安倍元首相が7月8日、奈良市で参院選の街頭演説中に背後から銃撃され死亡した。
その後の、彼の死をめぐる、この国のあれやこれやの動きについて考えたい。
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私は自身のhpに「安部政権へ異議申し立て-暗い夜だが、権利の上に眠ってはならない」と投稿した。そこで「これはマーケット分析ではない。この一文は日常をとりまく世界の分析である。沈黙は、投票多数当選制度にアグラをかく権力者への無言の支持にほかならないからだ。であれば、ネット時代の現在、明確な意見表明こそは、投票制度下の市民の義務である」とその理由を述べた(20年1月22日。 STEEL STORY JAPAN)
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その彼が凶弾に倒れた。その死を受け与野党は「テロに屈しない」「民主主義を守る」と足並みを揃えた。撃たれたのは元首相。しかも選挙応援の場である。
政治的なテロ、「民主主義の挑戦」と見るのは、いわば自然の解釈であろう。
しかし、その後、玉ねぎの皮をはぐように事件にいたる経緯が明らかになった。
殺害は政治的な理由ではない。旧統一教会への積年の恨みだという。
最初は教組を狙ったが、警護が固く断念した。
替わってターゲットにしたのが、旧統一教会の事実上の「広告塔」として影響力のあった元総理だったという。
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その1週間後、政府は元首相の葬儀を「国葬」で実施すると決めた。
「憲政史上最長の通算8年8カ月にわたり首相を務めた実績などを評価し」「日本は暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」「各国首脳ら国際社会から『極めて高い評価を受けている』」(日経7月15日)との理由だ。
これには違和感がある。
国葬は、政治の世界の葬儀である。また政治は結果責任の世界である。
では元首相は、どのような結果を残したのか。
国際社会の評価や突然の死を悼む、その弔意の誠には心が揺さぶられる。
しかし、彼が政治生命を賭けたアベノミクスは道半ばとされ、森友問題、桜を見る会などの疑惑には、何らの明確な説明がないままに、(彼の死と共に)置き去られようとしている。
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私もまた死者の冥福を深く祈る。
その彼のためにも歴史的な検証に耐えるような、正当な評価とその悼みを今一度、冷静に考え直すべきであろう。