復活する金属屑営業条例(2)

第一波 朝鮮戦争下、軍港佐世保が発端(1950年12月)

条例制定には大きな波がある。第一波は、50年(昭和25)12月長崎県佐世保市の市条例として始まり、51年3月山口、7月福岡、8月広島、翌52年5月高知、12月鳥取が県条例として制定した。九州・中国、四国の1市5県のローカル条例に留まったそれである。

条例の特徴は、朝鮮戦争の真っ只中の50~51年に九州の一地方都市(佐世保)で制定され、その後の8ヶ月に山口・福岡・広島の沿岸各県に広がったこと。国の法律である古物営業法では規制の外に置いた金属屑取引を、地方自治体独自の監視の対象としたこと。業者だけでなく、全「従業員」の氏名・本籍・写真等の提示を罰則付きで要求した(佐世保は2年以下の懲役または罰金、山口・福岡は1年以下の懲役または罰金)ことだ。

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50年(昭和25)から52年とは、どんな時代だったのか。

1 50年6月25日から始まった朝鮮戦争は米軍の平壌入城(50年10月)、米大統領、原爆使用発言(11月)、中国義勇軍の平壌奪還(12月)、同軍のソウル再占拠(51年3月)、休戦会談開始(7月)とその後の2年間の戦線膠着にあった(休戦調停。日本を出撃拠点としたマッカーサー国連軍総指揮官兼GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)長官は、日本国内でも臨戦体制を強めた(50年10月・大村収容所開設、11月・在日韓国・朝鮮人の祖国帰還業務停止。51年7月から休戦交渉が始まったが、その後2年間、北緯38度線を挟んで戦線膠着が続き、53年7月休戦協定を調印した。

2 戦争は日本に在日米軍からの特別需要(特需)を呼び込んだ。世界的に戦略物資の貯蔵が高まるなか輸出も好転した。鉄屑は戦後の物価統制令(公定価格)の下にあった。その公定価格が開戦とともに爆発した。公定価格は50年1月の三千円から8月四千五百円、 12月六千三百八十円へ。市中実勢価格は年初四千四百円から年末には一万円。翌51年2月公定価格を一万二千円に引上げるや実勢価格も3月一万六千円へ急騰した。

3 公定価格違反は物価統制令違反として処罰される。が、市中実勢価格が公定価格を上回っている状況では、取引関係者は、すべて違反せざるを得ない。これは日々無益な違反者を作るだけの悪法だとの批判に抗えず、GHQは51年(昭和26)3月31日、一時停止を指令し、翌52年(昭和27)2月27日付けで廃止された。鉄屑取引は、51年3月末から解禁された。

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時は朝鮮戦争の只中、日本はGHQの指令下にあった(主権回復は52年4月)。マッカーサーによる国法を超えるポツダム勅令の条例版。それが第一波を特徴づけた。

第二波 鉄鋼需給安定と金属盗犯防止(1956~58年)

第二波は、その5年後。神奈川、埼玉の「許可制」条例が56年(昭和31)10月1日の同日公布に始まる。56年10月から翌57年12月までの14ヶ月間に(山口、福岡の届出制から許可制への改正を含め)、全国24道府県が条例制定に走った。58年は長崎、佐賀が続いた。

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56年(昭和31)から58年(昭和33)にかけ、世間では、どのようなことが起こっていたのか。

1 戦後の分岐となった二つの「55年体制」が始まり、政党や政治の力量が試された年である。一つは自民党と民主党の保守合同による「55年体制」(自由民主党結成)であり、今ひとつが鉄屑カルテル結成による鉄鋼メーカー主導による「55年体制」の始まりだった。

政治と鉄鋼・鉄屑環境が、この時を境に一変した。

2 通産省が、鉄鋼メーカーを前面に出して、鉄屑の需給・価格の統制・管理を目指して(独禁法を改正し)鉄屑カルテルを立ち上げたのが55年(昭和30)4月。その鉄屑カルテルが、鉄鋼メーカー同士の内部争いと外部の鉄屑業者の抵抗などから、崩壊の危機に直面した(10月)。カルテルを支える側面からも全面的な業者対策の必要が浮上した(鉄屑カルテルと業者対策)。

3 通産省は54年(昭和29)以降、鉄鋼、鉄屑の国家管理を目論む法案を試みては、挫折していた(54年・鉄鋼事業合理化法案、55年・鉄鋼業合理化促進法案)。最後の挑戦なった鉄鋼需給安定法案では、国会上程の断念(57年4月)と引き替えに、「行政指導」の強化と「鉄屑カルテル」の推進での巻き返しを図った(通産省、独自法の断念と本格的行政指導の始まり)。

4 金属屑価格の高騰(56年平均市中値二万九千円、57年二万五千円)などから金属屑盗難事件が多発し、市町村や電電公社、国鉄・私鉄、鉄鋼関連業界、婦人会等から条例制定を求める陳情などが殺到し、その対応が求められた(57年大阪府関係者懇談会速記録)。

5 鉄屑集荷・回収の特殊性がある。作業機械や車両運搬が普通の現在では想像しにくいが、60年前は手作業と荷車と人が主役だった。一説には東京都だけで末端集荷人は約一万九千人(買出人一万二千人、拾集人七千人)、これを束ねる建場に六百業者がいる(「鉄屑年間」58年度版236p)とされ、一般家庭や町工場の鉄屑は、その毛細経路を通じて流れる。末端が暗い闇のままでは、鉄屑流通の安定供給は確保されない。

戦後の経済復興のためには、それらの透明性と法的安定の担保が必須の条件だった、だろう。

6 さらに世は東西冷戦の真っ只中だった。50年(昭和25)に始まった朝鮮戦争やその後の混乱などから、50万人以上の韓国・朝鮮人が在日を余儀なくされ、職を持つ10人に1人は「古物・金属屑」を扱うとされた(法務省調べ)。条例制定理由として、大阪アパッチ戦争(58年8月)に見られる金属屑の盗犯防止の必要が主張されたが、隠れた動機として、在日韓国・朝鮮人が比較的多数を占める金属屑業の職場監視も指摘された(東京都や京都府の条例回避の要因)。

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 第二波は、これら政治的、経済的、社会的な緊張のなか、一つは国策としての鉄鋼需給安定(鉄屑カルテルの円滑運用)のために、いま一つ、ひそかな治安の思惑の下に全国規模で進められた。ただ第二波の最大の眼目は、戦後復興の柱となる鉄鋼産業(それを始発材料とする製造・加工産業)の育成、強化にあった、と見える。

従って公安委員会の鎧を隠す衣として、山口条例の従業員条項や過重な罰則規定は外し、古物商や質商の適用法令として定着していた古物営業法を、ほぼ丸ごと引き写して、鉄屑業者の反発・抵抗を極力回避する方策をとった。しかし、山口条例の先行例が嫌われたためか、東京や京都など有力自治体は、条例制定を回避し、業者の自主組合結成に動いた。追随する自治体もでた。

第二波は結局24道府県に留まり、全国規模には広がらなかった。果たして失敗だったのか。それを探った。

第三波 条例廃止とリサイクル新法(1998~2005年)

第三波は、40数年後、条例の一部改正、廃止の形でやってきた。まず制定当初から異例とされた山口県条例が1998年(平成10)、「従業員」(氏名・本籍・写真等提示)条項すべてと許可「3年更新」規定を削除した。廃止は99年(平成11)高知に始まり、ラッシュとなった2000年(平成12)には7県(福岡、埼玉、熊本、山梨、愛知、三重、長崎)、その後も05年(平成17)まで5県(岐阜、神奈川、香川、鳥取、千葉)の廃止が続いた。

では1998年から2005年まで、世間では、どのようなことがおこっていたのか。

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1 1998年、資源・エネルギーは歴史的な安値にあった。NY(WTI)原油価格(年平均)は97年1バーレル20・6㌦から98年14・4㌦に落込み、鉄と共に産業活動の始発材料であるLME(ロンドン金属取引所)の各種金属相場も、大きく値を下げた。アジア危機(97年7月タイ・バーツ危機、12月韓国危機)、ロシア危機(98年8月)、日本危機(99年)が続いた。

この結果、97年から2002年の5年間、資源・エネルギー相場は歴史的な安値に封殺された。

2 鉄スクラップの陥没は98年9月トーア・スチールの自主清算発表で決定的となった。H2炉前価格は一万円を割り、過去50年間でも例のない六~八千円の陥没価格が02年2月まで丸3年以上も続いた。

この間、採算割れの逆境の中に落ち込んだ業者は死中に活を求めて、鉄屑類を買取るのではなく、排出者に処理費用を請求する「逆有償」が広がり、これを嫌った大型鉄屑(自動車、家電)の「路上放棄」が社会問題となった。鉄屑はもはや「厄介物」だった。防犯目的の金属屑条例の存在理由が見えなくなった。

3 同時に「逆有償」は、廃棄物処理法(廃棄物処理業は「許可」が原則)との関係が問題となった。鉄屑業者は処理法の例外(14条但し書き)として許可なく営業できるが、世間は、そうは思わない。鉄屑の「適正処理」証明が求められ出した(99年リサイクル伝票)。

さらに国も1992年6月(平成4)のリオ・サミット以来、世界的な「地球温暖化防止対策」、「持続可能なリサイクル社会」へ大きく舵を切った。環境保全と再生資源確保のため95年以降、家電リサイクル法(98年6月制定)、自動車リサイクル法(2005年施行)を始めとする各種リサイクル法に動き始めた。

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 40数年後、鉄屑を取り巻く環境は大きく変化していた。この間に、鉄鋼メーカーは鉄屑を必要とする平炉製鋼法から、原理的にはそれを不要とする転炉製鋼法を開発し、鉄屑カルテルは廃止された(1974年9月)。

鉄屑は「絶対的不足」時代から「絶対的余剰」時代に移り、国策的関心ではなくなった。地方自治体が条例施行に固執する理由も、またなくなった。

第四波 再制定-資源有効利用と国際テロ(2013~16年)

第四波が、10数年後の今である。岐阜県が2013年(平成25)10月1日から「岐阜県使用済金属類営業条例」を再制定した。千葉県は15年4月1日「自動車部品のヤード内保管適正化条例」を施行。鳥取県は「使用済物品等の放置防止に関する条例」を16年4月から施行した。

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2013年(平成25)から16年(平成28)にかけて、新たな動きが起こった。が、条例の制定には、事前の根回しや準備がいる。話はその数年前の状況にさかのぼる。

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1 東西冷戦の終結(1991年)後、平和の配当からBRICsが登場した2003年以降、資源争奪の波が鉄屑環境を一変させた。05年には鉄鉱石長期契約価格は前年比71・5%高となり5年間で約2・9倍に暴騰。H2炉前価格も27年ぶりに四万円台(07年9月)に乗った。08年は世界中で記録的な資源暴騰が巻き起こり日本でもH2炉前価格は史上最高の七万円超を記録。金属屑の高騰、盗難多発が再び社会問題となった。

2 中東のテロ集団が2001年9月11日、アメリカに同時テロを仕掛けた。報復のため米国大統領はアフガンに侵攻(10月)。さらに「大量破壊兵器の保有」を理由にイラク戦争(2003年3月)に突入した。これが中東諸国の力のバランスを崩し、イスラム過激派の「聖戦」に火をつけ、世界は際限のないテロとの闘いに巻き込まれた。日本でもテロ対策が急がれた。

3 この間も地球温暖化は待ったなしで進んだ。21世紀は地球環境保全と持続可能な資源確保(再生資源・クリーンエネルギー)の時代となった。「リサイクル」がキーワードとなり、「廃棄物の適正処分」から「有効利用を促進」を追求する時代となった。

その大綱を定めた「資源有効利用促進法」(01年4月)が制定され、容器包装リサイクル法(95年12月施行)、家電リサイクル法(01年4月施行)に続いて、自動車リサイクル法(05年1月施行)が動き出した。

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 そのなかで、「国際テロ対策」と「地球環境保全と持続可能な資源確保」に対応する法制度と業者対応が求められ出した。岐阜県金属屑条例はその一環だろうし、各種リサイクル新法の「許可」「マニュフェスト」管理はそのためだろう。

それが金属屑条例にも新たな役割と変化を与えた。