厄災のなかで思うこと(マーケットとビジネス)

 

私はかねがねマーケットとビジネスは全く違うと言ってきた。

マーケットは頭の上に広がる天気と同様に「万人に平等に与えられた」条件である。

一方、ビジネスはその天気のなかで「個々人の工夫・才覚」で大気を利用する作業である。

 

従ってマーケット分析は、気象観測と同様にあらゆる楽観を排し、与えられた状況を精密に目配りする必要がある。予想される可能性を含むから同時に「リスク管理」でもある(台風の予想半径が広いのは、そのためだ。必要なのは観測から想定されるリスク分析である)。

 

一方、ビジネスは、万人に与えられた平等なマーケットをもとに、個人的な工夫・才覚から出発する「未来への挑戦」だから、必要なのは嵐にもめげない(個人的な)楽観である。

 

なぜビジネスに楽観論が必要なのか、それはビジネスが極めて人間的な作業だからだ。

人間は、希望なしには生きられない、宿命的な動物だからだ。

 

そう。確実な未来など約束されないビジネス世界に生き延びるには(他者が全否定しようが)、自分自身は確固不抜の信念がいる。

出来ない理由は、いつもどこにも山ほどある(ヒトが親切に教えてくれる)。

しかし、その山から見つかるはずのない一本の針を見つけ出す。

その信念。その定義は、先人の言によれば「証拠を欠く確信である」。

 

ただ50%の確信なら誰でもやるだろう。

10%の確信こそがチャレンジ。ビジネスだと、聞いた記憶がある。

その10%の確信を持続するのが(個人的な)「楽観」である。

 

それを私は「マーケットは(楽観を排して)悲観的に」、「ビジネスは(悲観を排して)楽観的に」という。なぜなら、マーケットは天気と同様に、明日の晴れ間は保証できないが、一旦獲得した信用・信頼(ビジネス)は、ヒトと共に明日を生き延びるからだ。

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さて本題です。
厄災のなか(ウイズ・コロナ)で、
またそのあと(ポスト・コロナ)で、
どうビジネスと向き合うか。その熟慮の時が、今です。

 

私の考えは、山で道に迷ったときは、谷川に下らず、頂上に登る。高みから見る。

つまり、谷川の枝道を探すのではなく、山の高みから商売の原理・原則を考える。

原理・原則とはなにか。信用・信頼を築く。契約を守る。社員・従業員と一丸となる。

 

リサイクル物とは(きれいごとを離れて本音で言えば)、排出者にとっては、もはや不要な「廃棄物」であり「処理困難物」。しかし社会にとっては有用な「資源物」である。

このギャップを埋めるのが、リサイクル業者の仕事である。

 

とすれば、業を未来につなぐのは、個々の商売のテクニックだけでなく、リサイクル物を「適正・安全」に処理し、地球環境に貢献している先端企業である、との認識を「大きなタイマツとして」高く掲げ、社員・従業員は勿論、社会、排出者にも広げ、その信頼を得ることだ。

 

 理想論だろうか。しかし最も理想的な論が、しかし最も現実的な論だと私は信じる。