第二部 鉄屑カルテルから鉄鋼公開販売まで
筆者は先に「日本鉄スクラップ史集成」個別史で「鉄屑カルテル及び業者対応史」を世に送った(13年11月)。鉄屑カルテル(需給委員会)と業者の動きを一覧したものだが、当時の鉄屑業者の機関誌(鉄屑界)や通商政策史、業界・一般紙の編年版を閲覧し各資料を付き合わせた結果、全面的に書き直す必要が生まれた。それが今回の「鉄屑カルテルから鉄鋼公開販売まで」である。
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本Hpでは17年夏に出版予定の「日本鉄スクラップ業者史」=「第一部 金属営業条例とリサイクル新法」、第二部(本稿)、「第三部 (未定原稿)」の三部構成で17年夏、出版を予定している第二部を抜粋紹介する。以下は第二部のうち、「はじめ」の挨拶と最終の「第二部のまとめ」である。
目次
はじめに 2p
第一章 カルテル前夜の鉄鋼・鉄屑業界 3p
第二章 カルテル申請・鉄屑連盟・需給研究会 28p
第三章 カルテル取下げ・再申請までの9ヶ月 52p
第四章 初期カルテル 鉄鋼は破綻、業者内紛 68p
第五章 再建カルテル 輸入屑とアウト対策 88p
第六章 鉄屑業者の合同問題10ヶ月 102p
第七章 カルテル体制整備と業者対策 113p
第八章 輸入屑長期契約と体制固め(56~57年) 120p
第九章 独禁法適用除外法案と行政指導 140p
第十章 業者新組織と鉄鋼公販体制(57~69年) 156p
第十一章 カルテル終焉の歴史的意味 167p
第二部のまとめ 177p
資料 186p
はじめに
鉄屑カルテルの歴史は、戦後日本の鉄鋼政策を凝縮した歴史である。鉄が国家だった時代、鉄屑は国家の土台であり、鉄屑カルテルは要石だった。
鉄屑カルテルはその土台を固める「共同行為」として始まり、内外の万難を排して進められた。共同行為を禁じる法制を改め(独禁法改正53年9月)、業者抵抗に苦しみながらも行政指導を駆使し、カルテルを作った(55年4月)。アウトサイダーをカルテル内部に取り込み、鉄屑絶対量の不足は外貨割当(FA)を後ろ盾に、米国鉄屑一括・長期契約で穴埋めした(56年9月)。
通産省は鉄屑カルテルと同時に、直接介入が可能な独禁法適用除外立法(鉄鋼需給安定化法など)を数次にわたって試みた(54年~57年)。公取と鉄鋼業界の反対から取り下げた後、一転して行政裁量で鉄鋼施策を指導する「行政指導」を強化した。それが米国屑180万㌧の大量輸入の引取と折柄の金融引締めの大減産と鉄価暴落対策としての鉄鋼「公開販売制度」の創出だった。「不況公販」(57年7月)として始まった行政指導は、その後、「好況公販」(58年6月)、「安定公販」(59年5月)に看板を掛け替えながらも連綿として続いた。
鉄鋼各社が当初、原料・鉄屑だけで始めた「共同行為」は鋼材「好況公販」(58年6月)が発足したことから、原料・製品を合わせた「完全カルテル」へと発展した。これが鉄屑カルテルの体質(構造)を根本的に変えた。「完全カルテル」に合わせて関東、中部でも鉄屑カルテル結成(全国5カルテル)が進み、鉄屑の90%をカルテル支配下に治め、業者組織も「カルテル協調」をうたう直納業者を中心とする新体制に組替えた(58年11月)。
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鉄屑カルテルと鉄鋼共販を一筆書きすれば上記の通りだが、本書は今はほとんど語られることのないカルテル草創期と初期の鉄鋼業界と業者対応から記述を始める。
鉄屑カルテルの創設は、独立した直後の日本の官僚、公正取引委員会、鉄鋼各社の当事者にとって初仕事だった。が、戦前・戦中を通じて馴染みの手法でもあった。「統制」の復活である。それが業者の猛反発を呼び起こした。独禁法改正(53年9月)以降、カルテル申請は秒読み段階にあったから業者は事前に備えた。それがカルテル申請と同日に結成された「日本鉄屑連盟」である。
カルテル草創期の歴史は、日本鉄屑連盟の歴史でもある。その誕生と退場の顛末も語らなければならない。
第二部のまとめ
鉄屑カルテルとは何だったのか
戦後、荒廃した国土と産業を復興するには、世界に伍する産業・経済活動が求められた。その柱が鉄鋼産業だった。が、原料の鉄屑が足らない。国際相場に比較して割高な鉄屑価格の原因となり、国内需要だけでなく輸出競争力を削ぐ結果を招く。世界の商品市場で戦うためには是非とも原材料価格は国際価格並でなければならない。それが主権を回復した官僚と鉄鋼人の課題だった。鉄屑カルテルの歴史はここから始まった。そのことは第1章から第11章までで書いた。いまはその鳥瞰的な全体とその歴史的な役割を見たい。
まず鳥瞰的、全体図としては、鉄屑は鉄鋼母材であり鉄屑カルテルは鉄鋼産業の土台を支える要石だった。鉄屑カルテルの成否は戦後の鉄鋼政策を左右する。その認識が当時の政策立案、鉄鋼人を突き動かし、日本の法制、行政、業界の行動様式をも変えた。
その運用
■幻のカルテル(53年12月~54年6月30日)
(「戦後鉄鋼史」は53年カルテルを「第一次カルテル」と記載するが、本書はこれを幻のカルテルと呼ぶ)。高炉・平炉20社の改正独禁法初の合理化カルテルは53年12月11日申請され、54年1月25日審査保留の申入れ、2月9日再審査申入れ、6月30日申請取下げと変遷した。 このカルテル認可に反対する業者が日本鉄屑連盟を申請と同日結成し、全国的な反対運動を展開した。この間、鉄鋼と業者は共同で「鉄屑需給研究会」を立ち上げ、合理的な鉄屑価格設定を研究した。
■第1回カルテル(55年4月~10月)
高炉・平炉18社と鉄屑連盟は、「鉄屑連盟の意見を参酌する」ことを条件に妥協が成立し、鉄屑合理化カルテルを55年3月30日公取に申請し、4月11日付けで認可された(第1回鉄屑カルテル)。しかし、設立されたばかりのカルテルは、鉄鋼・業者双方とも制度的な不備や内部抗争に翻弄され、半年足らずで崩壊(10月7日、自由買付容認)した。
■カルテル空白期(55年10月~12月)
通産省、鉄鋼各社は米国輸入屑カルテル結成、数量カルテルなどのカルテル再建・強化を図った。鉄屑業者はカルテル協調の直納業者・巴会と中間業者を中核とする鉄屑連盟に分裂(55年10月)後、再統合に動き出した。
■第2回再建カルテル(56年1月16日、同年6月末)
①従来カルテルは「購入数量は通産省の行政指示を守る」とだけ規定したが、今回は消費数量も加え購入限度量として協定内容とした。②監視制度や制裁規定を新設した。③国内屑の価格を安定化させるため、国内屑の需給だけでなく米国屑の共同輸入、義務引取、プール計算実施を協定内容とした(輸入屑カルテルの創設)。
■第3回カルテル(56年7月2日から9月15日まで)
カルテルは5月、協定価格を二万二千円から二万八千円へ一挙六千円値上げした。これは実質的なカルテル崩壊であり、鉄鋼内外から激しい批判がでた。抜本的な制度見直しが求められ、カルテル期間は暫定2ヶ月とされた。鉄鋼は勿論、再合同協議に結集した業者にとっても組織、体制そのものありかたを決定的に左右するカルテル初期の最大のヤマ場だった。
■第4回カルテル(56年9月20日認可。期間は1年間)
鉄鋼側はアウトサイダーをB、Cカルテルとして内部に取り込み、鉄屑業者の内部分裂を足場にして協定書の「日本鉄屑連盟の意見参酌」を「鉄屑業界の意見を聞き」に書き改め、鉄屑連盟の価格決定の関与に一定の歯止めをかけた。一方、業者はカルテル協調の直納系団体と中間業者を中核とする鉄屑連盟に分裂した。その後のカルテル運営は、この両者の構造で動くことになった。
■第5回カルテル(57年9月20日認可、期間1年間)
180万㌧の米屑入着による「供給過剰」の定着と金融不況による国内屑購入抑制が重なり、市中価格(メーカー実施価格)がカルテル協定価格に陥没した(下限割れ問題)。「カルテルの解散又は中断説まで出た」(57年12月)が、不況は短期と判断してカルテルを継続した。
■第6回カルテル(58年9月20日認可。期間1年間)
鉄鋼「不況公開販売(公販)」制度に合わせ、鉄屑カルテルも5カルテル体制に拡充(58年9月)した(鋼材・鉄屑完全カルテル体制の完成)。また、これに合わせ直納業者を中心に日本鉄屑問屋協会(58年11月)、日本鉄屑協議会(59年6月)を立ち上げた。日本鉄屑連盟は組織の内実を失いカルテル価格協議から排除された。
■第7回カルテル(59年9月21日認可。期間1年)
不況公販から看板を変えた好況公販(59年5月)などの需給バランスの良さや鋼材市況の平穏さに加え「5カルテル間及び(カルテル協調団体である)問屋協会との相互関係が外口銭制度の実施により」「すこぶる平穏で、(市中価格は)常にカルテル協定価格を下回った」。
■第8回カルテル(60年9月20日認可。期間1年)
第2回カルテルから実施されていた米国屑の共同行為(米国輸入屑カルテル)が内部の意見の違いから分裂、崩壊した(61年2月)。この分裂が引金となってカルテルの下請け役に甘んじていた商社筋が、輸入屑扱いを足場に国内屑扱いに乗出す契機を作った。
■第9回カルテル(61年9月20日認可。期間1年)
輸入屑カルテル崩壊は商社参入と思惑を呼込み輸入屑は急増(61年718万㌧、史上最高)・急落(62年286万㌧)の乱高下。輸入屑の殺到から市中実勢は61年9月二万一千五百円を高値に62年6月一万一千百円に急落。カルテル下限価格割れが再び論争となった。
■第10回カルテル(62年9月20日認可。期間2年間)
カルテル協定書は「購入価格は・・・鉄屑業界の意見を聞き」(2条3項)を「国内鉄屑の購入価格及び購入数量を定める時は予め鉄屑業界の意見を聞く」(7条)に改め、購入価格・数量に関しても業界の事前・意見聴取を明記するなど業者に発言余地を与えた。
■第11回カルテル(64年9月20日認可。期間2年間)
東京五輪(64年10月)の反動不況から日銀の山一証券特別融資(65年3月)、山陽特殊製鋼の会社更生法申請(同月)が渦巻くなか住金事件(11月)が表面化した。鉄鋼乱世の最終解決策として永野・八幡社長による鉄鋼大合同構想(66年7月)が打ち上げられた。
■第12回カルテル(66年9月27日認可。期間2年間)
カルテル発足10年。需給変化に見合った再編論や下限価格の引き下げ論が渦巻いた。新たに結成された平電炉普通鋼協議会(66年11月)は、高炉と電炉の棲み分けを前提としたカルテル再編論を提起(66年11月)した。この間、大谷重工が経営破綻(68年3月)し、住金事件を引き金とする鉄鋼大合同構想が八幡・富士の合併発表(4月)となって具体化した。
■第13回カルテル(68年9月27日認可。期間2年間)
鉄スクラップ専業者だけでなく資源業者団体である日資連(日本再生資源組合連合会)の意見聴取も始まった。
公取は69年度報告で、鉄鋼公販制度の運用に「疑問」を明記した。鉄鋼設備・価格の過当競争の最終的解決を目指す八幡と富士の合併(構想発表68年4月)は、公取の合併否認(5月)を乗り越え、新日鉄誕生となって70年3月、結実した。巨大メーカーのリーダーシップによる協調体制(新日鉄的平和)が動きだした。
■第14回カルテル(70年9月28日認可。期間2年間)
新日鉄誕生による鉄鋼「協調体制」のもとカルテルも全国9カルテルに再編された。ニクソンショック(71年8月)から円は1㌦360円の固定制から変動為替制に移行し、田中内閣による列島改造ブーム(72年)などの内外情勢から鉄スクラップ相場は激しく翻弄された。
■第15回カルテル(72年10月1日認可。期間2年)
ニクソン・ショック後の円高、粗鋼減産から市中相場は18ヶ月以上も一万五千円を下回った。公取はカルテルの永続に反対の意向を示したことから、鉄鋼は自ら2年間の期限を切り、公取の認可を取り付けた。ただこの間、「列島改造」(72年6月発表)、米国の鉄屑禁輸(73年7月~74年末)、石油危機(73年10月)、危機に便乗した関連物資の買占め・売惜しみ、鉄屑相場の未曾有の急騰(74年4月4万円台)が渦巻いた。