鉄屑カルテルから鉄鋼公開販売まで(2)

その制度

■法制・独占禁止法

まず鉄屑カルテルが日本の独禁法の形を変えた。

独禁法は「企業の私的な独占及び不当な取引に制限」を禁じていた。その柱が第4条、第5条でわずかに適用除外の例外を認めたのが24条だった。国は鉄屑カルテルに道を開くため第4条、第5条を全面削除し、例外規定である24条に新たに、24条の3(不況カルテル)、24条の4(合理化カルテル)を追加した(53年9月)。

改正独禁法の適用除外条項の申請第1号が鉄屑カルテルであり(53年12月)、認可申請が公取の審決で却下されたのは、公取資料によれば、鉄屑カルテルが最初で最後(74年10月)だった。

鉄屑カルテルの却下後、合理化カルテル申請はほぼ皆無となり99年には適用除外規定(24条3,4)が削除された。適用除外条項は鉄屑カルテルと共にあった。

■独占禁止適用除外法

鉄鋼人の運営に委せる鉄屑カルテルは鉄鋼内部の不調和と鉄屑業者などの外部抵抗から、その後も幾度となく危機を迎えた。鉄屑カルテルは戦後経済復興の要石だった。抜け落ちれば鉄鋼政策の土台が揺らぐ。危機意識を持ったのは鉄鋼人よりもむしろ通産官僚だったろう。

鉄鋼人の自主協調が不可能なら政府の直接介入しかない。それが独禁法適用除外法制定へと突き動かし、鉄鋼合理化法案制定への模索が始まった(55年11月)。

これが戦後の行政方針の一つを作った。通産省の独禁法適用除外法制定への挑戦だ。鉄屑カルテル自体、独禁法の適用除外条項の産物だが、それと共に公取の制約を受けない鉄鋼全体をカバーする需給安定法を作る。

通産省は鉄屑カルテル創設当初の54年頃から57年まで毎年のように適用除外法案の国会提出を試みた(54年・鉄鋼事業合理化法案。55年・鉄鋼業合理化促進法案。56年・鉄鋼需給安定法案)。しかし公取は勿論、統制強化を嫌う鉄鋼業界の合意を得られず三度目となった57年4月、ついに法案制定を断念した。

■行政指導(鉄鋼公販制度)

ここで通産省は、独禁法の適用除外法制定ではなく自らの行政裁量で業界を誘導する「行政指導」に転換した。行政指導なら、すでに鉄屑カルテルで実験済みだった。

鉄鋼公開販売制度は、鉄屑カルテルの弱い輪である海外輸入屑(米国屑)を補強する一括・長期契約による大量入着(180万㌧)と折柄の金融引き締めによる鉄屑需給の超緩和と大減産、それに伴う鉄鋼価格暴落対策として58年6月から「不況公販」として始まった。

が、まさにこのタイミングで岩戸景気の42ヶ月が始まった。不況公販はわずか半年で意味を失った。一旦手に入れた事実上の鉄鋼製品カルテルは手離せない。通産省と鉄鋼首脳は真逆の「好況公販」に看板を掛け替え、存続を図った。公取も呑んだ(59年5月)。しかしこれは裏カルテルではないかとの疑念がつきまとい、公取も警告を発したから、通産省と鉄鋼は三度、装いを改めた。それが「安定公販」(60年7月)である。

通産省と鉄鋼が普通鋼鋼材全体の半分以上の鋼材生産量と販売価格を事前に公然と取り決めることの疑義は、やはり深かった。このため公取は年次報告で疑問を表明した。公取の疑問表明の最後が69年次報告である。

鉄鋼と業者

■新日鉄登場と公販制度

通産省は、独禁法適用除外法の制定を三度失敗(57年3月)し、「行政指導」の強化に転換した。通産省は「鉄鋼の需給及び価格の安定」(57年5月)を指導の柱に掲げ、58年以降は鉄鋼メーカーと協議の上「公開販売制度」を創出した。ただ行政指導による鉄鋼価格の公開販売(公販)制度は公正取引委員会から度重なる「疑問」を投げかけられた。67年度以降は年次報告にも明記された。行政指導にも限界が見え始めてきた。次の一手が求められた。それが行政指導の「完全カルテル(共同行為)」を超える完璧な共同統治(企業行動)の追求だった。

公販の運用は止まった。その直後、鉄鋼大手2社は究極の「共同行為」を目指して合併し、チャンピオンメーカーが登場。「新日鉄的平和」が実現した。

ではその平和はどのように実現されたのか。鎌田慧は運用が止まったが「公販」に注目し、公販協議の通産省幹部と鉄鋼販売最高責任者の会合は「月曜会」としていま(91年)も生き続けているという(鎌田慧の記録4・権力の素顔)。その見出しが「白昼のカルテル行為」である。鉄屑カルテルの鉄鋼製品版として始まった鉄鋼公開販売制度が「月曜会」を産み、「大小無数の談合がはびこっている」もとを作った、と理解していいだろう。

■日本鉄屑連盟と巴会、その後継団体の活動

鉄屑カルテルの実態は「統制」復活である。その申請(53年12月)が「日本鉄屑連盟」の結成を促し、その抵抗が申請は取下げさせた(54年6月)。妥協が必要だった。価格決定は「鉄屑連盟の意見を参酌する」との条項を明示することでカルテルは認可(55年4月)を得たが同条項と鉄屑連盟の存在はノドに刺さった小骨だった。

組織的抵抗は、常に「内部の敵」との戦いである。会社と労組でも第一組合と第二組合の分裂は珍しくない。古来より分断統治は支配の鉄則だからだ。反カルテル運動ではこれが直納業者系団体と中間系を中軸とする鉄屑連盟の対立として表面化した(55年5月。10月)。一旦は再合同協議(55年12月~56年8月)に動いたが、利害対立は覆いがたく決定的に分裂した(56年9月)。

その直納業者系団体が、鉄鋼の不況公開販売制度(58年6月)と5カルテル発足に合わせ全国組織(日本鉄屑問屋協会、日本鉄屑協議会)を立ち上げ(59年6月)、組織の内実を失った鉄屑連盟は事実上消滅した。

この鉄屑連盟に取って代わった鉄屑問屋協会は、鉄屑カルテルに協調する見返りを要求した。それが成功報酬として外口銭(59年以降)であり、活動資金援の要請だった。その結果、組織の自律性と会員の信頼を失った。

■鉄屑カルテルが社団法人・日本鉄屑工業会を生む

このためポスト・カルテルは世界的な突発状況にも対応できる強固な組織・体制の整備が求められた。それが「秩序ある輸入」を目指した「日本鉄屑輸入組合」(73年12月)の設立であり、通産省が公取の疑惑を回避するため鉄屑需給双方の出資・参加を求めて立ち上げた鉄屑備蓄のための「日本鉄屑備蓄協会」だった。さらに鉄屑業者の近代化資金調達のための「回収鉄源利用促進協会」、カルテル終了と共に消える筈だった業者組織を改組し、業者が自前資金で作り上げた「日本鉄屑工業会」(75年7月)のカルテル後継(ポストカルテル)3団体であった。それが通産省認可の社団法人として設立された日本鉄リサイクル工業会の誕生のいきさつである。

備考 

鉄屑カルテルと改正独禁法

■公取資料によれば=公正取引委員会報告や三十年史などを読み返せば、鉄屑カルテルの特異性が際立ってくる。

連合国軍の強い指示のもと47年4月の帝国議会で制定された独占禁止法は日本独立後、官民双方から改正が求められ、53年9月1日公布と同時に施行された。

その認可申請第1号が鉄屑カルテル申請(53年12月)だった。公取にとっても新設されたばかりの適用除外条項である「24条の3」(合理化カルテル)の審査は初めてのケースだった。審査には極めて慎重を期した。

それが産業界全体の強い不満となって公取へ「要望書」が寄せられ、公取委員長が「格別の配慮」を公開文で約束する(55年3月)異例の展開を生んだ。

鉄屑カルテルは55年4月の認可から、途中、曲折を経ながらも74年9月まで15回、19年間続いた。74年9月期限切れを迎えた鉄鋼9カルテルはさらに2年間の延長を申請したが10月9日、公取は却下の審決を下した。その経緯を記した30年史によれば(不許可の事前通知にも係わらず審決での判断を求め、公取が「審決をもって認可申請を却下したのは、これが初めてであった」「鉄くずについて延長の認可申請が却下された結果、合理化カルテルは姿を消し、その時以後現在(77年)まで1件も行われていない」(366p)という。

鉄屑カルテルは、公取30年の歴史の中で、認可申請第1号となり、申請却下の最初で最後を演じたわけだ。

■適用除外制度と合理化カルテル=53年9月の独禁法改正で増設された適用除外規定(24条の2・再販売価格の拘束、24条の3・不況に対処するための共同行為、24条の4・企業合理化のための共同行為)のうち、24条の2を除く不況カルテル、合理化カルテルの各条は、99年7月の適用除外制度整理法により廃止された。

鉄屑カルテルが却下されてから15年、認可申請を求める動きは途絶え法律も改正された。不況カルテル、合理化カルテルは、法制度上ではともかく姿を消した。

鎌田慧の記録4・権力の素顔

鉄鋼公開販売制度は鉄鋼各社の相互監視の役割を果たし、指定問屋制度と共に、戦後の日本の鉄鋼業の行動様式を決めたかに筆者には見える。鉄鋼各社の社史、年表などを覗くと「鉄鋼公開販売制度開始58年6月」の記入はあるが、終りを記入した文書が皆目、見当たらない。

どうしたものかと大阪府立図書館の司書に相談した。彼女は通商産業政策史、各社史、国会の商工委員会議事録等をあたってくれたが、明確に記したものがない。数時間後「それらしきことが書いてあります」と一冊の本を開いてくれた。「鎌田慧の記録4・権力の素顔」だ。

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鎌田は「国家も支配する鉄の団結」の章を立て通産省鉄鋼業務課長や鉄鋼大手5社の販売最高責任者本人が毎週月曜日、東京茅場町の鉄鋼会館で白昼公然と会食する「国家公認のヤミ・カルテル」・月曜会の背景を58年6月発足した鉄鋼公販の説明から解きほぐす。

「公販制は存在するが、今はさして機能を果たしていない。産みの親である“ミスターカルテル”こと稲山新日鉄会長でさえ、その形骸化を嘆息している程である。(略)実情に全く合わなくなった制度でも鉄鋼人たちは文句をいうことなく神妙な顔をして出席している」「有名無実の公販制度を続けているのは、この存在自体が霊験あらたかなるがためである。

この制度があればこそ、これを法的根拠として鉄鋼大手メーカーが堂々と会合を持てるのであり、定例月曜会も公販の実行機関として、総合市况対策委員会の『総合部会』として公販制にこじつけて開けるのである」(117p)。

月曜会が始まったのが鎌田によれば「14年も前の1959年である」。59年と言えば「好況公販」に重なる。その公販の運用協議から始まった。しかし69年度公取の重なる警告から局面は変わった。公販運用自体が危ぶまれた。が、そこは「鉄は国家」である。

実際の利害に絡む運用はしない。ただ制度を廃止しなければ行政裁量として運用相談、打ち合わせは公取の警告には抵触しない。制度の抜け殻だからこそ、利用価値は高い。それが稲山の韜晦の裏の一面なのであろう。

          以上