2020年7月23日夜8時 東京でオリンピックの開会式がおこなわれた。
コロナ感染再拡大のニュース報道のあと テレビ中継が始まった。
柱時計のくぐもった打音を合図に 私はひとり自室に向った。
一般市民の誰一人 観客席で応援することも 歓声をあげることもできない
しかしチャンネル権をもつ全世界の誰でもが 自由に見ることができる
ハイテク時代の現代の、完全かつバーチャルな祝祭と饗宴・・・
中止の議論はいつしか消え 有観客がいつの間にか無観客に変わった
なんらの説明も、まっとうな議論もないままに、すべてが密室で決まった。
五輪招致に係わった関係者、運営責任者たち・・・その辞任、解任が相次ぎ
マリオ演出で東京参加を呼び掛けた前首相も なぜか式典の出席は見送った
どうせおどけるのなら 最後のさいごまでおどけて嗤わせて欲しかったものを。
1941年12月8日 早朝からラジオは日米開戦の電撃勝利をうたった。
第一次大戦以来、戦争はもはや戦術戦ではなく「総合国力」・戦略戦となっていた。
総合力でとうてい勝てる相手ではなかった。始めてしまえば滅びるしかない戦争。
だからこそ、避けられたかもしれない開戦。しかし誰も止められなかった。
日露戦争の勝利体験が 軍人と官僚の専権を呼び込み 反対論を封じ込めた
そうしていったん決まったスケジュール(開戦)が変更されることはなかった。
しかし それは昔のことなのだろうか。
古人なら、それを「今は昔のものがたり・・・」として語りだすだろう。
そう、今は昔。なのだ。であれば、昔を今に考える必要がある。
それが歴史を知る意味なのだ。
「私は戦後生まれのものですから、歴史を持ちだされたら困ります」
などと言ってはならないのだ。 STEEL STORY JAPAN
とはいえ何が正解か分からない。
だからこそ、検証可能な議論(記録)が必要なのだ。
今、私はそう考えている。正解はない。しかし考えたい。
なぜなら政治は世襲政治家のものではなく、
一人ひとりの市民・国民のものなのだからだ。