今、市民として、何を守り、何を言うべきか

 

20数年前。ある文化講演会の質疑で「中道とは、どんな立ち位置か」との質問が出た。
演者は黒板に一本の線を引き。線端に「右」「左」と書き、中央に「中道」と書いた。

「これです。世間が右に動けば、中道がその立ち位置を変えなければ、左とみなされます」

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「中道は、その内容が変わらなくても、世間、世情が動けば右寄りとも左寄りとも見られます。ですから、中道であろうとすれば、世情に流されない、ヒトの信念に係わります」

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その言葉に従って、私も「左寄り」とのレッテルを恐れず17年前の古いメモを、再録する。

2003年3月、イラク戦争直後に英国にいた娘に送った一文である。日本の為政者が国民から負託された権力を濫用し、官僚が公文書の破棄・改竄・隠蔽に走る現在、私はジャーナリストの端くれとして、このような一文をネットに公開し、私なりの意見表明とする。

 

 

ブッシュのイラク戦争と日本人の立ち位置

 

(原題は「憂鬱な日々です」(200333日)

 

 

ほとんど無意味な戦争のためにイラクでは数千・数万人の人々が死んでいく。

その死に加担した国家の国民の一人として生きざるをえない。

 

憂鬱な理由は、今この時点でイラクを攻撃するなんの大義も、名目も存在しないこと。

01・9・11の「同時テロ」の恐怖心が、アメリカをして猜疑心の塊とし、冷静な検証抜きの攻撃に駆り立て、今では、はやらないインデアン狩り映画の騎兵隊の論理が、国際社会の現実として公然とまかり通っている現実を認めざるをえないということ。

それは、番長ににらまれたら、かれのプライドを傷つけたらどんな仕返しが、待ち構えているか。それが怖くって、番長の指示に唯唯として従っている、気の弱い生徒・児童さながらの世界。しかもそれがいま目の前で繰りひろげられている。

 

それが国際世界の現実。なぜ、アメリカで近年インデアン狩り映画がはやらないのか。
それは公民権法以後のアメリカでは、インデアンは「ネイティブアメリカン」(先住アメリカ人)として、「狩り」の対象ではなくなったから。ひとりの独立した人格を持つ人間だ、との社会的意識が広がったから。

では、なぜそのアメリカが、国内でもはやらない西部劇さながらの「復讐劇」を敢行するのか。それが論理の単純化。「悪の手先」と決め付ければ、それ以上想像力を巡らすことは無い(かってインデアン狩りがそうでした)。思考の停止。

 

イラクが「9・11」に関与したとの事実関係は証明されていない。正義の実現。それが禁酒法以来のアメリカの伝統なのです。アルコールがそうであったように存在すること自体が悪。だから、この瞬間に地上から抹殺する。

そのアメリカの論理は、安保理でも、国際社会でも多数を説得することができなかった。
つまるところ、イラクの、無辜の市民を殺す論理は正当化されない。たとえ、フセインが長距離ミサイルを持ち、生物化学兵器を隠し持っていたにせよ(それならロシアだって、フランスだって、北朝鮮だって持っている)、だからといって、国連のルールを破って、自国の判断だけで攻め殺していいという理屈にはならない。

 

強者が口に出せないほどの恐怖心に駆られたとき、パニックから過剰なまでの攻撃に出てくる。病理学の初歩がそこにある。ではなぜ、国際社会はアメリカの短慮・暴挙を止められないのか。なぜ、日本は異議の唱えないのか。

 

日本も、国際社会も、本当のところアメリカが怖いのだ。その怖さは、番長ににらまれる怖さ。番長の存在意義とは、喧嘩相手の番長を押さえることにつきる。相手方の番町の暴力から守ってやる。庇護を与えてやる。彼の暴力はその関係で正当化される。とすれば、彼の暴力に異議を挟むのは「論理矛盾である」(だから、これが日本政府の公式見解)。

 

憂鬱です。アメリカがイラクを攻撃する。その論理には付き合えないが、しかし、国家の論理として、現在のアメリカと仲違いするわけにはいかない(喧嘩相手の番長がすぐ近くで待ち構えています)。とはいえ、しかし、イラクで数千・数万人の人々を殺すそのアメリカの論理に加担したくはない。だからイラク関連のニュースは見たくありません。

 

日本は何をなすべきだったのか。山本夏彦の辛口のコメントに、たしか「平和な時の反戦論」という一文があった。中身は忘れたが、安全な高みに身を置いて、反戦を説く、その軽佻さを嘲笑したもの。言うなら戦時において反戦を言え。
日本は北朝鮮という将に「地政学的リスク」に隣りしている。そのなかで、正気を失ったアメリカに何を言うのか。首相として、国民の生命・身体・財産を守るべき最終責任者として、どのような発言を発すべきだったのか。

自問自答しています。たまらなく憂鬱です。

 

形式的な論理的整合性が、必ずしも現実世界の選択として正しいとは限らない。

だから「世論が正しいとは限らない」その小泉の言い分には一理ある。

しかし、敢えて言えば、国家には、決して譲ってはならない「なにごとか」がある。

アメリカであれば、如何なる場合も国家が「国民・市民の安全を守る」。

その誓約が破綻の危機に瀕したのが「9・11」。だからその修復にかけるブッシュの行動は、アメリカ的正義の体現として(世界は知らず)、アメリカ国民からは支持される。

 

では、日本は守るべき何があるのか。日本は国是としてアメリカのようには、国民・市民の安全を守っては来なかった(阪神大震災の時の国家行動)。しかし、対外的には、「非戦」憲法を持ち、非侵略国家との認知を得ていた。であれば、たとえ選択の幅は狭く・苦しくとも、国家のプライドを賭け、アメリカに、世界になにごとかの発言をなすべきだったのではないか。とは言え、では、頭に血の昇ったまま、まともな判断もつかないようなアメリカに対し、どのような発言が可能だったのか。

 

昔、ベトナム戦争のとき、上院院内総務だった民主党のマンスフィールド氏の発言を思い出す。それは同じ民主党選出の大統領の判断に痛烈果敢に異を唱えるものだったが、彼はそれを「高次の愛国心」として、臆するところがなかった。

ヒトは、その人として生きなければならない。他人の生を生きることはできない。国家もまた同じい。日本は日本としていきなければならない。日本はアメリカに代わってアメリカの生をいきることはできない。では組織としての日本は、どう生きるべきか。

 

そう考えれば、日本に与えられた選択の幅はまことに狭い。
再び、しかし、ほとんど無意味な戦争のためにイラクでは数千・数万人の人々が死んでいく。その死に加担する論理に組することはできない。

憂鬱です。背後にアイクチを突きつけられながら、非戦の論理を説く。
しかし、それなくしてアメリカに加担すれば、戦後50年の日本の「国是」は、山本夏彦の指摘するとおり、文字通り「平和な時の反戦論」として、世界の笑いモノになってしまう。

 

敢えて、国民に、つまりは世界に、日本としての信を問う、という選択もあったのではないか。アイクチが背後にあろうと、番長の威を借りないという度胸があっても良かったのではないか。危険(リスク)をとらないというのが、実は最大の危険かもしれない(今回の日本のアメリカ追従によって日本の国際社会における「独自性」は消滅した)。

 

これは美学だろうか。空理空論だろうか。しかし、人生においてやせ我慢が必要な時が必ずあるように、国家においても、他者の支援のない選択を歩まなければならないときがある。

今がその時なのだ。

 

日本がとった行動(いや、信ずべき何物もないかのようになんらの行動もとらなかった日本、日本人の一員であることが)たまらなく、恥ずかしかったのです。

 

しかし、では、実際には、どのような選択が、そのとき日本に許されていたのか。

傍観者ではなく、国民の生命・身体・財産を守る。その最終責任者であったとしたら、私は、国民に、つまりはアメリカに対して、国民の生命・身体・財産を守りつつ、なお、自国の「大義」を、即ち、よって立ち、将来ともに世界に対し「名誉ある地位を占める」に足りる信念を、どのような形、行動で示すことができるのであろうか。

 

日本が、アメリカの行動に異議を挟めば、アメリカは北朝鮮からの日本の防衛から手を引くだろう。それが小泉のアメリカ追従の論理である。日本が異議を挟むのであれば、アメリカの庇護によらない、独自の防衛力の強化(眼には眼を。核には核を)が論理的必然となる。

しかし、超大国以外の核保有を断固認めないのが、アメリカの一貫した防衛政策である。また戦争犯罪者を国土防衛の神(靖国神社問題)として、時の総理大臣が(他国の批判をものともせず)敬い、頭を垂れる。その日本がアメリカの傘を離れ、独自の防衛路線を走る。アジア周辺国に無用の軍拡競争を引き起こす恐れすらでてくる(対外貿易のトップとNO2はアメリカと中国である。経済的にも耐えられないだろう)。

 

日本は歴代自民党政権が戦後責任を回避し続けてきた負の歴史がある。ドイツと違い独自防衛の主張は、アジア周辺国の猜疑心と警戒感を呼び起こすだけだろう。

 

では、日本には、どのような選択があるのか。1945年。極東で15年、欧州で6年におよぶ悲惨な戦争が終わった時、人類がだした結論のひとつが「国連」であり、そのひとつが「日本国憲法」だった。国連憲章は「いかなる紛争も」「安保理」の決議を必要とし、日本国憲法は「政府の行為によって戦争の惨禍が起こることのないように決意し」「国家の名誉をかけて」この目的を達成することを誓った。

戦後日本の国是は、従って国際(国連)協調と憲法擁護――だった、はずだ。

 

アメリカの朝鮮政策の変更から、憲法擁護の柱は早々とはずされたが、それでも、国連を中心とした国際協調路線は守られてきた。その国連憲章をアメリカが踏みにじった(だからダナン国連事務総長はアメリカを非難し、ロシアやフランスは、アメリカの行動を国連憲章違反として問題視する)。

 

あらゆる政治手法は、つまるところ手続きに帰着する(したがって権力の暴走に歯止めシステムを組み込む民主主義が手続きとして最も煩雑となる)。

その手続きを嫌う権力の行使を許してはならない。

その先棒を担いではならない。

日本には、どのような選択があるか。

まことに重く狭く苦しい選択だが、日本が将来において国際社会で名誉ある地位を占めたいと考えるなら、その論理に徹する他はない、と考える。