ある日 詩らしきものを


言葉を掬い取る

石清水のそれのように

降り沈んだ天の到来物を

零(こぼ)れ落ちる 両の手で

言葉は天地無用の「容れ物」

言の葉は 詩歌を 言葉は 論理を 盛る

悲嘆哀愁の情を 「悲しい」と歌ってはならない

論理破綻の言を 「愚か」と断じてはならない


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言葉をすくいとる          2020年~2021年              

またある時の「つぶやき」として      2015年~2019年             

対外的発信(hp)の記録      2016年~2021年             

二十歳代の若書きの断片              1970年~                  

その終わりに            2022年 
                  

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2020年~2021年

 

言葉をすくいとる 

言葉を掬い取る

石清水のそれのように

降り沈んだ天の到来物を

零(こぼ)れ落ちる 両の手で

 

言葉は天地無用の「容れ物」

言の葉は 詩歌を 言葉は 論理を 盛る

悲嘆哀愁の情を 「悲しい」と歌ってはならない

論理破綻の言を 「愚か」と断じてはならない

 

世間に往来する「容れ物」は

公然と手渡された器なのだから

 

何を言っているのだろうと自問する

そう 他者に係ることは

他者の領域だから 分からない

だから 何を言っても分からない

 

言の葉に 何を乗せよう 

 

ゆくりなく、とりとめもなく、パソコンに向かうと方丈記の心境に近づく

鴨長明は賀茂神社の神職の座を激しく争って敗れて隠遁した・・・

心のどかな世捨て人ではない。

争って、敗れ、方丈に座し、世を達観した。

その文が清澄なのはそのため。

その文が人の世の有為転変を映すのは、そのため。

 

心をここに留め 思いを千里の外に走らす

時が音も無く流れ 空ゆく雲が星を隠し

笹竹が暗雨に揺れる 遠い日のほのかな記憶

たぐり寄せ 思いを潜め 薄紫の玻璃に封じ込める

それが私の秘儀 ささやかな霊鎮め。

その昔。

全ての力を抜き、両手両足を大きく広げ、真夏の海に身を投じた。

ぽっかりと漂う僕は、どこまでも広がる天を眺め、耳元に波打つ海の声を聞いた。

力を入れてはならない。どこまでも身を委ねるのだ。そんな記憶。

 

言葉に 何を託そう

言の葉に 何を乗せよう

大野晋によれば、言葉は散文 言の葉は歌

そう古人は使い分けていたらしい

 

季節は ゆく雲と風に乗って

遠い遙かな夢の国から 遠い遙かな夢の記憶

言葉に 何を託そう

言の葉に 何を乗せよう

あるとき ヒトに与えて

 

山に登るときは 山を見ない
足元の石ころを見る
転ばないように
足を痛めないように
一歩ずつ 一歩ずつ
休まず 腐らず登る

 

歩き始めたら、「遅々として進む」。焦らない。

何事であれ、自分の責任で考える。

他人の判断に(世間の言い分に)流されない。

だから、僕は「躓くなら、自分の足で躓く」と言う。

他人の判断で躓くのは恥だとも言う。

あるいは間違っているかもしれない。

しかし、それでも信じることを、信じるままに言う。

ムンク その絵に

 

叫ぶ声があれば いい
よじる身体が あればいい
声高に 人目をはばからず
泣くがいい
悲しみを 絶望を
満天下にさらして
・・・・・
いっぺんの矜持が 
ひとひらの誇りが
風に舞う
そう見ていた ムンクの絵を
声なき叫びの 絶望の深さを

人の世の 命の不思議に

あのこえでとかげくらうかほととぎす・・・

私はその句をしばしば反芻した

その奇跡の在りようを

髪一つ留めない鮮やかな変容を

生きるいのちの不思議を・・・味わったあとに

 

生まれてきた定めの

その定めの絶対に 言葉さえない

ラ・ロシュフーコーの箴言に

付け加えることなど なにもない

 

今を生きる

誠実に生き切る

なべて世の習いのままに

 

ヒトを愛そう

しがらみが ヒトのたたずまいなら

しがらみにからみとられて

生きよう

 

無の果ての無の宇宙など 

何も・・・存在・・・しない

その故に

 

ある日の感慨と共に

 

  • (1) 2月 

風もなく見事に晴れ上がった朝(そう。これを快晴無風という) 

凍てついた庭に一列 ノースポール

一株80円が15株 生徒のように並んでいる

僕は如雨露をもって おごそかに注ぐ

大いなる機序が 花開くを待つために

 

(2) 白い月

おや、そんなところにいたのかい、とは誰の詞であったのか。

午後のおそい白い月。十二夜か十三夜かしら。

東の真さ青の空にかかっていた(今日は、なんと春のような陽気だ)。

僕は新型インフルで休校になった小学三年と一年の孫を連れ散歩。

流行は世間に従うが、マスクの是非は自分で決める。

 

官僚が矜持と清廉なる言葉を投げ棄て、時の権力に媚びへつらい、

世襲政治家が法治の原則、制度を平然と踏みにじり、

テレビ、マスコミがその実態を覆い隠して、矮小化する

この国に、未来を託する希望などない。

 

さて、そうであるとして空を見る

おや、そんなところにいたのかい、僕のティンカーベル。

 

(3) 空はあかね

一番星を待ちあぐねた
はるかな日々のなつかしさ
空はあかね 風は秋
雲のはたての 小さな灯り 
鴨の親子の 羽交いのたより
さて世はこともなき 星月夜

(4) 白い花が咲いていました 

白い花が咲いていました。

早咲きの桜も咲いていますが、それは辛夷(こぶし)

木蓮も咲いていました。

楢やクヌギの枯木立のなか、その存在を教えてくれる辛夷が好き。

ユキヤナギが白く細く枝垂れながら咲き急いでいるのも好き。

あまりに端正で華麗なボケの花は、名前が名前だけにあまり好きではありません。

とはいえ、桜には心が騒ぎます。やはり、隠せません。

だからとにかく必ず、見に行きます。通り抜けします。

そのたびに「桜の樹の下には」とのある作家の言葉が、いつも響きます。

その不気味さが・・・すさまじい

そう言わなければ精神のバランスがとれないほどに心ひきつける花です。

 

世界的疫病の日に・・・ (1)悲観も楽観もせず

 

新緑の葉裏の向こう 空の青さがうれしいと思う。

宇宙の不思議 命の系統樹もうれしいと思う。

世は新型コロナウイルス対策に懸命だが、

われら二重らせんのDNA生命とらせんをもたないRNA生命の相克。

共に地球生命体同士の、その共存関係のあれこれの試行錯誤。

そう見れば、人類の地球史的な必然のありようだろう。

悲観も楽観もせず、その現実を受け入れる。

 

だから僕は非日常のなかで、日常を守る。

彼らの流儀ではなく、自分の流儀を貫く。

生きるということは、極めて社会的な強制的な実際だけれど

生きるということは、一回性の優れて個人的な現実だから

僕は 僕の生き方で生きる

 

世界的疫病の日に・・・ (2)僕の生き方 

 

状況は刻々と変化している。

第一次大戦突入当時の欧州世界と同じ。

7月に始まったが、クリスマスまでには凱旋する。

それに乗り遅れないように、徴兵に応じ勇んで参戦した

その楽観が900万人以上の戦闘員の命を奪った。

 

このコロナもその致死率の低さが、初期に楽観論を生んだ。

(それは恥ずかしながら、僕も同様だった)

しかし、誰も免疫を持ってないがゆえに、爆発的に拡大した。

地球70億人の致死率1%は7,000万人に及ぶ。

 

感染も接触だけでなはくエアロゾル。風下4メートル感染という。

何時誰から感染してもおかしくない。

だから僕も覚悟を決めている。

僕もそのリスクのなかにいる。

ならば、いつ死んでもいいように仕事だけは仕上げよう。

だから急いでいます。遅々として急いでいます。

 

世界的疫病の日に・・・ (3)青竹はしなやかにさわやいで 

 

戦争最(さ)中の生活とは。何か。

非日常の日常。昨日なかったことの今日の慣れ。

そのように戦中日記にある。だから、その記録。

無意味がやがて意味を持つその日のために。

 

今日、正確には昨日。

午後3時過ぎ。庭の竹越しに空を見た。

10数年前、プランターに植え、毎年のように枯れ残った

笹竹だとばかり思っていたのが、5年前 

庭にやってきてぐんぐん伸びて

いまは3階建ての我が家を超す

群れ竹。竹は僕の念願だった。

 

その葉群れの下から午後3時の空を見た。

ヒトは疫病蔓延ゆえに ここに閉じこもり 無為をかこつ

その思いも知らず、青竹はしなやかにさわやいで 時を移す

まことに自然 それが自然 言葉がない

 

世界的疫病の日に・・・ (4)わが日本の現在 

 

ヒトの世界観、信念、価値観は、

過去の先人たちの歩みから掬い取るしかない。

また現在の生活、市井のなかから汲み取るしかない。

それを歴史と呼べば、歴史から読み解くほかはない。

またそれを社会と呼べば、生活実感から始めるしかない。

 

銀のさじを咥えて生まれ、

親の地盤を引き継ぎ、稼業に励む世襲政治家。

歴史から学ばず、市民生活からかけ離れた彼ら。

その彼らに・・・しかし近代民主主義は制度上の役割を与えた

その代表民主主義の規範に則り、彼らが官僚を動かす。

不都合な真実は隠蔽し、異論は強権をもって封殺し、

行政権限を恣意に操作し、信用信頼を内外に毀損する。

 

官邸官僚たちはもはや国民に「仕える」公僕ではなく、

絶対君主が「使える」私僕。中世封建制の家産官僚に近い。

私僕であることを潔しとしない官僚は、

上を見るに巧みな阿諛者によって排斥され、

忠実な取り巻きらだけが、滓のように残る。

古来、絶対権力の最終形態の姿。無能者の天国。

 

検察は権力の走狗に甘んじ、

公共放送は、権力の広報機関となった

それがわが日本の現在。

それが目の前にある危機の現状。

 

**************

 

閉じ込められた囚人が 窓辺による一羽の鳥を手なずけた。

差し入れられたわずかな配膳をそれぞれに分かち 与えた

ヒトは独房の中でも友を求める いや独房故に 求める

昔見たアメリカ映画の話です。

顎の割れたカークダグラス・・・だったかしら?

さて日本では、この役を誰が演じる?

 

少数者として生きる覚悟がないのであれば

 

リタイアし、世にいうサラリーマンの「生前葬」を通過して

いま、改めて「世間」と対峙し、僕自身を見ている。

「正しいと思う少数意見に生きるべきか」、との問いに対する加藤周一の答え。

「少数者に生きる覚悟がないのであれば、多数者の側に生きなさい」。
「羊の歌」の一節です。

そう。長いものに巻かれる。

それが世間に生きるすべならば、

それに抗う体力がないのであれば、

そのような生き方は恥ではないと、加藤周一は言った。

僕は覚悟はないままに、結果的に少数者の側に生きた。

しかしそのことに悔いはない。

 

人生は些事から成り立っている。また美は細部に宿るとも言う。
さらにしつこく、聖書から引き出して言えば、日の下に新しきものなしとなるだろうか。

言わんとすることは皆同じ。今を生きる、今を生き切る、ということだろう。

だから、日本のある婦人は,そこで咲きなさい・・・との本を書いた。

そこにどのような解釈も可能だろう。

人生は一回だ。悔いのないように自身の信念で生き抜くしかない。

だから 朝は元気で・・・これに続く言葉は忘れましたが、

とにかく生きる達人、赤毛のアンの言葉です。

 

矜持(きょうじ)という言葉があります

「矜」は「矛」(ほこ)と「今」を合わせた会意文字。
武人が矛をもっていることから、訓よみでは「矜(ほこ)る」と読むそうです。
その誇りを持する。だから矜持。

 

誇りは外に向かう意識でしょうが、矜持は内に秘める決意、そう僕は勝手に解釈しています。それを僕なりに、別の言葉で置き換えれば「歩く姿が美しい男でありたい」でしょうし、 文学の言葉を借りれば、「君子は冠を正しゅうして・・・」との子路の覚悟になるのでしょう。昔なじみの高橋和巳は「一回性の人生」と言っていました。

「奥歯を噛みしめて生きなければならない」ことがあるとも、 そしてまたアイロニカルな現実として「ヒトはどんなに悲しい時でもメシを食わなければならない」とも。
僕は、それらの言葉に支えられ、生きてきたようです。
だからこそ一回性の人生を、自身が後悔しない人生を生き切ろうと考えています。

石炭紀

 

地質学的年代区部に「石炭紀」なるものがある。

古生代35900万年から29900万年までの約6000万年だ。

なぜ石炭紀か。

この年代の地層から(だけ)石炭化した木が発掘されるからだ。

 

それが子供の僕には不思議だった。

恐竜も鳥もトカゲも、誰も木なんかには見向きもしない

固い幹を食べはしないし、切って家を作ることもない

なのになぜ、2億9900万年から後、石炭はできないのか。

なぜこの時代だけ、石炭はできたのか。

 

不思議が解けたのは、はるか後年。

6000万年間。木は分解されることはなかったのだ。

地上にあっても腐ることなく、堆積し、厚い地層を為した。

それらが地上から消えたのは、木をエサとするキノコ類が登場してからだという。

以来、倒木は鞭毛をもつ真菌類よって消化され、地の肥やしに姿を変えた。

 

石炭紀の6000万年間。

倒木は原形を留めたまま、地上に累々として横たわり、

畳々として積み重なり、地中深く黒い層列をなして鎮まった。

 

2億9900万年後の今。

倒木は存在の純粋形質のまま地上に復活した。炭素塊である。

鞭毛細胞を始発とするヒトが発掘し、文明を加速させた。

 

さて それからどうなったのか・・・。

・・・大人の僕は思案する。

 

ある日の雑感として

 

1  金子みすゞの世界――「法然にすかし参らせん」に同じ

金子みすゞの詩に初めて出会った時の、深く静かな感動は今も忘れません。

それが朝焼小焼けだ/大漁だ/大羽鰯の/大漁だ/で、始まる有名な「大漁」の詩。

以来、彼女の存在は、私にとって世界を信頼する窓口になりました。


彼女の詩集を手にし、彼女の見る目の優しさにふれるとき、世界は(人間と、それを取り囲む自然の、そのすべての関係)は、ためいきがあふれるほど細やかで美しいし、ヒトの心はそんなにも温かく他者への思いに豊かになれるし、素直にもなれると、信じることができました。

そう、彼女がそう歌い、そう信じるなら、私もそう信じていい――と知ったのです。


それは、師法然の教えを、それがたとえ地獄に通じる路であったとしても、「すかし参らせん」と語り残した親鸞の素朴な信念に同じ。

かつて、彼女がそうしたように、私も心疲れたときは、(世界への信頼感を再び取り戻すために)独り、その詩集に帰るのを習いとしています。

その私の喜びは、彼女の詩集と彼女の存在を語ること。

ヒトは肉体の死と忘却の死の二度の死を死ぬのであれば、せめて記憶のなかでは死なせたくない。彼女は古人のいう千年の知己。座右の友。

その魂の美しさ故に不滅です。

 

2   コミットするということ(堀田善衛論)

 

状況にコミットするということは、如何なることか。

堀田善衛は「定家明月記私抄」で――10数万人が焼け死んだ203月の東京大空襲直後の、ある晴れた日の情景を描写する。
あるやんごとないヒトが、焼け跡整理が漸く一段落した被害の状況を視察に訪れたようだ。
その姿を仰ぎ見た被災者が一斉に土下座し口々に「申し訳ございません」と侘び、深く頭を垂れた。その姿に堀田は激怒した。彼の友人・知人は、そのやんごとないヒトの御名によって始まった戦いとこの猛火のなかで命を失った。

頭を垂れるべきは彼のほうであって、家を焼かれ家財を失い路上にさまよう庶民が、なぜ彼に向かってこの厄災を責めず、羊のように頭を垂れるのかと。

権威に眼をくらまされることなく、あらゆるものをその本来の感性に従い見るとき、何が見えるか。その証言が「若き日の詩人たちの肖像」であり、その後の真の意味のヒューマニストとしての彼の一連の作品がある。

それは一貫して広く・深くコミットし続けてきた歴史だった、と私には思える。

コミットとはそのようなものであろう。言葉は――つまり、論理は世界の再構築に係わる。私は少数派として孤立することを恐れるのではなく、語りかける論理が未熟なことを恐れる。私が堀田に学び、加藤周一にならったのはそのような論理を武器とする世界。

コミットはすぐれて挑戦的な論理と、かつ一歩も退かない決断(持続力)にかかわる。
だから、私はコミットすることに慎重になる。

果たしてそのような覚悟があるのか。

そこまでの準備が整っているのか。やるかやらないか、二つにひとつだからだ。

 

3  「司馬遼太郎論」もしくはサラリーマンの「サクセス・ストーリー」

 

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書いた。軍国日本が最も輝かしかった時代を、最も品性豊かな人物像を巧みに配することで軍国日本の鎮魂とした。

ぼくが言いたいのは「坂の上の雲」の話ではない。明治37年の戦役は、遅れて開国したアジアの弱小国が先進列強の一角に戦を挑み、見事勝利した国民的な陶酔の記録として、誰がどのように書いたとしても常に心地良いに決まっている。それは野球やサッカーフアンが勝ちゲームの新聞を飽きもせず繰り返し読むのと同じだろう。

彼がどのような思いを託したかは知らない。ただ、坂の上を目指す、その坂の上の青い空に白い雲がわく。そのイメージは「青雲の志」。だから国家の壮大な闘いの叙事詩であるとともに子規、漱石などの若い文化・文人が登場する。

 

問題は、軍部・軍隊組織への不信(不審)を晴らすのが「二十歳の自分への手紙」だと語った司馬遼太郎が、なぜその小説家としての仕事を、国民的な祝祭作である「坂の上の雲」で打ち切り、その後の大正・昭和の軍部の変質のさまを描こうとはしなかったかだ。

彼は、日本軍の軍装備としての惰弱性、組織としての独善性、規律としての非人間性の典型として「ノモンハン事件」にしばしば言及する。が、にもかかわらず、ついに明治以後の軍隊と軍関係者の物語を作品に仕上げようとはしなかった。彼の関心事は、その誇り高い明治の軍隊が、自国民を守るはずの軍隊・組織が、なぜ平気で自国民を「轢いていけ」と発想する集団に至ったのか。その不審を晴らすことにあったはずだった。

 

しかし、にもかかわらず彼は昭和の軍統制の病弊も、結果としての「ノモンハン事件」も、執筆することはなかった(それらを書いたのは別の作家だ)。

彼は幕末動乱(開国)、明治維新(初期軍隊組織)、日露戦争(明治期軍隊)と及んだ彼の一連の歴史・軍事シリーズ作品の仕上げとなるべき「ノモンハン事件」(昭和期軍隊)に向け、古書店倉庫を空にする伝説を残すほどの膨大な資料を集積し、関係者への聞き取りを重ねていたと聞く(それが「二十歳の自分への手紙」への周到な準備だったのだろう)。

 

再びしかし、にもかかわらず日露戦争の作品(「坂の上の雲」)を最後に、彼が一足飛びに向かったのは現在日本の「街道をいく」シリーズと「この国のかたち」だった。

そう、日露から彼は一気に現在に飛び、大正・昭和の歴史と戦争から目を背けたのだ。

たしかに大正・昭和の歴史は、超人的な英雄群像の登場とその果断な行動だけで処理しきれるものではない。天皇と軍部、イデオロギー、植民地支配、民衆の台頭、それらの全体の組み合わせとして歴史は動き、軍部は醜悪・無慙に変質し、そのすべての結果として現在が出現した。それは彼の作品の特徴である能力溢れる一個人が解決できる世界ではないだろう。

国家規模での資本と理念と利害との対立・調整。そのなかで彼が執筆を断念したとすれば、そこに彼の作家としての限界があった、と見るほうがより妥当だろう。

司馬遼太郎の作品は、サラリーマンの「サクセス・ストーリー」。大人の童話だ。
話は単純で、ほとんど超能力的な一個人もしくはグループによる出世物語である。だから、だれも傷付かず、超人的な成功に見惚れ、納得してストレスを解消する。細部の検証が緻密・正確であるだけに知的満足度も高い。それはカタルシスを伴う絵解き物語の世界だろう。

 

4  「客観的な表現」とは何か――その考察

 

ヒトはしばしば文章を評して「客観的な」表現と言う。私にはその意味がよく理解できなかった。私の文章もまた、そう評された。そのことについて考えたい。

  • あらゆる文章は主観の主張である(「客観的な」主張など存在しない)

1 すべての表現は――文章であれ、映像であれ、原初的なボディーランゲージであれ、すべて主観的に選択した「意思表示」の表象である(表現の定義)。

2 従って「客観的な」表現は定義上存在しない。言葉としての「客観的な」表現が意味するものは、巧みに主観を消し客観的な外形を装った表現形式を指す。

3 文章はあらゆる表現のなかでも最も意識的に構成され・装飾された表現形式(だからレトリック)であり、他者への呼びかけの最高形式のひとつである。

■客観的な検証文とは――最も主観的な文章である(そのパラドックス)

1 検証文とは、表現者が準備した5W1H(「いつ、誰が、どこで、なにを、なぜ、どうしたか」)の提示とその配列のもとに論理を展開し、その到達した判断を他者へ強制しようする試みである(それはほとんど検事の論告・求刑に似る)。

2 表現者が為すべき最大の務めはどれだけ鋭角的に論点を切り取り、適切・効果的な5W1Hを配列するかである(だから検察は証拠固めに全精力を集中する)

3 しかし提示された5W1Hと配列から導きだされたものは(提示制約内の)一解釈であって「真実」を意味するものではない(だから誤審の救済制がある)。

4 検証文は(双方が相戦う裁判と異なり)、表現者が「一方的に」5W1Hを自在に選択し、論証が進めることができることを特徴とする(読者には反証の機会がない)。

5 つまり検証文とは、表現者が自由にその戦場と武器と時間を選ぶことができる闘いである(読者は常に「予め仕組まれた結論」の不意打ちを食らう)。

■「ヒトは(企業は)自分の立場で考える」

私は、「ヒトは(企業は)自分の立場で考える」と考える。表現としての文章がそうであるように、生命体としてのヒトに「客観的な(公平な)」立場など存在しない。

だからヒト(企業)の発言は、常に当人の立場からの「主観的な」発言である。

■マスコミもまた同様

マスコミの欺瞞は、「読者投書欄」に集中的に現れる。つまり政権党に近い「読売新聞」の投書欄と反政権党である「しんぶん赤旗」の投書欄が違うのは、客観的な事実が違うからではなく、両者の選択基準が違うからである。

新聞社の意に沿わない投書は「予め排除され」新聞社の意に沿う投書に差し替えられる。


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またある時の「つぶやき」として


2015年

 

6月16日 とりとめも無い時間に対峙している

風が吹いてきました。
淀川河口には、決まったように、夕方海風が吹く。

サーファーたちはそれに乗り、川面に白い波頭を描き滑っていく。

僕は右岸堤防R.12から、その様をながめている。

工場の並木が美しい(公害集団訴訟で訴えられたところだ)。

夾竹桃には毒がある。高く、赤い帯となって遠く延びている。

 

6月の大気は、太陽光と陸地に温められる。アーリーサマー。

大気の落下さえ心地よい。袖吹き返す明日香風。その言葉の華やかさ。

大いなるものが沈む西の地平線には、六甲の山並み遠く薄く淡く広がる。

逆光を受けて山巓の電波塔が細いシルエットを浮かび上がらせる。

対岸には、遠く遥かに積み木のような高層ビル群が並ぶ。

アベノハルカスが夕靄のなか、小さく煙っている。

いやいや見たいのは、金剛、葛城の山並み。

 

とりとめも無い時間に対峙している。

詩を書きたいと思う。句も作りたい。

言葉。言葉。言葉・・・。

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「参った」と言わなければ、負けではない

日本対シンガポールのワールドカップ予選を見ていました。

日本は20数本のシュートを放って結局、引き分け。

勝ちを捨て、「負けない」ことに徹した相手をどう倒すか。

五分と五分ではない。ゼロ対十分。

その十分の守りに徹した相手に、日本はついにゴールできませんでした。

 

これは何でしょうか。人生によく似ていますね。

「負けない」と決めれば、相手に勝ちを与えることは阻止できる。

それを僕は喧嘩で学びました。非力ですから、腕力はありません。

しかし相手は僕を殺すまでの度胸はない。

とすれば、相手の勝ちを認めなければいい。

「参った」と言わなければ、負けではないのです。

それが「変わっている」と評される僕のバックボーンです。

男は腕力ではない。状況から逃げ出さない。

それが僕の美学。子路の訓え。

 

6月19日   周五郎は、だから嫌いです

梅雨のひぬま・・山本周五郎の短編の題です。

小説の内容は忘れてしまいました。が、梅雨の「干ぬ間」の意味でしょう。

梅雨時になると、なぜかこの言葉を思い出す。

梅雨の合間の晴天ではない。

次の雨の前、乾く間もないわずかな一時。

登場人物は「青ベか」のそれのように名もない健気で律儀で貧しい庶民。

なんの変化もない。しかし何かが確実に変わって素朴な日常を追い詰めていく。

哀愁を受け入れる諦念が静かな時を刻む。周五郎は、だから嫌いです。

 

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庭の雀

雀用に餌場を2カ所、それに水飲み場と砂場を作りました。

餌は朝7時、昼12時、夕方6時ごろに直径10㎝ほどの小皿に大盛り。

待ちかねたようにまず数羽がやってきて、残り大ぜいが隣家の屋根で待機します。

小さな鳴き声ですが、重なると賑やか姦しい。

でも私が姿を見せれば、一斉に飛び去ります。

 

逃げようともしない小さな雀がいます。それが本当に心配。

彼らが生まれたのは、いつかしら? 

まさか餌探しを知らないのではないでしょうね

雀でも餌付けをすれば、それは餌付けした人の責任。

その自覚無しに自然に手をつけてはならないのだ、と。

 

6月24日 朔太郎は好きではないが

朔太郎は好きではないがある詩が 時に浮上する 

天の高みの一角のその嘯(うそぶ)きを反芻する

 

山に登る 旅よりある女に贈る

山の頂上にはきれいなくさむらがある・・・

空には風がながれてゐる、

俺は今でも、お前のことを思ってゐるのである。

 

その天ひろがる茫洋さ

その頂き吹く抜ける空虚さ

その独り居の傲慢さ

さてそれならばこの俺は何を託して嘯こう

 

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夜が完全だったことはない 

夜が完全だったことはない 私が言うからにはいつも・・・。

これはあるフランス詩人の歌。時に私を突き上げる。

デジャブ-。既視感。幻惑。自然現象ではない。まっかな歴史認識。

人がどれだけ愚かであるか。日本人がどれだけ健忘症であるか

 

安倍内閣が誕生したその年。
僕は自身のHPに「アベノミクス」と「アベノリスク」を書いた。

その歴史観、「平和観」の危うさを書いた。

マスコミは、アリバイ作りの小話は書くが、
アベノリスクを正面から論じようとはしない。

ちなみに上記の詩人はレジスタンスに従事した


6月25日 だから14行の散文です

ソネットは14行詩 短歌は31字 句は17

漢詩文は厳格な定型文 頭韻 脚韻 押韻 構成

和歌は恋文、懸想文 枕詞 掛詞 縁語 歌枕

枠に固めて枠を超す 本歌を取って 本歌を超す

堀田善衛の若き詩人たちの肖像

加藤周一の羊の歌

マチネ・ポエティクのソネット

それらが若い日の憧れだった

万葉集 古今集 新古今和歌集 

石川啄木 佐藤春夫 井上靖

与謝野晶子 茨木のり子 金子みすゞ

印刷所の貞重氏は川柳「番傘」の同人

でもでも・・・僕にはとうてい無理な話です

だから14行の散文です

6月26日  さて日本です

雨は朝から降っていたのだろう

庭も沓脱ぎの下駄も濡れていた

雀は餌をねだって軒高く並び

私は濡れ下駄を突っかけそれに応える

 

すべて世はこともなし

テレビはギリシャ問題を論じ

欧米の移民排斥の高まりを伝える

彼らには時間がないという

 

さて日本です

株価は18年ぶりの高値に沸き

ナデシコの活躍に躍り上がる

 

九州南部は梅雨前線が停滞 記録的な大雨

近畿の雨は こぬかそぼ降るささめ雨

すべて世はこともなし

 

**************

ははそはの 母のまなざし

時雨の音を 聞くたびに とおいはるかな 

雨旅の 父の背中の ぬくもりの 

そのなつかしさ せつなさを

かみしめ味わい 横時雨

 

ははそはの 母くちぐせの 哀しみは

男手なしの 女所帯 

荒き世間の 波乗りに 孤軍奮闘

吾幼くて 役立たず 切歯扼腕 

 

子を持ちて 子の至らなさ ふがいなさ

しかはあれども 子もさらに 苦しみ深き

ははそはの 母のまなざし 吾もまた

 

遠く石を 投げる

なぜこの言葉が浮かぶのか 

落ちるとも 遠く夢見る その果てを

 

**************

雨が降っている

我々は何を知っているのだろうか

宇宙の 物質の 人間の 魂の 何を

分からない 自分自身も 

彷徨する 無限の時空を

 

さてそうであるとして

人はどう生きるのであろうか

人生を 生活を 明日を 時を繋いで

ひたすらに

 

雨が降っている 軒端を叩き 

地をぬらし おやみなく 

眺めている ひたすらに

 

宇宙と 時と 生命反応 

われならなくに

その一瞬が永遠 その永遠が一瞬

 

6月27日 その残照があかねぐも

雀が鳴いています

風がガラス戸を鳴らしています

今年の夏至は622日。

本日。大阪の日の入りは1915分です。

 

19時30分、降りたプラットホームは茜空。

阪神千船は高架駅。はるかに遠く山並みが見えます。

穏やかな六甲山とその上をうすくたなびく横雲が

鮮やかなシルエットをまとったまま

西の空一面を真っ赤に染め上げていました

 

陽は地平線に深く沈んでも

角度が許す地の果てから天空を照らす

見上げれば

その残照があかねぐも

おもわずスマホで山容と茜の空を撮影しました

 

7月1日 庭たづみ

いかにも梅雨です。

雀の餌場の近くに砂場があります

そこに隣家の樋から雨水が溢れ洩れ、

ちょっぴり「庭たづみ」ができました。

 

庭に溜まった雨水を指す古来からの歌語。

コンクリに覆われた都会では目にできません

それが今朝、小さな溜まりと小川となって

わたしの庭にやって来ました

 

それは遠い昔の思い出

幼い日の雨の日の遊び

一人ぼっちでなに遊ぶ?

 

聞かれても、知らん顔

ダム建設 決壊防止 緊急出動

とにかく忙しかったのです

 

7月2日 自分とは、自分にとって・・・何か

我らは星の子、宇宙の子。

超新星に起源に持つ数10億年の子孫

しかしその星々は自らを知らない。

知らない故の爆発・拡散。

 

我らを組成し、地球を構成する元素。

その起源は星の死を賭した爆発と拡散。

最新の宇宙科学はそう説く。

我らは星の子、宇宙の子と。

 

埴谷雄高はそれを「自同律の不快」と言った。

星は星。その自らに居直ることの「不快」。

星はその「不快」の故に超新星として爆発した。

 

であれば、自身に固着することは許されない。

自分とは、自分にとって・・・何か。

だから、いまも宇宙論なのです。

 

7月3日 息をひそめてひたすらに

歳月はヒトを待たず。
時計ばかりがコチコチと・・・。

だからではないでしょうが、
身の回りにやたら時計が多い。

なにしろ我々は四次元時空の存在。

現代文明とは時間管理の文明。

その瞬間の確定。
だから「うるう秒」が問題となる。

 

実態は変わらないが定義変更で
現在世界の解釈が一変する。

それが我々の今。

その今に向かい合う。

その刻々の砂時計

息をひそめてひたすらに。

 

7月5日 死んだと思えば諦めがつく

人はミスを犯す動物である。

人は自己弁護の時、最も雄弁である。

他人の心は分からない。しかし自分は変えられる。

編集長として部下にそう言ってきた

詳細な弁明も、そう聞いた

何事かの決断に迫られたとき、そう自問し自答した。

そして人は絶対に死ぬ。
どんなに大切、不可欠だったとしても、死んだと思えば諦めがつく。

それは会社だけではない。人間関係もそう見た

それが行動規範となった

7月9日 さて、高曇りです

高曇り。晴れてはいないが雨でもない。

なにかに似ている。

でも、それもまた人生

そういう歌がありました。

 

「所与の条件下で全力を尽くす」

公務員がいいそうな台詞。

その場所で、咲きなさい

フォークソングはそう歌う。

 

社会的、人間的制約。

それも認めた上で

自分らしさを付け加える

 

それが本当の創造。自由。

「制約からの」との前口上があるのだ。

さて、高曇りです。

 

10月9日 天満天神古本市

天満天神古本市 頃は良し秋日和

古下駄素足で 冷やかしに

平台にずらり背裏を並べて 一冊百円特価本

枕ほどの大辞典 買いも買ったり二十冊

配達サービス一箱五百円 一箱十冊しめて二箱

品代二十冊二千円送料二箱千円

総計三千円 これでは本がかわいそう

 

12月10日 友よ 今日の新聞に 野坂昭如の訃報がでていた

とりとめも無く パソコン画面に向かい 指を遊ばす

友よ 今日の新聞に 野坂昭如の訃報がでていた

焼け跡闇市 蛍の墓

保守純粋培養の安部政権 
そのアイロニカルな現実には

暖冬の夜の雨がふさわしい

***

佐藤春夫の詩を繰り返し読み返し

静かにページを閉じ反芻する

友よ

犀星はそう呼んだ

ならばボクもまた

 

2016年

 

1月22日                        

言葉だけなのに その言葉が嗤われる 

無反響室 耳鳴りだけがこだまする

6月24日 憂鬱です 

EU離脱派が多数を占めた。単純なスローガン。感情的な決まり文句。
人種的、性的な憎悪。ヘイトスピーチ。
それら全てが弱者の恐怖心を煽った。かつてのナチスの宣伝をなぞる。
ブッシュのイラク開戦の時の違和感を思い出す。
世界の良識が、ズルズルと崩壊している。
***
歯医者での会話だ。僕は言った。
扇動者は、感情に訴え、一言に断定し、全権を求める。
良識派は、論理を説明し、判断を多数の理性に委ねる。
扇動者者の発言はヒトを熱狂させ、良識派の発言はヒトを沈思させる。
テレビ時代の大衆がどちらになびくか・・・自明だろう。
***
昭和16128日。大本営発表の臨時ニュースに町が沸き返る日。
若き日の加藤周一は、人形浄瑠璃の世界に浸ったという。
すべてが滅び行くその日の始まりの暗い予感のなか。
しかし滅ぶことのない文化・芸術の極みを求めて。

 

6月26日 不寛容な時代が再び始まってしまいました

**様 僕の口癖は「躓くなら自分の判断で躓け」です。
他者の意見に躓いてはならない。一回性の人生を歩む、その決断だからです。 

投票に表明された英国人全体の意思表示に対して、あなたの意見は尊重します。

しかし僕は、やはり、歴史を逆回転させた、その政治的な意味を問いたいと考えています。
なぜなら英国人の意思表示は、すぐれた政治行動で、政治は「結果責任」で、今回の国民投票がもたらす未来に対して、その結果責任が問われる。623日は、第二次世界大戦の教訓が捨て去られた日として、記憶されるでしょうから。 


僕は1946年、戦争が終わった翌年に生まれました。戦争を知らない世代ですが、しかし戦争の何たるかを語って止まない体験者に囲まれて育った世代です。

平和と人権と他者への目配りが、社会生活の約束事と教えられた世代。

その僕にとって、当然の約束事が、文字通り一夜にして崩壊してしまったからです。

不寛容な時代が再び始まってしまいました。

 

11月6日 人は自身の卑小さを知っている

学生だった昔。大岡昇平の「野火」を読んで僕は憤りに身体が震えた
なぜ銃弾で人が死ぬのか。
宇宙をもしのぐ人を人たらしめる信念が、なぜ鉛の玉如きに砕かれるのか。
その理不尽に耐えられなかった。

塊の宇宙は自身を知らないが、人は自身の卑小さを知っている
それゆえに人はその自身を 宇宙の原初を 解き放つ身を

 

12月12日  不思議を神に託さず 数物理に託す                       

枯れ残ったクヌギ

枝越しに見上げた空は 真っ青な秋 爽秋
美しい 本当に美しいと思った
そして地球の 宇宙の神秘を思った
原子とその数物理的な機序で

クヌギが生え、清透な空が広がり、驚く僕がいる

不思議を神に託さず 数物理に託す
であれば、すべてが美しい

 

2017年

 

1月22日 啄木の歌にならって

学生時代、読んだのが夜と霧。

自由からの逃走。暗黒日記などなど

すべて過去の話だった・・・はずだった

 

人は聞きたい話しか聞かない

原発警告本も大震災前には

見る人とてなかった

予言書はすでに書店の

棚に溢れて平積みされている・・・

 

戦後70年。二世代が過ぎて

それら全てが忘れられ

ふたたび第三の戦前が始まった

この虚脱感は何か

全ては徒労だったのか

人類、知性、信頼、未来・・・

 

新しき明日の来るを信ずいふ

自分の言葉に

嘘はなけれど

 

5月28日   自費出版の日に

為すべきことを、弛まず怠らず、一つずつ果たす。
その結果にはこだわらない。人事を尽くして天命を待つ。
それが僕の信条。本ができた。その評価にはこだわらない。
百年後の評価がすべて。歴史書とは、そのようなものだ。
空の青さが素直に嬉しい。

さて、とはいえ孔子様さえ「沽(う)らん哉(かな) 沽らん哉 
我は価(あたい)を待つ者なり」といっています。
僕は僕の本の存在を世に示したい。
だから工業会に頒布協力と広告掲載を申し込みました。
僕は自費出版の形で為すべきことを為した。
今度は工業会が誠意を示すべきだと専務理事に談じました。

5月30日 ポール・ニザンの言葉

「僕は二十歳だった。それがひとの一生で一番美しい年齢などと誰にも言わせまい。
一歩足を踏み外せば、一切が若者をだめにしてしまうのだ」
学生だった僕が、胸打たれたポール・ニザンの言葉だ。
ことあるごとに
それがひとの一生で一番美しい年齢などと誰にも言わせまいと反芻していた。

試行錯誤なのだ。それが人生なのだと覚悟していた。

8月27日 ある決意の日に

今、鉄スクラップ業者一群の歴史を書きたいと思い、資料を広く捜索し、準備している。
これが、どのように仕上がるかは分からない。しかし(諦めなければ)必ずなにかができるはずだ。あてどもない、成算が見えにくい、無謀な試みだ。

生命体としての私に残された物理時間は、わずかだ。だからこそ、敢えて乗り出す。

倒れるなら前向きに倒れろ、それが古来、男のならいとされたのだから。

 

11月8日 秋風秋雨、人を愁殺す

秋雨です。秋霖というのでしょうか。
秋の冷たい雨が林を、そこにたたずむ私を、音も無くぬらす
そんな情景が浮かび上がるような言葉です。
秋になると、そして雨に逢うと
秋風秋雨、人を愁殺す・・・との中国の女性革命家
秋瑾の辞世の言葉が思い出される。
その頭韻が、秋の風と秋の雨の音の響きを響かせるからでしょうか。

赤に黄色に変色した無数の木の葉が、地に墜ちて、山路を埋め尽くす
足を運べば 緩く滑って 谷まで転げ落ちそう。
秋風秋雨、人を愁殺す・・・
そのイメージ喚起力の故に、秋を受け入れることができます。

 

12月6日 僕は僕の生き方を生きる

生きるってなんだろう、と思う。
僕は七十を過ぎた。老人なんだ。
だけど、それがどうした、というんだろう。
やりたいことと、知りたいことが山ほどある。
おとなしく引っ込んでいるわけにはいかないのだ。

 

ヒトは、どのようにして退場すればいいのだろうか。

数年前、ブランデーに意識を奪われ転倒し、救急車に搬送されたことも知らず、
数時間後、ベッド上の自分を発見した経験がある。

その間の三時間。僕はこの世にいなかった。
死とは・・・そのようなものだと知った。

 

老いとは死へのアプローチであるなどとは、断じて言わない。
老いと死は無関係なのだ。死は、絶対的な無なのだ。

問題は老いでも、死でもない。問題は如何に生きるかだ。
この瞬間を、この時間を、この一生を。

だから僕は僕の生き方を生きる。

2018年


1月20日 時を飼い慣らす

列伝を書いている。その書く意味、出版する意味を実は探しあぐねていた。
「個人的な趣味」「誰も読まない」「誰も求めていない」・・・

司馬遷だけが僕の支えだった。1000年の後の知友に遺す。
であるなら、時を飼い慣らすしかない。遅々として書く。それだけだ。

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2019年

1月5日 歌は思いを一気には言わない

照葉樹林の木々は、寒さの冬に先だって葉を落とす

枯れ葉 落ち葉 朽ち葉 腐れ葉

その移ろう葉に 移ろう思いを託した 言の葉 

「心のありようを歌に乗せる」

しかし「歌は思いを一気には言わない」一気に言えないから歌を歌う・・・しかない。
(ワカタケル。日経新聞連載14日)
それは僕も同じです。

 

2月19日 遅々として進む

とりとめも無く パソコンに向かう
とりとめも無く 日を 時を ひとつずつ消していく
とはいえ ようやく春は兆して 
いま光の春の日長の一刻

さて メジロやヒヨドリたちの餌を
用意して 背伸びして 
柱時計を確認する

急ぐ仕事ではないけれど 
とりとめも無く 遅々として
目標を定めたら 
焦らない 休まない 

遅々として進む
それが僕の流儀
あれ 僕って何歳だったけ

 

4月26日

不寛容。ヒトを責めるな。

自らの心の狭さ、思いやりのなさを 振り返れ。

ヒトは自身の鏡。その狭量こそが 自身だと。

思い至る。それが許し。寛容だと。

 

4月30日 平成の終わりの日に            

平成から令和に・・・。この違和感は何か。

何かが内部から崩れようとしている予感・・・おののき。

第二次世界大戦の終結から74年。

その惨禍を身をもって知った人々が死に絶えたあと、

その惨禍を知ろうともしない人々が、パンとサーカスに興じる

 

安部内閣、別名・・・行政官萎縮の忖度内閣

一強政権・・・実態はむしろ、党議拘束の一恐政権

第四の権力と祭り上げられたマスコミがNHKを筆頭に茶坊主を演じる

巧みに操られている・・・その不信・不審・不満は、

静かに鬱屈し、しかし覆いがたい 固い大地の底に潜むマグマのように

平成の終わりに天皇・皇后への賛歌がわき起こった

唯一、批判がタブーとされる至尊の ことにふれての発言、行動が

公然と声あげられぬ民草の癒やしとして、

また暗黙の忖度内閣への抗議として・・・隠喩的に報じられる

民主主義国家・・・日本の悲喜劇

 

5月6日 一片の想いを乗せて

無為に耐える

無策に馴染む

日常・・・茫漠とした日々

生きると言うことは 何か

 

投げられた石 やがて墜ちる定め

10数億年の いや100億年の 

その原初から共にあった 

 

風が吹いている

縹渺たる 宇宙の果てまで

風が吹き渡る 一片の想いを乗せて


(夢の続きに)

立夏の日。悪寒。発熱。夏風邪をひきはじめた

昼食後 けだるさに押されて

布団に入り 明るい窓のカーテンを引く

うつら うつら

窓を叩く風 やがて雨

夕闇が迫り 汗がにじむ

 

なにを夢見ていたのだろう

朔太郎のことだったかしら 原始宇宙だったかしら

いや 今年の約束の仕事を果たし終えたら

やりたいこと 書き遺して置きたい「群像」のこと

 

いまようやく材料が揃った

あとはこれをどう配列し どう劇的に盛り上げるか

手本は・・・やはり司馬遼太郎 坂の上の雲

多彩な登場人物に どう語らせるかだ

9月29日 真青に輝く高い空の 白い雲の行方に

高校時代のひそかに畏友としていた男が死んだ
その通夜の知らせを
50
数年ぶりに やはり親しかった女友に伝えた
明らかに・・・戸惑っていた
足腰が弱っている、との言い訳から始まった。
ヒトはそのようにして別離する。
死別と生別と
葬儀は家族・親類だけがひっそりと執り行った。
そして友人は僕ひとり。


友の旅立ちが寂しいというのではない。
「在日」の彼には、そして帰化したか、どうかは聞けなかったけれど、 そのような旅立ちしか、彼には許されてはいなかったのかもしれないとの感慨が胸を塞いだ。
秋と呼ぶには、暑さなお盛りの2019926
僕は真青に輝く高い空の その白い雲の行方を眺めていた。


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対外的発信(hp)の記録

 

2016年

3月9日  
NHK報道と料金不払い、国民の抵抗権として(通知済み) 

1 事実関係

1 2014125日、籾井会長は「政府が右というものを左とは言えない」と記者会見で発言した。「御用報道」は国民の知る権利を危うくする。その発言を知った直後の126日、私は直ちにNHKに抗議の電話を入れ、籾井会長の引責辞任を求め、それが実現されるまでは、抗議の形として料金不払いを通告し、直ちに銀行引き落としを停止した。

2 その後、NHKの集金人が自宅に料金徴収に来たが、これは抗議運動であると説明し、支払いを拒否した。そのような自宅訪問徴収と請求書類送付が途切れることなく続いた。

3 本年(16年)36日、NHKの料金徴収員が来た。抗議の意思表示だと説明すると「それと料金支払いは別だ」と言う。拒否すれば、しかるべき措置を執ると言う。

 

2 抵抗権としての不払い

1 いま、籾井会長とNHKの報道姿勢に多くの疑義と懸念が表明されている。

(NHK籾井会長の発言「放送法に反する」早大・上村氏http://www.asahi.com/articles/ASH2V625NH2VUCVL019.html

NHKの籾井勝人会長の就任記者会見での発言に対し、全国のNHKの退職者有志が辞任勧告

http://news.livedoor.com/article/detail/9170145/

3,970筆の賛同者名簿&コメント、NHKに提出

http://obseimei.sakura.ne.jp/yobikake_tuusin.html


2 憲法で保障する国民の知る権利は、各種の報道の自由に依拠する。そのため放送法は、第1条で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保する。放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資する」と定める。上記の多くの疑念と異議申し立ては、NHKが放送法を逸脱していることの傍証である。また民法的には放送法に従った報道こそが、放送者の責務であり、誠実な遂行の報酬として、視聴者は料金負担を負う、一種の双務契約である。


3 NHKは料金の不払い者に対し法的措置を執ることも可能と言う。が、それは自らの責務(放送法の誠実な実行)を果たした場合の話である。信義誠実の法理に照らし、自らの責務を放棄した者(NHK)に、その資格はなく、法はその不実に手を貸してはならない。


4 問題は不払いではない(籾井発言以前、私は料金責任を果たした)。圧倒的強者の不法に対して、制度的弱者にどのような異議申し立てが残されているか。これは民法問題であると同時に、優れて国民の権利義務に係わる憲法問題(国民の抵抗権)である。


5 憲法は国民の知る権利を保障する。その権利を支える放送が責務を放棄した時、国民の知る権利を確保するため、放送(NHK)にその是正を求め、抗議運動を起こすのは、市民が果たすべき憲法上の責務である。その形として武力・威嚇によらず、私は経済的な対抗措置を採った。これはインドのガンジー以来の「弱者の闘い」に則ったもの。退くわけにはいかない。

 

2017年

2月9日  (NHK御中)

前略

私は一市民として、公共放送を預かるNHKの報道のありように極めて深刻な疑念と危機感を抱き、先に抗議文とその抗議の実効性を高める手段として、「不買」(料金支払いの停止)の通告をした(1639日)。その間にNHK関係者からは一片の事情説明もなく、不当な瑕疵商品(「政府が右というものを左とは言えない」)の対価の請求書類だけを送り続けてきた。
その対応はビジネスとしては失格、公共事業従事者としては傲岸不遜である。

 

ビジネスとしては失格というのは、お客様の「文句」こそ宝物。クレイマーの意見こそ、商品開発の好機、次のニーズ発掘の提案だとの商売の常識に反するからであり、公共事業従事者としては傲岸不遜だというのは、法令文書を盾にとって、「最後は訴えるぞ」との脅すのは、一般市民に対する恫喝そのものと考えるからである(ケンカはいつでもできる。
大事なのは理解を求める「努力」なのだ)。売った。だから金を払え、ではない。

売った商品に瑕疵がある。だから請求権は発生しない。
裁判はゲームだ。ゲームにはゲーム特有の論理がある。

そのゲームにNHKが客を引っ張りこもうとする。これを傲岸不遜という。


 ただ今回、NHKが籾井氏の再任を認めず、「公共放送としてどうしても譲れないのは、自主自立の立場から公平・公正、不偏不党の立場を貫く」との就任会見を行った新会長を、自らの決断で選任したことには敬意を表する。
従って別紙の通り、私には17125日から料金支払いを開始する用意がある。

 

別紙

初めに=NHKの常勤経営委員だった上田良一氏が17125日、NHKの新会長に就いた。上田氏は同日の就任記者会見で「公共放送としてどうしても譲れないのは、自主自立の立場から公平・公正、不偏不党の立場を貫くこと」と語ったという(125日・日経)。
私は自らの良心に従い、また国民としての抵抗権によって、その間の料金不払いを宣言し、実行した。以来3年経った。NHK内部での籾井氏の評価は知らない。

しかし今回、籾井氏の会長職の再任を認めなかったことには、敬意を表する。
また権力の監視機関として「自主自立の立場から公平・公正、不偏不党の立場を貫く」報道の確立とその(市民の側からする)擁護は、フェイク(ウソ)ニュースと「ポスト・トゥルース」(真実は二の次)が蔓延する今、現在、最も緊急を要する課題だと信じる。


そのため、私は17125日から料金支払いを開始する用意がある。

ただ籾井氏が会長に在職し、私がNHKに料金の支払い停止を通知した14126日以降、17125日までの支払いは、下記の理由により拒否する。

 

理由

1 14126日~17125日までの責務(自主自立の立場から公平・公正、不偏不党の立場を貫く報道)の放棄は、報道義務の不履行であり、請求権は発生しない。
これを断固拒否するのは「自主自立の立場から公平・公正、不偏不党の」報道を求める国民の権利であり、その報道の放棄への抵抗の証である。

2 また遡及的に支払うことは、重大な義務違反が、何らの経済的損失を被ることなく遂行できるとの、悪しき前例をNHKの経営幹部に残すこととなる。

 

7月10日 トランプ状況にもの申す(*hp掲載)

トランプ状況にもの申す 市民として | STEEL STORY JAPAN


我々は民主主義の制度的な欠陥に直面している。権力は腐敗し、人は誤りある動物だから、権力を分散し、投票多数で選出する。一定の資格さえあれば、無条件で立候補でき、投票結果にすべてが従う掟だからどのような異常者が当選しても制度的には排除できない。

それがドイツではヒットラーを総統に押し立て、アメリカでトランプを大統領に仕立てた。

ロシアの最高機密レベルのハッカー集団の行動が、米国大統領選挙を支配したのではない。

コップから水が溢れるのは、誰かが揺さぶったからではないのと同じ。

揺さぶれば、溢れるほどの「情念」が国内に沈殿していた。

それこそがトランプを大統領に押し上げたのだ。

他者を排除し、自らの居場所を固守する。不寛容、想像力の遮断、レッテル貼り、終わった話ではない。かつてのナチス時代の狂気が、今世界を再び包み込もうとしている。

漠然とした不安ではない。明白な危機として迫っている。

権力者がその強権の自制と他者への想像力の一切を唾棄し、弱者の尊厳を足蹴にするとき、我々は、果たして如何にすべきか、だ。弱者の寛容と忍耐など、オオカミを前にした臆病なキツネの保身よりも、なお無意味だとは言うまい。法をもって法を制する。

ルールを徹底的に利用し、主張し、毅然として立ち、屈しない。
暴力を使えば暴力に屈する。驕慢を罵倒すれば、自らの誇りを失う。
なぜそう言うのか。狭く苦しい道だが、しかし、それにしか未来に通じる回路がないからだ。歴史なのだ。長い時間軸で見れば、強者が強者であった時間も、弱者が弱者であった時間もいずれも短い。明日を信じる。屈しなければ、負けはないのだから。

2020年

1月22日 安部政権へ異議申し立て (*hp掲載)

安部政権へ異議申し立て-暗い夜だが、権利の上に眠ってはならない | STEEL STORY JAPAN


これはマーケット分析ではない。この一文は日常をとりまく世界の分析である。
沈黙は、投票多数当選制度にアグラをかく権力者への無言の支持にほかならないからだ。
であれば、ネット時代の現在、明確な意見表明こそは、投票制度下の市民の義務である。
***

私は「トランプ状況にもの申す」なる一文を書いた。「我々は民主主義の制度的な欠陥に直面している(中略)。権力者がその強権の自制と他者への想像力の一切を唾棄し、弱者の尊厳を足蹴にするとき、我々は、果たして如何にすべきか、だ。弱者の寛容と忍耐など、オオカミを前にした臆病なキツネの保身よりも、なお無意味だとは言うまい。長い時間軸で見れば、強者が強者であった時間も、弱者が弱者であった時間もいずれも短い。明日を信じる。屈しなければ、負けはないのだから」(hp掲載は17710日)。

足元の日本では、この間に、安部首相とその妻、周辺の者たちの権力の私物化、高級官僚たちの職業人としての最低限の規律さえ放棄するすさまじい劣化が進行した。学生だった私は、官僚の本質は文書管理による組織統制であり、王朝支配下の官僚(家産官僚)は独裁者の、民主政治下の近代官僚は主権者である国民の、奉仕者であると学んだ。 
しかし、今、私が目にしているのは、文書管理を徹底的に踏みにじり、一握りの権力者にひたすら奉仕する、あさましいばかりの無残な高級「官僚」たちの姿である。権力は腐敗する。批判、反対を許さず、聴き入れない絶対権力は絶対的に腐敗する。

権力の腐敗は、それが権力である限りは、「たった一人の独断者」からは生まれない。腐敗は組織から起こる。その組織とは、世界の一員、歴史の住人意識をもたないままに現在と利害得喪に固執する政党・政治組織であり、自身の保身と出世栄達のために「国民の奉仕者である」との本義を振り捨てた高級官僚組織であり、読者・視聴者獲得のため大衆迎合に走った世に第4の権力とさえ言われた新聞、TVなどマスコミたちである。

毎日新聞夕刊(20122日)に藤原辰史氏の「暗くとも明けない夜はない」とのコラムが掲載された。彼は状況を「時代は醜悪で、暗い」と切り取る。

「醜悪な権力者が統治する醜悪な時代を生きていると、ずっと暗い時代が続くだろうと信じてしまう」。(中略)「でも明けない夜はない。たとえ弱くとも、私たちは灯籠の火をともし続けなければならない」と訴える。この一文に既視感があった。

戦没学生の手記、「きけけわだつみのこえ」だ。記憶は不確かだが「友よ、長い長い夜だった、星の見えにくい夜ばかりだったと言い交わせる日もあろうか」。絶望はすまい。明日を待とうとの切ない願望が・・・胸を打った。

フランス革命を起源の一つに持つ近代憲法は、国家による市民弾圧の抵抗から生まれた。従って憲法の本質は、国家権力からの市民・国民の自由と権利擁護。権力・独裁を制約することにある。市民権とは、与えられた権利ではない。国家から勝ち取った権利なのだ。

「権利の上に眠るものは、保護に値せず」との格言がある。そうなのだ。暗い夜を、権利の上に、眠ってはならない。それは市民として、我々が果たすべき歴史的な責務なのだ。
たしかに醜悪で暗い夜だが、しかし沈黙し、権利の上に眠ってはならない。


10月26日 今、市民として、何を守り、何を言うべきか(*hp掲載)
今、市民として、何を守り、何を言うべきか | STEEL STORY JAPAN

 

以下の文は2003年3月、イラク戦争直後に英国にいた娘に送った一文である。日本の為政者が国民から負託された権力を濫用し、官僚が公文書の破棄・改竄・隠蔽に走る現在、私はジャーナリストの端くれとして、このような一文をネットに公開し、私なりの意見表明とする。

 

ブッシュのイラク戦争と日本人の立ち位置 (原題は「憂鬱な日々です」(2003年3月3日)

ほとんど無意味な戦争のためにイラクでは数千・数万人の人々が死んでいく。

その死に加担した国家の国民の一人として生きざるをえない。

 

憂鬱な理由は、今この時点でイラクを攻撃するなんの大義も、名目も存在しないこと。

01・9・11の「同時テロ」の恐怖心が、アメリカをして猜疑心の塊とし、冷静な検証抜きの攻撃に駆り立て、今では、はやらないインデアン狩り映画の騎兵隊の論理が、国際社会の現実として公然とまかり通っている現実を認めざるをえないということ。

それは、番長ににらまれたら、かれのプライドを傷つけたらどんな仕返しが、待ち構えているか。それが怖くって、番長の指示に唯唯として従っている、気の弱い生徒・児童さながらの世界。しかもそれがいま目の前で繰りひろげられている。

 

それが国際世界の現実。なぜ、アメリカで近年インデアン狩り映画がはやらないのか。
それは公民権法以後のアメリカでは、インデアンは「ネイティブアメリカン」(先住アメリカ人)として、「狩り」の対象ではなくなったから。ひとりの独立した人格を持つ人間だ、との社会的意識が広がったから。

では、なぜそのアメリカが、国内でもはやらない西部劇さながらの「復讐劇」を敢行するのか。それが論理の単純化。「悪の手先」と決め付ければ、それ以上想像力を巡らすことは無い(かってインデアン狩りがそうでした)。思考の停止。

 

イラクが「9・11」に関与したとの事実関係は証明されていない。正義の実現。それが禁酒法以来のアメリカの伝統なのです。アルコールがそうであったように存在すること自体が悪。だから、この瞬間に地上から抹殺する。

そのアメリカの論理は、安保理でも、国際社会でも多数を説得することができなかった。
つまるところ、イラクの、無辜の市民を殺す論理は正当化されない。たとえ、フセインが長距離ミサイルを持ち、生物化学兵器を隠し持っていたにせよ(それならロシアだって、フランスだって、北朝鮮だって持っている)、だからといって、国連のルールを破って、自国の判断だけで攻め殺していいという理屈にはならない。

 

強者が口に出せないほどの恐怖心に駆られたとき、パニックから過剰なまでの攻撃に出てくる。病理学の初歩がそこにある。ではなぜ、国際社会はアメリカの短慮・暴挙を止められないのか。なぜ、日本は異議の唱えないのか。

 

日本も、国際社会も、本当のところアメリカが怖いのだ。その怖さは、番長ににらまれる怖さ。番長の存在意義とは、喧嘩相手の番長を押さえることにつきる。相手方の番町の暴力から守ってやる。庇護を与えてやる。彼の暴力はその関係で正当化される。とすれば、彼の暴力に異議を挟むのは「論理矛盾である」(だから、これが日本政府の公式見解)。

 

日本は何をなすべきだったのか。山本夏彦の辛口のコメントに、たしか「平和な時の反戦論」という一文があった。中身は忘れたが、安全な高みに身を置いて、反戦を説く、その軽佻さを嘲笑したもの。言うなら戦時において反戦を言え。
日本は北朝鮮という将に「地政学的リスク」に隣りしている。そのなかで、正気を失ったアメリカに何を言うのか。首相として、国民の生命・身体・財産を守るべき最終責任者として、どのような発言を発すべきだったのか。

自問自答しています。たまらなく憂鬱です。

 

では、日本は守るべき何があるのか。日本は国是としてアメリカのようには、国民・市民の安全を守っては来なかった(阪神大震災の時の国家行動)。しかし、対外的には、「非戦」憲法を持ち、非侵略国家との認知を得ていた。であれば、たとえ選択の幅は狭く・苦しくとも、国家のプライドを賭け、アメリカに、世界になにごとかの発言をなすべきだったのではないか。とは言え、では、頭に血の昇ったまま、まともな判断もつかないようなアメリカに対し、どのような発言が可能だったのか。

 

昔、ベトナム戦争のとき、上院院内総務だった民主党のマンスフィールド氏の発言を思い出す。それは同じ民主党選出の大統領の判断に痛烈果敢に異を唱えるものだったが、彼はそれを「高次の愛国心」として、臆するところがなかった。

ヒトは、その人として生きなければならない。他人の生を生きることはできない。国家もまた同じい。日本は日本としていきなければならない。日本はアメリカに代わってアメリカの生をいきることはできない。では組織としての日本は、どう生きるべきか。

 

そう考えれば、日本に与えられた選択の幅はまことに狭い。
再び、しかし、ほとんど無意味な戦争のためにイラクでは数千・数万人の人々が死んでいく。その死に加担する論理に組することはできない。

憂鬱です。背後にアイクチを突きつけられながら、非戦の論理を説く。
しかし、それなくしてアメリカに加担すれば、戦後50年の日本の「国是」は、山本夏彦の指摘するとおり、文字通り「平和な時の反戦論」として、世界の笑いモノになってしまう。

 

敢えて、国民に、つまりは世界に、日本としての信を問う、という選択もあったのではないか。アイクチが背後にあろうと、番長の威を借りないという度胸があっても良かったのではないか。危険(リスク)をとらないというのが、実は最大の危険かもしれない(今回の日本のアメリカ追従によって日本の国際社会における「独自性」は消滅した)。

 

これは美学だろうか。空理空論だろうか。しかし、人生においてやせ我慢が必要な時が必ずあるように、国家においても、他者の支援のない選択を歩まなければならないときがある。

今がその時なのだ。日本がとった行動(いや、信ずべき何物もないかのようになんらの行動もとらなかった日本、日本人の一員であることが)たまらなく、恥ずかしかったのです。

 

しかし、では、実際には、どのような選択が、そのとき日本に許されていたのか。

日本が、アメリカの行動に異議を挟めば、アメリカは北朝鮮からの日本の防衛から手を引くだろう。それが小泉のアメリカ追従の論理である。日本が異議を挟むのであれば、アメリカの庇護によらない、独自の防衛力の強化(眼には眼を。核には核を)が論理的必然となる。

しかし、超大国以外の核保有を断固認めないのが、アメリカの一貫した防衛政策である。また戦争犯罪者を国土防衛の神(靖国神社問題)として、時の総理大臣が(他国の批判をものともせず)敬い、頭を垂れる。その日本がアメリカの傘を離れ、独自の防衛路線を走る。アジア周辺国に無用の軍拡競争を引き起こす恐れすらでてくる(対外貿易のトップとNO2はアメリカと中国である。経済的にも耐えられないだろう)。

 

日本は歴代自民党政権が戦後責任を回避し続けてきた負の歴史がある。ドイツと違い独自防衛の主張は、アジア周辺国の猜疑心と警戒感を呼び起こすだけだろう。

では、日本には、どのような選択があるのか。1945年。極東で15年、欧州で6年におよぶ悲惨な戦争が終わった時、人類がだした結論のひとつが「国連」であり、そのひとつが「日本国憲法」だった。国連憲章は「いかなる紛争も」「安保理」の決議を必要とし、日本国憲法は「政府の行為によって戦争の惨禍が起こることのないように決意し」「国家の名誉をかけて」この目的を達成することを誓った。

戦後日本の国是は、従って国際(国連)協調と憲法擁護――だった、はずだ。

 

アメリカの朝鮮政策の変更から、憲法擁護の柱は早々とはずされたが、それでも、国連を中心とした国際協調路線は守られてきた。その国連憲章をアメリカが踏みにじった(だからダナン国連事務総長はアメリカを非難し、ロシアやフランスは、アメリカの行動を国連憲章違反として問題視する)。あらゆる政治手法は、つまるところ手続きに帰着する(したがって権力の暴走に歯止めシステムを組み込む民主主義が手続きとして最も煩雑となる)。

その手続きを嫌う権力の行使を許してはならない。

その先棒を担いではならない。日本には、どのような選択があるか。

まことに重く狭く苦しい選択だが、日本が将来において国際社会で名誉ある地位を占めたいと考えるなら、その論理に徹する他はない、と考える。   

私は戦後生まれのものですから、歴史を持ち出されたら困ります

 

11月7日  「私は戦後生まれのものですから、歴史を持ちだされたら困ります」 私は戦後生まれのものですから、歴史を持ち出されたら困ります | STEEL STORY JAPAN


「私は戦後生まれのものですから、歴史を持ちだされたら困ります」。

沖縄が戦後歩んだ戦中戦後の苦難の経過をこう突き放した菅義偉氏が首相に就いた。

5年前の2015年、辺野古移設を巡る翁長雄志前知事との非公開の協議のなかで発せられた言葉だ(201027日、毎日新聞夕刊、一面記事より)。

 

ショックだった。戦後生まれで、自身が関与していないことを理由に、一国の政治リーダーが、自身が生まれる前に行われた国家による行為――歴史的事実に基づく対話を拒んだ。

辺野古移設を巡る県知事との協議の場で、非公開とは言え、苦難の経緯、歴史的事実を、自身の誕生以前のこととして困惑を示すのは、政治家としては不誠実極まりない。協議は、一個人・菅を相手としたものではない。官房長官・菅に、国家の対策を求めたものだ。

 

 私は、その瞬間、ナチスの戦争責任を語ったドイツ大統領の演説を思い出していた。

「今日の大部分は当時子どもだったか、まだ生まれてもいなかった。自分が手を下してはいない行為に自らの罪を告白することはできない。しかし先人が残した遺産は、罪の有無、老幼いずれを問わず、全員が過去を引き受けねばならない。全員が過去に対する責任を負わされている。過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」。ドイツ敗戦40年にあたり時のドイツのワイツゼッカー大統領が行った余りに有名な演説の一節だ。

 

日本学術会議が推薦した105人のうち6人の任命が、菅首相によって拒否された。

菅首相による任命拒否の理由は明らかではないが、見直しの必要を強調するなかで「10億円の税金を使っている」との指摘に、私は、彼の大衆操作のしたたかさを感じる。

「思想信条の自由が脅かされる」との学術会議側に真っ向から反論するのではなく、ゼニカネの問題に落とし込む。庶民にとって10億円は大金である。その金を渡しているから口を出すのは当然だとの論法だ。そう。理屈より、国民にはまずゼニカネを言う。

 

菅は6人の任命拒否の「正当な」理由を示すことなく、その排除を既成事実とした。

権力者が、なんらまっとうな理由を示すことなく、国家権力を行使する。

私たちはまだ生まれていなかったが、これはまさしく、戦前の治安維持法と特別高等警察(特高)の世界。今、私たちはその世界の前に立たされている。

その背を押すのが、歴史を持ち出されたら困るという菅首相であるのは当然だ。
なぜなら先に引用した「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」に続くのが「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすい」のだから。

 

では私は何をなすべきか。

私は今年122日「安部政権へ異議申し立て―-暗い夜だが、権利の上に眠ってはならないとのコラムを、「この一文は日常をとりまく世界の分析である。沈黙は、投票多数当選制度にアグラをかく権力者への無言の支持にほかならないからだ。であれば、ネット時代の現在、明確な意見表明こそは、投票制度下の市民の義務である」との前書きと共に「安部政権へ異議申し立て」を掲載した(本コラムの20122日文をご覧ください)。

 

その結語として

「フランス革命を起源の一つに持つ近代憲法は、国家による市民弾圧の抵抗から生まれた。従って憲法の本質は、国家権力からの市民・国民の自由と権利擁護。権力・独裁を制約することにある。市民権とは、与えられた権利ではない。国家から勝ち取った権利なのだ。
『権利の上に眠るものは、保護に値せず』との格言がある。暗い夜を、権利の上に、眠ってはならない。それは市民として、我々が果たすべき歴史的な責務なのだ。たしかに醜悪で暗い夜だが、しかし沈黙し、権利の上に眠ってはならない」と記した。

 

 実は、その権利行使のため、私は今年(20年)9月旧来のhpを全面更新し、コラム(意見表明)欄を充実させた新hpを立ち上げた。

 その時、決めた信条は以下の通り。

 

1 集団組織である右にも左にも組みしない(昔からそうでした)。

2 一人の自律した人間として判断し、発言する。

3 すべて実名で発言する。匿名では発信しない。

4 また他人の言葉では語らない(従って、リ・ツイートはしない)。

5 先人たちの歩みを受け継ぐ、よき後継者・市民として発言し、行動する。以上

 

2021年

1月8日 一政権の問題ではない、我われ自身の次世代に手渡す国家選択の問題だ一政権の問題ではない、我われ自身の次世代に手渡す国家選択の問題なのだ | STEEL STORY JAPAN


1945年8月に長い戦争は終わった。

ヒトは30歳前後で複数の子をもうけ、世代交代するとすれば、

1945年生まれが戦後の第一世代。

戦争のもつ悲惨さ、むごたらしさを絵空事でしかしらない。

1975年生まれが第二世代。

成長する産業の活力と国家を建設する喜びをしらない。

2005年生まれが第三世代。

ヒトの生きる「理念・信条」、その愚直さの力をしらない。

 ****

日本では安倍晋三の7年、菅義偉の1年。計8年に及ぶ政権運営のなかで、

それまでは、ともかくも、かろうじて守られてきた制度的な約束事が破られ、

地に投げ捨てられた。日本は再び戦前の警察・治安維持国家に戻りつつある。

 ****

警察・治安維持国家の恐ろしさと戦争の惨禍を最も知っていたのは、

その30年前。1915年生まれの者たちだった。

彼らは1930年(昭和5)の日中戦争から45年の終戦までの15年間、

第一線に立つ国民として徴兵され、戦場に駆り出され、辛くも生き残った者たちだ。

その彼らの記憶と自制心が、戦後の第一世代と第二世代の生命と暮らしを守った。

 ****

ではなぜ、日本は戦争に突入したのか。

多様な国民の意見を、国家が強権をもって排除したからである。

時の政権への反対意見の封殺。それが治安維持法を根拠とする憲兵・警察国家だった。

その実態を見たければ、中国の香港支配法である「国家安全法」を見ればいい。

 

歴史は繰り返す。

地ならしは、純粋な憲法解釈である「天皇機関説」への攻撃(1935年)から始まった。

国家が美濃部を見せしめとして、貴族院から追放した。

いま、我われが目にしている「日本学術会議」の委員排除問題は、

国家権力による見せしめとして、令和版公的発言の場からの追放である。

 

美濃部の公職追放に喝采した国民的熱狂が、大政翼賛を呼び、日米開戦の道を開いた。

歴史家が菅首相の「学術会議」の委員排除を、なぜ重大問題とし、危険だと叫ぶのか。

歴史は繰り返すからだ。しかし、いまなら引き返せる。

 

いま問われているのは第二世代であり、第三世代の責任である。

一政権の問題ではない、我われ自身の、次世代に手渡す国家選択の問題なのだ。

 

6月12日 上を向いて歩こう(*hp掲載)

上を向いて歩こう | STEEL STORY JAPAN


哀しみが澱(おり)のように溜まっていく。

今日の私はすこし鬱(うつ)。

この日本。私の生きたこの国。その若者たち。

19年に行われた「18歳の意識調査」の現実に 打ちのめされた。

 ****

 日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ (nippon-foundation.or.jp)

:「国や社会に対する意識」(9カ国調査)各国1,000人に聞く (2019.11.30

 

「日本財団は20199月下旬から10月上旬にかけた20回目の「18歳意識調査」で、インド、インドネシア、韓国、ベトナム、中国、イギリス、アメリカ、ドイツと日本の1719歳各1,000人を対象に国や社会に対する意識を聞きました。

 

この結果、「自分を大人」、「責任ある社会の一員」と考える日本の若者は約3040%と他国の3分の1から半数近くにとどまり、「将来の夢を持っている」、「国に解決したい社会課題がある」との回答も他国に比べ30%近く低い数字となっています。

 

さらに「自分で国や社会を変えられると思う」人は5人に1人、残る8カ国で最も低い韓国の半数以下にとどまり、国の将来像に関しても「良くなる」という答えはトップの中国(96.2%)の10分の1。全体に途上国、欧米先進国のいずれと比べても数字の低さが際立つ調査結果となっています」(以上㏋説明・引用)。

 ****

 「自分を大人」「責任ある社会の一員」だとも思わない。「将来の夢を持っている」「国に解決したい社会課題がある」とも「自分で国や社会を変えられる」とも思わない若者。

 

光り輝く(はずの)18歳の、その内心の暗さに、私は呆然と天を仰ぐ。

その私が発することができるのは、今はただ、感傷的なポエジーの断片。

論理を飛躍した、言葉のあれこれに浮遊する思いを吐き散らすことだけ。

 

私が18歳だった時。

坂本九の上を向いて歩こうの歌が大流行していた。

が、私はその明るさに、不思議な違和感を覚えていた。

謎が解けたのは、はるか五十数年後。

60年安保闘争のデモさ中、

22年の生を失った樺美智子さんを悼んだ永六輔の鎮魂の詩だと知った。

「涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜」

 

60年代、そして70年代。

戦中、戦後の早い時代に生を受けた私たち(の一部)は、「怒れる若者たち」だった。

安保闘争。全共闘、学園紛争。そのスローガンは「異議申し立て」「反権力」だった。

「自分を大人」「責任ある社会の一員」だと思い。「将来の夢を持っている」「国に解決したい社会課題がある」とも「自分で国や社会を変えられる」と信じていた(はずだ)。

 

21世紀。その早い時代に生を受けた18歳の若者は、半世紀前の日本の若者とも、

戦後の日本がありうべき国家、市民とした米国や英国の現在の若者とも、

最先端のIT、電子技術を駆使して一党独裁体制の永続化を図る中国の若者とも、

・・・インドやインドネシアなど世界の若者とも・・・大きく違った。

 

この事実をどう受け止めるべきか。

国政を預かる日本の為政者たちの無為・無策・無能は世界に知れ渡った(コロナ敗戦)。

しかし、それ(無為・無策・無能)が、一般国民・市民に広く知れ渡っているのか。

そのような為政者たちを選び、現在なお、その職に留めているのは、一体誰なのか。

 

仰いで天に恥じるのは・・・私達である。

そう。だから哀しみが澱(おり)のように溜まっていく。

その私が発することができるのは、今はただ、感傷的なポエジーの断片。

論理を飛躍した、言葉のあれこれに浮遊する思いを吐き散らすことだけ。

今日の私はすこし鬱。

ならば、私も永六輔のひそみに倣(なら)って
上を向いて歩こう

 

7月23日 東京でオリンピックの開会式がおこなわれた(*hp掲載)

東京でオリンピックの開会式がおこなわれた | STEEL STORY JAPAN


2020年723日夜8時 東京でオリンピックの開会式がおこなわれた。

コロナ感染再拡大のニュース報道のあと テレビ中継が始まった。

柱時計のくぐもった打音を合図に 私はひとり自室に向った。

 

一般市民の誰一人 観客席で応援することも 歓声をあげることもできない

しかしチャンネル権をもつ全世界の誰でもが 自由に見ることができる

ハイテク時代の現代の、完全かつバーチャルな祝祭と饗宴・・・

中止の議論はいつしか消え 有観客がいつの間にか無観客に変わった

なんらの説明も、まっとうな議論もないままに、すべてが密室で決まった。

五輪招致に係わった関係者、運営責任者たち・・・その辞任、解任が相次ぎ

マリオ演出で東京参加を呼び掛けた前首相も なぜか式典の出席は見送った

どうせおどけるのなら 最後のさいごまでおどけて嗤わせて欲しかったものを。

 

1941年128日 早朝からラジオは日米開戦の電撃勝利をうたった。

第一次大戦以来、戦争はもはや戦術戦ではなく「総合国力」・戦略戦となっていた。

総合力でとうてい勝てる相手ではなかった。始めてしまえば滅びるしかない戦争。

だからこそ、避けられたかもしれない開戦。しかし誰も止められなかった。

日露戦争の勝利体験が 軍人と官僚の専権を呼び込み 反対論を封じ込めた

そうしていったん決まったスケジュール(開戦)が変更されることはなかった。

 

しかし それは昔のことなのだろうか。

古人なら、それを「今は昔のものがたり・・・」として語りだすだろう。

そう、今は昔。なのだ。であれば、昔を今に考える必要がある。

それが歴史を知る意味なのだ。
「私は戦後生まれのものですから、歴史を持ちだされたら困ります」
などと言ってはならないのだ。 STEEL STORY JAPAN

 

とはいえ何が正解か分からない。

だからこそ、検証可能な議論(記録)が必要なのだ。

今、私はそう考えている。正解はない。しかし考えたい。

なぜなら政治は世襲政治家のものではなく、
一人ひとりの市民・国民のものなのだからだ。

 

8月21日 詩の力を改めて実感した(*hp掲載)

詩の力を改めて実感した | STEEL STORY JAPAN


一節の詩が、ヒトの心を動かし、癒し、励まし、時代をつなぐ。

そのような詩(歌)の力を改めて実感した。

作詞家・詩人の阿久悠が88年夏の甲子園大会。8回裏の降雨コールドで敗退した岩手代表・県立高田高のチームに「きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある。そして/青空と太陽の貸しもある…」とその無念と健闘をたたえた詩だ。

 

詩はヒトの心を打ち、時代をつなぐ。

32年後。夏の甲子園大会が中止となった2020年のコロナの夏。

毎日新聞の「余禄」は阿久悠の「甲子園の詩」を引用し、全国の高校球児がわかち合うことになった『甲子園への貸し』」があると、その思いを、改めて引き取った。

 

さらにその1年後の2021年夏。温暖化の現象からか、夏の大会は雨天順延、降雨ノーゲームやコールドが相次ぎ、817日東海大菅生(西東京)が、47と大阪桐蔭を3点差で追う八回表、チャンスを作りながら無情の降雨コールドで敗れた。

 

新聞は社会面の横見出しできみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある…」(毎日新聞2021 年8月21日・夕刊)と大きく伝え、その詩の全文を掲載した。

こうして33年前の詩と記憶がよみがえり、ヒトは癒され、励まされる。

だから私は詩の力を信じる。時代を超えるヒトの心の奥深さを信じる。

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余禄:「きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある…」毎日新聞 2020/6/11
「きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある/そして/青空と太陽の貸しもある」。作詞家・詩人の阿久悠(あくゆう)さんがスポーツニッポン連載の「甲子園の詩」にこう記したのは、1988年8月11日のことだった▲「きみたち」とは岩手代表・県立高田高チームである。前の日の兵庫代表・滝川第二高との試合は、八回裏の滝川二の攻撃中に大雨でコールドゲームとなる。3対9。高田は九回の攻撃を残して56年ぶりの降雨コールド負けとなった▲嘆くべき「不運」ではない、胸を張っての「貸し」だよ、という阿久さんのエールであろう。この詩は同校で石碑に刻まれ、3・11の津波にも残った。そして今年、全国の高校球児がわかち合うことになった「甲子園への貸し」である▲1イニングどころか、甲子園にかけた夢のすべてをコロナ禍に奪われた今季の球児たちである。その「甲子園への貸し」を、わずかなりとも返せればいい。▲春のセンバツ出場校による交流試合が8月の甲子園で行われることになった。すべての球児の胸に刻まれる2020年夏の甲子園を見たい。

 

毎日新聞(21年8/21・夕刊)「きみたちは/甲子園に一イニングの貸しがある…」
雨に翻弄される今年の夏の甲子園。順延は過去最多の7度に達し、17日には東海大菅生(西東京)が、47と大阪桐蔭を3点差で追う八回表、チャンスを作りながら無情の降雨コールドで敗れた。33年前、同じ経験をしながら「きみたちは甲子園に一イニングの貸しがある」と励ます詩に救われたチームがある。岩手県立高田高校。当時のメンバーは今、「その悔しさを次の目標への力に変えて」と東海大菅生ナインにエールを送る(略)。
1988年夏、初出場の高田は1回戦で滝川二(兵庫)と対戦。3―9で負けていた八回裏に雨脚が強まり、試合終了が告げられた。翌日、作詞家の阿久悠がスポーツニッポン連載の「甲子園の詩」のなかの「コールドゲーム」との標題でこう歌った。

夢にまで見た甲子園は
ユニホームを重くする雨と
足にからみつく泥と
白く煙るスコアボードと
そして
あと一回を残した無念と
挫(くじ)けなかった心の自負と
でも やっぱり
甲子園はそこにあったという思いと
多くのものをしみこませて終った
高田高の諸君
きみたちは
甲子園に一イニングの貸しがある
そして
青空と太陽の貸しもある

*****
1988
年8月11日のことだった。8回裏。ファウルを打った相手打者のバットがすっぽ抜けて一塁線に飛んだ。審判は試合の中断を告げる。雨脚は強くなる一方だった。11分後。グラウンドに主審が出てきて、右手を高々と上げた。9対3。56年ぶりの降雨コールドだった。試合終了のサイレンは鳴らず、滝川第二高校の校歌斉唱もなかった。

2011311日。岩手県陸前高田市に立つ県立高田高校の校舎3階までをのみこんだ大津波に、石碑は耐えた。以来、高田高校は甲子園の土を踏んでいない。


10月6日  「日本鉄スクラップ 鉄鋼と業者140年史」の後記(編集を了えて)として

私は2018年に「近現代日本の鉄スクラップ業者列伝」を発刊し、「後記」に発刊に至る流れを記した。そのなかで敢えて在日コリアンを取り上げる動機を付け加えた。

「在日コリアンが多い大阪の高校に通ったから、それと知らず友人になり、その出自を打ち明けられた。大学は違ったが理工系の国立大学を卒業した彼には、それに相応しい就職先が見当たらなかった。なら僕の会社に来るか。彼は半年ほど鉄スクラップ担当記者として在籍したが、ある日、辞めた。理由は聞かなかったが、想像はついた。以来、私の目標は固まった。

鉄くず(当時はそう呼んでいた)に関する歴史を書く。また在日コリアンと鉄屑業の関係を明らかにする。そのため関係資料をはば広く集め、整理、分析する。その目標に従って、古本屋に通い戦前の出版物、パンフレットの類いを捜索した」

 

「以来40有余年。それが形となったのが日本鉄スクラップ史集成であり、日本鉄スクラップ業者現代史であり、近現代日本の鉄スクラップ業者列伝だった。それら先行3書が、在日コリアンや沖縄の鉄スクラップの歴史にこだわるのは、執筆の動機に由来する。それが高校、大学時代を通じて無二の友へ私ができる唯一の仕事だからである」。

その友人(金城信広)は、不幸ガンに倒れて、今は亡い。その畏友への鎮魂の書としても、私自身の人生の集大成としても、本書の執筆に没頭した。

 

ここ数年。日本と韓国の市民感情はかってないほど悪化した。在日コリアンに対するヘイトスピーチ、罵詈雑言も聞かれる。憎悪の感情を露に攻撃する者も珍しくない。在日コリアンや渡来系業者の活動をタブー視し、ことさらにあげつらい、忌避する動きも少なくはない。

それに触れること自体が「差別だ」との善意の声も聞こえる(皮肉です)。しかし私は鉄スクラップとそれに係わった人間の歴史を、事実(ファクト)として記録する。

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20数年前。ある文化講演会の質疑で「中道とは、どんな立ち位置か」との質問が出た。

演者(加藤周一)は黒板に一本の線を引き、線端に「右」「左」と書き、中央に「中道」と記した。「これです。世間が右に動けば、中道がその立ち位置を変えなければ、左とみなされます」「中道は、その内容が変わらなくても、世間、世情が動けば右寄りとも左寄りとも見られます。ですから、中道であろうとすれば、世情に流されない、ヒトの信念に係わります」。

その言葉に従って、私も業界に随伴した記者の責務として、本書を発刊する。

 

知るべなき 道を踏み分け 束(つか)ひとつ かたみの友に 告げて了(おわん)ぬ


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二十歳代の若書きの断片


*以下は50数年前の古いノートに書き残された断片である

ヒトは意識をとことん突き詰めていった果てに、自身の「重み」を見る。

「重み」とは、「肉体」の思弁化・抽象化であり、疑いようのない「存在」それ自体である。

石に重みがないのであれば・・・と私は詩に書いた。

それは宇宙の腹わたをえぐると。

石に重みがあるのであれば、地虫の押しつぶされた形がういていると。

石に重みがないのであれば・・・と私は詩に書いた。

それは宇宙の腹わたをえぐると。

石に重みがあるのであれば、地虫の押しつぶされた形がういていると。

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ヒトは自身の存在証明を不可知の「神」に求め、「理性=社会・政治」に彷徨し、絡みつくように「不条理=肉体」にすがった。そして回り回ってたどり着いたのが自身の「重み(非論理的存在)」である。しかしヒトは果たして自身の重みとどうおりあいをつけるのであろうか。

 

恐らく・・・と私は考える。自身の「重み(存在)」は、自身にとっても了解困難なものとしてある。モルガンの小説の題名に「地球の重み」なるものがあったが、不安定に揺れ動く主人公は、只一点の確証をもって自身を支える。それが「他者の重み」であった。

世界が状況としてあり、他者がその状況に抗いがたく残置されてあるとすれば、私はその他者に替わって、悪しき状況を是認することはできないと。

誰がヴェトナムにおける米国の暴力を、死せるヴェトナム人に替わって是認できようか。

私は、苦手なのだけれど、・・・モラルの問題なのだ。状況を前にしての。

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アナーキーに還元された自身を再度、地上に固く結合しうるもの、それは「他者の重み」を媒介とした状況への参加。同時に新たなモラルの創生ではなかったろうか。
論理の必然ではなく、むしろ論理を超えた「世界の重み」に引きずられて。
ヒトは個々の「宇宙」として、他者宇宙との了解が困難だとしても、しかしその総体としての「世界(与えられた状況)の重み」は了解しうるだろう。

とはいえ原始宇宙存在にとって「自身」とは何か。存ること、ただひたすらに在り続けること。「在り続ける」非論理的な不快が、自己消化(核融合)として各種の原子を創り出し、存在崩壊(超新星爆発)を引き起こし、その果てに電位差集合体である意識を生み出した。
私は星々の不快からの脱出の産物であり、「不快」の意味を解くべき存在である。
意識が存在を後ろめたく感じるのは、存在に凝視されているからだろうさ、と埴谷は言ったが、意識が存在を後ろめたく感じるのは、おおいなる存在が死を賭して(自己崩壊)創り出した我われ(意識体)が、この宇宙に生きる意味。「存在理由(それこそが星々からの付託)」に答える用意ができていない、その怠慢、負い目にほかならないだろう、と私は思う。

 

・・・しかし宇宙との対話とその解は論理的ではありえない。 

超論理として「詩」的であるだろう。

では、私はどのような詩を歌ったか。

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私は待っている

 

私は待っている 宇宙の大終末を

エントロピーの極限増大において 無限の平衡状態において

質量をも 時間をも 絶対温度をも 

すべてを呑み込み 全き死を遂げた宇宙を

 

今一度 何事も再開してはならない

幾兆億光年の彼方まで 果ての果てまで 

物みな溶暗されよ

・・・その宇宙の大溶暗において

 

瞬時に創生された

宇宙の死とは

不思議な手品のごとく

 

光なく 時なく

重みなき 

溶暗消滅でなければならない

 

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すべてエネルギーは 

その質量に光速度自乗分を加えたものに等しい

放たれるべきエネルギーが 質量に凝固している

 

地球をも砕く無限の力を秘めて

ひとくれの泥土と化している

「存在」のくやしさが 聞き取れるだろう

 

「祈り」

 

みつめること ただみつめること

そこになにものもないとしたら

「祈り」によって

つくりあげなければならない

 

石のごとくに 

うごめきのなかに

棄てられたものとして

「時」からも隔離される

 

すべては仮象に

すぎないとは言わず

一点の実在を求めて

 

観念であったから

永続しえた ひたすらな欲望だった

 

 眼の疲れ

 

どこか遠くで 灰色にくすみ

すべての生気が失われてしまった

系統発生樹を見つめていた記憶がある

 

形成層はすでになく

黄変した葉片は化石している

その樹を美しいと見ていた

 

なべて華やかなものは 偽りで

化石のみが真実である そう信じ込んでいた

地上に新しき物なし・・・と

 

それらすべては石として堆積したものなしには

在り続けることはできない・・・と

しかし、おお この眼の疲れをなんとしよう

 

投げられた石

 

投げて

遠く

投げて 

鳥になるなら

 

青い空と

白い雲と

碧の石片を

いつ 宇宙に置いたのか

 

投げられた石に重みがないならば

形さえもありはしない 

時のそとに立つこともない

 

自然落下が自然ならば 

投げた人のにおいがしみついている 

押しつぶされた地虫の形がういている

 

黒い水面に落ちようと 顔面を狙い撃ちしようと 

手垢にまみれた石だ

投げられたものとして 落下に収束する約束だ

 

投げられた石に重みがないならば 人の意識をつらぬき 

世界線を斜めに横切り 宇宙のはらわたをえぐる

白い鋭利な一筋の刃物だ

 

にせあかしあの木の下で

 

にせあかしあの木の下で

投げられた石が宙を舞い

きしみ音たてる回転軸が落下した

血はさらさらと 肺胞をめぐっていった

・・・自覚は遠い海のように 満ちては溢れる回想

 

見詰められた自然のなかに

砂の塔が

ひっそりと積み重なっている

発条のとんだ時計のうえに甲殻虫が腹ばっている

・・・黄色い大気に 時は無為に耐えていた

 

くずおれる一瞬の光芒にも

はるかな宇宙の約束事があり

調和がひそやかに貼り付いてある

押し込められた石英にも

叫ぶ声がある

 

「青春」とは多岐・亡羊

 

「青春」とは 人生における選択可能状態を示す言葉である

その可能性の多岐において 

人は未来への自由を知り 

多岐亡羊の悲哀を知る

青春とは 選択の その決断の猶予において 

その全可能性を架空に展開することにおいて 意味を持つ

すべては 未来にかかわるのだから

 

しかし 私は 選択に 何の必然も感じない

それは社会の側の「物の配列」の強要でしかない

私は非選択の生をいきるであろう

故に私は青春に意味付けを与えることはしない

・・・いや ちがう

私は多岐・亡羊に立ち竦み、もはや一歩も進み得ない

その自身に呆然とし、古人と悲哀を共にしたのだ

 

楕円思考体として

 

人は生きる。私にはその「生」の理由をみつけることができない。

ただ 生きるということが、肯定できない。自殺すればいいのだろう。

しかし生きている、「物」として・・・いやな奴。そう舌打ちしながら。

一種、名状しがたいスリリングな気分。

 

本棚にカラー写真が一枚、磁石で止められている。アポロ8号が月面から遙か38億キロメートルの彼方に浮かぶ地球を撮ったもの。白く渦巻く雲と青く輝く海面。暗く広がる陸表。下弦の地球が昏い宇宙にぽつんと漂っている。これが私の一方の焦点である。

 

他方の焦点は、南ヴェトナム民族解放戦線の都市攻撃に参加し不運にも捕らえられた青年と、その青年を路上でまさに処刑しようとする南政府高官の報道写真だ。引き金の作動を待つ一瞬の凍結した時間、引きつった頬の震え。それは見る私のこめかみを打った。

私は、この青年のように後ろ手にかたく縛られたまま、絶叫するはずの言葉を、ひきつった頬の裡に押し込んだまま、その一瞬を身構えてしまうのだろうかと・・・。

私は、この2つの焦点を持つ楕円思考体である。

「存在」と「政治」・・・しかし、さらに見詰めていくと、その焦点はぼやけてくる。

私の本質は

 

私は なんであっても

私の本質は たしかである

 

私のもっているもの

私が感知しているもの

それらが電位差のように

流れ 消えゆくものだとしても

その落差においてのみ 私だとしたら

 

石であり得なかったものとして

それをたしかに受けとめる

 

私の在り方は

影像の固定 音響の固定 精神の固定においても

決して定めおくことのできないものとして

移ろうものでなければならない

 

私の在り方は

私が石でなかった証として

消滅もしくは崩壊でなければならない

 

私は砂を噛む

 

噛む 私は砂を噛む

噛む 私は砂を噛む

噛む 私は砂を噛む

噛む 私は砂を噛む

   私は砂を噛む 奥歯で固く

   私は砂を噛む 奥歯で固く

   ・・・固く 固く 固く 固く 固く

   砂 砂 砂 砂 砂 砂 砂 砂 砂

歯いっぱいに 砂

口いっぱいに 砂

腹いっぱいに 砂

体いっぱいに 砂

私は砂を噛む 

かくして砂の塔になろう 
 

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その終わりに

 

大事なことは自分で決める

 

行きたくなくても、行かなければならない。

やりたくなくても、やらなければならない。

それが世間です。

とはいえ、僕は、思えば、世間を知らなかった。

いや、知ろうとはしなかった。

公務員試験でも、本気で就職を目指すなら不適切な

持論を面接の場で展開し、憚ることがなかった。

業界紙記者となっても、正論だと信じることを書いて

業界団体理事の抗議に反論し、屈することがなかった。

世間という壁の厚さと恐ろしさ、金の力は承知していたが、

「大事なことは自分で決める」と宣言して押し通した。

 

僕は多分、荷厄介な存在

 

僕は時として、ヒトが受け止められないような高いボールを投げる。

相手をのけぞらせるビーンボールではない。
僕が投げうるモノとして、ど真ん中に投げる。
それが、受け止められない球だったとしても、投げる。

ことに、その昔。僕はその球を、見も知らぬ、魂に投げた。
そのキャッチボールに 僕は 自身の魂の生きてある意味を知った。

そう。このようにヒトがたじろぐような表現を平気で使う。

 

しかし、言葉が重いのではない。その感性が重い。

その重さを、承知の上で、にもかかわらず、僕は表現を改めない。

僕は多分、荷厄介な存在。なんでも物事の理屈から入ってくる人間。最悪の人間です。
一緒に酒を飲んでも、ちっとも楽しくない。そんな男の一人です。
(だから居酒屋、カラオケが苦手です。おわかりでしょう)

僕は居場所をわきまえています。
バーのカウンターのはずれの末席。会話は聞こえるけれど、仲間に加わるには遠すぎる。
照明も暗くって顔さえ見えない。おや君も居たのかい。

 

・・・その終わりに

 

日記を書く習慣を僕は、ある時から捨てた。

なにをどう書いても自己装飾が紛れ込む、その違和感に耐えられなかった。

だから、職業としての記事は、厳密に事実に即した。

主観と客観。価値判断と事実認定の峻別にこだわった。

データ分析は、極力再点検し、出所を明らかにした。

 

法学生だった僕は、最も厳密で「客観的」であるべき法文論理が(超法規的な「条理」の名のもと)、どのような解釈をも許すとの、ある種のテクニックを学んだ。

客観的事実はデータの取捨選択、論理配列一つで、主観的にいかようにも編集できる。

だから職業として「客観的」な記事を書いた僕は、日常に戻れば、非論理に跳躍する。

詩に泥(なず)み、歌に拘泥し、作文に韜晦する。

それがヒトに忌避される。

ただ恥じるべきは、僕は詩人ではない。

単に言葉を書きなぐった。それしかできない。
その断崖絶壁に立ちすくんだ。

さて そうであるとして・・・。

諦めない。僕は昔から諦めが悪い男だったのです。

だから、やはり状況から逃げださない。

だから、歌。歌はやはり僕の悲しい玩具だった。

そうして最後は・・・やはり子路の美学なのです。

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