安部政権へ異議申し立て-暗い夜だが、権利の上に眠ってはならない

これはマーケット分析ではない。この一文は日常をとりまく世界の分析である。

沈黙は、投票多数当選制度にアグラをかく権力者への無言の支持にほかならないからだ。であれば、ネット時代の現在、明確な意見表明こそは、投票制度下の市民の義務である。

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トランプの米大統領就任を前に、私は「トランプ状況にもの申す」なる一文を書いた。https://www.steelstory.jp/news/photo_news/popup.php?id=599425cd2373834dc1

「我々は民主主義の制度的な欠陥に直面している。(中略)

権力者がその強権の自制と他者への想像力の一切を唾棄し、弱者の尊厳を足蹴にするとき、我々は、果たして如何にすべきか、だ。弱者の寛容と忍耐など、オオカミを前にした臆病なキツネの保身よりも、なお無意味だとは言うまい。

長い時間軸で見れば、強者が強者であった時間も、弱者が弱者であった時間もいずれも短い。明日を信じる。屈しなければ、負けはないのだから」(17年1月10日)。

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しかし足元の日本では、この間に、安部首相とその妻、周辺の者たちの権力の私物化、高級官僚たちの職業人としての最低限の規律さえ放棄するすさまじい劣化が進行した。

学生だった私は、官僚の本質は文書管理による組織統制であり、王朝支配下の官僚(家産官僚)は独裁者の、民主政治下の近代官僚は主権者である国民の、奉仕者であると学んだ。 

しかし、今、私が目にしているのは、文書管理を徹底的に踏みにじり、一握りの権力者にひたすら奉仕する、あさましいばかりの無残な高級「官僚」たちの姿である。

権力は腐敗する。批判、反対を許さず、聴き入れない絶対権力は絶対的に腐敗する。


しかし権力の腐敗は、それが権力である限りは、「たった一人の独断者」からは生まれない。腐敗は組織から起こる。その組織とは、世界の一員、歴史の住人意識をもたないままに現在と利害得喪に固執する政党・政治組織であり、自身の保身と出世栄達のために「国民の奉仕者である」との本義を振り捨てた高級官僚組織であり、読者・視聴者獲得のため大衆迎合に走った世に第4の権力とさえ言われた新聞、TVなどマスコミたちである。

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毎日新聞夕刊(20年1月22日)に藤原辰史氏の「暗くとも明けない夜はない」とのコラムが掲載された。彼は状況を「時代は醜悪で、暗い」と切り取る。「醜悪な権力者が統治する醜悪な時代を生きていると、ずっと暗い時代が続くだろうと信じてしまう」。(中略)「でも明けない夜はない。たとえ弱くとも、私たちは灯籠の火をともし続けなければならない」と訴える。この一文に既視感があった。戦没学生の手記、「きけけわだつみのこえ」だ。記憶は不確かだが「友よ、長い長い夜だった、星の見えにくい夜ばかりだったと言い交わせる日もあろうか」。絶望はすまい。明日を待とうとの切ない願望が・・・胸を打った。

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あのフランス革命を起源の一つに持つ近代憲法は、国家による市民弾圧の抵抗から生まれた。従って憲法の本質は、国家権力からの市民・国民の自由と権利擁護。権力・独裁を制約することにある。市民権とは、与えられた権利ではない。国家から勝ち取った権利なのだ。

「権利の上に眠るものは、保護に値せず」との格言がある。そうなのだ。暗い夜を、権利の上に、眠ってはならない。それは市民として、我々が果たすべき歴史的な責務なのだ。

たしかに醜悪で暗い夜だが、しかし沈黙し、権利の上に眠ってはならない。