物産」や「第一物産」などに分かれ、順次合併した。59年(昭和34)2月、第一物産を中心に新三井物産が誕生した。
    ▽丸紅=戦後、過度経済力集中排除法から丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割。49年(昭和24)12月、旧丸紅商店、大同貿易、岸本商店の商権、資産、社員を母体として丸紅を設立。その後、鉄鋼では八幡・富士の指定問屋グループ「十日会」メンバーとして国内取引に強固な地盤を持っていた中堅商社の高島屋飯田と合併し丸紅飯田㈱を設立(55年9月)。丸紅飯田は金属専門商社、東通と合併(66年6月)し同社の従業員、商権を引き継いだ。東通は18年(大正7)に浅野総一郎の「浅野物産」として設立され、第二次大戦前には日本の輸入原油の65%を扱った。戦後、分離独立して「朝日物産」を設立、両社は合併して「東京通商」(61年)、その後「東通」に社名変更した。
    ▽阪和興業=安宅産業名古屋金属課長だった北二郎等が46年(昭和21)に創業した。

  • 鉄屑カルテルと商社活動 55年4月に発足した鉄屑カルテルは、半年後の55年10月非参加会社の髙買いと米国輸入屑相場の高騰から、自ら協定価格を放棄し空中分解した。カルテル再建に当りカルテルは国内の共同行為と同時に「輸入屑カルテル」の創設に動き、共同輸入を模索した。再建カルテルでは、数量確保を最優先するため、カルテルが米国シッパーと直接契約する。価格メリットは追求しないから商社は不要、として窓口から商社を排除した。商社はメーカーの指名の下、輸入代行手数料を受取るだけとなった。
     ▼五社会遂に破れたり=三菱商事・大倉徳治が鉄屑カルテル十年史に寄稿した談話によれば、商社はカルテルの大量輸入に備え、戦前の「六洋会」に倣って「五社会」(三井、三菱、木下、朝日、日商)を結成した。56年3月八幡製鉄など鉄鋼各社から五社会に米国屑輸入活動の許可が降り、第3回カルテルさなかの56年7月から8月にかけ3班に分けて鉄屑調査団を派遣。調査団は米国の現地買付けは可能で、かつ有利との結論を得た。ところが調査途中の8月、カルテルは米国派遣商社員を急遽呼び戻した。その帰国報告に対し稲山は 「鉄屑はミルにとっては米びつの米である。現在は数量の確保こそ先決問題であって、商社側は安く買うと言うが、使う側の自分たちとしては安いか高いかは問題ではない。現地買付け案は中止して貰いたい」と商社による現地買上げ構想を打ち切った(稲山・太平洋・鉄屑輸入ベルトコンベヤー方式)。「嗚呼、五社会遂に破れたり」である。

  • 米国屑と商社 しかし61年2月、米国屑の輸入方式を巡って、価格メリットを活かすべしとの見解と、数量確保を最優先すべしとの見解が対立し、輸入カルテルは分裂した。
     以後、商社が米国屑の輸入業務に自由に参入できるようなったことが商社活動、鉄屑流通、 商社とメーカー、業者の関係を大きく変える決定的な転機となった。
     つまりカルテルが直接、米国屑を買付け、事後手続きを商社が代行するだけ(61年2月以前)なら「素人商社」や鉄屑に不慣れな糸ヘン商社でもできる。しかしカルテルが手を引き、商社がリスクを取って直接、米国屑を買付けるのであれば(61年2月以後)、商社本来の実力、経験が問われる。これが鉄屑業界と商社活動の関係に大きな変化をもたらした。 この変化は、便宜的に三期に分けて見ることができる。

  • 第一期(戦後~61年)、カルテルと外貨割当の壁 戦後の米国屑は60年4月までは外貨割当制(FA制)で管理され、商社は自由に扱えなかった。55年から発足した鉄屑カルテルは数量確保を優先して米国屑を直接買入れたから、商社独自の活動余地はなかった。ただ数量のまとまるカルテル代行に関与すれば、ノーリスクで仲介口銭が稼げた 。
     この輸入屑扱いに惹かれて関西五綿と称された伊藤忠、丸紅飯田、東洋綿花、日綿実業、兼松などが「糸から鉄」へなだれ込み(注)、総合商社化を目指して動き出した。
    当時、国内屑への商社の関心は全般に薄く、三菱や三井のような古くからの総合商社や日商岩井、木下産商、入丸産業などの鉄鋼専門商社が国内窓口を持っていた程度だった。また新たに輸入屑扱いに参入した糸ヘン商社も、平電炉への「与信」問題や発生量の制約などから慣れない国内屑扱いには慎重だった。
     (注)「カルテル時代は外貨割当て、『需割』といってメーカーが握っていますので、商社はただ枠をもらうことだけに奔走する時代でした」。ですから「商社はメーカーの買付け枠を貰う仕事のため銀座・新地が賑わっていたのです」。「商社の本領発揮は61年のカルテル分裂からです」(丸紅・大野重男氏談)。

  • 第二期(61年~67年)、輸入屑カルテル崩壊 世界的な需給緩和などから数量確保だけでなく価格にも配慮すべきではないかとの意見が対立し、カルテルは一元的直接買付を打ち切った(61年2月)。この輸入カルテルの崩壊を機に米国屑購入は全面的に商社扱いに移行した。分裂事件は共同で手当した鉄屑を同じコストで共同に分配するというカルテルの機能低下を招き、国内平電炉は輸入原料面で新たなコスト競争にさらされた。62年不況による平炉封印、金融引締め、信用不安が輸入玉を足場とした商社の国内進出を後押しした。これまで直納だった専業者の中から商社の懐に飛び込むケースが相次いだ。
     有力商社筋は60年代後半にかけ、専用の鉄屑大型運搬船を建造し、一挙に大型・高速化を実現させた。北米航路では従来リバティー船(戦時標準船)が9,000㌧足らずを45日以上もかけて運び、荷揚げに20日以上を費やしたが、大量2~3万㌧を30日足らずで運び8日前後で荷揚げを行う大型船の登場は流通革命と商社間競争を加速させた。

  • 第三期(67年~74年)、商社全盛 65年前後、原理的には鉄屑装入を不要とするLD転炉の導入、国内電炉メーカーの新増設、経済成長に伴う鉄屑の発生・回収の増加などの鉄屑需給の変化から5年後の70年前後には輸入屑はゼロになるとの需給見通しが広がった。商社は「国内屑時代」の到来を前に、さらなるビジネス拡大に備えて国内電炉メーカーの囲込みや加工屑対策に本格的に乗出した。それと共に商社間の摩擦も強まった。さらにマイカー時代の到来と廃車処理プラントの導入・普及に商社が果たした役割は大きい。有力商社は競って国内鉄屑業者と提携し米国製の大型シュレッダー機を導入。商社系「ビッグヤード」開設が相次いだ(73年11月までに全国10工場が稼働)。

商社ビッグヤード構想

  • 鉄くず自給時代に備えて 大手商社では(衰退する)輸入屑に替わる国内屑の「流通機構の核として」直営ヤード(商社ヤード、シュレッダープラント)を開設する動きが広がった。「商社の役割は、従来は資金の立替えという金融機能と需要家に対する与信負担だけだった」が国内鉄くず自給時代に備え「安定した国内拠点で利潤を上げる」(69年夏、商社座談会)との発言が相次いだ。その試みが以下のビッグヤードの建設である。

  • 日本カーべキュー 手塚興産が開発した自動車焼却処理を目指して、兼松江商と手塚興産、ハイマン・マイケルの3社が66年共同出資で設立した。

  • 葉金属工業ヤード 伊藤忠商事51%、扶桑金属30%、久保田鉄工29%の出資で千葉県船橋市の久保田鉄工船橋工場近くに68年10月開設した 。小島鉄工製 の700㌧圧ギロチン、タワークレーン他を備え総工費(地代別)約2.8億円。久保田鉄工向け7千㌧を含め月間1万㌧の加工・処理を目指した(日刊市况通信69年11月マンスリー)。

  • 丸紅スクラップセンター 川崎市内に68年建設。資金は丸紅飯田が持ち、日本特殊鋼に納入する鉄屑を加工処理する(大型ギロチンや新断プレス加工を主とする)。

  • みやま製鋼原料 東洋綿花が群馬県新田町の王子製鉄工場予定地内約5千坪に東綿70%、王子製鉄10%、自動車販売会社10%、鉄屑業者・片桐商店10%出資で創設。ハンマーミル社製シュレッダー(月間処理能力1万台)。所用資金四億円。プラントは70年4月から稼動した。(その後、東金属がみやま製鋼原料の経営を76年継承した)。

  • 関東製鉄(関東シュレッダー・高関) 三菱商事が埼玉県川越に約2万㎡の用地を確保。69年9月三菱商事と高橋関太郎商店が着工。ハンマーミル社製シュレッダー(月間処理能力7~8千台)。土地代を含め6億円。本体以外の付帯設備は「オール三菱の総力を集め」建設した。三菱商事と関東シュレッダー(注)の関係は「原則としてすべての利益損失を折半し三菱商事が最終責任をとる直営体制」とした。
     その狙い=1つは鉄鋼業界への寄与。2つめは自動車業界への寄与(廃車処理を通じ新車販売に貢献)、3三つめは社会公害の防止。ダスト処理対策=「ダスト処理は県内の建設業者を通じて砂利採取後の穴や低地の埋立て用に払い出している」、「自動車プレスの場合、平均20%に及ぶダスト込みの鉄屑をメーカーは購入するわけで、高い製鋼費をかけてノロを作り、ノロ処理コストをかけ二重、三重のロスが発生している。今後シュレッダー屑の利点は一層明らかにされるだろう」。今後の展開=「関東全域に20カ所以上の『衛星ヤード』を設置。それをフル活用する」(日刊市况通信70年5月マンスリー)。
     (注)高橋関太郎商店は三菱商事と協同出資で70年4月関東シュレッダーを開設し、商号を高関に変更。高関と関東シュレッダーは86年4月合併し、タカセキに改称。鈴徳が01年、旧タカセキ川越工場の事業を継承した。

商社、戦線縮小(80年代)

  • 石油危機の後遺症、商社の戦線縮小 日本列島改造論(72年)は国土改造の不動産・土地ブームを呼び起こし、鉄鋼版・列島改造論(73年)は5年後の77年度粗鋼生産を1億5千万㌧と予測。鉄鋼、商社もその予測を前提に走った。しかし、ニクソン・ショック(71年)後に定着した円高、石油危機(73年)による「全治3年の重傷」が、壮大な夢を砕いた。平電炉は設備過剰に苦しみ、鉄鋼商社・安宅産業の経営危機(75年)が表面化した。粗鋼1億5千万㌧時代に備え、系列平電炉に「与信」枠を供与し、直営大型ヤードの開設を急いだ商社自身の信用力が問われ始めた(77年)。鉄屑カルテル19年間を通じて戦後後発の電炉各社との「特殊関係」を深めた商社も安宅解体以降、厖大な不良債権が表面化し商社本体の経営を揺るがしかねないとの危機感から関係清算に動いた(80年)。

  • 80年代後半・商社も分社化 80年代の約10年間、電炉業界は過剰設備対策として製造設備の新・増設を禁じる「構造不況法」(「特定産業安定措置法(78~83年)」、特定産業構造改善措置法(83~88年)」の拘束の中にあった。構造不況法の禁制が終わる直前の87年前後、鉄スクラップ事業を本体業務から切離す動きがでてきた。
     87年4月丸紅は「丸紅テツゲン」を、三井物産は「三井物産金属原料」などの鉄スクラップ専業子会社を設立。本体商社は鉄スクラップビジネスから手を引いた。
     
     さらに90年代以降の円高、バブル崩壊、製造業の「空洞化」は余剰人員・設備を抱えた鉄鋼や高コスト体質の総合商社の経営を直撃した。商社本体同士の再編、合併が進行するなか、商社の鉄スクラップ事業は全て子会社が担当することとなった(04年)。

専業者の復活と商社再統合(2000年代)

  • 専業問屋が新ステージへ 80年代以降、平電炉の不良債権に苦しんだ商社は、国内扱いを縮小した。その一方で専業問屋は地力を蓄えていった。その背景としては(商社金融に依存した電炉と違い)、①鉄屑業者は主要ヤードや資産のほとんどを(商社が国内に参入する以前に)自力で蓄積していた(銀行は当時、鉄屑業者は優良貸出先と見ていなかったから、業者は資金蓄積、含み資産確保に努めていた)。この結果、②鉄屑発生増加に対応して大型設備を擁する加工・処理業に(商社に過度に依存することなく)円滑に転換できた。③そのため商社機能の低下から生じた空白域に迅速に進出ができたことがある。
     98年に表面化した電炉不況は、鉄スクラップの供給過剰と消費過小の両面から流通を圧迫した。日本からの鉄スクラップ輸出は01年を境に600万㌧台に定着した。この輸出には商社及び商社系子会社がほとんど係わっていない。大方が業者による共同輸出として運営され、商社は独自の存在感を失った。また92年リオ宣言を契機にリサイクル物は「地上の鉱山」との評価が定着。日本でも各種リサイクル法が制定され、その適正処理・加工設備、能力を持つ鉄スクラップ業者は、21世紀の戦略産業の一角を担うこととなった。

  • 商社、子会社を再統合 90年以降、世界経済は西側主導で統一され、中国を中心とするBRICsなど新興市場国の台頭を招き入れた。商社本体は資源需給の変化を捉えて鉄鉱石、石炭などの海外投資に軸足を移し「隠れた資源メジャー」的な動きを強めた。
     92年リオ宣言を契機に鉄スクラップはローカルな電炉向け商材から国内調達が可能な 「地上の都市鉱山」で、CO2の排出抑制につながる「地球環境保護」(高炉、各種リサイクル法)の切り札商材として、また世界流通が可能な「グローバル商品」(輸出)との地位を高め商社も新たな商機開拓や組織再編に動き始めた。と同時に「世界で闘う」新日鉄住金 (12年10月)や電炉でもJFE条鋼(12年4月)合併に見られる鉄鋼業界の再編・統合に鉄スクラップ流通を担当する商社部門がどう動くかとの課題もでてきた。

  • 鉄スクラップ関係商社の現在 1970年前後(商社全盛期=総合商社本体が直接関与する)

    1969年(昭和44)3月末現在の国内くず月間取扱量(数字は月間扱い。単位千㌧)
    総合商社17社(鉄屑カルテル昭和43~45年度年史159p「商社活動調査」)
    ★三井物産105.三菱商事86.東洋綿花69.伊藤忠67.日商岩井59.丸紅飯田48.住友商事37.兼松江商42.日生下産業27.岡谷鋼機22.神鋼商事20.阪和興業12.野村貿易11.7.入丸産業6.6.日綿実業5.8.安宅産業5.0.大倉商事1.0. 17商社合計627(千㌧)。
    (カルテル調査コメント=17商社の扱い数量は国内流通全体の約60%。また関東、関西、中部など大都市圏では85%を占めている=年史153p)。
    2020年(令和2)5月現在(鉄リサイクル工業会㏋掲載による)
    ★商社会員=エムエム建材、丸紅テツゲン、伊藤忠メタルズ、日鉄物産、JFE商事、神鋼商事、豊田通商、豊通マテリアル、阪和興業、兼松トレーデング、岡谷鋼機、トピー実業、草野産業、三井物産金属資源本部、メタルワン・建設鋼材事業部、大同興業。
    ★一般会員=ナベショー。
    (商社別調査データは存在しない。大手商社本体は原料部門を分社、子会社化した。高炉系商社、鋼材系商社や独立系商社などが主要メンバーに変わった)。
    ■エムエム建材=ホームページはこちら  三井物産系子会社の三井物産スチールと、三菱商事、日商岩井系子会社のメタルワン建材が14年11月統合し、三井物産メタルワン建材を設立した。
    その後の15年11月、社名を「エムエム建材」に変更した。
    *三井物産金属原料=三井物産は1987年、鉄スクラップなど金属原料専門の別会社として100%出資で分社化した(業務開始は7月1日。社長は土川丈太・本社製鋼原料部長)。*三井物産メタルズ=三井物産金属資源本部は鉄鋼・鉄スクラップ中心の三井物産金属原料と非鉄系中心の三井物産非鉄販売を2008年4月統合。「三井物産メタルズ」を設立した。*三井物産スチールに全面移管=三井物産メタルズは鉄スクラップ事業、ステンレススクラップ事業、両事業関連の環境事業の3事業を2013年4月、三井物産スチールに移管した。
    ***
    *メタルワン=三菱商事と日商岩井が2003年1月製鉄原料を除く鉄鋼製品部門の「メタルワン」を設立した。*メタルワン建材(04年4月)=このメタルワン、日商岩井鉄鋼建材およびエムシー・メタルテックは、日商岩井鉄鋼建材とエムシー・メタルテックの2社を統合し、2004年4月1日付けで「メタルワン建材」を設立。同年7月、旧三菱商事及び旧日商岩井の鉄スクラップ部門を同建材に全面移管した。*三井物産メタルワン建材(14年11月)=メタルワン建材と三井物産スチール両社の国内建設用鋼材とメタルクラップ事業(非鉄スクラップは除く)を統合し、三井物産メタルワン建材を14年11月1日設立した。
    ■丸紅テツゲン=ホームページはこちら  87年4月、丸紅の全額出資で福電興業を「丸紅テツゲン株式会社」に改組(81年、丸紅80%、三興製鋼20%の出資比率で福電興業を設立)し、鉄スクラップ扱いを丸紅本体から丸紅テツゲンに全面的に移管した。
    ■JFE商事= ホームページはこちら  JFEスチール(川鉄と日本鋼管が2003年合併)の発足に伴い、旧川鉄系の川鉄商事と旧鋼管系のNKトレーディングが合併(04年)し発足した。
    *川鉄商事=54年1月青山特殊鋼、新庄鋼材、摩耶興業の3社合併により川鉄商事設立。61年3月小倉商事を吸収。69年10月川一岐商を吸収。83年10月川鉄物産を吸収合併。
    ■伊藤忠メタルズ=ホームページはこちら 伊藤忠メタルズは16年1月1日、住商鉄鋼販売の製鋼原料事業を吸収分割により承継すると発表した。
    *伊藤忠丸紅テクノスチール=伊藤忠商事、丸紅の鉄鋼部門を分割統合し、伊藤忠丸紅鉄鋼および伊藤忠丸紅テクノスチールを01年10月設立。*伊藤忠メタルズ=伊藤忠は08年4月、アイ・リサイクルを含む金属原料事業と伊藤忠非鉄マテリアルを統合して伊藤忠メタルズを設立。*住商鉄鋼販売=鉄鋼本部を分社化し81年1月、古物売買業など鉄スクラップ業務は同社に全面移管した。
    ■日鉄物産=ホームページはこちら 新日鉄と住友金属の合併(12年10月)に伴い、それぞれの子会社である日鉄商事と住金物産が13年10月統合し、設立。親会社の新日鐵住金が日本製鉄へ商号変更したことに伴い、19年4月、社名を日鉄物産に変更した。
    *日鉄商事=1977年8月、新日本製鉄主導で設立。同年11月大阪鋼材、入丸産業㈱を吸収合併し発足した。*住金物産=1941年住友金属工業の指定問屋4社が一括合併してヰゲタ鋼管販売を設立。62年10月山本鋼業を合併し、住金物産に商号を変更。67年11月桝谷商会を合併。93年4月イトマンと合併し繊維、食糧等の商権を継承した。
    ■神鋼商事=ホームページはこちら 神戸製鋼グループの中核商社。1946年11月太平商事㈱として発足。59年湯浅商店を吸収合併。60年6月神鋼商事に商号を変更した。
    ■豊田通商=ホームページはこちら 自動車最大手のトヨタ系の商社。1936年トヨタ車の販売に対する金融を目的とした「トヨタ金融㈱」に始まる。42年「豊田産業」に変更。48年豊田産業の商事部門を継承し「日新通商」設立。56年商号を「豊田通商」に変更。2000年4月加商㈱と合併。06年4月、㈱トーメンと合併した(HP沿革)。
    *加商=1923年加藤商業を設立。28年商号を加商に変更。99年豊田通商と業務提携し、2000年合併。*トーメン=1920年4月三井物産・棉花部の業務を継承し「東洋棉花㈱」設立。63年南海興業(鋼管系、鋼材問屋)合併し金属部門を拡大。70年「㈱トーメン」に商号変更。2000年3月豊通と資本・業務提携。06年4月豊通と合併。
    ■豊通マテリアル=ホームページはこちら 99年5月豊田通商㈱ 非鉄金属部から分社化し「豊通非鉄販売」設立。2004年4月豊田通商 鉄鋼原料部から業務移管を受け「豊通マテリアル」に商号変更。17年4月豊通レアアース吸収合併。
    ■阪和興業=ホームページはこちら 安宅産業出身の北二郎等が1946年創業した独立系商社。
    ■兼松トレーディング=ホームページはこちら  70年(昭和45)兼松の100%子会社として設立。99年兼松鉄鋼販売と統合。2006年10月、日鋼貿易㈱と統合。普通鋼材販売、鉄鋼原料・鉄スクラップ・特殊鋼の国内販売、輸出入に及ぶ。
    ■岡谷鋼機=ホームページはこちら  寛文年間に岡谷總助宗治が名古屋の鉄砲町で金物商「笹屋」を起したのに始まる。1937年岡谷商店を設立。43年(昭和18)岡谷鋼機に商号を変更した。
    ■トピー実業=ホームページはこちら  トピー工業グループの専門商社。1947年3月、東都製鋼(現トピー工業)の鋼材指定問屋として萩原商事㈱設立。51年1月東和鋼機㈱に商号変更。55年東豊実業㈱を吸収合併して東都実業㈱に商号変更。64年7月日本車輪販売㈱の営業権を譲り受け、トピー実業㈱に変更。
    ■草野産業=ホームページはこちら  1914年草野惣市が個人商店として創業。18年福岡県直方植木町で草野惣市商店開業。39年(株)草野商店設立。44年草野産業(株)に商号変更。
    ***
    ■ナベショー=ホームページはこちら  独立系専業商社。1931年(合資)渡邊傳七商店を設立。55年、渡邊商事㈱に社名を変更。94年10月㈱ナベショーに改めた。

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