東京製鉄は昔も今も、どの高炉系列にも商社系列にも属していない独立系電炉である。
代々の経営者は、商売の自立(自律)を貫いた(岡田菊治郎は、戦中の統制時代には商売をやめた。池谷太郎は、通産省の行政指導である鉄鋼共同販売に参加せず、そのセットとして拡大された鉄屑カルテルからも去った。池谷正成は政府肝いりの不況対策として結成された小棒組合に加わらず、逆に小棒組合によるアウト規制は憲法違反だと主張した)。
その伝統は西本現社長にも受け継がれた。
それが21年4月15日「電炉、車・建材に活用拡大」との日経新聞インタビュー(後出)である。ゼロカーボン時代。鉄スクラップと電炉の関係は言うまでもない。西本にとって、今後本格化する高炉との製品販売の競争こそが、ゼロカーボン時代の真の姿である。
岡田 菊治郎(おかだ きくじろう) 明治期・業界の草分け。東京製鉄の創設者
岡田菊治郎は、明治、大正、昭和の三代にわたり独創的な商法で傑出した。昭和初期、誰も見向きもしなかった下級材処理のプレス機を開発し、欧州大戦終了後に老朽廃棄船から再生鉄材(伸鉄)を回収して製鋼会社を立ち上げ(大阪・臨港製鉄、東京・東京製鉄)、戦前の紳士録である財界人物録に、業界から唯一人、掲載された。準戦時体制が強まった39年、40年には個人多額納税者として連続トップとなり新聞各紙にその名が報じられ、話題となった。鉄屑業界は勿論のこと、一般家庭の主婦にまで広く知られた人物である。
▼明治42年東京・本所元町で開業=1881年(明治14)岐阜県八百津に醸造元・岡田茂助の三男として生まれた。1909年(明治42)、東京の両国橋近くで開業した。
▼ドラム缶容器類を上海に輸出=各種の輸入ドラム缶類が入ってくるが、日本では再利用する会社はない。岡田は有り金をかき集め、上海での転売に乗り込んだ(業者直接輸出の第一号)。途中で第一次大戦が始まり、商売は立ち消えとなったが、大儲けした。
▼下級品プレス機を開発――官営八幡に売り込む=昭和初期。東京市は深川沖を埋め立てて造成地を開拓していた。ブリキ屑が混じって埋立作業に困るという。何とかならないか、との相談話が舞い込んできた。そこで岡田はプレス機を考案し、官営・八幡に売り込んだ(岡田は業界初のプレス機の考案と本格営業の開拓から戦後の53年、緑綬褒章を受章)。
▼大阪に臨港製鉄を、東京では東京製鉄を作る=岡田は、製鋼会社の経営にも乗り出した。1933年(昭和8)1月、大阪の港区に建設途中の伸鉄工場を受け継いで小形棒鋼、小形平鋼の伸鉄会社(臨港製鉄)を立ち上げた。初代社長には義理の兄(小林米吉)を据え、監査役には岡田自身が就任(その後は、鶴町支店長の尾関英之助)した(臨港製鉄社史)。
34年11月、資本金百万円で東京千住に平炉会社(東京製鐵)を設立、以後、平炉2基、電気炉1基体制で、中形及び小形圧延工場で各種特殊鋼の生産を行った。
▼鉄屑統制会社、筆頭取締役=37年10月、準戦時体制から鉄屑流通を国家管理の下に置く日本鉄屑統制株式会社(同年10月)も設立された。38年10月発足した日本鉄屑統制株式会社では筆頭取締役。また岡田菊治郎商店として鉄屑統制会社指定商に指定された。
▼戦時中は鉄屑業から去る=岡田は、鉄屑統制が本格化した戦中から戦後の49年までの約10年間、鉄屑業をやめている。この間の事情を岡田自身は、ほとんど発言していない。
▼戦後、「岡田商法」を再開=混乱期を脱した49年、岡田は戦前と同じ両国橋際で株式会社岡田商事として再発足した。「岡田氏の買付は現金取引、支払い迅速、連休なし、大晦日まで現金払いを続ける。他の問屋が休んでいれば中間以下の小さな業者は現金を換える場所がない。そのため年中店を開いている。従って、岡田の店にはコンスタントに入荷がありストックがある。全国のスクラップ業者がメーカーに買って貰うという低劣な意識で営業しているとき、氏はメーカーと対等のビジネスに徹している(現代人物論・63年)。
池谷 太郎(いけたに たろう)-独立系の雄、東京製鉄を育てる
戦後、池谷太郎は東京製鉄を岡田菊治郎から継承し、日本を代表する電炉会社に育てた。
▼父・池谷正一=父・正一が浜松から上京し、妹婿の弟にあたる岡田菊治郎の岡田商店に住み込み鉄スクラップ業で商才を伸ばし、大正元年に本所区柳島に池谷正一商店を開業した。
▼池谷太郎・東京製鉄を引継ぐ=池谷太郎は1917年(大正6)8月、池谷正一の次男として生まれた(長男は夭折)。東京製鉄は戦後、戦時賠償指定工場となったが49年5月、賠償指定は解除された。「これを動かしているうちに、登場したのが岡田の縁者である若い池谷。というのはアカハタの本拠地みたいになった工場は労働争議ばかり、岡田さんはすっかり意欲を失った」。「それで池谷さんに白羽の矢が立った。千住工場はすべて岡田さんのものでしたが、分割して東鉄と岡田さんになりました」(尾関精孝氏談)。
▼業界の異端児として=池谷は、会社経営でも独自の路線を貫いた。国と鉄鋼大手は、稲山試案を叩き台に鉄鋼販売を行政指導で行う事実上の「製品カルテル」を目指した(58年6月)。これが鉄鋼公開販売(公販)で、平炉18社を含む32社が結集した。また鉄鋼公販に合わせて鉄屑カルテルでも全国5カルテル体制が確立した(58年)。
この時、東鉄は稲山が音頭をとった鉄鋼公開販売に加わらず、全国の平電炉が鉄屑カルテルに雪崩をうって加盟するなか、逆に第1回以来の鉄屑カルテルから脱退した(58年9月)。
*その鉄鋼公開販売(製品カルテル)が70年から運用を停止した。その年3月、八幡と富士が合併して新日鉄が誕生し、東京製鉄は同年7月、鉄屑カルテルに復帰した。
池谷太郞は75年、社員定年と同じ57歳で、30歳の正成に社長職を譲り、代表権のない会長に退いた(88年70歳で相談役に就任。06年死去・享年88)。
池谷 正成(いけたに まさなり)―親子二代にわたる反骨の精神
1945年8月、池谷太郎の長男として東京に生まれた。母は尾関精孝の妹である。
68年慶応大学商学部卒業後、東京製鉄に入社、米ルリアブラザーズに出向。69年土佐電気製鋼所に入社(70年同社社長)。75年東鉄社長に就任。池谷正成も父・太郞と同様に、鉄鋼商売をしばるカルテル的行動を嫌った。その独自路線が国策と真っ正面から激突した。
▼小棒組合のアウト規制と憲法論争=77年8月、国は構造不況のなか電炉救済対策として中小企業団体法に基づく「全国小形棒鋼工業組合(小棒組合)」を認可した。同法では、組合は一定の手続きを踏めば員外者(アウトサイダー)に対し組合への強制加入、事業活動規制、設備制限などの大臣命令が発動できる(アウト規制)。鉄屑カルテルは74年廃止されたが、アウトへの規制は、旧カルテルよりはるかに広範かつ強力である。アウト会社は東京製鉄、東洋製鋼、伊藤製鉄など12社。国は10月小棒組合申請の数量・価格、不況カルテルを認可した。東京製鉄などアウト各社は、組合によるアウト規制は憲法違反であると抗弁したが、国は、アウトメーカーにも生産割当を指示しアウト12社に対する直接監視に乗り出した。
▼H形戦争=82年8月、東鉄は大型H形鋼分野への進出を発表した。84年4月の稼働を目標に九州工場にH形鋼ミルを建設するもので、完成すればH形鋼生産は新日鉄を抜いてトップになると予想された。これを機にH形鋼のシェア争いが本格化し、「後仕切り」による販売・シェア争いのなかで82年10月からわずか3ヶ月の間に相場は七万三千円から五万五千円まで暴落。新日鉄をリーダーとする「高炉協調体制」は崩壊した。83年2月、高炉・電炉各社が「後仕切り」を廃したことから、第1次H形戦争は終わった。
*ただ同じ82年8月、新日鉄は74年の中止以来8年ぶりに、全国7製鉄所で市中鉄屑の購入再開を発表した。業界ではH形戦争の鉄屑版との見方が専らだった。
■96年 池谷社長講演 「鉄スクラップ輸出に転じた日本」
東京製鉄の池谷社長は96年10月13日、 中四国支部主管の第9回全国大会で 「鉄スクラップ輸出に転じた日本」との演題で基調講演を行った。その要旨は、大手高炉の競争力は高炉など上工程の強さにある。系列電炉メーカーがその溶銑を使用する分だけ、国内スクラップの消費が抑制され、その分だけ鉄スクラップの輸出余力は増える。国内需給構造の変化から日本の鉄スクラップ輸出は2000年には300万㌧程度に達すると予測した。
*池谷の講演は、電炉社長としては異例な大胆な発言だった(大方の電炉経営者は、鉄スクラップを海外に出荷する輸出を、「利敵行為」、「国賊」視していた)。講演の前年95年の輸出量は91.5万㌧。2000年はその3倍を予想したが、鉄鋼不況から国内消費が激減し、輸出が急増した2001年には、池谷の予想をはるかに超える615万㌧に達した。
▼電炉会社・世界第3位=12年以降、高炉会社は事実上日本製鉄系とJFE系の2系統に絞られた。国内電炉が高炉系統に組み込まれるなか、高炉各社と距離を置き独立経営に徹した。電炉としては世界第3位に位置する。独自の経営方針のもと鉄スクラップ購入価格もHPで公開するから日本発の鉄鋼会社買付価格として国内外の指標価格の一つとなった。
▼社長職は次代に譲る=池谷正成は2006年60歳で、岡山工場長・西本利一45歳に社長職を譲り代表権のない相談役に退いた。西本は池谷家以外の初の社長である。
西本利一 第三代社長
電炉、車・建材に活用拡大 西本東鉄社長(21年4月15日・日経新聞)=国内製造業のCO2排出量の約4割を占める鉄鋼業界が岐路に立つ。西本利一社長に課題などを聞いた。
▼脱炭素に鉄鋼業界はどう対応すべきか=「鉄スクラップを100%活用すべきだ。それでも不足する分は、高炉で鉄をつくるという、まず資源循環ありきに変わる必要がある。国内のスクラップをすべて再利用すれば鋼材生産時の脱炭素につながる」「石炭を使う高炉に比べ、電炉の鋼材製造時のCO2排出量は4分の1だ。国内で建物や自動車などとして14億㌧の鉄が蓄積されている。スクラップ発生量は増える見込みで、電炉製鋼材を使う余地は広がる」。
▼国内の電炉でつくる鉄の割合は3割弱だが=「国内でのスクラップ流通量は年2500万㌧強で、増えても4千万㌧だろう。一方、新型コロナウイルス禍前の国内の粗鋼生産量は1億㌧。内需の縮小などで50年には約6千万㌧に減る見通しもある。スクラップを全て循環させれば、国内の電炉比率は半分を超える。もちろん高炉製の鋼材も一定程度は残る」
▼電炉材の利用拡大にはコストや技術の面での課題も=「国内の高い電力料金は確かに課題だ。一部の自動車向け鋼板は電炉での生産が難しい。ただ電炉でつくれるのに高炉を使う製品は多い。自動車だけでなく建設などもある。技術開発にも取り組み、切り替えを促す」
▼脱炭素は鉄鋼業界の国際競争に影響するか=「政権が交代した米国では電炉比率が現在の7割から8割超となりそうな勢いだ。電炉への投資が相次いでおり、日本製鉄も欧州アルセロール・ミタルと共同で現地で電炉を建てる。米国勢は環境配慮を前面に押し出してくる可能性がある。鉄鋼に限れば日本や欧州はCO2対策先進国の米国を追いかける立場だ」
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▼排出ゼロの号砲、業界秩序変える(同紙・解説)=2050年温暖化ガス排出実質ゼロの号砲は、鉄鋼業界の構図も変えようとしている。日本製鉄は3月、脱炭素にむけ大型電炉の新設を打ち出した。高機能鋼材は高炉という従来の線引きは曖昧になる可能性がある。CO2排出面での電炉会社の優位性が薄まりかねず、東鉄社長は「自動車用の高張力鋼板の性能向上にも挑戦する」と話す。東鉄は高炉の牙城とされた薄板分野へ進出するなど業界秩序に挑み続けてきた。その同社が高炉勢の挑戦をどうはね返すかへの注目は高まっている。
▼鉄スクラップ、脱炭素で争奪戦(21年6月6日)=東京製鉄は4月、スクラップの調達規格を見直した。上級品種について、長さ1500mm以下のものまで受け入れる。従来は700mm以下としていた。JFEなど高炉メーカーが調達を増やす動きをにらんだ対抗策といえる。
▼長期環境ビジョン | (tokyosteel.co.jp)(21年6月24日・hpより)=「Tokyo Steel EcoVision 2050」は、「脱炭素社会」「循環型社会」の実現を柱とし、2050年の「あるべき姿」の実現に貢献してまいります。
・脱炭素社会の実現に向けて=30年度はCO2総排出量ベースで13年度と同等、原単位ベースで60%の削減を目標とし50年度にはカーボンニュートラルの達成を目指します。
当社は、鉄スクラップの「アップサイクル」を通じて、自社の生産を30年に600万㌧、50年に1,000万㌧まで拡大し、高炉鋼材から電炉鋼材への置き換えを推進することにより、社会の「カーボンマイナス」実現に貢献してまいります。
・省エネルギーの実施=CO2排出量原単位の毎年1%以上の削減を目指します。CO2排出量原単位を2013年度比で、2030年に60%削減、2050年に100%削減を目標に活動します。
・技術開発・製品開発の推進=技術開発・製品開発による鉄スクラップの「アップサイクル」を通じて脱炭素・循環型鋼材の市場シェアを拡大していきます。
・顧客との協働による鉄スクラップ回収率の向上=当社製品の回収率を向上し、当社の脱炭素・循環型鋼材を納入するクローズドループの循環型取引を拡大します。
・鉄スクラップ事業者とのパートナーシップの強化=国内鉄スクラップ事業者とのグリーンパートナーシップの強化により、鉄スクラップの回収量の増大を図っていきます。
冨高コメント
東鉄の代々の経営者は、行政指導や大会社から距離を取って商売の自立(自律)を貫いた。
商品販売・選択は、国や業界の暗黙の取り決めではなく、自社リスクで臆することなく決断する。その一例が当時、高炉製品と見られた大型H型鋼への進出であった(これが新日鉄などとの「H型戦争」を生み、新日鉄の市中スクラップ買付再開の口火となった)。
またトップとして大局から発言した。それが96年「鉄スクラップ輸出に転じた日本」の池谷講演である。希望的な観測ではない。冷静な状況分析から大局を見た。その信念を語った。
その伝統は西本現社長にも受け継がれた。それが21年4月15日「電炉、車・建材に活用拡大」との上記の日経新聞インタビューである。ゼロカーボン時代。鉄スクラップと電炉の関係は言うまでもない。西本にとって、今後本格化するであろう高炉との製品販売の競争に備えること、それこそが、ゼロカーボン時代の真の姿である。
東鉄は価格改定を午後4時に発表する。ある電炉原料課長は、自嘲気味に「(東鉄発表後の)4時から動いた」という。利は元にありという。その元を東鉄は自己決定した。編者は業界紙記者を40数年つとめた。その経験から独断で言えば、日本には電炉会社は1社しかなかった。
以上