*本稿は21年10月6日に刊行した「日本鉄スクラップ 鉄鋼と業者140年史」(「第一部 伊藤信司と稲山嘉寛の時代(1877~1985年)」、「第二部 渡来系業者とゼロカーボンの時代(1985~2021年)」の二部構成のうち、第二部第一章の「戦後70年史概説」全文を本hpに公開したものである。
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第二部 渡来系業者とゼロカーボンの時代
第一章 戦後70年史概説
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1945年敗戦から52年講和条約(日本独立)まで
1945年8月の敗戦と連合国軍による占領支配から、日本の政治、経済体制は崩壊した。
鉄屑統制に関する法制や制度、組織は廃止・解体され、鉄屑商売は営業の自由を取り戻した。
鉄鋼工場・設備は民生用を除いて「戦時賠償」対象に指定され(45年12月)撤去や海外売却が予定された。さらに鉄鋼産業は、経済性から存続の可否さえ論議された(49年「鉄鋼業廃止論」)。鉄屑商売は戦後の混乱が収まる47年後半まで開店・休業の状態が続いた。
この鉄鋼環境が米国・ソ連両陣営の冷戦の高まりから一変した。日本への戦時賠償追及は破棄され(49年5月)、朝鮮戦争の勃発(50年6月)が鉄鋼に特別需要(特需)を呼び込んだ。この間、戦前の古物営業法は改正され「鉄屑は廃品であって古物ではない」(49年古物営業法解説)として規制対象から除外され誰でも扱えるモノとなった(49年5月)。
また朝鮮戦争勃発などから日本残留を余儀なくされた韓国・朝鮮人にとって、鉄屑は最も手っ取り早い商売となった。ただ朝鮮戦争に参戦したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、敵性韓国・朝鮮人への警戒感を強め(50年12月・佐世保市「古鉄金属類回収業条例」)、主権を回復した日本も在日韓国・朝鮮人への法的監視を継続した(52年外国人登録法)。
50年代 鉄屑カルテルと鉄鋼公開販売制度の時代
荒廃した国土と産業を復興するには、世界に伍する産業・経済活動が求められる。その柱の一つが鉄鋼産業だった。が、原料の鉄屑絶対量は足らないし、国際相場に比較して割高だった。経済の世界で戦うためには、原材料である鉄屑は是非とも国際価格並でなければならない。
52年4月主権を回復した通産官僚と鉄鋼人は、鉄屑カルテルの結成に動いた。53年9月独禁法を改正し、鉄鋼20社は同年12月11日公正取引委員会にカルテル結成を申請した。
この動きに戦中の「鉄屑統制」の記憶が生々しい大方の鉄屑業者は反発。関東鉄屑懇話会は各地の鉄屑業者団体を束ねて全国組織「日本鉄屑連盟」を結成しマスコミ、公取などに訴え、全国的な抵抗運動を展開した。カルテル申請は54年6月末(両業界の綱引きや紆余曲折のすえ)、一旦は取り下げられた(幻の鉄屑カルテル)が、その9か月後の55年3月30日「価格決定は鉄屑連盟の意見を参酌する」との鉄鋼・業者双方の妥協が成立し、期間1年間のカルテルとして公取に申請され、4月11日付けで認可された。
*詳しくは第一部「第五章 鉄屑カルテルと日本鉄屑連盟の抗争」参照。
しかしカルテル(第1回)運営は、わずか半年足らずで鉄鋼・業者双方ともに行き詰った。まず業者たちはカルテル対応組織に指名された「鉄屑連盟」の主導権を巡って高炉系の直納業者団体と中間・地方業者団体とが争い、分裂した(55年10月)。一方、鉄鋼側も激烈な鉄屑買付競争のなか(アウト・メンバーの「協定価格」越えの高値買いに翻弄され)、公取の認可を受けた共同行為である価格協定を自ら放棄。カルテルは崩壊した(同じ10月)。
カルテル崩壊後、「再建」を託されたのが、稲山嘉寛(八幡・専務)らだった。
ぶざまなカルテル自壊は、カルテル制度設計の不備から起こった。
その初期設計の不備を内外の政策を総動員して再構築する。その国内策が、同じ鉄鋼内部のアウトメーカー対策(これを内部に取り込む)、業者対策としては「日本鉄屑連盟の意見参酌」条項の排除。対外対策としては外貨規制を利用した輸入屑の一括管理の徹底だ。
国内対策は第4回の鉄屑カルテル認可(56年9月)に前後して実現した。
ついで外貨規制を利用したカルテル主導の大量・一括輸入が対外対策として動き出した。それが米国ルリア社提案に乗った米国鉄屑180万㌧の長期契約締結(56年11月)だった。
しかし「180万㌧の長期契約」は転がる大きな石だった。時はスエズ紛争(56年11月)さなか。米国は戦略物資として鉄屑禁輸を日本や欧州に通告(57年2月)。国は、禁輸回避のため稲山らを鉄屑使節団として急遽派遣(同月)。LD転炉鋼製法などによる65年度までの長期需給計画を示して禁輸回避に成功。無事180万㌧引取り(6月)にこぎつけた。
が、この時、神武以来とされた好景気は終わった。相手配船による180万㌧の大量入着が国内需給を圧迫した。とはいえ、もはやキャンセルなどできない(国際信義問題)。
荷止めと相次ぐ値下げから国内鉄屑価格は暴落。連れて鉄鋼製品価格も底割れした。
その鉄鋼製品の底割れ対策に稲山らは動いた。稲山ら鉄鋼と通産官僚らは鉄屑カルテルを作ったが、本筋、本来の狙いはあくまでも「製品(鋼材)価格の安定確保」にあった。鉄屑カルテルの再建を果たした通産省と稲山らは翌58年6月、さらに次の一歩を進めた。
それが不況対策として鉄鋼各社の鋼材価格を投網的に監視する行政指導、「鉄鋼公開販売」の創出である。この事実上の製品カルテルにより、原料(鉄屑)価格は「鉄屑カルテル」で、製品(鋼材)価格は「鉄鋼公開販売」で、監視する鉄鋼の上下・完全カルテルが完成した。
この仕組みは、鉄鋼価格の安定を目指すから何も不況対策だけにはとどまらない。
最初こそ「不況公販」(58年6月)として始まったが、次は好況時の価格高騰抑制の「好況公販」(59年6月)として、さらに好不況にかかわらず鉄鋼価格の「安定公販」(60年7月)として、以後10年にわたって公取委の承認を受け、連綿として存続した。
業者団体はこの法的鉄屑カルテルと事実上の製品カルテル(「鉄鋼完全カルテル」)が動き出した58年夏以降、稲山・ミスターカルテルの指導力の下に服属した。
*この間のいきさつは、上掲の第一部「第八章 事実上の鋼材カルテルと稲山」に詳しい。
60年代 高度成長と鉄鋼乱世、大手商社の時代
60年代、鉄鋼設備は新時代を迎えた。高炉では、鉄スクラップを原理的に不要とする純酸素転炉製鋼法に変わり、有力平炉会社も構内に高炉を建設して高炉会社に変身した。これが「鉄鋼乱世」を招き寄せた(65年。3月・山陽特殊製鋼など行き詰まり、11月・住金事件)。
その一方で、50年代末に完成した事実上の製品カルテルである「鉄鋼公開販売」制度も運用10年に及んだ60年代末には、公取の深い疑義にさらされ、抜本的な見直しに直面した。
60年代、急速に勢力を伸ばしたのが糸偏などを含む新旧商社だった。鉄屑カルテルは外貨規制を盾に商社を米国屑扱いから排除したが、60年4月の外貨自由化を機に新旧商社は米国屑輸入に参入。これを足場に国内市場に進出したから専業直納業者は商社傘下に組み込まれた。
*高炉火入れ・建設計画相次ぐ=61年。富士は2月大分県鶴崎、住金は3月和歌山1号高炉火入れ。鋼管は4月鶴見1号高炉火入れ。川鉄は6月倉敷市、鋼管は10月福山市と新製鉄所の建設で合意。住金は8月鹿島進出の交渉開始。八幡は9月君津で建設着工。神鋼も加古川に用地を買収。電炉の大型化・大電力化も急速に進んだ。
*60年4月。外貨割当制が自動承認制へ切替り、商社が参入した。61年度輸入屑量は国内購入382万㌧を上回る545万㌧に達し、以後、商社思惑と国際相場が国内の天井価格を左右する状況が定着した(61年4月特級価格2万4千円→翌62年6月1万1千円)。
*65年・新製鉄所稼働ラッシュと住金事件=名古屋の東海製鉄は64年9月、八幡製鉄・堺が65年6月、日本鋼管が66年8月福山で、川崎製鉄が67年4月水島で火入れした。そのさなかの65年11月、和歌山に3号高炉を建設した住金が、通産省の減産指示に異を唱えた。これは行政指導に反旗を翻す、異例の「事件」と注目された。この行政指導(減産)の背後には新旧高炉の対立(シェア争い)があると見られた(日向・住金社長)。
*68年・八幡、富士が合併を申請=両社は68年、合併趣旨を公取に提出した。事前審査ではブリキ、 レール、 鋼鉄板、 鋳物用銑の4品種が問題とされたが、両社は69年3月合併に調印。5月公取は合併否認を勧告。両社は勧告を拒否。公取の審判に持ち込まれた。8月両社は対応措置を提出。10月公取は申出書の内容を適当と認め、合併を認めた。
*商社系ヤードが進出=関東では東洋綿花、三菱商事などが傘下業者とタッグを組みシュレッダープラント建設へ乗り出し、関西では住商の支援のもと伸生スクラップがシュレッダー工場を立ち上げた。三菱・大阪、三井・大阪も同様のプラント構想を検討した。
*商社の国内屑扱い量=カルテル資料によれば68年当時、大都市部で85%以上を占めた。電炉経営に直接参与し、 原料購買から製品販売までの営業活動の大部分の商権を獲得した。
70年代 新日鉄的平和と鉄屑国内需給改善のなかで
60年代の鉄鋼乱世は、70年3月の新日鉄の登場から終わりを告げ、新秩序体制が始まった。
鉄鋼製品も鉄屑価格もチャンピオン会社のおおきな傘の下、安定した(新日鉄的平和)。であれば鉄屑カルテルはいらない(74年10月・カルテル廃止)。とはいえ鉄屑は、それでも世界的な戦略物資である(73年、米国鉄屑・輸出数量規制)。国内不足に備えた鉄屑備蓄機関はいる。それが「ポスト鉄屑カルテル」としての鉄屑備蓄組織(日本鉄屑備蓄協会)の設立を急がせ(74年)、供給団体としての社団法人日本鉄屑工業会を作った(75年7月)。
この工業会の発足が、今日につながる鉄スクラップ産業の運営基盤を作った(76年5月。日本標準産業分類。鉄屑加工業を「製造業」のうち「その他の鉄鋼業」「鉄スクラップ加工処理業」に認定。77年5月。中小企業近代化促進法の「指定業種」に指定)。
戦前・戦後の一時期まで日本経済と鉄鋼各社の重い足かせとなっていた鉄屑の「絶対的な窮乏」が、60年代以降の高度経済成長から消えた。その結果、70年代には鉄屑需給は変わった。
鉄屑の発生増加と電力事情の好転から電気炉で鉄スクラップを使って製鋼する中小電炉会社が登場。鉄屑購入の主力は(大手高炉や平炉会社から)各地の中小電炉会社に移った。
この前後、大手商社は鉄屑の国内100%自給とその後のシェア確保を目指して有力業者と提携した機械化やヤード建設に乗り出した。マイカー時代を前に大手商社指導のもと、米国製の大型シュレッダープラントが70年春から夏にかけ関東、関西で一斉に動き出した。
戦前から戦後の一時期までは加工・処理機械といえば小型プレス機や手切りシャーぐらいしかなく、荷捌きも大方が人力・人手に頼っていたが、70年代以降、鉄屑業界にも機械化の波が押し寄せてきたのだ。門型の大型切断機(ギロチンシャー)が登場するのは64年西ドイツ製(堺・山根商店)が最初。一般業者向けでは手塚興産が70年大阪の平川商事に納入した。
鉄屑業はかつての肉体重筋作業から設備・装置産業へと様変わりした。
この機械化の波に乗ったのが、「中間業者」や在日コリアンだ。彼らが直納・ディーラーに替わって、商社傘下ながら実務代行の「代納・ヤード業者」として台頭することになる。
この間、世界の政治・経済は大きく揺れた。
ベトナム戦争に参戦した米国は多額の軍事出費から体力を消耗。71年8月、金とドル通貨の交換停止を発表したニクソンショックから米国一強体制は崩壊し、日本も固定為替から変動為替制に移行(73年2月)、石油ショック(同年10月)、世界同時不況(74~75年)に叩かれた。
石油ショックは重厚長大産業である鉄鋼業を直撃し、電炉業界では整理・統合が相次いだ。「全治3年」(73年福田蔵相)と言われた石油危機の後遺症は、新日鉄の指導による系列電炉再編(76年大同特殊鋼、77年合同製鉄、78年大阪製鉄など)として進んだ。
原因は過剰設備の乱立であるとして、電炉の過剰設備の廃棄と新増設の禁止が期間3年間の法律によって強行された(77年特定不況産業安定臨時措置法=特安法)。
80年代 電炉構造不況とヤード業者成熟のなかで
特安法は81年3月に終了するはずだったが、高炉系の再編の網にこぼれた中小電炉会社の再編・廃業が相次いだ。いずれも地域産業の中核会社である。放置できない。国は、特安法を2年間延長し、さらに83年、特安法に続く新法(特定産業構造改善措置法=産構法)を制定し、86年6月までの3年間、過剰設備の廃棄と新増設の禁止を電炉会社に命じた。
80年代。日本は二度の石油危機(73年、79年)から素早く立ち上がったが、米国はインフレと景気後退が並走するスタグフレーションに陥り、自動車・粗鋼生産とも世界トップの座を日本に明け渡した。これが対米貿易摩擦(81~83年度・自動車輸出自主規制。85~92年・鉄鋼輸出自主規制)を引き起こした。85年。その対米経済対策が先進各国の課題となった。
85年9月、米国の過度なドル高是正を目指した国際合意(プラザ合意)による「円高誘導」が日本の貿易産業を打ちのめした(85年8月1㌦250円→86年8月150円=円高不況)。
86年4月、その対策として輸出主導型の経済構造を内需主導型へ転換する「前川レポート」が出た。また日銀は「円高対策」として異例の超低金利(86年1月5・0%から段下的に引き下げ87年2月2・5%。以後89年5月31日まで27ヶ月継続)を実施した。
87年5月。さらに政府は総額6兆円・過去最大の緊急経済対策が決定。この直後から景気は急上昇し、不動産・建設、株式バブル(87年~90年)の扉を開いた。
電炉の主力製品である鉄筋棒鋼は、不動産・建設関連商品である。
電炉設備の新増設は、83年の「産構法」により法的に禁圧・抑制されたが、同法は86年6月消滅。77年の「特安法」以来10年の禁圧から解き放たれた電炉各社は、折からのバブルのなか、一斉に設備の新増設に走り出した(電炉新時代の到来)。
80年代。鉄屑発生は年ごとに増加した。これを追って商社系列だけでなく、一般ヤード業者でも機械設置や大型化が加速。さらに列島改造(73年)後の、地方都市の整備や高速道路網の全国的な延伸から郊外、大規模ヤード建設も進んだ(81年・関東月曜会結成)。
その業者の転機となったのがプラザ合意。急激な円高と鉄鋼・対米輸出自主規制が鉄鋼不況の引き金を引いた。鉄屑相場は、合意前のH2・二万五千円から1年後には一万五千円に陥没し、多少の消長をあったものの以後15年の常態となった(国際相場水準へ強制調整)。
ポスト・カルテルとして設立された鉄屑備蓄協会も機能を止めた(88年)。が、この間、直納商社の傘下に身をひそめ代納商売に甘んじていたヤード業者らは、鉄屑の「絶対的な余剰」予測を前に、独自の販売策を模索し始めた(88年・月曜会、鉄屑輸出調査団)。
*月曜会レポート=「電炉メーカーの輸入くず、輸入銑の集中豪雨的な入着によって空前の超供給過剰となった。たび重なる価格の暴落と荷受け制限を浴び、まったく行方を失い経営意欲を損う最悪の事態に追込まれた。鉄くず価格は戦後の最安値際になり、国際価格的にも日本の独歩安が示現。鉄くず産業にとって新たな構造不況局面を迎えようとしている。いずれやってくる鉄くず輸出増を想定し、韓国を訪問することとした。」(88年5月)
*鉄屑の「絶対量の不足」は終わった。次の問題は鉄屑の「絶対量の過剰」に如何に対処すべきか・・・、だった。従って本書は、これを「第一期」と「第二期」の分岐とみた。
90年代 バブル崩壊と「逆有償」と92年リオ会議のなかで
89年.土地、不動産バブルが始まった。90年。「地上げ」が日本全域を包み込み電炉業界は空前の新増設ブームと好収益に沸いた。不動産バブル・需給ひっ迫による鉄筋丸棒六万円の高原相場と大量の建物解体・鉄屑発生の急増から鉄屑一万九千円台の低安定が同時に出現したからだ。しかし、そのバブルは2年足らずで破裂。91年以降すさまじい経済崩壊が続いた。
世界も激動した。東西ドイツの統一(90年10月)、ソ連邦の解体(91年12月)から世界経済は「単一市場」に再編され、対抗軸を失った「資本の論理」は、国境を越えてアジア危機(97年7月、12月韓国危機)を呼び込んだ。この間、日本では不動産関連を中心とした巨額の不良債権から主要都銀の破綻(98年)が相次ぎ、日本発の恐慌不安(99年)が世界に発信された(失われた10年)。世界の資源・エネルギー相場は歴史的な安値に封殺され、原油・天然ガスの貿易収支を主な国家財源とするロシア危機(98年8月)も発生した。
この世界的な資源・エネルギー安のなか98年9月、日本最大の電炉会社であるトーアスチールが任意整理に追い込まれ、99年3月中山鋼業も行き詰まった。鉄屑炉前(H2)価格格は一万円を割り込み、鉄屑商売は軒並み採算割れ、やれば赤字に追い込まれた。
であれば、鉄屑引取りは、買取(有償)ではなく処理量を請求する(逆有償)しかない。この「逆有償」が鉄リサイクル業の大きな、しかも決定的な転機となった(*)自動車・大型家電などの路上放棄物が社会問題化するなか、国は各種リサイクル法の制定に動きだした。
*リサイクル法制定を促した=排出者に処理料金の負担を請求する逆有償とその定着は、排出者に応分の協力を求める家電や自動車など各種リサイクル法の制定を促した。
*業態拡大を促した=各種リサイクル法が制定されるなか家電や自動車メーカーに替わって、もしくは共同して処理拠点を立ち上げたのが、鉄スクラップ業者達だった。非伝統的な「逆有償」をベースに置いたから地方や新興勢力業者が多いのも特徴だ。
*組織近代化を促した=個々の業者だけでは取引相手を説得しにくい逆有償が、経営意識を鍛え直し、自主的、活動的な業者組織の結成を促した。なかでも地域的、品種的に不利な条件にあった自動車解体・中古部品販売業者は、IT技術を駆使して販売網の共同開発、共同倉庫の開設に精力的に取組み、広域販売網の構築と経営モデルを確立した。
*流通変化を促した=逆有償の現実が業者の意識と行動を変えた。その一つが「逆有償」を契機に資源リサイクル法時代に備えた体制づくりを進めたこと(リサイクルビジネス)。今一つが国内に需要が無いなら海外だとの発想が、輸出ビジネスを切り開いた。
90年代。さらに大きな転機が海の向こうからやって来た。
92年6月ブラジルのリオデジャネイロで開かれた「地球サミット(環境と開発に関する国連会議)」だ。18世紀の蒸気機関発明による産業革命以降の200年。二酸化炭素排出増加による地球温暖化とその防止対策は避けては通れない問題となった。「持続可能な開発」が国際的な課題と宣言され、地上の回収資源である鉄スクラップは国際的に再評価された。
その前年の91年、日本でも再資源化法(リサイクル法)が制定され、日本鉄屑工業会は会員アンケートの結果を受け、日本鉄リサイクル工業会に名称を変更した(91年6月)。
95年以降。リオ・サミットを起点に各種リサイクル法が制定され、自動車や家電メーカーのリサイクル責任が法的に明記された。その結果、鉄リサイクル業者の立ち位置が変わった。
鉄スクラップ業者、企業経営は、資源回収・加工・販売の従来業務に加え、各種リサイクル法が指定する「リサイクル企業」として名乗りを上げる、新たなビジネスの道が開けた。
*経産省と環境省共管の再生資源利用促進法(91年制定。01年・資源有効利用促進法に改正)、容器包装リサイクル法(95年制定・施行)、家電リサイクル法(98年制定、01年施行)などが法制化され、鉄スクラップ業者は「リサイクル資源業者」の立ち位置を獲得した。
2000年代 リサイクル法制と輸出新時代のなかで
90年代末の電炉不況が鉄スクラップ需給を破壊した。需要の急減は「余りものに値なし」の現実を業者に突き付け、業者は入荷対策として「逆有償」に踏み切ると共に、出荷対策として販路を海外に求めた。この鉄スクラップ輸出が2001年以降、新たな潮流となった。
その全体像は、以下のように整理できる。①公共事業の抑制政策から98年を境に、電炉生産と鉄スクラップス消費が急減した(国内需要の後退)。②排出者に処理料金を請求する「逆有償」が業者の意識を変えた(新ビジネスへの台頭)。③「逆有償」も「海外輸出」も業者バラバラではうまくできない。「相互連絡」の輪が各地で広がった(連携・共同化の定着)。④92年リオ会議以降、国は循環型社会形成推進を国策とし、鉄スクラップ輸出の港湾整備を整え始めた(国策・行政支援)。さらに⑤東西冷戦の終結(91年ソ連崩壊)から、旧社会主義国の労働市場が開放(92年中国・社会主義市場経済)され、世界経済は04年から4年連続で5%前後の成長が続いた。⑥そのなか97年アジア危機から韓国がIMF支援を受けて立ち直り、中国が貿易市場に登場した(両国向け輸出拡大)。⑦まさに世界的な「受け皿」拡充と国内需給や業者意識の変化があればこその輸出拡大であり、潮流変化だった。
*90年代末の「失われた10年」は、日本産業の体力(経営力)を奪った。日産自動車は海外から社長(カルロス・ゴーン)を招き、鉄鋼購入窓口を高炉5社から3社に絞るなど大幅な合理化を断行した(99年)。これに危機感を強めた川鉄とNKKは合併してJFEホールディングスを設立(02年9月)し、新日鉄と住金、神鋼も戦略的提携を結び(同年11月)、大手2大グループと東京製鉄などその他独立系体制が出現した。
国内外でも鉄スクラップ貿易整備に動いた。関東鉄源協議会は共同輸出(96年4月)で実績を積み重ね、法的な組織の安定と信頼を求めて協同組合へ改組(01年11月)。日本側の取り組みに対応して韓国電炉も月例・定期入札を開始(04年6月)。歯車がガッチリと噛み合った。
東西冷戦の終結は、世界経済の単一化と鉄鉱石などの資源メジャーと鉄鋼の寡占化を促した。世界の金属指標であるロンドン金属取引所(LME)相場は、資源不況と目された98年に比べ、ニッケル、銅、鉛、亜鉛もいずれも過去最高を記録(07年平均)し、日本のH2炉前価格も27年ぶりに四万円の大台(07年9月)に乗った。資源・エネルギー高がやって来た。
中国は国策として巨大企業の育成・強化を目指し(05年。胡錦涛・鉄鋼産業政策)、鉄鋼生産世界1位のミタル社が、TOBを駆使して同2位のアルセロール社を合併(06年8月)。世界の鉄鋼マーケットは、国策(中国)と資本の論理(TOB)の二つの巨大な波に直面した。
狭い国内競争の合理化に動いていた日本の鉄鋼各社は経営戦略の再検討を迫られた(*)。
*2000年代を通じて著しいには、中国の躍進だった。毛沢東の文化大革命を生き延びた鄧小平は78年11月、階級闘争から「経済建設」への転換を決定した。新日鉄・君津をモデルにした中国初の臨海一貫大型製鉄所・上海宝山製鉄所が85年9月完成し、中国鉄鋼業の現代化が始まった。鄧小平は92年、政治的には社会主義、経済的には市場経済を守るとの「社会主義市場経済」 体制を内外に宣言し、西側資本の中国投資の安全を保証した(南巡講話)。
その後の中国の急成長は、南巡講話路線のもと、東西冷戦の終結と世界経済のグローバル化の賜物だった。それを決定づけたのが01年12月のWTO(世界貿易機関)加盟だ。
中国は安価な労働力を提供する「世界の工場」からスタートし、膨大な人口と豊かさを求める中間層の増大を通じて「世界の消費市場」へ変貌した。文化大革命 (1966~76年)末期の76年、わずか2千万㌧だった粗鋼生産は、78年の鄧小平の「改革・開放」、85年の上海宝山製鉄所火入れ、92年の南巡講話を契機に増加に転じ、96年日本を抜いて世界のトップに立った(日本のトップ在位は80年から95年まで)。
胡錦濤国家主席の指導のもと05年7月、中国は鉄鋼上位10社で30%強の粗鋼生産比率を10年は50%、20年は同70%に高め、10年までに粗鋼生産3千万㌧級の企業を2社、1千万㌧級を2~3社形成するとの鉄鋼産業政策を発表。さらに06年・第11次5カ年計画(06―10年)では鉄鋼の合併・再編を進め、上位2社で5~6千万㌧規模を目指すとした。
2010年の世界粗鋼生産は14億3千万トン強。うち中国6億3千万トン弱、日本の1億1千万トン弱をはるかに上回り、世界全体の44%弱を占めるに至った。。
この中国の驚異的な追い上げから「世界で戦うために」が日本鉄鋼業界のスローガンとなった。すでに03年以降、電炉会社も、新日鉄住金系とJFE系の高炉2系統と独立系数社に集約されていた。鉄鋼の生産・販売も(過当競争を排除して)「需要に見合った(協調)生産」が可能となった。需要(鉄鋼・電炉)メーカーと供給者(納入鉄スクラップ業者)との力関係と勢力図は、この時を境に変わった(その後の展開は2010年代の稿を参照)。
国内では、各種リサイクル法が2001年以降、一斉に動き出した。
製造者に製品販売後の処理責任(拡大生産者責任)を課す、家電リサイクル法(01年)、建設リサイクル法(02年)、自動車リサイクル法(05年)が相次いで完全施行され、大型家電法の不備を埋める小型家電リサイクル法(13年)も制定された。
リサイクル諸法は、最終廃棄物の最小化と再生資源回収の最大化を目標とする。とはいえ排出者である家電や自動車メーカーには処理、再資源化の技術的な集積はない。そこで処理設備や豊富な回収ノウハウを持つ鉄スクラップ業者が、処理実務のパートナーとして登用されることになった。リサイクル法に新たな足場を発見した業者たちは、鉄スクラップだけではなく「エコ・リサイクル」「総合リサイクル」を新たなビジネス目標として分野を広げていった。
第二次大戦後の東西冷戦は、90年の東西ドイツの統一、91年のソ連邦の崩壊から西側の勝利に終わった。この「平和の配当」を受け、世界経済は2003年以降5年連続で拡大した。
原動力となった一つが中国など新興BRICs諸国の台頭だった。今一つが、信用能力の低い市民にもローンを認める制度を利用した米国の住宅・不動産ブームだった。
これが07年8月、「サブ・プライムローン(劣後債)問題」として浮上。金融工学を駆使した同ローンは、予測不能な破綻の連鎖となって世界の信用(銀行・証券)を破壊した。
破綻回避のため欧米先進国は大量の資金を市中に投じたが、しかし歴史の皮肉は、これら大量の資金が株式、実体経済への不信から行き場を失い、成長期待の大きい資源など関連商品市場へ流れ込み、未曾有の急騰を巻き起こしたことだ(NY・WTI原油08年7月11日147・27㌦、東鉄・岡山08年7月15日特級七万二千円)。
他方、サブ・プライムローンによる信用破綻の連鎖は、翌08年9月米国証券大手のリーマンブラザーズの突然の倒産となって世界を震え上がらせた(リーマン・ショック)。
世界は「百年に1度」(グリーンスパン元FRB議長)の壊滅的な危機の予感から、実需取引がほとんど瞬時に「蒸発」した。大恐慌の恐怖が世界を包む中、中国は4兆元の景気刺激策を発表(08年11月)。米国FRBも実質ゼロ金利を設定(08年12月)。欧州各国は戦略産業である自動車の新車買い換え促進に動き、ビッグ3の破綻に直面した米国は個別企業の救済に踏み込む(09年6月)など、主要各国は一斉になりふりを構わない基幹産業保護に走り、先進各国中央銀行はゼロ金利・量的緩和など「非伝統的な」資金運用に踏み切った。
東京製鉄は08年10月1日から11月5日まで19営業日のうち14日間、値下げ(岡山・特級四万七千円→一万二千五百円)。「3時に仕入れて4時に損をする」相場が出現した。
2010年代 異業種・新規参入と鉄スクラップ業の変質のなかで
新リサイクル法を追って、まず現れたのが、地方・ローカル業者と自動車解体業者らだ。
いままでなら社会的や地域的なハンディー、扱い品種で劣位にあった業者にも、各種リサイクル法(家電、自動車など)が新規ビジネスの可能性を提供した。伝統的な鉄スクラップ業者は、工場発生品や建物解体物など重量スクラップを中心に扱ってきたから、家電、自動車など異物混入の多い解体モノは(専門・前処理業者が行うもので)直接扱うものでなかった。したがって家電や自動車リサイクル法の対応は、時代の変化を先読みした一部ヤード業者と並んで(むしろそれ以上に)、立地条件の制約に苦しんだ地方業者や自動車解体業者、在日コリアンなど従来の鉄スクラップ本流から離れた傍流・前処理業者などの参入の場ともなった。
次いで登場したのが、鉄スクラップ隣接業界である産業廃棄物処理業者の一群だ。
71年9月施行の廃棄物処理法は、廃棄物処理業者を「捨てるモノを請け負う商売」と規定。場合によっては、不法投棄に走る不届き者も現れると見て、厳格な許可要件を課して監視した。
ただ鉄などの金属屑回収業者や故紙、ボロ、ガラス瓶など四種類の扱い業者は歴史的な経緯(「専ら回収が目的」である)から同法の適用を除外し、許可取得を不要とした(14条但書)。これが両者の法的垣根となった。しかし98年以降の鉄スクラップ「逆有償」のなか、許可の有無が市民目線から問題となった。排出者(市民)からすれば、鉄スクラップを買い取るのではなく逆に処理料金を請求する行為は、廃棄物回収業者と同じ商売に見えたからだ。
鉄スクラップ業者は、廃棄物回収業者とは違って廃棄物処理法の許可なく、鉄・廃棄物の回収ができる。が、市民はその違いが分からない。排出者から許可証の提示を求められ、商売に差し支えるケースがでてきた。誤解だが、その理屈は市民(排出者)には通らない。
自衛のため鉄スクラップ業者でも廃棄物処理法の許可を取得する動きがでてきたから、両者の垣根は、壊れた。それは産廃業者にとっても同様だった。
ただ廃棄物処理法の厳しい法規制の中に育った産廃業者らかすれば、鉄スクラップビジネスは(基本的には何の法的制約もない)緑の平原だった。
彼らも塀を乗り越え、一気に鉄リサイクルビジネスに参入した。
さらに国際相場と為替相場に翻弄されることの多い非鉄金属業界からの転入例もある。
銅や真鍮などの非鉄金属品は、扱い単価が高いだけに、成分(スペック)検収や異物混入チェックが厳しい。プレイヤー(買い手)も限られ、選別手間や人件費、返品リスクは高い。
値決めは、国内精錬メーカーの建値スライドだが、この建値は海の向こうのLMEなどの国際相場にリンクするから、地金類の国際相場変動だけでなく、同時にドル円換算の為替変動リスクにもさらされる。まずニクソンショック(71年8月。1㌦360円から308円へ)が、次いで国際経済の変化を日々刻々にうつす変動為替相場(73年2月)への移行が、非鉄業者を揺さぶり、85年プラザ合意以降の急激かつ大幅な円高が、安定経営の基盤を掘り崩した。
これが大手精錬メーカーだけでなく、町の非鉄回収業者のハンディとなった。銅や真鍮などはスクラップといえども高価だから、為替変動はモロに販売・在庫リスクとなって業者の信用に直結する。他方、鉄スクラップの成分検収は非鉄金属スクラップほど厳格ではない。プレイヤー(買い手、流通)は多いし、品単価も安い(販売・在庫リスクも非鉄ほど高くはない)。また鉄スクラップは、基本的には目の前の国内事情で需給は完結するから、海外相場や為替変動リスクも比較的少ない。
この両者の違いが、非鉄回収業者を惹きつけた。加えて家電など新リサイクル法は、非鉄金属回収にもつながる。これが非鉄金属業者に鉄スクラップ業参入の道を開いた。
(第二部「第四章 リサイクル新時代と異業種参入」の項、参照)
モーターや変圧器など鉄付き非鉄スクラップ(雑品)を扱う専門業者も登場した。
解体に手間のかかる鉄付き非鉄スクラップは、国内では厄介モノだが、海外に持ち出し処理すれば(割安で)高価な非鉄金属が回収できる。宝の山だ。また家電リサイクル法は一般市民・ユーザーに「廃棄物」の処理費用を求める(法2条5項)が、「中古品」は規定していない。
このグレーゾーン(法の抜け穴)が市中での(軽トラックなどでの)路上回収業者やこれらの老廃家電や中古家電を海外に輸出する、渡来系業者の参入を招き入れた。
国境を越えた貿易ビジネスは、供給地(たとえば日本)と消費地(たとえば中国)など、需給双方の国内情報と資金融通が問題となる。その点、渡来系業者は母国と日本の双方に情報拠点を持ち、それなりの回収・出荷・選別ノウハウを備えている。問題は「資金」だが、ビジネスが有望と見えれば、スポンサー探しには苦労はしないだろう(チャイナマネー)。
彼ら(雑品業者)は湾岸出荷のゴウダウンから商売を始めた(2000年以降)が、またたく間に日本各地にヤードを開設し、扱い量を広げた。しかし「雑品」だから、不純物、混合物も多く(注・E-waste問題)、保管・輸送途中で発火事故が多発した(10年代後半)。この結果、これら「雑品」ビジネスに対する国際的な監視が強化され、18年を最後に雑品の貿易流通は下火となった(第二部「第五章 渡来系業者の進出のなかで」の項、参照)
*注・E-waste(イーウエスト)Electronic and Electric Waste。「廃電子電気製品」廃棄物。廃電子機器などが環境規制が未整備な発展途上国に持ち込まれ不適正に処理された場合、人体や環境に被害を及ぼす恐れがある(E-wasteはバーゼル条約との関連で論じられる)。
10年代を通じて前記の「雑品」商売が、国内スクラップマーケットを刺激し続けた。
人件費の高い日本ではコストが嵩むため90年代後半から人件費の安い中国向け輸出が増加し、雑品の中国向け輸出(04年)は、鉄スクラップ輸出全体の40%超に達した(06年1月17日、日刊市况通信)。鉛や有害金属を含む「雑品」は、有害廃棄物の国境を越える移動」を規制するバーゼル条約(92年発効)でも問題とされた。
このため中国は18年末、雑品をはじめ、雑線・廃モーターといった銅、アルミスクラップなど16品目の輸入禁止を公告。日本でも18年4月から改正廃棄物処理法を施行し、家電32品目を対象に、報告徴収及び立入検査、改善命令及び措置命令を規定した。
また中国の粗鋼生産の急増が、世界マーケットの中心課題であり続けた。
中国の粗鋼生産は10年代に入ってさらに加速した。17年には16億7472万㌧に達し、うち中国は8億3173万㌧で、世界生産の半分に迫った。またOECDによると世界の粗鋼過剰生産能力は15年7億㌧を超え、うち約4・3億㌧が中国とされ、中国を巡る過剰生産とその価格対策が16年以降の世界の課題となった(中国は16年10月、20年までに1億4千万㌧の生産能力削減を公表した)。
このなか新日鉄と住金は合併し12年10月「新日鉄住金」として登場した(19年4月・「日本製鉄」に改称)。電炉も12年4月、JFE系電炉4社(豊平製鋼、JFE条鋼、ダイワ、東北スチール)が集合し新JFE条鋼として再スタート(東北スチールは生産休止)した。
この鉄鋼各社の系列集約が、玉突き的に流通商社(大手商社子会社と高炉系専業商社など)の再編・統合を呼び込み(*)、ヤード業者にも大きな変質を迫った。
*エムエム建材=三井物産系子会社の三井物産スチールと、三菱商事、日商岩井系子会社のメタルワン建材が14年11月統合し、三井物産メタルワン建材を設立。その後の15年11月、社名を「エムエム建材」に変更した。▽日鉄物産=新日鉄と住友金属の合併に伴い、日鉄商事と住金物産が13年10月統合し、19年4月、社名を日鉄物産に変更した。
従来まで、原料流通に関する問屋機能の中核は、①数量・②価格・③納期・④品質、の安定供給を、需要側に保証することにあった。ただ市中回収品である鉄スクラップは、常に不安定さがつきまとった。この不安解消のため鉄鋼側は「鉄屑統制」(戦前)や「鉄屑カルテル」(戦後)を作り、強制的な数量、価格の調整を目指した。
しかし高炉2系統の傘下の「需要に見合った生産」体制下では、その恐れは消えた。
高炉系統電炉ユーザー各社が「あうんの呼吸のもと」、①数量と②価格の事実上の決定権を握り、分散する流通ヤード業者は、その指示のもと③納期・④品質条件に従う、との力関係に変化した・・・と見える。この状況変化に対応して出現したのが、在来業者たちの地域制約や業種間の違いを超えた広域・異業種による「合従連衡」である。
この業者の「合従連衡」は、鉄鋼と業者の力関係と流通機能の変化の中から生まれた。
一つは、ナショナル(地域)連合として、金属回収と産廃物処理の垣根を超えた体制構築(17年・スズトクHD、エンビプロHD、イボキン、やまたけ、マテック、青南商事の同業者及び産廃業者の中特HDを含めた7社連合による「ROSE」グループ)などであり、今ひとつは、高炉2系列化の現実を見据え、納期・品質のブランド力と同時に、海外輸出、販売力を確保する高炉直納会社3社による15年6月「FKS」(扶和メタル、共栄、シマブンコーポレーション)提携である。さらに自動車リサイクル、自動車リユース部品販売などの動きだ。IT技術を駆使したビッグウェーブやSPN連合など、地域や国境をも超える広域連携。「量より質」ではない。「量も質も」へと多様化した動きだ。
エリア・ローカルの枠内に留まっていた鉄スクラップ企業が、業種・エリア・国境の垣根を超え、業の未来と可能性に向け、新たな経営戦略が求められる時代が到来した。
2020年代 「ゼロカーボン」の時代に 鉄スクラップ「争奪」の予感
17年1月米大統領に就任したトランプは、地球温暖化防止の国際枠組みから離脱したが、バイデン新大統領は21年1月、低炭素社会実現を戦略目標に掲げ「ゼロ・カーボン」、「カーボン・ニュートラル」(*)の実現を国際課題として提唱した。
*カーボン・ニュートラル=森林保護や自然環境整備、さらに一連のCO2排出削減によって産業活動によるCO2排出量とCO2吸収量を実質「プラスマイナス・ゼロ」にしようとの世界的な取り組み。そこから「ゼロ・カーボン」の標語もでてくる。
温暖化ガスであるCO2排出が多いのは、発電所を別とすれば、産業、運輸の順。日本では産業分野の最大が、40%超排出の鉄鋼。運輸では自動車関連だ。これは先進国共通だから世界の自動車業界は、ガソリン・軽油を使わない電気自動車の開発で「ゼロ・カーボン」を目指し、鉄鋼業界は還元剤としてコークスの代わりに水素を使う「高炉・水素製鉄法」を目指すという。水素製鉄高炉は、現在のところ稼働は一基もなく各国ともに中長期的な目標。当面は製鋼過程のCO2排出量が高炉法の4分の1程度で収まる電炉・鉄スクラップ使用比率を高めて、急場をしのぐ計画とされる。日本では、日本製鉄が30年までに粗鋼年産能力400万㌧規模の大型電炉を国内につくる方針を明らかにした(21年3月)。
中国の習近平国家主席は国連総会で60年までにCO2排出量を実質ゼロにする目標を表明(20年9月)し、電炉製鋼比率を高め、鉄スクラップ輸入を促進する(21年1月)鉄鋼政策に転換した。(第二部「第七章 ゼロカーボン社会と鉄スクラップ業の将来」を参照)
まず世界の対応。世界主要国は温暖化防止の国際的な枠組みを導入(92年・リオ会議。97年・京都会議。15年・パリ協定)した。パリ協定では、世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して、2度℃より充分低く抑え、1・5℃に抑える努力を追求する。そのため今世紀後半に世界全体の温室効果ガス排出量を実質的にゼロにすると掲げた。この実現のため、強制的に産業界にゼロカーボンを促す「炭素税」の導入が始まっている。ただそれぞれが主権国家だから、税率の運用が国によって異なる可能性もでてくる。その対策としてEUを中心に抜け穴を防ぐ「国境炭素税」(関税適用)が議題に上がるなど具体的な施策も進んでいる。
世界の鉄鋼メーカーにとって、直接・間接の輸出品である鉄鋼製品(原料手当てから生産・加工・出荷まで)の全工程の「カーボン対策」が、企業存続を左右することとなった。鉄鋼生産、原料手当ては、世界共通だから、アメリカや中国の鉄鋼会社だけの問題ではない。世界の鉄鋼会社が同時に、この「カーボン対策」に直面することとなった。
鉄スクラップは先進国の持続可能な「都市鉱山」であると共に「ゼロカーボン」への有力な切り札である。「資源」と「環境保護」の両面からの認識が、さらに高まった。
その認識の高まりは、日本国内では鉄スクラップ評価を高め(日本製鉄など高炉各社の対電炉姿勢)、鉄鋼大国である中国の国内政策(電炉生産シェア20%超へ)や貿易政策(上級鉄スクラップの輸入促進)を変えた。世界の鉄鋼会社は鉄スクラップ確保に動き出した。
これが世界の鉄スクラップビジネスのインパクトとなった。
では、日本の業者はどう動くのだろうか。
編者の見るところ、今後、世界的な鉄スクラップ争奪が予想される。
一つは、渡来系業者の増加と鉄スクラップ貿易の争奪。鉄スクラップの低炭素メリットは、世界の鉄鋼、原料需給を変える。世界貿易は今以上に活況を呈する。日本では、鉄鋼大国の中国やベトナムなどアジア周辺の新興電炉国からの鉄スクラップ輸入の引き合いが増える。
ここに商機を見つけた中国やベトナムなど渡来系業者は、ホームカントリーの需要(注文)に応じて、さらなる拠点確保と集・出荷の拡大に走る(予感だ)。
いま一つが、従来の老舗・高炉系直納業者の復権・営業力の強化だ。高炉各社にとって「ゼロ・カーボン」はもはや避けて通れない。水素製鉄の実現は先の話だが、目先は電炉・鉄スクラップ使用である。日鉄は400万㌧規模の大型電炉を国内につくるという。さらにJFEスチールも21年度までに中核設備の一つである「転炉」を一新。エネルギー効率の高い最新型に転換し、原料として鉄スクラップを多く利用できるようにする計画だ。
電炉製鋼で高炉級の高級鋼が作れることは、東鉄でもすでに実証済だ。ただ日本製鉄など高炉本体が本腰を入れて電炉で高級鋼を作るのであれば、インパクトは東鉄製品の比ではない。
成分、業者選別が、高炉仕様に代わる。その流通整理として大手商社、直納業者グループが動き出す。高炉の新電炉1基で400万㌧。それだけで日本の鉄スクラップ輸出の4割以上を占める。その結果、国内鉄スクラップ需給と価格形成は、高炉系業者と湾岸輸出業者の二つの楕円焦点となって、一般電炉やそれにつながる一般業者に直接・間接の影響を及ぼす(予感だ)。20年代は、それらの二重焦点を軸に国内外で新流通スタイルが形成されるだろう。
以上
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日本鉄スクラップ 鉄鋼と業者140年史
- 第一部 伊藤信司と稲山嘉寛の時代(1877~1985年)
第一章 明治・大正という時代
第二章 伊藤信司と日米開戦までの昭和という時代
第三章 それぞれの戦中――鉄屑統制と回収会社と男たち
第四章 それぞれの戦後
第五章 鉄屑カルテルと日本鉄屑連盟の抗争
第六章 稲山嘉寛と鉄屑カルテル
第七章 太平洋ベルトコンベアと米国鉄屑使節団
第八章 事実上の鋼材カルテル(鉄鋼公販)と稲山
第九章 ポスト・カルテルと新体制のなかで
- 第二部 渡来系業者とゼロカーボンの時代(1985~2021年)
第一章 戦後70年史概説 (本㏋で公開中)
第二章 日本人業者―それぞれの戦後ビジネスのかたち
第三章 在日コリアン系業者の過去と現在
第四章 リサイクル新時代と異業種参入(内発変化として)
第五章 渡来系業者進出のなかで(外発変化として)
第六章 在来企業――新たなパラダイムを生き抜くために
第七章 ゼロカーボン社会と鉄スクラップ業の将来 (本㏋で公開中)
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2021年11月刊行 410ページ 定価3,000円+税=3,300円
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